西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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13/08/05(月)

[]科学 08:42 科学 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 科学 - 西川純のメモ 科学 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 理学部から教育の世界に入って違和感を感じるのは、教育研究、教育実践が「人」が出過ぎて科学たらざる所です。正直言って、反吐が出るほど違和感を持ちました(今は多少慣れましたが)。順不同で述べます。

1) 実践と学術(理論)が乖離している

教育実践が学術の裏打ちされていることがほぼ皆無です。例えば医学の臨床でやっていることは、最終的には学術研究の特定の論文につなげることが出来ます。新薬開発でも、新車開発でもそうです。な~んとなくそうだと思う、ということで新薬や新車を開発しようとすることはありません。

ところが、教育の世界では限られた個人的経験が法則と認められてしまう傾向があります。学術研究者も実践と関わると、そうなってしまう傾向があるように思います。例えば、山のようにある広義の意味での“学び合い”実践で、学術の裏打ちをされているのは『学び合い』と協同学習の二つぐらいだと言えると思います。それ以外は、理論書は存在しないし、その理論書の基礎となる学術データがありません。

上記と裏腹の関係ですが、学術が実践と乖離しているのです。戦前、また、戦後直後の時は、教育学部と附属学校との関係が密でした。その関係で、大学研究者の理論が学校現場で中長期で検証され、改良を加えられた研究が存在していました。それらは学術書としても優れたものでした。残念ながら、最近はその例が以前に比べて極端に減っています。

結果として、学術は実践の裏打ち無く暴走し、実践は学術の裏打ち無く暴走している。それが現状のように思います。

2) 人主義

教育の世界では限られた個人的経験が法則と認められてしまう傾向があるのは学術データよりも、誰がそれを言ったか、ということに信頼を置いているところがあるように思います。

例えば何かを議論しているとき、「○○先生はこうおっしゃった」、「○○先生はこう書かれている」という言葉が出るのが気持ち悪いのです。何で「○○先生」という名前を出さねばならないのでしょうか?せめて「○○先生」を除外した「○○という本にはこう書いてある」ならば良いと思います。本と個人は別です。例えば、私だって初期に書いた『学び合い』関係の本で書いた実践を、今の私は「足して2で割る『学び合い』」と言っています。

また、個人の人柄とその人の書いたことの混同が起こります。ノーベル賞を受賞した科学者の中には、性格破綻者として有名な人がいます。しかし、それを理由にその人の業績が云々されることはありません。

上記に準じることですが、権威者との関係が重要になる場合があります。つまり、○○先生の直系だからで、その人の判断が権威を持つことがあります。逆に権威者との関係が悪くなると、権威が無くなることがあります。ま、人と人との関係で成り立っている学会でも起こることですが、教育は極端のように思います。例えば量子力学の研究室の師弟で、師が弟子を破門したとき弟子が「本家量子力学」や「量親力学」の看板を立てることはあり得ません。量子力学の原理原則の中で雌雄を決せれば良いだけのことです。

 最近は少なくなりますが、「こんなことを言うと西川先生からは駄目だと言われるかもしれないけど」という言葉を聞くたびに、あ~身の不徳から出た錆だと身の細る思いです。それだったら、「『学び合い』の子ども観には反するかもしれないけど」のように言って欲しいなと思うのです。下手にブログにコメントすると「西川先生は自分と違うことを書くことを許さないんだ」と誤解されるのが嫌なので、入門段階を終えた方のブログには書き込みを控えているぐらいです。

 『学び合い』のネットワークは固定的な組織はありません。あくまで勝手連の生きた集合体です。ということで、だれかがだれか嫌ったとしても、それを封殺することは出来ません。判断するのは個人個人ですから。

 私は大人のルールを逸脱した場合は関係を絶つ場合はあります。私はその面で潔癖すぎるかもしれません。しかし、だからといってその人の「人」を対外的に否定しようとは思いません。ましてや自分の考えと違うからという理由で、その人との関係を絶つことはありません。だから、教職大学院の圧倒的大多数の『学び合い』でない方々と、仲良く、一緒に学生指導が出来るのです。

3) 議論不可能

 上記の結果として、健全な議論が出来ません。何しろ、相手が理論を明らかにせず、また、その理論の根拠となる学術データを明らかにしない段階で議論しても、不毛です。理論やデータが無いので、議論しても、根拠や前提が右に左にずれてしまい、ご本人もそれを自覚できないということが起こります。

 ということで、不毛な議論は出来るだけ避けて、理論と実践の往還を深め科学としての『学び合い』を構築したいと願っています。幸い、それを一緒にやってくれる実践者の数と多様性は日本の教育研究者の中でトップレベルだと思っています。あとは一緒にやってくれる学術研究者が増えてくれれば万全です。

追伸 ちなみに、『学び合い』に反対する人の中で、理論とその根拠となる学術データを示している人がいたら教えて下さい。勉強したいと思います。残念ながらまだ見いだせません。

daitouirukadaitouiruka2013/08/07 21:36フォーラムでは夜の懇親会、その後の会を含めていろいろとお話をさせていただいてありがとうございました。
以前から「科学としての『学び合い』」についてその方向性に共感させていただいているのですが、学術研究の素人なもので、その世界では基本的なことだと思うのですがお教えください。
ある個人の判断が無条件によしとされるようなものは「科学」としては論外だとしても、心理や教育の分野では、人間の心やその他のさまざまな条件がからまっていて特に物理の世界ほどの再現性は望めない(と思う)のですが、どの程度再現できれば「科学」となるのでしょうか?
どこまでも「より確からしい」状態に「近づける」ということからは脱することはできないように思うのですが、どのような状態になれば「科学的に証明された」と言えるのでしょうか。
それから、「考え方」が大切であるということもあり、「この条件下で」ということを示していても、本人がその「条件」でやっている「つもり」でも、実はそうじゃなかったということもよくあると思うのですが、その点は具体的に「対話」しながら個々の事例に対応していくということでしょうか。
個人的なメールでご質問しようかとも思ったのですが、『学び合い』をしている人に限らず、ここに訪れる人の何パーセントかの方にとっても知りたいことではないかと勝手に思ってここに書かせていただきました。

jun24kawajun24kawa2013/08/08 05:28科学とは何かを明らかにすることは科学哲学研究の主要なテーマです。それ自体が研究のテーマになっているということは、さまざまな立場があるということです。ということを認めた上で、一般的に認められている科学の要件は「反証可能性」と言われます。つまり、「実験や観察によって、それが間違っていると証明できる」か否かです。あの人が言っから、は信仰であり反証は不可能です。だから科学ではありません。
次に、「確からしさ」つまり蓋然性についてですが、イルカさんが指摘しているように人相手の研究の場合、物理学より蓋然性が低くなると思います。しかし、相対的に蓋然性を高める努力の営みが科学だと思います。
反証によってチェックされ、その反証の反証によってチェックされ・・・、その積み上げによって蓋然性は相対的に高まっていくのだと思います。

daitouirukadaitouiruka2013/08/08 18:41なるほど、やはり「蓋然性」をより高くしていくことなのですね。
そして、「反証可能性」ということで納得できました。
ありがとうございます。