西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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13/08/14(水)

[]学び合う能力 21:54 学び合う能力 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合う能力 - 西川純のメモ 学び合う能力 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 “学び合い”と『学び合い』では学び合う能力の捉えがだいぶ違うと思います。

 “学び合い”の場合は学び合う能力をテニスの能力のように捉えているようです。つまり、組織的に教えない限り出来ないが、組織的に教えればかなりのレベルまで行けると思っているようです。

 しかし『学び合い』では、一面、喋る能力のように捉えます。つまり、それほど組織的に教えなくとも、人間社会で育ては殆どの子は喋ることが出来ます。しかし組織的に教えてもそれほど喋る能力は上がりません。それ故、「しゃべり方」の本が書店にあふれているのです。

 実は喋る能力は関係によって決まると『学び合い』では考えます。同じ、人であっても、語る相手によっては雄弁にもなり、寡黙にもなります。そして一定数以上の集団になれば、雄弁になる人は一定数いて、寡黙なる人も一定数います。考えてもみて下さい。もし、教員集団だけの話し合いであれば、若い教師は寡黙になります。でも、出身大学の後輩の前では「教育とはね」と雄弁になるでしょう。

 これらの学び合う能力のとらえ方の違いは、教師の指導の違いに現れます。

 “学び合い”では、一人一人に学び合う能力を教えようとします。多くは、学び合う「型」を教えます。それによって、学び合う能力が伸びると思っています。

 『学び合い』では、教えなくてもある程度は出来るし、逆に教えてもある一定以上は無理と考えています。では、どうするか、その関係の中で学び合う能力を存分に発揮でいる一部の子どもが、自分のためだけにそれを発揮するのでは無く、みんなのために「も」発揮することが、自分のためだけにそれを発揮するより「得」であることを説明します。

 教師の悩みの八割は二割の子どもの言動から発します。今までは、その二割の子どもを動かそうとします。でも、無理です。歴代の担任が挫折したことですし、次の学年の担任もそうでしょう。その子は教師と相性が悪いのです。

 『学び合い』ではそんな非効率なことはしません。どんな状態でも、教師の言葉に耳を傾ける子どもを動かそうとします。教師がちゃんと語れば、2割の子どもは動きます。その子どもが動けば、6割の子どもが準拠した行動をします。そして、併せて8割の子どもの関係の中で、教師の悩みの種である二割の子どもを動かせるのです。

 教師がちゃんと語れば動く2割の子どもがどれだけ本気で動くかが鍵です。その際、本当に愛を持っているか、それも依怙贔屓にならない愛を持っているかがポイントです。これは「一人も見捨てない」という決意に勝るものはないと思います。と、どんどんと深めたのが『学び合い』です。そこには“学び合い”のテクニックとは全然違うものが生まれます。

[]奨励 07:16 奨励 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 奨励 - 西川純のメモ 奨励 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今から十年弱前のことです。私のゼミ生が、上越教育大学内で開催されたTOSSの勉強会に参加していました。それも隠れて。なんかの拍子で、それを私が知るところになりました。その学生は恐縮して私の所に来ました。私は大笑いして、TOSSが職場で見捨てられた若い教員をどれだけ救ったかを歴史的に説明し、そこで学ぶことの意義を語りました。それ以降は、我がゼミ生がTOSSの研修会に参加することを悪いことだとは思っていないと思います。

 ちなみに、我がゼミ生は様々な研修団体の会に参加し、色々なことを学びます。『学び合い』を否定する団体にも。また、私をお名指しで下品(?)に罵倒される方の講演会にも参加します。それも団体を組んで。私はとても良いことだと思っています。

 何故かと言えば、それらで技術をいくら学んでも得にこそなれ、損にはなりません。私だって、「7つのルール」に書いたように一斉指導時代の技術は使っています。使えるならば使った方が効率はいいですし、気持ちがいい。しかし、『学び合い』をしれば、その技術では一部の子は見捨ててしまうことは分かります。一斉指導の技術をどれほど積み上げれば「全員を分かった気にさせることは出来ても、全員を分からせることは出来ない」ことは、『学び合い』の全員が分かったという場面に出会えば分かります。これはゼミ生も同じだと思います。

 また、一斉指導の技術を積み上げれば、授業中は全員がハッピーになれることも力量ある教師ならば可能です。しかし、目の前の子どもが次の学年になり、次の学校に進学した後のハッピーを保証しているわけでは無い、ということを全校『学び合い』、また、地域コミュニティーの再生を目指しているゼミ生だったら明白です。

 『学び合い』や私をあしざまに言う人の講演会に行けば、その人自体はとても志の高い人であり、子どもたちのことを考えている人であることが分かります。なのにあしざまに言う姿を見れば、「何故だろう」と考えるでしょう。そうすれば、『学び合い』を技術的な表層で捉え、「一人も見捨てない」という言葉を軽く捉えていることに気づきます。その方が喋る一言一言を聞いて納得する部分と同時に、「でも、あの子はそれじゃあ無理よね。『学び合い』だったら・・・・・」という事例が頭に浮かびます。それによって「一人も見捨てない」という言葉の重さを再確認できるはずです。

 ということで、私は奨励しています。

 歴史的に言えば、宗教は他宗教を否定します。共産主義が宗教を否定したのは、それ自体が宗教だったからです。『学び合い』は科学です。徹頭徹尾、学術的な裏付けによって構築された理論です。宗教とは違います。

 が、宗教的な部分もあります。それは「一人も見捨てたくない」という願いです。私が現状の教育を否定するとしたら、それは技術のレベルのことではありません。それが暗黙に是認している「一部の子どもは無理だよな」という諦めを否定しています。その諦めを前提にしている全てを否定したい。

 私のゼミで2年間以上過ごしたならば、「一部の子どもは無理だよな」は思わないと思います。そして、私の管下を離れて荒波にもまれて「一部の子どもは無理だよな」ということに囚われてしまったとしても、それを恥じるであろうことは確信は持てます。つまり、なんとなく意識せずに「一部の子どもは無理だよな」とは思えないように育つ環境には置いたことには自信があります。私の管下を離れ、荒波にもまれれば「一部の子は無理だよな」という思いに囚われると思います。しかし、そう思ったときに現れる子どもの姿が、大学院で見た子どもの姿とは違うことを忘れないと思います。そして、そのためにチームが必要だと言うことも。