西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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05/08/23(火)

[]天啓 10:47 天啓 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 天啓 - 西川純のメモ 天啓 - 西川純のメモ のブックマークコメント

  学者人生を20年やっていますが、いわゆるひらめきというのは、そうそうありません。しかし、今日は天啓がありました。

 私にはなかなか分からなかった謎がいくつかあります。その一つに、「なぜ、我々の学び合いが学校教育で主流にならないのか?」という問題があります。だって、我々の学び合いをやれば、成績は上がる、子どもたちの人間関係は良くなく、そして、教師は気が楽になる、と良いことずくめです(ちなみに、もう一つ、簡単というのもあります)。本当にいいものは世に広まるはずです。ところが現状はそうでもありません。もちろん、我々以前にも多くの心ある教師は気づいており、実践していました。でも、それが主流にならず、「指導無きところに、成長無し」という方は少なくありません。何故なんでしょうか?

 その手がかりはいくつもあります。以前のメモ「未来」に書いたように、アルビン・トフラーの「第三の波」によれば、従前の世界は、「規格化」、「専門化」、「同時化」、「集中化」、「極大化」、「中央集権化」という共通の性質があります。そして、新たな時代は、それの対極である、「デファクトスタンダード」、「プロシューマ」、「24時間化」、「分散化」、「ミニチュア化」、「分権化」であるとしています。現行の教師主導を根付かしているものの最大の要因が、学習の最大の手段が、高価で有限な教師であるというモデルに則っているからだと思います。たしかに、印刷物が高価で、それ以外の情報取得の方法が口伝である戦前においては、たしかにそうかもしれません。しかし、印刷物が安価になれば、教師に頼らずとも良質の参考書があります。少なくとも、教師と子どもとの相互作用が限定された現行の指導方法であるならば、下手な教師が教えるより参考書の方が有効です。さらに、テレビ等の情報は、下手な書籍よりも金をかけた情報を無料で提供してくれます。さらに、インターネットの普及によって、多様な情報を簡単に取得することが出来ます。つまり、現在の「指導無きところに、成長無し」は、前時代の状況に根ざすものです。

 さらに、最近集中的に読んだリッカートの経営学も示唆に富んでいます。そこに書かれている、良き管理者として書かれているものは、我々が述べているものと全く一致しています。ところが、必ずしも世の管理者は、「指導無きところに、成長無し」ということを言っていいます。リッカートはそれを嘆いています。そして、リッカートは、何故、そのように間違った管理がなされている理由として、ちゃんとした評価がなされていないことを指摘しています。教育も全くそうです。例えば、「指導無きところに、成長無し」ということも、「教科の力が良いほど、良い教師」とうような素人的には受け入れやすい仮説も、それが正しいということを証明する実証的な研究はありません。しかし、経営学のレベルでは、それは嘘であるということを証明する実証的な研究はあります。

 しかし、私には今ひとつ腑に落ちないところがありました。「指導無きところに、成長無し」という考え方が、19世紀の世界で必要とされた理由もトフラーによって分かります。そして、その状態が変わっているのに、それが正されない理由もリッカーの考えからも分かります。しかし、今まで私が腑に落ちなかったのは、19世紀以前においても、「指導無きところに、成長無し」と いう教育観があった点です。

 もしそれが分かれば、「指導無きところに、成長無し」が前時代の「規格化」、「専門化」、「同時化」、「集中化」、「極大化」、「中央集権化」によって学校教育というシステムが作られ、正しい検証がなされなかったため、今に至ってもそれが続いているということが分かります。

 本日、夕食の後の息子の歯磨きをしながら分かりました。私は「指導無きところに、成長無し」という方針で、息子を教えています。おそらく、親が子を指導する場合は、それは正しいのかもしれません(あくまでもごく初期ですが)。以前のメモでサルの本能のことを書いたように、我々の中にある本当は基本的にサルの本能に近いものがあります。そして、サルの教育は親から子を基本としています。そこにいたって疑問が氷解しました。

 つまり、我々ホモサピエンスは群れの中で学び合う能力をDNAの中で刻みつけると同時に、その初期段階は「指導無きところに、成長無し」という親子関係の教育もDNAに刻みつけていたのだと思います。それが産業革命以後の「規格化」、「専門化」、「同時化」、「集中化」、「極大化」、「中央集権化」によって、システム化されました。ところが、次の時代になって「デファクトスタンダード」、「プロシューマ」、「24時間化」、「分散化」、「ミニチュア化」、「分権化」になったのにもかかわらず、正統な実証的なデータが無いため、そのままの状態が続いています。

 そして、そのベースになっている誤解は、教師が自分の子どもを教えると同じように、自分の教え子を教えるべきと考えている点です。しかし、親と教師は別です。親は教師にはなれません。考えて下さい。自分の子どもを含むクラスの担任になれるでしょうか?逆に、教師は親になれません。考えてください。数十人の子どもに対して、自らの子どもと同じように出来るでしょうか?ナンセンスです。

 従って、我々は三つのことを主張すべきです。第一は、「現代社会において教師が最善の教え手はない。」ことを、実証的なデータで示すべきです。第二は、「教師は親ではないし、親は教師ではない。そして、別々であることに倫理的な問題はない。いや、両者を一致させようとすることが問題だ」ことです。本日は、すっきりしました。