西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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07/07/25(水)

[]今 16:34 今 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 今 - 西川純のメモ 今 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 現在高崎での講演が終わり、明日の講演先である三沢新幹線で移動している最中です。ということで、インターネット環境は最悪です。また、三沢講演会をお世話していただく先生方と到着後懇談となります。そのため、ブログメールが錯綜するかもしれませんが、ご容赦ください。

 という言い訳を書いて、二つのメモをアップします。

[]失敗分析 16:34 失敗分析 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 失敗分析 - 西川純のメモ 失敗分析 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の先日のメモ反響がありました。そこで、補足したいと存じます。

 まず、学び合い、ということばは我々の専売特許ではありません。実にさまざまです。その全てに失敗がないと申している分けではありません。私が書いたのは『学び合い』の考えを理解した人に失敗はないと申しました。学び合いの定義に関しては、本メモに公開している通りです。そして、私自身も『学び合い』の考え方から外れると、見事に失敗することは何度もメモにて白状している通りです。

 『学び合い』が失敗している例を分析しましたが、いずれも『学び合い』の型をなぞっているだけで考え方を理解していない場合に生じます。そのため、数年前に出版した『「静かに!」を言わない授業』という本に以下を書いています。

 『本書をお読みになっている方の多くは、「面白いけど、本当かな~」と思われていると予想される。しかし、その中には「試しにやってみよう!」とお考えの方もいらっしゃると思う(本書は、まさに、そのような人のために書いた)。でも、ちょっとお待ちください。我々が知っている、我々の考え方の誤用(失敗例)を紹介して、注意を喚起したい。』

 そして、「諦めてしまう失敗」、「目標が不明確な失敗」、「手段を与えない失敗」、「強いる失敗」、「最悪の失敗」をあげました。詳細は本をご参照ください。昨日のコメントは学級経営に関して書かれていましたが、これは「最悪の失敗」の典型的な現象です。それに関して以下のように書いています。

 『以上のように様々の事例がある。しかし、最も悪質な失敗は第5のタイプである。このタイプの場合は、全く何もしない。たいていの場合は、第2、第3の失敗のように、目標が不明確であり、かつ、手段も与えていない。しかし、第2、第3のタイプ先生は、子どもたちが活動している時、教師は机間巡視をしながらニコニコ微笑んだり声がけしたりする。しかし、このタイプ先生の授業の様子を見ると、本当に何もしない。我々は教師が出過ぎるな、と主張する。しかし、何もするなとは言っていない。確かに、我々の授業では、教師はあれこれと教えようとはしない。しかし、動かないわけではない。前章までの事例で紹介しているように、授業中、教師は子どもを見ている。それによって評価し続けている。

 ニコニコしながら机間巡視をすることによって、「いいぞ~」、「見ているよ~」というメッセージ子どもたちに与えている。それによって、子どもたちは「見守られている」ことを実感し、自分たちが承認されていることを知る。さらに、「いいね~」、「すごいね~」という声をかけることによって、力づけられる。さらに、そのことによって、他の子どもたちに、どの子が良い情報を持っているかを分かりやすくする(可視化する)。また、クラス全体の目標が不明確であるなと感じた場合(第二の失敗)、クラス全体が手段を見つけられない(第3の失敗)が起こる場合、クラス全体につぶやいたり、さりげなく特定の子どもに示唆したりする。全体的に見れば、ニコニコしていて、ときどき声をかける程度である。机に座っている場合でも、そのニコニコした視線はちらちらと子どもたちに向けられ、つぶやき、ほめる声が出る。その声が多いか少ないかが重要ではない。子どもを信頼し、見守る姿勢、そのメッセージ子どもに伝わることが重要である。繰り返すが、我々はゴチャゴチャ教えることはするべきではないと主張しているが、何もするなとは主張してはいない。前著(「学び合い不思議と仕組み」)で述べたように、もともと信頼と放任を取り違えている先生が、誤って我々の主張、というより方法を形式的になぞる場合に起こる失敗である。この場合は、確実に学級が崩壊する。

 しかし、そのような極端な放任ではなくとも、それに近い放任はあり得る。これに関しては、見分け方は簡単である。どんな先生にも分かりやすい違いとしては、「成績」が下がるか、否かに着目すればよい。ちょっと目には放任クラスと見間違う姿であっても、学び合いが成立しているとき、学習は完全に成立しているので成績は上る。十歩さがっても、成績が下がることはない。

 しかし、我々の考えを誤解し、放任状態になってしまうという失敗になることは希であろう。何故なら、健全先生日本の圧倒的大多数の常識を持った先生方)ならば、放任状態になる以前に、誤った方法をやり続けることを止めるからである。

 このような失敗を避けるには、どうしたらいいかといえば、「子どもが有能だ」と信じることである。どれぐらい有能だと考えるかと言えば、自分(即ち教師)と同じぐらい有能だと信じる。それが出来れば、自分が教師としてやりやすい環境とは何か、また、そのために管理職校長)が何をすべきか、と自分自身に置き換えて考えれば答えが出る(後略)』

 しかし、これすらも誤解する場合もある。というのは、上記のように書くと、いつまでたっても可視化し続けるという誤りを起こす。そうすると、教師の発言が邪魔になってしまう。教師の可視化は「きっかけ」に過ぎない。それの注意を書き始めたなら・・・、結局、きりがない。結局、可視化は何のためにやっているかとい「考え方」を理解せず、ノウハウとして理解しているために生じる失敗である。

 なぜ、こんなことが起こるのか。それは世にある教育書の殆どがノウハウ本だからしょうがない。ノウハウ本の場合は、それが何故有効なのかという「考え方」を理解する必要はない。そこに書かれたとおりのことをすればいい。私は本や講演では「考え方」が大事だと強調していますが、なかなか伝わらない。本で何度も書いているが、教師は「考える」ことを放棄してほしくない。教育は生き物である。その場、その場において「考え方」に基づいて判断しなければならない。その場、その場を知っているのは、私ではなく「当人」である。だから、ノウハウ本を長らく、書くことを避けていた。なぜなら誤解を生じるからである。しかし、そう言っていられない状況であるため、「学び合いの奥義書」をHP上に公開しました、その次第は、その序文に書いている通りです。

 我々の『学び合い』と、世の多くの学び合い根本的に考え方が違います。同志Mのコメントの通りに、それをいっしょくたにされることは、非常に残念です。しかし、ほかに良いネーミングがないので、『学び合い』と表記しています。学び合いに関する失敗に関しては、私は何も言えません。それを主張されている方に、お問い合わせください。しかし、もし、『学び合い』に関する書籍を読み、HPを読んで試みられた方で失敗したと思われた方は、是非、私にメールしてください。出来る限り対応します。そして、「考え方」を伝えましょう。

[]同志からのメール 16:34 同志からのメール - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 同志からのメール - 西川純のメモ 同志からのメール - 西川純のメモ のブックマークコメント

 同志から以下のメールをいただきました。

 『僭越ながら西川先生にお話があります。7月19日の「西川純のメモ」の内容についてです。

 素直な感想を言わせていただくならば、あまりにとんがっているなぁというところです。また、人格の形成という教育基本法にある教育目的を「ホモサピエンスの本能レベル次元で考えている」のであるならば、その教育基本法目的を達するためにあるはずの学習指導要領は必要ない(=本能レベルで達成されるから)、という論理的な矛盾も感じられます。(「本能レベル次元で考えている」の受け取り方が間違っていれば、ご指摘ください。)

 あと、あまりにテスト・進学実績・・と主張することは、「学び合い」の定着を目指す方法として、決して得策ではないと思います。西川先生もお気づきのように「学校とは人格の形成を目的としている」というお考えの方もたくさんいらっしゃいます。西川先生は「分かる人にわかってもらって、そこから広げる」という方策を採られていると存じておりますが、それにしても(西川先生のお考えをご存知でない先生方に)あまりに刺激的な内容を伝えようとすることで感情的な反発を受けては、元も子もありませんもの。

 じゃあ、もし私、○○が学び合いについて布教するとしたら、そのときの口上はこんな感じだろうと思うことを書き出してみます。

 まずは、人格というものが何なのかをはっきりさせないといけませんが、「人の格」、人柄と言ってもよいかもしれません。だとすれば、教育目標である人格の完成とは、人との好ましい関係の中で、多くの人と、ともによりよく生きていくことができる人を目指すということになるでしょうか。

 そのためには、どうしたって、人とかかわる場面を増やすことが必要になります。学校だと友だちとかかわる場面が増えることで、いろんな人との付き合い方を学ぶことでしょう。その中で仲間とともに、よりよい方向へ生きていくための力を身につけることになると考えられます。

 しかし、学校では人との付き合い方を学ぶ時間なんてありません。しかも、指導要領で身に着けるべきとされている教科学習の内容もこなさなければなりません。じゃあ、どうするか。ここで、学び合いが有効な方法だと考えます。教科学習を媒体として学び合うなかで、人との結びつきを作ることができます。もちろん、お互いのことがわかっている友だち同士であれば、結びつきの力を生かして、学習内容もより身につくこと受けあいです。

と、こんな感じです。

 いや、どう贔屓目に見ても、西川先生の受け売りでしかないのですが・・。失礼を承知でメールさせていただきました。では、失礼いたします。』

 同志の暖かさを感じます。同志のメールを読んで、昨日のコメント意味がようやく分かりました。我ながら表現力のなさと、けんか腰な姿勢に反省します。とほほ

 どうも、私の「業者テスト、進学でいいじゃないか」という表現が刺激的過ぎて、「ホモサピエンスの本能レベル次元で考えている」という真意が伝わらなかったようです。そりゃそうです。その部分の説明をしていないのですから。

 本で書いているように、人格の完成を私は「他人と折り合いをつけて社会生活・家庭生活出来る」と捉えています。そして、これは群れを形成し、言語というコミュニケーション手段を発達させている人間の本能に由来するものと考えています。ただし、人間の本能に由来する群れとは、血縁者を中心とした狭い範囲に限定されています。それを超えて、クラスメートを自分と同じ群れと認識するには教育が必要です。さらに、日本人人類という抽象的な対象を自分と同じ群れと認識するには教育が必要です。以上が私の考える人格の完成です。

 さて、理論的には、指導要領は教育基本法で示される目的を達成するために規定されたものです。振り返って指導要領を読んでください。その細々したことが上記に直結すると思われるでしょうか?明らかに、否です。だって、それだったら、どの国のどんな教科書も同じになるはずです。ちなみにオームの法則は理科の定番ですが、オームの法則をまったく学ばない国もあります。だって、オームの法則というのは固体の抵抗の特殊な法則に過ぎないのですから。

 私はもともと理科教育学出身です。そこでは、「科学概念の形成」が目的にあげられます。少なくとも理科人の中では、当たり前すぎるほど当たり前です。それを疑う発言をすると、感情的に反発される方は少なくありません。しかし、このメモをお読みになっている方の過半数は非理科人だと思います。その方に問いたい。高校で学ぶ科学概念人格の形成に関わると思われますか?もっと直裁に言えば、高校で学ぶ科学概念が形成されない場合、人格の完成に支障が生じると思われますか?明らかに否と答えるでしょう(なお、これに関しての実証的データもあります)。しかし、これは理科のみの問題ではないのです。国語、算数・数学社会英語音楽美術、体育、家庭科技術科・・・の全てにおいて、その教科の先生方が集まって語られる教科の目標も、その他の教科の先生から見れば「???」な内容なんです。ましてや親や子どもにとっては・・・

 私は「苛立って」います。それは、何故、「より広い多くの人と折り合いをつけて社会生活・家庭生活を出来る」という目的に本当に目覚めてもらえないのか!と。それに目覚めていただければ、指導要領で規定されてものも、業者テストも、進学率も、その他の高邁な教育理念も、全て相対化出来ます。それらの優劣に目くじらを立てることも無いように思います。

 多くの教師にとっては、まったく無意味とも思える業者テスト「ですら」子どもたちは豊かな学びに変えることが『学び合い』には出来ます。ましてや、指導要領の規定も、高邁な教育理念も無矛盾で実現できます。

 現在、教師に対する風当たりは厳しい。それに対して、多くの教師は首をすくめ、嵐の過ぎるのを待っている状態ではないでしょうか?しょうがありません、宮仕えの身は私も、その小心者の一人です。しかし、それにもかかわらず、私は、「より広い多くの人と折り合いをつけて社会生活・家庭生活を出来る」ことの重要性を強く主張したい。我々教師は、国語の教師や小学校の教師である以前に、自分と一緒に働いてほしいと願える次世代の大人を育てる、究極の責務を社会から付託されていることに誇りを持ってほしい。その次元で、親や社会と向き合いたい。そのためには、親や社会が求めていることを十全満たすことが大事です。業者テストに目くじら立てずに、とりあえずやりましょう、と提案しています。先に言いました通り、多くの教師にとっては、まったく無意味とも思える業者テスト「ですら」子どもたちは豊かな学びに変えることが『学び合い』には出来ます。ご安心ください。それを満たした後に、その先があると思います。

 教科の目標や、高邁な教育理念に取り込まれてしまうと、結局、実践に繋がらない抽象論や、教材・教具や指導法の泥沼に絡めとられていしまう。一度、シンプルに考えてください。そして、子どもの姿をとして、肉付けしてください。そうでなければ、一歩も進めなくなってしまう。

 ということを言いたかったですが、あ~あ、また、攻撃的な表現になってしまう。私は決して出世しないと自覚します。

 不快に思われた方、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。でも信じてください。私は子どもが大好きだし、まじめな先生も大好きなんです。全ては、不徳のためです。すみません。

OB1989OB19892007/07/26 02:47「なぜ,理科は難しいと言われるのか」,「学びあう教室」,「学び合いの仕組みと不思議」,「「静かに!」を言わない授業」,「「座りなさい!」を言わない授業 」,「「忙しい!」を誰も言わない学校」,「「勉強しなさい!」を言わない授業」(いずれも,東洋館出版)によれば,『学び合い』は,させてできるものではなく,自立的に自然発生するものです。子どもが学び合う必然性を感じているのであれば,授業者がそれを阻害さえしなければ,自ずから学び合う現象は現れます。基本的には学び合うか否かは子ども自身が選択するものと考えますから,授業者に言われたから学び合うものではないと考えます。私たちの『学び合い』は,授業者が「させる」ものではなく,子どもたちが必要感から自分で「する」ものなのです。そのような『学び合い』が生じるのは,授業者が子どもたちは有能であると最後まで信じることによります。つまり,授業者が「させよう」とする方法論(テクニック)ではなく,子どもの有能性を信じる考え方がその特徴なのです。ただ,一般的に使用されている学び合いという語が用いられるときは,授業方法論の用語の一つとして使用される場合が多く,誤解が生じるように思われます。誤解されることはとても残念ですし,悲しいことです。その効果は,学力向上だけでなく,コミュニケーションの活性化にとどまらず,人間関係の改善にも至っていることが,冒頭に示した書籍中で実証されています。特別支援教育や学級経営にも及んでいます。「ちょっとしたコメント」としては十分にお伝えできないものとは思いますが,より多くの皆様方にご理解いただけることを願っています。

jun24kawajun24kawa2007/07/26 05:10ありがとう、同志!