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08/01/22(火)
■ [大事なこと]簡単

色々な人から『学び合い』に関して聞かれます。とても簡単なので、直ぐに応えます。そして、とても簡単なので、すぐに説明できます。逆に、何故、今までそうやったかを説明してもらうと、説明できないのが普通です。『学び合い』は本当に簡単です。分からないのが分からないのです。
ある課題に熟達した人が、初心者の気持ちが分からない、というのはよくしっている現象です。しかし、私が分からないというのとはちょいと違います。というのは、上記の場合は、熟達者が初心者に説明しようとしても、説明できないのが普通なのです。ところが、私が説明すると、それを理解してもらえます。問題は、そうであるにも関わらず、それを実行してもらえないことが分からないのです。例えばです。
世の学び合い学習では、「はい、まず自分で考えてみてね」と言って考えさせます。そして、5~10分後に、「はい、では、みんなで相談してね。」と言います。私にとっては、とてつもなくばかげているとしか思えないのです。
そうやっている人に、聞きます。「何故、そういう風に指示するの?」と。そうすると、「そうしないと、何も考えずに、人に聞いてしまう」と応えます。そうした人に私は問います?「じゃあ、あなたに偏微分方程式を与えて、さあ、自分で考えてね」と私が言ったら、その5~10分間考えさせたら何をする?と聞きます。そうすると「何もしない」と回答します。「で、その時間に意味がある?」と聞きます。そうすると「意味がない」と回答します。そこで「分からない子どもにとっても同じですよね。」と語ります。
また、続けて聞きます。「その問題を1分で解答できる子どもは、あとの4分~9分何していればいい?」と聞きます。そうすると「待っている」と応えます。そこで、「その時間に意味がある?」と聞くと、「意味がない」と応えます。(なお、「その子に対応した課題を与える」と応える人には、「そんなこと毎日やれる?」と聞くと、首を振ります)
また、続けて聞きます。「その問題を人から聞けば、分かる子どもがいたとして、その子が聞くことは何かは一通り?」と聞きます。すると、多様であることを認めます。続けて聞きます。「では、自分がどこが分からないか、また、どこが分からないかが分からないことに気づくのは、何分ぐらい?」と聞きます。そうすると多様であることを認めます。続けて聞きます。「では、自分が疑問にも思っていないことを、説明されて身になる?」と聞きます。と首を振ります。そこで、「結局、自分が分からないことを、分からないな~、と思った時に聞かなければ意味がないよね。じゃあ、なんで、5~10分間、一律に考えさせ、そして、一斉に相談させるのは何故?」と聞くと、何も答えられません。そして、「人の答えを、まるっぽ写しするつもりだったら5~10分の時間を与えても、その時間は何も考えず、5~10分後にまるっぽ写しするだけだよね。だから、一人で考える時間を形式的に与えても意味無いよね。大事なのは、人の答えをまるっぽ写ししようとする考え方を捨てさせることだよね。じゃあ、なんでそんな考えをすると思う?そりゃ、人の答えをまるっぽ写しすると、その子にとってメリットがあるからだよ。具体的には、まるっぽ写しすると点数がもらえるような評価をしているからだよ。」と言います。
さて、上記の私の説明のどこに無理や難しさがあるのでしょうか?教えて下しさい。それを説明した後にも、「一人の時間」を確保する人がいる。私には分かりません。本当に分かりません。教えて下さい。
なお、上記は序の口です。私にとっては、現在の教育はとてつもなく、馬鹿馬鹿しく見えるのです。
追伸 学び合い、ではなく『学び合い』を実践している方ならば、おなじみですが、『学び合い』が成立しているならば、教師から強いられなくても、自分で考えられるところは自分でやります。だって、「みんな」自分が分かりたいと思っているのですから。これまた、馬鹿馬鹿しいほど当たり前のことです。
型にはまった「問題解決型学習」が、その誤解を広めているようにも思います。
コメントありがとうございます。是非、何故、そうなるか調べて下さい。Katunoriさんのご指摘の通りと思います。しかし、私が分からないのは、上記のような説明をして、分かったとしても、それを続けるのは何故か?と言うことです。不思議だ・・
初心者故、今も「自分で考える時間を取ろうか?」と考えてしまうことがありました。迷いが晴れました。
一人で考えさせ、次にグループで……というのも習慣です。きっと教育界の習慣です。私も昔はそうしていましたから。
習慣は無批判的に繰り返されます。
「子供を信じていない」という強いマイナス的な原因ではなく、「習慣だから」というものだと思います。習慣で子供を信じていないような態度をとってしまうのだと思います。
その習慣を打破するには……。『学び合い』という新たな習慣を作るしかないんだろうなぁと思います。
そりゃ難敵だ!
私が思うに、教員のほとんどは、中学まではあまり勉強で引っかかることがなかった人たちなのではないかと思います。高校・大学ではさすがに能力の限界を感じたけれど、中学までは自分は自力解決できたんだから、子どもたちもできて当たり前でしょう?という感じなのではないかな~と思います。ついでに、教師には、与えられた課題をいったんは考えてみよう、というタイプの人が多いのかもしれません。特に、授業中にはそうできたので、それ以外の場面では最初から何もしない場面があっても、話が別でしょ、と重ねにくい。
それから、一斉授業やコース別学習には逃げ道が確保されていると思われます。自分はこれだけのことをやったのだから、それでできないのは、子どもの能力のせい、親の無責任のせいだと考えられる。しかも、他の教師もそれに同意できる。けれども、学び合いは全て「自分のせい」です。その厳しさに耐えるのが、難しいのではないかな~と思います。ちなみに、私も冷や汗かきかきです。先日も、来週のCRTテストで結果がでずに、同僚からは「ほれみたことか」、学び合いグループの方々からは「だって、あんたが分かってないからだろ?」と言われる夢を見てしまいました。不安を通り越して、恐怖、という感じです。……だからといって、答えが変わるわけでもないのですが…。
でも、「なんのために子どもは学校に行くのか?」、「なんのために教師になったのか?」その視点で考えてみれば、ゆらがないとおもいます。でしょ。
追加の質問です。逆に1分で出来る子に対しては、ご主人はどうおもっているのかな~・・
それから、私が説明していてはうまく伝わらないかな~と思って、「大事なこと『簡単』」を主人に読んでもらいました。主人は、「ひどく攻撃的で、相手を完全否定する言い方をされる方だね。随分印象が違う。どんなに素晴らしいことをおっしゃっていたとしても、こういう言い方されると僕は引いてしまうなあ。僕は初任者で勉強不足だから、どっちがいいって自信を持って言えない。ただ、自分が受けてきた授業でも嬉しかった思い出とかあるから、君が『学び合い』をしていない先生を全否定するのなら、『学び合い』に対していい印象を持たないよ。だって、それだと『学び合い』を否定する先生達とお互い様になってしまう」と言いました。そこで、普通の言い方だと誤解されることがあって、わざと強い口調をされているらしい、と説明しました。
更に、「君と話していく内に、根本が全く違うから平行線なんじゃないかと思った。『学び合い』は、「人と人のつながり」を柱にしていて、それを目指していると「学力」という特典がついてきますよ~、という感じ。学校教育の多くは、「学力向上」を柱にしていて、でも、それだけじゃ駄目だからって、コミュニケーション能力の育成だの環境教育だのをいっぱいぶら下げて、それをいっぺんに引っ張り上げようとして重さに耐えきれずよろよろしている感じ。そもそもの柱が全く違うから、なかなかお互い分かり合えない。それから、管理職の方々は僕から見ると人生の成功者で、自分に自信があるから、考えを変えにくい。T・Tや、習熟度別をされている先生方も、一斉授業に限界を感じて始めていて、必死に研究してきたことを全否定されたら、やっぱりいい気はしないだろうし、まして『学び合い』のクラスが学力が高くなってお株を奪われたら、ますます受け入れにくい心境になってしまうんじゃないかな~。だから、お互いを全否定している内は、混乱が大きいだけだと思う。本当にいいものなら、ほっといてもじわじわ広がるだろうし。僕も、その内一斉授業や習熟度別に限界を感じる日がきて、『学び合い』を選ぶかもしれないしね」と言っていました。
なるほどな~と、すっきりした部分もありました。やはり、同レベルの人の説明って、分かりやすいものなのかもしれません。
それから、「簡単なこと」を読んだときは丁度落ち込んでいて、西川先生が「どうして1+1=2って分からないんだ!」と困っている先生で、私が「どうして私は分からないんだろう~」って小さくなっているクラスの子どもに思えました。でも、今は、先生は常に「みんな」におっしゃっていて、私個人におっしゃっているわけではないな~と分かりました。先生に教えてもらいたい、じゃなくて、他の方々と学び合っていかないといけないんだな~と今更ながらに思いました。
とても良いコメントありがとうございます。
私には伝えられないことがある。でも、伝えられる人がいる。私は、その伝えられる人に伝えるというスタンスです。分からない人も、分かる人も、違いはありません。同じ志を持って、教師になった方々です。それが分かっています。ただ、私の原体験の子どもたちは見捨てられた側の子どもたちなんです。一度、『学び合い』をすれば、実は、出来る子どもも、普通の子どもも、授業の中で苦しんでいることがよく見えてしまいます。それで焦っているんです。とほほ。ご気分を害されたご主人にお詫び申して下さい。
今、先生のブログからもどってきました。N先生からコメントいただけてよかったですね。
ところで、「自力解決」の雰囲気はどうですか。シーンとしていますか。相談していい雰囲気ですか。H7年度のある文部省指定校では「わいわい」でした。うちの地区は「シーン」です。解けない子を教えるのは指導者です。
わたし、算数の研究会などで「どうしてシーンとしないといけないんでしょう。私たちだって、相談しながら仕事しますよね。それが校長先生がヒントカードを持ってくるまで待っていなければならないなんておかしいとおもうんですけど。」などと発言すると、かなりうなずいてもらえ、メモしてもらえます。(爆)
ありがとうございます。主人も、西川先生への誤解が解けたようです。主人は、小学生の時不登校、中学では親に反発して塾で猛勉強、高校での成績は下から数えた方が早かったと言っているので、先生のおっしゃる「見捨てられた側の子どもたち」な経歴を持っているように思います。塾に好印象で、7年ほど塾講をしていたけれど、塾で評価される人間に疑問を感じて学校に興味を持つようになった。けれど、私と結婚した当時は、「あんなに学校嫌いだったのに、なんで先生なんかになったんだろう」と自分で不思議そうでした。今は先輩方からいろいろ教わって、それなりにやる気が出てきているところなので、そこに水をさされて困惑している様子です。主人の方こそ、あまり分かっていないのにすみません、とのことでした。
反対に私は、大学まであまり苦労知らずでした。ところが、初任校の十大ニュースで「宇宙人がやってきた」と題され、自分の社会性の無さを痛感。それで、「勉強できてなんだっていうのかしら。結局、人と関われなくてはあまり意味がないじゃない」と学校教育に疑問を持ち、『学び合い』にたどり着いたのです。あ…主人は、高校の部活や塾講時代で生涯の友をたくさん持てているから、授業で仲間作りをというイメージがないのかも…。と、脱線です。私は、私のように社会に出てから呆然とする人をこれ以上生み出したくないなあと思うし、学ぶのを楽しいと思って欲しいなあと思うので、これからも『学び合い』を極めるべく、日々精進して参りたいと思います。この世に、西川先生が居て下さって、本当に嬉しいです。
ところで、全然関係ないし、細かいことなのですが…。先生が私のブログにコメントを下さったとき、迷うことがあります。お返事の時、「西川先生へ」って書いていいのかな~、それとも、ネット上のことだから、ハンドルネームを使った方がいいのかな~、でも、個人情報というか、お名前ははっきり出されているから、お名前明記でいいのかな~、と。あの、「西川先生へ」って書いてもよろしいでしょうか?
私は嫌われるたちなのですが、嫌われると落ち込むたちです。
感謝。
さて、呼び方は自由ですよ。
私の場合は実名公開していますので、ご安心下さい。
ちなみに、高校教師だったとき、「西川先生」とよばれたことが殆どありません。職員会議のフォーマルな時も「じゅんちゃん」でした。当然、子どもたちも「じゅんちゃん」でした。あははは
もうすぐ50歳になるおじさんですので、もう似合わないですが。
あはははは