西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
ツイッター http://twitter.com/jun24kawa
『学び合い』メールマガジン参加者募集中!(無料)http://www.mag2.com/m/0000270912.html
『学び合い』マップ募集中!(無料)http://manabiai.g.hatena.ne.jp/kokohagw/
授業公開の仲介のガイドライン http://dl.dropbox.com/u/352241/manabiai-data/koukai.pdf
だめで元々で、とりあえずドロップボックス(http://db.tt/bMZAZwx)とjimdo(http://jp.jimdo.com/)の無料アカウントを登録してみてはいかがでしょうか?実に簡単ですから。

本格的にトライする人も多くいると思います。その際、人とのつながりが大事です。身近にいる人と繋がれるとありがたいですよね。『学び合い』を実践される方は、『学び合い』マップ(https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zDInXkSSxyO4.kNDji5uDNm0Y)に、是非、登録下さい。登録は、『学び合い』マップ登録フォーム(http://form1.fc2.com/form/?id=77081b4d4f40dd2f)から出来ます。  「私なんて、人になんか教えられるレベルに行っていない」と思う方へ。だからいいんですよ。一番知っている人が、一番の教え手ではないことは『学び合い』を実践しているならば、子どもを見れば分かるでしょ。それに、教える必要はないのです。共に学び合えばいいのです。いや、愚痴を言ったり、笑ったりする、それでいいのです。  是非、一人でも多くの人がマップに登録下さい。強く、強く、お誘いします。

07/01/31(水)

[]サービス 12:47 サービス - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - サービス - 西川純のメモ サービス - 西川純のメモ のブックマークコメント


  大学から家に帰ると、息子の遊びに付き合います。そして、7時ごろになると風呂に一緒に入り、体を拭いて、髪を乾かします。家族で食事をして、片付けます。息子は食事を食べた卓を拭きます。そして、私のシャツの中に入り込んで、私のおなかに顔をうずめます。その状態のまま、体を持ち上げて洗面台に移動します。私にごちゃごちゃ言われながら、歯磨きをします。私におんぶされながらリビングに移動し、歯の仕上げ磨きをします。そして、息子と一緒に布団に入ります。布団の中で息子のオデコに私のおでこをくっつけながら呪文を唱えます。息子と添い寝をするときは、6年前から同じ呪文です。それは「チチンプイプイチチンプイプイ神様、仏様、ご先祖様、○○(息子の名前)をお守りください。○○を守る我々をお守りください」です。そして、「ご挨拶しましょう」と言うと、息子が私のほっぺにチュをして、私が息子にチュをします。そして、30分ぐらい息子に添い寝をして、息子の寝息が寝たことを示したら、布団を出ます。これが息子が生まれてから、出張以外の日の毎日です。毎日、私は息子にサービスしています。

 と、思っていましたが、私の間違いです。この二日、家から離れて出張です。とても辛い。息子がシャツに入ってほしいし、オンブしたいし、歯磨きしたい。息子にオマジナイをして、添い寝したい。サービスしてくれたのは、息子だと思います。その彼にサービスが足りなかったと反省します。

追伸 添い寝から起きてから、風呂上りの家内コタツに一緒にいるのは幸せです。

07/01/27(土)

[]本日学んだこと(その1) 12:49 本日学んだこと(その1) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 本日学んだこと(その1) - 西川純のメモ 本日学んだこと(その1) - 西川純のメモ のブックマークコメント


 本日院生さんと語りながら大きな事を学びました。

 我々は、教師は目的を語るべきで、方法を語るべきではない、と主張します。しかし、本日気づいたのは、多くの先生方は目的と方法の違いが分からず、自分は目的を語っていると考えているということです。では、違いの分からない人に目的と方法にはどんな違いがあるかを考えてみると、なかなか難しいです。しかし、ハッキリした違いがあります。それは、クラス全体に対する目的と方法をごっちゃにした語りの時間を比べると、我々の方が一斉授業より短いんです。つまり、我々の語りの方が短くて良いんです。これは面白い結果です。我々は目的を大事にしていますが、我々の目的の語りは、授業全体で見れば短いのです。逆に言えば、短くてもOKな目的を語っています。

 さて、以上は学術のレベル、即ち、データで語れるレベルのことです。でも、データにはしずらいのですが、目的と方法との決定的な違いがあります。それは、それを語った後に、子どもから「何で?」という質問が出ると教師が思っているか、子どもから「どうやったらいいの?」という質問が出ると教師が思っているかでハッキリ分かります。前者が「学び合い」で、後者が一斉授業です。もちろん、「何で?」と質問が出ると思っているのに、「どうやったらいいの?」という質問が出る場合があります。それに対して「お前が考えろ」と言うのが「学び合い」で、その方法を語るのが一斉授業です。だから、一斉授業では教師の語りが長いんです。

[]本日学んだこと(その2) 12:50 本日学んだこと(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 本日学んだこと(その2) - 西川純のメモ 本日学んだこと(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント


 我が研究室で「学び合い」を研究された現職院生さん達は、例外なく、授業のうまい先生です。また、洗脳旅行に来られる方はも、そうです。その方々は、疑いを一杯持っても、一歩踏み出せば、あっという間に会得され、実践されます。その度に、全ての先生が簡単に会得できるけど、力のある先生は本当に直ぐだな、と思います。しかし、力のある先生でも、なかなか難しい人もいます。何故だろうか、と考えてみました。

 我々の「学び合い」で最も大事なのは、「子どもを信じる」ということです。授業力のある先生にも2種類あると思います。一方は、子どもをおだて、引き込んで、子どもの力を引き出そうという先生です。この種の先生は、子どもが凄いことが出来ることが知っているので、比較的簡単に我々の主張を理解していただけます。ただ、部活ではそういうことを出来たとしても、教科指導ではしたことのない人は、ちょっと抵抗があります。でも、教科指導も部活も同じだと気づけば、直ぐです。でも、他方の人もいます。その先生の場合は、子どもは「出来ない」と考えています。それ故、「自分の教材」、「自分の発問」等で子どもを無理にでも「やらせよう」と思います。前者後者の違いは、授業がうまくいったとき、「子どもの力は凄い」と考えるか、「自分が凄い」と考えるかで分かります。

 後者の方でも、時間はかかりますが、分かってもらえます。私が、その証拠です。私の教師の原体験は、オール1、暴走族子どもを教えたことです。1年も立てば、勉強は出来なくとも人としては同等であることに気づきます。でも、その子の教科に関する能力は信じられません。そのため、その子達と授業を成立させるために、声の出し方、表情の作り方、教材、発問、こまめな 人間関係づくりに邁進しました。その私が大学にうつり、英文論文が不得手、統計分析が不得手、心理学が不得手の現職院生さんの研究指導に携わりました。教師としては尊敬すべき現職院生さんであっても、研究に対しては信じられません。そのため、そのような現職院生さんに分かってもらうためにはどうしたらいいかを考えました。しかし、遅ればせながら、現職院生さんの持つ、凄い力に気づき、その力を最大限に生かすためには「信じる」ことしかないことに気づきました。愚かな私はそれに気づくまでに数十年かかっています。

 さて、私のような先生にどうやって伝えるか・・・・。課題です。

07/01/26(金)

[]セオリー通り(その2) 12:52 セオリー通り(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - セオリー通り(その2) - 西川純のメモ セオリー通り(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント


 ある学生さんより以下のメールを頂いた来ました。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 『西川先生にお詫びとお礼を申し上げたくてメールさせていただきました。○曜○限の授業を聴講させていただいていた○○です。直接お詫びを申し上げたかったのですが、昨日言いそびれてしまったい、西川先生とのコンタクトの取り方が分からなかったため、メールさせていただきます。

 何度か授業を欠席したこと、本当に申し訳ありませんでした。自分の勝手な都合で欠席し、先生にたいへん失礼なことをしてしまったと思っています。申し訳ありませんでした。また、今回この授業で「学びあい」について知ることができ、さまざまなことを考えるきっかけとなりました。お借りした本には、「目からウロコ」のことがたくさんありました。そして、実際にこの授業で西川先生が「学びあい」を体験させてくださったことから、何よりも強く「学びあい」のよさを感じました。「学びあい」では、目標子ども同士が目標を共有しあうと、それに向かってどんどん進んでいこうとするんですね。あまり親しいとは言えない他コースの学部生の方と「学びあい」ができたことは、貴重な体験だったと思います。本当によいメンバーに恵まれていたというのもあると思いますが、話し合いの活動は面白く、自分がいる意味があることを実感でき、「学びあい」のすごさを感じずにはいられませんでした。また、私は、勝手な理由で欠席しいていたことを強く後悔し、「もうみんなに迷惑はかけられない。みんなに少しでも貢献したい。」と思いました。自分の心の変化を感じながら、「あぁ、学びあいって人をこんな気持ちにさせるんだ!」と感動しました。欠席していたことは本当に申し訳ないのですが、そのことで、さらに「学びあい」のすごさに気づけたような気がします。』

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 次のことを付け加えます。上記の授業に関しては、既に評価を出した後です。もう一つは、これだけ感謝された授業で私がやったことは、ごく僅かです。

 1)我々の研究室の本を6冊与え、この本を分かりやすくして欲しいと求めたこと。

 2)2回に1回程度、3分間程度のお説教をいったこと。

 3)学生さんに聞かれたことを、授業あたり数回応えること。

 4)それ以外の時間、即ち1時間半の95%以上は、教室の隅で寝ていること。

 本当に、セオリー通りです。

07/01/21(日)

[]セオリー通り 12:56 セオリー通り - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - セオリー通り - 西川純のメモ セオリー通り - 西川純のメモ のブックマークコメント


 本日は学部の学び合いの授業の最後の日です。そして評価の日です。先週には、みんなの前で「自分の評価は○です」と言えばいいことを宣告しています。私としては、全員をAにしたいことはオーラで伝わったはずです。

 本日、「自分の評価はAだと思う人?」と聞くと、大多数の人が手を挙げてくれました。ところが、それ以外もいます。そこで「自分の評価はBだと思う人?」と聞くと、17人のうち4人が手を挙げます。正直、「目が点」になってしましました。そこで、「何故、Bなの?」と純粋に聞きました(私には想像できませんでした)。ある学生さんは「数回、休んだから」と言いました。ある学生さんは「本の読みが雑だった」と言います。「へ・・?そんなことで自分をBにするの?」と思いました。彼らに対して、彼らの活動は十分にAに値すると評価すると宣言しました。しばらく、学生さんの活動があり、授業の終了です。終わりだな、と思っていると一人の学生さんが手を挙げて発言を求めました。曰く、「さっきはBだと思う人というので手を挙げなかったが、自分はCだと思う」です。私は思いっきり「え??????」と思いました。そこで「何でCなの?」と聞くと?「自分は欠席も多かった」と言います。そして、みんなに対して「迷惑かけてすみませんでした」と 他の学生さんに対して言います。学生さん一同は、ニコニコ笑って、そんなことないよと言っていました。

 先ほどのAで手を挙げてくれた学生さん、自分をBだと言った学生さんのことで、不覚にも泣きそうになりましたが我慢しました。しかし、自分がCだと言った学生さん、そして、それを受け入れた学生さんの姿で、本当に泣きそうになりました。でも、ぐっと我慢しました。

 まさにセオリー通りです。みんなという課題においては欠席はありません。上記の学生さんが「欠席した」というのは、私が演説した授業の時です。みんなという課題においては、一斉授業では考えられないほどの集中力があります。みんなという課題においては、教師の評価より厳しい評価を自分に課します。最後の学生さんが全員に謝ったことに、その理由があります。それは、教師の評価を誤魔化すことは出来ても、みんなの評価を誤魔化すことは出来ないことを知っているのです。まさに、我々のセオリー通りです。

 私が評価を初めて学んだのは23歳の大学院の時です。そこで学んだのは子どもの評価は教師の評価であることです。そこで、そのことを語った後に「私はこの授業の私の評価をAにしたい。それ故、全員をAに評価する」と宣言しました。

 私は25歳で初めて教師になりました。現在まで22年間教師をやっています。授業でいっぱい子ども達から感激させてもらいました。研究指導でいっぱい子ども達(その中には40代のオッサンも含まれます)から感激させてもらいました。しかし、最後の、最後の評価の段階で、ウルウルしたのは本日が初めてです。本日の私の経験は、学び合いの授業で自己評価をさせた教師にとってはおなじみのことでしょう。多くのゼミ生から聞いたことです。そして、私は「セオリー通り」と言い放っています。しかし、自身の実践の場でセオリー通りのことが起こると、それでもウルウルします。学び合いは凄い、と思います。

07/01/13(土)

[]公開授業 13:06 公開授業 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 公開授業 - 西川純のメモ 公開授業 - 西川純のメモ のブックマークコメント


 1月30日に埼玉で「学び合い」の授業公開をします。それを参観したら、『「勉強しなさい!」を言わない授業』で書いたことは嘘でないこと、いや、それ以上であることを肌で理解出来る 自信があります。参観者は、我々の研究室メンバー以外に、○県センターの次長が一人、校長が3人、教諭が7人です。面白いのは校長が3人も参加することになりました。いずれも、学校を変えようとする校長です。

 自分の授業を改善したい先生方に支持されて我々の研究室があります。現在学校改善したい校長も、我々のサポーターとなりつつあります。面白い、と思います。

[]子どもの捉える学び合い 09:00 子どもの捉える学び合い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 子どもの捉える学び合い - 西川純のメモ 子どもの捉える学び合い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 以下はある同志より送って頂いたものです。そのクラス小学校6年)で「授業のことを残したい」というテーマの作品を作りたいという子どもたちの声によって作成されたものです。その同志曰く『イラストの得意な子はイラストで,作文の得意な子は作文で,授業を表現してくれる。どっちも得意じゃない子でも,にこにこ笑っていることで表現してくれている。』ということでした。

07/01/12(金)

[]学んだこと 13:07 学んだこと - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学んだこと - 西川純のメモ 学んだこと - 西川純のメモ のブックマークコメント


 本日西川研究室の全体ゼミです。20人弱の現職院生さん、学卒院生さん、学部4年、3年が一緒になって議論します。本日は、3年生の研究計画検討です。3年生は早い人で半月後、遅い人でも1ヶ月後に群馬県高崎市学校に1ヶ月以上入って実践研究をします。5人まとめて受け入れてくれただけではなく、彼らのために何が出来るかという視点で場を提供してくれる学校がいることに、涙が出るほど感謝します。しかし、その好意に甘えてばかりいられません。研究室として、最善を尽くすべく、全員で彼らの研究計画を検討します。3時間ぶっ続けで。二つのことを学びました。

 第一番目は、学習者が話し合っているときに、教師は介入すべきではない。ということです。分かっているんですが、出来ません。おそらく、言っていることは正しい、と自分では思っています。しかし、それを思っている自分自身が、駄目だと判断します。反省~。でも、私が長い説教かましても、し~んとならないだけタフになっているメンバーの成長を嬉しく思いました。

 第二番目は、学習者の議論が進行している声は、本当に良い子守歌です。例えになっていないかもしれません。うまい床屋に髪を切ってもらっていると、寝たくなくても、いつの間にか寝たくなるのと同じです。全てを「お任せ~」と感じると、寝たくなるんだと思います。

 質の高い議論。それを成り立たせる力在るメンバー。やっぱ、指導教員は、「元気で、留守が良い」と思いました。

[]歯抜け記念日 13:08 歯抜け記念日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 歯抜け記念日 - 西川純のメモ 歯抜け記念日 - 西川純のメモ のブックマークコメント


 かなり前から息子の下の前歯の右がぐらついていました。「引っこ抜こうか?」と我々が言うと、息子は必死に抵抗します。まあ、そうでしょう。薄れている過去記憶であっても、「怖い」という記憶は残っています。

 本日の朝、家内より「歯が抜けた」いう題目のメールを受けました。内容を読むと「抜けた」ではなく、「抜いた」というのが実情です。朝の歯磨きの最、もう少しで抜けそうだということから意を決し、抵抗する息子を押さえつけ、抜いたそうです。母は強し、です。息子にとっては相当ショックで、元気なく学校に行ったそうです。しかし、本日は息子が大きくなった記念日です。夕食は祝杯です。息子を一杯褒めまくったのですが、褒める度に「その時」を思い出すようで、盛り上がりません。夫婦だけがはしゃいだ一日です。本日は、歯抜け記念日です。

07/01/11(木)

[]同志 13:10 同志 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 同志 - 西川純のメモ 同志 - 西川純のメモ のブックマークコメント


ある同志に、特別支援のクラスにいる?と聞きました。以下がその返信です。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 「特別支援を必要とする子」について考えてみました。

 私のクラスには,例の介助員等による「特別支援を必要とする子」はいません。西川先生,分かってて聞いていらっしゃるでしょ?

 自ら助けを求める子はいます。全員です。困った時に「助けてー」と言える子,という意味です。そういうクラスでは,介助員等はむしろ邪魔です。子ども学習を阻害します。たとえハンディキャップをもった子でも,「助けてー」と言える限り「特別支援を必要とする子」ではないと思います。そして,環境次第で「助けてー」は言えます。まわりの仲間が「助けてー」を無視する環境,見てみぬふりをする環境では,「助けてー」と言えなくなるから,「特別支援を必要とする子」が生まれるのだと思います。なんだかいじめみたいです。いじめられている子に介助員がついていじめがなくなりますか?その子は救われるのでしょうか?必要なのは介助員ではないですよね。

 今の自分はそんな風に考えていますが,これまでの自分の教員生活を振り返ると,私はずいぶんむごいこともしてきたと思います。きっと。もっと救われた子がいたように思います。

 前任校で私はよく「たいへんな学年」というのを受け持ちました。現実は,全然たいへんじゃなかった。でもそれは,私の力ではない。子どもと同じで「助けてー」と言わせてくれる先輩教師がいたからです。その先輩教師は私にああしろ,こうしろと指示はせず,「あんたどう思う?」といつも聞いてきました。今にして思えば,その人は自然学び合いを身に付けた人だったのだと思います。そこで学んだ。それから「たいへんな学年」という意識はまったくない。なんとなくいつも楽しく過ごしてきました。 (忙しいのは忙しかったですよ,これ愚痴ですけど)なぜかは分からなかった。こういうのがいいんだろうなあ,ぐらいの意識しかなかった。それが確信に変わったのが昨年の夏の西川研での3泊4日です。

 養護学校に勤務する私が尊敬する後輩がいます。昨日その方が今年度の実践記録を送ってくれました。小学部6年Aさんについて,

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

教室で耳をふさぐようにしてうつむき,座っていたA児が教室内を歩き回り始めた。

私は「Aさん,座ってください」と言葉掛けをしたが,A児はそのままである。

私はA児に近づいていった。すると,A児は私を見て,笑い,逃げるようにして教室

内を走り回った。

一般的に離席は不適切な行動である。しかし,このような行動には必ず子どもの思い

が隠されていると考える。

A児の行動の中に私に伝えきれない思いがあるに違いない。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 と考えたその後輩は,Aさんとのかかわり方として「注意をしない」「代替の行動を提示する(決めるのはAさん)」を選択しました。この後輩も普通学級であったら,間違いなく自然学び合いができるはずです。

 「かかわりたい,思いを伝えたい,でもどうしていいか分からない」Aさんは,時に「不適切な行動」をします。かかわり方のスキルをもたないがためです。そういう子に思いを伝えるためのカードをもたせることは,養護学校先生はよくやられることなのかもしれません。ただ,実践記録の中で,保護者からの連絡帳の内容として

「Aは家でも,カードを見てうれしそうにしていることがあります。とても大事にしているようです」が紹介されていて,私は感動しました。そりゃあAさんはうれしい。「助けてー」が言えて,助けてくれる仲間が(今回は教師だけど)いて,「助けてー」を言う,言わないを自分で選ぶことができるのですから。

 後輩の中でAさんは,養護学校小学部6年生であっても「特別支援を必要とする子」ではきっともうないはずです。まして普通学級において「特別支援を必要とする子」がそんなにたくさん(6.3%)いるはずは,ない。西川先生と同じく,私もそう思います。

 長いメールでした。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 私の返信は以下の通りです。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

ありがとう同志!

今泣いています

家内に見つかる前に、涙を拭きます。

ありがとう

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 今回、同志の方から色々なメールをいただきました。半数以上は上記のように「特別支援の必要な子」はいないという反応です。残りの方の反応は、「特別支援の必要な子」を意識しています。しかし、それらの方は、それなりの立場におり、自分のクラスのことを心配しているのではなく、関係する教師のクラスのことを心配している方です。そのような方も、自分のクラスにおいては上記のような感覚だと思います。しかし、いずれの方も、自分が対応できなく、医師や介助員のほうが適切であると考える方はいません。

 私には同志がいます。

07/01/09(火)

[]ハイビジョン 13:12 ハイビジョン - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ハイビジョン - 西川純のメモ ハイビジョン - 西川純のメモ のブックマークコメント


 家内は贅沢はいけないという考えの持ち主ですが、前のテレビ故障がちになり、ついにこのたびフルハイビジョンテレビを購入しました。感激しました。衛星放送を含めてチャンネル数が増えました。そして、映像が凄い。家内も私も「キレイだね~」を連発します。

 私がハイビジョン映像を見たのは二十年前です。大学院での指導教官だった小林先生の鞄持ちで、品川ソニー本社にいったときのことです。最初見たときはビックリしました。そして、見た後はテレビを見ると、何かぼやけているように感じてしまいました。それが、今、自宅にあります。感謝

[]何で評価するか 13:13 何で評価するか - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 何で評価するか - 西川純のメモ 何で評価するか - 西川純のメモ のブックマークコメント


ある同志からの愚痴メールです。

 『学び合いを信じられない教師にとっては、学び合いクラスは「行儀の悪いやりにくいクラス」に見えてしまうでしょう。

 私のクラスも他の教師から言われたことがあります。

 「○○先生クラスは、教師に向かって、堂々と議論をふっかけてくる。」

 「○○先生クラスは、授業中に歩き回る。」

 「○○先生クラスは、先生が教えてくれないと言っていたが本当か?」

 「○○先生クラスは、食べられない給食は食べなくて良いと言われているそうだが本当か?」

 「○○先生クラスは、宿題がない(少ない)そうだが本当か?」等々・・・

 1つ1つ説明できることばかりですが、そんなことに1つ1つ対応している時間と気力がないのも現実です。』

 なんで、つまらんことを気にする教師が少なくないのでしょうか?

 クラス不登校の子はいるか?

 欠席・遅刻せずみんなが来ているか?

 クラス全員の成績は向上しているか?

 以前のクラスだったら「特別支援の必要な子」とされていた子が、何も問題を起こさなくなっているのではないか?

 そのような本質的な評価だったら、同志は120%の評価を受けています。そして、回りの教師もその情報は知っているはずです。それなのに、そんなつまらんことを気にするのでしょうか。なぜ、同志に「どうして、○○先生クラスには不登校がいないのですか?」、「どうして、○○先生クラスは欠席・遅刻が少ないのですか?」、「どうして、○○先生クラスでは全員の成績がいいのですか?」、「どうして、○○ちゃんは○○先生クラスに入ってから、あんなに変わったんですか?」と聞かないのでしょうか?

 つまらんことを気にする先生は、「教師の言うことを黙って静かに聞いて、嫌いなものを涙を流しながらでも食べる」ことを誇るのでしょう。しかし、そのクラスには、不登校の子がいたり、欠席・遅刻の多い子がいたり、成績が悪い子がいたり、自分ではどうしようもない「特別支援の必要な子」がいるのではないでしょうか。きっと、つまらんことを気にする方は、本質的な評価を受けるときは「親が悪い!社会が悪い!制度が悪い!特別支援の必要な子は6.3%もいる!」と合理化するんでしょうね。

[]つくられる特別支援を必要とする子ども 13:14 つくられる特別支援を必要とする子ども - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - つくられる特別支援を必要とする子ども - 西川純のメモ つくられる特別支援を必要とする子ども - 西川純のメモ のブックマークコメント


 先の「なにか違う(その2)」を読まれた、ある同志から以下のメールを頂きました。

 『先生は、なぜそのように特別に支援が必要とされている子どもや親の事をご存じなんでしょうか?書かれているとおり、特別支援学級に入級、もしくは特別支援学校に入学を就学指導委員から進められている子どもを持つ親の大半は子どもが障害と言われている病気?について大変深く勉強されています。親の会などに参加して勉強されている親も多く見受けられます。学校も、特別支援校や特別支援学級に入れることを勧めます。(権限がないので何となくですが。バカな管理職だと越権行為で強く進めます)

 文科省が補助、介助員を3万人加配すると発表しましたね・・・。本当にげっそりします。というか、恐ろしさを感じます。その3万人を生かすための子どもが必要になります。私の学校ではダウン症子どもが入学します。その子は特別支援校への入学を勧められましたが敢えて、地元学校希望して入学することになりました。その子を含めた来入児童○名の内、三分の一が情緒障害の恐れ有りとして市の就学指導委員会で特別支援学級への入級が検討されています。情緒障害児学級は現在も設置されているため問題は無いのですが、知的障害児学級はありません。○○県の規定では○名の在籍児童がいる場合設置に向けた申請が可能となります。ですから、管理職現在、人集めに必死です。学級担任に、該当する児童はいないか精査しろとの指示がありました。恐ろしいと思いませんか!これが現状です。私の学級では、入級している児童2名を抱えていますが、学級で過ごすようにしています。実態で対抗しています。今年度、県の研究会、指導主事、校内研究会、郡内の研究会で数多くさらさせましたが、全く気づかれません。一人は読み書きに支障がありますが子ども達の関わり合いでカバーできています。』

 恐ろしいことです。特に『その3万人を生かすための子どもが必要になります。』は恐ろしいことです。お役所では、制度が成立し予算がついたら、何が何でも消化しなければならなくなります。その お役所の末端である『管理職現在、人集めに必死です。学級担任に、該当する児童はいないか精査しろとの指示がありました。恐ろしいと思いませんか!これが現状です。』は当然の帰結です。6.3%とという数値が一人歩きすると、6.3%の子どもを「特別支援の必要な子」にしなければならない。

07/01/08(月)

[]なんか違う(その2) 16:10 なんか違う(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - なんか違う(その2) - 西川純のメモ なんか違う(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント


 あれからもう一度考えてみました。おそらく「特別支援の必要な子」の定義が曖昧だからギャップが生じるのだと思います。私の定義は、「一般の教員が担当するには、能力的もしくは時間的な制約で対応できず、普通学級での学習において医師・介助員の補助が必須の子ども」という意味です。一般の狭義定義は「自閉症、アスペルガー、境界児、ADHD等の子ども」だと思います。一方、広義の定義は「学校生活で困難を感じ、自閉症、アスペルガー、境界児、ADHD等に近い症状が見られる子ども」だと思います。

 私の定義だと、正真正銘の自閉症、アスペルガー、ADHD等であったとしても、普通学級の学習において能力的にも時間的にも一般の教員が担当できる子どもは、特別支援の必要な子ではありません。そして、私は、自閉症、アスペルガー、境界児、ADHD等の子どもの殆どは、もし、『学び合いの文化が成立したならば』、普通学級の学習において能力的にも時間的にも一般の教員が担当できると考えています。おそらく、圧倒的な教員の常識とかけ離れたことに関して私は確信があります。

 ところが現状は、「学校生活で困難を感じ、自閉症、アスペルガー、境界児、ADHD等に近い症状が見られる子ども」がいつの間にか、「自閉症、アスペルガー、境界児、ADHD等の子ども」になり、最終的には「自閉症、アスペルガー、境界児、ADHD等の子どもだから、普通学級での学習において医師・介助員の補助が必須の子ども」になってします。そして、それは「私が教えられないのはしょうがないことで、悪いのは医師・介助員の補助が付かないから」と合理化される免罪符を教師に与えます。

 私は、「一般の教員が担当するには、能力的もしくは時間的な制約で対応できず、普通学級での学習において医師・介助員の補助が必須の子ども」がいることを疑いません。でも、そんな状態の子ども普通学級にいるべきではない。その子にとって、いることのメリットは無いと思います。私は普通学級で学ぶ最大の意義は、社会の縮図たる色々なメンバーと関わる経験を持つことだと思います。もし、クラス学習において介助員の介入が本当に必要だったら、その「最大の意義」を得る機会がないのですから。

 よく「その子にとって普通学級ではなく、専門の学級で学ぶ方が望ましいが、親を説得できない。何が何でも普通学級で学ばせろとかたくなだ」ということを聞きます。でも、それを聞く度に「ホンマカイナ~」と思います。そして「望ましいのは、その子にとってではなく、学校、特にあなたにとってではないかな~」とも心の中で思います。だって、親は教師以上にその子のことを思っているはずです。だから、正当な説明をすれば分かるはずです。分からないのは、正当な説明が出来ないからです。

 以前のメモに書いたとおり、私は何人もの子どもの退学の手続きをしました。定時制高校を退学することは、その子どもにとってメリットは何にもありません。しかし、在る状況においては、退学するというのは、ごく当然の結果です。そのため 全ての情報を徹底的に親に伝えると、親は泣きながら「退学させて欲しい」と願います。恐ろしいことに、それが担任の仕事の一つなんです。自分の子どもがどんな子どもかを一番知っているのは親です。目を背けたり、合理化したりしても、本当のことを一番知っているのは親です。学校生活において、当然の判断を覆すことが出来る方法を考えられるとしたら、それは教師です。その教師が「無理」だと結論すれば、親が出来ることは当然の判断を下すしかありません。そのような経験があるので、その子にとってメリットがあることを親に説得できないとしたら、それは教師が嘘をついているとしか考えられません。

 親は教師以上に子どもを見ています。教師が、「自閉症、アスペルガー、境界児、ADHD等の子どもだから、普通学級での学習において医師・介助員の補助が必須の子ども」と判断しても、自分の子ども自閉症、アスペルガー、境界児、ADHD等では無いと信じている親はいるはずです。だって、そのような親はその手の本を教師以上に読んでいる可能性があります。 従って、正当な議論をすると、教師を言い負かすだけの知識を持っています。また、「自閉症、アスペルガー、境界児、ADHD等」であることは理解しているが、「一般の教員が担当するには、能力的もしくは時間的な制約で対応できず、普通学級での学習において医師・介助員の補助が必須の子ども」とは認識していない親はいると思います。だって、親である自分とはコミュニケーション取れて家庭生活できていることを知っているのですから。 もちろん、親の判断が全て正しいというわけではありません。でも、一人の子ども人生を大幅に変更するかも知れない判断を求めているとき、そのような親に対して正当な説明が出来ないならば教師の負けです。ただし、そんなことを専門書の知識で言い張っても無理ですよ。先に書いたように、学校での状態を徹底的に話せばいいんです。教師の捉えた学校での状態が正しいならば、親は泣きながら「そのようにして欲しい」と言うはずです。もし、親が「学校ではそうなのかもしれないけど、家ではそうではありません。また、○○のようなこともありました。また・・」と反論したならば、その子の問題と言うより、その子のおかれた学校環境の問題である可能性があります。そのような親を説得する根拠として、文部科学省の「6.3%」の統計の根拠は、あまりにも脆弱な根拠にしかすぎません(嘘だと思う方は原典を読んで、その方法論を吟味してください)。ありゃ「教師の身内だけに通じる数字」だと思います。

07/01/07(日)

[]なんか違う 16:13 なんか違う - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - なんか違う - 西川純のメモ なんか違う - 西川純のメモ のブックマークコメント


 現在、「6.3%」の子どもは特別支援の必要な子ども子どもとされています。

 私の教師の原体験東京都定時制高校です。高校の進学率は95%です。東京都の場合は97~98%です。私の教えた学校はその最最下層の学校です。 なにしろ教え子の過半数は、中学校の内申書は純粋無垢のオール1でした。また、残りの殆どは、2がちらほらと混じっている程度です。ということで、私の教え子は少なく見積もっても80%は「6.3%」の子です。「大変な子」でした。でも、「特別支援の必要な子」と思いませんでした。もちろん、私の教えた子ども達の中には、正真正銘の境界児がいました。その子は、それは「凄い」と思いました。私の教え子の半数以上は「分数」が駄目です。その教え子の中でも「境界児」は目立ちます。でも、その子もクラスの中にいました。そして、私は特別支援を必要としませんでした。その子以外に関しては、「大変な子」とは思いましたが「特別支援の子」と思ったことはありません。その子に関しても、介助員の必要性は感じませんでした。だって、周りの子も、私の周りの先生も、「そんなもんだ」と普通に受け入れていたんです。

 介助員がいるクラスで救われるのでしょうか?介助員について、その子は何を学ぶのでしょうか?漢字ですか、分数ですか?それを学んで、その子は幸せですか? クラス社会の縮図です。介助員がなければクラス でいきられないとしたら、その子は大人になっても介助員が必要です。そんなら、普通クラスにいるべきではない。

 私は「特別支援の必要な子」の存在を疑いません。しかし、そのような子は普通学級にいられない、いるべきでない子どもです。介助員をつけて、普通学級にいる必然性を私は理解できません。学校子ども大人になるためにいるところです。大人になって必要なことは、漢字を書ける、計算が出来るではありません(そんなのは千円ぐらいの機械でやってくれます)。他人様となんとかつきあることが、大人になって必要なことです。介助員が付いて学べることは何でしょうか?子どもに必要なのは介助員の代わりに、周りのクラスメートサポートを受ける能力です。それが本当に出来ないなら、普通学級にいる意味がない。私は「6.3%」 の殆どの子どもは、それが出来る存在だと信じています。でも、多くの教師とは「なんか違う」ようです。

 学校生活や家庭生活に問題を抱えている子どもが6.3%以上いることなん百も承知、二百も合点である。おそらく、子ども自身が「学校生活や家庭生活に問題を抱えている」と思う子どもならば、かなり多い。少なくとも青春期の子どもならば過半数を占めるはずだ。学校の教師の圧倒的大多数は相対的に「学校フィットしている」から教師になっています。従って、自分自身を基準に考えたら、70%以上は「学校生活や家庭生活」に問題を抱えていると判断されるでしょう。その子達が、どんどん「6.3%」に組み込まれているとしか、「私」には思えないのです。私にとっては、そのような子は「大変な子」ですが「特別支援の必要な子」とは思えないんです。

07/01/04(木)

[]明けましておめでとうございます 16:15 明けましておめでとうございます - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 明けましておめでとうございます - 西川純のメモ 明けましておめでとうございます - 西川純のメモ のブックマークコメント


明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いします。

 毎年の事ながら、正月は本を書くことに集中します。本は、一定時間を没頭しなければなりません。ところが大学では、色々なことがあり集中できません。夏期休業期間は講義はありませんが、学会講演会でびっしりです。ところが、正月講演会学会を設定する人はありません。メールの数も普段の5分の1程度です。ということで毎年、この時期に本を書きます。今年は特別支援の本を書き始めました。自分でも恐ろしいですが、100ページほどの本を3日間で書いてしまいました。理由の第一は我々の研究室には、その研究の蓄積があることです。第二は、特別支援の研究をしなくても、良き教師である同志が多く、その知恵をいただけるためです。第三は、私自身が、前々から大声挙げて怒っている気持ちがあるからです。だって、日本中に特別支援が必要な子が6.3%もいると多くの先生が信じているんです。馬鹿馬鹿しい!いや、恐ろしい!と言うべきだと思います。明らかに、私が小学校中学校に通っていた頃は、「変わったやつ」と見られ、普通の大人になっていた、そんな子どもに「特別支援が必要な子」というラベルを貼っていると思います。恐ろしいのは、ラベルを貼ったために、本人も親もそう思って、いつの間にか正真正銘の「特別支援の必要な子」になることです。ここまで行くとホラーです。

 日本中にいる全ての小学生中学生の6.3%といえば、膨大な人数です。限られた予算の中で、その子達に全てに特別支援をやろうとしたら、やれるレベルは限られます。つまり、「特別支援が必要ではない子」に必要な子というラベルを貼ってしまえば、本当に特別支援の必要な子に十分な対応が出来ないということです。

 次の本のタイトルは『気になる子が気にならなくなる魔法言葉みんなで」』を考えています。これから、数ヶ月寝かし、より多くの同志から知恵を集めて完成したいと思っています。

追伸 が、障害があります。いつも出版をお願いしているT社には「同一著者の本は1年に1冊」という内規があるようです。本当だったら、「学び合う国語」は直ぐにでも出したいし・・・(関係する皆さん、すみません)。色々と考えねば・・・

[]求めるもの 16:14 求めるもの - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 求めるもの - 西川純のメモ 求めるもの - 西川純のメモ のブックマークコメント


 本日、同志より「勉強しなさい・・」の感想メールをいただきました。その中で、以下のことが書かれていました。とてもためになるので、メモります。

 『早速拝読させていただきました。10心と頭~13未来学校 とても感銘しました。特に,教師と子どもの違い(P.192~3)は,よくわかります。頭の固い教師には,ここから切り出すと解りやすいかなと思いました。また,十数年前に聞いた話を思い出しました。企業の人事課担当者の話です。

 *新規採用者を決める面接では,専門のことや技術のことを話す者は殆どが落とされ,やる気のあることが伝わる者が採用されるそうです。やり気があれば,専門的な知識も技能も身に付いてくるものであって,それ以前のそれらは,企業内においては陳腐なものでしかないということだそうです。

 *中途採用者を決める面接では,やる気があることを話す者は殆どが落とされ,専門のことや技術のことが伝わる者が採用されるそうです。本当にやる気のある者であれば,既に専門のことや技術が身に付いているからだそうです。

 *管理候補者を決める面接では,専門のことや技術のことを話す者は殆どが落とされ,人間関係のことが伝わる者が採用されるそうです。』

 これを読みながら、私もそうだよな~、と思いました。

 大学院西川研究室希望される方から、「私は何も勉強していません。それで研究室に所属できるでしょうか」と不安な気持ちを書かれたメールをいただきます。しかし、「そんなのは気にする必要はありません。不遜ながら、現場勉強するレベルとうちのレベルは比べものになりません。したがって、勉強するしないは意味ありません。それよりも、あなたがどんなことを喜び、どんなことを嫌うかを知りたい。そして、よい教育を成り立たせるために、どれだけの時間を費やせるかを知りたい。」(実際はもっと長文です)と返信します。このメールやりとりは、本当に何回もやっています。

 ところが、西川研究室に入ったとたんに、やったことを評価します。つまり、「遊んでも、何してもいいんだよ。結果さえ出せればね。(ニコッと笑う)」となります。やる気や努力なんていうのは相手にしません。それがあれば、必ず結果に結びつきますから。

 それでは西川研究室卒業・修了したら、何を求めるのか・・・。上記は、その答えを与えてくれると感じます。即ち、その人の実践が、どれだけ多くの人に伝わったかです。

 もちろん、私も同じです。助手時代・助教授は腕力でどんどん学術論文を書きます。今考えれば、冷や汗ものですが、あれだけの論文生産量を維持したのは驚異的です。助教授時代の後半からは、学術論文の他に、実践論文書籍、講演などの幅が広がりました。それらは、実践論文書籍、講演を通して我々の研究室を知ってもらった優秀な方々との繋がりで成り立ちました。では、教授としてのこれからは、どれだけ多くの方に伝えられるかが勝負です。がんばらねば(いや結果を出さねば)。