西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
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08/05/11(日)

[]何故、テクニックに反発し続けるのか 21:58 何故、テクニックに反発し続けるのか - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 何故、テクニックに反発し続けるのか - 西川純のメモ 何故、テクニックに反発し続けるのか - 西川純のメモ のブックマークコメント

 テクニックに関して最近メモを書きました。言葉足らず故に、心配かけるつもりのない方にまで気を遣わせました。すんません。ちゃんと説明したいと思います。長文です。

 平成12年にSという学部生が画期的な研究を行いました。Sはある学校で「自己モニター」を実践してもらい、その有効性を明らかにしようと思いました。ところが、見事に惨憺たる結果です。その結果は私にとって理解不能でした。自己モニターは平成9年頃に開発されたものであり、実に有効です。今までの学び合いに関する指導法とは違って、子どもたちの中に学び合う能力が内在することを前提としたものです。子どもは自分と同じだけ有能であり、かつ、無能であるという我々の学習者観に基づく指導法です。9年、10年、11年の実践研究でもいずれも有効な指導法でした。ですので、それが無効であることは理解不能でした。しかし、Sの記録を見直すと理由は歴然としています。お願いした学校の先生方(西川ゼミ以外の先生)は自己モニターをします。それは15分間ですみます。たしかにちゃんとしています。ところが、その先生はそれ以外の時間、つまり、圧倒的大多数の時間も子どもに接しているのです。その様子を見ると、目を覆うような姿でした。つまり、子どもが無能であり、手を抜くと遊び出すということを前提とした言動をしているんです。

 分かってみれば当たり前です。つまり、子どもは指導法によって行動するのではありません。担任している先生の全ての時間の言動によって総合的に判断し行動しているのです。新しい校長が来たとき、我々はその人の職員会議での演説で行動を決めているわけではないですよね。その人がどのような言動をしているか、総合的に判断し、それに合わせた行動をしています。9年、10年、11年の実践研究でもいずれも有効であったのは、それは西川ゼミの先生方の実践だからです。西川ゼミの先生であるので、子ども観が理解されています。従って、自己モニターをしていないときも、我々の子ども観に基づく言動をしているのです。その結果から、テクニックではなく考え方が重要なのだということを、嫌と言うほど理解しました。

 『学び合い』の同志であるか、否かは、数百キロ彼方の私が分かるわけありません。でも、その人の子どもたちは分かります。その子どもの言動を聞けば、同志であるか否かは分かります。同志であっても、どの段階で苦労しているか、いないかは子どもの様子(例えば、そのクラスの出来る子の行動)を聞けば分かります。そして、日本には素晴らしい『学び合い』の実践者がいることを知っています。その方々は、『学び合い』が大事にしている考え方を理解し、それがにじみ出る言動をしています。それがコンパクトに表現できるテクニックを駆使されます。私もそうです。ただ、私の危惧するのはそれを表現したものを読んだ方は、考え方ではなく、テクニックの部分をまねてしまうのではないか、ということです。我々は考え方を共有しています。でも、共有していない方の場合は、テクニックを使います。そして、Sの研究のように惨憺たる結果を得ることになります。

 私はネットサーフィンをします。そうすると「『学び合い』が、○○先生のこれこれの一文と一致する」と書いている方に出くわします。嬉しい反面、困ったな~、と思います。というのは、大抵、いや100%はテクニックレベルの話なんです。まあ、授業観レベルの一部分までが限界です。たしかに見かけは似ているように見えるかもしれません。しかし、学校観、子ども観は全く違います。不遜ながら書きます。今までの教育の世界の巨星の書かれている本の中で、教育観を書かれているものの中には、『学び合い』と一致するものがあります。しかし、その方々の授業論は一致していません。授業論の一部で一致している方はおられます。しかし、その全体としては相反しています。つまり、教育観が違うのです。私の知る限り、教育観、そしてその反映した授業論で一致している人はおりません。だから革命と思っています。もちろん、考え方及び方法論で一致する人が皆無とは申しません。ただし、その方々は、経営学(教育経営学ではありません)や経営者の方々です。

 いままでの教育の巨星の方々は、子どものよき親(よき兄・姉)になることを目指しているように感じます。しかし、小学生にも分かる算術で、私はそれは無理だと思っています。だから、教師は職場の管理者となるべきだと思っているのです。それが、愛する子ども守るすべだと思っています。この考え方自体が革命なのです。

あ~・・・・、これで考え方を理解しない善意の教師を敵に回してしまうだろうな~・・・。でも、大事なことなので書きました。すみません。

追伸 Sの研究を協力していただいた先生も善意の方です。教師の仁義として、その失敗は公開していません。だから、上記のことはあまりあからさまに書いたことがありませんでした。 

追伸2 と、上記に書きましが、人に語るとき、テクニックで表現する方が有効な場合が多いことも確かです。そして、私もそうしています。じゃ、どうしたらいいか?一緒に考えましょう。

[]カーネーション記念日 17:01 カーネーション記念日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - カーネーション記念日 - 西川純のメモ カーネーション記念日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 母の日だからカーネーションを贈りたいというので、息子と一緒に花屋に行きました。息子が300円を出し、私が225円を足して花束を買いました。花束を大事に持って帰宅し、家内にプレゼントしました。

[]テクニックを捨てる 09:32 テクニックを捨てる - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - テクニックを捨てる - 西川純のメモ テクニックを捨てる - 西川純のメモ のブックマークコメント

 剣の道を究めると、最終的には剣を持たなくなるという話があります。『学び合い』の十数年の研究もテクニックを捨てる歴史とも言えます。

 最初は川合さんの「自己モニター、ロールプレイ、ビデオ視聴」というテクニックを使っていました。しかし、15分間×3回で学び合いが実現できるのですから驚異的なテクニックです。しかし数年後には自己モニターの15分間1回で実現できることが明らかになりました。しかし、考え方を理解していない人が自己モニターをしても『学び合い』が成立せず、考えを理解した人は自己モニターをしなくても『学び合い』を成立することが明らかになり、自己モニターを捨てました(まあ、有効なテクニックではありますが)。

 私は何もしないことを誇ります。普通の教師が自分のやったことを誇るのに対して、『学び合い』では何もしないのに凄いことをする子どもを誇ります。その子どもを誇ることによって管理者としての自分を自慢するのが『学び合い』の作法です。

もちろん、私もテクニックを使います。しかし、それを恥じます。理由は以下の通りです。

第一に、誇り始めれば、テクニックの罠に陥ります。「この技が大事だ」と言い始め、それを改良し始めたら、あっという間に元の木阿弥になります。テクニックが必要な場面があることは確かですが、そんなテクニックを使わなきゃならないクラス集団だと身を正すぐらいが良いバランスだと思います。

第二に、上記の授業中のテクニック以上に大事なテクニックややるべきことがあるからです。私の例で書きます。

私はゼミに年間で2回(最初と最後)しか行きません。つまり、小中高に置き換えれば、4月の授業開きに一年間にやるべきことを10分間程度語り、3月の最後に1年間の成果を評価します。それだけです。テクニックの入り込む余地は全くありません。だって、「いない」のですから。

 一方していることがあります。例えば、ゼミ生同士がお茶を飲みながら話している話を寝っ転がりながら聞きながら、また、机の上の資料を見ながら集団が健全であるかを評価しています。声の調子や資料を一瞥しただけで何が行われているかを察するにはテクニックが必要です。

 ゼミ生から「これで良いですか?」と聞かれると、「何で私に聞くの?」と突っぱねます。が、危ういなと思ったときには、大学の事務の人と相談して大学の規則上どうなっているのかを調べます。そして、最悪の場合にも対応できるように、学内政治で対応をします。上記を実現するには学内のどこが「つぼ」どころであるか、そして、どのように押すべきかは私のテクニックが必要です。

 我々は学校に入り込んで実践研究をします。現職院生さんの場合は、それがご自身で出来ます。しかし、学卒院生さん、また、学部生さんはそれが難しい。だから、事前に外部と調整し、受け入れ可能校を確保しておきます。その上で、彼らがもがくのをじっと見ています。そのためには、現場学校との私のネットワークの蓄積が必要です。

 我々の実践研究では大量のICレコーダーやビデオカメラが必要です。生半可の予算では実現できません。その予算を獲得することが私の仕事です。予算を獲得するにはどうしたらいいか、その書類をどのように書いたらいいか、これもテクニックが必要です。

 学部・修士課程で学んだ学生さんがもっと学びたいと希望するならば、博士課程の道があります。また、教育研究を職としたいと願う方もおられるでしょう。もちろん、そのような方への要求水準は生半可ではありません。そして、何も約束しません。しかし、その方の希望がかなうように動きます。これまた「つぼ」どころと、押し方があります。

 私の仕事は、集団の評価、リスク管理、外部との交渉(実践校)、予算の獲得、人事であり、それには高度のテクニックが必要です。その大技小技を駆使しまくります。

 以上と比べて、授業におけるテクニックは見劣りませんか?そんなことをしなくても子どもが実現できます。しかし、私がやっているテクニックの部分は、子どもが絶対に出来ない部分です。それをやっています。それが私の仕事だと思っています。

 それ故、私は授業中のテクニックを誇らず、恥じます。私は教授ですが、大学における教授は学校における教諭です。実は、教諭の皆さんにも子どもには出来ず、教諭だから駆使できるテクニックがあるはずです。『学び合い』における教師は、校長なんです。想像してください。人事や予算はとんとやってくれないが、指導案の指導に燃える校長がいたらどう思います。そして、それを喜んでいる職員集団がいたら、おそろし~

 校長だって、自分の学校の仕事だけの校長もいますが、市・郡・県レベルを視野におく校長もいます。『学び合い』の教諭だって、自分学校レベルの仕事もありますが、市・郡・県レベルの仕事もあります。ほ~ら、授業中のテクニックなんてちんけなものじゃないですか。子どもたちと一緒になって、そのレベルは早く乗り越えましょう。もっと、もっと先があるのですから。

kurochan2008kurochan20082008/05/11 22:25はなっこりーです。思い出したことがあります。教育実習生の担当だったとき、学生さんが、私の話し方、教材の提示の仕方までそっくりに真似されたのです。「真似しなくていいよ~」と言っても似てきてしまって・・・絵カードと言葉カードの提示間隔は1秒以内・・・なあんて個別指導もそっくりになっていました。表面的には、私と教生さんの行動はほとんど同じだったのに、子どもは、その教生さんの時だけ、「あっかんべー」をして学習しようとしなくなったのです。

jun24kawajun24kawa2008/05/11 22:37あはははは
そのこと、そのことなんです!

tontan2tontan22008/05/11 23:20多くの有名な教育者の話のと授業の実践がかみ合いません。ある有名な大学の教授が「理論に基づいて私自らが授業してみました」という前置きでビデオを見させられました。悲惨でした。
私が西川先生を支持するのは、理論と実践が一体化し、スーパー教師でなくともすごい授業ができることにあります。

jun24kawajun24kawa2008/05/12 06:24ありがとう
同志!

あべたかあべたか2008/05/13 17:06屁理屈!
言葉尻だけを取り上げて!
と言われるおそれがありますが、あえて書いてみます。

今回、西川先生は「剣の道」を例に書かれています。
ここで書かれているのは「剣の道を究めた」場合ですよね。
つまり、「極める」までは「人の剣をまねたり」「剣の基礎基本というものを型どおりに学ぶ」ということが必要なのではないでしょうか。
それを通り越してきた方だけが、「剣の型」だったりいわゆる「技術的なもの」から離れることができるのではないでしょうか。

実際、剣道の言葉(かどうか、出所は不明ですが)あたりに「守破離」という言葉がありますよね。
そこからすると、まずは「守」。つまり、型をしっかりマスターするというか、基礎基本と言われるものをしっかり行うということが「破」や「離」の前提になっているように思いますがいかがでしょうか。

これを授業や教師、子どもたちに当てはめると、
初任者の教師は、現場にたったからといってすぐに「学び合い」の授業を行うのは危険である。
子どもたちにはきちんと「文の書き方」とか「話し合いの仕方」とか「ノートのまとめ方」などといった型をしっかりと教えることで自分なりに使いこなせるようになると解釈できる、となりませんでしょうか。

あえて、いじわるな立場に立って書いてみました。
西川先生がどのようにおっしゃるか、それとも、無視されるか(笑)、楽しみです。

jun24kawajun24kawa2008/05/13 17:40面白い議論ですね。つきあいますよ。もちろん。
さて、あべたかさんの議論は大きく三つに分けてレスします。
第一に、あべたかさんがおっしゃるように最初は型から入ると思います。でも、その型を学ぶ段階においても破と離を学ぶべきだと思います。おそらく、その段階では、そのことを聞いても見ても分からないでしょうが。でも、分かるときに分かります。そして、いつ分かるかなんて、他人様が分かるわけありませんから。それに全ての人が型からはいる人ばかりではないんです。いきなり離や破に到達する人だっています。古典的な研究でさえも、演繹的な説明が分かりやすい人もいます。帰納的な説明が分かりやすい人もいます。その演繹的説明、帰納的説明だって千差万別です。だからテクニックを情報発信し、同時に、それを捨てることの重要性を発信しています。これが、「今回、西川先生は~いかがでしょうか。」に対する私のレスです。
第二に、あべたかさんは、暗黙の内に『学び合い』は一斉指導の発展版だとお考えのようです。その根拠は何でしょうか?それを読んでからレスしたいと思います。ちなみに、私は元々の考え方(もしくは状況)が違う異質なものだと考えています。これが、「初任者の教師は~危険である」に対する私のレスです。
第三に、全ての学習者にとって、「文の書き方」とか「話し合いの仕方」とか「ノートのまとめ方」から入ることが良いという根拠をお教え下さい。さらに言えば、私の知る限り、「文の書き方」とか「話し合いの仕方」とか「ノートのまとめ方」に関して学術的に「これは正しい」というものを知りませんが、ありますか?これが、「子どもたちには~となりませんでしょうか?」に対するレスです。

あべたかあべたか2008/05/13 20:39西川先生。
おつきあいいただいてありがとうございます。

第一について。なるほどと思いました。確かに人はそれぞれですので、そうだよなぁと思いました。
第二です。なるほど、ご指摘を受けて思いましたが、わたしの文章は「一斉授業」の先に「学び合い」があるような書き方になっていますね。守破離を当てはめますと、一斉授業が「守」で学び合いが「破」とか「離」のように感じますものね。
ただし、自分を養護する書き方で申し訳ありませんが、自分は「一斉授業」の先に(発展に、上達に、まぁ何でもいいですけれど)「学び合い」があるとは思ったことがありませんでした。西川先生からご指摘を受けてからもそう思います。わたし自身、「一斉授業」と「学び合い」は別物と思います。
じゃあ、なぜそのような書き方になってしまったかといいますと、西川先生は

>『学び合い』の十数年の研究もテクニックを捨てる歴史とも言えます。

と書かれています。
つまりは「学び合い」は、十数年テクニックと格闘してきた西川先生のような方が経験した結果、実感できるものなのでないかと考えたからです。
うまく伝えられるか分かりませんが、例えば、話の背景に自分の経験がある人とない人とでは言葉や行動の重みが異なりますよね。そこを指摘したかったわけです。
(わたしの言いたいことが伝わっているでしょうか?)

第三についてです。
「文の書き方」とか「話し合いの仕方」とか「ノートのまとめ方」とかは単なる例えです。これは、自分勝手な解釈と発展なのですが、「守破離」が成り立つとして、「学び合い」が「破」か「離」だったとして「守」にあたるものは何だろうかという問いかけです。ですので、「学び合い」がわたしの話である「守破離」という話と次元を異にする場合はわたしのこの話は全然成り立ちません。
ただし、西川先生はわたしとのやりとりで

>あべたかさんがおっしゃるように最初は型から入ると思います。

と書かれています。学び合いが「守破離」の話とはズレるとしても、西川先生は「引用」のように思われているわけで、「学び合い」をする場合の「最初の型」というのは何なのかなと思いました。

うーん、書いていて思いましたが、これまで何度も西川先生に尋ねて回っている問いと同じようになっていますね。
やはり、わたしは進歩していないと言うことになるのでしょうかね。
情けない……。

jun24kawajun24kawa2008/05/13 22:11それでは第二と第三に関してレスします。
第二に関しては、それは私もあべたかさんも一斉指導の手垢に汚れているからです。『学び合い』を受容する速度から言うと、教師より圧倒的に子どもの方が早いです。子どもほどではないですが、若い学生さんの速度は驚異的に早いと思います。彼らが悩んでいることとの多くは、一斉指導でも若い方が悩むことと同じです。むしろ健全です。問題は周りが手垢に汚れている大人に囲まれていることです。だから、私は大人から身を守るすべを語るようにしています。
第三に関しては、『学び合い』では「学び方」の最善の型に関しては、「そんなの教師に分かるわけ無い」というのが『学び合い』の出発点です。それが、それを追求している多くの教育論との大きな違いです。我々は「最善の学び方は何か?」ではなく、「だれがそれを考えられるか?」を問いの出発点としています。それは、本人であり、子ども集団だというのが我々の結論です。では、『学び合い』の最初の型とは何かと言われれば、手引き書に書いたとおりです。それは学校観、子ども観を子どもに直截に語り、「みんな」を信じ、求め続けることです。その中で、手垢を洗い流し、洗い流した自分が語る。その循環です。

あべたかあべたか2008/05/14 03:55わたしなりの結論。
「守破離」を例に出して、学び合いを語ることこと自体があやまりであり、話を混乱させてしまう。
ですね。
おつきあいいただき、ありがとうございます。

jun24kawajun24kawa2008/05/14 06:43いえいえ、とても大事なことです。
感謝