西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
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05/07/31(日)

[]専門家の力 11:08 専門家の力 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 専門家の力 - 西川純のメモ 専門家の力 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今、前期の課題のレポートを読んでいます。読むと色々ですね。明らかに手抜きと分かるものから、「ありゃ、修論の構想じゃないかな?」と思われるような大作まで色々です。いずれにせよ、色々なことを学べます。その中で、音楽の指導に関して、意味深い指摘を受けました。その指摘とは、専門家が教師主導でしっかり指導することの意味はあるのではないか?という指摘です。指摘では、音楽の専門家が音楽をしっかりした指導を行ったとき、高い達成度を実現し、かつ、「生徒たちの目が輝いている光景に出会い驚いたことは少なくありません。」とあります。

 分かるような気がします。合唱や器楽のコンクールに常連の先生というのはいるものです。その先生が異動すると、その学校がコンクールに優勝するようになると言う、名物先生はいるものです。それは、スポーツでも同じですし、実は、科学の世界でも同じです。そのようなことから、「やはり専門家の指導は重要だ」と思われる人は少なくないと思います。そこで、以下のようなコメントを送りました。

 『蛇足ながら、コメントを書きます。

 専門家の有効性の部分です。専門家の有効性はよくわかります。実は芸術だけの問題ではありません。数学や自然科学も同じなんです。二流、三流の研究者ではなく、一流の研究者の場合、それは芸術に近いものがあります。言葉に表せない部分が多いんです。二流、三流の研究者は、一流の研究者が言葉にしたものを使って研究できます。ところが、一流の研究者は他人様ではなく、自分が言葉にしなければならないんです。無から形あるものを作る過程は芸術に近いものがあります。だから、一流の科学者・数学者を育成するためには、一流の研究者のそばで、その息づかいを感じることが大事なんです。だから、分かります。

 でもね。考えてください。我々が育てようとしている人、学校教育で育てようとしている人は、そんな人でしょうか?実は一般人なんです。私はその道のプロを育てる教育を否定するわけではありません。しかし、その教育と一般人を育てる教育が矛盾するならば、公立の義務教育の教師が選択するべきものは決まっているはずです。「生徒たちの目が輝いている光景に出会い驚いたことは少なくありません。」とあります。たしかに、その子たちはそうかもしれません。でも、それから脱落した子はいるのではないでしょうか?絶対にいるはずです。その歪みを私は感じます。プロの世界では、駄目な奴を切れます。そういう世界です。でも、学校教育は違います。

得手、不得手、好き、嫌いがいます。それらを包み込むには、一人の教師の一つの方法論ではなく、多種多様な選択肢を与え、彼ら自身に選ばせるしかないと、私は信じています。』

 それに対するレスをいただきました。心ある先生ですので、直ぐに分かっていただきました。その先生が、現場で自分なりの答えを出してくれることを確信しています。

05/07/30(土)

[]入試の書類で悩んでいる人に 11:10 入試の書類で悩んでいる人に - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 入試の書類で悩んでいる人に - 西川純のメモ 入試の書類で悩んでいる人に - 西川純のメモ のブックマークコメント

 大学院の受験生は、現在、大学院入試のための書類書きで悩んでいる頃です。ある現職者の方から、以下のようなメールを頂きました。

『こんにちは ○○です

只今 上越教育大学の出願願書を 作成中です (月曜日には出す予定にしています)

その中で 書ける所は一通り書いたのですが 「研究希望等調書」と「研究計画書」 つまり 「研究課題」「研究内容」「研究計画書」がまだ 書けていません。はじめは 「子どもたち(学習集団)と教師との関わりにおいて 教師のどのような言動が学び合いを促進したり阻害したりしているのか」 と言うことを研究していこうと思っていたのですが 先生の本を読んでいるとその答えは おのずとわかってくるように 思えるのです だからそれよりも 今は 「少人数は本当にいいのだろうか?」 と言うことを研究してみたいなあと思っています しかし それよりももっとよいテーマがあるのではないかと 考えています そう考えると 出願願書が書けない・・・・のです。こんなことを言うと 西川先生は 「それで結局あなたはどうしたいの?とにかく願書の締め切りはあるのですから」とおっしゃって にこっと笑われそうですね(^_^)

すみません 愚痴になってしまいましたね なんとか 願書を仕上げて提出したいと思います

それでは また (^.^)/~~~』

 それに対する返信は以下の通りです。

『私の「それで結局あなたはどうしたいの?とにかく願書の締め切りはあるのですから」という反応を予想できると言うことは、

HPや本をよく読んでいることが分かります。

以前のメモにも書いたことを再度書きます。

○○さんが小学生を教えるプロであると同様に、我々は研究で飯を食っているプロです。

私が「小学生を教える」といったら「ちゃんちゃら」と思うでしょ。

私もそう思います。

小学生を教えるということは、大変なことです。

不遜ながら、現職の教員の方が思いつくレベルのことが大学の研究レベルならば、我々は給料泥棒と言うことになります。

また、そんだったら、なんで大学院にまで来る必要性があるのでしょうか?

現場で思いつくレベルでOKならば、現場でやればいいことです。

大学院に入って学ぼうと考える○○さんは、「学問」には強い憧れを持っていると思います。私もそうでした。

私が大学・大学院の時、論文をむさぼるように読みました。何か分からないけど、目の前の論文を読み解けば、とてつもないことが分かり、とてつもないことが出来るように感じていました。あたかも、空を飛べる呪文が目の前の論文の中にあるように感じていたようなものです。この学問に対する憧れは、一部は正しく、一部は間違っていることを今では分かります。でも、この憧れは大事だと今でも思います。それがなければ、今の現状を越えた次元に達することは出来ません。確かに「空を飛ぶ」ことは出来ません。しかし、「空を飛ぶ」ということは、今の現状でも「願える」ものです。でも、学問の面白いことは、今の現状では願うことすら思い浮かばないことを、願えるようになることなんです。

○○さんの書かれている「願い」は現場でも願えるレベルのことです。(そして、それは解決済みです)

でも、その願いを解決するためには、現場では願うことすら想像できないことを願わなければなりません。

それは入ってからのお話しです(詳細は「研究テーマの見つけ方」(02.5.17)をご覧下さい)。

あなたの書く「研究希望等調書」も「研究計画書」もあなたの入学後を縛るものではありません。

あくまでも、あなたが今考えていること、悩んでいることを自分なりに整理する機会と捉えてください。

そして、その期限が決まっているならば、決まっている範囲内で書けばいいことです。

以上が、私が「それで結局あなたはどうしたいの?とにかく願書の締め切りはあるのですから」と言った場合の、その意味するところです。

まあ、早めに書いて、次のことを考えましょう!』

05/07/28(木)

[]質問に応えて 11:13 質問に応えて - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 質問に応えて - 西川純のメモ 質問に応えて - 西川純のメモ のブックマークコメント

 西川研究室以外の院生さんから以下のような質問を受けました。

 『本大学で様々な学校で参与観察を行ってきたが、最近自分の研究とは別によく考えるテーマがある。それは教師は生徒の個性を一人一人理解したうえで指導すべきか、ということである。

 最近見た研究授業を例にあげる。その授業は6年生の図画工作で、単元名は「わたしマークをつくろう」というものであった。以下に概要を示す。

 本時では、これまでの活動で見つけてきた自分らしさや自分の名前などをきっかけにしながら「わたしマーク」をつくっていく。製作途中での友達との対話による相互評価や発想のやりとりをしながら、自分を確かめ、わたしマークをつくり-つくりかえていくだろう。そして、その過程では、「自己の内面」という他者との対話が行われていくことを期待している。(指導案より抜粋)

 この授業での教師側のねらいは、友達やもの、自己との対話により、自分らしさを考えながら、自分の好きなものやこと、自分の名前の文字をヒントにしながら「わたしマーク」をつくる(指導案より)、というものであった。これは、今まで集めた自分の好きなものやことをきっかけとした自分らしいマークをオリジナリティをともなわせてデザインさせ、友達とのマークの見せ合いにより、新たな自分らしさの発見に気づきマークをつくりかえていく活動にさせたかったはずである。しかし私が注目していた児童Rは漫画のキャラクターの絵を正確に書き写し、そのキャラクターを「わたしマーク」としてしまった。

 ここで教師はRに対してどういう指導をすべきか。Rのマークは客観的に見れば教師側の意図とズレが生じてしまっている。では、教師がRに「書き写しじゃなくて自分らしさを出したマークをつくるのですよ」と支援すればよいのか?

 その支援をRに対して言うとすれば段階を踏む必要がある。まず、Rのマークの中にはRの個性がないのであろうか。Rは漫画のキャラクターを正確に書き写すことこそが自分らしさだと考えたうえでマークを描いたのかもしれない。教師側はRを一人の人間としてその「個」を捉えていなくてはならない。そして、それを理解した上でRは本時の授業の意図とずれていると感じたのならば上記の支援の仕方も一つの方法として良いと思う。

 しかし、「個性」を理解するとは何なのであろう。可能なことであるのだろうか。また、40人のクラスであれば40の「個性」がある。「私はクラスの児童をよく分かっているから最適な授業ができるのですよ」みたいなことを言う教師がいたら私は「あなたはエスパーかサイキックかなんかなのですか?」と言ってしまいそうである。

 「個」を理解するのは難しい。しかし、何も分からないのであれば上記の例のような子供にどう評価していいのかわからない。これが、最初に述べた「教師は生徒の個性を一人一人理解したうえで指導すべきか」という疑問の根っこである。』

 それに対する私の「応え」は以下の通りです。

 『○○さんの疑問に私なりの「応え」を述べます。結論から言えば、個人個人を理解した指導は出来ないし、また、すべきでないと思います。エスパーかサイキックでない教師が出来ないと言うことは、○○さんも指摘しているところです。すべきでないと言うことを説明します。

 まず、キャラクターを「わたしのマーク」として、何が悪いんだろう?と思います。例えば、国の国旗などは、キャラクターのオンパレードです。例えば、十字架をあしらった国はヨーロッパにはいっぱいあります。イスラム圏だと「月」が使われています。それ以外も、何かのキャラクターを使って「我が国の国旗」としている国だらけだと言えます。そのキャラクターが意味するものが、自分の姿(目指す姿)と一致していると考えるならば、それを使って悪いわけありません。

 おそらく、その授業の目的が違うのでしょうね。具体的には「自分らしさ」という言葉が何を意味するかにかかってくるのだと思います。さて、その「自分らしさ」の意味がクラスの殆どに伝わっていたのでしょうか?もし、伝わっていなかったとしたら、Rの個人的な問題ではありません。Rを個人的に理解するしないではなく、もう一度、クラス全体にちゃんと語らなければなりません。

 さて、クラスの殆どに伝わっていたが、Rには伝わっていなかったとします。そうであったら、何故、他者との関わりの中でRは気づかないのでしょうか?その様な関係が成り立っていなかったとしたら、それはクラスの問題です。別に、教師がRに「書き写しじゃなくて自分らしさを出したマークをつくるのですよ」と支援しなくても、他の子どもが「Rちゃん、書き写しじゃなくて自分らしさを出したマークをつくるんだよ」と語るでしょう。それに対して、何故、そのマークを使ったかをRが語り、それに応えてクラスメートが語る、そのような過程で正されるはずです。それこそが、『製作途中での友達との対話による相互評価や発想のやりとりをしながら、自分を確かめ、わたしマークをつくり-つくりかえていくだろう。そして、その過程では、「自己の内面」という他者との対話が行われていくことを期待している。(指導案より抜粋)』じゃないですか?であれば、この場合においてもRの問題ではなく、クラス全体の問題です。

 教師がRにこだわり、Rを正そうとすると、問題の本質であるクラスを見失います。子どもを救うのは他の子ども、そのような集団を作るのが教師の仕事、と我々は信じています。』

[]専門家の目 11:13 専門家の目 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 専門家の目 - 西川純のメモ 専門家の目 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近、ある現場の先生から質問を受けました。

 「数学や理科の場合は、正解はハッキリしています。ところが、国語の作文や、美術など表現の場合、正解はハッキリしていません。そのような場合、評価観点を明確に記述することは出来ず、その道の専門家の判断に頼らざるを得ないのではないか?」という質問です。

 それに対して、私は以下のように応えました。

 果たして、専門家の目というのはあるのでしょうか?国語の作文を研究したOBの研究によれば、それは無いようです。同じ作文を、その教科を専門とする教師が評価すると、その評価にはばらつきが多いそうです。優れた文学作品、芸術作品に対する「玄人」の評価が分かれるのは常識でしょう。本当に専門家の目というのはあるのでしょうか?あったとして、一般常識人の目とどれほど違うのでしょうか?

 以上のように「専門家の目」が疑わしいことはさておいて、十歩譲って、そのような目があったとします。あったとしても、そのような評価は役に立つでしょうか?専門家の目から見て「いい作品」、「悪い作品」という判断が下されても、学習者は、何故いいのか、何故悪いのかが理解できません。専門家から「分かる人間になれば、分かるんだ!」では下手な禅問答に過ぎません。いうまでもないことですが、学校教育における評価は、その学習者が自分を改善するための手がかりにならねばなりません。

 つまり、「専門家の目」があろうと、なかろうと、「専門家の目」による評価は無意味なんです。専門家であるならば、「専門家の目」を学習者に分かるように説明できなければなりません。もし、専門家が「そんなことは無理だ」と公言したならば、それは「その学習(教科)は学校教育には添わない」と大声で宣言しているようなものです。つまり、「私をクビにした方がいい」と言っているようなものです。

[]教師の腹 11:13 教師の腹 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教師の腹 - 西川純のメモ 教師の腹 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 前期がもうすぐ終わります。前期の課題としてレポートを課しました。その課題の一つに、我々の本にあるエピソードに似た経験(もしくは逆の経験)を実例を元に書いてもらうというものです。その中に、子どもは教師の腹を読んで、それに沿った行動をすると言うことが端的に示されるエピソードがあったので紹介します。これを読めば、学び合わない原因が教師にあることが歴然としています。おそらく、図工を「開放的」にとらえている先生が多く、そのため学び合いの邪魔をしない期間が存在する可能性が多いのでしょう。でも、国語・算数あたりの教科だと、それすらなくて邪魔しているのかもしれません。結局、「学び合い」をテクニックと捉えるか、考え方と捉えるかの差がここにも現れます。ある場面で使えて、ある場面で使えないというような、テクニック的に捉えれば、直ぐに腹を見透かされます。子どもが教師を見ているのはテクニックではなく、腹なんです。

『小学校における図画工作(*以下、「図工」と略す)の時間は、教師にとっても子ども達にとっても、自由な時間であり、ある意味、開放的な時間であると感じている。教師は、子ども達の創作意欲のおもむくままにまかせて、つくらせておけばよく、中にはその時間を利用して、これ幸いと事務処理や単元末テストの採点をしている方もいる。子ども達はというと、通常の机を縦横に整列した形態を崩して、めいめいに好きな相手とグループをつくって活動している。また、2時間続きで時間割を組んであるので、図工の時間は、充実した活動のできる時間であるといえる。

子ども達が自分達でグルーピングをする際、私の場合、だいたい4月に子どもと次のような会話のやりとりが起こる。

「先生、好きな人とやっていいですか?」

「なんで、それを先生に聞くの?」

「だって、前の先生はいつも『だめ』って言うから」

「じゃあ、なんで前の先生がだめと言ったことを、先生に聞くの?」

と、ここまで話すと「わかりました……」と言ってあきらめて帰っていく。別に、今にも怒り出しそうな不機嫌な顔で受け答えをしているわけではなく、普通かどちらかといえば愛想よく受け答えをしているつもりである。こちらとしては、半分、子どもの気持ちが分かっているのに、問い返しをすることは意地悪かなと思いながら、「よしよし、頑張って交渉してこい」という思いで、子ども達の出方を待っている。その交渉役の子が自分の席に帰っていくと、私とその子のやりとりを見守っていた周囲の子たちの間に、「やっぱり、だめだったか」というあきらめの空気が漂う。すると、どうしてもグループで活動したいと思う二番手が出てきて、交渉を引き継ぐ。

「先生。どうしても僕たち好きな人どうしでやりたいんですけど、いいですか?」

「ふんふん。じゃあ、どうして好きな人とやりたいの?」

「その方が、楽しいし……」

「楽しいだけなんですか。」

「分からないとき、すぐ友達に聞けるから。」

「なるほど、友達と一緒の方が、すぐに聞けて活動しやすいからですね。いいと思います。どうぞ。」

しかし、担任としての配慮から、次の言葉を足しておく。

「一人でやりたい人は別にして、一人ぼっちが出ないよう気をつけてくださいね。」

こうして、クラスの中にグループが出来上がり、それぞれで活動を進める。私のクラスは、それ以降、図工の時間は始業前にグループが出来上がっており、活動のはじめに、本時のめあてや活動内容、そして活動時間の目安を告げるだけですむようになっている。あとは、子ども達が活動している間をにこにこしながら、「この色遣いいいねえ」「いい形だね」などとほめていればすむ。子ども達の会話も、

「ねえ、○○ちゃん。その色いいね。どうやってつくったの。」

「その塗り方って、どうやってやるの。」

「ここのとこさぁ、うまくくっつかないんだけど、どうしたらいいかな。」

というように、お互いに教え合って、技能習得や向上が成されているようである。中には、どう見たってこれは真似しただろう、という構図がそっくりな作品も出てくるが、日常の創作活動であり、また模倣も立派な学習であるという考えから、特に問題視はしてない。なぜなら、同じ芸術分野である書道においては、有名な書家の字を模倣することで、その字体を練習し習得することがあるからである。たとえ、それが模倣であっても、その子は描けないから真似したのであろうし、またその構図等がいいと思ったから真似したのであろうから、模倣をすることで、なんらかの技能習得、向上に役立っていると個人的に考えている。

さて、ここまでは、本にあったものと似た内容であると思うが、この学び合いの場面が一変する場面が毎年一度必ず起こる。それは2学期が始まって、運動会の練習がさかんな頃である。○○県では、秋に郡・市のそして県の芸術祭が毎年行われている。各小・中学校は、各教育研究会バックアップのもと作品展が行われるため、作品を出品しなければならない。当然、それは全校的な取り組みであり、この時期は学校中が絵画作品一色になる。すると自ずと学年間で同じテーマを扱った結果として、廊下に並んだ作品から各教師の指導力が見られてしまう。特に年配のベテランの先生のコメントは、辛口である。展覧会に出すに耐えうる作品を出品しなければならない、指導したあとが見えなければならないという二大要素に迫られて、私も含めて先生方がやってしまうことが、アドバイスと称した指導である。「ここは、こんなふうに描いて。」「ここの色はもっとこう明るくして。」「色を混ぜるのは最高3色までです。」などである。子ども達の配置は、いつも通りグループだが、今までにこにこと見守っていた担任が、急に厳しく口をはさむようになるのである。今、こうして現場を離れて、客観的に思い返すと、ずいぶんとんでもないことをしていたと自省するばかりである。このアドバイスという名のもとの指導は、その後、教師の首をしめることになる。これまで、「あぁ、いいねえ」「いいよ」「いい、すごくいい」などと言っていた人間が、手のひらを返したように子どもの作品に注文をつけ、手を加えることをしていった結果、クラスに長蛇の列ができあがる。教師の前に、ずらりと自分の描きかけの作品をもった子ども達が並び、一つ一つ聞きにくるのである。教師は、固定の場所に居座ることを求められ、その前にはまるでアイドルのサイン会に並ぶファンクラブ会員の行列か、それとも人気ラーメン屋の前の行列かとでもいうような、長い列ができあがる。当然、教師は、その並んでいる一人一人に対応することしかできず、クラス全体の把握ができなくなる。そして、子ども達は、順番待ちの時間ばかりかかってしまい、作品づくりにかける時間がなくなる。最後には、クラス全体で作品の完成が遅れ、日課変更をしてまで展覧会に出品する作品づくりをしなければならないという悪循環を生み出す。それまで、友達どうしで教え合っていた姿はめっきり減り、どんな些細なことでも、いちいち確認してからでないと作品がつくれないという、手間のかかる状態になる。このような状況に陥ることが分かっていながら、先に挙げた二大要素のために、どうしてもアドバイスという名の指導をしてしまうのである。』

追伸 似たような事例は、最近の本で、総合学習の事例を紹介しましたよね。

05/07/26(火)

[]上越教育大学(その4) 11:15 上越教育大学(その4) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 上越教育大学(その4) - 西川純のメモ 上越教育大学(その4) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 上越教育大学のおかれた状況は厳しいものがあると不安になります。客観的に見れば、上越教育大学は県庁所在地にない、田舎の小さな国立大学にすぎません。国立大学であるため、現在の私立大学の厳しさに比べれば天と地ほどの違いがあります。しかし、他の国立大学の比べたときの状況は厳しいものがあると思います。上越教育大学の特徴は三つあると思います。第一は、多数の現職教員を院生として受け入れている。第二は、地元の学校との関係が極めて良好である。第三は、学生が全国から集まる全国区の大学である。その中で最も重要なのは、第一の特徴だと思います。もし、これを失ったら、上越教育大学は「本当」に取るに足らない大学になると思います。逆に、それを生かせば、全国的に意味を持つ大学になるはずです。しかし、現在の地方公共団体の財政は厳しく、予算は大綱化され、派遣される現職院生さんの数は減少しています。さらに、各地域で教職大学院が設置されれば、その状況は更に進みます。

 他の大学ではなく、上越教育大学に進学する理由として考えられるものは何でしょうか?同時に、他の大学ではそれが実現が困難なものでなければなりません(そうでなければ、早晩、マネされてしまいます)。後5年の内に、我々、職員はそれに対して答えを出さなければなりません。でも、戦後に開放制の教員養成システムが出来てから50年以上、一度も考えなくても良かったことなんですから・・。出来れば、定年まで20年間はお世話になりたいと思う組織です。

 もし、現職教員が来ない大学になったら、いったいどんな学生さんがくるのでしょう?また、その人数は定員を維持できるでしょうか?定員を維持しようとしたら、どんな学生さんを受け入れることになるでしょうか?そうしたときに、現在のレベルの教育・研究を維持できるでしょうか?我々は長期履修プログラムというパンドラの箱を開けてしまいました。その先に何があるのでしょうか?今何をすべきなのでしょうか?

 シミュレーションすると恐ろしいことばかりです。

[]千客万来 11:15 千客万来 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 千客万来 - 西川純のメモ 千客万来 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今週は、千客万来です。今年大学院を受験する現職院生さん、学生さんの方々が来ました。本日は、福井から学校研究の相談に泊まりがけでお客様が来ました。明日は、新潟市よりお客様が来ます。現在、仕事で気持ち悪くなるほど忙しい毎日です。しかし、一生懸命に教育を考えようとする人と語ることは、精神衛生上はいいことだと感じています。

追伸 8月中にある、一つの集中講義と、5つの講演のプレゼン原稿を作り始めました。

[]学び合いの障害 11:15 学び合いの障害 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合いの障害 - 西川純のメモ 学び合いの障害 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日のKさんのブログを読んで、思い出したことがあります。

 本日は遠方からお客さんが来ました、その先生は学校の取り組みとして「学び合い」をやっている学校から来られました。その先生は、何故か、ある先生のクラスでは学び合いが生じ、何故か、ある先生のクラスでは学び合いが生じないことを質問に来られました。そして、「どうやったら学び合いをさせることができるのか?」と質問されました。その最後の言葉を聞いたとたんに原因は明らかになりました。つまり、「学び合いは教えなければ出来ない」という拘りに陥っているからです。それゆえ、学び合いをテクニックのレベルで見てしまいます。おそらく、テクニックのレベルで分析したならば、学び合いが生じるクラスと、生じないクラスの差は見えないはずです。だって、そんなことは「ど~でもいいこと」ですから。そこで、「「静かに!」を言わない授業」の最後につけた、学び合いが生じない原因の部分を読んでいただきました。そして、学び合いが生じないのは、教えていないからではなく、実は、教師が邪魔をしているからであることを説明しました。そして、その原因は「子どもは有能である」という揺るぎない確信が持てないからであることを説明しました。もし、その確信が持てれば、それは授業における全ての行動・表情に表れます。それらを総合的に見て、子どもは教師の「腹」を見透かします。子どもは、「○○指導法」を使うか否かのレベルで教師の腹を見ていません。その教師の全ての行動・表情から、その教師を判断しています。それって、自分が子どもの頃を思い出せば当たり前ですよね。

 何故、子どもの有能性を信じられないのでしょうか?いくつか原因はあると思いますが、その一つに、普通のことの積み重ねが一番凄いことを出来る、ということがなかなか分かってもらえないからだと思います。私も臨床研究の初期段階では、子どもはとてつもない凄いことをするのではないか、と思っていました。ところが、子どもの会話を隅から隅まで分析しても、そんなものはありません。ごくごく普通の会話が積み上げられているだけなんです。それにも関わらず、その結果として、成績は上がるし、人間関係は良くなるんです。でも、これって当たり前ではないでしょうか?教師の皆さん思い出してください。皆さんが子どもと個別対応しているとき、難しげな○○理論に基づいて言葉を選んでいます?また、家族・友人との人間関係を維持するときもそうです、なんか難しげな理論に基づいてやっています?義務教育の先生の聞きます?皆さんが普段教えているときに、大学で学んだ専門知識が生きたことが何回あります?皆無とは言いません。でも、それが無ければ教師をやってられない、と言う人っていると思います?第一、教員採用試験の問題で大学レベルの問題って、どれだけあります?そして、その問題の正誤が合否に関わることってあると思います?私は大学の教師です。そして、我々の研究室は教科教育で最も学術論文の生産量が多い研究室の一つであると自負します。しかし、私が院生さん、学生さんと研究を語り合うとき、その95%以上の内容は、常識レベルのことを語り合っています。そして、常識レベルの積み上げによって学術レベルに高めることが出来ることを証明し続けています。

 子どもが有能であると言っても、スーパーマンレベルの有能性を信じているわけではありません。一般人が普通にやっている程度のことは出来る能力があると信じているだけのことです。もちろん、そういうことの出来ない子どももいます。しかし、子ども「たち」の中にはそのような能力を持つ子どもは「絶対に」いることを信じていることなんです。考えても見てください。以前のメモにも書いたように、教師が教える前に「分かっている子ども」は絶対にいることは、ちゃんと子どもを見ている先生だったら常識のはずです。その子を含んだ子ども「たち」が、普通のことを積み上げる程度の有能性があると信じることは難しくないんです。だから、我々は確信しているんです。そのようなことを本日のお客さんに説明しました。

 本日のお客さんが「それでも分からない人がいたら?」と最後に質問されました。それに対して、「どうすればいいの?(その2)」に書いたことを言いました。つまり、我々が目指していることを分かるか、否かは、結局、「何のために自分は教師として教えているのか」、逆に言えば、「何のために子どもたちは学んでいるのか」という本質的な問いかけをしているか、していないかの差のように思います。だから、きつい言い方であることは十分に分かっているのですが、「何のために自分は教師として教えているのか」、逆に言えば、「何のために子どもたちは学んでいるのか」を考えてくださいと言うほか無いですね、と言いました。その先生は笑って、大きくうなずいてくれました。

 我々は子どもたちを臨床的に徹底的に見る過程で、常に、「自分が一生をかけた教職という仕事に誇りを持ち、人生を全うするにはどうすべきか」を問い続けます。私は、毎年毎年、多くの院生さん、学生さんの研究を学ぶことによって、自分の中の「答え」を磨いています。それを感謝し、誇りに思っています。そして、それを世に還元することが大学の教師としての私の「答え」なんです。

[]教師主導 11:15 教師主導 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教師主導 - 西川純のメモ 教師主導 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 Kさんのブログを読んで、もう一つ書きます。

 Kさんが書かれているように、学び合いの対立概念は「教師主導」ではありません。我々の学び合いにおいても、教師主導であることは確かです。ただ、我々の場合は「目標」の設定の主導は行いますが、「方法」の主導はしません。目標の主導を放棄したならば、それは学校教育ではなく、遊びです。ただし、「目標」および「方法」は絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものです。ある目標はそれより上位の目標の方法であり、ある方法はそれより下位の方法の目標なんです。だから、正確に言えば、大事なところは教師が主導し、それをどうやるかは学習者が主導 するというのが我々の教師主導です。ところが、一般の教師主導はどうでしょうか?多くの場合、我々の考える目標の主導はしていないようです。何も考えず、教科書に書いてあるからでやるのではないでしょうか?さらに、それより重要なのは、何のために学ぶのか、ということをちゃんと語っていないように思います。その一方、 我々の考える方法のレベルはやたら主導したがります。だから、我々の教師主導は目標主導で、一般は方法主導とでも言えるかもしれません。 でも、おそらく、その人たちにとっては、我々には方法のレベルにすぎないことを目標と考えているのだと思います。

 両者の違いはどこにあるのでしょうか?それは先のメモと同じように気がします。結局、「何のために自分は教師として教えているのか」、逆に言えば、「何のために子どもたちは学んでいるのか」という本質的な問いかけに対する、その人なりの答えの違いなのでしょう。例えば、「子どもが主体的に学ぶのが総合学習で、子どもたちが「やるぞ!」と思うような課題を語るのが教師の仕事なんだ」と考えるか「子どもが誤り無く、教師が予想するクロスカリキュラムの課題をこなすことが総合学習で、そのために詳細な準備をすることが教師の仕事なんだ」と考えるかで、総合学習の姿は全く違います。もっと抽象的に言えば、「教師がいなくても問題解決を出来る学習者を育てるのが教師の仕事なんだ」と考えるか、「教師の与えた問題解決の方法を使える学習者を育てるのかが教師の仕事なんだ」と考えるかの違いです。どちらにせよ、教師主導です。でも、その結果として表れる子どもの姿は「全く」違います。

05/07/21(木)

[]お誘い 11:16 お誘い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - お誘い - 西川純のメモ お誘い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今年の8月20日(土)に教室学び合いフォーラム2005を新潟市で開催します。当日は、我々の研究室の本で紹介した実践研究を行った、西川研究室OBが多数参加し、発表等を行います。我々の本を読んで、「そんなアホな~」と思っている方、「じゃあ、私の場合はどうしたらいいの?」と感じている方は、是非参加してください。現場で今も毎日子どもたちの前に立っている人に質問すれば、疑問氷解することは請けあいます。当日は、私も講演します。まだ本に書いていないことを語りたいと思います。詳細は、http://www.rinkyokyo.com/をご参照下さい。当日は、各種の研修が重なっている時期で、休日でもあります。でも、それでも参加する意義は十分あると思います。本メモを読まれている方に「お誘い」いたします。

追伸 申し込み締め切りは8月10日となっています。当日参加も出来ますが、準備委員が人数把握をするため、出来るだけ締め切り日までに申し込んでください。(私も千人規模の学会の全国大会を3回も事務局長で開催しましたが、人数予想が出来る割合が低いと、ドキドキで辛いんですよ。やった人なら分かるでしょ。)

05/07/19(火)

[]上越教育大学(その3) 11:17 上越教育大学(その3) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 上越教育大学(その3) - 西川純のメモ 上越教育大学(その3) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 複数の方から、心配のメールをいただいたいので、直ちに補足します。私の意図は、「二つの条件が無くなっても上越教育大学に拘る理由が生じて欲しい」ということです。そのために、もがいているところです。ただし、「恒財なければ独立無し」とハマトンは言っています。上越教育大学にすがらなければ生きられない状態では、節を曲げてしまうことになります。戦う前に退路を断つ方法ではなく、選択肢を増やす戦略を採りたいと思います。言うまでもないことですが、上越教育大学は私が18年勤めたところであり、感情的にもこだわりのある職場です。

追伸 とはいうものの、「雪」の大変さは、住んだことのある人だったら分かるでしょ。60歳を過ぎて雪かきする根性は私にはなさそうです。

05/07/18(月)

[]上越教育大学(その2) 11:18 上越教育大学(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 上越教育大学(その2) - 西川純のメモ 上越教育大学(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 一年以上前に「上越教育大学」というメモを書きました。そこで、私が上越教育大学に居続けたいと考えている理由は『第一の理由は、上司にめちゃくちゃ恵まれているためです。信じられないほど恵まれています。第二の理由は、現職院生さんと共に研究するという現在の研究スタイルを維持発展できる大学は全国的にも3大学しかありません。そして、東日本にただ一つある大学が上越教育大学だからです。』と書きました。しかし、第一の理由のタイムリミットまでの時間は、1年前よりも更に短くなりました(当たり前です)。そして、最近、第二の理由のタイムリミットも5年ぐらいではないかと考え始めました。

 現在、教職大学院という新しい大学院が全国の大学で構想されています。法科大学院という専門職大学院の教員養成版です。その構想を一言で言えば、現職教員のための大学院とうことになります。最短で平成19年に開学されると思います。それから数年後には、全国各地に教職大学院が生まれることになります。結果として、全国各地に上越教育大学のような大学院が生まれることになります。その頃になれば、私が上越教育大学に拘る必然性は消滅することになります。そうなれば、東日本の太平洋岸で新幹線の駅がある県庁所在地の大学に移りたいという気持ちが起こると思います。

 1年前の夏までは専門職大学院なんて知らなかったのに・・。少なくとも、先に「上越教育大学」というメモを書いている時には、今の状況は全く予想できませんでした。本当に、教員養成系大学を取り巻く環境の変化の凄さは100年に一度と言えるかも知れません。

追伸 ただし、日本でも極少ない教育で博士の学位を出せる大学であるという利点はありますが・・。おそらく厳密な意味での理科教育学で博士の学位を出せる人は、日本に十数人程度だと思います。さらに、実際の指導実績がある人となる7,8人でしょうね。しかし、今の変化のペースが続くとすれば、その条件も崩れる日は、それほど先でないのかも知れません。


[]海の日 11:19 海の日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 海の日 - 西川純のメモ 海の日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は海の日です。息子にねだられていたので、本日は海水浴に行きました。大当たりでした。いった海水浴の水がとても透明なところでした。おそらく、砂浜の砂が大粒であること、また、近くに川が無いことが理由として考えられます。ゴーグルをつけて見ると、足下に小さな魚が群生していました。昨年までは 波を怖がっていた息子は、大喜びで浮き輪で海に入りました。私と息子があまりにも面白そうに泳いでいたので、泳ぐつもりは余り無かった家内も一緒に入りました。結局、3人で大はしゃぎしました。

 今は、プールの後の「あの」けだるさを感じています。あ~楽しかった!

05/07/15(金)

[]エピソード3 11:20 エピソード3 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - エピソード3 - 西川純のメモ エピソード3 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日は、家内の初めてあった記念日です。しかし、諸般の事情で忙しかったです。そこで、本日は午前中は年休を取って家内とデートです。行き先は映画館で、スターウォーズエピソード3を見ました。一番最初のエピソード4は21年前で、私の大学院の時代です。

 感想は、確かに見る価値はありました。今までの色々のな謎は明らかになりましたした。「なぜ、アナキン・スカイウォーカーは父親はいないのか?」、「レイヤ姫とルークは何故べつなところで育ったのか?」、「ダースベーダーは何故、あんなかっこうしているのか?」・・・・。しかし、もう一度見たいかと言えば否です。

 エピソード4のはじめにスターデストロイヤーがアップで出た瞬間の驚きを今も忘れません。あの映像によってロケットのレベルではなく、小都市のレベルの大きさのものが動く姿を実感しカルチャーショックを覚えました。それ以降のエピソード4~6の映像は、今から言えばちゃちです。でも、あの当時はインパクトがありました。ところが、エピソード1~3の映像は、優れたものではありますが、SFXを20年上見た我々から見たら、何もありません。今までの延長上にあるものにすぎません。ストーリーは、ジェームスボンドと同じ構成です。つまり、ドキドキの連続で、場面が世界各国に移動します。それが世界各国から宇宙全域に移動しただけのことです。ストーリーを簡単に要約すれば、50年間程度続く壮大な親子喧嘩にすぎません。社会構造のフィロソフィーは何もありません。銀河全体の数兆、数京、・・の人たちが、スカイウォーカー一家の親子喧嘩に巻き込まれただけです。映像においても種切れです。ストーリーについても種切れです。

 メモに書いたように、エピソード7はやるはずです。でも、ルーカスにエピソード4で示した斬新なものがないならば、晩節を汚すだけのことでしょう。なんか、エピソード7を見たくなくなりました。

追伸 今見てもキューブリックの「2001年宇宙の旅」は斬新です。エピソード4が陳腐に見えるのに対して対照的です。理由は二つありと思います。映像にのみならず、音楽が一流の音楽である。第二に、テーマが「人類の進化」とか「人工知能の自己」とか、現在においても未知であり、かつ重要なテーマを先取りしている。それに対して、スターウォーズの場合はポピュラーミュージックであり、テーマは親子喧嘩なんですから、勝ってこありません。

05/07/14(木)

[]久しぶりの宿題 11:21 久しぶりの宿題 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 久しぶりの宿題 - 西川純のメモ 久しぶりの宿題 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私はあとどれだけの学生を教えることが出来るのでしょう?定年まで20年です。かなり多くの学生を指導できると思います。定年の数年前になれば、あと何人ぐらいだろう、とかなり正確に言えるだろうと思いますが、今の段階では誤差が大きすぎます。しかし、博士課程の場合は別です。現在の規定では博士1年~3年の3学年に最大3人しか受け入れることが出来ません。現在、博士1年~3年に各一人の院生さんがいますので、来年は一人しか受け入れることが出来ません。そして、受け入れた院生さんを修了しなければならないので、退職2年前から受け入れることが出来なくなります。つまり、実際は何人になるかは分かりませんが、最大数が18人であることは確かです。現在の西川ゼミのメンバーが博士3人、修士11人、学部9人の23人ですから、その人数よりも少ない数です。それを考えると、本当に限られた数です。

 西川研究室が宇宙一厳しいことを十二分に分かった方から、博士への進学希望を承りました。そして、今まで受け入れた方と同じことを語りました。

 第一に、「博士の学位があなたの人生に有利に働くか不利に働くかは分からないし、私自身は何も約束できない。」

 第二に、「それにも関わらず、博士に入れば年間50万円×3年間の学費、入学式・口述試問・集中講義・修了式等で数十回は上越と兵庫教育大学に出張し、学会発表のために日本全国に出張しなければならない。つまり、お金と時間が必要である。」

 第三に、「規定では、少なくとも2報以上のレフリー付き学会誌論文の研究業績が必要である。そして、それ以上を私は要求する。」

 第四に、「既にいやと言うほど分かっている、常に高い要求水準を求められる西川研究室の厳しい世界が3年間続く。」

 第五に、「合否は本人の実力・努力の部分があるが、巡り合わせ・運の部分が大きい。」

 全てを語り、全て納得してもらいました。少なくとも、第四の部分に関してはニコニコしていました。

 その方の実力は十二分に分かっています。そして論文になりうる種は十分にお持ちです。それ故、契約成立です。早速、どっちゃりの宿題をおみやげに渡しました。

 博士関係の皆さんへ、しばらくしたら受験対策等の問い合わせが行くと思います。よろしくお願いします。

 これで、あと17人になりました。

05/07/11(月)

[]受験3箇条(現職派遣者向け) 11:22 受験3箇条(現職派遣者向け) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 受験3箇条(現職派遣者向け) - 西川純のメモ 受験3箇条(現職派遣者向け) - 西川純のメモ のブックマークコメント

  以前、受験5箇条というメモをアップしました。しかし、現職派遣の方の場合、筆記試験が昨年度より免除になりました。従って、修正すべきと考え、受験3箇条を作成しました。なお、大学卒の方の場合は、以前の受験5箇条を参照して下さい。

1.受験会場に来て下さい。

2.面接において、進学の理由を聞かれた際、「武力革命によって日本政府を打倒する」とは言わないでください。

3.面接官が多少、失礼な物言いをしても、殴らないでください。

 現職院生の方が学習臨床コースを受験する場合、以上を守れれば合格すると私は思います。

 現職で受験を許された方の場合、都道府県段階で厳格な審査を受けております。我々が求めている臨床研究は、現場に密着した研究です。従って、我々が求めている院生像は、現場で求められているものと大きな違いがありません。従って、都道府県での判断と、我々の判断に矛盾が生じることはまずないと思われます。

[]そろそろ、受験の頃 11:23 そろそろ、受験の頃 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - そろそろ、受験の頃 - 西川純のメモ そろそろ、受験の頃 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 仕事に追われて、殆ど、今日がいつ頃を忘れるような日です。昨日、メールのやりとりをしている現職教師の方から、「教育事務所から 上越教育大学の院を受けてもよい という返事をいただきました これでまた一歩前進です」というメールを頂きました。以前より、我々の研究室で学びたいので大学院を受験したい、というメールを頂いていました。「大学院に入学するので、西川研究室に所属する」ではなく、「西川研究室に所属したいから、大学院に入学する」ということです。大学院は研究するところですので、本来の姿ですが、おそらく本学大学院生の中では少数派でしょう。しかし、毎年、そのような確信犯の方が我が研究室に所属希望をお持ちになるのですから、光栄なことです。

 しかし、このメールを受けて、「え!」と思いました。何故かと言えば、「イヤに早い」と思ったからです。そして、その県からの派遣枠は数は少なく、殆どは本学ではなく西日本の大学院に進学する方が大部分です。それゆえ、もしかしたら「休職制度を使って受験するのでは」と不安になり、直ちに確認しました。結果は、有給2年の制度による派遣です。ホッとしました。と同時に、カレンダーを確かめると、7月の中旬であることを『発見』しました。となると、「イヤに早い」という私の感想は間違っていました。私の中では、まだ6月のような雰囲気になっていたんです。この前、夏の出張を意識し始めたのですが、まだ、本腰で準備はしていません。

追伸 早速、お祝いのメールを送り、本メモの「受験5箇条」を紹介しました。これから会議に出かけます。数年は続く、長い長い戦いの前哨戦です。

05/07/07(木)

[]ハッピーエンド 11:24 ハッピーエンド - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ハッピーエンド - 西川純のメモ ハッピーエンド - 西川純のメモ のブックマークコメント

 日本映画の近未来ものが好きになれません。バトルロワイヤル、キャシャーン、ドラゴンヘッド、デビルマン、いずれも救いの少ないエンディングです。私はみんなが幸せになる映画が大好きです。なんで、金を払ってまで不幸せを見たいと思う人の気持ちが分かりません。

 今日は7月7日の七夕です。晴れになる日が少ない日です。息子が彦星と織り姫のことを心配していました。そこで、「大丈夫だよ。雲の上の空はいつも晴れている。絶対あえるよ。」と言って安心させました。

 織り姫・彦星の間を裂いた舅殿も、子どもの幸せを願う親です。そんなに長くは引き裂けるわけありません。2014年には北陸にも新幹線も来る時代です。織り姫・彦星の伝説が生まれてから数百年・数千年がたっているはずです。そろそろ、天の川に幹線道路が出来てもおかしくありません。いやいや、既にアルタイルとベガは既に天の川の同じ側に移動しているかもしれません。それにもかかわらず、光がまだ地球に届いていないかもしれません。

 私はみんなみんな幸せになって欲しいと思います。クラスの子どもたちもそうです。子どもたちがつらそうにしているのは、映画でも、ましてやクラスにおいて見ることは、絶対にいやです。

05/07/06(水)

[]怒濤の日々はもう少し 11:24 怒濤の日々はもう少し - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 怒濤の日々はもう少し - 西川純のメモ 怒濤の日々はもう少し - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日も会議だらけの日でした。その中で教師用雑誌の原稿を雑誌社に送りました。ふと夏休みの予定を整理しようと思いましたが、今年ももうすぐ怒濤の日々が始まることを気づきました。その始まりは7月29日です。そして、一段落がつくのは9月11日です。その1ヶ月半の間に講演会が6件、集中講義が1件、学会参加は4件です。全部で23日間は出張の日々となります。家族と食事をとれないと、だんだん体の調子が悪くなるので、今年も不安です。そして、それ以外の日も来客があり、大学院の入試があり、博士課程のプレゼンがあり、そして、大学で会議、会議の日々になるはずです。

 関係者の皆さんもそれぞれで戦っておられると思います。私も戦っています。

05/07/05(火)

[]懺悔 11:26 懺悔 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 懺悔 - 西川純のメモ 懺悔 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、SとKさんを叱りました。理由は、あまりにも無計画であり、そのしわ寄せを他人に押しつけています。そのことを本質的に悪いと思っていないことを叱りました。私が叱っているということを分かってからは恐縮していましたが、基本的に悪いと思っていないようです。でも、叱りきれず、詰めの弱いものです。

 叱りながら、昔の私自身を思い出しました。私は、その研究室の50万円弱の機材を壊してしまいました。酔った勢いで相撲をして、その先生の前歯を折ってしまいました。 そのようなことをしでかしたのにもかかわらず、その私を研究室のメンバーに受け入れてくれました。信じられないほど寛容な教師です。しかし、けっして甘い教師ではありません。卒業研究では、毎日毎日、2時間弱、立ったままお説教をくらいました。それが1ヶ月以上続くんです。また、前日徹夜で作成したレポートを、目を通す前にゴミ箱に捨てられました。それを何回もやられました。厳しいものです。でも、その厳しさがあるからこそ、現在、研究者として生きていけるのだと思います。今は感謝しています。寛容さと厳しさが同居している教師でした。

 人が学ぶ機会は、さまざまです。今学ばなくても、いつか学ぶ機会があるはずです(それを受け入れられる体制が整ったら)。私自身も多くの過ちをして、多くの教師の寛容さによって救われました。私は「今、私の卒業研究の指導教官と同じ厳しい対応を すべきではない」と判断しました。それは、、私が指導教官の厳しさを受けていた状態には達していないと判断した故です。それは学習者の能力を信じる考えに反するかもしれません。でも・・・・。我々が信じているのは「学習者集団」であり、「学習者」では必ずしもありません。本日は、「学習者集団の香り 」を感じません。詰めの甘い対応になりました。「学習者集団の香り」を感じられないのは、集団の主催者の責任です。それ故、集団の主催者として懺悔します。

 とにもかくにも、合格して欲しいな~

05/07/04(月)

[]何故学び合わないか 11:27 何故学び合わないか - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 何故学び合わないか - 西川純のメモ 何故学び合わないか - 西川純のメモ のブックマークコメント

 仕事にちょと合間が出来ました。そこで、この前のメモの補足をすることにしました。

 学び合いを研究している私が、必ずしも学び合っている範囲は広くはありません。その理由を冷静に分析しました。以前のメモにも書いたように、学び合うことによって得ることより、失うことが多いからです。その理由は、メンバーが目指していることが必ずしも一致していないからです。そのため、何をやるにも一人でやるより手続きがかかり、時間がかかります。さらに、一人でやるよりパフォーマンスが落ちます。想像してください。あなたが学校によかれと思っていることを、別な人が悪しかれと思ったとしたら。必ずしも、どちらが正しく、どちらが間違っているというものではありません。おそらく、どちらの方法でも良い方向になる可能性があると思います。しかし、限られた資源を配分するとしたら、それらの優先順序を決めなければなりません。それをメンバー内で議論で決めると言うことは時間がかかります。仮に議論で決まったとしましょう(かなり難しいと思いますが)。大学は、良かれ悪しかれ自由な社会です。決まったことに関して、参加するか、否かは、メンバーの自主性に任されています。最悪、時間をかけて決めたとしても、それに対して協力を得られないんです。大学が二分されているなら、まだ、単純ですが、一人一人がバラバラだと、さらに状況は悪いです。

 さらに状況を悪化させる条件があります。それは、大学の教職員は、同じパイを競争しているです。具体的には、大学が保有するお金とスペースを奪い合っています。企業の場合は、その集団の外にある資源を獲得できます。公立学校の場合は大学に近い状況ですが、大学の場合は自分の給料に反映されるのですからシビアです。そして、大学においてそのような競争的な関係がない場合、パフォーマンスが落ちるのは過去の歴史が証明しています。

 このような条件では、仮に議論しても、自分の利害がかかった論に固執するのは当然です。また、議論で破れた後も、その論に固執するのも当然です。それ故、管理職でもない私が出来る戦略は、同じ方向を向いている人と小さな集団をつくり、そこでパフォーマンスを上げ、実績で論の正しさを証明するしかありません。

 つまり、私の大学における経験から言って、「集団に目標が一致させる」、「互いの利害がぶつからない(具体的には競争的な関係をつくらない)」ことが学び合いを成功させるポイントだと思います。

[]学び合う職員室 11:27 学び合う職員室 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合う職員室 - 西川純のメモ 学び合う職員室 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 この夏休みに講演に行く学校から、問い合わせが来ました。内容は、「先生(つまり私)の講演前に、全職員が本(我々の研究室の本)を読み合おうとしようと思っているが、どの本を選んだらいいか?」というものです。そこで、「一つの本を全員で読むのではなく、職員がいくつかのグループを形成し、読む本を分担します。そして、それぞれの分担した本の内容を、他の職員に発表する」という形式を提案しました。この方法ならば、他のメンバーから質問を受けるでしょう。それに答えなければなりません。そのため、人任せに出来ません。人任せに出来ない人たちが集まって議論するのですから、議論の質も高くなると思います。つまり、ジグソー法に近い方法です。その中で、何が分からないかが煮詰まります。そこを中心にして私が講演すれば、かなり質の高い講演が出来るはずです。

 と思って言った後に、「馬鹿だな~」と思いました。何故かといえば、方法に介入しすぎています。上記の方法は良い方法の一つではあるとは思いますが、全職員にとって良い方法とは限りません。数十人の教職員ならば、私なんぞが思いつくレベルのことは直ぐに思いつくだろうし、私が思いつきもしないような素晴らしい方法を考えられるはずです。それではどうしたらいいか?やはり目標のレベルです。具体的には、このように語るべきなのでしょう。

 『我々の研究室の研究成果は膨大です。それらは密接に絡み合っています。出来れば、それらを全て読んでいただき、その中で、何が分からないかを詰めていただければと思います。もう一つお願いがあります。特定の職員の方だけが理解したとしても、その力は限られたものです。職員集団が同じ方向性を持つことによって、その力は十倍にも、百倍にもなります。つまり、私が望むのは、全職員が我々の研究室の考え方の全貌を理解してもらいたいということです。大変多くのことを求めていることは了解しています。しかし、それが実現したならば、皆さん一人一人が多くのことを得られることはご理解いただけることだと思います。さて、どのようにしたらいいか?先の目標を皆さんが達する方法は、皆さんをなんにも知らない私に考え出せるわけありません。それが出来るのは皆さんだけです。私はそれが出来ることを疑いません。私は皆さんがどんな方法を考えるか、期待しています!この「出来るはずだ」という信頼を子どもに持てること、それが我々の考え方の根幹にあります。そして、この期待に対して、教師の予想を遙かに超えた次元で子どもたちが応えてくれることを喜ぶのが、我々の考える教師の本当の喜びです。』

 これが我々的な回答であると思います。(でしょ?Kさん)

05/07/01(金)

[]敵と味方 12:26 敵と味方 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 敵と味方 - 西川純のメモ 敵と味方 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 恩と仇は2倍、3倍にして返す、というのが私の基本スタンスです。そのため、敵を作るのも、味方をつくるのもエネルギーを消費します。だから、のべつまくなしに味方をつくりませんし、ましてや敵を作りません。つまり、敬意を持って接するが、利害関係を持たない関係が大多数です。人とつきあいながら、徐々に味方にするに足る人を味方にし、敵にするには手強い相手を敵にしないようにします。その最も基本は、自分が力を持つしかありません。

 私が味方にしたい人、そして、敵にするには手強い相手は、おそらく、私と同じような戦略を立てるはずです。したがって、そのような人が味方になってくれるには、私が味方にするに足る人と認められなければなりません。また、敵にするには手強い相手の敵にならないためには、私が敵にするには手強い相手にならなければなりません。自分が力がありさえすれば、仮に敵対的な関係になっても、やがて味方になります。だって、その方が相手にとって有利ですから。もし、自分の力がないのに、敵にするには手強い相手を敵にしてしまったら、悲惨なものです。自分の力がないのに、力のある人に味方になってもらおうと思って近づいても、いいようにあしらわれるでしょう。

 明確な目標が設定されている組織の中では、上記のようなことを考える必要はありません。あくまでの、その組織の外の人に対してのみ、上記のような戦略をすればいいんです。ところが、明確な目標が設定されていない組織の場合、その組織の中でも、上記のような戦略は必要です。残念ながら、大学は必ずしも明確な目標が設定されているとは言えません。学び合いを研究している私は、そのような世界の中で生きています。

[]研究のまとめ方 12:27 研究のまとめ方 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 研究のまとめ方 - 西川純のメモ 研究のまとめ方 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、Kさんと個人ゼミをしました。そこで、毎年、言っていることですし、メモにも何度も書いていることですが、また、言いました。そして、メモに書きます。書かなければならないな~と思うのは、それだけM2の人たちの研究が進んでいる証拠とも言えます。

 我々の研究でのデータは膨大です。その中には宝の山が埋まっています。もしかしたら、毎年、実践研究をしなくても、去年の院生さん、一昨年の院生さんの記録を見るだけでも修士論文は10や20は出来るかもしれません。見れば見るほど、新たな発見があると思います。でも、それらを見きれるものではありません。そして、それらを人に伝えられるようにまとめることは出来ません。おそらく、自分「だけが」分かる程度なら2年間という修士課程はいらないと思います。2年もかけているのは、自分「だけ」ではなく、確実な新たな一歩を積み上げ、多くの人の心に響かせるためです。

 限られた時間の中で、目の前の宝の山の中から、自分の積み上げる「一歩」を選び出すにはどうしたらいいでしょう。捨てるには、あまりに惜しいものばかりです。その方法は人に語ることです。自分の親しい人、そして、自分の研究をあまり話していない人に、自分の研究を話してください。我が研究室のメンバーは教師として、一流であることを疑いません。その人が無知な人に語るならば、語る内容の選択が行われます。つまり、私が学部生、院生の皆さんによく言う言葉である、「結局、何が分かった?短くいって」に対応する語りがあるはずです。そのような語りに選ばれないものは、研究のまとめの段階でエネルギーを費やすものではありません。

 さて、そのような語りでは、実証的なデータで語ることはないでしょう。いわゆる、先輩教師の武勇伝・失敗談・笑い話に近いものです。しかし、それを実証的なデータで語れるのが我々のオリジナリティの部分です。まずは、定量的なデータで押さえられるところは何かを考えましょう。私がよく聞く、「それは、どんなデータから言えるの?」に当たります。そのような定量データを出すためには、一定のカテゴリーをもうけなければなりません。その部分は定性的な部分です。でも、エリクソンの基準を心にとめながら、定性的データの暴走は押しとどめましょう。定量的データの裏打ちのない議論は、よほどの意志がない限り、暴走してしまいます。そこで、まず話の骨格を定めます。その骨格を定性的なデータで肉付けします。この肉付けによって、具体的なイメージを与えます。そして、読む人の文脈に置き換える材料を与えます(つまり、「あ~、あれのことだな~」とか、「ということは、○○がポイントなんだ」とか、「それじゃ、今度、○○やってみよう」とか)。

 定量的データの骨格があれば、暴走しません。皆さんは、いま、膨大な定性的データの海のただ中にいます。その中から、定量データの骨格を探し出してください。その段階で多くを捨てなければならないでしょう。でも骨格が決まりさえすれば、その骨格に皆さんが感動した定性的データを加えることが出来ます。でも、それでも捨てなければならないものは多いでしょう。でも、皆さんの心の中には残り、これからの数十年の教師人生の糧になることは確かです。そして、皆さんの後輩が、それを人に伝えられるような形でまとめてくれるでしょう。5年後ぐらいの論文や本を見て、「あ~、これこれ、これを言いたかったんだよな~」と膝をたたいているかもしれませんね。