西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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13/08/15(木)

[]代案無き否定 10:53 代案無き否定 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 代案無き否定 - 西川純のメモ 代案無き否定 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある人が「研究者は何かをなそうとする気が無く、議論をすることばかり。何故なら、自分が出来るのはそこだけだから。」という話を聞いたことがあります。それを聞いて、「そんなことは無い。人によりけりだよ」と言いました。

 が、一面の真理は突いています。研究者は何かをなすことを求められることは相対的に少ないです。特に、一定の期限までになすことを求められることは少ない。従って、一定の期限までに何かをなそうとする人と議論がかみ合わないことがあります。

 十年以上前の会議です。私より年長のある人が、私には言葉遊びに過ぎないと思われることを長々と話します。具体的な議論に持って行こうとすると、はぐらされます。そこで、その事がいついつまでに決めなければならないことを確認しました。そして、「先生なりの代案を提案して下さい」と求めました。その会議でも確認しましたし、次の会議の前にも再度確認しました。ところが、その先生は次の会議では欠席されました。

 私は理解しました。その方は、決めようとする気持ちが無いだけでは無く、決める代案を創る能力の無い方であることを。

 私は「代案無き否定は、単なる悪口に過ぎない」と確信しています。でも、大学では「代案無き否定」は悪いことではないと胸を張っている人が少なくないので、ビックリします。ま、そのおかげで、私の思ったように物事を決めることが出来ますから。イライラすのは嫌ですが、簡単と言えば簡単です。

[]研究者の寿命 10:53 研究者の寿命 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 研究者の寿命 - 西川純のメモ 研究者の寿命 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 大学の学生の頃は、年長の研究者は若い研究者より能力が高いのだろうと思いました。ところが、ある学会で六十過ぎの教授が、最新理論として学会発表している理論が今から半世紀ほど前の理論であることに愕然としました。おそらく、その方の若いときには最新理論だったのでしょう。少なくとも日本に紹介された当初なのでしょう。そして、それ以降、進歩がなかったのだと思います。

 どの分野もそうですが、研究者のピークは二十代後半から三十代前半です。それ以降は緩やかに落ち、五十過ぎたら急激に下がります。

 年をとれば、相対的に若い人たちの新しいものは「理解できなくなります」。それはどうしようも無いことです。しかし、分からないなら、黙って見てればよいと思うのです。ところが理解できずに否定する。若い頃だったら、否定する側の資料をちゃんと読んで理論武装する。ところが、その能力を失っていると同時に、自分が偉くなったのでそのような理論武装する気にならなくなる。困ったことです。

 研究者の世界(おそらく教員の世界も)で頭を下げ、ゴマをするとしたら、自分より若い世代です。自分より年長者は、自分よりさきに退場します。そして、退場した後のその人及びその人の業績の評価にその人は関われないのです。そうやって没落した人を数多く見ています。私も53歳、ハッキリ言って「バカ」になっています。そして、今後も一層バカになる。でも、せめてそれを忘れずに、私より相対的に若い人に嫌われないようにしたいと思います。

 教授も校長も、退職してから、その人とその人の業績の価値が決まります。

[]理論の必要性 10:24 理論の必要性 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 理論の必要性 - 西川純のメモ 理論の必要性 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 世の中には多くの教師の研修団体があります。その研修団体で実績を上げられた方の中には『学び合い』に反発する方もおられますが、逆にそこから『学び合い』に入られた方もおられます。その方と、反発するかたを比べると、「なんで原典を読み、それを学んでから批判しないのか?」と思うのです。それは『学び合い』だけではなく、ご自身が大事にしているものに関してもです。理論無き実践は、ご自身が大事にしているものを汚してしまうのに・・・と思うことがあります。2年前のメモを再掲したいと思います。

 同志の学校の管理職が問題解決学習を推進し、『学び合い』を蛇蝎のように嫌う場合があるかも知れません。その時、どのように理解すべきか、簡単にメモりたいと思います。

 問題解決学習は戦後教育の成立と共にデューイの教育学が導入されました。しかし、その後、それが批判され系統主義に傾いたことに対抗するため上田薫先生が中心となって「社会科の初志を貫く会」が立ち上げられ、それが現在の問題解決学習に繋がっています。

 おそらく、同志の御校の管理職は専門は社会で初志を貫く会に所属された方なのかも知れません。

 長い実践の蓄積の中で様々な指導法が開発されました。しかし、それとともにどんどん形骸化していったのです。残念ながら。

 デューイや上田先生の著作を読めば、その願いは民主的国家の形成者を育成し民主主義を根付かせたいという願いが最上位に位置づけられます。ま、『学び合い』であれば「一人も見捨てない」にあたるものです。そして、それを実現するために「日常の諸問題」を解決することを授業で進めました。

 が日常の諸問題を解決することを推し進めれば、当然、旧来の教科の内容がおろそかになります。結果としてその反動がおこり系統学習が復権しました。このような振り子の動きは何度もありました。最近では「ゆとり学習」の反動がありましたよね。

 上田先生や初志の会の方々は、次の系統学習の中でも問題解決学習を根付かしたいと願いました。そして、それをより広い教師(つまり、それほど力量のない教師でも)が実践できるようにするため、様々な指導法が開発されました。そして、社会科以外の教科にも広めようとしたのです。が、繰り返しますが、その過程で、問題解決学習が目指している民主的国家の形成者を育成し民主主義を根付かせたいという願いが薄れてしまいました。そして指導要領のしばりから、「日常の諸問題」を解決することから外れました。当然、「日常の諸問題」ではなく教科の内容の問題解決であれば、子ども達がそれらを解決しようとする必然性は低まります。それを補うために様々なテクニックが開発されましたが、どうしても教科の不得意な子どもに必然性を感じさせることは難しくなります。それによって、「問題解決学習は結局、成績上の数人が活躍し、大部分の子どもは置いてきぼり」という批判が生まれるのです。

 さて、問題解決学習の実践を積まれた方の中には、『学び合い』を蛇蝎のように嫌う方がいます。しかし、その根幹はまったく同じなのです。だって、「民主的国家の形成者を育成し民主主義を根付かせたいという願い」と「一人も見捨てない」ということが矛盾することでしょうか?

 戦後の問題解決学習では、なんとか既存の教科内容を日常の諸問題にしようと苦労しました。ところが『学び合い』の場合教科内容はいじくらずに、「一人も見捨てない」という日常の諸問題を解決することが出来るのです。これが問題解決学習とどこが違うでしょうか?問題解決学習で頑張った方の一部の方は、残念ながら根本の願いが忘れ去られているように思うのです。失礼ながら、自分がよって立つものの理論的背景を学ばず、孫引きの孫引きを原典だと誤解している。問題解決能力を育成すること自体が問題解決学習の願いではありません。あくまでも民主的国家の形成者を育成し民主主義を根付かせたいという願いだと思うのです。

 テクニックのレベルで見れば対立するかも知れません。でも、願いのレベルで見れば、同じ方向を向いています。結局、その是非は、どのように教えているかで判断するのではなく、それで運営されているクラスがどれほど民主的であるかで判断すればいいのです。

 民主国家の学校における教師は専制君主であってはいけません。民主的なプロセスで決まったことを執行する公務員であらねばなりません。市民である子どもたちに何かを求めるとき、それを民主的なプロセスで決められたものに根拠づけなければなりません。『学び合い』では教育基本法と学習指導要領に求めることが出来ます。

追伸 とかくと、学習指導要領の法的位置づけのことを議論する人がいますが。失礼ながら学者の戯言のように思います。今までその手のことを議論して、代案を出せる人が一人もいませんでしたから。あ、蛇足ですが。

追伸2 当然のことながら、問題解決学習の本当の願いを理解した方の中には、『学び合い』にシフトした方はかなりいます。デューイや上田先生の著作を読んだ方だと思います。