西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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10/08/14(土)

[]信じられない 17:35 信じられない - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 信じられない - 西川純のメモ 信じられない - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「一人も見捨てない」を私は本気で信じている。少なくとも、絶対にそれを目指すべきだし、おそらく殆どの場合は実現できると信じている。でも、それは多くの教師には信じられない。一昨日の講演・対談を聞いた多くの先生方もそうだろう。でも、私もそうです。 私が高校教師だったとき、「しょうがない」と思っていました。そうでなければ生きていけなかった。そして、研究者になってから十年間は、教師の願いを封印して学術論文を書きまくりました。でも、どこまで研究しても心は癒されなかった。

 2割の子どもが分からなくてもしょうがない、と思う教師はいるでしょう。ある方がおっしゃっていました。昔の田舎の学校はそうかもしれません。学校で分からなくても、そのコミュニティーの中で幸せに生きることが出来ました。でも、現在の日本にそのような環境はどれだけあるでしょうか。さらに、かつての私の置かれた環境は、その環境とは違っていました。私の勤めた高校の子どもの半数以上は純粋無垢のオール1で、暴走族や暴走族OBがうじゃうじゃいる学校です。そこで私は物理などを教えていました。その学校では、私が学校で切り捨てたとたん、その子は奈落の世界に落ちるのです。私が担任した子どもが学校を退学して、2ヶ月後に再会したとき、彼はやくざの下っ端になっていました。隣のクラスでは、退学して数日後に窃盗で逮捕されました。毎日、毎日、一升の酒を飲み馬鹿野郎、馬鹿野郎と言っていました。そうでもしないと眠れないのです。それが私の教師としての原体験です。

 だから、研究者になっても教室を見ると視線は、そのような子の予備軍を見いだしてしまうのです。でも、教師になって、担任を持って直ぐに「しょうがない」という心の鎧をまとうようになりました。そして、それは研究者になってからもです。

 研究者になって、なんとか少しでも分からせたいと願いました。でも、無理でした。そして「しょうがない」と思うのです。でも、『学び合い』を深めるに従って、「これだったら全員が分かるのではないか?」という気持ちが起こりました。そして、実践の場でそれを実証するデータを数多く生み出しました。さらに、最初は「分かる」だけだったのが、それが全人的な成長と幸せを確実にすることが分かりました。そして、特別支援の必要な子、家庭的に問題の多い子など、「しょうがない」と思われる子も、「わかり」、「幸せになる」ことが分かりました。そして、その中で「一人も見捨てたくない」という願いの封印を解き始めたのです。

 教師になって、1年で「一人も見捨てたくない」という願いを封印し、それから十年間封印し続けたのです。そして、15年間かけて封印を解き放したのです。多くの先生方が、私の話を聞いたり、書いているものを読んだりしでも信じられないのは当然です。私だって十数年かけたのですから。でも、今の現職の先生方だった、私よりも短い時間で分かります。すでに十数年かけて『学び合い』は洗練され、多くの事例を積み上げています。今だったら、「やれば」3ヶ月以内に、「一人も見捨てない」がリアルな射程圏内に入ると思います。もんだいは「やる」と決意することです。これは理屈ではないのです。みんなで実績を積み上げるしかありません。

 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080717/1216284624

追伸 最底辺の学校で物理を教えるのですから、生半可では出来ません。凝った教材、落語のような話術、青春ドラマのような個に沿った人間関係、それをマシンガンのように繰り出していました。今でも、やろうと思えば、かなりのレベルだと自負しています。が、それをやっても限界があることを知っています。全員が分かった気持ちにさせることは出来ます。でも、全員を本当に分からせることは出来ません。教師の前では良いクラスをつくることも可能です。でも、教師の見えないところでどろどろしたものがあることを知っています。そして、少なからずの教師は、それに気づいています。でも、「しょうがない」と考えざるを得ないのです。

i-Kawa-nakajimai-Kawa-nakajima2010/08/14 17:58山梨ではお世話になりました。新潟からの強行軍にもかかわらず、本当にうれしかったです。中学校の友人は学校の研修でセミナーで学んだことを発表するそうです。その打ち合わせをしています。

最近の日記を読んで、『学び合い』というよりこの考え方は『一人も見捨てない』といったほうがいいと感じています。『学び合い』はどうしても形を現す言葉です。だから、最近「『学び合い』の考え方」と必ずつけます。そしてその次に『目の前にいる子ども全員が伸びる、幸せになるための考え方』と付け加えます。くどくてもそうしたいと強く思うからです。この考えと『学び合い』は、もし『学び合い』という言葉を使うのなら切り離せないものだと思います。「少しくらい(2枠くらい)の分からない子どもがいても仕方ない」「他の授業でフォローするから」「活躍する場が違うから」「みんなちがってみんないい」なんて言い訳しながら現状に甘んじていていいのだろうか?わが子がその2割だとしたら。その2割の子どもの親に説明できるだろうか?この考え方なら全員が幸せになりそうだ!ということを訴えて、振り向かないのはどうしてだろう?やっぱり多くの先生方は8割も分かればすごい授業と思っているのだろうか?おおむねの子どもが理解できる授業を目指しているのだろうか?ちょっと熱くなってしまっています。
長々とごめんなさい。

jun24kawajun24kawa2010/08/14 20:50どんな表現でも誤解は生じます。
ようは『学び合い』を理解できる人を増やすことですよ。あははは

i-Kawa-nakajimai-Kawa-nakajima2010/08/14 23:37そうですね!そのためにできることをやっていきます!