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10/08/17(火)
■ [大事なこと]優先順位

以下に書いたことを前提において、それとは別の次元の話をします。
以前からどうしてそれを教えるのかわかないものの代表として、書き順と古語があります。何度も書いているように、それに教育的価値がないと言っているのではなく、相対的に小さいのではないか?と思っています。
国語の時間は有限です。古典文法に時間を割くより、その現代語版をたくさん読む方が価値があると思います。書き順も、その価値はあるとはありますが、相対的に小さくなります。ちなみに、私はペンや鉛筆で書く機会は殆どありません。おそらく、この傾向は強くなるでしょう。学校のノートも、パソコンに取って代わられるのは、そう遠くない時代だと思います。ちなみに、上越教育大学は数年前からノートパソコンを前提とした授業を行っています。「鉛筆で書くべきだ」という論理は、「心を静めて墨をすり、毛筆で字を書くべきだ」と同じような運命になるでしょう。現在の小学校では、書き順に多くのエネルギーを費やしています。そんなことに時間を費やすより、より多くの漢字の意味を学ぶべきだと思うのです。例えば、褒める、誉める、賞めるのように、似たような音で、意味が微妙に違う言葉を、漢字を使えば分けることが出来ます。こっちに時間を費やす方が良いと思うのです。
以上のように、国語の素人は思うのです。
是非、古典文法や書き順を学ぶことは、国語の他の勉強を削っても学ぶべきなのかを教えてほしいと思います。この二つは、微妙な差ではない、大きな差があります。ちなみに、これは国語ばかりではありません。私は「仮定法過去完了」の文章を、大学、大学院でも出会ったことがありませんし、大学人としても出会ったことがありません。
追伸 突っ込まれる前に書きますが、言葉のリズムや音の美しさがあります。が、古典の授業で、その美しさを伝えている人がどれほどいるでしょうか?極端なのは漢文です。四声で漢詩を読める教師がどれほどいるのかな~?
追伸2 一流の専門家は、専門的な内容を平易な言葉に代えることが出来ます。専門的な内容を専門的に語るのでしたら、大学の学部生でも出来ます。
私も国語の研究会に所属しているものの端くれとして,ここ数日の国語をめぐるやりとりに対して,コメントさせてください。
今回の学習指導要領から,小学校でも「伝統的な言語文化に関する事項」として,古典が扱われるようになりました。
そこでは,例えば小学校中学年なら「情景を思い浮かべたり,リズムを感じ取りながら音読や暗唱をすること」,高学年は「内容の大体を知り,音読すること」,中学1年なら「古典特有のリズムを味わいながら,古典の世界に触れること」,中学3年でも「古典を読み,その世界に親しむこと」とあり,一貫して古典に親しむことを重点に挙げています。
西川先生がおっしゃる通り「言葉のリズムや音の美しさ」は,古典に親しむ上で重要な観点であり,「音読」や「リズム」というキーワードが繰り返し使われていることからも分かります。
つまり指導要領では,西川先生が「伝えている人がどれほどいるでしょうか?」と指摘されていることを指導するよう求めているのです。
ちなみに筆順については,書写の指導事項の小学校低学年に「筆順に従って文字を正しく書くこと」とあります。ただ,それ以外の指導事項にも結果的に正しい筆順でなければできないものが多くあります。ただ,優先順位の上位にあるのかと問われれば,意見が分かれるところだと思います。
詳しくは,小学校学習指導要領解説国語編のP136・137に,一覧表にまとめられていますのでご覧下さい。
(またしても長文失礼いたしました)
古典(や筆順)を指導事項として学習指導要領に位置づけられているのは,教育基本法の第二条(教育の目標)の五「伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」を受けているからだと考えられます。
学校教育法にも第二一条(義務教育の目標)に「3.我が国と郷土の現状と歴史について,正しい理解に導き,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに,・・・。」とあります。
いずれも,平成18年・19年の改正時に新たに付け加えられたものです。
それを受けた今回の学習指導要領改訂ですので,古典(や筆順)を学ぶ意味や目的として捉えてよいと思います。
上記のような素人にも分かる説明だと、議論が出来ます。
同じベースにたって、軽重は学校教育全体の中で議論する。
それが生産的だと思います。
感謝。
なるほど、シンプルで、改めて読んでみればなかなか美しい言葉でもあると思います。
では、さて、これからこれ(養うこと)を、どのように具現化させていきましょうか。
あまねく、全ての人々に・・・。(さあ、大変だー!)
トリックスターとかとも言いますよね、それって。
(いいえ、独り言です、これは)
鉛筆などで、左と右という字を書いたとき、たぶん筆順が違っても違いはみつけられないと思います。ところが、毛筆で左と右を正しい筆順で書いたとき、字形が変わってきてしまうのです。
ただ、西川先生が、筆順をこまかく学習する時間があるのなら、他の勉強をしたほうがいいのではないか、というご指摘にも納得するのです。
私の考えからすると、効率的に整った字を書くための原則的な筆順のルールは、ある程度教えることが大事だと思います。そういう内容を学ぶのは、よい。ただし、漢字が出てくるたびに、一つ一つ筆順を教えることまでは、しなくてよい。というのが、私の筆順学習に対するコンセプトになります。
ただし、ぜひともお願いしたいのは、とにかく丁寧に文字が書けるように子どもを指導していただければありがたいということです。
ついでに、漢字の学習ですが、これも一つ一つ丁寧にバラバラに漢字をたくさん学習させるのではなく、漢字のシステムを学習させるような漢字の学習をさせたいと思います。そういう視点で、漢字を小中とつみあげて学習できるような教科書だとよいと思います。私の感覚では、学年別漢字配当表が、果たしてそういう漢字のシステムを学びやすいように漢字が配当されていないのではないかと思うのです。しかし、そういう視点で漢字を子どもたちに学ばせようという試みもたぶん現場では実践され、成果を挙げていると思うのですが、そのよさを文科省がどれだけ学習指導要領に吸収しようとしているのか、疑問です。
小学校・中学校と漢字を学習してきて、ただ漢字をたくさん覚えてきたと感じている子どもたちがほとんどではないかと思います。それは、漢字のシステムをどのように学ばせるのかという国語の教科書教材の質も量も整っていないところからくると私は思います。
「字を正しく覚えて、速く書く」は、繰り返し書いて漢字を覚える、ということです。どんな書き順であろうと、毎回書き順が同じであれば、手が勝手に動いて字を書けるようになります。でも、書き順を決めていなければ、一度漢字の全体像をイメージして、どこから書くかを決めて一本ずつ書いていくので、余計な手間が増えます。また、隹・寒・華のように、手が覚えていないと横棒を何本書くのかイメージの記憶だけでは正しく書くのが大変なものもあります。長文を書くときにはずいぶんと時間のロスになります。
「字を読んでもらいやすくする・読みやすくする」というのは、漢字からひらがなが生まれた課程によく似ています。「安」という漢字は、みんなが同じ書き順で書いていたから、略して書かれても「あ」という形になって、みんなが読むことができ、ひらがなになりました。でも、書き順が違っていたら、ちょっといい加減に書いた字は人によって違う形になり、なんと書いているか読むことができなくなってしまいます。現に、算数では「5」の書き順が違うために「3」と読むことができてしまい、×をもらう子が出ています。ひらがなでも書き順が違う「や」は「か」にそっくりになり、読みづらいです。
小学校で指導する書き順は、いくつもある一般的な書き順のひとつに過ぎませんから、文字がきれいに書ける書き順であればどんな書き順でもかまわないと思いますが、どの子も同じ書き順にすることで、文字による伝達がよりスムーズになると思います。
戸籍係をしていると正字、俗字、誤字など、学校では習ったことがないようなことがでてきました。(現代史などに少しはでてきたのかもしれませんが)
関心をもった私は図書館で勉強し、そして自分たちが使っている今の漢字が、本来のものとは違って、戦後の占領政策のもとでつくられた簡略文字であることを知りました。
これは、連綿と続いてきたわが国の国語文化の、占領政策的な断裂であり、その事実を学校で習うこともなく、現代の我々は自国語に対する宙ぶらりん感覚を持ちながら生き続けているわけです。
学校の国語ではきちんとその辺りのことも教えるべきです・・・。
・・・と、その当時は本気で思っていましたし、今で思っていますが、でも、そんなこと言っていてもしょうがありません。
アレをすべき、是をすべきなんて言ったって際限はないですし、、たとえば「渡辺」と「渡邊」があったりしてなぜだろうとか、そんな疑問がどんどん口に出せて、その疑問を解いていこうという状況であれば(「状況であれば」です)まあ、書順も、そのうちのひとつになるのではないでしょうか?
(これで議論に噛み合ってるのかなあ、私?)
へー、そうなんですか。これも知りませんでした。びっくりしました。
ああ、これなんだなあ。なかなか分かってもらえないのは。というか、自覚していなかったりもするんだものなあ。子どもたちだって、ともすれば、苦痛に耐えうる?適合をしちゃったりもしているかもなあ。
音楽でリコーダーをやることも、体育でとび箱をやることも、どうなんだろう?
法を具現化するのが行政の務めですね。
Hideki55さん、みっぴさんへ
『学び合い』的な発想だと、「丁寧に文字を書く」ということが意味があるということをどのように説明するかです。そして、集団の文化にするということです。おそらく、人に伝えるということで説明すべきですが、現状の国語では無理ですね。現状の国語はコミュニケーションの捨てていますから。
Ghgalさんへ
みんな同じです。嫌う人はいます。それもとても嫌うのです。
「そればかりに時間を割く必要はない。」ということだったのですね。私も同意見です。