西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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04/12/30(木)

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 私の知る限りにおいて、授業・講義の上手・下手、学会発表・研修発表の上手・下手、文章表現の上手・下手は一貫しています。だから、学会発表でその人の話を聞けば、講義、文章の姿が大抵分かります。昨日、ある人のホームページを読んで、そのことをふと思い出して、変だな~と思いました。

 我々の能力は極めて文脈依存的であり、領域固有であることが知られています。例えば、科学は客観的で論理的な学問です。科学者は客観的で論理的に科学研究をします。しかし、だからといって科学者は科学以外の事柄に関して客観的で論理的であるとは限りません。あくまでも科学という文脈や領域に関してのみ客観的で論理的です。このことは認知心理学の初期に発見されたことで、それまで文脈に依存しない能力(典型的なのは知能指数という考え方)を否定するという意味で極めて重要な発見です。

 私が変だな~と思ったのは、文脈依存性から考えて、授業・講義、学会発表・研修発表、文章表現という異なった文脈なのに、一貫しているのは変だな~と思ったからです。10分ほど考えて、その理由が分かりました。教育研究者が組織的な授業・講義の仕方、発表の仕方、文章表現の仕方のトレーニングを受けていないからです。文脈依存性は、ある文脈に関する知識・技能が組織的に教授されても、それ以外の文脈に汎化しないことに由来します。ところが、組織的な教授が成されていないのですから「地」がもろに出てしまいます。その「地」とは、「他人の反応に敏感であるか」と「他人の反応が悪かったら、なんとかしようとするか」という特性です。

 他人の「つまらないぞ~」というオーラを感じない人がいます。例えば、5分間の結婚式のスピーチで20分間平気で話す人がそれです。また、そのオーラを感じても、何とかしようとしない人がいます。例えば、授業が失敗するとその原因を子どものせいにする人、そして、成績を脅しの材料とすることによってのみ授業を成立させている人です。そんな人が講義をしても、学会発表をしても、文章を書いても、結果は想像できるでしょう。

 驚く無かれ、現場の先生方もそうではないでしょうか?昔の師範大学であったならば「板書学」のように黒板にどのように文字を書くかを教える講義がありました。また、声の出し方、間の取り方の講義がありました。その是非はともあれ、いわゆる師範出の教師には一定の型がありました。しかし、現在の大学でそれらが教えられているでしょうか?少なくとも、私の場合は、そのような講義を大学、大学院で受けたことはありません。もちろん、小中高大で教えてもらった、一部の優れた教師の姿を真似ることはあったと思います。しかし、組織的な講義はなかったと思います。私が学んだ筑波大学の学部・大学院がとりわけ特別だったとは思えません。現在、私が勤めている上越教育大学は実践的な大学ですが、昔の師範大学でやられたような講義はありません。多くは伝える内容の基礎となる学問が大部分を占めているはずです。それは、このメモを見ている先生方も同意していただけると思います。だから、現場の教師でさえ「地」がもろに出ているのだと思います。

 大学の教師は、そんなことは現場に出て学べばいいんだ、大学はそのようなレベルを教授する場ではない、と言います。でも、現在の学校現場はそのようなことを伝えられるような教授力を失っているように思います。理由は、急激な少子化で、それにともなって年齢バランスを全く欠いた採用計画に基づくものです。ある都道府県では、高校教師の平均年齢が50歳代という驚異的な状態になっていると聞きます。現在、少人数クラスの実現に向けて急激に採用しています。教員養成系の教員としては、ありがたいのですが、現在採用される大量の教師が、細々としたことを直接聞くことのできる「ちょっと年上の先輩教師」が数年前のトキのような状態ではないでしょうか?教師としての基本形を形作るべき最初の5年間、彼らは誰を頼りに教師としての職能を高めるのでしょうか?不安です。ましてや、そのごく少ない先輩教師の中に、「他人の反応に 鈍感」と「他人の反応が悪かったら、他人の責任だと思いこむ」という特性を持つ人が多くを占める学校に赴任したら・・。そして、私の息子は、そのような教師集団の学校に学ぶとしたら・・。ちょっとしたホラー映画より怖いと思います。