西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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11/09/23(金)

[]説明能力 22:26 説明能力 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 説明能力 - 西川純のメモ 説明能力 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、ゼミ生より説明能力の評価方法について聞かれましたので応えました。大事なことなので、ここにメモります。なお、以下で書くことは、コミュニケーション能力や、はては教師の授業能力にも同じことが言えます。

 最近は教育においてもコミュニケーションが大流行です。その結果、各学校で説明能力の育成を目指した試みがなされています。その方向性は正しいのですが、何を説明能力と捉えるかは多種多様です。

 一般に説明能力を評価する場合、一定の話形が話せているかいないかを評価します。例えば、「私は○○だと思います。理由は○○だからです」のような話形です。しかし、それが本当に説明力に関わっているという根拠はありません。また、声の大きさで評価します。でも、本当にそれが説明力に関わっているという根拠はありません。

 研究者として断言します。説明力に関して、どのような構造になっているかを学術的に明らかにした研究はありません。少なくとも、あるジャンルの研究者の多くが同意するような構造はありません。ま、あるわけありません。なぜなら説明とはそんな単純なものではないからです。

 例えば、ある研究者が実験的な条件でAと非Aの二群に分けて、Aが説明力に関係すると明らかにしたとします。別な研究者が同様な方法で、Bが説明力に関係すると明らかにしたとします。ところがAとBがともに成り立つと、A単独、B単独より関係するという子は自明ではありません。交互作用というものですが、A単独、B単独で関係するとても、AとBが重なると関係しないと言うことは良くあることなのです。

 考えてみて下さい。実際の説明の場合、たいていの場合は互いに知っている相手です。互いに見知らぬ相手に説明しなければならないという状況は実生活ではあまり無いはずです。となれば説明する相手のことを理解した上で説明します。例えば、相手はあることの理由に関して自明であればそれを省略するのは当然です。それを「私は○○だと思います。理由は○○だからです」という話形に囚われて、自明のことを繰り返さねばならないとしたらとても変な説明です。言うまでもなく数学者や自然科学者の学問上の説明でも同じです。解析学の論文が集合論やイプシロンデルタ論法まで遡って説明しなければならないとしたら、とてつもなく長々した説明になります。

 では、どうするべきなのか?それは過程ではなく結果を基準とすべきなのです。説明というものには達成すべき目的があります。例えば、「ある問題が解けるようになる」、「ある意見に同意するようになる」等のように、「ある行動変容が持続的になる」という目的があります。従って、説明の評価は、説明される側に、その行動変容が持続的に成り立っているか否かで評価すべきなのです。当たり前でしょ?

 さて、ここから先は『学び合い』を実践している方でないと分かりづらいかもしれません。

 説明には、「ある行動変容が持続的になる」の他にもう一つの意味があります。それは、相手に好意を持ってもらうという意味です。実生活を思い起こせば自明だと思います。相手に説明できたとしても、嫌われたら元も子もありません。従って、相手が説明した側の説明、または説明した人自体の好悪も評価すべきです。

 説明能力の評価の多くの場合、説明する側の評価のみがなされます。が、実は説明される側の能力も大事です。例えば、自分の分からない理由、納得できない理由を説明者に説明することが大事なのです。そして、説明者と同様に嫌われたらば元も子もありません。

 また、実生活を考えれば、ジャンルごとに適切な説明される相手、適切な説明する相手を選べる能力も必要です。そして、そもそも選択できるだけの多様な相手を持てるか否かが重要なのです。

 そして、『学び合い』を実践している方でないとかなり理解困難だと思いますが、実際の説明において、説明する人と、説明される人は固定していません。残念ながら多くの教育関係者は、成績の高い人が成績の低い人に教えるという固定的な関係を想定しています。が、実際は違います。

 ということで、残念ながら教育の世界で多く行われている説明能力の評価は的外れのようにしか思えません。

 が、もっとも重大な問題点は、それを評価している職員集団の中で「説明能力」とは何かという合意が曖昧だと言うことです。これではどうしようもありません。職員一人一人が曖昧な「説明能力」をもち、それが状況によってぶれます。そして、職員間でぶれ方が違うのです。これでは別々な言葉で会話しているのですから、そこから生み出されるものは実りが少ないのは当然です。

 ではどうするか?先に長々書いた、私から見ると的外れな説明能力の評価法であっても良いですから、職員同士で合意形成を計るべきです。合意形成のための話し合いをすれば、自分たちが育成しようとしている説明能力とは、そんな単純なものではないことが明らかになると思います。