西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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05/03/06(日)

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 色々研究していますけど、結局、「子どもは有能」という言葉に集約される我々の考え方の周りをぐるぐる回っているようです。どんな研究をしても、結局、そこに戻ります。単純に考えれば、「だったら、やるいみないじゃん」というところですが、そうでもありません。同じ言葉を言ったとしても、その言葉の意味することが違います。5年前に「子どもは有能だ」と我々が言ったことと、今、我々が「子どもが有能だ」と言う言葉は違うし、そして、10年後に我々が「子どもが有能だ」と言う言葉は違うでしょう。そのために今も研究しているのだと思います。

 今年、心に刻んだのは、「目標は大事」、「目標は集団全体に語るべき」、「問題を解決するのは子ども集団」という、西川研究室としてはとてつもなく当たり前のことです。そんなことが出来なかった自分を恥じると同時に、何故、それが出来なかったかが分かります。そのことによって、我々の主張を受け入れられない人の気持ちが分かります。教師が日々悩むこと、それはなんでしょう?それを解決するには、結局、我々の基本に戻らなければ解決できません。ところが、我々の基本に対して、「それでは解決できない」と否定する人がいます。その理由が分かりました、だって、自分もそうでしたから。

 理由の第一は、問題の原因を「個人」に帰している。つまり、「あの子がいるからダメなんだ~」という理由付けです。我々が「その子をなんとかするのは、教師は無理。それを解決する集団をつくらねば」と言っても、「その子はどうにもならない!」と否定します。たしかに、その子はどうにもならないかもしれません。でも、そう考えて何が起こるでしょう。冷静に「その子はどうにもならない!」という言葉を分析すれば、自己憐憫に過ぎません。結局、「だから、私はやれるだけのことをやった」と自分で納得したいだけに過ぎません。だから、それを解決する別な方法がある、という我々の提案は、「もう十分だ、私は休みたい」という気持ちに反するので、拒絶します。ちなみに、「社会の問題だから!」という理由付けも、同じです。結局、ふんばって何とかしよう、ということを放棄しているに過ぎません。

 善意の教師は、踏ん張って「個人」に立ち向かっていきます。テレビ番組の「良い」教師の場合は、それで解決できます。でも、実際は無理です。結局、体と心と家庭をボロボロにしてしまいます。でも、多くの教師は、無意識のうちに上記のように合理化してしまうのだと思います。解決するすべがないなら、上記の合理化は、健全です。でも、もう一つの解決方法があります。たしかに、解決できないかもしれない。でも、自分一人で解決するのではなく、子ども達の力で解決できる。そう信じられるのは、「子どもは有能だ」という確信です。それが出来ないとしたら、それは「子どもは有能だ」という言葉の底の浅さを示すものです。同時に、「私はやれるだけのことはやった。もう十分だ、私は休みたい」という自己憐憫に安らぎを見出したい弱い自分に根ざすものです。

 私は、幸せになりたい。自分の人生を納得したい。そのためには、家族との幸せと、教師としての仕事を共に成り立たせたい。だから、どんなに自己憐憫にひたりたくとも、「子どもが有能だ」と信じることによって、踏ん張りたい、と思い、基本に戻りました。こんなこと、メモにも書きましたし、本にも書きました。でも、その言葉の意味の深さを知るこのごろです。そして、「やはり我々の考えは正しい」と再確認しました。