西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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05/04/04(月)

[]天才 08:44 天才 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 天才 - 西川純のメモ 天才 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある人のホームページに以下の文章が載っていました。

『「アマデウス」という映画の中に登場する作曲家サリエリはモーツアルトとの出会いについて次のように語ります。

 彼のような音楽を作ることはできずに、彼の音楽の素晴らしさだけはがわかるという不幸な能力を、なぜ、私はもって生まれてきたのだろうか・・・』

 私もその映画を見ました。モーツアルトの素晴らしさは、サリエリでなくとも、音楽の成績が常に2であった私でも分かります。世の天才の作品は、多くの人に認められているからこそ、天才という評価がなされています。天才とは多くの人に評価されるものを生み出す人です。もし、誰にも評価されない作品しか生み出せない人は、天才ではなく、変わり者にすぎません。

 味わえるのは多くの人が出来るのに、それを生み出す人はごく少数です。それ故、作り出す能力と味わう能力は別なのでしょうか?私は必ずしもそう思いません。天才に関して広く流布されている誤解があるのではないかと思います。

 天才は凡夫をなしえない論理の飛躍をなしえると思われています。しかし、ノーベル賞学者が語り合う番組を見たとき、ある受賞者は「ひらめきとは論理の連綿をたどれない状態を言う」と言っていました。つまり、飛躍に見えたとしても、実は一つ一つの論理が積み重なった結果にすぎないのです。ただ、一つ一つの論理の積み重なりが読み取りにくいだけのことです。これは私にとって納得できます。例えば、数学の大問題で数百年間未解決であった問題が、ほぼ同時に複数の人によって解決されることがあります。人は、その人達を天才と呼びます。でも、本当に飛躍であるならば、ほぼ同時に解決されるという偶然は起こらないはずです。実は、解決に至る必然があり、それが成立したためほぼ同時の解決が起こったと考えるべきです。また、それほどの飛躍でなくとも、身近な研究者が私にはとうてい思いつかないことを思いついたとき、「なんで思いついたの?」と聞くことがあります。それらをちゃんと聞くと、大抵は「な~るほど」と納得できます。もし、それらの話を聞いていなかったら、私はその人を自分とは違う天才と思うでしょうね。

 また、天才は寡作というイメージは多いように思います。確かに中間子論でノーベル賞を受賞した湯川博士は代表例です。こつこつ積み上げる凡人のイメージとは異なる天才のイメージには合っています。しかし、寡作な天才より多作の天才の方が一般的です。例えばモーツアルトなどは代表例でしょう。また、ゲーテも多作で有名です。そして、モーツアルトにせよゲーテも駄作 「も」多く作り出しています。

 一方、味わう能力は万人等しく持っているでしょうか?例えば、なんでもかんでもマヨネーズをかけて食べるヒトがいます。また、音楽で言えばバッハのパイプオルガンの曲は一般受けしますが、無伴奏はそれほど一般的ではありません。それは教育学研究も同じだと思います。どれほどの教育学研究者が学校現場の教師が持つ感覚を持てずに、 現場教師の共感を持ち得ない教育学研究のためにエネルギーを費やしているでしょうか?

 私の結論です。味わう能力を持ち得ることを大いに誇るべきです。逆に、プロトタイプ化された天才との違いを嘆く必要もありません。万人等しく得ることが可能な「味わう能力」を基に、こつこつと成果を積み上げることが、凡人の出来ることです。もしかしたら、その成果の積み上げが一定量を超えたならば、天才と見間違われるかもしれません。であるとしたならば、天才と凡夫の違いは、積み上げ続ける能力であり、それは志だと思います。ということで期待していますよ。