西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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05/01/11(火)

[]叱れない 09:57 叱れない - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 叱れない - 西川純のメモ 叱れない - 西川純のメモ のブックマークコメント

 かなり以前の全体ゼミで学部学生さんが、ボランティアに参加した会の子ども達が騒いだことを「叱れない」ことを悩んでいる学生さんが多いことを報告しました。正直、「え!?」と思いました。私の反応は、「なんで叱る必要があるのか?」と思いました。私の経験上、叱る必要があること何て殆どありません。その学生さんが報告している状況は、その子ども達はしかられることは十分に理解していることです。だから、わざわざ叱らなくても、「それはいいことかな?」と語るだけで十分です。なんで学生さんが叱れないということを悩むのか皆目検討つきませんでした。でも分かりました。分かってみれば、とてつもなく当たり前のことだったんです。彼らが悩んでいたのは、叱ることによって子ども達が自分たちから離れるのではないかと恐れたのだと思います。そして、恐れた結果として、しかるに叱れない自分の弱さを悩んでいたんです。その当たり前のことを理解できなかったかと言えば、学生さんが悩んでいた状況は本当には悩まなくてもよい状況だったからです。

 日本語の場合は、「罪」と「犯罪」の違いがはっきりしません。しかし、英語の場合は、両者ははっきりと違います。前者は良心に反することであり、後者は人の作った法律に反したことです。例えば、学生さん達がボランティアで参加した会で、騒ぐことは「罪」ではなく「犯罪」です。だって、そこで静かにすべきか、否かは、会の主催者が決めたルールに反したか否かです。そこで騒いだとしても、だれが傷つくわけでもありません。それに、それが叱られるであろうことは本人が十分承知しています。だから、それを教師にせよ、学生さんにせよ、叱ったとしてもビックリしません。そして「犯罪」なんですから、そのルール自体がナンセンスと割り切れば、その子ども達は傷つきません。従って、学生さんは悩む必要はありません。対処の方法は比較的簡単です。何故、そのようなルールが必要なのかを事務的に説明すれば理解してもらえます。もし、本当にそのルールに必然性があるならば、子どもは理解してくれます。まあ理解されなかったとして、それほど状況は悪化しません。少なくとも、私の教師としての経験上自信があります。だから、何故、そんなバカバカしいことを悩んでいるのか分かりませんでした。

 しかし、学生さんの状況とは違って、「罪」であり、本人が意識していない状況だと話は別です。「犯罪」ではなく「罪」である場合、具体的には誰かが傷ついたというような場合、「そのルールが悪い」という逃げ道がありません。そういう場合でも、自分が悪いことしているな~、とか、まずいな~、という場合は、だれかにそれを指摘された場合でも、大抵は納得してくれます。ところが、そういう自覚が無い場合、私の教えた定時制高校の生徒の直後の反応として、むやみに反論し・攻撃するという反応をします。私の教えた暴走族の子どもの反論・攻撃は相当の迫力でした。でも、そのような反応をするのは暴走族の子どもばかりではありません。他ならない私自身でもです。

 ある先生から「罪」に関する、私の意識していないことを言われると、とにかくカッとします。それから、それに反論するための百の理屈をパット思いつきます。だって、私は悪気はないし、そういう行動する理由はちゃんとあるんですから。でも、だれに対してもそういう反論するわけではありません。例えば、T先生(そして家内)から言われた時はそうではありません。確かに全くカッしないかといえば、そうではありません。でも、直ぐに悲しくなります。そして、考えます。何故、その違いが生じるかと言えば、言われる人の善意を信じられるからです。だから、カッした瞬間の次に、考え直せるのです。

 つまり、自分の善意を信じてもらえると確信を持てるならば、たとえば「罪」に関することで相手が意識していないことでも語ることが出来ます。ところが、善意を信じてもらえない場合は語ることが出来ません。つまり、出来ないと考える理由は、自分の善意を信じてもらえないと自分が思っているからです。そう思っている自分が情けなくなります。この情けなさを学生さんが感じているのだと分かりました。

 私が高校教師になった直後、「もし、町を歩いていて知らない高校生がタバコを吸っていた場合、高校教師である私はそれを注意すべきか」を悩みました。しかし、自分が担当した子どもと人間関係を結すべた後は、そのようなことを悩んだことはありません。「私がタバコを吸っているのを注意するのは、それは高校教師の職責ではない。私が大事に本気で思っている子どもだから注意するんだ。それに、そんな気持ちになれない子どもに注意したとしても、せせら笑われるぐらいだ」と私は思いました。そして、高校時代に関係を結んだ子ども達の場合、信じてもらえると思っていましたし、誤解しても、それを理解してもらえるだけの機会をもてると信じていました。

 何を語り、何を語らないか、それは自分自身の心が決めることです。つまり、自分が自分そして教え子をどれだけ信じられるかです。