西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
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本格的にトライする人も多くいると思います。その際、人とのつながりが大事です。身近にいる人と繋がれるとありがたいですよね。『学び合い』を実践される方は、『学び合い』マップ(https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zDInXkSSxyO4.kNDji5uDNm0Y)に、是非、登録下さい。登録は、『学び合い』マップ登録フォーム(http://form1.fc2.com/form/?id=77081b4d4f40dd2f)から出来ます。  「私なんて、人になんか教えられるレベルに行っていない」と思う方へ。だからいいんですよ。一番知っている人が、一番の教え手ではないことは『学び合い』を実践しているならば、子どもを見れば分かるでしょ。それに、教える必要はないのです。共に学び合えばいいのです。いや、愚痴を言ったり、笑ったりする、それでいいのです。  是非、一人でも多くの人がマップに登録下さい。強く、強く、お誘いします。

09/09/30(水)

[]巨視的に 22:38 巨視的に - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 巨視的に - 西川純のメモ 巨視的に - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は仕事は早いです。理由はいくつもあります。その理由の一つは仕事を平行していくつもこなしています。一つの仕事に集中すると、動かなくなるときがあります。でも、それに集中しても悪化することが多いです。囲碁で劣勢な局面を立て直そうと石を打つより、別な局面に移動するのが得策です。

 イライラすることも多い。でも、ミクロな局面を離れ、広い立場で見ると、そう悪くありません。さらに広い立場に立つと、かなりいいです。これも、いくつもの仕事を平行しており、その仕事は異質で、異次元であるからだと思います。それによって大局観を見失わないでいられます。

 が、目前の問題に頭がいっぱいになるのは当然です。愛する教え子、尊敬すべき同志が苦しんでいると頭がいっぱいになってしまいます。でも、異質な仕事を平行し、前に進みましょう。方向が間違っていなければ、必ず巨視的には前に進んでいます。

motoryoumotoryou2009/09/30 23:18自らのこととして読ましていただきました。

twoyoshitwoyoshi2009/10/01 00:14ようやくそれが実感として感じられるようになりました。

jun24kawajun24kawa2009/10/01 07:26結果を出しましょう!同志!

09/09/29(火)

[]魔法の言葉 22:17 魔法の言葉 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 魔法の言葉 - 西川純のメモ 魔法の言葉 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 全国の同志も辛いことがあるでしょうね。私も辛いことがあります。でも、私には魔法の言葉があります。それは、「家族仲良く、健康で」です。これを唱え、家族と一緒にご飯を食べて、寝れば立ち直れます。

 私の家族の基本は息子と家内です。でも、それでクローズしていません。同志の中には、肉親以外ではあるが、その人の幸せを願える人がいるはずです。私の大好きなオフコースの一節に「君を愛する人を守りたまえ」という言葉があります。その人の幸せを願うだけではなく、その人の幸せを願う人の幸せを願える人、それが家族です。

 全国の同志の方へ

 上記の意味で、「家族仲良く、健康で」と唱えて下さい。そして、その家族の健康な笑顔を思い浮かべて下さい。幸せになるはずです。今自分が悩んでいること、大抵は、1ヶ月以内には解決するか、どうでも良くなります。最悪でも1年間の悩みです。そうであれば、家族の健康な笑顔と比べれば「ちんけ」なものです。

 もし、そのような家族を持たない人がいたならば、それを持つように努力しましょう。それは、まずは身近な人に誠実であることです。いたわりの気持ちを持ちましょう。そうすれば道が開けます。何度も唱えて、健康な笑顔を思い浮かべて、心やすく眠りましょう。

 ただし、教師の方に重要なポイントがあります。自分の教え子に家族を求めてはいけません。教え子が求めているのは、家族ではなく、教師です。もし、教え子が教師に家族を求めたら不健全です。大抵は依怙贔屓に繋がります。距離を保つことが大事です。

 我が教え子は可愛いもの。私の場合は三十後半の教え子も(五十代の教え子も)可愛くてしょうがありません。でも、我慢しているんです。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20020311/1173061111

ybhdv7ybhdv72009/09/29 23:06了解しました!
しんどいこともありますが、先生のブログを読むと原点に戻ることができます。ありがとうございます!

jun24kawajun24kawa2009/09/30 06:57君の課題は「小指」だよ
ふぉふぉふぉ
そっちも期待しています。

09/09/28(月)

[]楽学カフェ 22:34 楽学カフェ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 楽学カフェ - 西川純のメモ 楽学カフェ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 10月10日に体験型の会が埼玉であります。

 http://d.hatena.ne.jp/kaisaki37/20090928/1254087474

[]いいこと 22:26 いいこと - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - いいこと - 西川純のメモ いいこと - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私との関係のほとんど無い人、更には一度も合ってもいない人から嫌われるということは相当に辛いことです。でも、しようがありません。革命をしているのですから。でも、私はその人を嫌っているわけではなく、その人も幸せであることを願っています。それは単純な博愛論ではなく、その方が自分に有利であると考えるのが『学び合い』ですから。

 我々の同志が今の十倍になれば、状況は変わると思います。非民主的に潰そうとはせずに、対話と折り合いをつけて関わり始めるでしょう。誤解を受けても、別な人が説明してくれます。

 現在、『学び合い』が受けている誤解には、ちゃんとした説明をすることが出来ます。否定する前に、ちゃんと調べて欲しいと願います。でも、同志でさえも、無料の手引き書(完全版)を読むのは難儀だと言うのですから(笑い)。でも、同志の悩みの9割以上は、ちゃんとそこに書いているのに。まあ、ホモサピエンスは耳学問が好きだから、『学び合い』なのです。やはり人を増やさねば。そう分かっていても、辛いものです。

 最近、色々と嫌のことがあった。でも、本日は良いことがいくつかあった。こういう事があると、静かに眠れる。

追伸 私は出演者全員が本質的に善人で、その人達がいっしょになって幸せになるという映画が大好きです。私の目と耳に入るもの、全てがそうであったら良いな~っと無理なことを考えます。だから、退職後は家の中に引きこもって、家族とだけしか関わらない生活をしたいと思っているのです。『学び合い』は社会生活をするためのホモサピエンスの基本戦略ですが、ホモサピエンスのエゴの本質は引きこもりだと思っています。

[]大阪の会 06:44 大阪の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 大阪の会 - 西川純のメモ 大阪の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 11月下旬に大阪の会が開かれます。9月までに申し込まれた方は安くなるそうです。お誘いします。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/kogapon7/20090927

kogapon7kogapon72009/09/28 21:48西川先生、ブログに紹介していただいてありがとうございます。
今までにない形ですので、どんな会になるのか楽しみなのと不安なのとが8:2くらいです。

皆様、もし予定が空いていればぜひご参加ください!

jun24kawajun24kawa2009/09/28 22:27私はもの凄く、楽しめると期待しています!

motoryoumotoryou2009/09/29 06:49なぜか??メールが使えません…。ここでしか伝えられないので…。

jun24kawajun24kawa2009/09/29 06:55え!?
使えないって、motoryouさんのコンピュータがメールを使えない状態?それとも送ってもはじかれるの?

motoryoumotoryou2009/09/29 07:06急にログオンできないとかってことになっています。

09/09/27(日)

[]公開ゼミ 17:28 公開ゼミ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 公開ゼミ - 西川純のメモ 公開ゼミ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 twoyoshiさんのメモをもとに公開ゼミをしたいと思います。

 まず、http://manabiai.g.hatena.ne.jp/twoyoshi/20090926にある「それをどう実現することができるか、と考えたとき、方法論に傾斜してしまうのです。」に対して。

 気持ちは分かります。でも、方法論を考えても、行き詰まるでしょ。そりゃ、あなたが『学び合い』で考えるようになっているから、十把一絡げで子どもを観るのではなく、一人一人が違うと言うことをご存じですだからです。

 結局、一人一人は違うのですから、それぞれに合った方法論が必要です。でも、そんなことが教師に出来るわけはない。だから、「みんな」の徹底に意を尽くすべきです。そして、教師の仕事は目標の設定と評価、そして環境の整備です。まずは、子ども達に自信を持って語れる目標を考えましょう。そして、その目標がなんであるかを誤りなく伝えられる評価方法を考えましょう。環境の整備は、たいていの場合は「邪魔しない」です。

 まあ、普通の教師だったら「それで大丈夫?」と突っ込みたくなると思いますが、一人の教師が三十人の多様な子どもを前にして出来る事なんて、それ以上のことは出来ません。むしろエネルギーを目標の設定と、それに一対になる評価に頭を使いましょうね。

 次にhttp://manabiai.g.hatena.ne.jp/twoyoshi/20090927/1254023997です。脳科学は興味ある分野であり、今後が楽しみです。ただし、注意が必要です。http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20010331/1173102040をご覧下さい。特に「代数学の群論や位相幾何学のカタストロフィ理論に基づき、発生学を研究しようとするものがありました。しかし、何かが違うなと感じていました。簡単に言えば、「生物を研究したい」というより、「数学や物理を生かした研究をしたい」という本末転倒なものを感じました。なによりも、「使えるかもしれない可能性」は長々書いているんですが、実際に使えたという実例が無いんです。」に注目して下さい。その視点で吟味したとき、脳科学の教育実践に使える部分と、使えない部分が見えてくると思います。

[]宮城の会 16:06 宮城の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 宮城の会 - 西川純のメモ 宮城の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今週末に、宮城県の石巻市で宮城の会を開きます。ご参集下さい。

 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/motoryou/20090822

09/09/26(土)

[]考え方とテクニック 07:18 考え方とテクニック - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 考え方とテクニック - 西川純のメモ 考え方とテクニック - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は『学び合い』は考え方であってテクニックではない、と主張しています。でも、これは従来型の指導だって同じです。子どもはテクニックで動くのではなく、教師の「腹」を観て動くのです。子どもを己に、校長を自分に置き換えれば理の当然です。

 でも、現実問題として教師は何らかの意図的な行動をしています。そこにはテクニックもあります。問題を乗り越えるためのテクニックを探す気持ちは分かります。でも、乗り越えた後に気付きます。問題が起こったのは、そのテクニックがなかったからではなく、自分の考えにぶれがあったことと。テクニックがあると安心して、心の余裕を持てるというのが、テクニックの最大の利点です。まあ、心理学の偽薬効果みたいなものです。

 あるテクニックが有効である、と主張される方がいたとします。その場合、私は「誰にとって有効ですか?クラスには東大に行きそうな子もいますし、能力的に辛い子もいます。男もいますし、女もいます。サッカーの好きな子もいますし、そうでない子もいます。だれにですか?」と聞きます。どうもテクニックが有効だと思われる方は、子どもを十把一絡げにしてしまっている。

 だから『学び合い』では個に拘らず、個を見捨てない集団づくりに拘ります。だから「みんなが分かる、とか、みんなが面白いと思う」を目指すのではなく、「みんなが分かる、とか、みんなが面白いと思うものをみんなが目指す」を目指すのです。そのために『学び合い』の可視化のテクニックがあります。でも、あれもテクニックにすぎません、3ヶ月もやるなんておかしい。それが継続しているとしたら、『学び合い』(?)という従来型の従来型の授業をしているにすぎません。

 まあテクニックにすがる気持ちを否定することもできません。精神衛生上には効果は絶大ですから。でも、そのテクニックを『学び合い』の学校観と子ども観でぎりぎりまで吟味して下さい。その結果として、今の現状ではそれを使用するということが必要だと判断されるならば、それは正しい判断だと思います。でも、それを使用する原因は自分にあることに気付いて欲しい。

 何度も書いているように、教師の職能の第一は、「子どもや保護者が悪いという合理化をしない」ということです。「私のクラスの子どもの発達段階は・・」、「地域性があって・・・」、「うちのクラスの子どもは能力が低くって・・・」というのも、表現は違い同根です。だって、その後に続く言葉は大抵は「だから、しょうがない」です。それでは改善はない。そして、その後にすることは、根治療法ではなく対処療法です。その効果は治すことではなく、問題を先送りしたり、問題を見えにくくする以上の効果は期待できません。

 じゃあ出来るの?を突っ込みたい気持ちの方もおられるでしょう。それに対しては「分かりません」です。でも、問題を解決したいならば、どちらの方が有効かといえば、明らかにです。対処療法も必要ですが、根治療法を併用しなければ、しょうがありません。

 暴走族の子だって、エリート街道まっしぐらの子だって、皮一枚はがせば子どもは子どもです。そして、我々と同じホモサピエンスです。さらに、一人一人の揺らぎが大きくても、集団の揺らぎは小さくなるのは大数の法則です。クラス集団の揺らぎは小さいはず。

 小学生に偏微分方程式を教えるとしたら、子ども集団は愚かです。しかし、指導要領に従ったレベルのことだったら、子ども集団の能力は教師を凌駕します。だって、どの子にも1日二十四時間という時間を持っています。子どもの数十倍効率の良い教え方が出来る人っているのでしょうか?

 上記は、本日、我がゼミで私に「小学生の子どもは基本的な能力がない(例えば単語力)」と言った方への公開返信です。まあ、上記を言われるだろう事は折り込みでしょうが。

 簡単に言えば、気持ちは分かるし、テクニックを併用してもかまわない。でも、考え方に立ち戻ってもがかない限りは、出口はないよ。ということです。ふぉふぉふぉ

toshimtoshim2009/09/26 16:04テクニックは精神安定剤ですね。確かに(笑)。でも、あると便利ですね。担任は常に平常心ではいられませんもの。
大切なのは『学び合い』観・自分の教育哲学ですね。最近ようやく腑に落てきている感じです。

jun24kawajun24kawa2009/09/26 17:45それは良かった。
でもね、腑に落ちても迷いはあります。
私もあります。
でも、迷っても良いんです。
迷って、迷って、でも、最後には考え方に落ち着きます。

ghjalghjal2009/09/26 19:52だから、考え方には拘って、もっともっと自由に、チャレンジしてみてよいのですよね。可視化とか、やり方にとらわれず。自分の言葉では、「子供に投げる」です。

jun24kawajun24kawa2009/09/26 23:08はい、考え方が同じならば、何をやってもOKです。
でも、おそらく極めてシンプルでピュアーなものに落ち着くはずです。

twoyoshitwoyoshi2009/09/27 11:49ブログに補足しました。どうでしょうか?

jun24kawajun24kawa2009/09/27 17:29今アップしました。

09/09/25(金)

[]苦しんでいる子 22:46 苦しんでいる子 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 苦しんでいる子 - 西川純のメモ 苦しんでいる子 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある校長先生に、「『学び合い』に踏ん切れない先生に以下を語って下さい」と言いました。でも、あまりにもキツイので「もちろん、嘘ですよ」と最後には言いました。

私:おそらく、多くの先生方は自分のクラスの7、8割、いや、9割ぐらいはそれなりに分からせられたと思いますよね?

校長:笑いながら頷く

私:でも、実はそうではないということはテストの結果を見れば分かっているはずなのにね?(笑い)

校長:笑いながら頷く

私:おそらく、多くの先生方は自分のクラスの殆どはそれなりに幸せだと思っていますよね?

校長:笑いながら頷く

私:子どもが幸せか、どうか、休み時間を観れば直ぐに分かるんですよ。色々な学校に行きますが、休み時間の子どもの様子を見れば、直ぐに分かります。

校長:興味深げな顔

私:まずは図書館に行くんです。そこで二人並んで座って読んでいるのではなく、一人で図書館にいる子がいます。それを観れば、だれがクラスに浮いているか、直ぐに分かります。休み時間に遊ぶ子どもの集団によっても直ぐに分かります。大きな集団を作っているか否か。男女が交じっているか否か。流動的な集団か否か。もしかしたら、二人の固定的な集団を形成しているかもしれません。それを観れば、自分のクラスが幸せか否かが分かります。

校長:深刻な顔

私:仮に7、8割、いや、9割ぐらいはそれなりに幸せだとしても、1割が残ります。その子はどれほど苦しんでいるか。その子も自分と同じだけ幸せになりたいと思っている。

 この私の言明がどれほど恐ろしいか分かってもらえるでしょうか?校長も私も、その恐ろしさが分かっています。だから、多くの先生方に言うべきではないということは分かっているのです。

 私は恐ろしくて、恐ろしくしょうがない。私の高校教師の現場は、その恐ろしさが額面通りに分かる場所だった。だから、毎日、毎日、1升の酒を飲まなければ過ごせなかった。あんな現場にいたら、「しょうがない」と合理化しなければ生きていけないはずです。合理化しなければ、夜回り先生のようになって、そして、教師を辞めなければならない。

 その恐ろしさは、今でも続いています。どう考えても、私の高校教師だった現場に比べて、子ども達の家庭は平均的にはハッピーです。現在の学校教育にフィットしています。でも、一人一人の苦しみは深いものです。相対化できません。だから、私の大学における政治闘争において、学生の自由選択と情報公開を保証することを第一にしています。私のゼミに所属することを強いられた人は誰もいません、私のゼミに所属し続けることを強いられた人は誰もいません。私は学生さんにフェアーに情報を公開します。だって、人をゼミに強制して苦しませる責任を負えませんから。私は嘘をついて苦しませる責任を負えません。だから、選択の自由を保障し、嘘はつかずにいます。だって、人の苦しみは恐ろしいと思うからです。そして、ゼミでは『学び合い』をやっています。どれほどの『学び合い』が出来ているか?偉そうに言っているほど、やっていません。でも、学生さんに方法を強いることは出来るだけ避けるようにしています。強いれるほど、自分は偉くないですから。

 『学び合い』を理解しない人を憎まないようにしています。一人一人は心優しき人であり、善意の人です。それは分かっています。でも、その善意の人のクラスで塗炭の苦しみを味わっている人がいる。それが許せないという気持ちを禁じ得ない。そして、それと同じことを自分はやっていることが許せない。

 そして、この恐ろしさを伝えきれない、自分が情けない。

 現状の学校は奴隷制度のように思えてなりません。そして、子ども達の苦しみは奴隷制度と同じです。奴隷制度は奴隷を使う側の心も冒します。奴隷制度は歴史の中で潰れます。人道主義とか民主主義という理由からではなく、効率が悪いからです。奴隷制度では、戦うのは一部の奴隷を使う人です。ところが、奴隷のない社会では、みんなが戦います。農業や工業も奴隷の生産性より、自由民の生産性の方が高い。だから、奴隷制度が衰退しました。人類二百万年の歴史の中では奴隷制度はあだ花みたいなものです。

 現在の学校制度も同じです。どう考えても効率が悪すぎます。だから、長期的に衰退することに関しては微塵も迷いはありません。でも、それを短くできるか否か、それが辛いのです。その中で苦しんでいる子ども達を思えば辛すぎる。

 私にストウ夫人の才能がありアンクル・トムの小屋が書けたらと願います。現状の子どもの苦しさを伝える文才があったらと願います。今、九州には「一人芝居」という表現で伝えてくれている同志がいることを知っています。その力は大です。もし、小説で伝えてくれる同志がいたら、マンガで伝えてくれる同志がいたら、と願います。

 大学の奥深くで隠れて逃げていますが、それでもあの業の深さを思い出します。私は最善を尽くします。でも、合理化している善意の人を動かせる力のなさを恐れます。

追伸 今日は酒を多めに飲んで寝るしかありません。だれかストウ夫人になって下さい。

追伸2 生産性を無視すれば、「はい、ご主人様」という従順であることが重要なのでしょうね。でも、そう言っても腹の中では別なことを考えて、かつ、生産性は高まらない。今のクラスのようだ。

D902iD902i2009/09/25 23:40私が気安くコメントしてはいけないと悩んでいたのですが。。一言だけ。
私は西川ゼミに所属してから,先生やゼミ生に何度も何度も救われましたし,本当に感謝しています。

jun24kawajun24kawa2009/09/26 05:46ありがとう。
現場に行って上記に書いた「恐ろしさ」を忘れないでね。そして、折り合いをつけることの大事さを忘れないでね。残念ながら、大抵は前者を忘れてしまいます。理由は、どんな武勇伝がある人でも、結局は教師になる我々は現在の学校教育のシステムにフィットした人間です。フィットしていない圧倒的大多数の人の気持ちは分からないのです。ちょっと目をふさげば、合理化できます。そうした方が、折り合いをつけるという高度な政治的行動をしなくても、職員室で生きやすいですから。
でも、我々が想像できないほどの苦しみの中で12年間の小中高を生きている子どもがいるという恐ろしさを忘れないでね。

yukariyukari2009/09/26 06:50『学び合い』をすることで、苦しんでいる子どもだけでなく、苦しんでいる子ども(苦しんでいるんだけれども、その苦しみを表面には出さない子どもも含む)を目の前にして、悩んでいる親の悩みや苦しみも少なくできるのだろうと思います。

jun24kawajun24kawa2009/09/26 07:20そして、教師も救われるのに。その教師から『学び合い』が非難されると悲しくなります。

flipperKflipperK2009/09/26 07:27初めてコメントさせていただきます。
「全員の子どもを何とかしたいと思ってない?そんなの無理だって。」とよく言われます。職場でも、もっと身近なところからも。
「恐ろしさ」を忘れないでいたいんです。
『学び合い』は浅学非才の私でも「できるかもしれない」道を示してくれました。これしかないんです。今の私にとっては。

jun24kawajun24kawa2009/09/26 07:58私もそう思っています。
出来る、とは言い切れません。
でも、普通の自分が出来るとしたら、みんなでやるしかないと思っています。
一人で背負い込むよりはいい、という至極簡単な理屈ですよね。

munehiromunehiro2009/09/27 09:50『学び合い』には、それをパワーゲームや政治に利用してはいけないと思える純粋さがあり、それを強く感じます。

jun24kawajun24kawa2009/09/27 17:02え~~???
それをパワーゲームや政治に使う人っているんですか?
想像できない・・・

09/09/23(水)

[]情けない 22:30 情けない - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 情けない - 西川純のメモ 情けない - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある集団に対するネガティブなメモなので、特定されないように書きます。

 ネットサーフィンをしました。ある組織の最近の修士論文のタイトルを読んで情けなくなりました。読めば、方法と結論が直ぐに分かります。まあ、私がやれば、そして、西川ゼミの学生がやれば、3ヶ月以内に学会誌レベルに出来るものです。だって、そこに書かれている固有名詞を変えれば、私が修士論文を書いていた三十年前の論文と全く同じです。あとは、グーグルで固有名詞を検索すれば、だいたい分かります。

 理学からバカにできない(されない、ではありません)教育研究があるのに・・・・

[]インフルエンザ対策 19:22 インフルエンザ対策 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - インフルエンザ対策 - 西川純のメモ インフルエンザ対策 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある水溶液を作るとします。「薬品を化学天秤で精密に量り、水をメスシリンダーで測る場合」と「薬品を簡単な上皿天秤で量り、水をメスシリンダーで測る場合」とでは、どちらが精密にはかれるでしょうか?気持ちとしては、一部分でも化学天秤で量れば、上皿天秤で量るよりは精密にはかれそうですが、実際は、一番いい加減なはかり方によって決定されるので差はないのです。もっとわかりやすい例で言えば、メスフラスコで計った1Lとミスシリンダーで計った1Lを合わせた2Lと、メスシリンダーで量った2Lとでは精密さには差がないのです。

 何を書きたいか?それは学校におけるインフルエンザ対策が上記に似ているようなのです。インフルエンザ対策を統一的にやるならば意味があるかもしれませんが、やりやすいところを徹底的にやっているように思います。しかし、一部分を徹底的にやっても、あまり意味がありません。

09/09/22(火)

[]いじくらない 22:07 いじくらない - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - いじくらない - 西川純のメモ いじくらない - 西川純のメモ のブックマークコメント

 西川ゼミのOBOGだと、嫌と言うほど分かっていることです。

 私は初期段階は、徹底的に議論し、いじくります。が、課題設定が終わったなと判断すると、殆どほっぽります。まあ、たまにはからかいますが。理由は、いじくりすぎると、私のコピーが作られるからです。コピーは絶対にソースを越えることが出来ません。私は、私のコピーを作りたいわけではありません。私を越えた人が生まれることによって、私は学びたいのです。

 ほっとけば、私とは違ったことを言います。行動します。でも、それは良いことです。押さえるべき、ごく少数のポイントだけをモニターしています。それが犯されない場合はほっときます。犯されたときでも、介入を出来るだけ避けます。私の誤解から介入し、それによって発展するべき芽を潰すのを恐れるからです。

 私に対して語るときゼミ生は慎重です。もちろん、叱ったり、怒ったりはしません。お金がかかること、頭を下げること、それに関しては簡単です。熱意と決意をハッキリしていればいいのです。でも、「どうしたらいいか?」という方法を聞くときは慎重になります。もし、「語りながら私の反応を探っており、私から答えを引き出そうとするとき」、また、「自分に答えを持っているが、その責任を自分が負うのではなく私に負わせたくて質問するとき」は、もの凄く丁寧に・嫌みったらしく・もてあそびながらからかいます。それも、ゆっくりと、数学の証明のように心の弱さを証明します。

 そんなことをしますので、私に対して恐れます。叱ったり、怒ったりはしないのに。でも、「助けて」という求めに応えなかったことはありません。本人が周りに相談したけど解決できないとき、いや、周りに相談できないとき、どんなときでもどんな内容であっても、最後の最後まで応えます。それは、そのような状態になってしまう環境においたという贖罪です。

 という例外以外は、いじくらないようにしています。これは、ネット環境においても、関わる人との基本戦略です。私は、学びたいのです。

[]家族を語る 18:27 家族を語る - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 家族を語る - 西川純のメモ 家族を語る - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』を実践する人には愛があると思います。だって、そうでなければバンジージャンプの一歩を踏み出せないと思います。クラスの中にいる、「苦しんでいる子」の気持ちを考えず「しょうがないよ」と合理化できない人ですから。

 でも、その「愛」は子ども達にも伝わります。子どもの求める「愛」の基本形は「肉親の愛」です。それを満たされていない子どもは教師に「肉親の愛」を求めます。辛い立場の子どもは教師に「肉親の援助」を求めます。そして現状の学校では、保護者も同僚も教師に親代わりを求めます。そして、教師自身も親代わりになろうとします。

 でも、なれるでしょうか?無理です。クラスの中には肉親を求める子どもはかなりの数いるはずです。色々な姿でそれは求めます。まずは教師に認められたいと願い、成績を上げようと思います。でも、それで認められることがかなわなければ、面白いことをして教師にアピールします。それでも認められないと、わざと反抗します。こう考えると、『学び合い』かなりの数がいるのが分かりやすいと思います。それらの子どもはみんな「先生~!!!」と声を上げているのです。さらに言えば、それすら出来ない目立たない子も声を上げているのです。

 学部学生さんが教育実習の終わった後、「子どもから先生の家に遊びに行きたいと言われているのですが、どうしたらいいでしょう?」と聞かれたことがあります。その際言ったのは、「全ての子どもを遊びに来させられるなら、来させてもいいかもしない。そう出来ないなら、やるべきでない」と言いました。私が高校教師だったとき、授業中に一言でもいいから全員に声をかけることを自らに課しました。それは「お~」レベルも含めてです。一人の抜けもないように、出席簿にチェックして声をかけました。ところがそのレベルであったとしても、かなり困難だったと記憶しています。

 では、どうするか?『学び合い』しかありません。でも、教師の存在は圧倒的です。クラスづくりをしている段階だと、教師に肉親を求める子どもがいるかもしれません。そのような時はどうしたらいいか?私は、自分の家族のことをいっぱいしゃべることが有効だと思います。そうすれば教師は親ではなく、職業であることを理解できると思います。また、保護者にもいっぱいしゃべるべきだと思います。そうすれば、教師に聖職を求めれば、教師の家族が犠牲になることが見えやすくなります。

 我々は家族のことをいっぱいかたることによって、子どもとの間合いを保ち、身を守ることが出来ることが出来ます。そういう意味でも、家族の話を語るのは大事です。

追伸 西川ゼミ、特にOBOGは上記のことが分かっているので、私に出張や休日出勤を頼むときは、相当覚悟しています。私はOKを出しますが、その後が恐ろしいことを、よく知っていますから。ふぉふぉふぉ

tomkicktomkick2009/09/22 18:51賛成です。子どもが親以外で接する大人である教師が,「家族」を語る姿というのは,子どもが将来の自分をイメージする点でも大切だと思います。幸せな家族を作るという夢を持つというのも,子どもらしいいい夢だと思います。

jun24kawajun24kawa2009/09/22 18:52あははは
子どもらしい夢というより、人間らしい夢ですね。
今は、家族といっしょでいいですね。

ybhdv7ybhdv72009/09/24 00:09家族を語ることは生徒たちに間接的には伝わると思います。
かまってほしい子に対して、直接的にはどう対処したらよいですか?ケースバイケースだと思いますが。。。

jun24kawajun24kawa2009/09/24 07:04ケースバイケースです。
でも、その子に拘ってる限りは、解決は無いと思います。
まあ、問題の先送りぐらいがせいぜい
根治療法は、その子ではなく、その集団を変えるしかありません。

o4dao4da2009/09/25 21:38その集団が解体されたあとの責任はどこにありますか。

bunbun-hbunbun-h2009/09/25 21:46それは「個」でしょう。
とりあえず、こればかりはどうしようもない。
(また条件反射で指が勝手に動いてしまったあー)

jun24kawajun24kawa2009/09/25 22:08イジメになれさせるために、イジメのあるクラスを許しますか?
各人が出来ることをするだけのことです。
本当に願えば、解体された後も紡げる子ども集団を創ることです。
そして、それを受け止めることの出来る教師が増えるよう、広がることです。

bunbun-hbunbun-h2009/09/25 22:13そして他者の力を借りることができることが、いかに我が人生にとって重要であるかを体験し続ける集団を創る事です。

jun24kawajun24kawa2009/09/25 22:50その、当たり前のことを伝えることが、以下に困難か・・・
ね。

bunbun-hbunbun-h2009/09/25 23:21う~ん。

09/09/21(月)

[]幸せ 22:11 幸せ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 幸せ - 西川純のメモ 幸せ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 思い起こせば、私の学校教育では一度たりとも、何が幸せかを教えてくれませんでした。

 偏差値が5違う学校、いや、10違う学校に進学しても幸せになれるわけでもありません。彼女の数が多いこと、初体験が早いこと、それが幸せに繋がるわけではありません。収入が億になること、お城のような家に住むこと、高級な服を着て、高級な食べ物を食べること、それが幸せではありません。

 毎日、毎日、神仏に願うのは「家族仲良く、健康で」です。幸せというのは、家族が毎日、一緒に、おなかいっぱいに食べて、一緒に寝ること、それにつきます。どうして、私の学校教育の中で、そう教えてくれなかったんだろう。それを教えてくれたら、無駄なエネルギーは費やさなかった。人を踏みつけにすることは少なかっただろう。どぶに捨てるような金の使い方はしなかった。

 刹那的なものではなく、一生のつきあいという視点で、人と関われたら良かった。進学に関して、「何を成したいか」を何故問われなかったんだろう?受験雑誌と業者テストで進学先を決めたのは非生産的だった。

 私の教えてもらった先生方、尊敬できる先生方も多かった。感謝する方も多い。でも、自分の家庭生活を幸せそうに、いっぱい話した先生はいませんでした。恥じらいがちに、さらりと語る先生ばかりでした。でも、何故、恥じるのだろう?教師は、もっと、もっと、自分の家庭のことを話すべきだ。何が辛くて、何が幸せかを語るべきだ。子どもが分かろうと、分からなかろうと、いっぱい語るべきだ。親としての幸せを語ることによって、子どもの親の気持ちが分かる。そして、親になることの幸せが分かる。夫として、妻としての幸せを語ることによって、一生の伴侶を得ることの重要性が分かる。そして、教師という職業と家庭との関係を語ることによって、正しい、職業人の姿が分かる。

 教師は神ではなく、聖職ではなく、普通の大人の代表として次世代のホモサピエンスに付き合うべきだと思います。

 本日も、家族一緒に過ごしました。家の蛍光灯を交換しました。家族で外食し、息子が食べきれない中華丼を食べました。おなかいっぱいです。ちょっと遠出をしました。そこで貸し自転車を借りて、ローカル線の駅に行き、鉄道好きの息子と通過する電車を見ました。帰りにスーパーによって、美味しそうな刺身を発見しました。息子が遊んでいる脇で昼寝をしました。息子と風呂に入りました。家族で晩酌をしてほろ酔いです。息子の添い寝をして、起き出してこれを書いています。今日は、いっぱい息子からチュッチュされました。幸せです。

 なんで、この幸せを学校教育で教えないのか?と思います。もちろん、本当は家庭で教えるべきです。ところが、我が家は仕事仕事の家庭でした。そういう家庭の子どももいます。だから、私は学校に期待しています。教師は、ごくごく普通の幸せを享受する「義務」があります。そして、それを社会の大人の代表として、「安定」して子どもに伝える「義務」があります。恥ずかしがらずに、子どもの前で親ばか、夫バカ、妻バカすべきです。それは義務です。もし、それを語れないならば、仕事のあり方が間違っています。もちろん、子や伴侶がなければ、友バカ、そして自分バカをすべきです。

 教師はスーパー教師ではなく、「普通の幸せな人」であるべきです。そして、教師自身も、そのほうが幸せです。

[]twitter 06:20 twitter - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - twitter - 西川純のメモ twitter - 西川純のメモ のブックマークコメント

 既に、twitterは何人かの同志のブログに紹介され、何人かの同志が入っていると思います。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/sumi-chan/20090907/

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/sumi-chan/20090908/

 50歳のおじさんである私は、2チャンネル的な会話がどうも分からないので、「ふ~ん、そんなことがあるんだ。凄いな~」っと思いました。別な同志から、twitterの紹介文をアップして欲しいとのメールを頂きました。遅ればせながら調べ、その価値が分かってきました。その同志から頂いた文章を切り貼りしたものを最後に添付します。

 Twitterは今後拡大することが予想され、かつ、今は教育関係者の数が少ないようです。つまり、投資するに足る株みたいなものです。最近、http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20090903/1251934135をアップしました。我々みんなが、情報発信をすれば、もの凄いことが出来ます。トライして下さい。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

学び合い』について深く考えながら実践する人はブログで発信。

毎日の『学び合い』の様子を気軽に発信して、まだ知らない人に量でたたみかけるならtwitter。という使い分けができます。twitterで『学び合い』を知り興味を持った人がブログに行き、学び合いの会に参加するという流れができそうです。

twitterはこの半年で国内利用者を20万人から100万人と5倍に伸ばしました。米国では3カ月で1300万人の利用者増です。日本twitterは最初ビジネス情報の共有で広まったためインテリ男性が多く男性75%。年齢層は若干高めです。まだ教育関係者は少ないです(教員はざっとみたところ70人ほど発見しました)が、だからこそ今『学び合い』実践者が100人加入するだけでtwitter内の教育議論を『学び合い』一色にすることができます。

来年の今頃は、日本twitterは1000万人市場です。いまのうちにtwitter内の教育議論の流れを『学び合い』の方向にもっていけば、教員でtwitterに新規加入する人の目には必ず留まります。

Twitterの利点

●つぶやくだけなので負担が少ない

Twitterの投稿は140字までという字数制限があります。ブログの更新がおっくうな人も、Twitterは携帯からメールする感覚ですぐに更新できるので非常に楽です。本当に、一言つぶやけばOKです。

●リアルタイムで情報を共有できる

『今日は算数の学び合いがうまくいかなかったなぁ』など、うまくいかなかった点を携帯からつぶやけば、それに気づいた他の実践者からアドバイスをもらえたり共感してもらえます。『○○ちゃんが初めて課題を達成!クラス中が大喜び!』なんていう子どもの成長や感動をつぶやけば、みんなで喜びを共感できます。全国に散らばっている教員同士がリアルタイムで『学び合い』できるわけです。

●他の人のつぶやきを見るのが楽

Twitterは仲間の最新つぶやきが1ページにまとめて表示されます。ブログやmixiのように一人ひとりのページを見て回る必要がありません。1クリックでフォロー(リンクしている人)の最新記事をすべてチェックできます。

すでに何人かの同士が参加しているので、twitterに登録したら『学び合い』で記事を検索してみてください。『学び合い』コミュニティもあります。とりあえず『学び合い』に関する発言をしている人をすべてフォローしていくところから始めるのがいいと思います。

Twitterの登録方法と、基本的な仕組み

0、twitterに登録する

http://twitter.com/に接続して、登録します。名前は本名でなくても全く支障ありません。公表されるのでハンドルネームがいいかと思います。そのほか登録に必要なのはメールアドレスだけです。フリーアドレスで問題ありません。携帯アドレスも必要ありません。

1、キーワード検索や名前検索で「学び合い」関係者を探し、フォローする

twitterにログインすると画面右に小さな検索窓があります。そこに「学び合い」と入力して検索します。すると、すでにtwitterに参加している人の「つぶやき(ブログで言うと記事)」のうち「学び合い」という文字列を含むものが表示されます。そのつぶやきをしている人をフォロー(お気に入りに追加)します。すると、twitterのトップ画面にフォローした人の最新つぶやきが表示されるようになります(RSSのようなものです)。記事を読みたい人をたくさんフォローすると、フォローした相手のつぶやきすべてを新着順に表示してくれます。mixiやブログのようにいろんな人のページを回らなくてすむので非常に便利です。

2、自分もつぶやいてみます

自分が誰をフォローしているかはもちろん、自分が誰からフォローされているかを確認することもできます。つぶやく話題が似ている場合、こちらからフォローすれば大抵向こうからもフォローしてくれます。そうやって自分をフォローしてくれる人ができたら、今度は自分もつぶやいてみます。140字以内という制限はありますが、要領はブログと同じです。文字数が少ないので、パソコンからはもちろん携帯からもメール感覚でつぶやくことができます。短く簡単なので1日に何度もつぶやくことができます。

3、つぶやきに反応!

twitterでは、BBSのように人の発言に対して返信することができます。『今日は算数の学び合いがうまくいかなかったなぁ』など、うまくいかなかった点を携帯からつぶやけば、それに気づいた他の実践者からアドバイスをもらえたり共感してもらえます。『○○ちゃんが初めて課題を達成!クラス中が大喜び!』なんていう子どもの成長や感動をつぶやけば、みんなで喜びを共感できます。全国に散らばっている教員同士がリアルタイムで『学び合い』できるわけです。

bruce-sbruce-s2009/09/22 08:0424kawa先生、「幸せ」同感です。私は、少子化の原因の一つに24kawa先生の書かれていることがあると思います。少子化の原因は、経済的な理由・男女共同参画がまだまだ×などが大きいし、結婚したいか、子どもがほしいかは人の生き方の問題で、もちろん自由なのだけど、その生き方を決めるときに、24kawa先生が指摘されていることが少子化に向かう方向に影響してきたと思います。

jun24kawajun24kawa2009/09/22 12:52みんなで幸せになりましょうね。

motoryoumotoryou2009/09/22 16:56「幸せ」を正面から語る所が『学び合い』の凄いところだと思います。全てに応用がききます。

jun24kawajun24kawa2009/09/22 18:08なんで、こんな当たり前のことが主張されていなかったのが不思議ですよね。我々は聖人君主ではないですから。

osugi-symphonicityosugi-symphonicity2009/09/22 21:45ついったーで繋がることができる人がまた増えました♪

入ってくる情報の量と多様性が増すことは、判断の精度を高めることや、「みんな」で頑張れている実感が増すことに繋がると感じています。

jun24kawajun24kawa2009/09/22 21:48おじさんには分からないこと、出来ないことをやってね。

09/09/20(日)

[]パーティ 22:12 パーティ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - パーティ - 西川純のメモ パーティ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 息子が全快しました。ということで、延期していた私の誕生日飲み会を家の近くの釜飯屋でやりました。楽しかった。

[]選民意識 07:12 選民意識 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 選民意識 - 西川純のメモ 選民意識 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある若い同志からメールが来ました。若々しいメールです。しかし、その内容に危惧する「芽」を感じました。以下のような返信を書きました。そして、それは自分にもあると、自戒しました。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 私は筑波大学第二学群生物学類に入学しました。同級生は80人です。その中に非常に変わった人がいます。A君としましょう。A君は、私の学生宿舎の部屋の隣の隣です。ところが、彼を宿舎で見かけることは殆どありません。A君は授業で見かけることは希ですし、いても目立ちません。なにしろ「A君としゃべった」ということが同級生の中でホットな話題となりました。我々はA君は人と話すことが好きじゃない人なんだな~っと思っていました。ところが、「A君が、知らない数人と話していた。それも笑いながら!」という驚愕のニュースが同級生の中で流れました。みんなは信じられませんでした。

 しばらくして、A君はある宗教団体に属していること、そして、その宗教団体の人とは話すこと、ということを知りました。そして、それによって、その宗教団体のことをカルト的に捉え、非常に嫌な印象を持ちました。その宗教団体にかぶれるとA君みたいになるんだな、と思うようになったんです。そして、A君は途中で退学しました。同級生との関係を絶って卒業できるほど大学は甘くはありません。A君も同級生との関係を絶って卒業できるほどの能力はありませんでした。

 他山の石です。『学び合い』を知れば、多くの教師が「良し」としているものを全く別な視点で見ることになります。多くの教師が見逃している「アラ」がよく見えてしまうのです。私は『学び合い』が従来型に比べて圧倒的に優れていると思います。従来型と「いいとこ取り」のようなことが出来るような差ではなく、圧倒的に優れていると思います。が、それは従来型と『学び合い』の比較です。従来型の授業をしている人と『学び合い』の授業をしている人の比較ではありません。圧倒的大多数の教師は善意の人です。そして、我々はみんな愚かである部分を持っています。みんな同じです。変な選民意識を持ってしまえば、A君のような行動になります。そして、A君のような行動をすれば、『学び合い』がカルトのように思われてしまいます。それは本人にも『学び合い』にも不幸です。

 我々はみんな同じ。その前提で、政治をして下さい。子どものために、自分のために。期待しています。

[]富山の会 06:46 富山の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 富山の会 - 西川純のメモ 富山の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日は富山の会でした。楽しかった。今回は、「とにかく参加者がいっぱい話し合える」というコンセプトだったと思います。よかった、よかった。色々な人が、色々なことを考え続け、ゴチャゴチャとやる、それが一番です。多様性を失った生物は、特殊化し、そして絶滅する運命です。ゴチャゴチャは必要です。

 今回の特徴は、主催者です。『学び合い』を実践して長くて1年で、かつ、採用されて5、6年の若い教師が計画し、主催しました。全国には色々な教育関係の会があります。その多くは若い人を引きつけることが出来ず、衰退しています。そして、ベテランの人は「今の若い先生は学ばない」と言います。そんなことはありません。今も昔も、学ぼうとする若い先生はいます。ただ、その人を引きつける力を、その会が失っているのです。

 今回の会には、多種多様な人を集めていました。中には、教師以外の方もです。若い同志を誇りに思います。

o4dao4da2009/09/20 09:46ありがとうございました。大学時代を思い出す講演でした。

chia_nechia_ne2009/09/20 11:24ありがとうございました。あっという間の4時間で、幸せな時間だな~と感じながらあの場にいることができました。学び合いに出会って半年足らずで、あんなにもたくさんの方と繋がれたこと、語り合えたことに感謝です。
本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

iku-nakaiku-naka2009/09/20 15:01「選民意識」のお話
去年の自分の見るようでした。『学び合い』を広めることが大事なのではなく、教師が生徒全てが幸せな人生を送るために必要なことは何かを真剣に議論することが大事なのだと思えるようになりました。そのためなら、『学び合い』であろうとなかろうと関係ないと思います(まあ、最終的には『学び合い』だと思っていますが)。自分でもちょっぴり成長したのかなあ~なんて思います。

jun24kawajun24kawa2009/09/20 15:03o4daさんへ
そういえば、初等理科教育法では素話をやっていたね。
chin_naさんへ
自分のクラスのことだけを思っていれば、隣のクラスの先生とも繋がれません。自分の学校のことだけを思っていれば、隣の学校の先生とも繋がれません。でも、富山の教育、日本の教育のことを願うならば、日本中の志の高い人と繋がれます。
もっと、期待しています。

jun24kawajun24kawa2009/09/20 15:44iku-nakaさんへ
なでなで

twoyoshitwoyoshi2009/09/20 19:51西川研に入り一番良かったのは、多様な意見を持つ人々を認めることができるようになったことです。???全然だめですか?でも少なくとも認めようと努めるようにはしています。

jun24kawajun24kawa2009/09/20 20:26方向性の一致する多様性は喜びです。
これは、直ぐに分かります。
でも、方向の違う人に対する寛容、これは、私も一生の課題ですよ。

katokiti2003katokiti20032009/09/20 20:26選民意識のこと
昨日の会でのごちゃごちゃの中の自分を振り返って、ちょっと見えた気がします。やはり、考え方ですね。

jun24kawajun24kawa2009/09/20 21:43考え方・・・
その簡単で、難しさ・・・
どうしようもありませんね。

twoyoshitwoyoshi2009/09/20 23:06考え方の考え方ですね(笑)

jun24kawajun24kawa2009/09/21 05:52はい!

iwa.kiwa.k2009/09/26 11:42先日はメールいただきありがとうございました。
自分の中に潜む驕りと、他者と。折り合いをつける大事さに気づくことができつつあります。
子どもたちが人間としてごく普通の生活を送るチャンスをなくさないために。自分自身のために。これからもやっていきたいとと思います。

jun24kawajun24kawa2009/09/26 17:44驕らず、腐らず
したたかに
そして、心の中には、高い志
期待しています。

09/09/19(土)

[]加筆 06:34 加筆 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 加筆 - 西川純のメモ 加筆 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』の良さを語ると、「何故、そんなに良いものが今まで無かったのですか?」と言われます。そう聞かれれば、実は近代の学校以外は200万年前から一貫として『学び合い』であったことを説明します。そして、近代の身分制度の崩壊と学校制度との関係を説明します。その詳細は、手引き書の完全版に書いています。

 本日、そこに加筆の文章を作成しました。週明けにはアップしたいと思います。が、とりあえず、ここにアップしたいと思います。

 『学び合い』を受け入れられる社会的環境は、今から二三十年前には整っていたと思います。しかし、何故今、『学び合い』が生まれ、広がったかには理由があります。

 『学び合い』を受け入れられる環境は1980年代、1990年代頃からは可能になっていたと思います。現在ほどではありませんが、塾・予備校に行く子どもはかなりいました。テレビでも良質な情報を流していました。また、良質な参考書は本屋にあふれていました。大卒の保護者も多くなりました。では、何故、1980年代、1990年代ではないのでしょうか?だから、クラスの中には既に分かっている子が2割程度はいました。だから、『学び合い』をやろうと思えば、出来たはずです。それが今、生まれ、広がった理由は、おそらく、保護者の変化が大きいと思います。私の時代は、保護者は戦前や戦前の影響が色濃く残った教育で育った人たちです。それ故、教師が子どもを殴ったとしても「愛の鞭」と考える人たちでした。(私もよく殴られましたが、それをそういうもんだと考えていましたし、親に言っても、お前が悪いのだといわれたと思います)よほどのことがなければ、学校に怒鳴り込むということはありません。ところが、今の親はどうでしょうか?戦後教育で育てられた人に育てられた人たちです。自分の子どもが学力保証が成されていないとクレームを言います。自分の子どもが安心できる環境を保証しないとクレームを言います。それが行きすぎた人をモンスターペアレンツと呼ぶ場合がありますが、親としての心情としては理解し得る場合もあります。そして、問題があれば納得するまで教師・学校に問い合わせ、求める親は多くなっています。

 従来型の授業では、必ず1、2割の子どもは、かなり厳しい状態におかれています。昔だったらクレームを言われなくて気にせずにいたのが、今はクレームを言われるようになったのです。行政もそれに対応して、クレームを言われないような自己防衛をし始めます。具体的には、「やっています」と証明するためのマニュアルや報告書を作成します。結果として、教師は書類作成に追われ疲れるようになります。そうなれば、保護者からのクレームに対応できる心の余裕が無くなってもしょうがありません。

 さらにそれに追い打ちしたのは、学校の教師教育に対する教育力の低下です。十数年前から、少子化の対策として急激に採用を減らしました。ところが最近になって、少人数対策と大量退職に対応するため急激に採用を増やしています。結果として、教職員の年齢分布はフタコブラクダのような分布になっています。

 さらに、交通の便利な学校の場合は、異動したがらず、結果としてベテランが多い学校になります。不便なところは新規採用者で補充するため、若手が多い学校になります。結果としてヒトコブラクダのような年齢バランスになります。

 年齢分布がフタコブラクダのような職場では、ベテランが若手を教えることになります。しかし、教え込むという形になり、若手にとっては抑圧されたという印象を持ちます。結果として、煙たがります。一生懸命に教えたのに煙たがられたベテランは「今の若い奴らは」となります。年齢分布がヒトコブラクダのような職場では、最初は仲が良いのですが、似たようなもの同士の「突っ張り合い」がおこり問題が起こると人格否定まで進む危険性があります。結果として、相互不可侵で落ち着きます。

 私が教師だった二十年以上前には、職員室の横にはお茶飲み場があり、色々の話が出来る場所があったと思います。私の職場だった高校では、新任教員である私を飲みに連れて行って奢ってくれた先輩教師がいっぱいいました。今はどうでしょうか?ベテランの先生は「今の若い奴らはつきあいが悪い」と愚痴を言います。でもしょうがありません、飲みに行ってもつまらないのですから、付き合わないのです。私は週に1回以上は先輩と飲みに行きました。理由は楽しいからです。しかし、それは個々人の問題ではなく、年齢バランスの問題なのです。

 現在、指導能力不足で分限を受けている教師は、新任ではなく四十代の教師です。つまり、二十年以上教師をしていた人たちです。しかし、二十年使えた自分の指導が使えなくなり、改善できずに潰れていってしまったのです。使えた指導が使えなくなるのは当然です。子どもが変わり、保護者が変わっているからです。しかし、それ以上に変わっているのは自分なのですが、自分の年齢は自分では分からないものです。四十代になっても、頭の中は二十代のまんまということは普通です(私もそうでした)。しかし、子どもの前に立ったとき、子どもが教師に期待することは二十代前半の教師と四十代の教師とでは異なります。ところが、自分の年齢が分からないため、その切り替えが出来なくなります。しかし、若い教師と付き合えば自分の年齢が分かります。人間は関係の生物です。若い教師と付き合うことによって、中堅の振る舞いをするようになり、ベテランの振る舞いをするようになります。そして、若い教師に教えている中で、自分が学んでいくのです。ところが、そのようなことが出来ないと、昔のままの指導を続けることになり、結果として指導力不足になってしまいます。

 以上のような結果、自分に限界を感じている教師が増えました。

今までのことを捨てて、新しいことに取り組むというのは大変な決意が入ります。特に、いままででも「そこそこ」出来る場合は、ずるずるとなってしまう場合は少なくありません。考えて下さい。携帯電話の会社を変えたり、機械の会社を変えたりするのは難儀ですよね。ましてや授業を変えるのは大変なことです。

 本屋に並ぶ本の圧倒的大多数はテクニックです。それらは自分を変えなくても使えるものばかりです。まあ、今までの携帯に周辺機器やアプリを導入して機能充実を図るようなものです。ところが『学び合い』は考えを変えることを求めています。これは、携帯会社や別会社の機種に乗り換えるのと同じようなものです。嫌がるのは当然です。

 ところが、今、まさに、そうしないとどうにもしようがなくなっている時代になり、そして、今後はもっとどうしようもない時代になります。それが、今、『学び合い』が急激に広がっている理由です。

09/09/18(金)

[]仲良くなること 22:16 仲良くなること - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 仲良くなること - 西川純のメモ 仲良くなること - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ゼミ生との会話の内容を可視化します。

 仲良くなるとはどういうことでしょう。ゼミ生は、お互いの共通点を探る会話があるか否かではないか、という仮説を挙げました。が、そうではないということを西川ゼミの過去の研究(主に辺土名さんの研究、あと小林さんの研究)挙げて、説明しました。

 仲良くなれる人、それは自分の発言を「拾ってくれる人」、そして「肯定してくれる人」と認識できる人です。実は、共通点を探り会話とは、「拾ってくれる人」、そして「肯定してくれる人」であるかを確認する会話なのです。

 相手と自分の興味が一致していないと、自分の話題を拾って、会話を続けられる可能性は低いです。また、同じ興味を持っていても、自分の意見と反対ならば、会話を続けられるのは困難です(不可能ではないし、そうすべきです)。

 が、全ての人と、上記を試すとは限りません。おそらく、直感的で「拾ってくれる人」で「肯定してくれる人」と思える人に会話をトライするはずです。でも、直感的にはそうでない人であっても、「拾ってくれる人」で「肯定してくれる人」かもしれません。これは、直感的にはそうでない人であったとしても、会話をしないと分かりません。

 また、あるジャンルの話題では「拾ってくれない人」、「肯定してくれない人」であっても、別なジャンルの話題では「拾ってくれる人」、「肯定してくれる人」であるかもしれません。これは、最初は拾ってくれなくても、肯定してくれなくても、会話をし続けないと分かりません。

 いずれにせよ、会話をし続ける必要があるのです。『学び合い』では、教科学習という共通する課題を与えます。その課題だったら、拾い合います。そして、最終的な目的に向かって高低が行われます。それを通して、課題に戻る私語(桐生さんの研究)を続けることによって、あらゆるジャンルに会話をし続けることになります。そのうちに、ビンゴ!になる可能性があるのです。

 だから、『学び合い』では、まず授業中の人間関係が改善され、それから休み時間の人間関係が改善されます。

 でも、あらゆるジャンルの話題において「拾えない」、「肯定出来ない」ということは少数でもあり得ます。その場合でも、「みんな」を成り立たせるために、折り合いをつける、ということを学ぶことが出来ます。つまり、大人になれます。

追伸 大学院では、こんな雑談をゼミ生としています。

[]明日 19:40 明日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 明日 - 西川純のメモ 明日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 明日は富山の会です。今回の『学び合い』の会では、私の仕事は二つです。第一は、最初の挨拶を含めて10分間で最初の語りをするということです。そして直ぐに『学び合い』の模擬授業です。

 これは非常にハンディがあります。例えば、M先生は色々な小中学校の子ども達の前で、飛び込みで模擬授業をします。その場合でも、二十分前後の話をされます。それが私に許されたのは10分間以下なのです。そして、子ども達の場合は、つきあいの軽重はあってもある程度のつきあいがあります。ところが今回の場合は、クラスのような関係性はありません。さらに、年齢が進むにつれて、非『学び合い』のトレーニングが進みますので、地が現れるには時間がかかります。ところが、今回の場合は、何回も積み上げることが出来ません。ということで、ハンディがあります。

 が、富山の会の主催者からそのような申し出があったとき、「まあ、大丈夫だろう」と即OKしました。理由があります。

 『学び合い』の質の正否は、クラスの2割~3割を占める、能力的に高い子の振る舞いです。その子が、自分の課題に向かっているか、みんなを成り立たせるために折り合いをつけた行動が出来るか出来ないかです。

 今回の会には、かなりの人数の同志が参加します。おそらく、その同志は、この文章を読むでしょう。つまり、私が何を期待しているかが伝わります。

 つまり、「分からないと言いましょう」、また、分からない人を探しましょう。そして、分からないと言えるようにしましょう。一緒に教えるようにしましょう。簡単でしょ。ふぉふぉふぉ。期待しています。

 もう一つの仕事は30分間の講演です。これは、私の講演依頼の中で最短です。この時間では、今までのような多様な媒体を使った練った語りは出来ません。そこで、考え方を変えて、思い出話をしたいと思います。まったく、口先三寸だけで勝負です。

 いずれにせよ、私としては初体験です。ふぉふぉふぉ

OB1989OB19892009/09/18 20:51期待してます。

jun24kawajun24kawa2009/09/18 21:46あはははは
期待されます。
OB1989さんのような飛び込みクラスよりは、『学び合い』の会というアドバンテージがありますから気が楽です。
でも、OB1989ほどの教師としての資質は、正直ありません。本当に。でも、教師の能力を超える参加者の能力を信じていますので。ふぉふぉふぉ

twoyoshitwoyoshi2009/09/20 00:59今日の先生の話は、パワーポイントを使わなかった分、先生の身振りや手振りが出て、ものすごく良かったという話で盛り上がったんですよ。

cyorisocyoriso2009/09/20 01:12優秀な院生なんですね!!

jun24kawajun24kawa2009/09/20 07:16twoyoshiさんへ
今回は求められたから、ああゆうスタイルでやりました。が、私は学者です。データで語るということが基本ですよ。あははは
cyorisoさんへ
そりゃそうです。西川ゼミの学生さんは、美しく、賢明で、誠実で・・・です。だって、私がそうですから。ふぉふぉふぉ

09/09/17(木)

[]先生 08:30 先生 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 先生 - 西川純のメモ 先生 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ブログ群の中で「先生」という言葉について話題になっているので、一言。

 先生という言葉には、職の意味と敬称の意味があると思います。病気を治す人を「お医者さん」と言うのと同じ意味で、学校で教える人を「先生」と呼びます。それぞれの職業の人には、それぞれの職を果たすための権利があり、それにともなう義務があります。それらは一対です。お医者さんは、医療行為をすることが出来ます。そのためには、医師免許を取得しなければなりません。そして、患者を治さなければなりません。もし、問題が起これば、それの責任を問われます。教師も同じです。教師は学校で教育を出来ます。そのためには、教員免許を取得しなければなりません。そして、学力を保証し、居心地のよい環境を保証しなければなりません。もし、問題が起これば、その責任を問われます。つまり、子どもや、保護者や、同僚から「先生」と呼ばれると言うことは、その責任を期待されているということだと思います。

 私は大学院の在学中の院生さんは「さん」で呼びます。そして、少なくともゼミ生同士が「先生」と呼び合っていたら、「ここでは先生ではないよ」と注意します。このけじめがないと、学生なのに私を同僚と誤解する人が生まれます。また、学部学生・学卒院生に対して「先輩」ではなく、「教師」として対応する誤りします。しかし、本人がそう思っても、その職を全うするための権利を持っていませんし、義務も持っていません。

 しかし、現職院生さんが、前任校に「在学中」の教え子を大学院に連れてきたとき、その時は「先生」と呼びます。それは、その現職院生さんは、教え子に対して教師としての職を負っている(正確には、その教え子はそう思っている)からです。

 私が高校教師だったとき、私を「西川先生」とよぶ子はいませんでした。全員、「じゅんちゃん」でした。それを喜んでいました。しかし、今、考えると、子どもとの間合いを誤ったことは少なくなかったと反省しています。もちろん、「じゅんちゃん」と呼ばせても、間合いを間違わない人もいるでしょう。でも、私は彼らの友達ではなく、教師だったのです。若い教師の場合、先生と呼ばせる方が安全ではないかと思います。(もちろん、それによって自分が絶対君主であると勘違いする危険性もありますが)

追伸 大学・大学院を卒業・修了した後に、「元」先生をどう呼ぶかは、当人が決めることです。まあ、その人に対して在学中の「職」を継続して欲しいと願ったり、敬称として呼びたいという場合は、「先生」と呼べばいいし、そうでなければ呼ばなければいいと思います。ちなみに、私が教え子に「先生と呼ばないで下さい」と言った場合は、「あなたに先生と呼ばれたくない」という意味です。暴走族を教えた時期を含めて私の25年間の教師人生の中で、そう言いたいと思った人はたった二人です。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20030617 の突然家に電話をかけてきた子

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20030616/1172989504 のO君

 教え子から「○○さん」とよんできたら、教師としてではなく、友達としてつきあいたい人かどうかで判断します。ふぉふぉふぉ

furutatsuuufurutatsuuu2009/09/17 21:22「先生」と呼ばれると言うことは、その責任を期待されているということ↑
なるほどなぁと思って拝見させていただきました。
ありがとうございました。

jun24kawajun24kawa2009/09/18 05:49期待していますよ。

09/09/16(水)

[]欠点 22:08 欠点 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 欠点 - 西川純のメモ 欠点 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の欠点はいっぱいあります。本日、その一つを強く感じました。

 私は自分の時間を無駄にされるともの凄く怒りたくなります。駄目だな~。

09/09/15(火)

[]年齢 22:15 年齢 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 年齢 - 西川純のメモ 年齢 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私が二十年以上お仕えしている、敬愛するある先生の姿を久しぶりに見ました。ビックリしたのは、会議で怒っていることが分かるのです。以前は、居並ぶ参加者の中で、私以外には気付かないと確信していました。極めて人徳のある方で、愛嬌のある方です。ですので、怒ってもわかりにくいのです。ところが、今日は、それが分かりやすい形で出ました。でも、どれほど怒っているかは、私ぐらいしか分からないと思います。おそらく、大多数の人は、「あれ?」と思う程度だと思います。あれだけの大人物でもああなるのですから、私などは気をつけねばと思いました。

[]点数 12:50 点数 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 点数 - 西川純のメモ 点数 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 トンタンさんと私では、どうやら基本的な前提が違うと言うことが分かりました。でも、学校観と子ども観が共有しているのですから、多様な考え方があることは良いことです。まあ、私のように「深い読み」や「科学的概念の形成」等は、『学び合い』の学校観に比べれば「へ」みたいなもんだ、と思っている方は少数派でしょうから。あはははは

 さて、手じまいに、まとめます。

 私は『学び合い』の初心者にたいして点数を課題として例示します。最初に言いますが、テストの点数なんて、『学び合い』の学校観に比べたら下らないと思います。でも、それを例示するには理由があります。

 理由の第一は、それが成り立たないと、保護者や同僚、そして子ども達の理解が得られないからです。自分が考える理想の授業をするためには、その前提としてそれを成り立たせる必要があると考えるからです。

 第二は、自らの課題、即ち何を成すべきかを子どもが理解できることが出来やすいからです。これは『学び合い』が充実段階から、発展段階になれば、あまり重要でなくなります。その頃になれば、指導要領を示し、「素晴らしいものを作れ」とか、「感動する作文を書け」というような極めて抽象的な課題を与えるだけでも、実現できます。なぜなら、その頃の子ども集団となれば、子ども集団の中で、指導要領の示す「素晴らしい」、「感動」は何かを徹底的に議論するからです。へたな教師が考えるより素晴らしい課題を子ども達が創り出します。

 つまり「テストの点数が低くても素晴らしい授業だからと同僚から認められる方」、「簡単な漢字が間違ったテスト用紙を家庭に持って帰っても、保護者や同僚に理解される方」は点数を課題としなくても良いです。そして、テストの点数が伸びなくても、その他の面での成長で、自らの変化を実感できるような子ども達ならば点数を課題としなくても良いです。

 ただし、私は点数を課題として併用することは安全だと思います。たかがテストの点数なのですから、それも求めても問題はありません。子どもは折り合いをつけて時間の割り振りをしますから。『学び合い』は現在の授業とは革命的に違います。だから、素晴らしい授業を見せても、それの意味が分からない人が多いでしょう。テストの点数だって、凄い点数を実現しても、点数主義だと言われるでしょう。本当の説得は、集団の関係の中でなされるのですからしょうがありません。だけど、現在の実践にクレームがつかないように、テストの点数で実績を上げた方が、どう考えても安全だと私は思っています。

 さらに、点数を課題として与えず、抽象的な課題を与え続けると起こりえる危険性としては二つ考えられます。

 まず、確実に起こるのは、点数の伸びは期待できないということです。それは最低点も平均点もです。当たり前です。教師が課題として求めていないのですから、上がるわけありません。例えば、「深い読み」を狙った授業をしても、知識偏重のテストでそれが伸びるとは限りません。先の前提、「つまり、テストの点数が低くても、簡単な漢字が間違ったテストを家庭に持って帰っても、保護者や同僚に理解される方は点数を課題としなくても良いです。そして、テストの点数が伸びなくても、その他の面での成長で、自らの変化を実感できるような子ども達ならば点数を課題としなくても良いです。」という前提を想定できる人がそれ程多いとは私は思えません。

 次に、テストというようなシビアな基準を与えないと、教師の評価が甘くなり、それ以上に子どもの評価が甘くなります。つまり、「素晴らし学びを実現している」ふりは出来ますが、「点数を上げる」ふりは出来ないからです。結果として、子どもが「素晴らし学びを実現している」ふりをするような非生産的なことを示す。

 そのようなふりをしない場合でも、会話の質が低下します。具体的に安易な合意ケースの会話が多かったり、意見の積み上げが低下したりします(太田・西川 2001、古田・西川 2001)。この過程は学術論文に詳しく書いていますが、わかりやすい例で示します。

 例えば、新しい校長が「素晴らしい学校を創りましょう」という課題を与えたとします。その学校には「受験の成果を上げよう(NRTの点数を上げよう)」という先生と、「深い読みが出来る子どもを育てよう」という先生と、「不登校を0にしよう」という先生がいたとします。ありがちでしょ?さて、それぞれの先生集団には論客がいたとします。どうなると思いますか?おそらく、何度も職員会議で議論するでしょう。でも、結論を出せないでしょう。その議論によって職員関係がギスギスしたと感じる先生が大多数ですよね。そうなると、落としどころとして安易な合意ケースの会話をし始め、そして「それぞれが、それぞれのことをしましょうね」という風になります。あれと同じことが子ども達の中で起こるのです。なお、議論がまとまらないときに、校長が意見を言ってまとめたら、「後出しじゃんけん」ですよね。そうすると、議論をして潰された職員は納得できないでしょう。おそらく、「そんなことを言い出すならば、最初に言えばいいのに」ということです。第一に、後でそれを言うのに、「素晴らしい学校を創りましょう」を言ったとしたら、校長は最初は何も考えていなかった、つまり、手を抜いていたということです。

 このようなことにならないためには、集団の議論の質を絶えず評価していなければなりません。ところが、人間は易きに流れるものです。「うちのクラスは素晴らしいクラスだ」と思うと、評価が弱くなります。しょうがありません、現状の先生方はとても忙しいですから。そして、評価が弱くなると、子どもが手を抜き始めます。まず、現れるのは、学び合ったふりをしはじめます。集団は流動化していたとしても、機械的に相手を変えているだけなのかもしれません。あっという間に集団が腐ります。ところが、テストの点数は非常に分かりやすい指標です。特に、最低点です(平均値ではありません)。テストの点数は下らないですけど、非常に便利な道具です。

 ただし、便利ですが危険性があります。それはテストの点数を手段と考えず、目的だと考えてしまうことによって生じます。つまり、なんのためにテストの点数を課題としているかを忘れてしまうのです。

 それが端的に表れるのは、最低点へのこだわりが無くなることに現れます。平均値はクラスの大多数が自分の点数を上げようとすることによって、実現することが出来ます。子の場合は、関わり合うことは必須ではありません。特に、つきあいたくない人と関わらなくても実現できます。ところが最低点は、「みんな」が成り立たない限り、絶対にあがりません。平均点が上がったことに安心してしまうと、クラスが腐ります。テストの点は、最低点こそが便利な道具なのです。平均値ではありません。

 また、クラスの中に能力的に著しく低い子どもがいた場合、おそらくクラス全員80点以上という課題はかなり難しい課題だと思います。何度も、何度も、クラスのみんなが懸命になっても実現できない「かも」しれません。その時です。テストの点数が目的だと、クラスがだんだん暗くなります。教師もです。でも、テストの点数が80点なんてクソみたいなもんです。付け加えれば、「深い読み」や「科学的概念の形成」すらもどうでも良いことです。重要なのは、大人になるということは何かです。そこのところをちゃんと子どもに語ることが出来れば、それを乗り越えることが出来ます。

追伸 何度も同じようなことを書きました。今後も書くんだろうな~。

追伸 もちろん、トンタンさんのように実践して、出来る人を禁止するつもりはありません。出来るならば、やればいいのです。

[]大学院 12:37 大学院 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 大学院 - 西川純のメモ 大学院 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私が何故、「全員、点数80点以上」という下らなくて、シンプルな課題に対して迷いがないか?そりゃ、西川ゼミではその課題における子ども達の会話を徹底的に聞いているからです。

 クラス全員の会話を、数ヶ月分を聞くと分かります。教師がゴチャゴチャ言わなくても、課題に凝らなくても、子ども達が豊かな学びにすることを。単純な文法、漢字の書き取りでさえ、豊かな課題にしてしまいます。これは、大学院で2年間どっぷりとしなければ、38年間教師をやっても経験できないことです。

 お誘いします。

[]議論5 06:02 議論5 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 議論5 - 西川純のメモ 議論5 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ここまで議論できると小気味良い。

『>基礎的な文法や漢字の書き取りの点数の部分は高かろうと低かろうと重要ではないと「小学校教師」は思っているとトンタンさんは思われている。私は、そうは思っていません。

 

私はそう思ってはいません。読み取りの「学び合い」の授業は、テストにほぼ反映されていないということです。「時数的に大きな時間をかけているにも関わらず」ということです。』

すみません、論点がずれています。

元々の出発点は

『小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか?』という主張です。この文章を読む限りは、トンタンさんの上記で書いていることのようには理解は出来ません。

 整理すれば、『基礎的な文法や漢字の書き取りの点数の部分は高かろうと低かろうと重要ではないと「小学校教師」は思っていない』ということに同意されるのですね?そして、以前書かれたように、基礎的文法や書き取りなどの部分は授業によって違うと言うことで良いですね?そして、その部分がテストの大きな部分を占めていると言うことはいいですね?

 ということは、『小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか?』という主張を取り下げると言うことですね?

 違う場合は、上記の文章のどこが違うかを指定して下さい。なお、ケースバイケースという説明もなさらないで下さいね。トンタンさんの最初の主張は、一般的な言明なのですから。

『>そして、以上のうち最初の二つはどうでもいいことです。本当に大事なことは考え方のレベルのことだと、私は思っています。点数を課題にするかしないかなどは、どうでもいいことだと私は思っています。

 

私も最初からそう思っています。点数を課題にするかどうかなんてどうでもいいことで、それをあえて言う必要なんてないという考えです。』

 これも論点がずれています。

 該当部分の文章の主なる趣旨は「本当に大事なことは考え方のレベルのことだ」ということです。

 「子どもが判断する必要はないとトンタンさんは思っている。私は、そう思っていない。」

 ということに私はビックリしているのです。

 なお、元々の「何故」の趣旨は、点数で評価すべきだというわけではありません。私は、最初に、「課題設定が難しいという人には、点数で課題を設定しても良いですよ、と言うと、『学び合い』は点数主義と言う人がいます。」と書いています。難しいならばという限定をつけています。

 学校でやる場合は、点数というものが分かりやすいことを後に書いています。そして、上記で書いたように、それはトンタンさんも認めたと思います。つまり、『基礎的な文法や漢字の書き取りの点数の部分は高かろうと低かろうと重要ではないと「小学校教師」は思っていない』の部分を認めるのですね?という部分です。

 元々の「何故」の主張は、評価が甘いと手続き文化になるという部分です。残念ながら、トンタンさんは評価基準を明確にする必要性を感じられていないようですね。

tontan2tontan22009/09/15 12:49上記を読むとなんか言葉尻の問題になってきているような気がします。
「AはBを含む。BはCでない。だからAもCではない。」と言われてるような感じがします。私に「論点のずれ」があるようなので、最初に戻します。

私の最初のコメントです。
小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか? また、ほとんどのテストの内容は観点別にされていますが、その8割が「知識」です。指導要領の目標の到達を評価できるようなテストは1社もありません。それで「~点が目標」というのは、危険です。ならば指導要領の到達目標を子供に示した方が確かです。
 
確かに、「小学校の先生なら分かるように授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」」これは「私の」勝手な見方です。でもどうでしょ? 大事なのは文法だの漢字だのではなく、多くの先生が国語のテストをどう見ているか? です。本当に私だけの勝手な見方でしょうか? それならば潔く取り消します。
 
> 元々の「何故」の主張は、評価が甘いと手続き文化になるという部分です。残念ながら、トンタンさんは評価基準を明確にする必要性を感じられていないようですね。
 
最初のコメントに「ならば指導要領の到達目標を子供に示した方が確かです。」と書きました。そこを読み飛ばしています。判断しなくてもよいというのは、適正でないテストで判断しなくてもよいということです。

最後に。
「私は」やはり初期段階でもテストの点数を課題にするのは危険だと思います。指導要領とテストの内容が一致していればかまいません。点数を強調するならばなおさらです。そうなれば必ずしも学習内容と一致しないいくつかの教科の学習では「テストに合わせて」授業することになるでしょう。そうした危惧を書いたつもりです。

jun24kawajun24kawa2009/09/15 12:58このジャンルの議論はやめにしましょう。
これ以上は、実りがない。
前提が違うのですから。

それとシビアな議論をする場合、一つ一つの言葉・文章の確認があってもしょうがありません。それで表現が適切でなければ、それを確認して、訂正し議論するしかありません。書く度に、別の書き方を出されたのでは、議論のしようがありません。

tontan2tontan22009/09/15 13:14力が足りなくて失礼しました。
ありがとうございました。

jun24kawajun24kawa2009/09/15 14:36いえいえ、こちらこそ
言うまでもないことだけど、tontanさんが私の言っていることを分かっていることは理解しています。同時に、私がtontanさんの言っていることが分かっているとtontanさんが理解されていると思います。ようは軽重のかけ方なのですから、それは一人一人違って良いと思います。ね。

ghjalghjal2009/09/15 22:34トンタンさんとjun24kawaさんの誤解を恐れず表現するならば、このバトル?は自分にとってとても参考になりました。

『学び合い』の実践者や、セミナー、研究会?の共通した土俵にある、お互いの水平さ、平等さ、忌憚のなさ。こうしたスタイルは、考えてみれば当然なのだけれども、これまで自分が体験してきたものではありませんでした。

だって、大学の先生と、そこの学生と、実践する各地の先生と、(ここまでならあるのかもしれませんが)子供たちと保護者たちが、一線にならんで互いの考え思いをぶつけ?合う。上下なく。そこに『学び合い』のスタイルの真髄を見る気がするのです。

自分が『学び合い』に飛び込んだ、信頼することができた最大の理由がここにあります。スタイルです。研究実践の進め方のスタイルに確信を持てるからこそ、飛び込めているのです。

ありがとうございます。

jun24kawajun24kawa2009/09/15 22:37こちらこそ
ありがとう同志
互いに同志だと思えるからこそ、安易に合意せず、議論できるのだと思います。

09/09/14(月)

[]追伸 00:17 追伸 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 追伸 - 西川純のメモ 追伸 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 正確のために追伸します。

 本日の最初の議論に書いたとおり、残念ながら教師は評価をしません。甘い評価で良しとします。

 ですので、テストの点数を気にするか、と言えば、正確には、それほど気にしていないと思います。でも、子どもの姿、よりは気にすると言うことです。あくまでも、「比べればまし」というレベルのことです。

[]議論4 00:11 議論4 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 議論4 - 西川純のメモ 議論4 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 以下のトンタンさんのコメントでほぼ結論に達したと思います。

 私とトンタンさんの違い

 基礎的な文法や漢字の書き取りの点数の部分は高かろうと低かろうと重要ではないと「小学校教師」は思っているとトンタンさんは思われている。私は、そうは思っていません。

 テストの点数が低かろうと、子どもの姿が素晴らしければ「小学校教師」や「保護者」に説得できるとトンタンさんは思っている。私は、そうは思っていません。

 子どもが判断する必要はないとトンタンさんは思っている。私は、そう思っていない。

 三つの内最初の二つは、『学び合い』が高度になり、周りの理解を得られたという条件ならば、私もそう思います。従って、私の主張は、あくまでも初心者向けの語りです。

 しかし、最後の一つは、私はそうは思いません。そのようなことを判断することが学校教育の目的に合致するような課題を与えるべきだと思います。そして、それは子どもは出来るはずだと思います。それが出来ないのは子どもが原因ではなく、教師が原因だと思っています。

 そして、以上のうち最初の二つはどうでもいいことです。本当に大事なことは考え方のレベルのことだと、私は思っています。点数を課題にするかしないかなどは、どうでもいいことだと私は思っています。理由は、先に書いたとおりです。

 という風にしか、読み取れないのです。トンタンさん 

 『従来型の一斉指導で点数が変わる部分、そして、『学び合い』の初期段階で点数が変わる部分が50%ぐらいあるということです。それを部分と言えるのですか?それをトンタンさんが部分と言うのは結構です。しかし、トンタンさんの主張は「小学校教師」だったことをお忘れ無く。

それはかけてる時間が違います。通常文法の授業は1~2時間、漢字は「ちょっと」、そして読み取りや文章を書くは、おおむね15時間位費やします。授業時数の割合で言えば、文法は1割ちょっとにすぎません。漢字はさらにその下です。さらに文法は別の「単元」です。

 

そもそも、テストは点数を合算するものではありません。読み取りの100点と文法の25点は、観点別に評価するものであり、点数が同等であるとは言えません。小学校の教師だからこそ言えます。

 

>つまり、テストの点数より、トンタンさんの説明の方が説得力があるかということです。

私はテストではなく、子どもの姿で示した方が伝わりやすいのだと考えます。その理由は西川先生が最初に述べたとおりだからですし、私もそう思うからです。

 

>子どもの基準に対しては、お応えがなかったように思います。子ども「たち」が関わっているとき、「出来た/出来ない」の議論が起ったときどうするのでしょうか?

 

子どもをどういう基準で判断するか? ですが私の答えはそもそも判断なんてする必要ないということです。

子どもたちの「出来た・出来ない」の議論ですが、それはケースバイ・ケースだと思います。内容にもよります。「これしかない」という方法はないことでしょう。基本は子どもが納得すればどんな方法でも受け入れることでしょう。』

[]手続き文化 00:11 手続き文化 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 手続き文化 - 西川純のメモ 手続き文化 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 トンタンさんへ

 twoyoshiさんが書きたかったこと。そして、本日、私が最も言いたかったこと、なんだと思いますか?

 出来たか、出来ないかの評価が甘いことが、現状の学校教育の姿を定めていると言うことです。

 甘くしている教師に悪意はありません。でも、結果は恐ろしいものです。個々のクラスでは問題ないかもしれません。評価が甘いと、手続き文化になるのです。

 もうひとつ、学校観のレベルが私の本来の考えです。

 テストの点数の議論は、求められているから、詳細に答えているだけのことです。テストの点数は下らんことです。『学び合い』の考えからすれば、教科の内容に依存することですら下らんことです。私にテストの点数の価値を言わそうとしても、私は「相対的にはまし」以上のことは永遠に書きませんよ。あははは 

[]議論3 23:48 議論3 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 議論3 - 西川純のメモ 議論3 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 いや~、面白い!

>どうやら、私が点数を上げることを「目標」としていると思っているようですね。

課題ですね。でも「学び合い」をしている先生方はそれを使い分けているでしょうか?

論点がずれています。

この文章の主語は「私」ですよね。だって、データを求められているのは「私」ですから。使い分けの出来ない人も多い。でも、点数を本当の目標だなんて思ったことはありませんよ。

 

>そのデータに疑義を出すならば、それに相応するデータを出して議論すべきです。それなしで議論するのでは、水掛け論ですよ。

私は学者ではないので、正確な統計的分析データを持っていません。が、「やらなくても」割が100点とれるテストが「学び合い」と相関関係が見られるとは思えません。西川研のデータの詳細は分かりませんが、先に述べたように、「我々」が使っている市販のテストで、主要教科のデーターがあるならば教えてください。

私のHPで論文は公開していますよ。それに、お望みならば、それを実現している方をご紹介しますよ。

 

>テストの点数が上がらないのは、非常に低レベルのことが分かっていないことが大きな原因である。

それだけなら「ゆらぎ」は起こりません。なぜ「ゆらぎ」が起こるとお考えでしょうか?

それはさっき書きました。ご覧下さい。

[]揺らぎ 23:41 揺らぎ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 揺らぎ - 西川純のメモ 揺らぎ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『小学校で実践されている先生方も理科や社会科の「ゆらぎ」を感じていませんか? そしてその原因を子どものせいにしていませんか? それがダメだと言うことです。』

 とトンタンさんが書かれています。

 揺らぎは教科特異性に書かれているように読めるので書きます。全ての教科で揺らぎはあります。別に理科や社会科だけに揺らぎがあるわけではありません。算数・数学だって、国語だって、音楽だってあります。

 さて、揺らぎの原因は何でしょうか?

 以前、それを調べたことがあります。多くの先生方は、真面目にやらない子に目がいきます。だって、本当にやりませんから。でも、子細に見れば、真面目にやらない子は、いつも熱意が低いのが通例です。つまり、それほど揺らぎはありません。揺らぎが大きいのは、出来る子です。その子は常に高い達成度を実現するので、あまり差が見えにくいです。ところが、出来ない子に対しての行動の多寡を見れば大きな揺らぎがあります。

 そのような出来る子が、周りの子にたいしての行動をする、しないを決めているのは何故でしょう。

 統計学の初歩です。揺らぎはNのルートに比例します。例えば、統計学で良く扱われる分布の場合は、ルートNです。つまり、1固体の場合は、1の揺らぎがあります。つまりプラスマイナス100%の揺らぎがあります。ところが100固体の場合は、ルート100で10になります。つまり100にたいして10の揺らぎですのでプラスマイナス10%となります。ところが10000の場合はそれが100となります。つまりプラスマイナス1%となります。つまり、大きな揺らぎがある場合は、統計の対象数が小数であることを意味します。

 さて、クラスにおいて小数であり、影響力のある人は誰でしょう。それは教師です。つまり、揺らぎの原因は子どもではありません。教師です。

追伸 議論すると、普段書かないような部分も書くな~

[]議論3 23:01 議論3 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 議論3 - 西川純のメモ 議論3 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 トンタンさんのコメントには、『テストの点数を目標とするならば、「学び合い」とテストの相関関係を明らかにすべきです。それも全教科でです。それに分析をかけて、明らかな相関関係が見られるならば理解できます。』

 どうやら、私が点数を上げることを「目標」としていると思っているようですね。あはははは

 以下の議論(考え方のレベルで)のように、私は、そんなちんけなものを目標にしていませんよ。

追伸 トンタンさんが分析のことを言い出したので、一言。科学研究というのは、相対的なものです。我々はテストの点数に現れるというデータを出しています。そのデータに疑義を出すならば、それに相応するデータを出して議論すべきです。それなしで議論するのでは、水掛け論ですよ。

 ちなみに、論証とはデータのみならず、それを一般化する理論に裏打ちされて意味を持ちます。

 テストの点数が上がらないのは、非常に低レベルのことが分かっていないことが大きな原因である。そのレベルであれば、子どもでも十分に出来る。数十人の子ども同士が対話すれば、教師に比べて対話できる。

 という、至極、シンプルな理論に基づいています。それを実証するデータもあります。

 トンタンさんの根拠をお示し下さい。

[]議論2 22:51 議論2 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 議論2 - 西川純のメモ 議論2 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 だいぶ論点がシャープになりました。

 第一の質問に対してのレスですが「部分を見て全体を述べることは科学的ではないと思います。」とおっしゃいます。が、一般的な国語のテストの場合、読み取りが50%であり、基礎的文法が25%であり、漢字の書き取りが25%ぐらいだと思います。

 ということは、従来型の一斉指導で点数が変わる部分、そして、『学び合い』の初期段階で点数が変わる部分が50%ぐらいあるということです。それを部分と言えるのですか?

 それをトンタンさんが部分と言うのは結構です。しかし、トンタンさんの主張は「小学校教師」だったことをお忘れ無く。

 第二の質問に対してのレスですが、今一度、質問します。

 つまり、テストの点数より、トンタンさんの説明の方が説得力があるかということです。

 もっと具体的に私の質問を表現しましょう。

 テストの点数が良くて、トンタンさんの大事にしたものが成り立っているならば問題はありません。「小学校教師」がどち欠けたときに問題が起こるのは、どちらの方が多いか。それでお応え下さい。

 次に、子どもの基準に対しては、お応えがなかったように思います。子ども「たち」が関わっているとき、「出来た/出来ない」の議論が起ったときどうするのでしょうか?

 我々の研究によれば、子どもは教師に「これでいい?」と聞きます。結局、従来の授業に戻ります。

 いや、一人一人違って良いというかもしれませんね。では、その一人一人の違って良いものが教師と違っても良いですか?

 

[]考え方のレベルで 22:29 考え方のレベルで - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 考え方のレベルで - 西川純のメモ 考え方のレベルで - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は私の誕生日で、誕生日パーティーの予定でしたが、息子が発熱(インフルエンザではありません)ということで中止です。今、息子の添い寝から復帰です。

 テストの点数に関してですが、考え方のレベルでも整理したいと思います。

 仏教、キリスト教、イスラム教という宗教は神と人との間の存在という意味で大きな違いがあります。

 仏教における「神」は仏で、それは如来です。ところが如来と人の間には色々な存在があります。菩薩(観音菩薩や弥勒菩薩など)、明王(不動明王や金剛夜叉明王など)、天部(梵天、帝釈天など)があり、羅漢や上人、聖人などがあります。そして、それらは全て信仰の対象となっています。

 ところがイスラム教ではアッラーが絶対で、それ以外は、その他大勢なのです。例えば預言者マホメッドは預言者ではありますが、人は人にすぎません。モスクの横に、マホメッドを祀った神殿があるなんてイスラム教徒には考えられません。

 キリスト教はその中間当たりです。父なる神の言葉を伝えたキリストが三位一体説によって神となりました。さらに、マリヤに祈りを捧げたり、聖人に祈りを捧げると言うことはキャソリックはありえます。

 良い悪いではなく、そういう多様性があるということです。

 私にとって「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」という学校観は、絶対です。その中間あたりなんて考えられません。テストの点数が下らないなんて、人様から指摘される以前に、分かりすぎるほど、分かっています。しかし、教科の内容に依存するものだって、その学校観から比べたら、テストの点数と同じぐらい下らないものだと思っています。

 私だって、教科の内容に依存する素晴らしいものを知っています。

 高校3年間の内、2年間は蝶々を追い求めました。夏の暑い炎天下で捕虫網を持って蝶を捕って整理している日々でした。一つのことを続けると、そこから得られることは多いし、生物を多面的に見ることが出来ます。

 大学の学部では生物学を専攻しているにも関わらず、独学で解析学や代数学や位相幾何学を学びました。単純な前提から、これほど豊かな世界が広がるとは知りませんでした。なによりもシンプルでピュアーな世界が広がりました。

 大学の卒業研究では生物物理学を学びました。複雑でゴチャゴチャしている生物は数学や物理学では扱えないような世界でした。しかし、複雑な現象を大胆に近似し、それを数学や物理学で記載すると、複雑でゴチャゴチャした生物が記載できることが分かりました。

 しかし、臨海実習でウニの卵割を三日三晩かけて連続して観察しました。その美しさは言葉には出来ません。もちろん数式にも表せません。生物は生物だと思い知らされました。

 その素晴らしさを分かりつつも、一般の学校教育では下らんと思います(専門教育ではないですよ)。だって、それらのことを日本国民全員が学ぶべきだと日本国民に求めるべきではないと思っています。また、日本国民全員が分かるとは思いません。日本国民全員の大人になってからの社会生活・家庭生活に必須だとは思いません。それは学んだ方が良いし、学べば素晴らしいとは思いますが、絶対だとは思えません。

 私の教師の原体験である学校で出会った子ども達は最底辺の子ども達です。小中学校で教師や同級生にいじめ抜かれた子ども達です。鬼畜と呼びたいような親を持つ子もいます。それでいながら、毎日、そこに戻らなければならない子ども達もいるのです。基礎学力は壊滅的にひどい状態です。私もそのような子たちに、教科の内容に依存するものを価値を語りました。でも、あっという間に論破されます。それも、非常に簡単な事実と、論理によってです。

 結局、大学や大学院で学んだことは、その子たちに学ぶ意味を説得することには無力でした。そこで私がやったことは、面白い授業、分かりやすい授業です。でも、結局、面白いと思っている子は全員ではなく、分かりやすいと思っている子は全員ではないという現実に出会います。でも、出口が無くて、面白い授業と分かりやすい授業を追い続けるしかありませんでした。

 そのトラウマが残り、それを追い求める内に『学び合い』の学校観にいたりました。一人一人、全ての子どもを分析するれば、苦しんでいるのは最底辺の子どもだけではないことが分かります。馬鹿馬鹿しいことです。自分を思い起こせば自明です。そのような子が苦しいのは、教科の内容に依存するものが分からないか、否かではありません。教科の内容に依存するものが大事だと思っている教師のクラスにおいて、それが分からないことに起因して対教師、対クラスメートで悩みます。

 やがて、それを乗り越えたクラスにおいて学力が向上することが分かりました。分かってしまえば当たり前のことです。人間関係に悩まなければ、学力向上に結びつくのは、我々大人の社会生活を考えれば当然です。

 やがて、学力向上は人間関係に結びつくことが分かりました。分かってしまえば当たり前のことです。仲良くする活動によって、人間関係は出来ませんです。同じ課題を達成することによって、人間関係を成立させることが出来ます。職場を思い出せば当たり前です。

 そして、ホモサピエンスという種の生存競争の基本戦略を考えれば、『学び合い』の学校観であることに落ち着いたのです。『学び合い』はあまりにも予定調和的であり、できすぎです。でも、人類200万年の絶えざるトライアンドエラーの中で成立した戦略と考えれば実にすっきりします。

 これが私の教師生活、研究者生活25年の歴史です。

 だから、テストの点数なんて下らないと思います。そして、教科の内容に依存するものは、それに比べれば格段に素晴らしいと思います。しかし、『学び合い』の学校観に比べれば両者は同程度に「下らない」と思います。

 そして、その分、「みんな」ということに拘ります。それ以外は、私にとっては誤差です。


[]議論 19:26 議論 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 議論 - 西川純のメモ 議論 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 トンタンさんからレスが来ました。ありがたい。大方の方が、どん引きなっている気配を感じつつ、再度書きます。

 まず、第一の疑問にたいしての返答は論点がずれています。

 私の疑問は、「小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか?」という主張は本当ですか?です。ただし、上記の主張は「とんたんさん」はではなく、小学校の先生一般はそうなのか?

 その後の記載では、文法では指導によって点数の差があることを認めています。ということで、トンタンさんの第一の主張は事実と違うということだと思うのですが?私の疑問は、「小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか?」という点です。そこに焦点を当てて、ご回答下さい。

 第二の主張に対するレスを短くまとめると、トンタンさんが大事にしたいことは、親や同僚に分かりやすく伝えられなくて、子どもが成り立ったと判断するハッキリとした基準はない、ということでしょうか?これまた、イエスかノーで結構です。ノーの場合は、「このようにすれば同僚に伝えられる」、「子ども達は、このような基準で判断できる」とお応え下さい。

追伸 みなさんどん引きにならなくても良いよ。トンタンさんだから安心してシャープな議論をしているんですから。

[]トンタンさんの反論に応えて 14:54 トンタンさんの反論に応えて - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - トンタンさんの反論に応えて - 西川純のメモ トンタンさんの反論に応えて - 西川純のメモ のブックマークコメント

 点数を課題とすることに対して違和感を感じておられる方も多いと思います。トンタンさんもそのお一人です。本日のコメントに書かれた反論に対して私なりの考えを述べます。この議論は実り多いと思います。

 トンタンさんの反論の趣旨は二つです。

 第一は、「小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか?」という主張です。

 第二は、「ほとんどのテストの内容は観点別にされていますが、その8割が「知識」です。指導要領の目標の到達を評価できるようなテストは1社もありません。それで「~点が目標」というのは、危険です。ならば指導要領の到達目標を子供に示した方が確かです。」という主張です。

 まず、第一の主張ですが、「本当ですか?」というのが私の正直な感想です。これをお読みになっている小学校の先生にお伺いしますが、上記は本当ですか?以下で書くことが間違っているならば、教えてください。認識を新たにします。

 私の知る限り、国語の点数を上げられる先生もおられる一方、上げられない先生もおられます。おそらく、読解にはあまり差がないと思います。しかし、漢字の書き取りや、基本的な文法ルールに関しては、指導によって差が生じます。そして、多くの先生方、保護者、そして子ども達は「それが国語の力」であり、「それを高められるのが国語の指導力」だと思っています。最初に言いますが、これは誤りです。国語の力や、国語の指導力は、そんなものではありません。この部分はトンタンさんの第二の主張に一致します。

 さて、十歩下がって平均点の差はあまり差がないということを認めたとします。では、最低点は差がないのでしょうか?もし、それが本当だったら私にとって驚天動地です。平均点は「あまり」差がなかったとしても最低点には大きな差があります。

 私への反論の反論です。

 私の過去のブログ、また、手引き書を確認すれば分かることですが、課題で大事なことは学習者に分からせられることです。そして、私は点数の課題を例示しますが、あくまでも『学び合い』の初心者に対しての例示です。全ての教師がトンタンさんの求めるレベルの課題設定が出来るとは思っていません。また、『学び合い』の初期の段階で、子ども達がトンタンさんの求めるレベルの課題を理解し、それをみんなに広げられるとは思っていません。だから、初期段階で点数の課題を例示することが多いのです。それを越えた後に、とてつもない課題を設定することを禁止したことはありませんよ。あはははは

 逆に、私が違和感を感じるのは、第一の主張です。『学び合い』を実践すれば最低点は目に見えてあがります。『学び合い』では最低点を重視し、平均点に拘りません。もちろん、結果的には平均点は上がりますが、それは結果的なものです。ですので、何故、あのような第一の主張を書かれたのか分かりません。

 第二に、トンタンさんに教えていただきたいのは、国語の学ぶ価値を小学生に分かるように説明してください。そして、小学生でも、それが達成したかしないかを判断する基準を教えてください。

 そして、テストの点数ではなく、保護者や同僚に説得する説明を教えてください。もちろん完璧な説得などはあり得ません。まずはテストの点数で説得する以上の道があれば教えてください。以上が納得できれば、点数の例示は止めます。

 以上まとめると、トンタンさんへの疑問は、第一は「小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか?」という主張の真意はどこにあるのでしょうか?

 第二は、『学び合い』の初期段階において、点数以上に授業者、学習者、保護者、同僚が納得できる「国語の価値」を、点数以上に理解し、納得できる説明(それが成り立ったか否かの判断基準)を教えてください。

 これが解決できれば、多くのことを乗り越えられます。トンタンさんの応えを楽しみにしています。

[]本日 09:55 本日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 本日 - 西川純のメモ 本日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ついに50歳になりました。朝一番に、家内と息子におめでとうを言われました。半世紀と書けば、なんか自分が博物館にも行きそうな気になります。私が生まれた年の50年前は明治42年です。伊藤博文が暗殺された年です。今から50年後の世界はどうなっているのでしょうか?幸せな世界であって欲しい。心から願います。

[]何故 09:55 何故 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 何故 - 西川純のメモ 何故 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 多くの学校では、教師が何をするかに着目して、子どもが何をなしたかを問いません。そして、課題設定が難しいという人には、点数で課題を設定しても良いですよ、と言うと、『学び合い』は点数主義と言う人がいます。残念です。その理由を分析します。

 ディールとケネディーは企業の文化を分析し、おおよそ4つのタイプに分かれることを明らかにしました。そして、その企業がどのタイプになるかは、その企業の抱えるリスクと、やったことの結果が直ぐに分かるかどうかで分けられます。

 『逞しい、男っぽい文化。つねに高いリスクを負い、行動が正しかったか、間違っていたかについて速やかに結果が得られる個人主義者の世界。

 よく働き/よく遊ぶ文化。陽気さと活動が支配する文化で、従業員はほとんどリスクを負わず、結果は直ぐに現れる。成功するために企業文化が社員に促すのは、比較的低リスクの活動を高レベルに維持することである。

 会社をかける文化。大金のかかった意志決定の文化で、しかも、これらの意志決定から精巧に見通しが立つまでに数年かかる。高リスクで、結果がなかなか現れない環境である。

 手続き文化。結果を知ることのほとんどない、あるいは全くない世界で、職員は自分たちの作業を評価することが出来ない。そのかわり、彼らは仕事の進め方に神経を集中する。これらの手続きにコントロールが効かなかったとき、私たちはこの文化を別名でよぶ。官僚主義と!』(ディール、ケネディ 1997、157-158)

 具体的には、逞しい、男っぽい文化は建設、化粧品、経営コンサルティング、危険資本、公告、テレビジョン、映画、出版、スポーツなどが上げられます。これらの企業は、何かするには膨大な資金をかけなければなりません。そして、それが成功したかしないかは数ヶ月で分かり、最長でも1年以内で分かります。

 よく働き/よく遊ぶ文化は不動産業者、コンピュータ会社、自動車の販売業者、など大衆が買うものを扱うが含まれます。この企業の扱うものは比較的安価であり、それが売れるか売れないかによって直ちに企業の存亡は問われません。しかし、結果は売れるか/売れないかであり、直ちに分かります。

 会社をかける文化は、石油探索をする石油会社、新型機を開発する飛行機会社、スペースシャトル計画を進めるNASAなどがあります。この企業は、何かするには膨大な資金をかけなければなりません。そして、それが成功するかしないかがハッキリするには数年はかかります。

 手続きの文化は銀行、保険会社、金融機関、政府の大部分、電力会社のように、高度の規制を受け、逆に守られている企業です。この企業ではリスクを負いません。そして結果を知ることはほとんどありません。

 『職員は何をするかではなく、与えられた仕事をどのようにするかに注意を集中するしかない。彼らはその組織内の世界のさまざまな要素を、意味もないのに結びつけたりし、些細なこと“ある種の電話、とるに足らない書類、あるいは課長の最近のメモなど”を大げさに扱う。これらの文化に属する人たちは「失敗をとりつくろう」ことに腐心するようになる。ごく些細なことがメモの題材となる。彼らは事態を詳細に記述し、自分たちの行動をもっともらしく説明して、それを配布する。メモを受けとった人たちは、自分が何か過ちを犯したとは認めたくない。そこで返事を書くのだが、それがしばしば、もとのメモと同じぐらい詳しい。これはみなファイルされる。五年後に誰かがこの事件のことを持ち出しても、自分は過ちを犯さなかったと証明できるようにしておくのである。

 この文化の中心的な価値は技術的な完璧さ“リスクを計算して、科学の域に達した解答をびったりと出すこと”である。言い換えれば、手続きと細部の正しさなのである。』(ディール、ケネディ 1997、177)

 このように書けば、学校が手続き文化であることは明白である。しかし、手続き文化が悪いばかりとは言えません。『銀行や保険会社、あるいは政府機関が、時世の変化や流行にいちいち反応したら、私たちはみな困るだろう。自動車の運転免許を取るためのテストに毎年大きな変更があったとしたらどうなんるだろう?あるいは所得税の納入手続きが変わったら?そしてに、よく働き/よく遊ぶタイプの人に、自分の当座預金口座を任せたい人がいるだろうか?』(ディール、ケネディ 1997、177-178)

 このような手続き文化にある学校においては、最終的結果は何であるかを意識することは希です。例えば、学力であるが、それで評価されることはほとんどありません。全国学力調査で学校別のテストの点数が公表されるということになったときの教育関係者の反応は象徴的です。その是非はともかくとしても、今まで学力が評価の対象となっていなかったことを端的に表しています。テストの点数に評価の対象となりうるものがあり得るでしょうか?おそらく無いだろう。

 非常に言いにくいことだけど、ハッキリと言えば、今の学校は子どもの学力を保証したいと願ってはいません。子どもが居心地が良い環境を保証したいとは願ってはいません。願っていればシビアになるし、評価したいと願います。しかし、それが甘いから、子ども学力は何か、子どもの居心地が良い環境とは何かを評価しようとはしていません。その代わりに、誰からも文句を言われないようにするための膨大な書類づくりにエネルギーを費やします。そして、子どもがどうなったかではなく、教師がどうやったかに着目します。では、何故そうなっているか?

 それは、一人一人の子どもの人生を、「よく働き/よく遊ぶ文化」の企業で扱っているような大衆が売り買いするようなレベルの商品と同じ価値しかないと思っているのです。また、「教育の結果は直ぐには分からない」という言葉を用いて、結果がフィードバックすることを拒否します。実は、これも子どもの人生を軽く見ているからです。

 一人一人の教師の善意を疑いません。数多くの職業から教師を選んだのですから、そこには子どもの人生の価値を認めたはずです。ところが、教師人生の中で、それを無視するように条件付けられてしまった。気持ちは分かります。解決できない問題に直面しつづければ、自分の心を病む。合理化し、人生の問題ではなく、漢字の書き取りの正確さや計算の速さに価値を教育の価値であると考えるようになったのだと思います。

 クラスの8割程度の学力の保証、居心地の良いクラスレベルだったら、『学び合い』でなくても可能かも知れません(かなり難しいですが)。しかし、最後まで残る数人にも人生があることを忘れたくない。それを満たせなかったときの罪の重さに恐れます。そして、満たしていると思っている8割の子ども達も子細に見れば、不安を抱えていたり、もっと高い学力保証があることを知れば、もっと恐ろしくなります。

 テクニックは伝えやすい。しかし、本当に伝えたいのは、この恐れです。その恐れが分かれば、『学び合い』の学校観・子ども観がどれほど大事かが分かります。そうすれば、ご当人が『学び合い』をしようとしているか否かに関わらず、結局、『学び合い』をしていることになるのです。それをどうしたら伝えられるのか悩みます。

F-KatagiriF-Katagiri2009/09/14 10:21「知天命」おめでとうございます。私もあっという間です。きっと。先生の「天命」は、我々を鼓舞することでしょうか?

tontan2tontan22009/09/14 13:04反論です。
私はテストの点数を課題にすべきではないと考えています。小学校ならばなおさらです。小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか? また、ほとんどのテストの内容は観点別にされていますが、その8割が「知識」です。指導要領の目標の到達を評価できるようなテストは1社もありません。それで「~点が目標」というのは、危険です。ならば指導要領の到達目標を子供に示した方が確かです。
多くの先生が、テストを「適正」だと評価し、表計算で成績をだしています。その感覚の方が問題なのだと考えます。

jun24kawajun24kawa2009/09/14 14:26Kさんへ
一歩先を歩んでいます。
待っていますよ。
tontanさんへ
あなたの反論に対して、私なりの考えを述べます。
ちょっとまってね。

tontan2tontan22009/09/14 17:22私も実りある議論だと思いますので全力でいきます。

>まず、第一の主張ですが、「本当ですか?」というのが私の正直な感想です。これをお読みになっている小学校の先生にお伺いしますが、上記は本当ですか?以下で書くことが間違っているならば、教えてください。認識を新たにします。

そうだと思います。だってここのブログでも小学校の先生が「国語の得点」についてこだわってる内容は私は1件も見ていません。(まあよく読んでいないせいかもしれませんが)この点については他の小学校の先生の意見を私も待ちたいと思いますが。
 
つぎに内容のことについて書きます。もう「時効」だと思って書きます。初任の頃、あまりに国語の読み取りのテストが馬鹿らしくて、いかに子どもにこだわる必要なんてないか「事前テスト」をやったことがあります。結果は8割が100点、その他は忘れましたが最低でも60点くらいだったと思います。まあ「最低点」の話をすればそれまでですが、学んでもいないのに8割100点とれるテストに意味はあるでしょうか? そしてそれを目標にする必要があるでしょうか?
>漢字の書き取りや、基本的な文法ルールに関しては、指導によって差が生じます。
これは「学び合い」をすれば、効力を発揮すると思います。文法などについてはテストが目標でよいと思います。
 
>私が違和感を感じるのは、第一の主張です。『学び合い』を実践すれば最低点は目に見えてあがります。『学び合い』では最低点を重視し、平均点に拘りません。もちろん、結果的には平均点は上がりますが、それは結果的なものです。ですので、何故、あのような第一の主張を書かれたのか分かりません。
 
逆になぜ初期段階で算数の最低点が飛躍的に上がるのかと言うことです。算数の出来ない子どもはどこにつまずいているのかを分析すれば分かります。これは理科や社会の最低点や平均点が「向上しないこと」があることと関係します。(そういうブログの記事をよく見かけますよね) 国語の授業では「問題を解く」という視点で学習していません。理科や社会も同様です。算数は、テストの問題文と算数の教科書がリンクしているから、「問題の意味」が読み取りやすいので最低点がすぐに向上します。理科や社会科では問題の「出し方」で大きく平均点も、最低点もうねりが起こります。みなさん、そうではありませんか? 
 
まずは第1の反論についてです。

tontan2tontan22009/09/14 17:48第二の論点です

>国語の学ぶ価値を小学生に分かるように説明してください。そして、小学生でも、それが達成したかしないかを判断する基準を教えてください。

学ぶ価値を説明することと目標が到達したことが分かることは、私には別のことに感じるので分けて書きます。
 
国語でも他の教科でもその学ぶ価値は、「楽しさ」だと子どもには説明しています。「分かること」は単純に楽しいから、子どもは「学び合い」ます。私は「学び合い」そのものが目標なのではなく、子どもの学ぶ手段だと思っています。楽しければ大人になっても学びますもん。子どもにいちいち説明しなくても、学びを子どもの主体性に乗せれば、子どもは楽しみながら学びます。私は「楽しさ」を掲げます。
 
次に子どもの学びの到達を測る方法です。単純です。指導要領に到達すべき目標がちゃんと書いてあります。そのための解説も書いてあります。ただ、問題はそれぞれの量が多く「読みづらい」それだけです。ちゃんと読んで整理し、子どもに示してあげればよいだけです。それを授業のどのような部分(結果)で評価するかも教えればよいと考えます。
 
>そして、テストの点数ではなく、保護者や同僚に説得する説明を教えてください。もちろん完璧な説得などはあり得ません。まずはテストの点数で説得する以上の道があれば教えてください。以上が納得できれば、点数の例示は止めます。

私たちが同僚や親に見せたいのはテストの点数でしょうか、少なくても私が見せたいのは「学ぶ子どもの姿」です。もっとも単純でそして心を打つ、そうではありませんでしょうか? 子どもだって点数にそんなにこだわってるでしょうか? 跳び箱が跳べない子が跳べるようになったり、国語で主人公の心情を読み取れたり、説明文の段落のつながりが分かったり、理科で何かを発見したり……、計算できるものではなく、そうした日常が継続するから子どもは「学び合い」を指示するのでしょう。むろん「初期段階だから」と言われれば「点数もありでしょうね」と言わざるを得ませんが。
 
私は上記は点数のように分かりやすくはありません。でも「あいまいさ」があるからダメでしょうか? 
 
>それが成り立ったか否かの判断基準

そんなのありません。私もまた「不完全」なものであり、「成り立った?」と言われれば、「うーーん」と唸るしかありません。でも子どもの姿と自分には嘘をつけません。それでよいのでしょうか?

bunbun-hbunbun-h2009/09/14 21:00これが引けますかいな。
わくわくして、自分のブログに書きたいのだけれど、上ずっちゃって書けない、書けない、書けない・・・
ひげさん助けて・・・

twoyoshitwoyoshi2009/09/14 22:09お待たせしました!
第一の問題ですが、小学校で学習する範囲が大方の小学生にとって狭すぎ、なおかつ学習内容自体も易しすぎるのだと思います。もともとのハードルが高くないから、テストで差がつかないようなことになるのではないでしょうか?
先生も生徒も本気にならないとクリアーできないようなハードルであれば、状況は違ってくると思います。
また、テストの点数を目標にするのは大いにけっこうなことだと思います。ただし、そのテストが学習指導要領の指導目標を満たすための指標としてのreliability,credibility,practicalityを満たすものであると、教師が説明できなければなりません。(←ここが大事です。)

bunbun-hbunbun-h2009/09/14 22:18お待ちしてました!(ひげさん)
でも、来るまでにブログ書いちゃいました!
(この議論、真摯に受け止めています)

twoyoshitwoyoshi2009/09/14 22:20第2の問題ですが、私は西川先生の次のコメント

非常に言いにくいことだけど、ハッキリと言えば、今の学校は子どもの学力を保証したいと願ってはいません。子どもが居心地が良い環境を保証したいとは願ってはいません。願っていればシビアになるし、評価したいと願います。しかし、それが甘いから、子ども学力は何か、子どもの居心地が良い環境とは何かを評価しようとはしていません。その代わりに、誰からも文句を言われないようにするための膨大な書類づくりにエネルギーを費やします。そして、子どもがどうなったかではなく、教師がどうやったかに着目します。では、何故そうなっているか?

が先生の伝えたいことなのだと思います。私は今まで、自分に評価の手が伸びることを恐れて、子どもを評価しない教員に何人もであってきました。
その人たちが口を揃えて言うのは、「大学入試に合格させるために教えているのではない。もっと広い教養を身につけるために・・・」そしてその教師のほとんどは、他人に授業を決して見せず、また教材研究もしませんし、教えられて学問に目覚めた生徒もいません。
私に言わせれば、教養を身につけさせたいんだったら、大学入試ぐらい受からせるようにしろよ。です。
もっと端的に言えば、そうやって嘘をついている教師を生徒は簡単に見抜きます。

jun24kawajun24kawa2009/09/14 22:28そういう嘘を言っている人が、一番、惨めなんだよね。
でも、個々人が悪いわけではない。と、考えるのが『学び合い』の作法だと思います。
でも、悪気が無くても、苦しいんでいる子どもがいます。
集団を変えねば。ね。

tontan2tontan22009/09/14 22:33小僧がやっと寝ましたので^^
みなさんドン引きしないでくださいね!
 
>私の疑問は、「小学校の先生ならば分かるように、授業をしてもしなくても国語のテストの点数は「ほぼ変わりません」それを目標にすべきでしょうか?」という主張は本当ですか?です。ただし、上記の主張は「とんたんさん」はではなく、小学校の先生一般はそうなのか?

「私」ではないので、これにレスするのはどうかとは思いますが、
定義が曖昧でした。
テスト=小学校でよく使う一般的な市販のテスト
「変わりません」=継続的に授業をすることでテストの点数は向上することでしょう。しかし、その単元(読み取り教材)の学習をしても「ほとんど点数は変わらない」ということです。
 
あくまで私の予想ですが、小学校の先生に読み取りの学習とテストの点数は相関関係があると思いますか? という問いに小学校の多くの先生は「あまりありません」と答えるでしょう。違ってたら教えてください。
 
>その後の記載では、文法では指導によって点数の差があることを認めています。ということで、トンタンさんの第一の主張は事実と違うということだと思うのですが?
 
部分を見て全体を述べることは科学的ではないと思います。文法の部分は確かにそうでしょう。だからといって全体がそうであるとは限りません。
 
>第二の主張に対するレスを短くまとめると、トンタンさんが大事にしたいことは、親や同僚に分かりやすく伝えられなくて、子どもが成り立ったと判断するハッキリとした基準はない、ということでしょうか?
 
イエスでもありノーでのあります。「子どもの姿」は同僚にも親にも非常に分かりやすいものです。そしてそれに基準はあるか? と言われれば「ない」と思います。そもそも人間の脳の認知の仕方は、イエスかノーという判断ではないと考えています。直感が働きます。直感とは当てずっぽうと言うことではなく、人の脳は総合的に物事を判断する能力に特化しているということです。それを使っているのが「学び合い」ですよね。子どもの学びはイエスかノーかで判断はしていないはずです。だから「判断」にイエスかノーのような基準はいらないと考えます。
さらに子どもたち自身がテストで自分たちの「学び合い」を判断されたいと考えているのでしょうか? そうであれば私の考える「学び合い」というのはめざす方向性が違うのかもしれません。

twoyoshitwoyoshi2009/09/14 22:37といっても私も苦しくなると「所詮は他人の子だから・・・」と嘘どころか放り投げてしまいます。そうでもしないと自分が壊れるので。教える能力というよりも、苦しみに耐え抜くことができる人は一握りであるからこそ、『学び合い』なのだと思います。

tontan2tontan22009/09/14 22:41追記です。
 
テストの点数を目標とするならば、「学び合い」とテストの相関関係を明らかにすべきです。それも全教科でです。それに分析をかけて、明らかな相関関係が見られるならば理解できます。
私の予想では、理科や社会科のテストでは大きな「ゆらぎ」が出るはずです。
小学校で実践されている先生方も理科や社会科の「ゆらぎ」を感じていませんか? そしてその原因を子どものせいにしていませんか? それがダメだと言うことです。

twoyoshitwoyoshi2009/09/14 22:47tontan2さん
横から口を挟んで申し訳ありませんでした。今後はコメントは自分のブログに書くことにします。失礼しました。

tontan2tontan22009/09/14 23:27>twoyoshiさん
どうぞ、口を挟んでください^^
それぞれに疑問を出してみればよいですし、それに私も答えたいと思います。議論のない、議論のゆるさない研究なんてつぶれるだけですから。

>どうやら、私が点数を上げることを「目標」としていると思っているようですね。
 
課題ですね。でも「学び合い」をしている先生方はそれを使い分けているでしょうか?
 
>そのデータに疑義を出すならば、それに相応するデータを出して議論すべきです。それなしで議論するのでは、水掛け論ですよ。

私は学者ではないので、正確な統計的分析データを持っていません。が、「やらなくても」割が100点とれるテストが「学び合い」と相関関係が見られるとは思えません。西川研のデータの詳細は分かりませんが、先に述べたように、「我々」が使っている市販のテストで、主要教科のデーターがあるならば教えてください。
 
>テストの点数が上がらないのは、非常に低レベルのことが分かっていないことが大きな原因である。
 
それだけなら「ゆらぎ」は起こりません。なぜ「ゆらぎ」が起こるとお考えでしょうか?

tontan2tontan22009/09/14 23:30ちなみに「ゆらぎ」なんてあるのかい? と思われるかもしれませんが。
これまでの先生方のブログを思い出せば納得いくと思います。

tontan2tontan22009/09/14 23:53論点2を読み飛ばしていました。すみません。
 
従来型の一斉指導で点数が変わる部分、そして、『学び合い』の初期段階で点数が変わる部分が50%ぐらいあるということです。それを部分と言えるのですか?それをトンタンさんが部分と言うのは結構です。しかし、トンタンさんの主張は「小学校教師」だったことをお忘れ無く。

それはかけてる時間が違います。通常文法の授業は1~2時間、漢字は「ちょっと」、そして読み取りや文章を書くは、おおむね15時間位費やします。授業時数の割合で言えば、文法は1割ちょっとにすぎません。漢字はさらにその下です。さらに文法は別の「単元」です。
 
そもそも、テストは点数を合算するものではありません。読み取りの100点と文法の25点は、観点別に評価するものであり、点数が同等であるとは言えません。小学校の教師だからこそ言えます。
 
>つまり、テストの点数より、トンタンさんの説明の方が説得力があるかということです。

私はテストではなく、子どもの姿で示した方が伝わりやすいのだと考えます。その理由は西川先生が最初に述べたとおりだからですし、私もそう思うからです。
 
>子どもの基準に対しては、お応えがなかったように思います。子ども「たち」が関わっているとき、「出来た/出来ない」の議論が起ったときどうするのでしょうか?
 
子どもをどういう基準で判断するか? ですが私の答えはそもそも判断なんてする必要ないということです。
子どもたちの「出来た・出来ない」の議論ですが、それはケースバイ・ケースだと思います。内容にもよります。「これしかない」という方法はないことでしょう。基本は子どもが納得すればどんな方法でも受け入れることでしょう。

tontan2tontan22009/09/15 00:01上に補足します。
 
先生方に「学び合い」はテストの点数が向上しますよ! と言っても「ふ~~~ん」、「最低点が上がりますよ!」 「ふーーん」という反応が一般的です。もちろん学びの会では違うでしょう。
 
しかし、多くの先生方が震え上がるのは「自分の授業と比べられること」であり、それを「子どもが話す」ことです。でも広げる手段としてはできるだけ使わない方がよい「劇薬」です。

tontan2tontan22009/09/15 00:24>基礎的な文法や漢字の書き取りの点数の部分は高かろうと低かろうと重要ではないと「小学校教師」は思っているとトンタンさんは思われている。私は、そうは思っていません。
 
私はそう思ってはいません。読み取りの「学び合い」の授業は、テストにほぼ反映されていないということです。「時数的に大きな時間をかけているにも関わらず」ということです。
 
>そして、以上のうち最初の二つはどうでもいいことです。本当に大事なことは考え方のレベルのことだと、私は思っています。点数を課題にするかしないかなどは、どうでもいいことだと私は思っています。
 
私も最初からそう思っています。点数を課題にするかどうかなんてどうでもいいことで、それをあえて言う必要なんてないという考えです。

09/09/13(日)

[]四十代最後の日 22:17 四十代最後の日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 四十代最後の日 - 西川純のメモ 四十代最後の日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 自分が三十になった日は、自分の誕生日であることさえ忘れていました。三十になっても自分は二十代だと思っていました。それが三十後半まで続きました。が、四十になれば、それは無理だとあきらめがつきます。自分がごく普通に「おじさん」出るあることを自覚できます。では、五十代とは何か、「おじさん」の最後の年代であり、「おじ~さん」への第一歩です。

 本日は、誕生日の前夜祭です。家族に祝ってもらいました。

[]富山の会 07:45 富山の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 富山の会 - 西川純のメモ 富山の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 1週間を切りました。残り僅か。オジサンには分からないけど、若い企画者たちが新企画を計画しています。

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第7回 行列のできる『学び合い』相談所

1.日時  9月19日(土)13:00~ (受付12:30~)

2.会場  富山駅前 CiC(シック)ビル 5階 いきいき館 とやま劇場

3.主催  子どもに学ぶ教師の会

4.講師  西川 純 教授(上越教育大学教職大学院)

5.内容・日程(予定)

  12:30      受付開始

  13:00~13:10  開会の挨拶・①西川 純教授による講演 

  13:10~13:15  休憩・②の準備

  13:15~14:15  ②『学び合い』を体験するための模擬授業

  14:15~14:30  休憩

  14:30~15:00  ③西川 純教授による講演  『学び合い』のよさ

  15:00~15:15  休憩

  15:15~16:25  ④『学び合い』を理解するための模擬授業

  16:25~17:00 ⑤シェアリング(ふり返り、まとめ)・閉会のあいさつ 

6.参加費  1000円 (当日集金致します)

7.申し込み方法

 以下のアドレスまでメールをお願いします。(定員60名。出来れば8月31日までにお申し込みいただければありがたいです。当日参加も受け付けますが会場の広さに限りがありますので、早めにお申し込みください。)

   manabiai10★gmail.com ★を@に変えて下さい。

※申し込みメールには次のものをご記入ください。

①お名前 ②お勤め先 ③ご住所 ④電話番号かメールアドレス

⑤懇親会参加(参加費5000円)の有無

mitaka2mitaka22009/09/13 17:57東京の会、埼玉の会、からも参加させていただきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。

jun24kawajun24kawa2009/09/13 22:11楽しみですね。

toshimtoshim2009/09/14 05:58今日ですね。お誕生日おめでとうございます!

jun24kawajun24kawa2009/09/14 06:30ありがとうございます。

chia_nechia_ne2009/09/14 07:419月14日。いい天気ですね。お誕生日おめでとうございます!

jun24kawajun24kawa2009/09/14 09:55ありがとうございます。
天も祝ってくれているような晴天ですね。

09/09/12(土)

[]サポートしますよ 22:31 サポートしますよ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - サポートしますよ - 西川純のメモ サポートしますよ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 授業の様子をビデオで撮って、私に送っていただければ、何が足りないのか(逆に、何が余分なのか)を分析します。出来れば、スカイプや電話で語り合えば、かなりのことを出来るはずです。手引き書で書いてあることであっても、声で聞くと意味が分かることもあります。

 サポートしますよ。

 『学び合い』は簡単です。少なくとも従来型の授業よりは簡単です。2週間で計6~8回の授業を見せていただき、私の語ることをその期間だけでも信じていただき、実行していただければ、『学び合い』は伝えることが出来ます。上越地区だったらそれが可能なのに、それを求める人は殆どいません。劇的に人間関係が向上し、成績が向上するのに・・・。上越地区以外の方の場合は、スカイプやビデオを活用して下さい。

 『学び合い』で一番大変なのは、「やる」と一歩を踏み出すことなのですから。

ghjalghjal2009/09/13 17:43本当ですか?でもビデオで撮るのは難しいなあ。子供があっちこっちにいっちゃうからなあ。図書室とか、パソコン室とか。下手すると教室にだれもいなかったり。教室に閉じ込めてビデオが撮れたらお願いします。

jun24kawajun24kawa2009/09/13 17:52そんな様子だったら、相談という言うより、自慢でしょ!
そんなだったら、「君らの凄さを自慢したいんだよ」と言って教室の前にビデオを設置すれば、それなりに勉強しますよ。
ふぉふぉふぉ
まあ、心配事があるならば、ghjalさんの姿だけ写すだけでもだいたいは分かりますよ。

09/09/11(金)

[]滋賀の会 06:43 滋賀の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 滋賀の会 - 西川純のメモ 滋賀の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 滋賀の同志が会を開きます。岐阜や大阪から電車で1時間ちょいのところです。お誘いします。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/bruce-s/20090910/1252591029

bruce-sbruce-s2009/09/11 18:2324kawa先生、ご紹介いただいて、ありがとうございます。
『学び合い』を通じて、いろいろな人とつながり合うと、地元での『学び合い』も高まり広まると思うので、私もいろいろなところで声を掛けていきたいと思います。細々でも続けていきます!

jun24kawajun24kawa2009/09/11 19:24期待しています。

09/09/10(木)

[]朝 09:12 朝 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 朝 - 西川純のメモ 朝 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 天気の良い日は歩いて大学まで行きます。4km強で50分かかります。ipodを聞いて歩きます。定番は落語です。まあ、落語が好きというのが理由ですが、話術の練習という意味もあります。研究室運営は『学び合い』でやっていますが、講演会はバリバリの一斉指導です。暴走族相手に授業をしている頃に比べて、格段に話術が衰えています。それを回復する意味でも落語を聞きます。落語を聞くと、全く同じマクラなのに面白さが全く違います。不思議です。間とかというものでしょう。あれは、話を完全に暗記し、そして離れたときに出来ることです。『学び合い』の会のリピーターのために、意図的に新作の話をすることがあります。しかし、自分なりに納得できる語りが出来るのは定番の話です。そのような話の場合、話の基本は眠っても出来る。そのため、大脳は自分自身をモニターし、コントロールすることが出来ます。そんなことを考えながら落語を聞きます。

 が、今日は天気が良いので久しぶりに中西圭三の曲を聴きました。Glory Daysの部分ではノリノリです。大学までの通勤は、広い田んぼの中を歩きます。ということで私の頭の上は178度(180度ではありません)は空です。澄み渡った空です。空気はひんやりとして気分は良い。風は微風。最高のウオーキング日和です。Glory Daysを聞きながら思わず大股で歩きます。

 あと少しで50歳になりますが、気分は青年です。

追伸 落語のCDDVDをお持ちだったら貸してくれませんか?

[]段位 09:12 段位 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 段位 - 西川純のメモ 段位 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、自分は何故、若々しくいられるかを考えました。それは志だと思います。それを思いながら歩きながら考えました。かつてのメモに書いたとおり、『学び合い』には段位はないと思っています。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20060729/1154130853

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20070314/1173830419

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20070611/1181566454

 でも、自分のレベルを維持できる人と、維持できない人はいるようです。残念ながら。『学び合い』は簡単です。バンジージャンプと同じで、一歩ふみだせば、出来ます。もちろん、悩みやつまずきはあるでしょう。しかし、少なくとも従来型よりはましであることは確かです。そして、つまずいたら分かった人に聞けば良いだけのことです。

 まあ、2年もたてばたいていの人は、自分なりの理解をして、安定した実践が出来るようになります。無意識のうちに出来るようになります。が、それでいいと思う人がいます。まあしょうがありません。人は易きに流れるものですから。まあ「もっと」が無くなっていくんですね。そうなると本人が気づかぬうちに腐っていきます。私の経験上、半年単位ではありませんが、まあ2年以内にハッキリと腐ります。そして、自分のクラスが実は本当に腐っていたことに愕然とします。

 しょうがありません。自分が子ども達に「みんな」と求め、「もっと」と求めているのに、その当人がそうではないならば鼎の軽重を問われます。このあたりの理屈が分かるか、分からないかで腐るか、腐らないかの違いが出ます。もっと正確に言えば、誰でも易きに流れます。私もそうです。しかし、腐ったときに、その理由を理解でき正すことの出来る人と、腐ったことを合理化する人の違いが出ます。『学び合い』は「みんな」と「もっと」が自分のためであることを子どもに語り、自らにも語ります。

 長文ですが、私のゼミの目標としてHPに書いてあることをアップします。これを建前だと理解する人もいるでしょう。でも、これは建前ではありません。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

本研究室の目標を「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」としました。

 おそらく皆さんの本当の希望は「自分の心に響き、自らを高め」であると思います(単に修了・卒業したいレベルの人は、西川研究室に所属しよう何て思いませんから)。実は私もそうです。しかし、そのレベルを超えた目標を、研究室の目標として掲げることは重要だと考えています。

 世の中には倫理学というのがあります。大学生の頃、それを読みあさった時があります。でも、カント、ヘーゲル、西田は全く分かりませんでした。相対的に分かりやすかったのは和辻です。でも、それでも分かりませんでした。それいらいずっとご無沙汰でしたが、「利己的なサル他人を思いやるサル」という本はどんな倫理学の本より面白く、ためになりました。それによれば、サルにおいても倫理的と思われる行動が見られます。そして、その行動が発生する理由は、その行動によって間接的に利益を得るからです。つまり、弱い仲間を助けたサルは、その群れの他のメンバーから「お返し」が来るんです。なぜ、そんな「お返し」をするかといえば、自分が弱い立場になった時の「保険」みたいなのものです。カント、ヘーゲル、西田のように、どっかに純粋無垢な「善」があるように書かれるのではなく、生々しく、かつ、凄く納得出来るものです。我々は、学び合う能力は本能の中にあると考えています。だから、ゴチャゴチャ言わなくても、自然に発生するものだと信じています。上記の知見は、教師がゴチャゴチャ言わなくても、自然に助け合いが起こるであろうと期待出来ることを証明するものだと思います。

 しかし限界があります。別な猿学者の「ケータイを持ったサル」という本によれば、サルが自身の群れと感じる範囲は極めて狭く、基本は親兄弟で、広がっても普段見知っている集団を越えることは無いそうです。そして、現代の「ひきこもり」や「傍若無人の若者」は、人間の本能の中に組み込まれた「群れ」の範囲がサル並だと考えると、至極当然に解釈出来るとしています。おそらく、これは若者に限らず、人間全般の本能の限界と考えるべきなのでしょう。例えば、年配のおばちゃんが、人の迷惑考えず大声を出しているのは、自分が話している以外の人を、「群れ以外」と分類し、人と認識していないからです。

 私はサルと同じように、自身の損得と、社会の損得自身を冷静に分析し、社会の損得に矛盾しない自分の損得を設定することは「得」だと思います。つまり、みんなを助けるという社会的要請に応えることが自分の得になっていることは、サルと同様に人間でも正しいと思います。ただし、人間の本能に組み込まれている「みんな(もしくは群れ・社会)は、サルと同様に親兄弟、もしくは見知った狭い集団レベルが限界なのだと思います。教師の例で言えば、せいぜい自分の学校の職員集団レベルで、それを越えた集団を群れと認識することは困難で、従って、郡市レベル、県レベル、日本レベルの集団に対する倫理的な行動をすることは困難なのだと思います。それを越えられるのは、本能ではなく、教育によらねばなりません。

 私の大学院の同級生に「教材レベル」の修士論文を書いた人がいます。修了した時に、「お前が作った教材をお前自身が使うの?」と聞きました。彼の返答は「使わない」とさばさばと答えました。つまり、彼にとっての、その教材は自分が修了するため「だけ」の意味しかありません。仮に、自分が使ったとしても、それだけでは、自分のため「だけ」の意味しかありません。ただし、これは教材レベルの研究に限りません。もし、自らが2年間かけてなしたものを自らが使わないならば・・。仮に、自分は使うとして、それを他の人に知ってもらえないならば・・・。私の知る限り、2年間の研究が終わったとたんに、「思い出」の中に死蔵される研究が多すぎるように思います。そして、そんな人は「損」だと思います。

 私には、自分のため、家族のため、そして自身の狭い群れである西川研究室のためという、相対的に狭い範囲の目標があります。しかし、同時に「専門職大学院のため」、「上越教育大学のため」、「学会のため」、「地元教育界のため」、「日本の教育界のため」等々の様々なレベルの目標があります。そして、それぞれに矛盾が生じないよう、相互に関連づけています。そのような多層的な目標を持つため、様々な人とリンクを持ち、かつ、その援助を得ることが出来ます。その結果、とても「得」をしています。

 一方、比較的狭い範囲の群れのための目標しか持たない人もいます。人それぞれですから、完全否定するわけではありませんが、「損な生き方だな~」と思います。そんな「自分」だけの視点でしか捉えられないならば、結局、周りの協力も限られたものです。色々な場で、短期的には要領よく立ち回っているため、長期的には損をして、そのことに気づいていない人を少なからず見てきました。要領よく「美味しい仕事」だけをかっさらって、「大変な仕事」をうま~く逃げる、そして口先だけは当たりがいい人っていますよね。そういう人って、本気でそれでOKだと思っているようです。でも、ちょっとの期間つきあえば、そのような人の「底」が見えます。そうなると、そういう人とのお付き合いは要領よく避けます。だって、そんな人とつきあうことは「損」ですから。

 以上の理由から、本研究室の目標を「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」としました。是非、皆さんの中で、この目標を基に、多層的な目標群を設定して欲しいと思います。

F-KatagiriF-Katagiri2009/09/10 09:30無料で質のいい落語をこちらのサイトで聞けますよ。もちろんiPodにダウンロード可能です。
http://fujitv.cocolog-nifty.com/yose/

ima-kiyima-kiy2009/09/10 13:38志の輔、無事に聴けました?

jun24kawajun24kawa2009/09/10 17:30Kさんへ
ありがとう。
imakiyさんへ
ありがとう。笑いましたよ。新版手に入れたら教えてね。

twoyoshitwoyoshi2009/09/10 23:03厳しいお言葉ありがとうございます。自分でよくわかっています。

cyorisocyoriso2009/09/10 23:13頑張ります。

jun24kawajun24kawa2009/09/11 06:48志を高く持てば、誇り高く生きることが出来ます。
志を高く持てば、志の高い人と同志となることが出来ます。
期待しています。
ちなみに
頑張らなくても良いんだよ。遊んでも良いんだよ。結果を出せばね。ふぉふぉふぉ

ghjalghjal2009/09/12 01:18>志を高く持てば、誇り高く生きる

座右の銘にします。たぶん心の奥底にしまってはいたのでしょうが。これからは顕在化させようと思いました。

jun24kawajun24kawa2009/09/12 05:54したたかに顕在化して下さいね。したたかですよ。
ふぉふぉふぉ

09/09/09(水)

[]沖縄の一歩、二歩 18:00 沖縄の一歩、二歩 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 沖縄の一歩、二歩 - 西川純のメモ 沖縄の一歩、二歩 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 沖縄で小さくとも『学び合い』の会が昨日有ったそうです。そして、第二回目は以下の通りです。お誘いします。

10月の会

期日:10月13日(火)6:30~8:30

場所:くすぬち平和文化会館

 住所:沖縄市安慶田1-20-10

 電話:098-938-4192

参加者:『学び合い』を実践している人、実践で悩んでいる人、授業の話をしたい人、子どもの話をしたい人・・・

 『』の学び合い?て何と、不思議に思った人でも歓迎します。

09/09/08(火)

[]自白 22:16 自白 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 自白 - 西川純のメモ 自白 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は、心配性で、子ども達がちゃんとやっているか、仲良くやっているか、とても不安です。『学び合い』を知ることによって、細かな兆候が凄く分かるようになっています。そのため、気の回しすぎだと分かっていても、凄く気になります。

 私は、個に拘ります。人が不誠実な行動をしたりするとえらく気になります。ちょっとのことで怒り、ぐちぐちと落ち込みます。

 ということで、人様にはクリアーに分析しますが、私がそれに陥らない、ということはありません。人一倍、陥ります。でも、『学び合い』の考え方から自己モニターするので、暴走はしません。

 つまり、間違っても良いんです。間違ったとき、それが何かが分かっていれば。

ghjalghjal2009/09/08 22:21>私がそれに陥らない、ということはありません。

そこまで謙虚になることが必要なのですね。というか自己モニターは大切なのだなと、ちょびっと感じました。

ちょびっとですみません。でも今はちょびっととしか表現できません。

jun24kawajun24kawa2009/09/09 06:38謙虚というほどのことではありませんが、
出来ないこと、出来ないと正直に言った方が楽ですよね。

09/09/07(月)

[]洗脳旅行 17:25 洗脳旅行 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 洗脳旅行 - 西川純のメモ 洗脳旅行 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は、若い学生さんが洗脳旅行にこられました。心を込めて語りました。

09/09/06(日)

[]東京の会 05:46 東京の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 東京の会 - 西川純のメモ 東京の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日は東京の会があり、終わってから懇親会、ホテルに帰ったら、バタンキューでした。

 楽しかった。

 今回の会は、特別支援をテーマとしたものです。私と埼玉のSさんが話しました。埼玉のSさんは、埼玉のKineさんと同様に、教え子自慢によって私を感激で泣かせることを楽しみにしています。ということで、すっと会場の最後列に移動しました。泣いても、分からないように。案の定、ボロボロと泣いてしまいました。

 そのあと、特別支援を受けた当事者、そして特別支援を受けた子どもの保護者からコメントをいただきました。これって、実はドキドキだったんです。幸い、非常に高い評価と、エールをいただきました。

 その後のフリートークの時間。よかった。

 それは、講演者の周り以外に、参加者が集まって話し合っているのです。それも、一杯。そして、アメーバーのように。これって素晴らしいことです。嬉しかった。

 懇親会ではいろいろな人と話しました。みんな前向きで、真剣な方々でした。

 主催者のお一方に呪文をかけました。

 「もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、期待しています」

09/09/05(土)

[]昨日 06:24 昨日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 昨日 - 西川純のメモ 昨日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日は、気持ちよく語らせていただきました。懇親会では、禁断の果実を食べてしまった方の話を聞いて、笑い、うなります。日本の教育は捨てたモンではない、と誇らしく思います。それを暖かく見守る管理職と先輩の様子を見て、その方は、本当に良い学校に来たのだな、と思いました。

 Aさんは、私のそばによるとプレッシャーをかけられると言って、離れていました。でも、離れても、プレッシャーからは逃れられません。

 群馬の同志へ

 今年は主催者側が数倍になりそうだね。と、いうことは、・・・・・。もうおわかりですよね。我々は急がなければなりません。待っている人の顔はありありと浮かぶよね。

 ふぉふぉふぉ

09/09/04(金)

[]会 05:57 会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 会 - 西川純のメモ 会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 四半世紀以上前からコンピュータの世界を見てきました。栄華盛衰の歴史です。IBMからCPMからMS-DOSになり、9800全盛からウインドウズになり、グーグルに移行しつつあります。

 その時、いつも同じことが起こります。その時点での巨人が囲い込みをします。即ち、自社の規格を統一規格として採用するようにユーザーや開発者に求めるのです。ところが、もの凄い安価で、オープンな製品を出す人が生まれます。そうすると、開発者が自由を求めて移り始めます。やがて新たな製品に対応するソフトが充実し、あっという間に先の巨人は衰退します。しかし、そのうちに強大になるに従って前人と同様に囲い込みをし始めます。そして・・・・

 製品の価値は、その製品の価値ではありません。実は、その製品を使い、可能性を広げてくれる開発者の力によるものです。即ち、開発者をどれだけ引きつけるかがポイントなのです。開発者は少数者ですが、大きな影響力を持っています。そして、開発者は自由を望みます。だから、勝ち続けるには、自由で安価の環境を提供し、常に改良を続けることが必要なのです。

 私は上記を大事にしています。

 だから、『学び合い』に関して、考え方には拘りますが、それから引き出される多様な展開は喜びこそすれ、非難するようなことはしません。だれからも否定されない、当たり前の学校観と子ども観に拘るだけです。

 手引き書等は、ネットで公開し、一定の条件の下、無料で自由に公開しています。

 そして、会は意識的に組織化していません。面倒だからとか、難しいから、とかではなく意識的にです。あはははは

 宮城の会の懇親会の時、ある若い教師が「東京の会をやりたいのですが」と私に声をかけてくれました。私は「どうぞ」と言いました。その方は、「私みたいなものがやっていいんですか?」と聞いたので、「はい。そして、私にことわる必要はありません。やりたければ、やればいいのです。」と言いました。

 各種の手続き上の関係で、「子どもに学ぶ教師の会」の代表として私の名前は書かれます。しかし、代表としての権限は全くありません。これは各地の『学び合い』の会でも同様だと思います。だから、私が年を取り、頑固になって偏狭になっても、私にたてつく誰かを潰そうと思っても、「子どもに学ぶ教師の会」を通してそのようなことは出来ないのです。そして、それは誰も出来ないのです。だって、組織自体があるような、無いようなものですから。でも、確かにあります。それは組織図や定款のようなものではなく、人間としての信頼と尊敬という無形であり、強力なもので創り上げていくものだと思います。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080825/1219615370

[]ミクシー 05:18 ミクシー - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ミクシー - 西川純のメモ ミクシー - 西川純のメモ のブックマークコメント

 同志が、アイデアを提案しました。おじさんには分からないけど、分かる人には分かるんだよね。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/ytk0820/20090903

kurochan2008kurochan20082009/09/04 21:15はなっこりーです。昨年いただいた「会員証」・・。今年はラミネート加工して大事にしています。

jun24kawajun24kawa2009/09/04 21:21会費は行動ですよ。
ふぉふぉふぉ

09/09/03(木)

[]広がる理由 08:28 広がる理由 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 広がる理由 - 西川純のメモ 広がる理由 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 同志の悲痛なコメント(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/tontan2/20090902)を読み、その現状を察しつつ、違ったコメントを書きたいと思います。

 まず共感する点です。

 私が在住する上越市ということに限定すれば、この十数年間の中で『学び合い』の話を聞きたいと私を呼んでくれた回数は4回にすぎません。同じ期間に、同じ新潟県ですが上越から50km以上離れた中越地方、100km以上離れた下越地方では、その10倍近く呼ばれていますし、全国からは数百呼ばれています。

 私の勤務校である上越教育大学の中においてはもっと広がりません。おそらく実績によって敬意は得ていますが、理解を得ているとは思いません。私が『学び合い』の話を熱心にすると、最初は面白いと感じてくれますが、ある時点以上からは「ひかれ」ます。

 そして、全国の同志からのメールを通して、同僚・上司、社会、教育行政から理解されないという現実を受けています。

 しかし、私は『学び合い』は広がるという確信と実感を持っています。私が悩むのはその速度であって、広がるという確信は悩みません。その理由の第一は、日本全国レベルを考えているからです。

 自分の勤務校というレベルで考えれば、この十年間で広がったとは思いません。いや、狭まったとさえ感じることは少なくありません。

しかし、上越市と考えると遅遅とした歩ですが、広がりました。数年前から、『学び合い』で学校づくりをする学校が2校生まれました。

しかし、全国というレベルで考えると広がったと実感します。5年前に新潟市でフォーラムを開いたときは参加者は二十数人でした。その頃の『学び合い』の会はそれだけですから、年間の『学び合い』の会の参加者は二十数人にすぎません。それが『学び合い』の会は全国に広がっています。桁違いに広がっています。おそらく、私と同じように全国の『学び合い』の会に参加している人、継続的に『学び合い』の会を主催している同志は広がった、今後も広がるという実感を共有してくれると思います。

かつて山本七平はイザヤ・ベンダサンというペンネームで、無宗教と言われる日本人が強固な日本教の信者であるということを主張しました。本当の信者というものは、その教義を理解しているのではなく、内在しているのだと思います。キリスト教徒のどれほどが新旧の聖書を読んでいるでしょうか?浄土宗・浄土真宗の信者のどれほどが浄土三部を読んでいるでしょうか?曹洞宗の信者のどれほどが正法眼蔵を読んでいるでしょうか?でも、そんなのは重要ではありません。それらを読んでいなくとも熱心に信心し、それらの教えに従って生活している信者は少なくありません。おそらく、各宗教の信者、それも歴史の古いメージャーな宗教の信者はそのほうが普通だと思います。その教義を組織的理解している人なんて、それを職業としている聖職者ぐらいでしょう。ちなみに、私は上記を読みましたが、キリスト教徒ではなく、曹洞宗の信者ではなく、せいぜい祖先から受け継いでいるから祭祀を続けている葬式仏教の浄土真宗です。つまり、それを日常に実践するためには、その教義を組織的に理解する必要はないし、理解したからと言って日常に実践するわけではありません。

では、日常に実践する人は、教義も理解せず何故、それを実践できるのでしょうか?それは、それを日常に実践している人の集団の中で生きているからです。文化・文明は書物の中にあるのではありません。人集団の中にあるのです。

しかし、そのような人集団はどのように形成されるのでしょうか?現在、メジャーのものだって全て、最初は少数者でした。広がるには二つのタイプの人が必要です。第一は、アンテナの高い人、つまり新しいことに気づける人です。第二は、広げる力のある人、具体的には多くの人に繋がっており、影響力のある人です。一人の個人で二つを兼ねる人もいますが、多くは、相対的にどちらかに偏っています。大事なのは、そのような人に確実に伝えるために、広い活動が必要なのです。最も端的な例は、神奈川の会です。『学び合い』に出会って、半年もたたずに『学び合い』の会を開催するという離れ業を実現しました。

実は、上記は『学び合い』の考え方と同じです。例えば、あなたのクラスに気になる子がいたとします。多くの教師は、その子に拘ります。そして、エネルギーを費やし、解決せず、疲れます。最悪は、その子を非難し、その子を捨てます。でも、その子を変えられないのは、その教師が無能であったり、熱意がなかったからではありません。無理なのです。では、どうするか。問題を、その子の問題と捉えず、クラスの問題と捉えるのです。そして、クラスを変えることによって、その子を変えます。実は、その子を変えることより、クラスを変えることの方が簡単です。そして、それはもっと広がります。

おそらく、多くの同志は自分のクラスを変えることは可能であっても、それを学校に広げることに限界を感じているかもしれません。しかし、それは自分の勤務校に拘っているからです。もともと今の段階で『学び合い』に気づける人、そして、それを広げようとする人の割合は、少数者です。それを、たかが数十人の同僚の中から多くを見いだすことの方が難しいのは当然です。でも、範囲を広げれば、必ずいると言うことも確かです。その人達の力を使って広げるのです。自分の学校を変えるより、自分の市を変える方が簡単なのです。自分の市を変えるより、自分の県を変える方が簡単なのです。

同僚・上司、社会、教育行政が何故、『学び合い』に無理解なのでしょうか?理由は簡単です。「今までやっていない」、「周りでやっていない」という単純な理由です。正直、イライラすることもあります。でも、そのような人がいるからこそ、日本の教育の不易な部分が守られているのです。そのような人に『学び合い』の理屈をつらつら述べてもしょうがありません。「前にやったことがある」、「周りでやっている」という事実しか説得する方法はありません。では、どうしたらいいか。それは、一人一人の同志が多様な情報発信をするしかありません。

そのための仕組みを、色々と提案してきました。例えば、「『学び合い』の会」、「毎月の会」、「異学年学習」、「ブログ」等です。また、私には全く分かりませんが、ミクシーを活用している方もいます。多くの同志に賛同いただき、実行いただき、素晴らしい成果を上げています。

考えて下さい。今の日本で、自分の実践を自分の職場に広げようとしている人が何割いるでしょうか?また、今の日本で、自分の実践を、自分の学校外に広げようとしている人が何分いるでしょうか?ということは、それらをやりさえすれば、我々は一人で何人、何十人、何百人の影響力を持ち得ます。そして、「周りでやっている」という意識を醸成できるのです。

全ての同志は、自分の職場で出来ることがあるはずです。自分の市町村で出来ることがあるはずです。自分の県で出来ることがあるはずです。日本で出来ることがあるはずです。出来なこともありますが、出来ることは必ずあります。そして、それぞれでトライし、失敗したら、そこに拘らず、別なところにエネルギーを費やせばいいのです。囲碁と同じです。劣勢のところの戦いに拘れば、傷を深くします。深追いせずに、転回すればいい。そのためには、広く、布石を置く必要があります。

私が悩んでいるのは、次の一手なのです。上記の手段で留まっている限りは停滞してしまいます。もっと別な手段はないか?それを模索しているのです。地方の新聞やテレビで取り上げられていますが、それを一歩進ませるにはどうしたらいいか?文科省や県レベルの企画とどうやってリンクしたらいいか?各地の『学び合い』の会をどうやって有機的なネットワークとすることが出来るか?そして、私なんぞには思いもつかないことを、多くの同志に考えていただき、それをどうやって全国の同志に発進してもらえるか?です。

学び合い』が広がるに、限りなく時間がかかるという実感をもたれる方も多いでしょう。しかし、日本レベルを考えると、もの凄いスピードで広がっています。6年前以上は『学び合い』は西川ゼミを中心とした数十人のコミュニティーにすぎませんでした。そして5年前に最初に開いた『学び合い』の会の参加者は二十数人でした。それが5年で約100倍になりました。その比率を5年後に適用すれば二十万人になります。現在、日本の小中高の教師の総計は約100万人です。その二割が革新者・確信者となれば日本の教育を大きく変えることが出来ます。そのような状態になれば、圧倒的大多数の人は、『学び合い』の手引き書を読むことなく、また、『学び合い』の会に参加することなく、職場の中での人の集団の中で生活として理解し、実践することが出来るようになります。それを5年の前に実現するか、5年以降になるかは、みんなが、現状で出来ることを多様に確実に行うことが大事です。そして、次の一手を考え続け、もがき続けるか否かにかかっています。

09/09/02(水)

[]次の一手 22:25 次の一手 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 次の一手 - 西川純のメモ 次の一手 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 もがき続けなければなりません。「次の一手」がありそうな気がするのですが、その一手がはっきりとしません。焦ります。

 少なくとも日本中の1割の子どもと教師は限界ぎりぎりまで追い詰められていると思います。そして、その他の子どもと教師の大部分「も」幸せではありません。暢気にしてられません。

 ゼミ生に「自殺する子どもを救える力は学生の君にもある。逆に、君が手を抜けば死ぬかもしれない子はいるかもしれない。」と言います。これは本当に私はそう思っています。そして、そのことはいつも自分自身に言い聞かせていることです。理学部にいるとき、教育学をバカにしていました。コメニウスやヘルバルトとかの古文書を読み解いて、らちもない言葉遊びをしていると思っていました。しかし、教育、そして教育の研究には凄い力があることを実感しています。

 私はスパーマンではないが、何かできることがある。しかし、家族を犠牲にするつもりはありません。その私にも出来ることがある。

ghjalghjal2009/09/02 23:00>理学部にいるとき、教育学をバカにしていました

そう言われて、もしかすると自分も潜在的にそう思っていた節があるなと気が付きました。

自分が通った大学にある教育学部理科には当時、理科教育、物理、化学、生物、地学、育成(農学)がありました。純粋学問たる物理、化学、生物、地学こそ本筋で、理科教育は亜流の学問だと心の中でもしかすると差別していたのかもしれません。その自分が、ただ今、これだけ教育の理念・理想に拘っているとは・・・

osugi-symphonicityosugi-symphonicity2009/09/03 00:15mixiというSNS(クローズドなブログのようなものです)があります。このサイトは現在ではおそらく1000万人以上の人が使っていて、僕の周りにいる若者には使っていない人を探す方が大変なほどです。このmixiというSNSには、教育系のコミュニティがたくさんあり、そこで先ほど、東京の会の告知が上がっていました。

その時にひらめいたんですが、全国で同時に、あるいは同時期に、大小それぞれの規模で『学び合い』フォーラムを開催するのはどうでしょうか。mixiやブログで同時に量を発信することにより、ブーム的なものが生み出せればと思います。ブームによって興味をもった人の中には、確信を持ってすぐに取り組む人、「『学び合い』ってのがあるらしいよね、でもいったい何だろう?」というような人たちが含まれると思います。どのあたりが臨界量かは分かりませんが、「全国同時」と「量」、そしてフォーラム企画者が連携し量的な何かを多くの人に感じてもらうことが出来ればいいんんじゃないかと思いました。

皆様ご意見ください。

jun24kawajun24kawa2009/09/03 05:11ghjalさんへ
 理科教育にも問題があります。理科コース自体が似非理学部という非難を他から受けています。同時に理科教育が似非プロパーという見方をされている大学も少なくありません。例えば、大学の人事の関係で、プロパーの先生が突然、理科教育を担当することは少なくありません。問題なのは、授業や研究で従前のままという場合も少なくないのです。それではオリジナリティを感じられませんよね。
osugiさんへ
同時開催というのは問題が多いように思います。しかし、一人一人が情報発信者となることということは前々から感じていました。

osugiosugi2009/09/04 00:16同時開催で生じる問題とは具体的にはどういうものがあるんでしょうか。丸一日考えてみたんですが、分かりませんでした。

>各地の『学び合い』の会をどうやって有機的なネットワークとすることが出来るか?

これに関してですが、同時開催という共通の目標ができれば、連携の必然性が生まれると思います。

jun24kawajun24kawa2009/09/04 05:13それぞれの『学び合い』の会に参加する人の何割かは重なっています。従って、同時開催したら、個々の会の参加者が減少すると言うことです。そのため、立ち上げはじめの会は成り立たない可能性が多くなるためです。
もう一つです。
これはちょいと説明が難しいのですが、私は全国の『学び合い』の会は勝手連の緩い連携が望ましいと、「直感」しているんです。ところが、同時開催のようなことをすれば、「組織」を作らなければなりません。形としては、メーリングでも可能ですが、日時決定を一致させるとすると、意思決定のルールを決めるなどの「組織」になると思います。それは避けたい。
もちろん、どこかの会の主催者が、他の会の主催者の人たちに、この日あたりにしませんかと提案するのはありですよ。
でも、おそらく現在は最初の理由から、ずらす調整はしても、一致させる調整はしないとおもいます。
このあたりの説明でよろしいでしょうか?

osugi-symphonicityosugi-symphonicity2009/09/04 06:25西川先生ありがとうございます。
組織ではなく勝手連の緩い連携が望ましいという点に関して、僕もそう思います。その上で、僕が感じている同時(同時期)開催することの効果について書きます。
まず、参考事例です。社会起業家サミットというものがあります。(http://www.cccjp.org/index.php)これは、ある1人のライターの方の呼びかけによって、全国47都道府県で、その都道府県の社会起業家と呼ばれる方々を集めてフォーラムを行うというものです。呼びかけ人の方は大人の方ですが、それ以外のコアスタッフ及び都道府県スタッフはほとんどが10代や20代です。ちなみにコアスタッフの代表の方は18歳です。(http://www.cccjp.org/ccc.php)現代の高い志を持つ10代から20代の若者は、ヒエラルキー型の組織を創り自分自身の影響力の大きさを感じることによって得られる自己肯定感(のようなもの)をエネルギーにするのではなく、極めてフラットな連携によって個々の独立性を尊重しながら大きな成果を残そうとする傾向があると感じます。若ければ若いほどその傾向は強く感じます。彼らの一番の欲求は「全体の最適化」なんじゃないかと感じています。
この社会起業家サミットは、都道府県ひとつひとつのグループの独立性が高く、規模は大きいのに連携の緩やかさは保てています。『学び合い』の会もまた、全国的な連携を緩やかに作るのは可能なんじゃないかと考えます。そのための条件としては、志の高い「大人と子どもの中間の存在(つまり18歳から25歳くらいまで)」の人間が中心を担い、大人はそのための環境を整備する役割を担うということです。
効果・影響に関してですが、この「社会起業家サミット」によって、確実に「社会起業家」という言葉の認知度が高まってきているように感じます。2、3年前に身近で知っている人はほとんどいませんでしたが、今ではだいたい「知ってるよ」という返事が返ってきます。
次に、同時開催したときに個々の会の参加者が減少するということですが、この問題に関しては、一つひとつの会は最初は最小で30人くらいでもいいと考えることと、『学び合い』を「教育」というタグのみで括られるものではなく、もっと広く、「経営」や「組織論」、またあるいはWEB2.0的なIT系の志向を持った人たちと協働することによって、教育関係者以外の参加者を巻き込むことができると思います。そうすれば、多様な会が成立すると思います。また、教育分野以外の人が参加しやすい会にするといいと思います。
また、『学び合い』を教育という枠から出すことも、今必要なことだと思います。人類が目標達成をするための普遍的な戦略である『学び合い』を、経営や組織運営に活用してもらうことも必要なことだと思います。
もうひとつ、今、僕が感じている必要なことは、とにかく18歳~22歳の若者、特に教員を目指す若者に「『学び合い』ってのがあるらしいぞ」と感じてもらう環境を創ることだと思っています。例えば僕が大学1年の頃に『学び合い』に出会っていれば、mixiやブログを使って全国の様々な人と学び合いながら教師を目指せていたんじゃないかと思います。そのためには、「量」が必要だと考えます。教育系を志望する若者が、mixiやブログ、あるいは友人の会話の中で『学び合い』という言葉を目にする量を増やし、臨界点を突破させることが重要だと考えます。

jun24kawajun24kawa2009/09/04 06:34全くその通りだと思います。
是非、その年代への発信をお願いします。
きんきんでは、明日にある東京の会です。
あなたの強みは、ネットワークです。
よろしくお願いします。

osugi-symphonicityosugi-symphonicity2009/09/04 06:37今後の僕の動きですが、今は始めたばかりの『学び合い』教室の事業が安定してまわる仕組みをつくることに集中します。自分があくせく動かなくても事業として回る仕組みが出来た!と感じる段階に来たら、『学び合い』を教育の枠から出すということと、全国にいる教員志望の若者の目や耳や口に『学び合い』という言葉が入る量を増やすための動きをしようと思います。

osugi-symphonicityosugi-symphonicity2009/09/04 06:39了解しました!

09/09/01(火)

[]私の特徴 16:12 私の特徴 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 私の特徴 - 西川純のメモ 私の特徴 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 コニーのブログ(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/ybhdv7/20090830/1251651259)を読んでいたら、「QAで質問。(過激な発言をするおすぎさん、西川先生対策部屋があれば(笑))」というのがありました。大笑いです。

 「でも~・・」と言う気持ちが起こりました。過激な発言をする私の特徴を自己分析しました。大凡、「ネットワーク」、「シンプル」、「非『学び合い』」の三つあると思います。

 第一に、「ネットワーク」です。おそらく、日本中の『学び合い』実践者のネットワークに関して、私ほど異質で多くの人と繋がっている人はいないと自負しています。まあ、一日の長というやつです。

 第二に、「シンプル」です。私が理系的な人間であり、大学の生物物理学でトレーニングされたためだと思いますが、複雑な現象をシンプルに理解するという「癖」があります。この特技は非常に得です。例えば、私は数千レベルの会員を擁する学会の全国大会を何度も事務局長として務めました。これは非常に複雑で大変です。しかし、その仕事をシンプルに整理し、基礎的なルールを定めるとかなり楽になります。学会の編集委員会の仕事も、ゴチャゴチャした部分を整理するとかなり楽になります。私はゴチャゴチャとしたことに興味があるものの、ゴチャゴチャしたことにエネルギーをとられるのが大嫌いです。だから、とにかくシンプルにしたがります。

 第三に、「非『学び合い』」です。『学び合い』ではホモサピエンスは人と関わりたがるし、関わる能力を持っていると仮定しています。しかし、多くはありませんが例外もあります。実は、私はその例外です。長年のトレーニングによって何とかこなしていますが、本質的に私は人と協調するのが不得意です。なにしろ、小中学校で「友達」と言えるような人は皆無でした。高校でやっと一人だけいました。それも、私がその人を気に入ったと言うより、少なくとも最初は、その人が一方的に私を「何故か」友達にしたいと思ったので関係が結べました。

 この三つの特徴は特長ともなり、欠点ともなります。

 私の発言が過激になる理由は、以下の通りです。ネットワークが広いために、本来関わらなくても良いところに関わり、首をつっこみます。物事をシンプルに見るため、人と物の見方が異なってしまいます。たいていの人の場合は、現状を出発点として現実を解釈します。ところが、私の場合は現状を一回捨てて、『学び合い』のシンプルな考え方によって分析し、それを現実で肉付けします。そのため、一般の方からは過激と受け取られます。ただし、その理由を説明すれば、たいていの場合私の方の理屈は正しい。ただし、正しいと納得とは別です。そして、対人関係の欠如から、時に、それをシャープに言ってしまうということをやらかしてしまいます。

 そして、落ち込みます。

 しかし、一方、それと同じ理由が私の特長であり、武器です。

 ネットワークは力です。私にはメール一つで、かなり大変なことを頼める方が全国に数百人以上います。その方々の力を借りられるから、今の仕事をこなせます。

 常識的な指導法だったら、穏やかな『学び合い』だったら、百年たっても学校現場で苦労されている方に勝てるわけありません。しかし、常識・穏やかという鎖を解き放っていけるから、別な視点に立てるのです。だって、現在、『学び合い』の実践者がごく普通にやっていることの多くは、最初は西川ゼミで院生さん・学生さんと私との議論から発しています。そして、殆どは「脳天気な大学の先生だから、そんな無理なことが出来ると思っているんだよ」という礼儀的な軽蔑の視線を受けるか、「え!?何を言っているの?」というあっけにとられた目が点の視線を受けるかでした。

 お酒の杜氏は飲み助にはなれないそうです。飲み助は、お酒の味や香りに敏感になることができません。それと同じで、『学び合い』が不得意な私なので、人には感じられない「赤信号」の点滅を直感することが出来ます。

 ということで、私の戦略は、基本的に関われる人としか関わらないという戦略です。私は求められた人とは繋がりますが、求めて繋がろうとはしません。そして、その人を通じて、他の人と繋がるということをやっています。例外は、全国でやっている講演と、ゼミ生以外に対する授業です。それを通じて、過激と判断されてしまいます。同志にとっては、私の過激さは「面白い」かもしれませんが、小心な私は悩んでいるんです。

 う~ん

追伸 黙っているだけで、全てを善意に解釈される人が私のあこがれです。あと少しで50歳なのですから、もっと、気品と風格がただよったらいいのにな~

ybhdv7ybhdv72009/09/01 20:43あっ!語弊がある書き方をしてすみません。
西川先生やおすぎさんの語りは、ロジャーズの普及理論による採用者分類でいうと「革新者」向けではないかと思います。

ですので、普通の教員の方にとっては過激に聞こえてしまうのではないかと。

つまり、「革新者」向けの過激なメッセージを私やこがぽんさんやきっきょんさんのような「初期採用者」の方々が通訳して広めていけばよいと考えます。

要は役割分担ですよね。
西川先生は過激でないと困ります(笑)

jun24kawajun24kawa2009/09/01 21:49バカ言っちゃ駄目だよ
50歳の私が過激では駄目だよ。
私の役回りは初期採用者にしたいんだよ。

ybhdv7ybhdv72009/09/01 22:07そうですよね。
ただ初期採用者になるにはもう少し時間がかかるのでは…
その時間を短くするのが私たちの役割ですね。

jun24kawajun24kawa2009/09/01 22:10はい、期待しているよ。
なでなで

munehiromunehiro2009/09/02 07:32感動です。欠点を持った人間が、『学び合い』という考え方でつながっていっているということに感動です。教室で見ていることと同じ気がします。

jun24kawajun24kawa2009/09/02 08:05神様になるより、正直に言った方がずっと楽だよね。
たとえば、子ども達や保護者に、自分にも家庭があることをちゃんと話すことは、とても大事なことだと思っています。