西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
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04/12/30(木)

[]一事が万事 12:12 一事が万事 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 一事が万事 - 西川純のメモ 一事が万事 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の知る限りにおいて、授業・講義の上手・下手、学会発表・研修発表の上手・下手、文章表現の上手・下手は一貫しています。だから、学会発表でその人の話を聞けば、講義、文章の姿が大抵分かります。昨日、ある人のホームページを読んで、そのことをふと思い出して、変だな~と思いました。

 我々の能力は極めて文脈依存的であり、領域固有であることが知られています。例えば、科学は客観的で論理的な学問です。科学者は客観的で論理的に科学研究をします。しかし、だからといって科学者は科学以外の事柄に関して客観的で論理的であるとは限りません。あくまでも科学という文脈や領域に関してのみ客観的で論理的です。このことは認知心理学の初期に発見されたことで、それまで文脈に依存しない能力(典型的なのは知能指数という考え方)を否定するという意味で極めて重要な発見です。

 私が変だな~と思ったのは、文脈依存性から考えて、授業・講義、学会発表・研修発表、文章表現という異なった文脈なのに、一貫しているのは変だな~と思ったからです。10分ほど考えて、その理由が分かりました。教育研究者が組織的な授業・講義の仕方、発表の仕方、文章表現の仕方のトレーニングを受けていないからです。文脈依存性は、ある文脈に関する知識・技能が組織的に教授されても、それ以外の文脈に汎化しないことに由来します。ところが、組織的な教授が成されていないのですから「地」がもろに出てしまいます。その「地」とは、「他人の反応に敏感であるか」と「他人の反応が悪かったら、なんとかしようとするか」という特性です。

 他人の「つまらないぞ~」というオーラを感じない人がいます。例えば、5分間の結婚式のスピーチで20分間平気で話す人がそれです。また、そのオーラを感じても、何とかしようとしない人がいます。例えば、授業が失敗するとその原因を子どものせいにする人、そして、成績を脅しの材料とすることによってのみ授業を成立させている人です。そんな人が講義をしても、学会発表をしても、文章を書いても、結果は想像できるでしょう。

 驚く無かれ、現場の先生方もそうではないでしょうか?昔の師範大学であったならば「板書学」のように黒板にどのように文字を書くかを教える講義がありました。また、声の出し方、間の取り方の講義がありました。その是非はともあれ、いわゆる師範出の教師には一定の型がありました。しかし、現在の大学でそれらが教えられているでしょうか?少なくとも、私の場合は、そのような講義を大学、大学院で受けたことはありません。もちろん、小中高大で教えてもらった、一部の優れた教師の姿を真似ることはあったと思います。しかし、組織的な講義はなかったと思います。私が学んだ筑波大学の学部・大学院がとりわけ特別だったとは思えません。現在、私が勤めている上越教育大学は実践的な大学ですが、昔の師範大学でやられたような講義はありません。多くは伝える内容の基礎となる学問が大部分を占めているはずです。それは、このメモを見ている先生方も同意していただけると思います。だから、現場の教師でさえ「地」がもろに出ているのだと思います。

 大学の教師は、そんなことは現場に出て学べばいいんだ、大学はそのようなレベルを教授する場ではない、と言います。でも、現在の学校現場はそのようなことを伝えられるような教授力を失っているように思います。理由は、急激な少子化で、それにともなって年齢バランスを全く欠いた採用計画に基づくものです。ある都道府県では、高校教師の平均年齢が50歳代という驚異的な状態になっていると聞きます。現在、少人数クラスの実現に向けて急激に採用しています。教員養成系の教員としては、ありがたいのですが、現在採用される大量の教師が、細々としたことを直接聞くことのできる「ちょっと年上の先輩教師」が数年前のトキのような状態ではないでしょうか?教師としての基本形を形作るべき最初の5年間、彼らは誰を頼りに教師としての職能を高めるのでしょうか?不安です。ましてや、そのごく少ない先輩教師の中に、「他人の反応に 鈍感」と「他人の反応が悪かったら、他人の責任だと思いこむ」という特性を持つ人が多くを占める学校に赴任したら・・。そして、私の息子は、そのような教師集団の学校に学ぶとしたら・・。ちょっとしたホラー映画より怖いと思います。

04/12/29(水)

[]全体ゼミの目標の設定者 12:13 全体ゼミの目標の設定者 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 全体ゼミの目標の設定者 - 西川純のメモ 全体ゼミの目標の設定者 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 毎年のことながら、修論の目鼻がつき始めると院生さん・学生さんがオーラを出し始めます。その段階に達すると、私を乗り越え、高い次元に進みます。それによって、私もその後を続くことによって、私もより高い次元に進むことが出来ます。Ymさんはオーラを出しています。最近、Ymさんより大事なことを教えてもらいました。それに触発されて、色々なことを考えました。

 異学年学習の面白い点は、多種多様な発想の違いです。幼稚園から小学校に入ったばっかりの小学生1年生、もうすぐ中学校に入ろうとする小学校6年生は年齢で倍の開きがあります。当然、発想が違います。それ故、同学年では堂々巡りの議論に陥ってしまうのが、他学年の発想によって打開することが出来ます。ところが、もし、その発想の違いが暴走した場合、収拾がつきません。

 院生さん同士で議論が沸騰し、学部学生さんが入れない状態に陥ることがあります。その原因は色々あると思います。しかし、黙っている学生さんに、何故話に入り込めないかを聞いた時に、「話の展開が早すぎてついていけない」ということが多いように思います。その原因は多種多様な発想にあるのではということをYmさんから教えてもらいました。なるほどと思いました。例えば、ある人が発表者に質問をします。しかし、その質問の内容は、必ずしも直ちに全メンバーが理解できるとは限りません。二人の話を聞いているうちに、「あ~、そういうことかな~」と理解でき始める頃には、別の質問者が別の質問をします。その質問者は、全く異質な視点から質問することになれば、先と同じように、二人の話を聞きながら、その意図を理解するしかありません。二人の話を聞いているうちに、「あ~、そういうことかな~」と理解でき始める頃には、別の質問者が別の質問をします。以下、それが続きます。

 その集団で議論している前提を理解している古株のメンバーや、議論されている対象に関して経験豊富な人(つまり現職院生さん)は、奔放に変化する話題を俯瞰して理解できます。しかし、そうでないメンバーの場合、質問者と発表者の議論を理解するだけでアップアップになってしまいます。そして、議論を理解した後に考えられる、そのメンバーの発想を生み出すことが出来ません。その結果として、古株メンバーは多様な発想を得るという異学年学習の利点を享受できなくなります。

 西川研究室で行われた異学年学習に比べて、西川研究室はより困難な点があります。それは、今までの異学年の場合、総合学習にせよ、教科学習にせよ、共通の目標があります。そのため、発想が多様であっても、一つの話題に関連した発想です。だから、各々の発想を理解し合い、関連しあうことがやりやすいとも言えます。西川研究室は多種多様な研究テーマを持ったメンバーの集団です。年齢もバラバラです。であれば、全体ゼミの目標を設定する必要があります。この目標の設定を明示しなければならないという必然性は、より等質である同学年集団より高いと思います。

 全体ゼミの目標を設定すべきであるということは、かなり以前から考えていました。なんとなれば、何か問題があった場合、その原因は集団に与えられた目標に問題がある(その結果として、問題を生じさせる関係が生じる)、と考えるのが我々の考え方なんですから。だから、「他者から多くを得て、他者に多くを与えることによって、自らを高めていく」という「全体ゼミ」(西川研究室の目標よりは下位です)の大目標を設定しようと考えています。しかし、この大目標では抽象的です。もう少し、具体的な目標(そして評価)を設定する必要性を感じました。しかし、教師がそこにまで立ち入るべきか悩みます。つまり、方法に走りすぎていると、私の頭の警告ランプが点滅しました。

 色々考えましたが、今の私の考えは以下の通りです。

 大目標:「他者から多くを得て、他者に多くを与えることによって、自らを高めていく」とする。

 中目標(大目標との関係からいえば方法):上記の大目標に基づき、西川研究室の全メンバーが設定する。ただし、全体ゼミ及び学年ゼミが「実践場面分析演習(実践セミナー)」、「専門セミナー」という必修科目に対応していることから、6割以上の出席は最低条件であるという縛りはあることは前提です。これに関しては、今年度中にメンバーに議論して欲しいと思っています。

 小目標(注目表との関係からいえば方法):これは、毎回、毎回の発表毎の目標です。これは、発表者が決めて欲しいですし、それは発表において明示して欲しいと思います。つまり、どのようにデータをとったらいいか、とか、この教材で子どもはついてくれるかのように、自分の発表に関して、どんな意見を求めているのかを具体的に明示して欲しいと思います。これがはっきりしていれば、話題が奔放に流れて、ついていけないメンバーが生じる危険性を減じることが出来、結果として、多様な発想の利点を享受できると思います。

 今のところは、全体ゼミに関しては上記のように考えています。意見下さい。なお、西川研究室としての目標の設定に関しても、考えているところです。

04/12/27(月)

[]クリスマスの朝 12:14 クリスマスの朝 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - クリスマスの朝 - 西川純のメモ クリスマスの朝 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 クリスマスイブの夜に、息子の眠っている枕元に特大の靴下に「僕はプラレール運転手」というおもちゃを入れました。

 クリスマスの朝、息子が起きると、直ぐに靴下の変化に気づきました。「どうしたのかな~」と言いだし、さかんに出そうとします。おもちゃが包装紙の中から出ると、狂喜乱舞です。直ぐに、「サンタさん、有り難う~」と何度も言いました。その日は、何度も遊び、その夜の枕元には、そのおもちゃをおいて寝ました。

[]迷子記念日 12:14 迷子記念日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 迷子記念日 - 西川純のメモ 迷子記念日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 息子はお出かけが大好きです。出かけると、直ぐに、ちょこまか、ちょこまか動き落ち着きがありません。お店の中をかけ出し、それを私が追いかけることが繰り返します。息子の方も心得たもので、しばらく走ると後ろを振り返り私がいることを確認し、さらに遠くに行きます。困ったものです。昨日、家内が息子を連れていると、息子が見あたらなくなったそうです。相当焦ったそうです。でも、しばらくすると息子の特徴のある泣き声が店中に響きます。直ちに行くと、顔中、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになって泣いている息子がいました。相当こたえたようです。あとから、「おとうさん、おかあさんのいないところにいくと迷子になるんだよ。迷子になると怖いでしょ」と言うと、ばつがわるいのか顔を見ません。でも、「じゃあ、もう一度迷子になる?」と聞くと、怖がった顔で私の顔をじっと見ます。

 久しぶりの記念日です。

04/12/24(金)

[]私という子ども 12:15 私という子ども - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 私という子ども - 西川純のメモ 私という子ども - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近、私の母親から、私が幼稚園児だったころの話を聞きました。それによると、全く集団行動の出来ない、マイペースな子どもだったそうです。クラスのみんながお絵かきをしているのに、お絵かきしたくないといって、ずっと園庭で遊んだそうです。逆に、みんなが園庭で遊んでいるときに、お絵かきをするような子どもです。ただし、みんなと一緒は嫌だと思って行動しているのではなく、みんながやっているからということに興味が無く、自分がやりたいことをやっていたそうです。そして、私のやりたいことは、みんながやっていることと一緒でないため、集団行動できませんでした。だからといって、みんなからいじめられたことはなかったそうです。私の方も、みんなと遊ばないということを悩んでいるそぶりはなかったそうです。そして、常に何かを考えており、子どもと話すより大人と話す方が好きな子どもだったそうです。その状態は小学校3、4年生まで続いたそうです。当然の事ながら、先生方からは注目されます。でも、私を「困った子」と捉える先生と、「面白い子」と受け入れる先生に分かれていたそうです。

 息子を見ていると、私の血が流れていることを嫌でも意識せざるを得ません。本が大好きで、幼稚園では、一日中でも本を読んでいるそうです。頭の中には、本の話が充満しています。家に帰ると、一日中、私たちに話しかけます。その話はポンポン飛んでいるように思えるときがあります。例えば、「かけっこでは一生懸命はしるんだよ」と話をしていると、突然、息子が「赤いだるまさんに負けちゃうの?」と聞きます。私はあっけにとられます。でも、大抵の場合は、息子は絵本のお話しをデータとして駆使していることを知っています。そこで、「なんのお話し?」と聞きます。そうすると「10月号」と言います。「どこにあるの?」と聞くと、本棚から本を引き出し、その部分のページを開きます。そうすると、赤いだるまさんがかけっこしている話があります。その本は数ヶ月は読んでいない本です。幼稚園に入ってからは、幼稚園にある本を参考にしています。息子の会話は、数百の本を材料に語ります。江戸時代は芝居が古典となっており、互いに語る場合、その知識があることを前提とした会話です。そのため、芝居を知らない人には全く意味不明な会話になります。中世であれば、それがギリシャの古典や聖書がそれにあたります。私の場合は、息子が読んだ本の内、家にある本は一緒に読んだことがあるので、彼の言葉の意味が補完して理解できます。でも、幼稚園の園児の中で彼ほど絵本好きな園児はいないと思います。そのため、彼が語る言葉の意味を理解できないと思います。そして、幼稚園の先生も、幼稚園にある本をあまり読んでいないのではないでしょうか?きっと面食らっていると想像します。

 多くの子どもはデカレンジャーとかのキャラクターものにはまっていますし、知識の範囲も、それに限られます。であれば、語られる言葉も、ある範囲内に収まります。メージャーなキャラクターものの決めぜりふやポーズで遊んでいたら、誤解は生じないでしょう。でも、マイナーな絵本を含んだ数百の絵本の知識をポンポン出されたら、論理的な会話が出来ない子どもだと誤解されるでしょう。息子が文字や本が大好きであることを知っている親御さんは、「どうやったら本に興味を持たせられるのですか?」と聞きます。でも、それを努めたことはなく、ただ、膝の上で読み聞かせをさせただけのことです。私の方は、「どうやったらデカレンジャーにはまらせることが出来るのか?」と聞きたいと思っています。親とは無い物ねだりをするものです。でも、無理に型にはめるのではなく、彼の個性を大事にしたいと思っています。

追伸 そんな集団行動ができない私が、学び合いを研究し、それで生活しているんだから不思議なもんです。今の私にとっては、かつての私(もしかしたら今の息子)みたいな学習者が難敵です。でも、そんな子どもも大きくなれば私程度にはなれるんですから、ほっぽっていくのも一つの方法かも知れません

04/12/22(水)

[]仲良し 12:17 仲良し - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 仲良し - 西川純のメモ 仲良し - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々は「学び合い」をキーワードにしています。でも、それが「仲良し」と混同される危険性を感じています。我々の目指しているクラスの姿を一言で言えば、「良い職場」なんです。教師人生をある程度やれば、様々な職場を経験するでしょう。その中で、「いい職場だったな~」と思い起こす職場を思い起こしてください。様々な先生がそこにいたと思います。それなりに協力して、一つの方向性を共有していたと思います。でも、みんなみんな全員が一つの方向性を共有していたとは限りません。な~んも仕事をしない人もいたのではないでしょうか?それほどでもなくても、相対的に仕事をしていない人は必ずいたと思います。一緒に仕事をしている人であっても、腹の中では「ウマの合わないやつ」と思っていた人はいたのではないでしょうか?尊敬している人、よく一緒に飲みに行った人であっても、「あの部分はイヤだな~」と思っているところがあったのではないでしょうか?我々が目指しているクラスは、そんなクラスなんです。だって、考えてみてください、20年前の青春ドラマで描かれているような、みんなみんな仲良しなんていう職場なんてあり得ます?人間は十人十色、ウマが合うのも、ウマが合わないのもあって自然です。それなのに、絶対に実現できるはず無い、みんなみんな仲良しなんかを目指していたら、気が変になってしまいます。

 それでは、そんなウマの合わないやつがいる職場を、なんで「いい職場だったな~」と思い起こすのでしょうか?それは、その職場において自己実現できたからに他なりません。そして、それが成り立つために必要な、「自己実現と職場の目標が一致する」、「自己実現のもっとも強力な手段である仲間と有機的に繋がり得た」という条件が成立したからだと思います。

 我々の目指すべきクラスにおいて、「あいつはきにいらね~」と陰口が出てもいいんです。ただ大人社会のルールと同じように、それなりの礼儀をわきまえた関係を維持できればいいんです。自分から見て「仕事が出来ないやつ」と思える人がいてもいいんです。人間、完全無欠の無能な人なんてそういません。だから大人社会では、そいつの能力・特徴をふまえてつきあえばいいんです(いわゆるバカとハサミは使いよう)。自分から見て「仕事が出来ないやつ」と思える人からは、逆に、自分は「仕事が出来ないやつ」と思えるのかもしれません。しかし、その人も自分の能力・特徴をふまえてつきあえばいいんです。

 でも、ウマが合わないやつがいてもいいですが、ウマが合わないやつが少ない方が、自己実現に有利であることは自明の理です。また、仕事が出来ないやつがいてもいいですが、仕事が出来ないやつが少ない方が、自己実現に有利であることは自明の理です。でも、それのために何をするか、逆にしないかは、費用対効果で決まるものです。「あいつはきにいらね~」とか「仕事の出来ないやつ」を直接どうにかしようと費用対効果以上のことをするのは限界があります。費用対効果で成り立つ範囲内のこと(大抵の場合、ほっぽっとくという方法)をしているうちに、いつの間にかそいつが変わることはあるものです。

 以上のことは教師人生を長くやれば教師は分かっていると思います。その分かっていることは、クラスにおいても成り立つと考えるのが、我々の特徴です。学習者は教師と同じだけ有能だと考えています(同時に、教師と同じように無能でもあります)。上記のようなクラスの理想と考えれば、気も楽になるのではないでしょうか?

追伸 蛇足だと思うのですが、再度繰り返します。我々が目指すべき、心の

成長した学習者とは、みんなと仲良くできる学習者ではありません。上記のような大人の関係を維持できる学習者が、本当に心が成長した学習者だと思います。そして、私は「大人の関係を維持できる学習者」の方が、「みんなと仲良くできる学習者」より素晴らしいと思います。少なくとも私は、上司・同僚・部下として選ぶならば、前者の人を選びます。

[]まだ分からないこと、でも、そうだと思っていること 12:17 まだ分からないこと、でも、そうだと思っていること - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - まだ分からないこと、でも、そうだと思っていること - 西川純のメモ まだ分からないこと、でも、そうだと思っていること - 西川純のメモ のブックマークコメント

 学び合いに関して、我々はかなりのことが明らかになっています。でも、まだ分からないことがあります。

 我々の研究成果は本などを通して広く公開しています。でも、まだ本にしていないため、一般に知られていない成果もあります。そして、一般のみならず、研究室のメンバーも知らない場合もあります。その一つにHさんの研究があります。この研究は、とても重要な意味を持っています。特に、我々自身に意味があります。

 Hさんの研究によれば、班のメンバーが固定化すると数ヶ月で人間関係がうまくいかない班と人間関係が維持される班に分かれます。うまくいかない班を見ると、その原因は相対的に能力のない学習者をリーダー格の学習者がフォローするのに疲れ、最終的には排除する行動に繋がります。しばらくすると能力のない学習者を排除することに成功します。本当だったら、能力のないメンバーがいなくなったのですから班の力は伸びるはずなのですが、結果はそうなりません。排除に成功した直後から、それまで一緒になって排除していたメンバーの間の関係が崩壊します。結局、班全体が崩壊します。一方、最後まで能力のないメンバーをリーダー格がフォローし続ける班がいます。その班の場合は、最後まで集団が維持します。

 Hさんが修了した当初、私が考えたのは、上記のような問題が生じない方法は、メンバーを固定化せず流動化すべきだと考えました。このことは今でもそう思っています。しかし、流動化できない集団もあります。例えば、クラス、クラブ・部、そして研究室という集団がそれにあたります。そのような場合はどうしたらいいか、それが謎でした。Hさんが修了した当初、わたしは関係を維持し続ける班と、維持し続けられず排除し、崩壊する班の違いの原因はリーダー格のキャラクターの差であると考えていました。でも、そのように考えるのは我々の考えではありません。つまり、個人のレベルに原因を帰結し、犯人探しをするのではなく、集団の関係に原因があると考えるのが我々の考えです。その考えで、最近、考え直しています。

 おそらく能力のないメンバーを排除するリーダー、排除しないリーダーに個人のキャラクターに違いはないのだと思います。違いがあるとしたら、その他のメンバーだと思います。つまり、能力のないメンバーをフォローするのが自分一人だと感じたリーダーは、それに疲れ排除します。ところが、能力のないメンバーをみんなでフォローしていると感じるならば、疲れず、それなりに続けられるのだと思います。私は排除した結果として班の崩壊が発生したと考えていました。しかし、崩壊するような班だから、フォローするのがリーダーに集中し、結果として排除する行動に走るのだと思います。つまり、原因と結果を取り違えたのだと思います。

 このあたりはまだ分かりません。データがないので、私の想像です。でも、今までの研究の蓄積から想像したことです。

追伸 メンバー全員がフォローしているが、それでも、フォローしきれない能力のないメンバーというのはありえます。その場合は、最終的に排除する場合もあり得ると思います(もちろん、法的にも道義的にも許される範囲内で)。もし、上記で述べたように、排除の結果として班が崩壊するのではなく、班が崩壊したから排除が起こり、結果としてして崩壊が表面 化しただけであれば、メンバーのフォローがあるがフォローしきれず排除した班の場合は、排除した後も班の関係が維持します。私の経験上、それは正しいと思います。

[]学び合うことを目標にすべきか?(その2) 12:17 学び合うことを目標にすべきか?(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合うことを目標にすべきか?(その2) - 西川純のメモ 学び合うことを目標にすべきか?(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先の「学び合うことを目標にすべきか? 」に関して、複数のOBから意見を頂きました。誤解を避けるために、追伸します。

 私が述べた「学び合うことを目標にすべきか? 」に関しては、目標の設定の部分に力点があり、評価はそれほどの力点はありません。つまり、しつこく、あつく、ちゃんと語りますが、評価は自己評価です。現メンバーやOBならば分かると思いますが、個人達成も自己評価です。だって、「何頁以上の論文を書け」、とか、「何人以上のデータを取りなさい」なんて言わないでしょ?学生さん、院生さんが「何人ぐらいのデータが必要なんですか?」と聞けば、「あなたは何人ぐらいが必要だと思う?想像してみて、たった一人だけのデータで一般的な結論を出している人がいたら、あなたはどう思う?だからといって数万人のデータを取るなんて無理だよね。ということは二人から数千人の中の何人ぐらいが、あなたに可能で、あなたが納得できる数なの?」と逆に聞いていると思います。そして、ご当人が答えた数が、調査対象の人数になっているはずです。

 研究に関しては、「それで同僚は分かってくれるの?あなたは納得できるの?」と言っていたと思います。そして、決めの言葉は、「期待しているよ」です。どれだけの達成度を目指すか、そして、それをどう評価するかは学習者に任せていたと思います。学び合うことも同じです。「何人と話したか?」とか、「発言回数は何回だったか?」なんていう評価で成績を出すつもりはありません。「あなたは学び合っているか?」、「そして何故にそう判断したか?」を問うつもりです。そして、私としては、学習者が自ら高い評価方法で、自らの課題達成と学び合いを評価することを促します。つまり、各学習者がどのような評価方法を取るかが、私の目標の設定者としての能力の評価になります。

追伸 ただし、授業に関しては、出席点は自己評価ではなく、ちゃんと取ろうと思います。

04/12/21(火)

[]学び合うことを目標にすべきか? 12:18 学び合うことを目標にすべきか? - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合うことを目標にすべきか? - 西川純のメモ 学び合うことを目標にすべきか? - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々の研究室において何度も議論したことを、また考えました。それは、「学び合うことを目標にすべきか?」ということです。これが、どれだけ重要な問題かということを説明するのはなかなか大変です。我々は学校教育の目標は、「学び合うことを経験する場」だという学校教育観を持っています。従って、「学び合うこと」を目標にすべきです。そして、学び合いが成立することが、集団としても個人としても、学習的にも情操的にも、最も高い達成度が保証されると信じています。そして、そうであることは教師がゴチャゴチャ言わなくても、人間の本能の中にあると考えています。従って、「学び合うこと」を目標にしなくても、個々人の達成度を厳しく評価すれば、必然的に学び合うと考えています。ということで、少なくとも「学び合うこと」をしつこく求める必要はないと考えています。

 でも、学び合うこと自体を目標とした場合、個々人の達成度が阻害される場合があります。例えば、学び合いに参加することを拒否したり、参加することによって多くのメンバーにとって迷惑になる人がいます。そのような人を学び合いに参加させるために労力を費やしたり、受ける迷惑を甘受することを、教師は学習集団に求めるべきか、ということが問題になります。難しい問いです。最近、またまた、それを考えることが多くなりました。昨日も考えました。ふと思いつきました。

 教師は、「学び合うこと」を目標にすべきだと思います。学び合うことの強力さを語るべきです。また、より多くの集団で学び合うとき、その力は更に協力になると思います。また、均質化したがる集団に対しては、Ymさんをはじめとする異学年学習の結果を例示しながら、異質なメンバーで集団を作る意味を語るべきでしょう。そして、一部のメンバーを排除すれば、そのことによって一時的には達成度は高まりまるが、集団自体の崩壊を引き起こすというHさんの研究を語るべきだと思います。でも、同時に、集団および個人に対して、厳しく評価をして、高いものを目指すようにしなければなりません。問題は、それらが矛盾を起こす場合(そして、それ以上にあり得るのは、矛盾を起こしていると思っている場合)は教師はどうすべきなのでしょうか?そこが難しいところです。悩むところです。でも、吹っ切れました。

 もし、矛盾が生じた場合、どのあたりで折り合いをつけるかは、教師が決められるわけありません。それは集団の中で、個人の中で、それぞれが、その場に応じて判断するしかありません。そして、その結果を、私を含めたみんなが、甘受すべきなのだと思います。学習者はバカではありません。少なくとも学習者集団は有能です。最善の判断をしてくれるはずです。学び合いの力を増大させて得られるもの、そのためにしなければならない労力(心労を含めて)、そして、切り捨てたときのリスク、それらを総合的に判断して、今、自分(自分たち)が出来ること(逆に言えば、しないこと)を判断するはずです。

 学び合いの強力さ、学び合わなかったときの危険性、学び合うことによって自分(そして自分たち)が享受できることのロマン、それらをしつこく語り、そして、厳しく評価すること、それが教師としてやるべきだと思います。それでいい、と思います。だって、個人としての学習者の能力に疑問を持ったとしても、学習者集団の能力を、私は疑うことは出来ません。

 殆ど(いや、完全な)独白です。

04/12/20(月)

[]特大の靴下 12:20 特大の靴下 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 特大の靴下 - 西川純のメモ 特大の靴下 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 自宅に帰ると大きな袋を持った息子が玄関に迎えに来てくれました。

 息子は「プラレール運転手」というおもちゃがほしくてたまりません。そのため、それが入る靴下が無いことを心配してます。家内に、お~きな靴下作って、と何度もお願いします。私は家内に、手近な手提げ袋に靴下の絵を描いたらいいよ、と提案しました。しかし、家内はちゃんと作ってあげました。巨大な靴下を持って息子はご機嫌です。

 家内に「入るの?」と確認しましたが、購入済みの「プラレール運転手」入ることを確認済みだそうです。

[]何故しないの? 12:20 何故しないの? - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 何故しないの? - 西川純のメモ 何故しないの? - 西川純のメモ のブックマークコメント

本日は、2年生の最初のゼミです。内容は、西川研究室の本を読んで、分からないことをメンバーで議論し、それでも分からないことがあった場合、私が応えます。そのことを通して、今までの我々の蓄積を理解し、今までの我々を越えて欲しいと願っています。

 ゼミの殆どの時間は私はいません。別の仕事で不在であったり、隣の部屋で4年生と馬鹿話をしていました。私がしたのは、1時間半のゼミの間で30分程度です。その時間に、本日議論の対象となった本(「なぜ理科は難しいと言われるのか?」)の中で分かりづらい記憶の部分(ダブルコード仮説)の説明に10分程度と、西川研究室が目指していることと大事にしていることをお説教(20分程度)しました。

 当日は、本の半分を読み、議論していました。その際、「その本を読むのにどれだけ時間をかかった?」と聞きました。そうするとだいたい4時間程度です。その本は全部で3時間程度で読みあがると思います。でも本の半分で4時間かけた(つまり1冊で8時間)ということは、読み流すのではなく精読したということです。そこで、以下のように語りました。

 『半分を読むのに4時間、それを議論するのに1時間、つまり5時間かかったよね。ということは、全部で10時間で理解できるということになるよ。この本を講義で扱うとしたら半期15回で扱うよ。とい うことは1時間半×15回となると20時間強かかることになる。それも、今君たちが理解しているレベルまで達する学生さんは限られている。講義調で進めるより半分以下の時間で、講義調で進めるより効果が上がる。これが我々が主張している学習者が主体的になった授業の効果だよ。』

 ゼミのみんなが納得したようです。そこで、「なぜ、そんな効果的なことを普通の講義で私がしないかわかる?」と質問しました。色々な意見を2年生が言いました。しかし、正解はありません。そこで、以下のように語りました。

 『教師の能力は、一般的にうまく教える能力だと思われている。しかし、本当は、学習者にやる気にさせるかが本当の能力だよ。今君たちが、今しているような学習をしているかといえば、それを必要として、それが意味あることがよく分かっているからだよ。それさえ分からせることが出来れば、今君たちがやっている学習が成立するんだ。なぜ、そのような学習がしないかといえば、大学の講義のように1週間に1回程度でそれが成立するにはとても時間がかかると思うからだよ。つまり、自分の能力を信じ切れないからだよ。』と語りました。無力な教師です。

04/12/19(日)

[]息子の成長 12:21 息子の成長 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 息子の成長 - 西川純のメモ 息子の成長 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 土曜日はクリスマス発表会です。最初からドキドキの連続です。入場の際、年少組の子ども達は一列で行進して入場です。ところが、列がとぎれてるな~と思ったら、息子がフラフラしているため間があいてしまっていることが判明しました。息子は「どしーん!」と声を上げて、ワザと倒れるなどします。慌てて、先生が列に戻していました。入場後は着席です。他の子ども達は、座って前を見ているのですが、息子は左右後ろをキョロキョロしながら、歌を歌っています。これまた慌てて、先生がお一人脇につきっきりになりました。

 私は、「座りなさい!を言わない授業」とか「静かに!を言わない授業」という本を出しましたが、先生方には「すみません、お世話をかけます」と申し訳なく思います。私の母によれば、私も幼稚園の時にはマイペースで、直ぐに先生に名前を覚えられるタイプの子どもだったそうです。その息子なのですからしかたがありません。幼稚園の先生だった家内によれば、大学の先生の子どもと幼稚園の先生の子どもは「変」な子どもだそうです。大学の先生と幼稚園の先生の間に生まれたんですから、その意味でもしょうがないとも言えます。

 でも、成長も見られます。とにかく音程のある歌を歌うようになりました。また、まがりなりにも式の間、席に着いていました。また、踊りを踊れるようになりました。特に、最後の踊りが感動です。NHKの「お母さんと一緒」という番組で、最後に体操のお兄さんが踊る部分があります。会場の子ども達は、その踊りを踊っているのですが、それを見る息子はぼ~としていました。ところが、最近は家内と一緒に踊っているそうです。というより、家内が一緒に踊らないと、いたく、機嫌が悪いそうです。その成果が発表会の踊りに現れています。幼稚園の先生方に感謝・感謝です。

 その日の夜は、興奮したせいか、だだをこねました。そこで、「そんなだだをこねる子は、サンタさんのプレゼントをもらえないぞ」と脅かしました。毎日、「サンタさん、サンタさん、プラレール運転手(オモチャです)をください」とお願いしている息子にとっては大問題です。大泣きで、何度も謝ります。そうすると、家内もなれたものです。家内が、サンタさんに電話をかけるふりをしながら「はい、(息子は)とてもいい子です。はい。はい。分かりました。伝えます」と電話を切り、「サンタさんはプレゼントを用意しているよ」と息子に言うと、ころっと泣きやみ、直ぐに寝付きました。4歳の息子はサンタさんを100%信じているようです。

追伸 発表会では、息子は舞台の一番はじで踊っていました。それを見て幼稚園の先生だった家内が、「何かしでかしそうな子どもは舞台の袖に配置し、何かあったら直ぐにひっこめるようにしておくのよ」と教えてくれました。なるほど、と思いました。

04/12/17(金)

[]契約成立 12:26 契約成立 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 契約成立 - 西川純のメモ 契約成立 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先だって、宇宙一厳しい西川研究室に所属したいという「変わった」2年生が5人いることが分かりました。本日、その学生さんと会いました。合って、最初に言ったことは、「何度も言ったことだけど、うちの研究室は本当に卒業研究をするよ。君らの友達の多くは、うちの研究室ほどはやらないと思うよ。だから、それを平均に考えたなら、うちの研究室は本当に厳しいよ。大変だと思うんじゃないかな~。先輩から聞いたでしょ。それでいいの?途中で、やっぱりやめだなんて言うぐらいだったら、今の段階で考え直して。本当にいいの?」と何度も聞きました。そして、全体ゼミと学年ゼミが毎週あり、そして個人ゼミがあること、そして、最終的には学会誌レベルの研究を目指すことを説明しました。また、部活に関しては、「ゼミは部活に近いと思うよ。つまり、君らはもう一つの部活に入ったことと同じだよ。決して部活をやめろとは言わないよ、でも、部活を理由にゼミをおろそかにしないでね。君らが所属している部活の中で、優先度の低い部活にはしないでね。」と言いました。しかし、先輩から十分聞いているので、よく分かっているようです。ここで契約成立です。直ちに、卒業研究のゼミでやる課題を与え、来週から開始です。

追伸 5人に何故、西川研究室に入りたいかを聞きました。様々でしたが、共通していたのは「教科にこだわらない」ということです。ちなみに5人の副免は英語、国語、幼稚園でした。一人の学生さんが「私は追い込まれないとやらないタイプなんで・・。ここに入ればやらされると思ったから」と言ったので、私は「それは正確じゃないよ。西川研究室はやらされるんじゃなくて、やらざるを得ない状況に追い込まれる研究室なんだよ」と言いました。5人は笑って理解しくれました。「やらされる」と「やらざるを得ない」の差は微妙ですが、後者の場合は「やる」と最終的に判断するのは当人です。

追伸2 このメモは2年生との契約書です。Mちゃん(以前はSさん)、Y(以前はT君)、R(以前はT君)、Kちゃん(以前はTさん)、Y(以前はNさん)へ。この契約書は誤り無いよね

[]今日という日 12:26 今日という日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 今日という日 - 西川純のメモ 今日という日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今日という日は色々なことがありました。

 1)学部2年生と契約が成立しました。

 2)群馬県からHさんが二泊三日の日程で研究室に遊びに来て、色々な人と語り合いました。

 3)研究室の忘年会がありました。(超短期留学のHさんも参加しました。)

 4)この忘年会に参加するため、実践調査をしているOさんが福岡県から飛んで来ました。(なんと日曜日にはトンボ帰りです)

 5)本当は参加予定のGさんが岐阜に急遽帰省しました。そして忘年会の前に連絡がありました。目出度く男子が産まれたそうです。母子共に健康。目出度い。

 6)研究室の関係者が結納を済ませ、苗字が変わることとなりました。寿で目出度い。

 そして

 7)息子が幼稚園のクリスマス発表会で歌と踊りをしました。私は参加できませんでしたが、家内がビデオに撮りました。それを見て、息子の成長を感じ、ウルウルしました。

 そして、明日も幼稚園のクリスマス発表会です。仕事のある家庭を考えて、同じ催しを2回繰り返すわけです。もちろん私は参加します。

04/12/16(木)

[]何を期待しているか 12:24 何を期待しているか - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 何を期待しているか - 西川純のメモ 何を期待しているか - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は「期待しているよ」と言います。それを説明したいと思います。

 学生さん・院生さんから「先生の期待に応えるデータを出しました」とか「先生の期待に応えら得ない結果しか出せませんでした」とか言われると、「え!?」と思います。これらの発言は、学生さん・院生さんが「私の期待」を想定し、それを目指しているときの発言です。

 私が「期待しているよ」と言うときには、「これこれの結果を出すのでは・・」と予想すること「も」あります。でも、本当に期待しているのは、そんなレベルのことではありません。私が期待しているのは、私が予想もつかないようなレベル、そして、それは私の考えが陳腐で愚かであることを気づかせてくれることです。私が予想がつけられるレベルであれば、そんな結果をいくら出されても、私自身がより高い次元に進めません。私を踏み台にして、私よりずっと高い次元に進んでくれれば、私はその後を進むことが出来ます。

 想像してください、私が予想もつかないようなことを明らかに出来たなら。いつもいつも「期待しているよ」攻撃を受けている私を、ぎゃぶんと言わせるようなことが出来たなら。どうします?気持ちがワクワクするでしょうね。どうやって私をぎゃふんと言わせられるか、作戦を練るでしょうね。一度私に語り始めたら、一気呵成に語るでしょう。私は、そのようなことを本当に期待しているんです。そして、私はゼミの皆さんは全て、それが可能なデータを持っているし、出せるはずだと「想定」しています。だから、指導教官をやってられるんです。

 そのためには、私がどう思うなんて関係なく、自分の研究に惚れなければなりません。そして、その自分が惚れた研究を自慢してください。

[]歴史から学ぶ 12:24 歴史から学ぶ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 歴史から学ぶ - 西川純のメモ 歴史から学ぶ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本学の大学院では教育史は必修科目ではありません。いまさら必修科目にする必要性は無いと思いますが、出来れば、教育史の本をせめて2,3冊は読んだ方が良いと思います。教育史を読むことによって、現在の議論を、相対化して冷静に見ることが出来ます。そして、結局、何も変わっていないことと、そして、変わっていない原因が分かります。

 文部科学省は学力低下を示すデータを公開しました。それに伴って、マスコミ各社は学力低下の声高に主張し、「ゆとり教育」の不備を主張します。でも、ちょっと前の「ゆとり教育」が始まる前のことを忘れたのでしょうか?その頃は「おちこぼれ」」、「詰め込み教育」をマスコミは非難していました。

 歴史を知らない人にとっては学力低下は新鮮に思えるでしょうが、歴史を読む人にとっては陳腐な話題です。義務教育が成立してから、何度も言われている議論です。古くはデューイの時代のエッセンシャリストとプログレッシブの対立、また、戦後まもなくの生活理科等、同じ対立構造が繰り返しています。つまり、「一定のものを伝えること」と「伝える子ども」のどちらを重視するかです。 一般には前者は学問中心主義(discipline center)、後者は児童中心主義(children center)といわれます。前者が強調されると、しばらくすると、詰め込みによる弊害が主張されます。その反動として、後者が強調され、しばらくすると、何も知らない学習者の弊害が主張されます。その反動として・・・。それが、100年以上前から、同じ枠組みで繰り返されています。

 二つを対立的に捉えている限りは、振り子の振動のように、二つの間を揺れ動き、一時期は行き過ぎることになります。結局、この対立を解決するためには、二つは矛盾するものではないという我々の考えしかないと思います。でも、我々の考えが世に受け入れるためには、それを受け入れるだけの世の構造が必要だと思います。以前のメモに書いているように、今までの教育が成立した根拠は、情報が特定の人間だけが 占有しているという構造に由来しているものです。しかし、現在は、その構造が変わりつつあると思います。でも、私のこの予想が間違っていたならば、今後も、10年ごとにマスコミが逆なことを主張し、それにおどって学校現場がオロオロするという構造は変わらないと思います。

追伸 今のマスコミの報道では、日本の順位が下がったことが強調されています。でも、冷静に見てください。日本より上位に位置づけられた国の名前を読んでください。その中に、どれだけ、あこがれる国があるでしょうか?それらの多くは中進国が主です。教育史が示すように、国が先進国になるに従って、実学から教養教育に重点が移ります。そして、国民全員が等しい教育を、等しいレベルで学ぶ国から、各人の志向性に伴って職業教育と学術教育に分かれていきます。 したがって、国が成熟するに従って、国民全体を調査対象とする平均点は相対的に下がります。だから、いわゆる先進国の点数は、必ずしも高くありません。

 ノーベル賞を人口比で多く取っている国と、教育調査の点数の相関が見られないことが分かるはずです。実は、ノーベル賞レベルの創造性を 育成する方法は、平均的なレベルアップでは成り立ちません。

 点数の上下に一喜一憂することはナンセンスです。「○○を知らない」、「○○も出来ない」という議論もバカバカしいと思います。自分子どもにとって、そして、国にとって、どんな人を育てたいという議論がなされず、○○を知らないという議論に終始することをガッカリしています。

04/12/12(日)

[]子どもを信じるということ 12:28 子どもを信じるということ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 子どもを信じるということ - 西川純のメモ 子どもを信じるということ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 子どもを信じると言いながら、信じられないことは多いように思います。例えば教育研究にも現れます。多くの実証的研究では、実験群と統制群に分け、実験群には教師が色々とこまかな仕掛けをします。そして、教師が思ったような行動をデータ化し実証します。

 我々は実験群と統制群に分けません。それは子どもは実験動物ではないので、善い指導法と悪い指導法に分けて教えることは倫理的に出来ないからです。それと、実験群と統制群に分けたとしても、実は、それほど統制できないということは今までの経験で分かっているからです。でも、もっと根本的な違いは、我々は狙ったことを出そうというより、子ども達の姿を通して自分たちが願っていることは何なのかを知ろうとしている点です。

 我々も最低限の仕掛けをします。でも、それは重要なことではないと思います。最も重要なのは、子どもを信じるという気持ちを持つことです。そうすれば、子どもは我々の思っている以上の素晴らしいことを連発してくれます。

 世の中には、○○メソッド、○○計算等の有効な教材があります。我々は、その教材の有効性を疑うつもりはありません。でも、それが全員に有効か、また、個人であっても、常に有効であると言う人がいたら、それは絶対に違うと断言できます。我々は、何が有効であるかを本当に決めることが出来るのは教師ではなく、子ども一人一人だと思います。そして、子どもはそれが出来ると信じています。そして、今までの研究で、出来ることを明らかにし続けています。だから、仕掛けは最低限度に押さえ、子ども達の姿からよりよい教育の姿を探ろうとしています。教師がよりよい教育の姿を定め、それを実験群にして、統制群との比較の中で実証するという研究とは全く逆です。

 大学教育でも同じです。どうも、大学の教師は、学生は○○を学び、次に、○○を学ばなければならないと考えている人が多いように思います。でも、私は思います。そんなことを言えるだけのデータがあるのか!そして、そのような学び方をして、もし結果が悪かったら責任を取れるのか!だから、私は多種多様なプログラムを用意し、学生さんが選択できるようにすれば、自ずと賢明な選択をすると信じています。ただし、教師が、というより大学が何もしなくても良いかと言えば、違います。それはクラスにおける信頼と放任の取り違えと同じです。大学ははっきりとした目標を与え、それを学生に内在化させなければなりません。教員養成系大学の場合、その目標は教員養成です。つまり、大学は教師になりたいという目標を学生さんに強く伝えることが仕事だと思います。それさえ成り立ては、多種多様なプログラムを用意すればいいはずです。バカな授業は最終的に淘汰されるはずです。(私のこの考えが楽観的に過ぎる、と思われたとしたら、それは子どもを信じられない、ということです)

[]三泊四日のツアーのお誘い 12:28 三泊四日のツアーのお誘い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 三泊四日のツアーのお誘い - 西川純のメモ 三泊四日のツアーのお誘い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々の考えを理解するもっとも善い方法は、研究室に所属し、2年間、「期待しているよ」の拷問に耐え、私を踏みつけるようにして、もっと高い境地に達するに勝る方法はありません。でも、全ての人がそれが可能というわけではありません。本を読み、メールで疑問をぶつけ、私と議論するというのもがもっとも現実的な方法の一つです。でも、その方法よりいい方法、でも、ちょっと大変な方法があります。それは、うちの研究室に二泊三日(出来れば、三泊四日)泊まり込みで来ることです。

 その期間、私は「延々」と語るつもりはありません。私も忙しい人間です。では、それだけの時間をかけて何をするかといえば、院生さん・学生さんとふれあって欲しいと思います。そのことによって得るものは何か?

 第一に、我々が本や学術論文で示しているものが、本当であることが分かります。

 第二に、ゼミ生の現職院生さんが語る言葉を通じて、学者のたわごとではなく、実践に本当に意味を持つことが分かります。

 第三に、我々の本で「○○である」とか「○○となった」とさらりと書いている言葉の背景に、どのようなデータの厚みと、学術的な手法があるかが分かります。

 第四に、雰囲気が分かります。これはちょっと説明がいります。我々が主張していることを本当に理解しているためには、学習者観・授業観・学校教育観が理解してもらわなければなりません。それらは「子ども達は有能である」という言葉に凝縮されますが、その言葉の意味を分かるためには、それを実践している我々のゼミの雰囲気を「感じて」もらうことが手っ取り早いと思います。

 でも、現場の仕事の中、二泊三日(それも土日ではなく)くることはとてつもなく大変なことです。でも、でも、それを来るような奇特な人は少なくありません。16日から群馬からHさんが来ます。院生の人に、そのことを話したら、「あ~、以前の○○さんのように接すれば良いんですよね」と直ぐに分かってもらいました。17日は研究室の忘年会ですので、参加してもらおうと思います。

追伸 ちなみに、大学には研修センターがあります。センターの空きがあり、休館日でなければ1泊朝食付きで二千円以下で泊まれます。

[]今年も間違えました 12:28 今年も間違えました - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 今年も間違えました - 西川純のメモ 今年も間違えました - 西川純のメモ のブックマークコメント

 毎年書いていることです。

 毎年、その年の院生さん、学生さんの研究成果がまとまる頃になると、「こんな凄い研究成果が出るのは私の生涯で何度あるのだろう・・」と思います。そして、「来年は、これほどまでは無理だろうな~」と思います。でも、今年も、その予想を裏切られました。

 今年の修士2年、修士1年、学部4年の研究は凄い!この成果をどのように世に還元したらいいか、頭を悩まします。また、OBの方も、「期待してください!」と挑戦状をたたきつけて、現場実践で大学院での成果を乗り越える成果を「自慢」する方もいます。それらは、来年の1月8日の臨床教科教育学会で発表されるはずです。現ゼミ生の方の成果のすごさは了解済みですが、OBの方が、どれだけウルウルさせてくれるか期待で、ワクワクです。

追伸 現在、現場実践研究でF県に戻っているOさんから以下のメールを最近いただきました。ウルウルしてしまいました。自分の愚かな囚われから解放してもらえました。Oさんを心配している関係者の方、ご安心あれ!

 『先週の授業の中で成績上位の生徒と成績中位の生徒の会話の中で思ったことです。成績上位の生徒が自分の考えを確かめたり発展させたりするために成績中位の生徒と交流している場面がありました。練習問題を解く段階での生徒同士の交流における役割は,教え手・学び手の場合が多くなりますが,学校知を構築する段階で生徒同士が交流する場合,単にどちらかが教え手・学び手になるだけではなく,自分の考えを確かめる,一緒に考えを作り上げるという関係が多くなると思います。とても当たり前なことですが,成績上位の生徒にとって,学び合いは教える役目になるだけではない,自分の考えを構築するうえで大切な場であるということになるでしょう。1つの会話の中で,教え手・学び手が入れ替わりながら知の構築がなされていくと思います。こうした会話をしている生徒同士の成績は同程度であるとは限らないということを立証したいと思いますが,今のところは近くの生徒同士で話し合っているだけですので,話し合う相手が固定しています。また,成績下位の生徒については積極的に交流しようという場面はあまり見られません。とにかく,学び合いが広がる環境作りをしていきたいと思います。

 うれしいこともありました。今まで,ノートに落書きばかりをしていた生徒が自分で課題に取り組み自分に納得できる考えをつくったことをうれしそうに報告してきました。単に教えてもらうだけよりも子どもは自ら学びたがっていると改めて感じます。更に,この生徒が,みんなと学び合うことは楽しいと感じられるような学級の文化ができれば,と思います。

 臨教セミナーの原稿を添付します。ご指導よろしくお願いいたします。』

追伸 Gさん、Mさん、Iさんへ、Oさんと議論したくなったでしょ!

04/12/10(金)

[]写真 12:30 写真 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 写真 - 西川純のメモ 写真 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は家族の写真をいっつも持っています。出張の際、寂しい時はそれをよく見ます。その写真の中で家内の子どもの頃(おそらく1歳未満)の写真が含まれます。じつにかわゆい。見るたびに思います。それを見るたびに、このかわゆい娘を私に託した両親の気持ちを感じます。息子 と結婚する方には、是非、息子の子どもの写真を送りたい、それによって息子を思う我々の気持ちを感じて欲しい。同時に、息子と結婚する方の子どもの ときの写真が欲しいと思います。それを見ることによって、その方のご両親の気持ちを感じ、私たちが息子を愛する気持ちと同じ気持ちで、その方を愛したいと思います。まだまだ先ですけど・・・・

[]ホームページ 12:30 ホームページ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ホームページ - 西川純のメモ ホームページ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々の研究によって、可視化は実に重要な意味を持っていることを学びました。この重要性は我々の中でも必ずし理解されているとは言えません。でも、とてもとても重要です。もっとも簡単な方法の一つがホームページです。このメモのその一つです。ホームページは不特定多数が見るものです。従って、表せるものも限られています。でも、それでも表現できることは無限です。私にとって、とても重要な手段です。

 表現すると言うことも大事ですが、読むということも大事です。少なくとも、私が知っている教え子を中心とした関係者のホームページは、自宅で電話回線を通じてインターネットにつないだ後、一通りは全部見ます。限られた表現方法の中で、語ることを読みとれることは多いと思います。

 ホームページを開設している人へ「ほぼ毎日、少なくとも二日に1回はよんでいる読者が一人はいます。」

 ホームページを開設していない人へ、「私は気にかけています・・・・」

 ホームページを開設しているが、私に教えてない人へ、「おしえてね」

[]意識革命 12:30 意識革命 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 意識革命 - 西川純のメモ 意識革命 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は、大学改革に関するシンポジウムに参加するため東京に出張しました。シンポジウムでは文部科学省の担当者の方が「教育学部の大学教員の意識改革無くして学校教育の改革はない」とおっしゃっていました。役人なんですが、実に率直に語っており、本当に改革しなければならないという熱意を感じました。会場に参加する人は、学部長か主事レベルの人ばかりです。私は会場の一隅に座っている一人として心の中で思いました。「教育学部の教員の中には意識改革している教員はいる!それほどバカな人間ばかりじゃない。すくなくとも新たな教員養成を担えるだけの教員はいる!ただ、その教員が大学の中で発言力を持ち、改革を実行できるだけの、人事・予算・教務のシステムが整備されていない!」と思いました。

 会議の最初の方で、「学校教育を変えるためには教員養成を変えなければならない」とおっしゃっていました。でも、「教員養成を変えるためには教育学部のシステムを変えなければならない」と思います。残念ながら、本日語られる殆どは、教員の性善説を前提にしているものでした。でも、何とかしようと思っているにも関わらず、そうできない大学教員がいることが意識化されていないようです。シンポジウムで語られている殆どが、今の熱意が冷めれば、もとの木阿弥になるだろうことが予想されます。

 私はある教科専門の若い先生が語ったことを忘れることが出来ません。その先生は「西川さん、教育学部にいるんだから学校現場に即した研究をしなければならないことは分かっている。でも、教授になるには教育とは関係ない論文の数で決まるのでどうしようもない・・」と語りました。シンポジウムに参加した偉い人は、そのような人の悩みをどれだけ分かっているのかな~・・と思いました。

04/12/08(水)

[]メモ 12:31 メモ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - メモ - 西川純のメモ メモ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近、ある院生さんから「このごろ先生が忙しくって、控え室に来ることが少なくなったせいか、集まりが悪いよ」と言われました。「ほ~」と思いました。熱血教師のモデルで考えれば、「俺がいないと駄目なんだ!」と悦に浸れるのでしょうね。でも、我々の考え方から言えば、教師がいないと成り立たない集団はあまり良い集団ではありません。でも、私はその院生さんの言葉に何か意味があるように直感しました。何故なんだろうと考えている内に、ある言葉が浮かびました。おそらく、多くの人にとっては分かりにくいことだし、私自身も完全に整理しているわけではありません。でも、忘れないうちにメモしたいと思います。

 人は、何らの外圧を受けていない状態では同じような人同士が集団を作り、出来るだけ等質になろうとします。しかし、外圧を受けると、違った人同士が集団を作り、異質さを容認するように思います。外圧というのは物騒な物言いですが、簡単に言えば目標です。己の気持ち一つでなんとでもならない、他者との関係で達成度が決まることです。おそらく、私自身が外圧のシンボルとして働いている場合、私の存在の有無が異学年集団の凝縮力に影響を与えるでしょう。でも、目標が本当に内在化したならば、私の存在は相対的に小さなものとなるはずです。いずれにせよ管理者の仕事は、外圧を意識化し、内在化することだと思います。

 以前のメモに書いたように、サルは基本的に等質集団(家族)という小集団を基本としています。人の進化は形成する集団の複雑さによるものだとするデータも出ています。つまり、人が人であるゆえんは、外圧を意識化し、それを内在化できるのではないかな~と思い始めました。とりとめがないですが、とりあえずメモります。

04/12/07(火)

[]今年も言います、厳しいぞ~ 12:32 今年も言います、厳しいぞ~ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 今年も言います、厳しいぞ~ - 西川純のメモ 今年も言います、厳しいぞ~ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 学部2年生が所属ゼミを決めるために私の所にも質問に来ました。西川研究室とはどんな研究室かという質問に対して、3つの特徴を述べました。

 第一は、教科学習をしている学習者・教師を研究対象としているが、教科には拘らない。

 おそらく学習臨床過程分野の先生方は、みな、「教科学習をしている学習者・教師を研究対象としている」という点では一致しており、それが教科の内容を研究対象としている他のコース、他の分野との大きな違いだと思います。しかし、研究対象としているのが特定の教科である先生が多く、私のように拘らず、結果としてゼミ生も多種多様というのは少数派です。

 第二は、現職院生、学卒院生、学部生がごちゃごちゃとした集団の中で研究を進めている。

 これは、学び合いや異学年を研究している我が研究室の当然の帰結です。このような運営をしている意味は、このメモを読まれている人であればお分かりのことだと思いますので、省略します。しかし、このような運営をしている研究室は本学の全コースでも二、三の研究室だと思います。大多数は、個人指導が中心ですし、せいぜい、院生のゼミと学部生のゼミを分けて運営しているぐらいでしょう。

 第三は、ちゃんとやっている。

 色々な学生さんから情報収集すると、驚くべき実態が分かります。それによれば、修士1年では講義の履修のみで、実際の研究をしていない研究室はかなり多いようです。卒業研究ともなるともっと凄く、カリキュラム上は3年から卒業研究が始まっているのに、実際に卒業研究をするのは4年の夏休み明け(即ち教員採用試験が終わってから)だそうです。そうなると、夏休み明けに、ちょちょいとアンケート調査をやって、終わり、だそうです。ところが、我が研究室は研究室所属が決定したとたんから卒業研究が始まります。従って、2年の12月、おそくとも1月からは卒業研究が始まります。当たり前ですが、大学院では修士1年から研究を始めています。私にとっては当たり前のことですが、我が研究室のゼミ生が一生懸命に研究をしていると、「大変ね~」と言われるそうです。

 以上、1~3の特徴は、単独であっても本学でもまれな特徴です。従って、3つの特徴を兼ね備えているのは我々だけだと思います。

 以上のことを質問に来た学生さんに述べた後、「うちは本学でも一番厳しいよ」と説明します。しかし、改めて言わなくても先輩から聞いているようです。「うちは厳しいけど、私が怒鳴ったり、怒ったりするという厳しさではありません。私はいつもニコニコしています。でも、いつの間にかやらざるを得ない状況に追い込まれるから厳しい研究室だと言われます。でも、厳しいけど、多くの得られる研究室だと自負していますし、そのことは先輩に聞いてみればいいよ。逆に言えば、多くを得られる研究室だけど、厳しいよ。卒業研究で何を求めるかは人それぞれだよ。よく考えてから、自分に合う研究室を選びなさい。」と言うことにしています。

 ある院生さんからは、「先生、そんなに厳しいぞ~、と言う必要はありませんよ。みんな知っていますよ。厳しいぞ~と言い過ぎると、誤解します。我々がやっていることは、ごく当たり前のこと をやっているだけのことで、だれでも出来るはずです。」と言われたことがあります。私も、実はそう思います。でも、我々が「当たり前と思っていること」をやっている研究室が少なく、多くの研究室がやっていることが当たり前と思っている人にとっては「厳しい」と思われるはずです。だから、ちゃんと説明し、正しく契約を結ぶことが、教師としてフェアーだと思うから、あえてしつこく言うことにします。でも、どんなにしつこく言っても、その私の言葉の意味を正しく捉えてくれる学生さんは毎年います。さて、今年は「宇宙一厳しい、西川研究室」に入りたいという奇特な学生さんはいるでしょうか?

04/12/06(月)

[]宜しくお願い致します 12:33 宜しくお願い致します - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 宜しくお願い致します - 西川純のメモ 宜しくお願い致します - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は全国各地に講演会のため出張します。数百人の人の前で話すこともありますし、校内研修のために数十人の人の前で話すこともあります。人数の違いはあっても、私にとっては、同じように大事な機会だと捉えています。

 数百人の前で話したとして、いったいどれだけの人の心に響かせることが出来るだろうか、と考えることがあります。私はせいぜい5、6人、まあ、数人だと考えています。不遜ながら、飽きさせるような講演はしません。おそらく、大多数の人に、それなりに心に響かせることは出来ていると思います。でも、講演の次の日にまで影響を与え、我々の本を買って 読んでみようとする先生、また、実践してみようとする先生は、それほどいないと思います。決して、日本の先生方が怠惰だとか、勉強不足だとかとは思いません。だって、講演会に参加しようとする先生なんですから、意識は高いに決まっています。でも、我々が求めているのは、小手先のテクニックを変えることを求めているのではなく、学習者観・授業観・学校観を変えることを求めています。これは大変です。講演会に来られるような先生であれば、毎日の授業を、大過なくこなすことが出来るような先生でしょう。だから、居心地の良い今の状態を捨てることを求めて、「はい分かりました」なんて変えられる人が多いわけありません。でも、数百人の人の前で話して、心に響かせることが出来る人が数人だとしても、私は意味があると思います。だって、一人の教師が変われば、その教師が生涯に教えるであろう数千人の人に、少なくとも心地よい1年間を与えることが出来ます。これは凄いことです。一方、校内研修のために十数人の人の前で話すことが出来れば、質疑応答も出来るかも知れません、そしたら数人の心に響かせることが出来るかも知れません。であれば、数百人の人に語ると同じ意味を持つことも出来ます。少なくとも、数百人の講演会でも、十数人の講演会でも、私を講演会に呼んでくれた人の心には響かせたいと願っています。

 先日、OBから以下のメールが来ました。

 『西川先生、○○です。相変わらずの忙しさのようで,さすが西川先生と思っております。

 さて、私が西川研究室の伝道師になってしまった1日を報告します。この前、附属中でレポートを持ち寄り討論をする会があり、1分科会約10名程を前にし、各自発表討論をしました。そこで「3年間分のじゃれあい」を質的と量的にまとめ主事を前に質的な部分だけのプレゼンを作りこういうレポートが現場でどう受けるのかを知りたく発表した次第です。それまでにかなり異端な発言をしていた関係で、やりづらかったのは確かです。「授業中何もせず、ただ子どもの声を聞いているだけの教師」という私の語りによって、会が盛り上がりました。引用文献に西川先生の本を書いておいたからか附属中の先生が「私語」の本(静かに!を言わない授業)を取りだし附属ではこのような授業ができないと嘆きました。ついでに○○県でまだ講演をしたことがないと西川先生を売り込んでもきましたよ。現場でじゃれあうような授業を望んでいる若い先生方が多くいることがよくわかりました。会が終わってもいろんな先生方から声をかけられ普段の授業を見せて欲しいという要望もあったりとこのような授業が求められているんだという実感もわきました。

 若い先生方が、先輩であり同僚の教師からあまりこのようなことを学ぶ機会がないことの発言がありました。司会の先生(私より上ですね)も「私語」の本を購入していたんですよ。つまり、どんな教師も学び合う教室を求めていることは、確かなようです。また、大学での知見(現在の学習論)との接点を求めていることもわかりました。「これから1年2年ではできないとしても5年後変わっている自分になる」といい、自ら授業改善のための本当の研究をしたいと語る若い先生も現れました。そろそろ上越教育大学の出番ではないでしょうか。もう少しうまくPRしていただければ、このような若い先生方を救うことができると思うのですが。いかがなものでしょうか。長く書きました。』

04/12/04(土)

[]言っていること、やっていること 12:35 言っていること、やっていること - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 言っていること、やっていること - 西川純のメモ 言っていること、やっていること - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は教育実習に行く学生さんに、「言いたいことと、伝わることは違います。言いたいことを全部詰め込むのが教育実習生の冒しがちな誤りです。5つのことを語り、一つも伝えられないより、1つのことを確実に伝えることが教師だよ。」と諭します。

 私は研究授業における担当者の語りが気になります。多くの教師は、自分が思ったとおりに子どもが動いたことを誇ります。例えば、「予想される子どもの反応」などは最たるものです。でも、我々は、自分が思いもつかないレベルまで達することを喜び、誇ります。つまり、自分自身のなしたことを誇るのではなく、学習者を誇ることによって、管理者としての自身を誇るべきだと思います。

 一昨日の講演会に参加したOBから以下のようなメールを頂きました。

『先生の講演は、おもしろかった。ちゃんと、聞かせるところ、笑わせるところ、飽きずに、寝ることなく聞けました。しかし、もう少しこうしたら、もっとよくなると思った点を述べたいと思います。

1.もう少し、ゆっくりしゃべられる所を意識されては、どうでしょうか。先生がステージに立たれたとき、「あっ、緊張されている」と直感しました。いつもの西川先生よりも固い表情でした。話には勢いを感じました。研究に自信を持って話されている姿から、研究への自信と、価値を感じました。しかし、話に力が入る分、話すスピードが速くなり、せっかくいいことを話をされているのに、心にしみこみません。「おしいな。もう少し、ここはゆっくり、小さな声で話されると、心にすとんと落ちるのにな」と思いました。

2.データー、グラフがあるとなー今回の講演では、データーやグラフが少なかったようです。先生の話を聞いて、「この次のシートはあのデーターが示されるな」と思ったら、「OOという成果があがった」の一言。ちょっと物足りない、データーで語ってない気がした。現場の先生だからこそ、データー、数値に弱く、示されると「納得!」という場面があります。でも先生のことだから、何か意図があってだと思います。以上、一教諭が生意気なことを申し上げてすみません。でも先生からは、もっとよくなっていただきたという親心からです。お許しください。』

 このメールを頂いて、まさにその通りだと思いました。原因は与えられた時間に比べて、話す内容が多すぎるためです。話すべきことを絞るべきであることは講演の前から自覚していました。しかし、私の中にある、OBを自慢したいという願望に負けてしまった結果です。でも、どうしても自慢したかった。だって、私を何度もウルウルさしてくれた研究なんですから。そして、ちょうど二人のOBの研究が、講演会のテーマにドンピシャリなんです。

 ということで、昨日の講演は、私の講演としては中の下なのだと思います。反省~。でも、でも、もう一度、同じ講演会を頼まれたら、きっと同じ誤りを犯すだろうな~。それにしても、言っていることと、やっていることが違う点は、愚かな教師の典型です。 

[]昨日 12:35 昨日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 昨日 - 西川純のメモ 昨日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日は新潟市の中学校で講演会をしました。その中学校は新潟市の中心校で名の通った学校です。先生方も熱心な方々ばかりです。無知なため、その意味はよく分かりませんでした。院生のMさんから面白いことを聞きました。曰く、「学校の同僚に先生のことを話しても、なかなかピンと分かってもらえない。でも、その学校で講演会をする、と説明すると、凄く感心してくれる」とのことでした。また、講演会の後に、今度講演会にいく学校の先生から「○○中学校の研究発表会に講師としておみえになっておられる先生が,一公立学校の校内研修会でおいでいただくことに大変恐縮しております。」というメールを頂きました。

 講演会の前には、私が上越に赴任した最初に論文指導をした院生さん(もちろん、私より年上)で、現在校長の方と一緒にご飯を食べました。じつに面白く、ためになる話を聞かせて頂きました。その後、講演会に行き、語りました。気持ちよく語ることが出来ました。題目としては「フロンティアの先のフロンティア」という題で、本当の学力向上フロンティアを実現するためには学び合いが必要であり、異学年学習が必要だと言うことを語りました。講演会では、 下越・中越のOBであるMさんとKさんの研究をしゃべりながら「自慢」しました。その会場の最前列にKさんが座っていました。Kさんから教えて貰ったことを、偉そうに語ってきました。ただ、痛恨事が一つあります。私は講演会ではマイクを使わず地声で語ることを自らに課したルールです。地声で十分に語れるという自信があるからです。ところが、会場の担当の先生からピンマイクを渡されました。曰く「聞きにくいので、マイクをつけて下さい」とのことでした。内心、ガックとしました。年のせいかもしれません。

 その後、学校としての打ち上げ会の前に、校長先生と二人だけで飲みに行きました。大校長なのですが、実に気さくで明るい先生でした。楽しく、ためになる話をいっぱい出来ました。講演することで「箔」がつくんですから、校長先生と二人だけで飲むことでもっと「箔」がつくのでしょうねMさん!

 1時間半程度飲んでから、学校の打ち上げ会に合流しました。とても暖かい会でした。本日の会に向けて、教職員、事務職員、用務職員、給食職員が一丸になって頑張っていることがよく分かります。また、研究会の総括を各担当者が話していましたが、短くも当を得た話ばかりで、だらだらとした話は一つもありません。これだけでも優秀な先生方が集まった学校であり、それが成立する集団の裏打ちがあることが察せられます。とても楽しく飲めました。もう一つ良かったのは、若手の先生方です。さっと酒を勧めると、ゴチャゴチャ言わずに、すっとのみ、更に、勧めると、さっと飲んでくれます。こういう若い人は、大学の学生さんでも希です。

 残念ながら上越に帰る最終バスの時間があるので中座しました。恐縮ながら、教頭先生に鞄持ちをさせて、バス停までお見送りを頂きました。途中、有意義に話すことが出来ました。2時間かけて上越に帰り、風呂に入って、家族と一緒に寝ました。

04/12/02(木)

[]40を引く 12:36 40を引く - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 40を引く - 西川純のメモ 40を引く - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近は、ものすご~く忙しいです。そのため、メモの更新も滞りがちです。でも、20分間時間が出来たので、ちょっとメモります。

 昨日、自宅で新聞を読むと銀行破綻の原因をつくり実刑判決を受けた旧頭取が死亡したという記事が載っておりました。そこには、写真と略歴が書かれています。それを読んでいるときに、無意識にその人の年齢から40を引いていることに気づきました。そう考えると、死亡記事を見ると、大抵、無意識に40を引いた年齢を思い浮かべることをしていることに気づきました。

 私は40になって子どもを授かりました。息子が成長する過程を長く見たいと願います。死亡記事で紹介された人が75歳であるならば、私は「この年齢まで生きれば、息子が35歳になった姿を見れるんだろうな~」と考え、自分が35歳だったときを思い出します。そして、その年になったときの息子を想像します。出来れば100歳まで生きて、息子が赤いちゃんちゃんこを着ている姿を見たいな~と思います。