西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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13/02/25(月)

[]学校観 06:04 学校観 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学校観 - 西川純のメモ 学校観 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 子ども観を乗り越えたならば、次は学校観を乗り越えなければなりません。これを乗り越えないと、課題設定でぶれたり、課題が出来ない子どもにオロオロしたりしてしまいます。

 最初に理解して欲しいのは、教師がどんなに考えても、全員にフィットする課題なんてあり得ないと言うことです。例えば、2桁の足し算、大化の改新、方丈記、どんな単元でも結構です、その日の課題を思い浮かべて下さい。そして、クラスの子どもの顔を浮かべて下さい。どう考えても、一人一人、与えた課題を別な課題に解釈しているはずです。成績で輪切りにしているはずの高校ですら、入学後、あっという間に能力の多様性が発生します。

 だから、「良い課題は何か?」と悩んだならば、「誰にとって?」と考えて下さい。そして、先のように一人一人の顔を思い浮かべたならば、「そんなのあるわけ無い」ということが分かります。

 では、我々が課題を考える際にどのように考えたら良いか?

 まず長期スパンで課題を考えるべきです。それは教育基本法第1条の人格の完成です。しかし、人格の完成といっても分かったようで、分からないですよね。それで今までの教育は済ませていました。だから教育基本法第1条をお題目と考え、日々の課題に繋げていなかったのです。

 『学び合い』の学校観では、「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決すること」が人格の完成だとしています。短い言葉ですが、大事です。「多様な人」というのは暴力行為を繰り返す人、暴言で人を傷つける人、知的な能力に障害のある人、とにかく、みんななのです。折り合いを付ける、とは、仲良くなると言うことではないと言うことです。腹の中で嫌いでも良いのです。大人のつきあいを出来るということです。自らの課題を解決するとは、多様な人と折り合いを付けるのは、道徳的なものではなく、実利的なものであるということです。

 この『学び合い』の学校観を理解できれば、数学の陶冶価値を「抽象的概念の理解」等とは捉えずに、「能力差が激しい課題を折り合いを付けて自らの課題を解決することを学ぶ」と捉えることが出来ます。もちろん、多くの子どもは「抽象的概念の理解」を結果的に解決することが出来るでしょう。でも、それは数学をツールとして使っているからとしての結果です。大事なのは「能力差が激しい課題を折り合いを付けて自らの課題を解決することを学ぶ」ということです。

 何故、このようなレベルで課題を考えるべきなのでしょうか?それは、『学び合い』の集団の動かす子どもが、それを基に自分自身の課題を組み立てることが出来るからです。自分自身の課題、つまり、自分自身の利害に一致させることが出来るので、『学び合い』を推進する気になるのです。結果として、それに準じる子ども集団も、それなりに自分自身の利害に一致させることが出来ます。

 バス旅行の際、手元の本を読み出すと酔ってしまいます。バスの揺れに絶えず、視線を合わせなければならないからです。その場合は、遠くを見るべきです。そうすれば、バスの揺れは誤差になってしまいます。

 教師の思い込みで、課題に凝り始めると、自分自身の利害に一致させることが困難になります。よく使う例ですが、お米はチャーハンにもおかゆにも出来ます。しかし、一度、チャーハンにしたらお粥にすることは出来ないのです。だから、日々の課題はとてつもなくシンプルなもので良いのです。基本的に学習指導要領の原文で良いのです。

 ちなみに、学習指導要領のない大学・大学院である我がゼミの目標は、「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、一人も見捨てない教育・社会を実現する」です。この目標の下、一人一人が自らの課題を設定しています。

 教師も子どもも、遠くを見て、それを基に近くを見ましょう。『学び合い』の学校観は短いが、深い意味を持っています。けっしてお題目ではありません。

追伸 つまり、お題目のように見えて、お題目でないことを説明でき、子ども達にそれを実感させる様々な場を提供できるかどうかが教師の職能ということになります。