西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
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04/06/30(水)

[]出版決定 09:04 出版決定 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 出版決定 - 西川純のメモ 出版決定 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 西川研究室の研究成果をまとめた7冊目の本の出版が決まりました。今年3月に修了されたIさん、Oさんの研究成果を中心に、それ以前の研究にも現れた立ち歩きの素晴らしさを明らかにする研究成果をまとめたものです。今回は初めての試みとして、我々の授業の様子を1時間分、まるごと載せることにしました。それを通して、どのようにしたら「立ち歩いてくれるか」をリアルにイメージすることが出来ると思います。ところで、本の題目はなんだと思います?前作は私語の素晴らしさを明らかにする本で、書名は「「静かに !」を言わない授業」でした。今回は、断ち歩きの素晴らしさを明らかにする本です。分かりました?そうです、「「座りなさい!」を言わない授業」という書名を、今のところ出版社に提案しているところです。初稿のゲラが手にはいるのが8月上旬で、本が書店に並ぶのが9月か10月あたりだと思います。

追伸 本当は、一昨年修了されたKさん、Mさん、Yさんの研究成果を中心とした、異学年学習の研究成果をまとめた本を先に出す予定でした。しかし、現在のM2のYmさんが面白い結果を出しているので、それを収録したものを出そうと思っています。つまり、Ymさんの研究の進行に伴って、OBの研究成果が出せるわけです(と、書いて、誰かさんにプレッシャーを与える)。でも、異学年学習に関しては、現在の学部3年が面白い視点で研究成果を出しそうなので、それにYmさんの研究を収録し、現在までの成果を早めに出そうかな、とも考えています。う~む、難しい。でも、贅沢な悩みです。

04/06/27(日)

[]自慢 09:04 自慢 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 自慢 - 西川純のメモ 自慢 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 Mちゃんの研究(つまりK閣下の実践)で示されるように、学び合う教室が成立すれば、子ども達は「これいい?」という質問ではなく、「これいいでしょう!」と自慢するようになります。つまり、姑息な手段で教師から情報を得て成績を上げようとするのが無意味になり、教師は自分の成果を喜んでくれる存在に変わります。それ故、学習者から自慢されるようになったら、喜ぶべきです。逆に、「これいい?」という質問を受けたり、教師に話をする際、絶えず教師の顔色をうかがうようでは黄色信号です。

 しかし、自慢にも色々なものがあります。へきへきするような、また、あきれるような自慢もあります。良い自慢には二つの条件が必要だと思います。第一に、そのことが両者とも興味があることであることです。私の学生時代、友人の部屋で飯を食った時のことです。オートバイ狂の彼は、自分のオートバイの排気音をテープに録音し、それを食事中ず~っと流していました。そして、この音の特徴はバイクのどの特徴に対応するかを微にいり細にいり説明しました。バイクに全く興味のない私は、ず~っと生返事でした。しかし、両者が興味があればいい自慢かといえは否です。興味がありつつも、両者とも満たされた内容である必要があります。それが成り立たないと、一方が優越感に浸るための自慢になってしまいます。ただし、必ずしも両者とも同じ程度である必要はありません。重要なのは両者ともそのことに関して満足している内容である必要があります。

 昨日は博士認定試験のためのIさんの発表を拝聴しました。良く了解できる内容なので、ぼ~っと聞けました。発表が終わり、質疑が終わり、席を立とうとした時です。Iさんが「西川先生、ちょっと見てください」と呼び止められました。そして、プロジェクターで大写しになったハイハイの息子さんを見せてくれました。そして、「私にそっくりです」とニコニコして言いました。自慢です。Iさんはなかなか子宝に恵まれませんでした。そのことは私と同じです。だから、お子さまが出来たと聞いた時、本当に嬉しかった。両者とも子どもに興味があります。そして、両者とも子どもを授かったことを満足しています。つまり、良い自慢です。

 今から7、8年前に卒業生結婚式に呼ばれました。そことき祝辞を頼まれました。その時、以下のようなことを語りました。

 『人の幸福を喜べないことは悲しい。人の幸福を喜ぶためには、まず、自分が幸福にならなければなりません。だから、他人のためにも幸福になって下さい。』

 就職でき、妻を得、子を授かった幸福を私は感謝します。人の幸福は職・結婚子どもばかりではありません。でも、いずれにせよ、幸福であらねばならないと思います。Iさんは、人の幸福を素直に喜べる幸福を自慢したのだとおもいます。

追伸 Iさんの息子さんはとても可愛かった。でも、私の息子の方が可愛いと思いました。同時に、Iさんは、Iさんの息子さんの方が私の息子(私の研究室には大写しの写真が何枚も飾っています)より可愛いと思っていることを、ごく、当然に理解しています。つまり、両者の興味が同じであるという条件は、正確に言えば、興味が同じであり、かつ、その興味の対象は複数の到達点があることが必要なのかも知れません。

04/06/25(金)

[]意外な笑い 13:00 意外な笑い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 意外な笑い - 西川純のメモ 意外な笑い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 笑われることと、笑わすことは全然違います。

 昨日は百数十人の院生さんの前で語りました。百人以上を前でマイク無しで語るとなると、授業と言うより、運動です。でも、気持ちよく語りました。30人以上の話となれば、講演会と同じです。練りに練った演目です。どこで、種をまき、どこで刈り取るかも計算し尽くした話です。従って、「ここで笑うな」も予想済です。また、笑いをどの程度まで伸ばすかも織り込み済みです。従って、自分が ぜんぜん意図していない部分で笑われると、「ドッキ」とします。でも、それが発見となります。

 最近の授業でも1カ所ありました。30人の院生さんを前に、2年前に修了されたMさんの研究を紹介しながら、我々の研究室の考える情報教育を語りました。その中で、現場に行って2週間たった時に、憔悴して帰ってきたMさんのことを話しました。我々の考える授業が成立するためには、2~4週間かかります。何故なら、我々は直ぐに現れるが直ぐに消えるテクニックではなく、教師の考え方を重視します。教師の考え方が子どもに現れるには2~4週間かかりますが、逆に、一度現れると、ず~~っと継続するという特徴があります。Mさんは2週間経っても、子どもに変化が現れないので、落ち込んで、従来の授業の考え方に戻ろうとしました。その時の話です。

 私が語ったことは、「あなたの方が小学校教育に関してはプロだから、あなたが駄目だというならば、それは正しいのだと思います。でも、我々の考えの正しさを歴代の現場先生である院生さん達が証明し続けています。私を信じられなくても、歴代の先輩を信じて欲しい。」と言って送り出しました。そして、その2週間後(つまり実践を始めて4週間)たったとき私に会った時は、Mさんが実践での自信を持って帰ってきました。そのような話に関してです。

 私が意図しなかった時に笑われたのは、私が「あなたの方が小学校教育に関してはプロだから・・・」という部分で、院生さん達が笑った時です。内心「え!?」とおもってどきまぎしました。私にとっては、当たり前すぎるほど、当たり前です。だって、私は小学校で教えた経験が全くありません。一方、Mさんは10年以上の経験があります。だから、私より、圧倒的に小学校教育に関してプロであることは確かです。

 だから、そこで院生さん達が笑ったのが、何故か暫く分かりませんでした。しかし、暫くたってなんとなく分かったような気がします。それは、大学教育を教えていると、学校現場に関しても分かっているのではないか、と単純に誤解しているのではないか、と思いました。馬鹿げた話です。でも、大学教師の中にも、馬鹿げたことを本気で信じている人がいます。例えば、小学校で10年教えた先生に対して、小学校先生と同じ立場で「教えられる」と思っている人がいることに驚きます。我々、大学教師が出来るのは、研究を通して考えることを、現場先生に提案できることだと思います。そして、その提案を判断するのは現場先生です。だから、本気で目の前にいる現場10年選手より小学校で教えられると思っている大学教師がいると、心の底からバカだと思います。もちろん、私が経験した高校であっても、私は10年は教えられなかったんですから、小学校と同じです。それに、私にとって「あなたがプロだ」というスタンスはとても大事です。だって、西川研究室の基本は自己判断・自己責任ですから。私が偉そうなことをいえば、結果に関して全て一人で背負わなければなりません。でも、「あなたがプロだ」というスタンスでいる限り、現職院生さんはプロとしての見識で自身の実践研究を計画・実践するはずですから。

[]学年 13:00 学年 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学年 - 西川純のメモ 学年 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 非常に不思議なことがあります。それは、本学の研究室で、M1M2が別々な部屋にいるという研究室が多いと言うことです。だって想像してください。学校の職員室が幾つかの部屋に分かれていて、それぞれが、新採教員の部屋、経験5年以下の教員の部屋、経験10年程度の教員の部屋、経験20年の教員の部屋、教頭・主任の部屋に分かれていたら・・・、とてつもなく馬鹿げたことです。

 西川研究室ならば、そのバカさかげんがよく分かると思います。そして、もし、別々な部屋に入れられたら、どんなに困るかも良くお分かりです。なのに、そのように運営している研究室は、大学では少数だと思われます。ちなみに、今年途中に、学部学生大学院生を同じ部屋に入れることがゼミ生の中で着々と計画されています。このことは私自身も以前からやろうと思っていましたし、ゼミ生の中からも検討して欲しいとの希望がありました。しかし、従来の戸北・西川研究室の所帯はあまりにも大きく(下手なコースより多い所帯です)ので、学部生・大学院生を一緒に入れるような部屋を確保出来ませんでした。

 私は異質なメンバーが多く集まれば、より安定し、質の高い達成がなされると信じています。本学赴任後18年目の大実験です。でも、確信があります。それが動き始めれば、過去のどの学年よりも質の高い集団が形成されるはずです。

04/06/23(水)

[]またまた目標と方法 13:01 またまた目標と方法 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - またまた目標と方法 - 西川純のメモ またまた目標と方法 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日は午前中は柏崎中学校先生に講演をしてきました。帰ってきて、午後一番は4年生のゼミです。彼らの話を聞いていて、心地よかった。それからMさんの個人ゼミです。その中で書かねばと思うことを書きます。我が研究室の定番の公案の中に「目標と方法」ということがあります。おそらく、先のメモの「学び合うことを目標とすべきか」と同じように、なんで、その問いが重要なのかがわかりにくいと思います。逆に言えば、その問いが重要だと認識されるならば、我々の同じ志をもっているということです。

 まず、目標と方法は絶対的なものではなく、相対的なものです。例えば、どんな目標であったとしても、それに対して「それは何のため」と問いかけて出てくるものに対しては方法になります。逆に、どんな方法であっても、に対して「どのようにして」と問いかけて出てくるものに対しては目標となります。

 我々は教師は目標を語り、方法は学習者に任せるべきだ、と主張しています。それでは教師はどのような目標を語るべきなのでしょうか?それは、教師がどうしても実現したいと思う願いです。また、動かし得ない条件、例えば校長の職務上の命令、また、指導要領、また、保護者・教員集団の力関係等、教師は様々な限定の中で生きています。置かれた状況の中で、どうしても動かし得ないもの、それが目標です。逆にいえば、置かれた状況の中で、教師が得られる最高の成果が目標です。

 次に、授業の本当の主体者は教師であって、子どもではない、ということです。目標の設定という、最も重要部分は教師が握っています。私は子どもが主体者になるべきだと主張しますが、それは、目標に対する方法を決定する主体者であって、目標を決定する主体者ではありません。もし、それを教師が放棄したならば学校教育という公的な教育を放棄することになります。では、教師が目標設定の主体者であったとして、専制的になれるか?と言えば否です。教師はどうしようもない条件を背負って子ども達に対峙します。教師はその背負った条件を子ども達に納得してもらわなければならないという、責務を負っています。それが教師の職責だと思います。そして、それが出来ること、すなわち、子ども達が教師が設定する目標に納得し、やる気を持たせることが出来る、それが教師の職能だと思います。

 最後に、教師は「どうしようもない条件」を子ども達に納得させるために、集団の力を使う場合があります。具体的には、話し合わせることをすることがあります。その結果子ども達が「やりたい!」と言い出すでしょう。また、そうさせられるのが教師の力量です。そのために、何が必要かは我々は知っています。でも、仮にそうなったとしても、そうなったのは自分の責任であることを自覚しなければなりません。自分が求めた目標であるのに、その責任を回避することはアンフェアーです。しかし、ちゃんと説明し、そして、子どもたちが納得し「やる!」と言った後に、「約束したよね(もしくは納得したよね)」と契約を確認することはフェアーです。

04/06/21(月)

[]指輪 13:15 指輪 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 指輪 - 西川純のメモ 指輪 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 学生時代、私は指輪に凝っていました。両の手の親指と、左手の薬指以外は1、2個の指輪を付けていました。その頃のお気に入りは、いぶし銀でオニキスを入れた、凝った作りの指輪でした。当時の筑波大学で同級生は千五百人でしたが、男で指輪をしていたのは私だけだと思います。今で言えば、鼻輪を付けているようなものです。思い返すと、本当に変な学生でした。

 結婚してからは、左手の薬指に結婚指輪と結婚10年記念の指輪を付けています。ところが、何故か指がかゆい。見ると薬指が赤くなっています。そこで、久しぶりに指輪を取って回復させることにしました。久しぶりのノー指輪です。何か変な感じです。

[]たこ焼き 13:15 たこ焼き - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - たこ焼き - 西川純のメモ たこ焼き - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は、我が研究室のたこ焼きパーティです。前回の会は参加できませんでした。しかし、私のタイムテーブルに合わせて夕方4時半から開始です。美味しかった。暫くすると、バラバラと授業が終わった学部学生さんが集まり始めました。その段階で、「西川二等兵」は愛する家族の元に返りました。未だ、掲示板等の更新がありません。ということは可能性は二つです。第一は、約6時間経過した今も継続している。第二は、参加メンバーが酒をしこたま飲んで、更新することを忘れている。いずれにしても、健全です。Iさん、美味しかったよ、ありがとう!Oさん、心配り、ありがとう!

追伸 上記を自宅から送ったら、ホームページが更新されているのを発見しました。ご苦労様。

04/06/20(日)

[]父の日 13:16 父の日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 父の日 - 西川純のメモ 父の日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先日は、父の日前夜祭ということで焼き肉屋(貧乏人なので贅沢と言えば焼き肉か寿司しか思いつきません)に行きました。本日は、朝一番に息子から父の日プレゼントを貰いました。幼稚園で作った写真立てです。それには「おとうさんありがとう」と書かれています。そして、息子から「おとうさんありがとう」と言われ、チュをもらいました。大満足です。本日は、自宅で晩酌です。特段イベントはありませんが、良い日です。

04/06/19(土)

[]結果論 13:17 結果論 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 結果論 - 西川純のメモ 結果論 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今から3年前の2001年5月8日に「確率論」というメモを書きました。格言で言えば「天網恢々疎にして漏らさず」というところです。一定以上の頻度で観察を続ければ、かなりの正確さで実態を明らかにすることが出来ます。しかし、何回も観察をしなくても、もっと簡単に明らかにすることが出来ます。それは結果です。

 下手の横好きですが、囲碁将棋に凝ったことがあります。両者を経験して感ずるのは、将棋は下手がまぐれに勝つことはあり得るが、囲碁はそのようなことが無いゲームのように思います(もちろんプロレベルでは、将棋もそうでしょうが)。囲碁は、盤面のそれぞれの場所で小さな戦いが行われます。しかし、一つの局地的な戦いで勝負が決まるのではありません。小さな勝負に負けたとしても、別なところで挽回することが出来ます。いや、意図的に小さな勝負に負けることによって、大きな勝負に勝つことが出来ます。卒業研究修士研修は2年間の長丁場の囲碁のようなものです。局地的な勝ち負けのレベルを超えて、それらの蓄積の上で大局的な勝負が決まります。私の経験によれば、凡庸な能力の人であったとしても、最初の半年で死にものぐるいで勉強(具体的には最低8時間以上の時間を費やす)し、それ以降は、毎日(一日の欠落もなくです)3時間程度の研究を行えば、かなり質のいい学術論文レフリー付きの学会レベル)が成り立つはずです。だから、結果だけ見れば、個々の局面を見る必要がありません。

 このことが本当はそうだとみんな分かっているから、やっていない人間が「結果ではなく、過程を見てくれ」と言うのです。そして、やっている人間は、「ごちゃごちゃいわずに、結果を見てくれ」と言うのです。過程は、いくらでも誤魔化せますし、演技も出来ます。でも、結果は誤魔化せませんし、演技も出来ません。だから、教師は「結果だけを見ているよ」と言うことによって、学習者が誤魔化したり、演技したりするという無意味エネルギー損失を避けることが出来ます。

04/06/18(金)

[]も 13:18 も - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - も - 西川純のメモ も - 西川純のメモ のブックマークコメント

 指導教官と今の段階でも「話したことがない」という研究室が存在する、ということを知りビックリしました。その話を聞いたMさんが、思わず、「そういうのも大変ね」と口走りました。それを聞いた私は、「いま、も、って言ったよね」と言うと、Mさんは「ばれました」とニコニコ言いました。

 Mさんとは2002年の冬に初めて合い、2003年の夏からはメールのやりとり頻繁にしました。そして、入学後は週に、個人ゼミ(私とMさんと二人だけのゼミ)、学年ゼミ(同じM1の4人でのゼミ)、そして全体ゼミ(学部3年、4年、修士1年、2年の15人でのゼミ)をこなしています。それを通して、「自身の目的と自己責任の原則」の再確認(簡単に言えばプレッシャー)をします。その他、私と会うたびごとの馬鹿話を通しての、「自身の目的と自己責任の原則」の再確認(くりかえしますが、簡単に言えばプレッシャー)をうけます。それゆえ、思わず「も」と言ったと思います。

 今までの私の人生で、4度、苦しかった時期があります。いずれも長期間苦しみました。その期間は、寝る際、天井を見つめました。そして、思いました。「あ~、あの天井が岩の固まりで、今、自分に落ちてきたら苦しまずに死ねるよな~」と寝るたびに思いました。その苦しみを脱する方法は、目前の問題を解決するために、死にものぐるいで「もがく」しかありませんでした。たしかに、目前の問題を解決することは楽ではありません、苦しかった。でも、天井を見つめながら、どうしようもなく時間が過ぎることを恐れるよりは、ず~っと楽でした。

 今思い出しても、その4度は地獄で、思い出したくもありません。でも、その4度の苦しみで、もがいたからこそ、今の自分があります。その4度の地獄を逃げたり、先延ばししたり、さらに、その地獄の根本原因を気づかなかったりいたら、と思うと、空恐ろしくなります。今、自身のおかれている現状を見据え、その中で可能な望ましい未来を正しく評価すれば、人生において苦しみを感ずるはずです。しかし、その苦しみが強ければ強いほど、それを乗り越えた時に得られるものも大きいはずです。

 私の味わった2番目の地獄は、私が大学院1年の冬です。自身の未来に対して、希望と同時に不安を感じ、そして、その決定を1年以内にしなければならないというタイムリミットもありました。何かをしなければならない、と思いつつ、何をしなければならないか、それが分かりませんでした。大学院入学後からずっと、毎日11時間以上、研究 しつつけました。それでも、先が見えず、不安で不安でしょうがありませんでした。努力しても、努力しても、挫折し、全てが無駄に見えたのが修士1年の冬でした。でも、とにかく、もがきました。そのもがきの結果、山を乗り越え、その結果として、レフリー付き論文4つ(うち1編は国際誌)、その他の論文2つ、そして、東京都に高校教師として採用されました。失礼ながら、私が大学院で味わった地獄を味った人がどれだけいるでしょうか?もし味わったならば、私程度の業績はあげているはずです。

 しかし、私と同じ苦しみを院生さん・学生さんに味あわせたくありません。だから、「自身の目的と自己責任の原則」の再確認してもらいます。そして、自分自身で問題をため込むのではなく、他者の援助を受けられるような場を確保したいと思います。もちろん、「自身の目的と自己責任の原則」の再確認をしなくても、自身で再確認が出来る人もいます。また、他者の援助が受けられなくとも課題達成が出来る人もいます。でも、多くは挫折し、結局は目標を安易なものに変換し、合理化します。私の場合は、運が良かっただけなのかも知れません。私は指導教官にも恵まれたし、仲間にも恵まれました。しかし、それをえら得たのは、M1の冬の地獄を越えてからです。

 「も」の大変さ、でも、それがなければ、私の味わった地獄があるか、それ以上の可能性があるのは、目標を安易なものに変換し、自身を誤魔化すことです。そして、本来みられる山を見ずに2年間を過ごすことです。それ故、指導教官として、一片の迷いもなく「も」を招来する場を設定します。

04/06/14(月)

[]教材屋 13:19 教材屋 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教材屋 - 西川純のメモ 教材屋 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は快晴でしたので、久しぶりに自転車に乗って大学に行きました。途中、田圃の真ん中の道を走り、用水を眺めました。そのとき、「あ~、あそこをさらうとドジョウやカワニナやタニシがいるだろうな。あのポイントに網を張り、おえばメダカやヨシノボリがとれるな。」と思いながらウキウキしました。その時、教材開発が大好きな先生方の気持ちがよく分かりました。つまり、教材という教育材を作ろうという目標よりも、まず、自分が楽しいことをやっているのだと分かりました。私も、高校時代は、自然科学部に所属し3年間のうち700日以上は蝶を追いかけていました。熱い炎天下の中、じっと蝶道(蝶は決まったルートを通って飛びます)にまって蝶を捕まえていましたが、とにかく楽しかった。その気持ちが教師になっても、研究者になっても、ずっと維持しているんですね。とても良いことだと思います。そして教師として尊敬も出来ますし、好きでもあります。でも、その多くの人には二つの余り良くない共通点があります。

 第一は、自分が楽しいこと(ためになること)は子どもは楽しいことだ(ためになること)だと無邪気に信じている点です。だから、多くの教材開発研究では、その教材の背景となる学問に関する分析は詳細です。例えば、物理学や化学の研究かと見まがうほど、詳細な物理的、化学的分析を行い、それに基づくグラフがつけられています。ところが、その教材を、子どもたちが本当に楽しかったか(ためになったか)を明らかにする分析は皆無か、片手間(少なくとも背景となる学問に関する分析に比べれば極めて貧弱)です。なぜ、そうなるかと 言えば、自分が楽しかった(ためになった)のだから、子どもにとって楽しくなる(ためになる)ことは無前提に信じ切っています。でも、本当でしょうか。

 私は、息子を写したビデオを何時間見ても飽きません。特段の変化もなく、ダラダラと息子を映している映像であっても、そこに写る息子の表情・仕草を見て、見飽きることはありません。でも、それを他人様に見せたらどうでしょうか?おそらく、表情は面白そうに見せますが、腹の中では「なんて奴だ」と思うのではないでしょうか?認知心理学的にいっても、あることに熟達している人と未熟な人では、見るポイントも、聞くポイントも違います。ましてや、面白いと思うポイントも違います。どうも、自分が面白いということに溺れ、教師向けの表情をしている子どもの姿を、本気で信じてしまうほど無邪気なのだと思います。

 第二に、第一の裏返しとして、自分の面白くないこと(ためにならないこと)は無条件に、子どもにとって面白くないこと(ためにならないこと)と考えているようです。でも、「笑われることと、笑わすことは違う」とよく言われます。プロの落語家は、100年以上前の古典落語、そして自らも数千回演じた演目を、始めて語ったような新鮮さで語ることが出来ます。彼にとっては、特別に目を引く演目、あっと驚く演目ではありません。しかし、それを語って、 聴衆を笑い・泣かせることが出来ます。私はそれがプロだと思います。だから、特別に目を引く教材、あっと驚く教材が重要なのではなく、教科書の中で使い古された教材を、どのように料理するかにプロとしての教師の技量が問われます。だって、授業は毎日毎日の積み重ねである1年を、さらに十数年間積み重ねる過程です。特別に目を引く教材、あっと驚く教材で埋められる部分は限られるし、無理に埋めれば問題が生じます。やはり、基本は教科書の中で使い古された教材という古典なのだと思います。

 つまり、教材屋さんは、日々の毎日の指導において大きな変化はありえず、ときたまのイベントを自ら楽しもうとしているのではないかな~と思うことがあります。でも、教科書の中で使い古された教材を料理することは出来ますし、それによって毎日毎日の積み重ねである1年を、さらに十数年間積み重ねる授業を根本的に変えることが出来ると思います。私は。

追伸 ある教科専門の人から、こんな嫌みを言われたことがあります。その先生の知人の教科専門の先生は、「教科教育の研究なんて簡単だよ。専門誌(この場合、純粋科学)にのらない程度の論文の最後に、「教育的意味」をちょこちょこっと書けばいいんだから」と言ったそうです(つまり教科教育研究はくだらん、という文脈で嫌みを言われました)。事実、その先生は教材開発の論文を多数出しています。しかし、私はそのような論文は好きになれません。もちろん、そんな先生ばかりではなく、教育的情熱に基づき、子どもからの視点を 持った方も少なくありません。でも、先のような教科専門のような方に混じっているので、その良さが本当に分かりずらいように思います。教育研究は理論、指導法、教材の3本立てです。それ故、その一つの教材が、「ちょこちょこ」研究で汚染されることは、教育研究者として残念でなりません。出来れば、自らの興味関心から一歩離れて、学習者の視点 に立った教材開発がもっと増えてくれればいいな~と心から願っています。

[]学び合う受験対策 13:19 学び合う受験対策 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合う受験対策 - 西川純のメモ 学び合う受験対策 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日の夕方、Tちゃんが院生室に来ました。用件は、4年生で集団面接の練習をするから4階に来て欲しいとのことでした。そこで、4年3人(Tちゃん、Tちゃん(男)、Hくん)と4人の現職院生さんと私でコーヒーを飲みながら話し合いました。現職院生さんから、各県での面接対策を、ご自身の経験に基づき話してくれました。私もとても勉強になりました。そのあと、シミュレーションをしました。私は家に帰るため途中退席しましたが、その後も続いていたと思います。

 大学は理学部、大学院は教育で、私は学びました。その後、東京都の定時制でオール1の子たちを教えました。そこで学んだことは、大学・大学院で学べることは、ごくごく限られたことだ、ということです。現場にいていっぱい学べました。私を教えてくれたのは子ども達でした。ちょっとでも手を抜けば、それを素直に表現し、授業が成立しない子ども達でした。でも、私ががんばれば、それが反映する子ども達でした。そして、行き詰まった時に助けてくれたのは先輩教師でした。そのことから、教師教育に関して、ある仮説(確信と言っていいですが)があります。私は教師の資質というのは静的ではなく、動的なもののように感じています。つまり、「これこれのことが出来れば資質がある」という固定的なものはなく、「その場、その状況によって必要となる資質がある」と思っています。その場、その状況は多様であるため、その時求められる資質も多様です。それらを一人の教師が全て持つことは不可能なのではないかと思っています。それではどうしたらいいのか。それは、その場、その状況で動的に変化する必要とされる資質を、その場で獲得する能力が教師の資質と思います。同時に、その人が獲得できる場を確保できる能力が教員の資質だと思います。具体的に言えば、2つあると考えています。第一は、子どもの反応に敏感(そして小心)であると考えています。問題だと感じることが、改善の出発 点です。しかし、個人の能力には限りがあります。多くの人たちのサポートを得なければなりません。従って、教師の第二の能力は、多様な先輩、同輩、後輩の仲間をもつ能力だと思います。一人の教師の資質を、その教師の努力・熱意・能力に全てを還元しようとする考え方は、子どもの学力・態度を、その子の努力・熱意・能力に還元しようとする考え方と同じで誤りだと思います。一人の子どもの学力・態度も、一人の教師の資質も、その人が置かれている場によって大きく影響されると思います。教師の資質の場合、その教師集団の年齢構成、教科構成等々の様々なバランスが関係します。また、教室において学び合う文化が出来るか出来ないかは、教師の授業観が影響すると同様に、校長の学校観、教師観が影響します。つまり、教員の資質向上も実は「学び合い」と同根と考えております。

 教育実習から帰った時、ゼミ生たちは「自分は教材に対する力が足りない」と異口同音に言っていました。それを聞いて頼もしくなりました。それに気づけると言うことは、教育実習が、単なる子どもと仲良くなって終わりの段階を脱して、教えるという段階に進んでいる証拠です。しかし、だからといって「教材の力を付ければ良いんだ」という単純な方向に進んでは欲しくありませんでした。教えるに必要な知識・技能を大学で学ぶとしたら何年間かかるのでしょうか?私は理学部で生物を学びました。おそらく、平均的な教育学部の理科コースの学生さんの数十倍の時間を生物の勉強に費やしています。でも、それらの勉強では現場では全く足りません。だとしたら、全科を教える教育学部の修学年限はいくらにすべきなのでしょうか?おそらく、卒業と同時に退職になるような年限になっても無理でしょう。それ故に、ゼミ生のみんなには、先のことを語り、「子どもをバカにしたり、子どものせいにしてはいけない」、「そして子どもが喜んで欲しい、逆に言えば、つまらなそうにしている子どもを恐れて欲しい」と語りました。そのような気持ちを持てば、つねに学ぼうと思うし、何を学べばいいか分かります。その学べばいいことを、どのように学ぶか?それは他者からです。新卒者の場合は、特に先輩教師からです。だから、年長の先輩と仲良くやる能力が、教師の力量なんだよ、と語りました。

 本日の4年生の行動は、まさに、教師の力量を示すものです。

追伸 それにしても、H、Tさん、Sちゃん、Nちゃん、今日いなかったのは、失敗だったよ。あとで、3人に話を聞きな。貴重な受験対策は、我が研究室の秘伝としましょう。

04/06/12(土)

[]悩んでいるOB13:20 悩んでいるOBへ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 悩んでいるOBへ - 西川純のメモ 悩んでいるOBへ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先日のメモOBの話の「伝聞」を書きました。この伝聞の出所をもう少し説明します。現在M1のIさんが、自分の研究計画を立てる際、似通ったテーマ過去に試みた西川研究室OBの人(Bさん)に相談に行きました。その際、そのBさんが、その人よりも前に修了したOB(Aさん)から聞いた話だと、Iさんが聞いた話です。つまり、OBのAさんがOBのBさんに話した内容を、OBのBさんがIさんに話、それをIさんから私が聞いたという、「伝聞」の2乗になっています。その伝聞を先日のメモで紹介したら、Iさんに話したOBのBさんからメールが来ました。題目は「お話ししていなかったでしょうかね?」という題です。内容は、以下の通りです。

 『メモを読ませたいただきました。それは、今から○年前のことです。西川研究室でやっている研究内容が、私(Bさん)がやりたいこととマッチするか悩んでいるときに、Aさんのメールアドレスと教えていただきました。Aさんの返信内容と私の経験を交えてIさんにお話ししたのです。

 結構、研究をやりはじめた院生さんや学部生さんに飲み会のときに話していたことです。先生にお話ししなくてごめんなさい。

 Aさんからは、「西川研究室は、とても厳しい研究室です。けれども、そこで学んだことがAさんの教師としての指針(考え方のもと)となっている。例えるなら、何もないジャンクルで目的地に行く道筋(ルート)をAさんは大学院では学んだ。しかし、それは最初は昔の人が伝えた道筋である(先行研究などからの知識)。それは、自分自身の物ではないし、自分で体験してないし、確信や自信もない。だから、自分の目的地と道筋を大学院で作らないといけない。でも、現場に戻ると大学院で見つけた自分の目的地は変わらないが、実際の教室では突然猛獣が現れたり(教師のやり方に反発する子どもや親)、地図にはない大きな川や洪水(その時代のはやりの教育技術管理職からの方針など)でできているかも知れない。教師は猛獣に命を取られないように、自分たちの探検隊を守りつつ、大きな川に流されないように川の激流が静まるのを待つか、それとも場所を変えて川に挑むかなど選択させられる。それが教育現場である。そんなときでも、いろいろな障害があり、回り道やその場での停滞を余儀なくされるかもしれない。しかし、大学院で学んだ目的地に向かう一人一人の道筋を大きくはずれることはない。厳しいながらも、研究室の仲間との語り合いや発表を通して自分がものにした経験に基づいているから。だから、道筋を少し反れるけれども必ず自分の定めた道筋に戻るからね。一人一人違った目的地と道筋の記された地図を作ることが大学院の2年間でした。だから、大変だけど2年間がんばって」のようなことを教えていただいた気がします。(この解説や例えは 私が加えたものがあります。でも、大筋はこんな内容でした。)

 今の自分が大学院卒業して、Aさんと同じような心境です。だから、Iさんには語ってしまいました。西川先生健康に気をつけられて、さらなるご活躍を心からお祈りしています。今週は、○○に修学旅行の引率です。

 それではまた、B』

 私の返信は「ありがとう同志。可視化します。」でした。この話をIさんから聞いた時は、「なんで、Bさん、こんなウルウルするような話を教えてくれなかったの?」と思いましたが、どうも、Bさんにとっては当たり前すぎたようですね。でも、西川研究室を修了した院生さん、学生さんから、自分が目指している姿と現実のギャップに悩んでいるメールを頂くことがあります。中には、ガンガンに教師が出しゃばっている自分の姿を自己モニターし、嫌悪感にかられ、自身を責めるようなメールをもらう場合があります。でも、そんなメールを頂いた時は、必ず、「我々の考えを理解しているあなたが、そういう判断をしているならば、その状態において最善の判断であると信じています。」と返信しています。そして、焦らないでと言います。そのような方へは、上記のOB言葉は勇気を与えるものだと思います。それ故、可視化しました。

悩んでいるOB各位へ。あなたが悩んだことは、あなたが最初に悩んだことではないし、あなたが悩む最後の人ではないと思います。しかし、必ず目標に達します。学部・大学院で多くを学ばずとも、心穏やかで、楽しい時間を過ごすという選択も出来ます。そして、それによって癒され、現場に戻ることもできます。そのことはとても大事だと思います。しかし、そのような選択をした場合、結局、以前の自分に戻ることは出来ますが、以前の自分以上になることは出来ません。 しかし、皆さんはそれを選択しなかった。

 学部・大学院で、書籍のような二次資料を通して学ばれたり、教材に着目して研究をすることも出来ます。しかし、それでは「言葉」が無意味に踊ってしまうでしょう。例えば、我々が大事にする「子どもは有能である」という考えも、それを否定する教師は少ないと思います。しかし、それは単なる言葉レベルで同意しているだけのことです。それゆえ、「子どもは有能である」と言った口先も乾かないうちに、「子どもは無能だ」という前提に基づく指導を平気ですることが出来ます。我々は子どもを、そして教師を徹底的に見ます。それも長期間に、そして、全ての子どもを見ます。それゆえ、「言葉」の意味するものを示す、子どもや教師の膨大な情報を、直接の経験を通して得ることが出来ます。それゆえ「言葉」は常に、現実子どもや教師と遊離しません。

 それゆえ、迷っている時でさえ、皆さんが有能であることを疑いません。仮に西川研究室の考えに反する行動をしているとメールされるときもです。

04/06/11(金)

[]臨界点 13:23 臨界点 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 臨界点 - 西川純のメモ 臨界点 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 自然現象は多くの場合、なめらかな変化をします。しかし、一定のポイントを超えたとたんに、別なものに変わる場合があります。数学ではカタストロフィというトポロジーの一種で表現しますし、物理学では臨界点と表現します。

 本日は全体ゼミですが、その臨界点を越えたように感じます。幾つかの現象が同時に大きな変化を起こしているようです。なぜ、こんな変化が起こったのか、ビックリです。その変化は私の望んでいる変化です。そして、それなりに、心がけた結果とも解釈できます。でも、私のやったことに比べて変化の速度は、私の予想を大きく超えるものです。楽天的すぎますが、西川研究室過去のどの時点よりも高い次元に達せられる予感を感じます。まだまだですが、その胎動を感じます。そうなれるだろうか、不安です。でも、そうなったら、どんなことがおこるのか、とてもワクワクします。そして、その段階に達した時、私は、次の段階として何を望むのだろう、とてもワクワクすると同時に、そら恐ろしく感じます。

 学び合い研究をやり始めた時のOBが後輩の院生さん(現在OB)に語ったことを聞きました。そのOBによれば、西川研究室で言っていること、やっていることは、必ずしも「直ぐ」に現場で実現できるわけではないそうです。全くその通りだと思います。与えられた状況の中で、各々が考える部分が多いはずです。我々の考えは、万能のノウハウではなく、教師が実践を考えるための子ども観、授業観、つまり考え方です。

 そのOBは、その言葉の次につづけて、

 でも、大学院での研究を通して、どのような姿が望ましい子ども達の姿であるかが分かった、それによって毎日の実践を考えるための指針を得ることが出来た。それが大学院での最大の成果である。

 その言葉を私は聞いていません。でも、とても、とても誇らしく思いました。大学院教師として最大級(そして望みうる最高)の賛辞です。私も、最高の状態になった時の学習集団を知りたいと思います。西川研究室はもっと、もっと高い次元を望めると思います。その次元に達した集団を形成することによって、その集団の中に身を置く学生院生の皆さんは目標とする姿を実感として知ることになります。そして、それは研究で得られる大きな成果です。そして、私にとっても、その集団に身を置くことによって、山の向こうにある、もっと美しい山が見えるようになります。

 私の大学教師人生はあと20年あります。正直、もう十分だ、と思うこともあります。人並みの教科教育研究者の10倍以上の業績を上げました。ストレスを感じない穏当な職場に移り、穏やかに過ごしたいと思います。ストレスに弱い私が、ストレスを生じるような環境に身を置くことはつらい。例えば、決まった時間に授業をして、面白おかしい授業をするだけで、研究指導は無し。つまり、家族以外の人のつきあいは、出来るだけ浅い関係にとどめます。そうなれば、どれだけ、ストレスを感じないでいられるか・・・・。でも、もっと美しい山を見たいという欲望を感じます。私自身の臨界点を越えたいと思いました。本日は、ちょっとハイです。

04/06/10(木)

[]倫理 13:24 倫理 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 倫理 - 西川純のメモ 倫理 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 世の中には倫理学というのがあります。大学生の頃、それを読みあさった時があります。でも、カントヘーゲル西田は全く分かりませんでした。相対的に分かりやすかったのは和辻です。でも、それでも分かりませんでした。それいらいずっとご無沙汰でしたが、「利己的なサル他人を思いやるサル」はどんな倫理学の本より面白く、ためになりました。それによれば、サルにおいても倫理的と思われる行動が見られます。そして、その行動が発生する理由は、その行動によって間接的に利益を得るからです。つまり、弱い仲間を助けたサルは、その群れの他のメンバーから「お返し」が来るんです。なぜ、そんな「お返し」をするかといえば、自分が良くなった時の「保険」みたいのものです。カントヘーゲル西田のように、どっかに純粋無垢な「善」があるように書かれるのではなく、生々しく、かつ、凄く納得出来るものです。我々は、学び合う能力は本能の中にあると考えています。だから、ゴチャゴチャ言わなくても、自然に発生するものだと信じています。上記の知見は、教師がゴチャゴチャ言わなくても、自然助け合いが起こるであろうと期待出来ることを証明するものだと思います。

 しかし限界があります。別な猿学者の「ケータイを持ったサル」によれば、サルが自身の群れと感じる範囲は極めて狭く、基本は親兄弟で、広がっても普段見知っている集団を越えることは無いそうです。そして、現代の「ひきこもり」や「傍若無人若者」は、人間の本能の中に組み込まれた「群れ」の範囲がサル並だと考えると、至極当然に解釈出来るとしています。おそらく、これは若者に限らず、人間全般の本能の限界と考えるべきなのでしょう。例えば、年配のおばちゃんが、人の迷惑考えず大声を出しているのは、自分が話している以外の人を、「群れ以外」と分類し、人と認識していないからです。

 何を言いたいか、というと、前のメモに「自身の個人的動機と、自身の利己的動機を越えた次元の動機の関係を冷静に分析し、利己的動機に矛盾のない自身の利己的動機を越えた次元の動機を自身に課すことが、短期的には自身の利己的動機に矛盾しても、長期的には自身の利己的動機に一致することは重要です。」と書きました。しかし、人間の本能に組み込まれているレベルでは、「自己の利己的動機を越えた次元の動機」はせいぜい親兄弟、もしくは見知った狭い集団レベルなのだと思います。教師の例で言えば、せいぜい自分の学校を越えた集団を群れと認識することは困難で、従って、郡市レベル、県レベル日本レベルの集団に対する倫理的な行動をすることは困難なのだと思います。それを越えられるのは、本能ではなく、教育によらねばなりません。

 例えば、私は「教材レベル」の研究意味を余り感じることは出来ません。私の大学院の同級生にも「教材レベル」の修士論文を書いた人がいます。修了した時に、「お前は、お前が作った教材を使う?」と聞きました。彼の返答は「使わない」とさばさばと答えました。つまり、彼にとっての、その教材は自分が修了するため「だけ」の意味しかありません。仮に、自分が使ったとしても、それだけでは、自分のため「だけ」の意味しかありません。ある教材が使える場面は限られています。もしかしたら、次の指導要領の改訂で無くなる場合もあります。従って、その教材を広げられる範囲は極めて限られています。

 私には、自分のため、家族のため、そして自身の狭い群れである西川研究室のためという、相対的に狭い範囲の目標があります。しかし、同時に「学習臨床コースのため」、「上越教育大学のため」、「学会のため」、「地元教育界のため」、「日本教育界のため」等々の様々なレベル目標があります。そして、それぞれに矛盾が生じないよう、相互に関連づけています。そのような多層的な目標を持つため、様々な人とリンクを持ち、かつ、その援助を得ることが出来ます。その結果、とても「得」をしています。

 一方、比較的狭い範囲の群れのための目標しか持たない人もいます。人それぞれですから、完全否定するわけではありませんが、「 損な生き方だな~」と思います。そんな「自分」だけの視点でしか捉えられないならば、結局、周りの協力も限られたものです。色々な場で、短期的には要領よく立ち回っているため、長期的には損をして、そのことに気づいていない人を少なからず見てきました。もちろん、私の同級生は、そんなバカではなく、とてもいい奴でした。しかし、少なくとも2年間かけた成果を、自身の生きる武器にしようとはしていなかったようです。

 でも、一言付け加えなければなりません。私が赴任した当初に千葉県から40歳過ぎの女性院生さんがいました。テーマは「オクラの教材化」です。その方とは修了後も毎年、年賀状やりとりをしています。その年賀状の中で、その年にやったオクラの教材の改良のことが一言書かれているのが通例でした。今年の年賀状には退職挨拶が書かれていました。その際、オクラ教科書の教材に採用されたことを誇らしげに書かれていました。20年弱、一つの教材に打ち込み、地元で実践を等して普及された志は「自身の個人的動機と、自身の利己的動機を越えた次元の動機の関係を冷静に分析し、利己的動機に矛盾のない自身の利己的動機を越えた次元の動機を自身に課す」ものです。教材研究でも高い志を実現出来ることがよく分かりました。

[]ウルウル 13:24 ウルウル - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ウルウル - 西川純のメモ ウルウル - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日教育実習で暫く中断していた4年の学年ゼミがありました。以前から感じていた、学生さんのパワーアップを感じました。

 全員が集まり、私が「じゃあみんなの研究は・・」と言おうとすると、学生さんが「本日研究については準備不足なので、教育実習のことを話し合いたいと思います」ときっぱり言いました。その声には力がありました。そして、私の顔色をうかがうようなそぶりは全く見られませんでした。つまり、学年ゼミの主体者は自分たちなんだという自信を感じました。正直ビックリして、「あ・・あそう、じゃあ承りましょう」と言いました。そうすると、私と無関係に活発に話し合い始めました。私はだまって聞いていました。すぐに、その内容の高さにビックリしました。まず、教育に対する熱意が強く感じます。子どもの見取りも確かです。また、教育実習を通して、我々の「学び合い」の重要性と強力さを感じ取ったようです。その彼らが話し合っている姿を見ているうちにグッと来てしまいました。そして、最後には我慢できずウルウルしてしまいました。教育実習を通して、より一層パワーアップしました。おそらく、卒業研究において子どもの生の姿を丹念に見るという作業をすることによって、より一層、パワーアップするはずです。ワクワク。これがあるから大学教師はやめられないんです。嬉しかった。

04/06/09(水)

[]様々なレベル目標 13:25 様々なレベルの目標 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 様々なレベルの目標 - 西川純のメモ 様々なレベルの目標 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々は目標の設定・共有を大事にします。しかし、正確に言えば、ここで言う目標とは集団の目標であって、個人の目標ではありません。教師が個人個人の個人的目標を設定するのは僭越ですし、第一、そんなこと不可能です。じゃあ、個人個人の個人的目標が暴走すればどうでしょう。「私が」、「私が」という主張が声高に主張されるクラス、それにいやけをさして、多くのメンバーが自身の所属するクラスから距離を持つようになったクラス想像するだに身の毛がよだちます。

 私はとても利己的な動機があります。よくメモに書くように、「(私の)家族仲良く健康に」です。でも、それを他者との関わりの中で目標としているならば、周りの人はつきあってくれないと思います。だから、対社会的な動機としては、「世の中の教育を良くしよう」という目標を掲げます。それは、「院生さん、学生さんの幸せに繋がる」と信じています。逆に言えば、研究室メンバーの個人的目標である「院生さん、学生さんの幸せに繋がる」と矛盾無いような「世の中の教育を良くしよう」を考えています。そして、それが私の「家族仲良く健康に」に矛盾ないようにしようと考えています。

 私は本(「学び合いの仕組みと不思議」)の中でも、次のよう書きました。

 『これが分かると、おまえに有利だ」という目標の場合、その子が「俺が不利になっても、俺はいいや」と開き直れば終わりである。しかし、「これが分かると、おまえを含めたみんなのためになる」という目標の与え方の場合、「俺」という個人の問題ではないので、なかなか開き直れない。なんとなれば、子どもにとって教師に嫌われることは屁とも思わなくても、同級生集団に阻害されることは相当きつい。さらに、本書第2章の環境教育の事例で示すとおり、最初は他者の影響(圧力)で出発しても、集団の相互作用の中で自身の規範となる。』

 本では、改めて書きませんでしたが、「みんなのため」が「自分のため」に本質的な矛盾あってはならないのは当然です。そのような矛盾のない目標を立てられるかが教師の技量です。

 ただし、教師にもある限界があります。子どもが、どのような集団を「みんな」と捉えるかは、子どもが判断することなんです。人は大抵の場合、なんらかの「みんな」を持っています。社会心理学では「準拠集団」と呼ばれます。大抵の子どもの場合は、友達であり、クラスであり、学校です。それを失った場合、人間はとてつもなく不安になります。だから、クラスの管理者である教師は、子どもに対して「みんな」という集団を提供し、そして「みんな」を凝縮させるような集団の目標を与えます。しかし、もし、その子どもクラス以外の「みんな」という集団を持った場合はどうでしょうか?教師はとても無力です。クラス以外の集団を「みんな」としたばあい、イコール問題とは思いません。しかし、社会規範から外れた集団(例えば暴走族カルト宗教集団)の場合、問題が生じます。そして、そのような「みんな」を持つ子どもにとって、残念ながら教師は無力です。教師の力が及ぶのは、自分が管理する「みんな」の中に入っているメンバーに対してです。できることは、「みんな」を持っていない子どもに、「みんな」というクラスを提案することです。

 もう一つ限界があります。自身の個人的動機と、自身の利己的動機を越えた次元の動機の関係を冷静に分析し、利己的動機に矛盾のない自身の利己的動機を越えた次元の動機を自身に課すことが、短期的には自身の利己的動機に矛盾しても、長期的には自身の利己的動機に一致することは重要です。大学院の時代、そして、私が高校に勤務している時代から、短期的には要領のいい人が、長期的(実は数年のレベルですが)にはひどく損をしていることに気づきました。そして、そのことに全く本人は気づいていないことに気づきました。本当は自分の利己的動機と、抽象的なレベル目標を、連続した多段階で繋げればとても有利なんです。でも、このことに私がそれに気づけたのは、今は某大学助教授をしている後輩のおかげです。おそらく、出会いが大事なのでしょう。でも、それに気づけた人って、それほど多くはないんですよね。

04/06/08(火)

[]ジェンダー 13:26 ジェンダー - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ジェンダー - 西川純のメモ ジェンダー - 西川純のメモ のブックマークコメント

 男女というのは、生物学的な違いばかりではなく、社会的に作り上げられます。親が男に男たれ、女に女たれ、と教えるためです。しかし、そんなことは自分はしないだろう、と思っていました。でも違いました。幼稚園先生は女の先生ばかりです。そのせいか、大人びた女言葉を息子が使います。そうなると、夫婦ともどっきりします。そして、「息子はあらぬ方向に進むのではないか・・」と思い出すと、必死で男言葉に修正します。「あ~、こんなところからもジェンダーが発生するんだな~」と気づきました。

[]左右 13:26 左右 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 左右 - 西川純のメモ 左右 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は18歳まで左右が分かりませんでした。何かの必要で左右を判断しなければならない時、人のマネをするか、人に聞いて過ごしました。上下の場合、頭と足ですから全く違います。だから、直ぐに覚えました。でも、右手と左手の違いなんてあまりありません。だから、どうしても覚えられなかったんです。でも、最大の理由は左右を覚える必然性が余り無かったためだと思います。では、18になって何故覚えたか、というと、運転免許です。教習所に行くと、教習所先生が「そこを左に曲がりなさい」、「次を右に曲がりなさい」と指示し、それに従って運転しなければなりません。そのため、18になって、「お 箸を持つ方が右」という古典的な方法で覚えました。少なくとも半年ぐらいは、いちいち「お箸を持つ方が右」を意識化しなければなりませんでした。

 18歳まで左右が分からなかった私が、大学で教師を務め、生活出来ています。息子が靴下をうまくはけないのをイライラし、ちょっと不安になった時、上記のことを思い出しました。必要になったら覚えるものです。

04/06/07(月)

[]号令 13:27 号令 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 号令 - 西川純のメモ 号令 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々は集団の教育力を活用します。教師が一人で口を酸っぱくしても出来ないことが、クラス集団によっていともたやすく達成することが出来ます。かつてKuさんから、子どもオムツがなかなかとれなかったが、保育園に入園したら3日でとれるようになった、と教えて貰ったことがあります。原因は、友達にはずかしいとのことです、集団の教育力の凄さを示すエピソードの一つとして記憶しています。

 わが息子も今年から幼稚園です。実感として幼稚園教育力を感じます。歌のレパートリーは、1週間で3、4は増えます。それを、一日中、身振り手振りで歌うようになりました。また、先生の口まねをするので、 幼稚園先生が何を話しているか分かるようになります。例えば、「ごちそうさま」があります。入園前は、私か家内が「ごちさまでした」を言うと、息子がそれを復唱していました。ところが、私たちが「ごちそうさまでした」と言うと、手を合わせて、「おててをパチンと合わせましょう。(間)ごあいさつです。(間)ごちそうさまでした。」と言い出しました。おそらく、幼稚園先生が、年少組のみんなの前で言っているのだと思います。そこで、最近では息子に、「ごあいさつして」と言うようにしました。そうすると、「おててをパチンと合わせましょう。(間)ごあいさつです。」と息子が幼稚園先生のように号令をします。それに合わせて家族3人が「ごちそうさまでした」を同時に言うようになりました。

[]未来 13:27 未来 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 未来 - 西川純のメモ 未来 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は現在の教師主導の教育馬鹿馬鹿しいと考えています。しかし、馬鹿馬鹿しくとも、それが社会一般に根付いているのは、なんらかの理由があるはずだと考えています。馬鹿馬鹿しいと考えるのではなく、どのような理由によって根付いているかを明らかにすることによって、本質的な変革があり得ます。しかし、理由が何故なのか分かりません。教育史を読むと、現行の学校制度は産業革命に影響されているという記載があります。しかし、なぜ産業革命モデル学校制度に適用されたかについては、粗雑な考察しかありません。

 大学院時代、アルビン・トフラーの「第三の波」を読みました。もともとは環境教育との関連で読んだのですが、実に面白く読めました。その当時は、「面白いけど、ほんとかな~」という印象です。しかし、その後の展開は、実にあたっています。彼によれば、従前の世界は、「規格化」、「専門化」、「同時化」、「集中化」、「極大化」、「中央集権化」という共通の性質があります。そして、新たな時代は、それの対極である、「デファクトスタンダード」、「プロシューマ」、「24時間化」、「分散化」、「ミニチュア化」、「分権化」であるとしています。最近、それを思い出し、もう一度読み直しました。私なりにすっきりしました。

 現行の教師主導を根付かしているものの最大の要因が、学習の最大の手段が、高価で有限な教師であるというモデルに則っているからだと思います。たしかに、印刷物が高価で、それ以外の情報取得の方法が口伝である戦前においては、たしかにそうかもしれません。しかし、印刷物が安価になれば、教師に頼らずとも良質の参考書があります。少なくとも、教師と子どもとの相互作用が限定された現行の指導方法であるならば、下手な教師が教えるより参考書の方が有効です。さらに、テレビ等の情報は、下手な書籍よりも金をかけた情報無料で提供してくれます。さらに、インターネットの普及によって、多様な情報を簡単に取得することが出来ます。教師が「良い教え方」と称しているものの多くは、テキストにすればすむものを、演説したり、板書したりしているだけのことです。私の学び合い研究に対する典型的な疑問の一つに、「教師が教えなければ子どもだけで分かるわけ無いじゃないですか」です。それに対する私のこたえは、「クラスの中には、授業する前から知っている子は何人もいます。その子から聞けば、教師が何にも生まれます。それに、子どもの方が分からない子どもの分かり方も分かりますし、教え方も優れていますよ。それに、教師が教えるようなことはテキストとして、見える場所におけばいいはずです。本当に良い内容だったら、子どもは使うはずです。使わなかったら、教師がかってに「良い」と誤解しているだけのことです。」というものです(ただし、上記の説明は、入門者用の説明です。学び合いの本当の凄さは、その程度のものではありません)。

 第三の波では、旧時代のシステムに慣れ親しんだ人が、新時代のシステムを拒絶する様が描かれています。本当は、学習に有効な手段は教師ではないのにもかかわらず、それにすがりつこうとすると色々な滑稽なことをやり始めます。

1.教科書子どもから取り上げる。

 教科書の数頁先には答えが書いてあるので、その答えを教師が独占するために教科書子どもから取り上げます(法律違反じゃないのかな・・?)。

2.塾・予備校を否定します。

 さすがに、最近は白旗をあげて、「学校には学校意味がある」と言い出していますが、やっていることは塾・予備校と同じことをやっています。

3.インターネットを否定します

 今度の女子児童の殺人事件に関連して、インターネット批判が出ています。でも、どんな方法でも危険性があります。ようは、どう使うかの問題です。

 いずれも、教師が自分だけが有効な学習の手段でありつづけるために抗っている姿です(焚書坑儒と同じです)。ちょっと変わった延命策として少人数学習があります。少人数というと新時代の装いを凝らしていますが、結局、教師主導に過ぎません。重要なのは、どのような少人数を選択する権利が子どもにあるか、教師にあるかです。現行の少人数は教師にあり、旧時代のモデルに従っています。

 以上のことが分かって、すっきり、そして、ホッとしました。時代の力は我にあり。今後、どんどん、子どもたちには安価で、多様で、有効な学習の手段を得られるようになります。その中で、教師が「自分が最高の学習手段だ」と思い続けたら、どうなるでしょう。私は教育実習を筑波大附属高等学校で行いました。偏差値70の子どもたちは、子どもたち 同士で私語をしていました。その私語を良く聞くと、教育実習生が教える内容より高度な内容を教え合っていました。そして、以下のような声が聞こえました。

「ねえねえ、あれ違うんじゃない」

「しょうがないよ、教育実習生なんだもん」

 それが事実であるため、悔しい思いをしました。そのような情景が普通小学校中学校にも普及するかもしれません。インターネット上の情報は、どんどん進化しつつあります。子どもに対して、適切な学習障害を見つけるプログラムも開発されるかもしれません。そして、一人の教師と数十人の学習者との関係では不可能な、一人一人の子に対応した情報提供が可能となるでしょう。そうなった時、教師はインターネットを教室から排除出来るでしょうか?無理でしょう。親が反対します。そして、いてもいいけど邪魔しない程度の声でしゃべってねと、親や子どもからバカにされる状態になってしまいます。おそらく、それ以前の段階で、現状のシステム破綻するでしょう。そう遠い未来ではありません。現在のネックは、ネットワーク地域限定で高価なためです。ブロードバンドが一般化し、価格破壊が起こり、それは無線の世界にも広がったら、現在システムの命脈は断たれたようなものです。そのような時代において教師は教える立場から、目標を与え、評価し、場を設定する役割にシフトせざるをえなくなると思います。

04/06/06(日)

[]先週 13:28 先週 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 先週 - 西川純のメモ 先週 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近、目が回るほど忙しいためアップしていませんでした。本日は、やっと時間が出来ました。先週は博士課程の二人が来ました。久しぶりに濃い話し合いをしました。それと、教育実習を見させて貰いました。指導教官の欲目かもしれませんが、いずれも質の高いものでした。本年も、実習でウルウルすることが出来ました。