西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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05/11/10(木)

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 最近の私のメモに対してYzさんがとても心に響くレスをご当人のブログにアップしていました。Yzさんらしいレスです。

 『N先生メモにハウツウものの話が載っていたので、ちょっと関連した話をします。最近5年生の図形の面積ですが、努めてN研の授業でありますが、教える授業です。とても教師が話します。板書もいっぱいし、指示も出します。ほとんど発表の時間はありません。でも、子どもは、学習します。自分から問題に取り組み、こちらの考えている以上のことを学びあいによって生み出して生きます。授業のタネ明かしは、教師の語る内容が同じでもすなわち教える内容の質が通常の内容の質と違うことです。禅問答のようですが、要は教師でしか伝えられないことを語るのです。例えば、この内容は、後々の学習に絶対役立つとか、この部分は、わかりにくいが、今までの知恵を使えばわかりやすくなるとか、自分の経験で必要と感じたことを語るのです。しかも教科書に書いてあることは、極力語りません。読めばいいことですから。N研の授業を実現できる教師というのは、特別な力は要りません。あえてひとつ必要とするならば、「教師が子どもにできることの限界」を知っているということでしょうか。あきらめではなく、冷静に判断し、見極めて教師は、子どもにこれ以上はできないということを知っていることです。例えば、学習指導で言えば、全員にわかる、どの子にも対応できる絶対の説明がないということです。それがわかれば、教科書をくどくど説明しません。そして、限界がわかれば、教師自身の説明は、あくまで教師自身のわかり方であることを自覚します。そうすると、教師の語りは、一例であることを子どもに伝え、わかり方を説明します。すると子どもは、教師の説明を自分のやり方として扱うかどうかを判断します。使わなければ代替案を考えたり、仲間の方法を求めます。つまり、教師が、自分の言動の意味限界を知り、そのことを子どもと共有できれば、教師が説明しても自分で判断し、行動できる学習になっています。さらに、教える時間は、1時間の中に多くても単元内で考えて次の時間は、子どもの活動が出来る時間をとると考えれば、そんなに意識してしゃべらないようにしなくても良いはずです。(これには、少々の経験を要しますが)N研の授業の「型」は存在します。しかし、N先生がかかれたように「型」通りでなくても良いのです。「型」の中にある仕組みや原理みたいなもの(これを教育観というのかな)が生きていればいいのです。この仕組みや原理は、教師が子どもに教えられる(伝えられる)数少ない事柄です。これを言葉と体験で伝えるのです。』

 Yzさんをおっしゃっている『「教師が子どもにできることの限界」を知っている』ということがキーワードです。我々のような授業をされる先生も、そうでない先生も、それぞれ『「教師が子どもにできることの限界」を知っている』と思います。両者の違いは、子どもの能力を高く見るか、低く見るかの違いです。つまり、子どもは有能である、という確信を持てるか否かです。さらに、それに関連することですが、教師が語ることを全面的な善と考えるか、迷いを持つかだと思います。教師は教えたたがりの人間です。教えたいから教師になった人間なんですから。だから、自分が気持ちよく語り、それを子どもたちが受け入れてくれれば、幸せです。そうなると、あれもこれも語りたくなります。あたかも牛のション便みたいなもんです。その気持ちは私は分かりますし、そして、未だに私もやっています。でも、あえて違いを強調するならば、自分が気持ちよく語っている時、もう一人の私が警告ランプを常に発しています。もう一人の私が、「それって言うべきことかな?それを言えば、子どもの可能性を潰すことになるんじゃない?」と言い続けます。これが我々の共通点だと思います。

 どれだけ語るべきかは、その先生、そのクラス、その学校、その単元・・、という様々な要因によって決定され、一つの正解があるわけではありません。あくまでも、考えを持った教師が、その場、その時に判断しなければなりません。そのところが、考えなくてもよくて、そのままやればいい、というノウハウものとの違いですね。それ故、Yzさんのコメントは、Yzさん、Yzさんのクラス、Yzさんの学校、5年生の図形の面積・・という状況の中で、Yzさんが判断したものだと思います。Yzさんも別な状況だったら、多少違った授業をするはずです。ましてや他の先生だったり、他のクラスだったり、他の学校だったり、他の単元だったりすれば、全く同じということはないと思います。でも、そのコアの部分は同じです。