西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
ツイッター http://twitter.com/jun24kawa
『学び合い』メールマガジン参加者募集中!(無料)http://www.mag2.com/m/0000270912.html
『学び合い』マップ募集中!(無料)http://manabiai.g.hatena.ne.jp/kokohagw/
授業公開の仲介のガイドライン http://dl.dropbox.com/u/352241/manabiai-data/koukai.pdf
だめで元々で、とりあえずドロップボックス(http://db.tt/bMZAZwx)とjimdo(http://jp.jimdo.com/)の無料アカウントを登録してみてはいかがでしょうか?実に簡単ですから。

本格的にトライする人も多くいると思います。その際、人とのつながりが大事です。身近にいる人と繋がれるとありがたいですよね。『学び合い』を実践される方は、『学び合い』マップ(https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zDInXkSSxyO4.kNDji5uDNm0Y)に、是非、登録下さい。登録は、『学び合い』マップ登録フォーム(http://form1.fc2.com/form/?id=77081b4d4f40dd2f)から出来ます。  「私なんて、人になんか教えられるレベルに行っていない」と思う方へ。だからいいんですよ。一番知っている人が、一番の教え手ではないことは『学び合い』を実践しているならば、子どもを見れば分かるでしょ。それに、教える必要はないのです。共に学び合えばいいのです。いや、愚痴を言ったり、笑ったりする、それでいいのです。  是非、一人でも多くの人がマップに登録下さい。強く、強く、お誘いします。

09/02/19(木)

[]教徒 17:28 教徒 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教徒 - 西川純のメモ 教徒 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 日本人は宗教に寛容であり、他国に比べれば殆ど無宗教であるというのが一般的な解釈です。そりゃそうでしょう。結婚式は神道で、葬式は仏教というひとが大多数です。お坊さんは仏式で結婚式をやりますが、それに参加した人は少ないでしょうね。逆に、神道の葬式に参加した人はいるのでしょうか?さらに、クリスマスやバレンタインを普通に祝います。冷静に考えれば無茶苦茶です。ところ山本七平はイザヤベンダサンというペンネームで、日本人は戒律の厳しいユダヤ教徒に比肩すべき戒律の厳しい日本教徒であることを示しています。

 異教徒からみれば他宗教の戒律は厳しいものです。例えば、イスラム教徒は豚を食べません。ハムを料理に使わなくても、ハムを切った包丁で料理したものは食べません。これは日本では大変です。「それを守るイスラム教徒は大変だな・・・」と思いますし、同時に、「何でそんなことするの?別にいいじゃん」と思うでしょう。でも、豚を蛇に置き換えましょう。日本人は蛇は食べません。蛇を普通に食べる地域(事実あります)で生活したら、たとえ蛇を食べなくても、蛇を調理している蛇料理の店で食べるのはいやでしょう。おそらく、蛇を普通に食べている人から見れば、「大変だな・・・」と思いますし、同時に、「何でそんなことするの?別にいいじゃん」と思うでしょう。日本人は比較的均質な文化を持っています。そのため、他文化の人から見たら日本人は、異常に戒律の厳しい日本教の教徒に見えるのです。

 おそらく一般の人から見たら、『学び合い』の実践している人は、異常に戒律の厳しい『学び合い』教徒に見えると思います。でも、逆に言えば、一斉指導を実践している人は、異常に戒律の厳しい一斉指導教徒なんです。はたしてどちら方が戒律は厳しいでしょうか?

○一斉指導教では、子どもは分からなくても、つまらなくても、黙って静かに先生の話を聞いて、ノートに写すことが求められます。『学び合い』教では、子どもは分かるために自由することが求められます。

○一斉指導教では、子どもは黒板をむく側に椅子を配置したり、コの字に配置することを求められます。『学び合い』教では、椅子をどう配置するかは自由です。さらに言えば、座らなくても良いのです。

○一斉指導教では、最初から最後まで教師は語り、質問することが求められます。『学び合い』教では、あまりやるとバカにされます。

○一斉指導教では、最後のまとめをしなくてはなりません。『学び合い』教では、したければしてもいいのですが、それは教師の精神衛生のためであり、あまりやるとバカにされます。

 『学び合い』教徒の戒律は、学校観と子ども観の二つです。そして、二つとも民主社会において法律に基づいています。考えてみてください。

○国語、社会、理科等の教科の時間の大部分は、教科内容を学ぶことが主であって、人格の完成をあまり意識しなくて良いというのは、教育基本法第1条に抵触しないでしょうか?

○指導要領に定められたことを分からない子どもが3、4割以上いるというのは法律違反ではないでしょうか?

○クラスの中で不登校の子がいる、保健室への不定愁訴の子が3、4人いるのは法律違反ではないでしょうか?

 まとめましょう。『学び合い』は宗教だと言えば、その通りです。でも、多くの教師は一斉指導教の宗教であるという意味と同じ意味で宗教です。そして、『学び合い』教の戒律は一斉指導教の戒律よりも自由度が高い戒律です。そして、日本の法律に抵触しない戒律です。

 『学び合い』は宗教です。でも、一斉指導より「ずん」と良い宗教だと思います。あはははは

追伸 何度も書きましたが、『学び合い』は実証データに基づいている、科学と同じ宗教です。

mana-mama5mana-mama52009/02/19 23:19マレーシアの女子高生をホームステイさせたことがあるのですが、彼女は厳格なムスリムでした。日に五回のお祈りは欠かさず、豚肉はもちろん、ハラルミート以外の気配があれば一切口にしませんでした。一緒に来ていた友達もムスリムでしたがその子はここは日本だからと言ってハラルミートでなくても食べていましたし、お祈りもほとんど適当だったようです。同じ戒律の元にあってもどこまでそれを受け入れるのかは本人次第なんだなあと思いました。

jun24kawajun24kawa2009/02/20 06:37全くですね。あるゼミ生は、「美味しければ、蛇も食べます」と言っていました。許容量は人によって違いますね。

mana-mama5mana-mama52009/02/20 18:40彼女が戒律をどれだけ受け入れているかと言うと、戒律を守らないことより、戒律を受け入れたほうが彼女にとっては心地よいんです。断食の話なども聞きましたが、マレーシアなどの暑い国では断食は命を守る知恵であり、日本でやったらつらいけど彼らの国では、心地よいことなのではないかと思いました。宗教のエッセンスはよりよく生きることだと私は思っているのですが、どんな宗教がいい悪いではなく、その人にとって心地よくなければ悪なのではないでしょうか。一斉授業とやらは教える先生だけが心地よく、生徒は心地よいとは感じていないけど、学び合いは先生も生徒もそして親までもが心地よい宗教ではなく集教?集饗(笑)だなあと思います。

jun24kawajun24kawa2009/02/20 19:03集饗ですか・・
言い言葉ですね。

西尾西尾2009/02/21 20:57救う方法は分かっていらっしゃるのに、なぜ何もなされないのでしょうか?

jun24kawajun24kawa2009/02/22 17:31省略が多いので、主語が誰なのかわかりませんが、私と理解します。
比すことにためらいがありますが・・・・
釈迦もキリストも救う方法は知っていた、でも、救えなかった。救う方法を知っても、当人がそれを選ばなければどうしようもありません。ましてや我々は凡夫です。でも、だれにとっても出来ないこともありますが、だれにとっても出来ることがあります。我々は家族の幸せに矛盾できない範囲で出来ることがあります。私もあります。そして、私なりにやっていますよ。微々たる力ですが・・・。

西尾西尾2009/02/23 09:47ありがとうございました。リンク先に付けられていた、

>>切ない・・・
救う方法は分かっているのに、何も出来ない。<<

というコメントに、とても妙な印象を受けたため、今回ご質問をさせていただきました。
苦しんでいると分かっている子どもがいて、救う方法がある。それなのに、何も出来ないという事はないのではないか、そんな風に思ってしまったのです。
伝える。赴く。知らせる。救う方法を知っていらっしゃるのなら、それを与える方法を少しでも考える事ができるのではないか、そんな風に感じてしまいました。

「当人が選ばなければ」というのも、すごく妙な感じがしました。選ぶ前に、当人には選択肢が与えられていたのか。そのあたりのことも疑問に思いました。
加えて、些細なことですが、釈迦は他者の救済は目指していませんでしたし(説得の材料に使われる程度の興味がおありなら、大乗ではなく元々である南方仏教の発祥についての知識を蓄えられるとよいかもしれません)、キリストは救うべき全てのものの救済を為したからこそ今この世にはいないということになっております。
いただいたご解答は、リソースが回らないから、と解釈いたしました。それならばしょうがないのでしょう。残念です。
ご丁寧な解答、ありがとうございました。このようなコメントはお気になさらず、その時間をご家族との充実にお当てください。学びあいの益々のご清栄とご発展をお祈り申し上げます。

jun24kawajun24kawa2009/02/23 10:46ありがとうございます。
釈迦に対するご指摘ありがとうございます。ご指摘の通り、仏教は歴史的には上座部仏教から始まりました。しかし、釈迦が苦行を捨てた点、多くの人に説法した点からも、釈迦が自らの解脱を本願にしていたとは、「私」は思っていません。ご理解ください。