西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
ツイッター http://twitter.com/jun24kawa
『学び合い』メールマガジン参加者募集中!(無料)http://www.mag2.com/m/0000270912.html
『学び合い』マップ募集中!(無料)http://manabiai.g.hatena.ne.jp/kokohagw/
授業公開の仲介のガイドライン http://dl.dropbox.com/u/352241/manabiai-data/koukai.pdf
だめで元々で、とりあえずドロップボックス(http://db.tt/bMZAZwx)とjimdo(http://jp.jimdo.com/)の無料アカウントを登録してみてはいかがでしょうか?実に簡単ですから。

本格的にトライする人も多くいると思います。その際、人とのつながりが大事です。身近にいる人と繋がれるとありがたいですよね。『学び合い』を実践される方は、『学び合い』マップ(https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zDInXkSSxyO4.kNDji5uDNm0Y)に、是非、登録下さい。登録は、『学び合い』マップ登録フォーム(http://form1.fc2.com/form/?id=77081b4d4f40dd2f)から出来ます。  「私なんて、人になんか教えられるレベルに行っていない」と思う方へ。だからいいんですよ。一番知っている人が、一番の教え手ではないことは『学び合い』を実践しているならば、子どもを見れば分かるでしょ。それに、教える必要はないのです。共に学び合えばいいのです。いや、愚痴を言ったり、笑ったりする、それでいいのです。  是非、一人でも多くの人がマップに登録下さい。強く、強く、お誘いします。

13/08/31(土)

[]誘惑 21:13 誘惑 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 誘惑 - 西川純のメモ 誘惑 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今日、色々と考えました。

 広げる、それのためだったら、組織を作るべきです。しかし、様々な宗教、そして共産党がそうなったときに、どうなったか、それを学びました。組織になれば、志の高い人が、その組織の維持の方が、その組織の目的よりも優先される。

 と、分かっているのですが、私よりも数段も、数十段、数百段も優れた人がそれを選択した。う~ん、と思います。自然科学や数学のような発展が必要だと思います。

 でも、色々な人が情報発信しているので、ちょっとホッとしました。

 色々な人が、様々な媒体で情報発信して下さい。多様でいいのです。でも、評価は一つです。一人も見捨てない教育なのです。自然科学や数学をイメージして下さい。正しいことは、どんな偉い(?)人が何を言っても、正しいのです。

13/08/30(金)

[]抵抗のない『学び合い17:02 抵抗のない『学び合い』 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 抵抗のない『学び合い』 - 西川純のメモ 抵抗のない『学び合い』 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ゼミ生がもうすぐ教育実習に行きます。実習生はゼミで学んだ『学び合い』を実践で試みてみたいと願います。幸い、実習で指導していただく先生方は、若い学生の願いに沿っていただいております。ありがたいことです。しかし、当然のことながら、「フルのバリバリ」の『学び合い』は無理があります。折り合いが大事です。そこで、ゼミ生に一見、一斉指導に見える『学び合い』のノウハウを伝授しました。

 『学び合い』で願っていること、やっていること、これはごくごく当然で、普通なのです。しかし、それを純化し、徹底すると、かなりビックリするような授業になってしまします。でも、逆に言えば、ごくごく当然で、普通なことで、『学び合い』は実現出来ます。もちろん、テクニックではなく考え方が理解しないと駄目ですが、ゼミ生はそのあたりは分かっていると思います。http://youtu.be/grlrDFxHQYk

 なお、後半は一流の研究とはということを語りました。

追伸 ゼミ生にはこのあたりのレベルのことを毎週語ります。なお、もっと深くて外には出せない部分は、動画からカットしています。すみません。

[]佐賀の会 05:56 佐賀の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 佐賀の会 - 西川純のメモ 佐賀の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 9月26日に佐賀で学習会があります。http://p.tl/dLSr

[]仲が悪い 05:44 仲が悪い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 仲が悪い - 西川純のメモ 仲が悪い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日の寝る直前の息子との会話

 息子は寝る前に私と家内の枕を自分の枕に近づけます。添い寝をする私のおでこは息子とくっつきます。その時、息子が「最近、おとうさんと話していないね。おとうさんと仲悪いのかな~?」と言い出しました。

 私は「仲悪いわけ無いじゃない。毎日、一緒に寝ている家ってそんなに多くないよ。一緒に寝るっていいでしょ?」と言いました。

 息子は「うん。お休みなさい」と言って、私のおでこにチュウをしました。私も同じに息子のおでこにチュウをしました。それから1分以内に寝てしまいました。

 息子は中一です。いつまで続けられるかな~?

13/08/29(木)

[]研修会 21:11 研修会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 研修会 - 西川純のメモ 研修会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 9月20日に新潟市の岡方第一小学校で全校『学び合い』の校内研修があり、私も呼ばれています。が、校内と言っても、オープンにしています。ご希望があれば、私に連絡し手下さい。

 なお、夏休み明けから怒濤の日々が続きます。機会があれば、参加下さい。

 9月13日は上越の地元で『学び合い』参観があります。参加者は佐賀の指導主事2名、大阪市の議員さん2名、大阪市の先生2名、広島県の校長先生1名と先生2名、そして北海道の学生さんが1名か2名です。人数も多様性も高いですね。前日は飲み会です。

 9月18日~20日は関西の学生さんが『学び合い』を学びに来ます。

 9月28日から大分に入り、29日は別府で『学び合い』の会を開きます。30日は大平山小学校にお邪魔します。10月1日は福岡の安徳南小学校、2日は大野東小学校に参ります。二つの学校ではゼミ生の飛び込み授業を行います。3日は午前は二日市中学校に行き、午後は佐賀の久保泉小学校に行きます。

 4日は唐津市の鏡山小学校で公開授業研究会があります。https://dl.dropboxusercontent.com/u/352241/temp/H25_manabia_koukai_jugyo_2ji_annai%20%281%29.pdf

 10月11日には佐賀の指導主事5名と校長名がおいでになります。前日は飲み会です。

 18日は宮城県中小企業家同友会で講演します。『学び合い』が教育にとどまらず、集団を動かす原理原則であることをご理解の上でのお誘いです。

 19日は信州大学の三崎先生の音頭取りで長野セミナーがあります。

 24日は兵庫県の西宮浜小学校に参ります。

25日は和歌山県のへき地複式教育研究会で講演し、翌日の26日は『学び合い』和歌山の会です。

なお11月以降に岡山、秋田、青森のツアーがあります。

11月30日からは、兵庫、広島、佐賀、福岡、大分のツアーがあります。

 今年は夏休み中の講演が3つだけだったのですが、その分、それ以降に入っています。ふ~

[]教師の職能 08:30 教師の職能 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教師の職能 - 西川純のメモ 教師の職能 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 子どもたち同士の学び合いで学習内容が理解できる、と私が書くと、「教師の職能が無いのか?」とおしかりを受けます。たしかに、教える、説明するということを教師の職能だと思われる方が圧倒的大多数だと思います。そのため、着ぐるみを着たり、落語で話術を学び、過去の教材を勉強することに力を入れている志の高い先生は少なくありません。

 でも、私は「教える、説明する」というものは教師の職能だとは思っていません。学習指導要領レベルのことを「教える、説明する」だったら、子どものでも出来ます。そして、子どもたちだったら、個別指導も可能で、膨大な会話を積み上げることが出来ます。従って、子どもたちの方が教師より優れていると思います。

 というと、「教師の職能が無いのか?」とおしかりを受けるのです。しかし、教師の職能はあります。それは「人の道を説くことです」。足し算の繰り上がりを間違っていることを教えられる子はクラスの2割以上います。しかし、クラスメートに対して、クラス全員に対して人として守らねばならないことを説ける子は「いません」。

これは職員室に置き換えましょう。職員の大多数が「それはやるべきだろうな~」と理解していたとしても、職員の数人が「そんなの、面倒だ」と主張していた場合、「それをやるべきだ」と職員会議で言える職員は殆どいません。村社会で、いつ仕返しが自分に降りかかってくるか分からないからです。そのようなとき「それはやるべきだ」と言えるのは校長だけです。

 もう一つあります。子ども集団のやる気に火をつけることです。部活の顧問、そして、校長も、今、その集団(部、学校)が解決すべき課題を、解決しようとするやる気に火をつけることが第一の仕事です。

 『学び合い』では、教師は教室においては校長だと言っているのです。校長の職能は若い職員の横に座って教材の手ほどきをすることではありません。子どもの言えないことを語り、納得させ、やる気に火をつけることです。これが「教師の職能が無い」と主張しているわけでは無いことは自明と思います。

[]ベストフィット 07:03 ベストフィット - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ベストフィット - 西川純のメモ ベストフィット - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ネットサーフィンしていると、『学び合い』に関して書いている方は多くなったようになります。もちろん、賛否両論です。批判の中に、「子ども同士で教え合ったとても分かるわけはない、患者がいくら集まっても医者がいなくても病気を治せないだろう」というものがあります。

 この誤解は、三つのことを理解していないために生じる誤解です。

 第一は、子どもたちの大多数が分からないこと、そして、そのために学習を放棄している原因は何か?ということを理解していないのです。教師になるような人は、その教科が大好きな人です。その大好きな人が悩むことと、多くの人が悩むこととは違います。しかし、教師になるような人は、それが分かりません。これは理解できないのは当然です。

 教師になるような人が悩むことであれば、子ども同士では解決できない可能性があります。でも、実際は違うのです。

 医者の例で言えば、我々病気の大多数はバランスの良い食事と睡眠を十分とれば自然に治ることです。これだったら素人が、「暖かいものを食べて、十分に寝なさい」というアドバイスで十分です。事実、大多数の子どもが悩んでいるのは「数概念の形成」なんていうレベルの疑問を持つのではなく、「容積って何?」というレベルの疑問なのです。これに対しては隣の子どもが「あ、体積と同じで、縦横高さをかければいいんだよ」で済みます。

 誤解の第二は、現状の子どもの能力と取り巻く環境の変化です。

 今は3割以上の子どもが塾・予備校・通信教材・家庭教師で学んでいます。親も高学歴化して、小中レベルのことだったら教えられます。親の中には教員免許状を持つ人も少なくなくなっています。そして良質な参考書・問題集・映像教材が安価に世にあふれているのです。

 医者の例で言えば、子どもたちの3割程度は医者とは言わなくても、インターン程度の教育は受けているのです。どの学校段階、どの教科であっても、教師は成績中位、もしくは中の下に合わせた授業をしています。つまり、脱水症状がひどければポカリスエットを飲まし、熱が高ければ解熱剤を飲ませる程度の病気をターゲットにしているわけです。その程度の病気だったらインターンでも治せます。

 誤解の第三は、学校教育で求めているレベルです。これは第一の誤解と同じなのですが、教師になるような人が求めるレベルは、学習指導要領で求めているレベルとは違うことが分からないのです。義務教育段階の学習指導要領で求めているのは、日本人が全て獲得しなければならないレベルのことを書いているのです。これは圧倒的大多数の子どもが学ぶ高等学校においても同じことでしょう。従って、教師になるような人が達したレベルとは違います。私は教師になるような人が達したレベルを目指すのを否定はしません。ただ、優先順位としては、国民全員が達成すべきことをクラス全員が達成した後だと思うのです。

 医者の例で言えば、最先端医療だけやって、風邪や下痢やインフルエンザの治療をしていない一般病院があれば、そりゃおかしいだろう、と思うのと同じです。

 私にとっては至極当然なことが、よく分かって貰えない。おそらく、「一人も見捨てず」ということが優先順位が低いために起こることだと思うのです。そして、学校教育は何故あるか、つまり「人格の完成」と日々教えている内容とどのように結びつけるかをあまり考えなくてもいい現状に原因があるのだと思っています。

13/08/28(水)

[]大学院 07:23 大学院 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 大学院 - 西川純のメモ 大学院 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日の続きです。

 大学、大学院に入ったことが無いと分からないことはあります。普通の高校生が大学を選択するとしたら、どうやって選択するでしょうか?おそらく、自分が文系か理系かを決めます。それも何をやりたいというものでは無く、数学や物理が得意か不得意かで決めています。(これは非常に残念に思います。高校までの数学・物理と大学で学ぶ数学・物理は似て非なるもの、いや、全然違うものです。欧米では文系の人が、のちに数学・物理で名をなしたひとも少なくないです)そして、自分の得意科目を元に学部を決めます。

 次にひもとくのは、旺文社等で出されている偏差値一覧表です。その学部の中で自分の偏差値に対応する大学を見いだし、本命、滑り止めを決めます。その結果を「赤本」によって合理化します。

 ま、ほぼ全員の受験生がこのようなことをやっているならば、それなりの妥当性が生まれます。というのは、偏差値というのはその時点での問題解決能力の指標としては優れていると私は思っています。少なくとも、それを超える指標を私は知りません。したがって、大学はともかくも、自分に対応した問題解決能力のある同級生に出会える可能性が高いからです。

 しかし、大学院また学部も理学部などの専門性が高い学部は、そうではありません。その大学の名前で敬意を払われることは無くなります。どの研究室に所属し、だれに指導を受けたかがポイントとなります。なぜなら、そのようなレベルになれば研究室ごとに学べること、学べる環境が天と地ほどに違うからです。

 大学の学部の場合は、どの大学も大学設置基準第32条に基づいた124単位以上を基本とした卒業単位数を設けています。この単位を取得するには二十人から四十人程度の大学人がほぼ同じだけの単位数を担当して教えます。これぐらい多くの人が関わると、大数の法則でほぼ似たような教育を受けることになります。

 ところが大学院の修了単位は数十単位に過ぎません。しかし、その数倍の時間数を研究室の時間に費やします。それ故、大学院では大学に所属すると言うより、研究室に所属するという方が正しいのです。

 予算面も違います。学部だったらどの研究室に所属しても、受けられる授業には差がありません。しかし、大学院の場合、その多くを占める研究室活動は研究室によって違うのです。例えば予算面でも天と地ほどの差があります。理学部に所属すれば、年間数十万円の予算でやっている研究室がある一方、数千万、数億の予算でやっている研究室があります。これでは勝負になるわけありません。

 上越教育大学は学部では無く大学院を基本とした大学です。そのため本学教員は平均的な教員養成系大学の教員の研究費の2~4倍の研究費を得ています。そして上越教育大学内でも、研究室ごとの予算には天と地ほどの差があります。ちなみに私は平均的な教員養成系大学の教員の研究費との10~50倍の予算を獲得しています。

 そして大学院は専門性が高いので、どの研究室で学べるかは全然違います。

 ということは大学院を修了した人しか、分からないことです。

 最近、大学院入試があり、面接をしました。県庁所在地にも無い大学の教職大学院を受験している人です、「なんとなく」受験する人は殆どいません。しかし、研究室レベルのことをリサーチする人は殆どいません。私の担当した人で、我々教員の書いた本や論文を読んだと言うことをハッキリ喋った人は一人だけでした。情報発信の不足を考えました。

13/08/27(火)

[]読書 22:02 読書 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 読書 - 西川純のメモ 読書 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ゼミ生の読んでいる本を横目で見ていると、「うらやましいな~」っと思います。第一に今やるべきことではなく、役に立つか立たないかわからない本を読んでいます。そして、その本の量が多いのです。

 私も小学校、中学校、高校、そして大学の時はそうでした。しかし、大学院の頃になると、直ぐに役に立つ本を読むようになりました。そして、結婚するようになると、読む本の量が激減しました。

 何故だろうと思います。かつては自分のことをすればよかったのです。仕事がいかに忙しくとも、それを終われば自分の時間になります。しかし、結婚すればそうではなくなります。仕事を終えれば、家庭の仕事をしなければなりません。その合間を縫って、全国から来る質問メールに応えなければなりません。今は、殆ど「私」の時間はありません。

 今、ブックオフに行って、老後に読みたい本を105円コーナーで探すのが楽しみです。その多くは、私が大学院前に読んでいた本です。表紙を見て、ページを開くと、思い出すことが少なくありません。読みたい、と思います。でも、そんな時間はありません。本当に本を楽しむためには、ま、2時間程度は集中できる時間が必要です。そんな時間は、遠方の出張の際の電車の中しか今はありません。

 今は、老後が楽しみです。子育てを終えたあとの家内との関係だけでクローズし、ゆっくりと過ごしたい。

[]指導教員 21:43 指導教員 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 指導教員 - 西川純のメモ 指導教員 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ま、私自身が出来なかったことですので、言える立場では無いですが・・・・

 私の尊敬する大学人の先輩(のちに学長になりました)が、学部生に言ったことです。大学生になって決めなければならない3つのことです。それによれば、第一は、自分の進路、職業です。第二は、恋人であり、それは生涯の伴侶に繋がることです。そして第三は、指導教員です。

 指導教員は第三番目ですが、これを過てば、2年間をどぶに捨てます。いや、捨てるだけでは無く、地獄の日々になります。さらに、職業選択を誤り、恋人さえ見いだせなくなります。恋人は三十年、四十年、五十年の連れ合いになります。指導教員はたった2年ですが、今後の人生において決定的な2年間の連れ合いになります。が、それを考えて、じっくりと決める人は多くありません。その人の看板、レッテルで選んでいるように思うのです。

 大学院の学生さんとは、「入学前にやりたいことと修了時にやり遂げたことと一致していたとしたら、何も学んでいないことです。大学院で最初にやるべきことは、入学前には思いもつかないことが大事であることを学ぶことです。入学前にやりたいことをやるとしたら、そりゃ大学院に入る意味は無い。そんなことだったら時間を作れば、仕事の中で出来ること」と言います。が、ま、分かりません。

 小学校、中学校、高校までは学習指導要領があります。だから、どんな人に学んでも最低限の共通性があります。しかし、大学、大学院の研究はそれがありません。人なのです。何故、その人のなしたことをじっくりと事前に調べないのか。進学する学校の情報を調べるエネルギーの半分も、指導教員のことを調べないのか、と思います。自分の賭ける2年間とはどれほどの価値があるのか・・・・。大学入試と同じで、ラベルで選ぶ人が大部分でしょうね。

 ま、私自身が出来なかったことですので、言える立場では無いですが・・・・。

 私は出来ませんでしたが、出来る人もいます。http://p.tl/ScH2

13/08/25(日)

[]宿題 07:39 宿題 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 宿題 - 西川純のメモ 宿題 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 比較的多く聞かれる質問の中で、「『学び合い』では宿題を出しますか?」という質問があります。私の回答は「出しません」です。そうすると怪訝な目をされます。そこで説明します。

 何故出さないかといえば、「そんな手ぬるいことを『学び合い』ではさせないから」です。宿題はそれが終われば、終わりです。これはクラスの上位層2割にとってはたやすいことです。しかし、『学び合い』では、その2割の子どもが必死になり、その必死さが周りに伝搬させるのです。

 『学び合い』における宿題、それは「常に全員達成する」なのです。つまり、全員達成が出来るまで、どれだけ自宅で自習しても終わりはありません。そして、何をどれだけ勉強するかも自分で考えなければならないのです。これは超ハードな宿題です。

 ある勉強の出来る子が夜遅くまで予習をしていました。心配した保護者が、そんなに勉強しなくてもあなたは100点とっているじゃないか、と言ったそうです。その子は保護者の目を見て、私は自分のために勉強しているんじゃないの、クラスの○○ちゃんが分かるようになるにはどうするかを予習しているの、と言ったそうです。

 そのようなレベルの子が2割生まれれば、予習をする子が増えてきます。クラスを育てれば7割程度の子どもが予習することも可能です。そうなれば、残りの3割の子どもも時には予習するようになります。そうなれば、テスト前に友達の家に集まって勉強するようにもなるでしょう。

 知的な障害を持つ子どもを含むクラスで3回連続で100点を達成した事例を知っています。そのクラスでは子どもたちはテストを「挑戦状」と呼びます。つまり、全員○点以上という教師の挑戦を達成したら、自分たちの勝ちと認識しているのです。テスト前にはクラス全員が円陣を組み「全員○点以上とるぞ~!」と気勢を上げます。テスト中は、「絶対に最後まで諦めるな~」という声が上がるのです。つまり、最高の部活をイメージして下さい。

 成績向上のポイントは、本人が成績を上げたいと願うことです。それが無ければ、どんな教材も指導も無意味です。教師が何もしなくても、それを強く願う子は2割はいます。そして、能力のある教師だったら教材や指導によってその割合を高めることは可能です。でも、上げられる限界はあります。普通の教師だったら、まあ、5、6割に上げることが出来たら上出来と思います。でも、教師の悩みの圧倒的大部分の原因となっている子は、その中には含まれません。

 人が最も普遍的に興味・関心を持つのは「人」です。どんな教材も指導もそれには勝てません。『学び合い』をやり始めた人は、『学び合い』にあった教材があるのではないかと従来の枠組みで予想します。しかし、そんなのはどうでもいい。重要なのは最高の部を育てると同じに集団作りなのです。最高の集団が出来てから、はじめて教材のレベルに差が出ます。

 そのような集団を創るとき「宿題」はかえって障害になります。なぜなら、そのようなものがあれば子どもたち(特に上位層)が教師に依存的になってします。だから宿題は出しません。

追伸 保護者から「宿題を出して下さい」と言われるかもしれません。『学び合い』の初期の段階では子どもたちは予習はしないでしょう。そして宿題を出さなければ、家で遊んでばかりということになります。保護者が子どもに「宿題は?」と質問したら、子どもは「無いよ~」と返事することが続けば「宿題を出して下さい」という声も起こるでしょうね。その場合は、しょうがありません宿題を出しましょう。でも、その際は宿題は最低レベルの宿題であり、本当の宿題は全員達成であることをちゃんと確認しましょう。

13/08/24(土)

[]怒濤 19:25 怒濤 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 怒濤 - 西川純のメモ 怒濤 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日は大学院の入試がありました。終わり次第、車でゼミの合宿に移動。一晩、じっくりと馬鹿話をしました。朝一番で帰宅。家族と昼飯を食べて、『学び合い』上越の会に参加。新顔の方ともお会いし、楽しい時間を過ごせました。

13/08/23(金)

jun24kawa20130823

[]発表 11:15 発表 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 発表 - 西川純のメモ 発表 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』で育った子ども達が自主的に『学び合い』を研究誌発表するそうです。自らの学習を自らで俯瞰する、この当たり前のことが出来ることを嬉しく思います。

13/08/22(木)

[]大失敗 21:23 大失敗 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 大失敗 - 西川純のメモ 大失敗 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日は、午前、午後とずっと免許講習会を担当しました。本日は寄居町で講演です。声はがらがらです。

 よほど疲れているのでしょう。私としては考えられない大失敗をしました。

 私は講演で自らに課している二つのルールがあります。第一は、地声でやることです。第二は時間ぴったりに終わらせることです。これは常にやっていました。

 が、老化か、疲れのためか、終了時間が11時25分の所を45分に間違えてしまいました。寄居の方々済みません、とほほ

 が、そのため2時間びっちり話すことが出来ました。あまりにも気持ちよくしゃべれたためと思います。

scorpion1104scorpion11042013/08/22 21:48昨年、長崎の講演を終わられた西川先生は、全力で語られたという感じで聴衆の方からは見えないように肩で息をされておいででした。
どのようなときも心をこめ全力で、どんな場所でもその会場に来られた方々お一人おひとりに思いが伝わるように話をされていらっしゃるのだと理解しました。「子どもたちを一人も見捨てたくない」と願う西川先生の『学び合い』への思いは、一生忘れられないと思っています。

jun24kawajun24kawa2013/08/23 05:32お優しい、お言葉、感謝です。

13/08/20(火)

jun24kawa20130820

[]志 19:55 志 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 志 - 西川純のメモ 志 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 家族旅行で四国を回りました。金比羅さんの絵馬を見ている息子が「レベル高い志だな~」と一言、そして自分も絵馬を書きたいと言いました。そこで書かせてみると、右の通りです。

 つくづく面白い子どもを授かったと思います。

13/08/19(月)

[]期待しているよ 07:51 期待しているよ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 期待しているよ - 西川純のメモ 期待しているよ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今回のフォーラムの講演会で、私のゼミ生およびOB・OGが一番受けたと思う部分は講師の方が「期待しているよ」は絶対に言ってはいけないこととおっしゃったときだと思います。私は会場の一番後ろの席に座っていたので、その話の時に西川ゼミ関係の全員が大爆笑していました。というのは、ゼミ生にとって私の「期待しているよ」が最大の恐怖(?)なのです。

 ま、少なくともゼミ生には分かっていると思うのですが、講師の方のおっしゃる一般的な「期待しているよ」と私の「期待しているよ」は質が違います。それは、「期待しているよ」の主たる期待している人は誰か、ということです。一般的な「期待しているよ」は、それをしゃべっている人「が」期待しているのです。だから当人の「期待」と葛藤が起こってしまいます。でも、私の「期待しているよ」の期待している人は当人なのです。

 「君らの今後の人生がどうなろうと、私の幸せは動かないよ」と憎まれ口を言います。私は当人にとって、そのことがとても大事であることを説明します。そして、それを忘れかけると「いいんだよ~。私にとってきみがどうなろうといいんだよ~」と耳元でささやきます。だから、このプレッシャーが強力なのです。私はいくらでもごまかすことは出来ますが、そのことをしなかったときの結果からは逃げられないことをよく分かっているからです。つまり逃げられないのです。

 もしゼミ生が期待通りの結果を出せないとしたら管理者である私のどこが悪いか、おおよそ二つです。第一に、期待していることが、当人(自分たち)にとっての利害であり、私の利害では無いことを納得させていないからです。第二に、その期待に応えるような集団を形成しきれないことです。個人は弱きものです。個人に全てを求めても無理です。その時に、集団が必要です。

集団に関して、不遜ながら在学中は大丈夫です。私の管理下の西川ゼミという集団がありますから。しかし、私の手元を育った後のことが心配です。が、幸い、『学び合い』がどんどん広がって行っているので、就職後も就職先でネットワークを形成できるようになりました。ありがたいことです。

追伸 おそらく最も長く、最も多く、「期待しているよ」を言われたゼミ生が言っていました。「先生の期待しているよはプレッシャーだけど、それを言われなくなる方がもっと怖い」と。だから、講演の後、「だから期待しているよは駄目なんですよ」とゼミ生が言ってきたら、「いいよ、じゃあ言わないから」(ニコニコ)と反応しようと思いました。しかし、よく分かっているようで、講演会では大爆笑しましたが、だれも私に言いませんでした。

http://p.tl/jtXd

http://p.tl/1ho4 シリーズものです。

13/08/18(日)

[]一流 19:52 一流 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 一流 - 西川純のメモ 一流 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』にはいろいろな方が関わります。いずれも志の高い方です。でも、いろいろなことを考えます。何度か書いたことですが・・・。

 一流の研究は、長々、説明不要です。たいてい長く説明を必要とするようなものは、重箱の隅をつつくようなものです。私の学生が自分のテーマを私にしゃべるとき、一言(まあ、点が二つ以内)でしゃべれないものは拒否します。

 でも、それを「そりゃそうだ」で言われたら、当たり前すぎます。つまり、最初の反応は「え?」なのです。

 次に、説明をします。そうすると、「な~るほど」と納得します。少なくとも教育に関わること、それはみんな経験していることです。義務教育は9年、多くの人は高校までの12年間経験しています。そして私の関わる人の多くは大学の4年をプラスして16年間の経験のある方ばかりです。だから、正しいことであるならば、ゴチャゴチャ説明しなくても、納得するはずです。

 でも、次に、それを現実化するにはどうするか?と問えば「う~ん」となることが一流の研究です。それが簡単だったら、とっくのとうに誰かがやっていることなのです。

 つまり、一流の研究とは、今は一般的になされていないことであり、その理屈は単純、でも、それを現実にするのは難しいということです。

 頭のいい人、つまり、みんながやるべきだと気づくことを解決できるのは、超天才だけが出来ることです。たとえばフェルマーの問題や4色問題は昔から解決すべきであることは分かっていることです。そして、みんなそれを解決しようとしました。でも、解けなかった。それを解決できるのは超天才です。でも、私も多くの人はそうではありません。凡人は、正しくて、基本的には解決すべきことを解決するしか一流の成果は上げられません。

 私は二十二歳で、「教育を数値的に表そう」ということを志しました。ペスタロッチ、コメニウスであーだ、こーだ言っている時代でした。何を戯言と言われることです。でも、現象を客観的に数量化すべきであると言うことは了解するのは難しくありません。でも、それを実現するのは多くの人には難しかったと思います。私はそれを乗り越えられました。なぜなら、その当時は一般的では無かった、大型コンピュータの統計パッケージを駆使することが出来たからです。そのため、数千人のデータを統計的に扱うことが出来ました。

 私は三十代になって、子どもの頭の中を分析しようとしました。当時は、典型的な問題を与えて、その正答率を吟味する時代でした(不遜ながら私が先鞭をつけたものです)。頭の中をどうやって調べるの?という時代でした。まあ、フロイドの精神分析のいかがわしさと同じものを学会のみんなは感じていたと思います。しかし、子どもの頭の中をコンピュータのメモリーとCPUでモデリング化する認知心理学の知見が勃興した時代です。その成果を数例でも紹介すれば納得してもらえます。しかし、具体的に教科教育でそれを実行する方法は、と言えば、みんな二の足を踏みます。認知心理学的な分析は単純なアンケート調査とは違います。かなり込み入った手続きを学習者にやってもらわなければなりません。だから、みんな出来ないのです。しかし、私は上越教育大学に言いました。現職院生がいっぱいいる世界で生きていたのです。そのため、普通の大学研究者では出来ない研究が出来ました。

 私は四十代になって、「一人も見捨てない」という荒唐無稽な志を立てました。当然、無理だと思われます。そこで、いろいろな講演会で、それが可能であること、少なくとも今よりましになることの説明をします。おおかたの方は、「まあ、そうかな」と思っていただいていると思います。だって、至極、単純な説明ですから。でも、「でもね・・・」と思います。で、今、日本中の仲間と教師の意識改革とやっているところです。これはなかなか手間がかかる。今までの私は学会で戦っていました。これは、政治も必要ですが、それ以上に正しいか、正しくないかの世界です。が、今回の戦いの場合、正しいか正しくないかでは無く、それを信じるか否かの世界ですから。

 で、話を戻します。

 いろいろな志の高い若い人と話して感じるのは、自分の志を短くシャープにいえない人がいます。また、言う人に関しては、当たり前すぎて、「じゃあ、今までとどこが違うの?」と聞くと説明できない。まあ、当人は説明しているつもりなのでしょうが、私には分からない。つまり、最初の「え?」が無い。

 次に、それがあったとして、それが正しいと思わせる短い説明が出来ない。ものすごく専門用語があふれてくるのです。もしくは自分の熱意で何とかしようとしている。まあ、当人は説明しているつもりなのでしょうが、私には分からない。

 そのたびに、残念だな~っと思います。

 でも、今の若い人は、凄い、と思います。だから、なおさら頑張って欲しい。そうでないと私の老後が危うい。

13/08/15(木)

[]代案無き否定 10:53 代案無き否定 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 代案無き否定 - 西川純のメモ 代案無き否定 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある人が「研究者は何かをなそうとする気が無く、議論をすることばかり。何故なら、自分が出来るのはそこだけだから。」という話を聞いたことがあります。それを聞いて、「そんなことは無い。人によりけりだよ」と言いました。

 が、一面の真理は突いています。研究者は何かをなすことを求められることは相対的に少ないです。特に、一定の期限までになすことを求められることは少ない。従って、一定の期限までに何かをなそうとする人と議論がかみ合わないことがあります。

 十年以上前の会議です。私より年長のある人が、私には言葉遊びに過ぎないと思われることを長々と話します。具体的な議論に持って行こうとすると、はぐらされます。そこで、その事がいついつまでに決めなければならないことを確認しました。そして、「先生なりの代案を提案して下さい」と求めました。その会議でも確認しましたし、次の会議の前にも再度確認しました。ところが、その先生は次の会議では欠席されました。

 私は理解しました。その方は、決めようとする気持ちが無いだけでは無く、決める代案を創る能力の無い方であることを。

 私は「代案無き否定は、単なる悪口に過ぎない」と確信しています。でも、大学では「代案無き否定」は悪いことではないと胸を張っている人が少なくないので、ビックリします。ま、そのおかげで、私の思ったように物事を決めることが出来ますから。イライラすのは嫌ですが、簡単と言えば簡単です。

[]研究者の寿命 10:53 研究者の寿命 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 研究者の寿命 - 西川純のメモ 研究者の寿命 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 大学の学生の頃は、年長の研究者は若い研究者より能力が高いのだろうと思いました。ところが、ある学会で六十過ぎの教授が、最新理論として学会発表している理論が今から半世紀ほど前の理論であることに愕然としました。おそらく、その方の若いときには最新理論だったのでしょう。少なくとも日本に紹介された当初なのでしょう。そして、それ以降、進歩がなかったのだと思います。

 どの分野もそうですが、研究者のピークは二十代後半から三十代前半です。それ以降は緩やかに落ち、五十過ぎたら急激に下がります。

 年をとれば、相対的に若い人たちの新しいものは「理解できなくなります」。それはどうしようも無いことです。しかし、分からないなら、黙って見てればよいと思うのです。ところが理解できずに否定する。若い頃だったら、否定する側の資料をちゃんと読んで理論武装する。ところが、その能力を失っていると同時に、自分が偉くなったのでそのような理論武装する気にならなくなる。困ったことです。

 研究者の世界(おそらく教員の世界も)で頭を下げ、ゴマをするとしたら、自分より若い世代です。自分より年長者は、自分よりさきに退場します。そして、退場した後のその人及びその人の業績の評価にその人は関われないのです。そうやって没落した人を数多く見ています。私も53歳、ハッキリ言って「バカ」になっています。そして、今後も一層バカになる。でも、せめてそれを忘れずに、私より相対的に若い人に嫌われないようにしたいと思います。

 教授も校長も、退職してから、その人とその人の業績の価値が決まります。

[]理論の必要性 10:24 理論の必要性 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 理論の必要性 - 西川純のメモ 理論の必要性 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 世の中には多くの教師の研修団体があります。その研修団体で実績を上げられた方の中には『学び合い』に反発する方もおられますが、逆にそこから『学び合い』に入られた方もおられます。その方と、反発するかたを比べると、「なんで原典を読み、それを学んでから批判しないのか?」と思うのです。それは『学び合い』だけではなく、ご自身が大事にしているものに関してもです。理論無き実践は、ご自身が大事にしているものを汚してしまうのに・・・と思うことがあります。2年前のメモを再掲したいと思います。

 同志の学校の管理職が問題解決学習を推進し、『学び合い』を蛇蝎のように嫌う場合があるかも知れません。その時、どのように理解すべきか、簡単にメモりたいと思います。

 問題解決学習は戦後教育の成立と共にデューイの教育学が導入されました。しかし、その後、それが批判され系統主義に傾いたことに対抗するため上田薫先生が中心となって「社会科の初志を貫く会」が立ち上げられ、それが現在の問題解決学習に繋がっています。

 おそらく、同志の御校の管理職は専門は社会で初志を貫く会に所属された方なのかも知れません。

 長い実践の蓄積の中で様々な指導法が開発されました。しかし、それとともにどんどん形骸化していったのです。残念ながら。

 デューイや上田先生の著作を読めば、その願いは民主的国家の形成者を育成し民主主義を根付かせたいという願いが最上位に位置づけられます。ま、『学び合い』であれば「一人も見捨てない」にあたるものです。そして、それを実現するために「日常の諸問題」を解決することを授業で進めました。

 が日常の諸問題を解決することを推し進めれば、当然、旧来の教科の内容がおろそかになります。結果としてその反動がおこり系統学習が復権しました。このような振り子の動きは何度もありました。最近では「ゆとり学習」の反動がありましたよね。

 上田先生や初志の会の方々は、次の系統学習の中でも問題解決学習を根付かしたいと願いました。そして、それをより広い教師(つまり、それほど力量のない教師でも)が実践できるようにするため、様々な指導法が開発されました。そして、社会科以外の教科にも広めようとしたのです。が、繰り返しますが、その過程で、問題解決学習が目指している民主的国家の形成者を育成し民主主義を根付かせたいという願いが薄れてしまいました。そして指導要領のしばりから、「日常の諸問題」を解決することから外れました。当然、「日常の諸問題」ではなく教科の内容の問題解決であれば、子ども達がそれらを解決しようとする必然性は低まります。それを補うために様々なテクニックが開発されましたが、どうしても教科の不得意な子どもに必然性を感じさせることは難しくなります。それによって、「問題解決学習は結局、成績上の数人が活躍し、大部分の子どもは置いてきぼり」という批判が生まれるのです。

 さて、問題解決学習の実践を積まれた方の中には、『学び合い』を蛇蝎のように嫌う方がいます。しかし、その根幹はまったく同じなのです。だって、「民主的国家の形成者を育成し民主主義を根付かせたいという願い」と「一人も見捨てない」ということが矛盾することでしょうか?

 戦後の問題解決学習では、なんとか既存の教科内容を日常の諸問題にしようと苦労しました。ところが『学び合い』の場合教科内容はいじくらずに、「一人も見捨てない」という日常の諸問題を解決することが出来るのです。これが問題解決学習とどこが違うでしょうか?問題解決学習で頑張った方の一部の方は、残念ながら根本の願いが忘れ去られているように思うのです。失礼ながら、自分がよって立つものの理論的背景を学ばず、孫引きの孫引きを原典だと誤解している。問題解決能力を育成すること自体が問題解決学習の願いではありません。あくまでも民主的国家の形成者を育成し民主主義を根付かせたいという願いだと思うのです。

 テクニックのレベルで見れば対立するかも知れません。でも、願いのレベルで見れば、同じ方向を向いています。結局、その是非は、どのように教えているかで判断するのではなく、それで運営されているクラスがどれほど民主的であるかで判断すればいいのです。

 民主国家の学校における教師は専制君主であってはいけません。民主的なプロセスで決まったことを執行する公務員であらねばなりません。市民である子どもたちに何かを求めるとき、それを民主的なプロセスで決められたものに根拠づけなければなりません。『学び合い』では教育基本法と学習指導要領に求めることが出来ます。

追伸 とかくと、学習指導要領の法的位置づけのことを議論する人がいますが。失礼ながら学者の戯言のように思います。今までその手のことを議論して、代案を出せる人が一人もいませんでしたから。あ、蛇足ですが。

追伸2 当然のことながら、問題解決学習の本当の願いを理解した方の中には、『学び合い』にシフトした方はかなりいます。デューイや上田先生の著作を読んだ方だと思います。

13/08/14(水)

[]学び合う能力 21:54 学び合う能力 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合う能力 - 西川純のメモ 学び合う能力 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 “学び合い”と『学び合い』では学び合う能力の捉えがだいぶ違うと思います。

 “学び合い”の場合は学び合う能力をテニスの能力のように捉えているようです。つまり、組織的に教えない限り出来ないが、組織的に教えればかなりのレベルまで行けると思っているようです。

 しかし『学び合い』では、一面、喋る能力のように捉えます。つまり、それほど組織的に教えなくとも、人間社会で育ては殆どの子は喋ることが出来ます。しかし組織的に教えてもそれほど喋る能力は上がりません。それ故、「しゃべり方」の本が書店にあふれているのです。

 実は喋る能力は関係によって決まると『学び合い』では考えます。同じ、人であっても、語る相手によっては雄弁にもなり、寡黙にもなります。そして一定数以上の集団になれば、雄弁になる人は一定数いて、寡黙なる人も一定数います。考えてもみて下さい。もし、教員集団だけの話し合いであれば、若い教師は寡黙になります。でも、出身大学の後輩の前では「教育とはね」と雄弁になるでしょう。

 これらの学び合う能力のとらえ方の違いは、教師の指導の違いに現れます。

 “学び合い”では、一人一人に学び合う能力を教えようとします。多くは、学び合う「型」を教えます。それによって、学び合う能力が伸びると思っています。

 『学び合い』では、教えなくてもある程度は出来るし、逆に教えてもある一定以上は無理と考えています。では、どうするか、その関係の中で学び合う能力を存分に発揮でいる一部の子どもが、自分のためだけにそれを発揮するのでは無く、みんなのために「も」発揮することが、自分のためだけにそれを発揮するより「得」であることを説明します。

 教師の悩みの八割は二割の子どもの言動から発します。今までは、その二割の子どもを動かそうとします。でも、無理です。歴代の担任が挫折したことですし、次の学年の担任もそうでしょう。その子は教師と相性が悪いのです。

 『学び合い』ではそんな非効率なことはしません。どんな状態でも、教師の言葉に耳を傾ける子どもを動かそうとします。教師がちゃんと語れば、2割の子どもは動きます。その子どもが動けば、6割の子どもが準拠した行動をします。そして、併せて8割の子どもの関係の中で、教師の悩みの種である二割の子どもを動かせるのです。

 教師がちゃんと語れば動く2割の子どもがどれだけ本気で動くかが鍵です。その際、本当に愛を持っているか、それも依怙贔屓にならない愛を持っているかがポイントです。これは「一人も見捨てない」という決意に勝るものはないと思います。と、どんどんと深めたのが『学び合い』です。そこには“学び合い”のテクニックとは全然違うものが生まれます。

[]奨励 07:16 奨励 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 奨励 - 西川純のメモ 奨励 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今から十年弱前のことです。私のゼミ生が、上越教育大学内で開催されたTOSSの勉強会に参加していました。それも隠れて。なんかの拍子で、それを私が知るところになりました。その学生は恐縮して私の所に来ました。私は大笑いして、TOSSが職場で見捨てられた若い教員をどれだけ救ったかを歴史的に説明し、そこで学ぶことの意義を語りました。それ以降は、我がゼミ生がTOSSの研修会に参加することを悪いことだとは思っていないと思います。

 ちなみに、我がゼミ生は様々な研修団体の会に参加し、色々なことを学びます。『学び合い』を否定する団体にも。また、私をお名指しで下品(?)に罵倒される方の講演会にも参加します。それも団体を組んで。私はとても良いことだと思っています。

 何故かと言えば、それらで技術をいくら学んでも得にこそなれ、損にはなりません。私だって、「7つのルール」に書いたように一斉指導時代の技術は使っています。使えるならば使った方が効率はいいですし、気持ちがいい。しかし、『学び合い』をしれば、その技術では一部の子は見捨ててしまうことは分かります。一斉指導の技術をどれほど積み上げれば「全員を分かった気にさせることは出来ても、全員を分からせることは出来ない」ことは、『学び合い』の全員が分かったという場面に出会えば分かります。これはゼミ生も同じだと思います。

 また、一斉指導の技術を積み上げれば、授業中は全員がハッピーになれることも力量ある教師ならば可能です。しかし、目の前の子どもが次の学年になり、次の学校に進学した後のハッピーを保証しているわけでは無い、ということを全校『学び合い』、また、地域コミュニティーの再生を目指しているゼミ生だったら明白です。

 『学び合い』や私をあしざまに言う人の講演会に行けば、その人自体はとても志の高い人であり、子どもたちのことを考えている人であることが分かります。なのにあしざまに言う姿を見れば、「何故だろう」と考えるでしょう。そうすれば、『学び合い』を技術的な表層で捉え、「一人も見捨てない」という言葉を軽く捉えていることに気づきます。その方が喋る一言一言を聞いて納得する部分と同時に、「でも、あの子はそれじゃあ無理よね。『学び合い』だったら・・・・・」という事例が頭に浮かびます。それによって「一人も見捨てない」という言葉の重さを再確認できるはずです。

 ということで、私は奨励しています。

 歴史的に言えば、宗教は他宗教を否定します。共産主義が宗教を否定したのは、それ自体が宗教だったからです。『学び合い』は科学です。徹頭徹尾、学術的な裏付けによって構築された理論です。宗教とは違います。

 が、宗教的な部分もあります。それは「一人も見捨てたくない」という願いです。私が現状の教育を否定するとしたら、それは技術のレベルのことではありません。それが暗黙に是認している「一部の子どもは無理だよな」という諦めを否定しています。その諦めを前提にしている全てを否定したい。

 私のゼミで2年間以上過ごしたならば、「一部の子どもは無理だよな」は思わないと思います。そして、私の管下を離れて荒波にもまれて「一部の子どもは無理だよな」ということに囚われてしまったとしても、それを恥じるであろうことは確信は持てます。つまり、なんとなく意識せずに「一部の子どもは無理だよな」とは思えないように育つ環境には置いたことには自信があります。私の管下を離れ、荒波にもまれれば「一部の子は無理だよな」という思いに囚われると思います。しかし、そう思ったときに現れる子どもの姿が、大学院で見た子どもの姿とは違うことを忘れないと思います。そして、そのためにチームが必要だと言うことも。

13/08/13(火)

[]理想の教師(?) 21:26 理想の教師(?) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 理想の教師(?) - 西川純のメモ 理想の教師(?) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今、土日も無く、子どもに全てを捧げている教師がテレビで流れている。困ったな~っと思います。その先生を否定するつもりはありません。いい人なのだと思います。

 本日も、ゼミ生に「お前らが、どんなになっても、私の幸せは動かせない。」と愛を込めて語りました。ゼミ生が本気になって自分の幸せは何かを考え、そのために自分が何をすべきかを考えない限り、ゼミ生の本当の幸せは無いからです。私が口汚く、何を語っても、私が私の家族の幸せに矛盾が無い限り、最善を尽くすであろうことは信じて貰っていると思います。でも、私の出来ることなんて、ちょっとしたことなのです。ゼミ生の長期スパンの幸せは、彼ら自身が生み出すしか無い。これに関しては確信があります。

 だから、子どもに全てを捧げている教師に関し、それを分かって欲しいなと思います。

追伸 教師の出来る最善のこと。それは子どもの明日に繋がることを今することではなく、子どもが明日に繋がることをやりつづけられることを今することです。

でも、それを一人も見捨てずに実現するには、子どもたちのネットワークが必要です。

[]免許講習会・寄居町講演会 19:43 免許講習会・寄居町講演会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 免許講習会・寄居町講演会 - 西川純のメモ 免許講習会・寄居町講演会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今年は夏休み中の講演は3つだけです。そのうちの一つが福島のフォーラムです。残りが長岡の免許講習会と寄居町での講演会です。どちらも、じっくりと話せる時間があります。だから、いつもの講演会では省略する部分をじっくりと話せます。

 本日、そのプレゼンを作り上げました。ということで、ほっとしています。

13/08/12(月)

[]一人も見捨てない 21:33 一人も見捨てない - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 一人も見捨てない - 西川純のメモ 一人も見捨てない - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「一人ぐらい、見捨てていい」と思っている教師なんて殆どいません。でも、『学び合い』ほど「一人も見捨てたくない」という気持ちは強くありません。

 例えばです。「国語の深い読みを理解させたい」という願いがあったとします。これはどの教科でも読み替え可能でしょうね。その願い自体は尊いことです。否定するつもりはありません。

 しかし、「でも、その国語の深い読みを理解させるための授業はクラスの中の何パーセントぐらいは分かるでしょうか?」と問いかけるのが『学び合い』です。それがなくて「国語の深い読みを理解させたい」なのが『学び合い』以外です。そこで、『学び合い』の人が「でも、その国語の深い読みを理解させるための授業はクラスの中の何パーセントぐらいは分かるでしょうか?」聞かれることは不愉快だと思います。そして心の中に、「そういう時間もあっていいじゃないか」と思うでしょう。つまり、その時間は「一人ぐらい(実際はクラスの5割強)を見捨ててもしょうがない」と思っているのです。「そういう時間もあってしょうが無いだろ」でしょうね。ま、理解できますが、それが『学び合い』ではないということです。

 でも、それを言えば、「じゃ、どうすればいいんだよ」と言いたくなるでしょうね。だから、『学び合い』なのです。「一人も見捨てない」ことを実現するには、一人の教師では無理なのです。だから、クラス全員が教え手になり、学び手になるしか実現可能にはなりません。

 「ま、しょうがないじゃない」でとどまらず、徹底的に「一人も見捨てない」に拘り続けたのが『学び合い』です。

追伸 上記より理解が難しいのは、実は「一人も見捨てない」というこことを追い求めることが成績上位者の「国語の深い読み」を獲得する道であるということは、『学び合い』の実際の子どもの会話を「長期間」聞かない限り分からないことです。そして、もっと難しいのは「国語の深い読み」だけではなく、「その子の一生涯の幸せとは何か?」にも繋がることです。これが分かるには、学校教育の目的は何か、つまり人格の完成と教科の個々の学びとの関わりを理解することが必要です。これは学習内容でぐるぐるしている限りは出せない応えです。

[]違い 19:46 違い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 違い - 西川純のメモ 違い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 一般的な意味での“学び合い”だったら、学び合うことを認めたり、制限することはあると思います。そして“学び合い”だったら、それは万能では無いと思います。

 しかし、『学び合い』は違います。学び合うか否かは個々人がその場その場で判断します。

 そして最も大事なのは、『学び合い』の本体は学び合うことでは無く、一人も見捨てないことを求めた教育であることです。だから、少なくとも公教育である場合は『学び合い』でやるべきで、ある場合は『学び合い』でやるべきでは無いということはありません。常に『学び合い』でやるべきなのです。何故なら、公教育であるならば「一人ぐらいは見捨ててもしょうが無い」ということはあり得ないと私は思います。結果として全てを救いきれないかもしれませんが、絶対に「一人も見捨てない」ということを諦めてはなりません。だから、本当に「一人も見捨てない」ということを求め続けるべきです。

 もし「一人も見捨てない」ということを求め続けたならば、おそらく、現状の『学び合い』のテクニックがもっとも相対的に優れていると思います。もし、それを超えるものがあれば、私は直ぐにそれに乗り換えます。過去、二十年弱、常に、そのようにして脱皮し続けたのが現状のテクニックだから。

 が、多くの人は『学び合い』を“学び合い”との違いが分からず、学び合うことを手段としたテクニックとしか思えないから、『学び合い』は万能では無い、という言葉が出るのだと思います。はやくテクニックの段階を乗り越えて、考えのレベルに至って欲しいと願います。

[]参観 06:58 参観 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 参観 - 西川純のメモ 参観 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 前後期制の大学では9月は休みです。が、学校はやっています。ということで学生さん、院生さん、職員の方で『学び合い』の生を見たい方、西川ゼミで何をやっているかみたい方、どうぞご連絡下さい。歓迎します。もちろん、大学関係者以外も歓迎します。9月は佐賀の指導主事の方々、大阪市の議員さんと教員の方、広島市の教員の方、北海道の学生さんがおいでになります。

13/08/11(日)

[]民主主義 20:02 民主主義 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 民主主義 - 西川純のメモ 民主主義 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「人民の人民による人民のための政治」は民主主義を端的に表した宣言だと思います。

 しかし、我が国の教科内容の検討の場合、古い時代の共和主義のように思えます。すなわち、人民の知恵を信じられず、「選民の選民による選民のための政治」が人民のための政治になると思っているのです。例えば、理科の教科内容(これは他教科に置き換えても同じです)は「理科人の理科人による理科人のための理科」となっています。

 理科が国民全員のための教科であるならば、何故、教科内容の検討に理科人以外の人が関わらないのでしょうか?特に、理科が嫌いな人(つまり日本人の過半数)が議論に入るべきだと思います。

 それを駄目だという方の意見を聞いて下さい。その意見は、奴隷制度を容認したアテネ市民、普通選挙を拒否した近世の市民が主張した意見と同じです。それが現代の日本でまかり通っていることに不思議を感じない。

 私は民主主義を信じています。

追伸 ということで。教育の研修会に教員だけが集まる。その異常さを感じて欲しい。

sweetsdaisukisweetsdaisuki2013/08/12 00:17職員会議に「生徒がいたらいいのに」と思うことも多々あります。

jun24kawajun24kawa2013/08/12 06:35数百人の職員集団をただで利用できるのですから。もったいない限りです。

13/08/10(土)

[]スイートテン 20:57 スイートテン - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - スイートテン - 西川純のメモ スイートテン - 西川純のメモ のブックマークコメント

 バレンタインの習慣も、結婚指輪が月収の3ヶ月半だという習慣(?)も全部、映画の前の広告によって作り出されたものだということです。

 スイートテンダイヤモンドというのも、それと同じです。

 我が家では、結婚10年ごとに指輪を買います。首長族の首輪と同じように、付け足しです。ということで、私の左手の薬指には、婚約指輪、10周年、20周年の3本の指輪をはめています(家内も)。

 指を見ていると、後2本は安泰で、3本が限界のようです。結婚60周年、70周年を祝いたいと思うのですが、どうしようと思いました。ふと発見しました。入りきらねば、右手の薬指にはめればいいんだ。こうすれば結婚100周年まで安泰です。

[]好きな本 20:48 好きな本 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 好きな本 - 西川純のメモ 好きな本 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 老後用の本をちょっと読みました。するすると読めます。

 で、思い出しました。この三十年間、娯楽用の本を読んでいないことを。早く、老後になりたいと思いました。

13/08/09(金)

[]覚悟 20:47 覚悟 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 覚悟 - 西川純のメモ 覚悟 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は数多くの方の手ほどきをしました。最初の方の悩みはみんな同じです。

 「最初の語りはどう語ればいいか」、「課題はどう作ればいいか」、「評価はどうしたらいいのか」です。

 次の段階は、「遊んでいる子がいる」、「特別支援の子どもがどうしても課題を達成しない」です。

 次の段階は、「クラスの中でいざこざがあります」、「同僚(保護者)が誤解している」、「成績が上がらない」えす。

 このやりとりが数百回、いや、数千回以上繰り返します。

 でも、この先に一つの山があります。

 これを乗り越えた後です。そこで自分なりに出来るようになった後は、上記のレベルを精緻化することをやります。しかし、このレベルでとどまっている限りは、解決策はありません。

 上記は、全て、「良い授業」を目指したものです。そして、実践界で議論されている99%以上のものと同レベルです。そうであれば、それらの一つとして相対化し、取捨選択されるレベルです。

 でも、その先があります。それは、子どもの人生を考える、そして、実は自分の人生を考え、子どもも自分も一生涯を幸せになるにはどうしたらいいか、というレベルの問いかけが必要なのです。

 そのレベルになれば守破離の「離」の段階です。全ての方法が必要がなくなります。

 我がゼミ生に聞いて頂きたい。西川ゼミでは、ステップアップで書いた全てのテクニックを使っていません。私がやっているのは「さあ、どうぞ」だけです。ではテクニックを使っていないかと言えば、正確には使っています。しかし、『学び合い』の学校観、子ども観が身体化しているので、定型的なテクニックにはならないのです。

 この段階になれば、「声がけ」、「教材」等の授業レベルの入り込む隙はありません。このレベルに入れるか、授業レベルでぐるぐるしているか、分かれ道です。『学び合い』はかなり広がっています。私としては、この段階に進んで欲しいと思います。

 では、この段階に至っているか、否かを判断する基準を申します。

1) 教員以外の人と同じ利害で話せるし、計画がたてられる。

2) 抜群の結果を出せる。西川ゼミの出した結果に文句を言える人はいません。言える人は、ご自身の結果を提示して比較しましょう。

3) 言わなくても、子どもたちはちゃんとやります。

 上記の「離」の段階に進む人がもう少し増えて欲しいと願っています。

[]老後の計画 20:47 老後の計画 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 老後の計画 - 西川純のメモ 老後の計画 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私も53歳。老後の計画を書きためようと思います。

 今、思いつく老後の計画。(順不同)

 1)老後住むところは、雪が無く、暑くないところ。

 2)ハザードマップで危険では無いところ。

 3)公共交通機関が発達し、それで病院と大きな街に30分程度で行ける。

 4)家の中は段差が無く、ロボット掃除機が使える。

[]知的生活の方法 20:47 知的生活の方法 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 知的生活の方法 - 西川純のメモ 知的生活の方法 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私が高校の時に渡部昇一さんの「知的生活の方法」を読みました。衝撃的でした。金を儲ける、出世をするという人生モデルとは違う道を示して貰いました。その中でハマトンを引用しつつ、恒産を得ることの重要性を書いていましたが、それはずっと納得しつつけていました。

 また自分なりのライブラリーの構築を書いていました。納得しました。しかし、渡辺さんは研究者の生活をモデルにしているようです。つまり、研究者として知を生産するためにライブラリーの構築の仕方を書かれています。しかし、私の考えているのは、老後なのです。そこで必要なライブラリーは、「楽しみ」を追い求め、「苦しみ」を避けるライブラリーです。特に後者が老後には重要だと思います。

 私が「引きこもり」のことを書くと、OBOGからNGが入ります。

 でもね。人間の根源的な本性は「引きこもり」なのです。しかし、生きるために「多様な人と折り合いをつける」必要が生まれたのです。「恒産」と家族を持った人は、「引きこもり」を十分に楽しむべきだと思います。

13/08/08(木)

[]頭を下げる 09:34 頭を下げる - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 頭を下げる - 西川純のメモ 頭を下げる - 西川純のメモ のブックマークコメント

 尊敬すべき人生の先輩から、男が土下座していいのは妻だけだ、と教えて貰いました。そして、妻にはどんなに土下座をしてよいと教えて貰いました。

 妻同士が集まれば、旦那の品評会が盛んになります。それは夫も集まれば同じです。現職院生たちと私が家庭の話をすれば妻の話が出てきます。そのうち彼女持ちの学生も参加するようになります。

 その際、現職院生や学生によく話すことです。

 『何故、夫が妻に頭を下げるのは何故か?そりゃ、得だからだよ。頭を下げたくないならば、家庭内でやっていることを妻と自分で交換すればいい。そうすれば頭を下げる必要は無い。でも、嫌でしょ?つまり、妻がやってくれること、それはとても大変なこと。それをやって頂いている。大多数の男はバカでは無いから、頭を下げている。』

 息子を育てると色々なことが分かります。小学校高学年以降の息子に接する仕方が、私に接する仕方と全く同じなのです。つまり、「やらせれば、やれると思っている」、「自分の求めていることは絶対に正しいと信じ切っている」のです。ま、言われた当初は「え~」と思うこともありますが、しばらくすると家内の求めていることは妥当であることが分かります。

 ということで、男は伴侶に頭を下げることは良いことだと、ゼミ生には詳細な分析と豊富な事例をもとに30分以上説明しています。前にも書きましたが、おそらく『学び合い』以上の熱心さで語ります。とても大事なことだから。

追伸 男のゼミ生には、女性は独身でも美しく老いることが出来るが、男は情けない生物だから、それは出来ないと私は言います。一人暮らしの男性の死因は「不潔だ」と言います。男とは女性に比べて、弱い生物だと思っています。

13/08/07(水)

[]『学び合い』でのキャリア教育 08:28 『学び合い』でのキャリア教育 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 『学び合い』でのキャリア教育 - 西川純のメモ 『学び合い』でのキャリア教育 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 日本の教育で決定的に欠けているのは、「必然性」です。例えば、日本の英語教育が不十分なのは、英語と根本的に違う構造であるウラルアルタイト語族であることは原因ではありません。日本の英語教師の能力が低いわけでも無く、教材が悪いわけでもありません。原因は英語を学ぶ必然性が無いからです。せいぜいは大学入試で使える以上の必然性を持ちません。それは不幸なことでは無く、日本がとても素晴らしい国だからです。というのは、日常生活は日本語で全て事足りています。最先端の情報も、日本語で手に入れることが出来ます。英米圏以外で英語教育が盛んである国を思い浮かべてください。英語以外に国民の共通語が無い国、自国語で書籍が充実していない国です。日本はそんな国になる必要は無いと思います。だから、英語教育を推進したいならば、子どもたちが「必然性」を感じるような仕組みを考えるべきです。

 これはキャリア教育も同様です。どうも、職業体験をすればキャリア教育になると誤解されているように感じます。しかし、それよりも「就職したい」という必然性を獲得させるのが最初だと思うのです。それが無ければ、職業体験も砂上の楼閣だと思います。では、どうやったら「就職したい」と思うようになるでしょうか?それは、自分にとっての幸せを考えさせるのが第一だと思います。自分なりの「幸せ」を創造するのです。ただし、自分なりの幸せがどこかにあり、それを探すのではありません。自分なりの幸せをまず創り、それを精緻化し理論化するのです。

追伸 私にとっての「幸せ」は、「家族仲良く、健康に」です。

[]『学び合い』でのICT 08:11 『学び合い』でのICT - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 『学び合い』でのICT - 西川純のメモ 『学び合い』でのICT - 西川純のメモ のブックマークコメント

 遙か昔、私は理科教育での教育工学の専門家として大学に採用されました。私の最初の講義は、教育工学についてなのです。当時は大型コンピュータを駆使し、パソコンを組み立て、アセンブラでプログラムを作り、インターフェイスを自作し、人工知能言語でプログラムを書きました。そして、その手の研究で論文をいくつも書きましたが、その手の研究は実践には役に立ちません。

 研究の世界で生きようとしたならば、最先端の技術の可能性を追い求めます。しかし、学校現場は最先端の技術を使いこなす時間は無いし、使いこなしても、直ぐに時代遅れになってしまう。第一、最先端の技術を使いこなすための機器は高く、リアリティはほぼありません。

 『学び合い』にシフトした後も教育工学には興味を持ち、研究をしました。ただし、実践に本当に役に立つ研究です。ポイントはいくつかあります。

 第一に、業務用のハード・ソフトは使わず、民間用、それもコンピュータが相対的に不得意な人も使っているレベルのハード・ソフトを使います。つまり、使うとしてもワード・エクセル・一太郎レベルに限り、専門のソフトは使いません。ハードとしては十数万円以下のコンピュータやipad、簡易型のプリンターやデジカメ程度しか使いません。学校現場は、上記以外を使いこなす時間も金もありませんから。このあたりはコンピュータの得意な人が忘れることです。

 第二は、利用方法は子どもに任せます。ICTの実践の場では、必然性より可能性が先行しているようです。そして、ICTの得意な人が「これが凄いです」と売り込みます。しかし、ひ「必然性」がないので定着しません。

 私が大学院の時、CAIがもてはやされていました。大抵はコンピュータをクラス人数分揃えて、そこから出発します。そして、それを使い切るにはどうしたら良いかを考えます。これって本末転倒ですよね。本当は、必然性があってツールがあるのに、ツールがあって必然性があるということです。

 では、どうしたらいいか。人数分のコンピュータやipadを揃えてから、さあ使えではなく、まず、数台のコンピュータやipadをユーザーである子どもに渡すのです。そして、子どもたちがどのようにそれを使うかを見て、必要があれば台数を増やせばいい。必然性があるのですから、必ず定着します。コンピュータの得意な人が、こう使え、ではなく、使いやすい環境を与え、使い方は自由にするべきだと思います。

最高のツールは「人」です。人を中心にして学習を考え、それをつなぐツールとしてコンピュータを考えるべきだと思うのです。どうも、ICTを使いたいという願いが先行しすぎているように感じるのです。

 以上まとめると、実は、『学び合い』自体がICTなのです。

追伸 逆に言うと、コンピュータの得意な人が、ハイテクを先行し、必然性より可能性を先行させたICTがもてはやされています。結果として、「使いたくも無いのに、使えと言われてやっている」学校や人を知るにつけ、三十年前に見たことをデジャビュする思いです。結局、そんなものは廃れて、次の時代には繋がりません。民間用の機器やソフトが、研究と無関係に必然性の中でもまれ選択され、残ったものが次の時代に繋がります。

[]結婚・就職 08:11 結婚・就職 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 結婚・就職 - 西川純のメモ 結婚・就職 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 職業柄、結婚適齢期(?)前後の人と関わる機会が多いです。

 非常に失礼な書き方になるかもしれませんが、相対的に若い頃には結婚相手に高い理想を持ち、結果として結婚するのを先延ばしにしている人がいます。

 どうも、若い頃は「最高の伴侶」なるものが世の中に誰かいて、それを見いだせると誤解しているふしがあります。考えてみてください。世界には数十億の異性がいます。でも、本当に伴侶となり得る出会いの機会を持てる人が何人いるでしょうか?まあ、数百人程度では無いでしょうか?さらに教員として就職後だったら十人以下だと思います。その中で最高の伴侶を得る可能性は1等前後賞を当てる確率よりも低い。

 つまり、仮に「最高の伴侶」なるものがいたとしても、その人と出会う可能性はほぼ無いと考えた方がいいと思います。

 しかし、相対的に「最高の伴侶」を選びたいと願うでしょうね。でも、結婚前にそれが分かるでしょうか?私は無理だと思います。出来るとしたら、「絶対に駄目」かそうでないか、ぐらいだと思います。結婚前に見せる姿と、結婚後に見せる姿は別人だと考えた方がいい。交際十年以上で結婚して、結婚1年以内で別れる人もいます。年長者のアドバイスですが、色々な人に相談することを勧めます。二つの目よりも、多くの目は、より正確に「絶対に駄目」か否かを判断できるでしょう。

 じゃあどうするか?

 最優先は、伴侶になって頂ける方か否かだと思います。そして、結婚するのです。結婚後は、相手にとって「最高の伴侶」になるよう努力する。それが、相手が自分にとっての「最高の伴侶」に近づいて貰える唯一の道だと思います。

 で、就職も同じです。最高の就職を探すのでは無く、自分の学歴・キャリアを生かして就職できる職業に就くことだと思います。そして、就職先にとって最高の戦力になること、それが就職先が最高の就職先に近づく唯一の道だと思います。

追伸 私が若いゼミ生に話す内容で一番多くを占めるのは、馬鹿話です。その次は『学び合い』より、上記のような「おじさん」の説教のように思います。ゼミ生には、上記のことを、様々な側面から、詳細な分析・豊富な事例を駆使して三十分以上話します。

13/08/06(火)

[]ギャンブル 21:54 ギャンブル - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ギャンブル - 西川純のメモ ギャンブル - 西川純のメモ のブックマークコメント

 若い人が、自分の人生を賭けたギャンブルをやろうとしている。今までにも何度も。年長者として、やめなさい、と言うけど分からないだろうな~っと思い、それ以上は言いません。

 ギャンブルは10分の9であっても10回繰り返せば確率3分の1つまり3分の2はダメということです。賭けるものが10万円ならばそれもありでしょう。しかし、自分の人生であれば100分の99でも危険です。10回やっても100分の99になるには0.999つまり1000分の1以上でならねばならないのです。

 人生で賭けるべき時はあります。でも、一度、賭けるべきと思い、賭けたならば、それは何度もするのです。長い人生、10回ではなく、100回も、1000回もです。

 一時的な思いで、10分の9、いや、それ以下の分で賭けるのは何故でしょうか?

① 自分が何をなそうとするかを真剣に考えていない。

② にその結果として、それを実現するために、何が必要条件かの情報収集を事前にしない。

③ その結果として、障害となることを解決するための手立てを考えておらず、それの手立てを積み上げない。

④ できないという現実を知って、驚き、時間がなくて丁半ばくちをしてします。

 では、どうあればいいか?

① 自分が何をなそうとするかを真剣に考える。

② にその結果として、それを実現するために、何が必要条件かの情報収集を事前にしっかりする。

③ その結果として、障害となることを解決するための手立てを考え、それの手立てを積み上げます。この段階で、いろいろな人と話し合います。当然、信頼できる人と話し合うでしょう。「そりゃ、あきらめろよ」という人もいますが、次善、三善の手立てを教えてくれる人がいます(いないとしたら、日ごろの行いが悪いということです)。

④ 時間がたつうちに、憤りや焦りが引き、次善、三善の手立てを行い、それをよりよい方策にすることを考え続けます。結果として、最初は0.9の博打を、0.999にして1.1にします。

 たいていの凡夫は、自分の力を信じられないので、博打はしません。でも、本当の能力のある人は、人から博打と思われることを、時間を変えて博打ではなく、必然にします。が、能力があるけど、上記をしない人は、博打をします。結果として、0.9は成功します。でも、それを繰り返せば、必ず失敗します。

13/08/05(月)

[]人からの脱皮 21:33 人からの脱皮 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 人からの脱皮 - 西川純のメモ 人からの脱皮 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 フォーラムでの石川さんとの対談の評価を主催者から頂いた。正直、ドキドキである。心優しい参加者は、色々な思いがあり匿名であっても心優しいコメントを書いてくれるであろうということは想定の範囲です。しかし、2割程度は、「おっさんのくだらん話を1時間半聞かせるのはなんだ!」という反応があってもしょうが無いと思いました。

 予想に反して概ね好意的な反応であり、大多数は高評価でした。

 不思議だな~・・・としばらく考えました。私なりの分析です。

 一つは、聞いていただいた方の多くはスタートブック、ステップアップ、ジャンプアップをお読みになったが、手引き書や学術書は読んでおられない方だと思います。従って、お読みになった本が理論に裏打ちされていることに感じられたのだと思うのです。

 もう一つ、そして、これが大きな部分を占めているのだと思うのですが、それは「おっさん」の昔話の中に、過去の自分を発見しているのだと思います。『学び合い』の根幹である「一人も見捨てない」という願いは、心ある教師の心の中にあります。しかし、精神衛生を保つためにも、それを心の奥底に封印しているのだと思います。私の思い出話の中に、その封印を解く道筋を直感されたのだと思うのです。

 しかし、上記のことが出来る同志の方は、日本中にかなり生まれています。つまり、『学び合い』の実践を理論的に語れる人、そして、「一人も見捨てない」という願いをリアルに持ちつつ、それを封印している人の気持ちを分かる人はかなりいます。ネットワークを育てて、私より優れた方と繋がって欲しいと願います。

 では、私に出来ること、そして、私にしか出来ないこと。それは、日本中の多くの人からは「馬鹿げたこと」、「学者の戯言」と思えることをリアルにイメージし、それを実現する道筋を見いだせることです。それこそが研究者の真骨頂です。五十三とは言え、その面では私は最前線にいると自負しています。が、これとても、もっと優秀な研究者の方々が引き継いでもらいたい。そうしたら、私の最終課題である、学習内容の精選にシフトできる。

 と妄想しました。

[]『学び合い』フォーラム 08:42 『学び合い』フォーラム - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 『学び合い』フォーラム - 西川純のメモ 『学び合い』フォーラム - 西川純のメモ のブックマークコメント

 8月3日、4日、福島で『学び合い』フォーラムに参加してきました。充実していました。充実しすぎて疲れてしまい、振り返りは今から書こうと思います。

 個人的には私と石川さんの対談は蛇足のように感じました。というのは、私個人の思い出を二百人の前で語るということが意味あることのようには感じませんし、なにより恥ずかしい。ゼミ生数人の前で話すのがお似合いです。しかし、石川さんとじっくりと話せたのは楽しかった。

 その後の分科会は良かった。私は個々の話は聞いていません。数百人の子どもが体育館で全校『学び合い』をしているのを参観しているように、集団の動きを見ていました。心地よかったです。

 関係する方々に心から感謝します。ありがとうございました。

[]科学 08:42 科学 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 科学 - 西川純のメモ 科学 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 理学部から教育の世界に入って違和感を感じるのは、教育研究、教育実践が「人」が出過ぎて科学たらざる所です。正直言って、反吐が出るほど違和感を持ちました(今は多少慣れましたが)。順不同で述べます。

1) 実践と学術(理論)が乖離している

教育実践が学術の裏打ちされていることがほぼ皆無です。例えば医学の臨床でやっていることは、最終的には学術研究の特定の論文につなげることが出来ます。新薬開発でも、新車開発でもそうです。な~んとなくそうだと思う、ということで新薬や新車を開発しようとすることはありません。

ところが、教育の世界では限られた個人的経験が法則と認められてしまう傾向があります。学術研究者も実践と関わると、そうなってしまう傾向があるように思います。例えば、山のようにある広義の意味での“学び合い”実践で、学術の裏打ちをされているのは『学び合い』と協同学習の二つぐらいだと言えると思います。それ以外は、理論書は存在しないし、その理論書の基礎となる学術データがありません。

上記と裏腹の関係ですが、学術が実践と乖離しているのです。戦前、また、戦後直後の時は、教育学部と附属学校との関係が密でした。その関係で、大学研究者の理論が学校現場で中長期で検証され、改良を加えられた研究が存在していました。それらは学術書としても優れたものでした。残念ながら、最近はその例が以前に比べて極端に減っています。

結果として、学術は実践の裏打ち無く暴走し、実践は学術の裏打ち無く暴走している。それが現状のように思います。

2) 人主義

教育の世界では限られた個人的経験が法則と認められてしまう傾向があるのは学術データよりも、誰がそれを言ったか、ということに信頼を置いているところがあるように思います。

例えば何かを議論しているとき、「○○先生はこうおっしゃった」、「○○先生はこう書かれている」という言葉が出るのが気持ち悪いのです。何で「○○先生」という名前を出さねばならないのでしょうか?せめて「○○先生」を除外した「○○という本にはこう書いてある」ならば良いと思います。本と個人は別です。例えば、私だって初期に書いた『学び合い』関係の本で書いた実践を、今の私は「足して2で割る『学び合い』」と言っています。

また、個人の人柄とその人の書いたことの混同が起こります。ノーベル賞を受賞した科学者の中には、性格破綻者として有名な人がいます。しかし、それを理由にその人の業績が云々されることはありません。

上記に準じることですが、権威者との関係が重要になる場合があります。つまり、○○先生の直系だからで、その人の判断が権威を持つことがあります。逆に権威者との関係が悪くなると、権威が無くなることがあります。ま、人と人との関係で成り立っている学会でも起こることですが、教育は極端のように思います。例えば量子力学の研究室の師弟で、師が弟子を破門したとき弟子が「本家量子力学」や「量親力学」の看板を立てることはあり得ません。量子力学の原理原則の中で雌雄を決せれば良いだけのことです。

 最近は少なくなりますが、「こんなことを言うと西川先生からは駄目だと言われるかもしれないけど」という言葉を聞くたびに、あ~身の不徳から出た錆だと身の細る思いです。それだったら、「『学び合い』の子ども観には反するかもしれないけど」のように言って欲しいなと思うのです。下手にブログにコメントすると「西川先生は自分と違うことを書くことを許さないんだ」と誤解されるのが嫌なので、入門段階を終えた方のブログには書き込みを控えているぐらいです。

 『学び合い』のネットワークは固定的な組織はありません。あくまで勝手連の生きた集合体です。ということで、だれかがだれか嫌ったとしても、それを封殺することは出来ません。判断するのは個人個人ですから。

 私は大人のルールを逸脱した場合は関係を絶つ場合はあります。私はその面で潔癖すぎるかもしれません。しかし、だからといってその人の「人」を対外的に否定しようとは思いません。ましてや自分の考えと違うからという理由で、その人との関係を絶つことはありません。だから、教職大学院の圧倒的大多数の『学び合い』でない方々と、仲良く、一緒に学生指導が出来るのです。

3) 議論不可能

 上記の結果として、健全な議論が出来ません。何しろ、相手が理論を明らかにせず、また、その理論の根拠となる学術データを明らかにしない段階で議論しても、不毛です。理論やデータが無いので、議論しても、根拠や前提が右に左にずれてしまい、ご本人もそれを自覚できないということが起こります。

 ということで、不毛な議論は出来るだけ避けて、理論と実践の往還を深め科学としての『学び合い』を構築したいと願っています。幸い、それを一緒にやってくれる実践者の数と多様性は日本の教育研究者の中でトップレベルだと思っています。あとは一緒にやってくれる学術研究者が増えてくれれば万全です。

追伸 ちなみに、『学び合い』に反対する人の中で、理論とその根拠となる学術データを示している人がいたら教えて下さい。勉強したいと思います。残念ながらまだ見いだせません。

daitouirukadaitouiruka2013/08/07 21:36フォーラムでは夜の懇親会、その後の会を含めていろいろとお話をさせていただいてありがとうございました。
以前から「科学としての『学び合い』」についてその方向性に共感させていただいているのですが、学術研究の素人なもので、その世界では基本的なことだと思うのですがお教えください。
ある個人の判断が無条件によしとされるようなものは「科学」としては論外だとしても、心理や教育の分野では、人間の心やその他のさまざまな条件がからまっていて特に物理の世界ほどの再現性は望めない(と思う)のですが、どの程度再現できれば「科学」となるのでしょうか?
どこまでも「より確からしい」状態に「近づける」ということからは脱することはできないように思うのですが、どのような状態になれば「科学的に証明された」と言えるのでしょうか。
それから、「考え方」が大切であるということもあり、「この条件下で」ということを示していても、本人がその「条件」でやっている「つもり」でも、実はそうじゃなかったということもよくあると思うのですが、その点は具体的に「対話」しながら個々の事例に対応していくということでしょうか。
個人的なメールでご質問しようかとも思ったのですが、『学び合い』をしている人に限らず、ここに訪れる人の何パーセントかの方にとっても知りたいことではないかと勝手に思ってここに書かせていただきました。

jun24kawajun24kawa2013/08/08 05:28科学とは何かを明らかにすることは科学哲学研究の主要なテーマです。それ自体が研究のテーマになっているということは、さまざまな立場があるということです。ということを認めた上で、一般的に認められている科学の要件は「反証可能性」と言われます。つまり、「実験や観察によって、それが間違っていると証明できる」か否かです。あの人が言っから、は信仰であり反証は不可能です。だから科学ではありません。
次に、「確からしさ」つまり蓋然性についてですが、イルカさんが指摘しているように人相手の研究の場合、物理学より蓋然性が低くなると思います。しかし、相対的に蓋然性を高める努力の営みが科学だと思います。
反証によってチェックされ、その反証の反証によってチェックされ・・・、その積み上げによって蓋然性は相対的に高まっていくのだと思います。

daitouirukadaitouiruka2013/08/08 18:41なるほど、やはり「蓋然性」をより高くしていくことなのですね。
そして、「反証可能性」ということで納得できました。
ありがとうございます。

13/08/04(日)

[]全部やっているのですか? 07:18 全部やっているのですか? - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 全部やっているのですか? - 西川純のメモ 全部やっているのですか? - 西川純のメモ のブックマークコメント

 よく聞かれることですが、「『学び合い』を実践している方は、全部『学び合い』でやっているのですか?」と聞かれることがあります。私は「人それぞれです。でも、『学び合い』が分かれば、その人が『学び合い』をやっていないと思っているときも『学び合い』をしています。例えば、子ども達集団が育ってくれば、長々説明しようとしても、子ども達が「もういいよ。早く任せてくれよ」というオーラを出します。教師の方も、それを感じることが出来るので、「もういい?いいの?じゃ、どうぞ」となってしまいます。」と説明します。

 しかし、もう少し、説明を加えた方が良いな、と思いました。

 『学び合い』を理解するには、職員室に置き換えるとわかりやすい。一般の授業における教師の立ち位置は、職員室における先輩教師の立ち位置と同じです。つまり、基本的に同じ仕事をしている。ただ、その仕事に熟達しているものと、初心者との違いです。質的な違いは無く、程度の問題なのです。例えば、深い教材理解、というのも程度の問題で質の違いではありません。

 『学び合い』における教師の立ち位置は、職員室における校長の立ち位置と同じです。つまり、基本的に別な仕事をしています。部屋も別です。教師は授業をやっており、校長は学校運営をやっています。程度の差では無く、質的に別な仕事をしているのです。

 例えば、校長の机が職員室にあって、若い教師の指導案とか教材作りのアドバイスを頻繁にしたら、どう思います。そんなことするぐらいだったら、外回りをちゃんとして、対外的な交渉を行い、予算を獲得し、自分たちの人事をやってほしいと思うでしょ。

 だから、『学び合い』で教師はどのように動くべきかを考えるとき、職員室における校長に置き換えると分かりやすいのです。

 校長にも色々です。細かく指示を与え、一つ一つホウレンソウを求める校長がいます。一方、達成するべきことが明確で、その意義を説得できて、職員集団を信じて任せ、細かいことは言わない校長がいます。簡単に、前者を一斉指導校長、後者を『学び合い』校長としましょう。前者は、基本的に先輩教師の立ち位置なのです。

 さて、最初の質問は「『学び合い』校長は、どんなときも『学び合い』校長なのですか?」という質問に置き換えられます。今までお仕えした校長を思い起こして下さい。純粋に一斉指導校長は少ないだろうし、純粋に『学び合い』校長は少ないと思います。程度の問題なのです。でも、純粋な『学び合い』校長に近づけば、近づくほど、職員集団は任せられていると信じるでしょう。逆に、純粋な一斉指導校長に近づけば、自分たちでものを考えず、指示待ちになるでしょう。だから、職員集団の力を引き出そうとすれば、純粋な『学び合い』校長に近づいた方が、効率が良いのです。

 とわいうものの、校長はリスク管理をしなければなりません。自分なりに、どこは任せて、どこは任せられないというものがあって当然です。ただ、その場合は、それを明確にすることが大事です。そうでなければ、管下の職員がどのように動いて良いか混乱するからです。そのためには明文化し、管下の職員(つまり子ども達)に公開し、自らもそれに縛られる必要があります。

 西川ゼミは、完全無欠に『学び合い』で運営され、一般には信じられないほどの自治が与えられています。しかし、例外はあります。そして、それは明文化しています。http://p.tl/1GKJ

これは小学校1年の担任であっても必要なことだと私は確信しています。

13/08/02(金)

[]広がる 21:40 広がる - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 広がる - 西川純のメモ 広がる - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』の会には教員以外の企業の方が来られます。上越にも時間を金を費やしても学びに来る方がいらっしゃいます。ありがたいことです。

 私が教員養成系大学の教員ですし、現在、『学び合い』を担っている人の多くが教育関係ですので、『学び合い』は教育関係だと誤解されます。本当は、集団を管理するゴールデンルールだと確信しています。

 本日、私のガイドラインを満たすレベルのお金を払っても講演会に呼びたいとのお申し出を経営団体からいただきました。『学び合い』の普遍性を認めていただいたと思い、嬉しく思いました。

[]コレクション 20:57 コレクション - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - コレクション - 西川純のメモ コレクション - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私のコレクションは両手招き猫です(http://p.tl/oJDW)。すでに数百万円は費やしているものです。私の研究室には本は殆どありませんが、両手招き猫はいっぱいあります。ま、他の人には二束三文としか思えないものですが。

 最近、といいましても、ここ数年続けているコレクションがあります。それはブックオフの100円文庫です。

 私も53歳です。老後を考え始める時期です。私の考える老後は、自分の好きだった本、それも純粋無垢に娯楽のための本をゆっくり読むことです。そのためにやり始めたのは、昔読んで良かった本をブックオフの100円コーナーで探すことです。とりあえずは、大好きだった作家の本を集めています。買ってきては、裁断し、pdfにしています。

 ブックオフにいってもなかなか見つからない本があります。それを出張ごとに、その地域のフックオフに言って見つけるのです。これがなかなか楽しい。大人買いしても数千円で収まります。

明日のフォーラムのために、今日、仙台に入りしました。近くの店で大人買いをしました。明日は福島です。福島駅の近くで漁りたいと思います。

追伸 老後は引きこもりになりたい。そこで、じっくり浸りたい。その準備です。

13/08/01(木)

[]方法から考え 21:40 方法から考え - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 方法から考え - 西川純のメモ 方法から考え - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』の最初はだれしも方法からです。それは昔から同じです。でも、その中でその人の「願い」を強く感じる場合もあります。つまり、「よい授業とな何か?」ではなく、「教え子を全員幸せにしたい」という比率の相対値なのです。両者は究極においては一致するのですが、途中過程は違います。そして、途中過程が違うと、最終的な姿が違うのです。

もし、「教え子を全員幸せにしたい」と願うならば、それが出来ない教師も巻き込むことが必然です。なぜならば、自分の教え子を来年託す教師が自分のとは違う人なのです。だから、自分と違う人に寛容になれます。折り合うのです。それを実現するには個では無く、集団に目を向けるしかありません。

私の高校の教え子の保護者(?)の中には鬼畜のような人もいました。でも、救えなかった。自己合理化しました。でも、納得できなかった。でも、子を持てば、若造の教師である私には鬼畜と思える人も、その人自身が救われるべき人であることは分かります。その鬼畜と思える保護者を救わなければならないのです。そのトラウマがある、だから授業ばかりではなく、学校を考えるし、地域を考えることになります。

第1回フォーラムの時には同志と言える人は、ゼミ生と少数人数でした。本はそれなりに売れましたが、『学び合い』は「面白い」というレベルです。数ある授業方法の一つであり、一つに飽きれば、一つに移るレベルの人です。たしかに方法レベルであれば、それもアリだと思います。でも、『学び合い』の本当の根幹は「教え子を全員幸せにしたい」です。そのためには、教師も社会も幸せにしなければならない。それを実現するには学校観、子ども観が唯一の道だと確信しています。

巡り巡ってフォーラムは9回目になりました。つまり最初のフォーラムから8年たったのです。徐々に、本当に願いを共有してくれる同志が増えました。もちろん、置かれた環境でどこまで出来るかは違います。私だって教職大学院の中で出来ることと、出来ないことがあります。でも、『学び合い』の願いの行き着く先に光を感じ、自分の出来ることをやっている同志が8年前には想像できないほど増えました。ありがたいことです。そして、授業レベルの実績から、学校レベルの願いを持つ人の割合が増えてきています。それは、上越に参観に来る校長レベルの人の数でハッキリ現れています。

一人で立っていくのは誰しも辛いことです。仲間を見いだし、生みだし、それによって自らを幸せにしましょう。それが学校観です。それによって、自分も含めて一人も見捨てられない道です。

[]化学反応 19:46 化学反応 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 化学反応 - 西川純のメモ 化学反応 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は日本中の『学び合い』の同志と繋がっており、直に合って仕事をした人がいます。本当に全国には色々な人がいます。その中で、「この人があの人と繋がると面白いだろうな」と思うことがあります。私にメールで相談している人とメールのやりとりをしている中で、「これだったら、あの人と話せば分かって貰えるのに」と思うことがあります。

 『学び合い』で子どもを見ていると、人間は関係の生物であることがよく分かります。まるで化学実験をしているようです。

 『学び合い』フォーラムが8月3日と4日に福島であります(http://manabiai.jimdo.com/)。そこでどんな化学反応が生まれるか楽しみです。

[]千葉の会 06:23 千葉の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 千葉の会 - 西川純のメモ 千葉の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 9月7日の『学び合い』千葉の会の詳細です。お誘いします。

9月7日(土曜日)『学び合い』千葉の会を開催します。

http://kokucheese.com/event/index/105598/

https://twitter.com/1hjm/status/362561311973974018

https://www.facebook.com/groups/234721476575394/permalink/531382546909284/