西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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05/06/13(月)

[]分かりやすい授業 12:39 分かりやすい授業 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 分かりやすい授業 - 西川純のメモ 分かりやすい授業 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「分かりやすい授業」は必要か?という問いかけがあったので、ここに書きます。

 まず、分かりやすい授業というのは、案外簡単なことで実現できます。過去のメモ「ボスとして認められる方法」に『先輩教師という生きたノウハウ本を最大限に生かし、面白い話、聞かせる話を仕入れます。また、興味を引く教材、引き込ませる発問などを仕入れます。これらを大きな声で、はっきりとした発音で、早口にならないように注意しながら話せば、まずまずのことが出来ます。さらに慣れてくると、身近な日々の出来事を、自分なりにまとめて、話の導入に使えるようになれば上出来です。』と書きました。このようにやれば、そこそこ面白く・分かりやすい授業は出来ます。

 本日、Kさんと個人ゼミをしました。その際、「何故、我々の考え方を理解してもらえないか?」と質問されました。それに対して、以下のように答えました。

 『例えばダイエットを考えて。もし、ある薬を飲むことによって5kg痩せることが出来た人がいたとしよう。ところが、もっと痩せるためには、その薬を飲むことをやめなければならないとしたら、それを決断するのは大変だよね。それと同じだよ。我々の考え方を理解するためには、面白く・分かりやすい授業を出来なければならない。でも、その先に進むためには、それを捨てなければならない。今まで成功していたことを、捨てるのは大変だよ。』

 次にKさんは「それでは、何故、次の段階に進める人がいるんですか?」と聞かれました。それに対して、以下のように答えました。

 『それは、子どもをちゃんと見ているかいないかだよ。例えば、面白く・分かりやすい授業をすれば、みんなが自分の方をちゃんと見て、授業にのっているように感じられる。でも、試験をすれば、全然、点数のとれない子どもがいることに気づく。また、自分の前ではとてもいい子ばかりのクラスなのに、実はいじめがあると言うことを知るかもしれない。そのように面白く・分かりやすい授業に限界があるということに気づくことが必要だよ。でも、その限界に気づいたとして、さっきの話したように、それまで成功していた「面白く・分かりやすい授業」をさらに進めて、「もっと面白く・もっと分かりやすい授業」にのめり込む人が多いと思う。でも、そうやっても無理だと言うことは、我々の認知研究によってはっきりしているよ。』

 次にKさんは「次の段階に進める人と、進めない人の違いは何なんですか?」と聞かれました。それに対して、以下のように答えました。

 『教師の能力は、一般的には教材や指導法に関する知識・技能だと考えられているよね。きっと君もそう思っていたでしょ。でも、私はそんなものは、それほどいらないと思う。何故なら、必要となる教材や指導法は、君が教えるクラス、学校によって千差万別なんだ。そして、もし、それら全てのことに対応できる教材・指導法を学ばなければならないとしたら、教員養成系の学部を100年在学しても無理だよ。君に必要なのは、君が教えるクラス、学校にあわせて、様々な教材、指導法をトライアンドエラーの中で探し出す姿勢だよ。だから、私が考える教師の資質の第一は、子どもを恐れるという気持ちだよ。つまり、子どもたちに合わなかったとき、それは子どもが悪いと合理化するのではなく、自分が何かしなければという気持ちだよ。それさえあれば、いつか、君が教えるクラス、学校にあった教材、指導法を見いだすことが出来る。ただし、それだけの資質だけでは乗り越えることは出来ない。というのは、一人の人間の能力なんてたかがしてている。だから、もし、第一の資質だけだと、自分をさいなめ、最悪の場合、辞職・自殺になってしまう。そのため教師には第二の資質が大事だ。それは、他者、特に年長者と繋がれる能力だよ。我々が問題解決で利用出来る最大の手段は他者なんだ。他者と繋がれるならば、自分では乗り越えられない壁も乗り越えることが出来るようになる。次の段階に進める人と、次の段階に進めない人の違いは、次の段階に進めた人と繋がれるか否かだと思う。今、君らは、次の段階に進めた人と当たり前のように繋がれる。我々の考え方が理解できれば、決して名人芸のような授業は不必要になる。何故なら、自分一人の力ではなく、クラスみんなの力によって授業をすればいいからね。だから、面白い授業・分かりやすい授業にそれほど拘る必要はないんだよ。』

 私も面白い授業・分かりやすい授業を目指していました。でも、次の段階に進められたのは、高校教師時代の先輩教師の影響がありました。決して大向こうをうならすような授業をするわけではなく、一見いい加減のように見えるのに、何故かクラスがうまくいく先生、そんな先生がいました。また、大学に異動してからは、多くの優秀な現職派遣の先生に出会うことが出来ました。そのような「いい先生」には何か共通のニオイを感じることが出来ます。そんなことから今の自分があります。

 まとめます。「分かりやすい授業」は必要か?という問いに対する私なりの応えは、「そこそこは必要だけど、それにのめり込むより、子どもの姿に目を向けてほしい。子どもの姿を手がかりに、惹かれる子どもの姿を実現している先輩教師のニオイをかぐことが大事だと思う」というようなものです。

追伸 若いKさんに語るために「他者、特に年長者と繋がれる能力」を強調しました。しかし、私のような年になれば、「他者、特に若年者と繋がれる能力」が必要となります。だから、正確に言えば、「他者、特に異質な他者と繋がれる能力」が必要なのだと思います。

[]理解できない 12:39 理解できない - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 理解できない - 西川純のメモ 理解できない - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は教育の大学院の指導教官に小林学先生を選びました。その選択は熱烈であり、確信を持っており、他の選択肢はありませんでした。それ故、どんなに断られていても、「そこをなんとか」と食い下がり、ねばってねばってゼミに所属しました。なぜ小林先生をそこまで選んだか?それは、その先生の授業が好きだったからです。でも、その個々の授業方法が決定打ではありません。何とは言えず、「いい先生」だったんです。だから確信を持って選んだんです。だって、教育研究はよき教師、よき授業のためのものです(私はそのように信じています)。従って、その教育研究者の姿自体が、その教育研究者の研究の先にある教師、授業に他なりません。もし、その教育研究者が姿が、よき教師、よき授業でないならば、その教育研究者の研究は、よき教師、よき授業には繋がるわけありません(と私は思います)。

 私が理解できないのは、その教育研究者の講義を積極的に嫌い(もしくは意味不明と感じている)のに、その研究者のゼミを選ぶ学生さん、院生さんが少なくないからです。何故なんだろう?と思います。おそらく、「嫌い」というのは言葉のアヤなのかもしれません。でも、もしかしたら、教育研究とよき教師、よき授業と別物と思われているのかもしれません。それは悲しい・・