西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
ツイッター http://twitter.com/jun24kawa
『学び合い』メールマガジン参加者募集中!(無料)http://www.mag2.com/m/0000270912.html
『学び合い』マップ募集中!(無料)http://manabiai.g.hatena.ne.jp/kokohagw/
授業公開の仲介のガイドライン http://dl.dropbox.com/u/352241/manabiai-data/koukai.pdf
だめで元々で、とりあえずドロップボックス(http://db.tt/bMZAZwx)とjimdo(http://jp.jimdo.com/)の無料アカウントを登録してみてはいかがでしょうか?実に簡単ですから。

本格的にトライする人も多くいると思います。その際、人とのつながりが大事です。身近にいる人と繋がれるとありがたいですよね。『学び合い』を実践される方は、『学び合い』マップ(https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zDInXkSSxyO4.kNDji5uDNm0Y)に、是非、登録下さい。登録は、『学び合い』マップ登録フォーム(http://form1.fc2.com/form/?id=77081b4d4f40dd2f)から出来ます。  「私なんて、人になんか教えられるレベルに行っていない」と思う方へ。だからいいんですよ。一番知っている人が、一番の教え手ではないことは『学び合い』を実践しているならば、子どもを見れば分かるでしょ。それに、教える必要はないのです。共に学び合えばいいのです。いや、愚痴を言ったり、笑ったりする、それでいいのです。  是非、一人でも多くの人がマップに登録下さい。強く、強く、お誘いします。

03/12/31(水)

[]大晦日 08:09 大晦日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 大晦日 - 西川純のメモ 大晦日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 あと数時間で新年です。今年も家族仲良く、健康に過ごせました。私にとっての最高の幸せです。でも、人によっては、様々な幸せのあり方があるでしょう。いずれにせよ、「今日と同じ明日であるように」、「今月と同じ来月であるように」と願いように、大晦日に、それぞれの幸せのありように合わせて、「今年と同じ来年であるように」と願えるのが最高の幸せのように思います。

 「人を呪えば穴(墓穴)二つ」と言われます。逆に「人を祝えば幸二つ」です。皆様の幸せのありように合わせて、「今年と同じ来年であるように」と大晦日で願える新年を迎えられることを心よりお祈りいたします。来年もよろしくお願いします。お休みなさい。ぐ~・・・

[]おまる・うんち記念日 08:10 おまる・うんち記念日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - おまる・うんち記念日 - 西川純のメモ おまる・うんち記念日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 息子はトイレでうんちをするのを嫌がる状態は変わりありません。一方、おしっこに関しては、ほぼ完璧です。なぜトイレでうんちをすることを嫌がるの皆目見当がつきませんでした。しかし、最近、ある子育て雑誌に、トイレ(洋式)で座っている状態では、小さい子どもは足が地に着かないため、「いきめない」ためであると書いていました。それなら、おまるならば足を地につけることが出来るはずです。本日、試してみました。おまるでうんちをするかと聞いたところ、直ぐに納得しふんばりはじめました。そして、直ぐにうんこをすることができました。子育て雑誌は偉大だと感じました。

03/12/29(月)

[]年末 08:11 年末 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 年末 - 西川純のメモ 年末 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日の午後はIさんの研究をじっくり読ませていただきました。何度も、何度も、駄目出しましたが、そのせいか(?)実にすっきりとした内容です。後は何度も声を出し、推敲に、推敲を重ねて下さい(Iさん読んでる?)。明日はOさんです。内容的には文句はありません。あとは、それぞれの繋がりのチェックをします。そして、捨てきれずに残っている部分をチェックすれば良いだけです。そうすれば、すっきりとするはずです。そして、Kさんに取りかかることになるでしょう。

 この年になると論文を読むのがおっく~になります。でも、我が研究室論文を読むのは楽しみです。10~20年の熟成と2年間のデキャンティングの結果、実に味わい深いものとなっています。学部4年の論文も、実によいものになっています。今の時点でもおいしいのですから、10年後の姿はいかばかりになるか楽しみです(本当に)。修士1年の方々は、私に叩かれ続きですが、方向は良いものになっています。もう少しです。学部3年は難産でしたが、この数ヶ月で急激に良いものになっています。今の学部4年を超える部分を持ち得ると感じさせています。楽しみです。そういえば、宇宙一厳しい西川研究室希望する奇特な学部2年生が二人もいます。学生さんの望んでいることを、自ら見出すお手伝いをすることになります。

 去年も、そう思いましたが、我が研究室研究の進展の速度は目を見張るものです。おそらく、平常では20~30年ぐらいかかることも、3年で解決するように思います。あれだけ巨大な山脈のように見えた「異学年学習」も、Ymさんによって来年にはおおよそが見えるように思えます。それに、Yzさん、Ymさんは教師集団という新たなテーマの端緒を明らかにし始めました。Hも、昨年のHさんの研究を全く別な切り口ではっきりとさせそうです。私が教育学研究に足を踏み入れたとき、理学に比べて「なんと進歩の遅い学問だ」と嘆いたものです。でも、今では、研究進歩の早さに恐れを抱きます。もし、この進歩の早さに振り落とされずにいたら、10年後にどんなことが分かっているんでしょう。20年後には・・・。でも、その成果を多くの人に分かってもらうと言うことが我々の最大の課題であり、問題なのかも知れません。でも、Iさんの論文を読みながら、ちょっと天狗になりながら、でも、率直に喜びながら年末を過ごしています。

追伸 午前中はトイザラス(大きなおもちゃ屋さん)に息子をつれてきました。息子にとっては天国の世界でしょう。とにかく、興奮していました。

03/12/26(金)

[]博士の学位の条件 08:14 博士の学位の条件 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 博士の学位の条件 - 西川純のメモ 博士の学位の条件 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近博士の学位を取りたいという話が舞い込むようになりました。これも、私が博士の学位を出せる資格(○合資格)を得たためです。それを受け入れる、受け入れないという条件を公にするということがフェアーであると思ったので、メモることにしました。以下で述べる基準は、上越教育大学が所属する兵庫教育大学連合博士課程の基準に則って述べています。この連合での基準は、博士認定資格基準、博士指導資格基準(○合、合)とも、他の博士課程より厳格です。

 まず、博士の学位を取得する方法は、課程博士論文博士があります。前者は、3年間の就学を行い、必要な単位を取得し、博士論文を作成し学位を取るという正規の方法です。ただし、小学校中学校のように、毎日毎日、学校に来なければならないと言うわけではありません。かなりの自由度があります。それゆえ、現職の先生が、勤めたまま入学し、入学・修了されることは可能ですし、事実、何人も学位を取得しています。もう一つの方法は、論文博士です。この方法の場合は、就学をせず、論文を提出して認定を受ける方法です。不謹慎な例えとは思われますが、運転免許状を教習所に行って取るのと、一発検定で受けて取るのとがありますが、課程博士論文博士に対応します。

 二つを比較すると、課程博士は指導を受けて博士論文を作成するのに対して、論文博士の場合は、基本的な部分は既に自身で出来る人の論文作成をする方法です。前者の場合は、3カ年の年数と、その期間の学費が必要です。後者の場合、『完成した論文』があるならば、おおよそ1年程度で取得出来、学費は必要ありません(ただし、認定料は必要です)。その一方、前者の場合は、3カ年の中で2つのレフリー付き学術論文の業績があれば博士の学位を取得出来ます。後者の場合は、博士論文に直接関わるレフリー付き学術論文を5つ以上で、そのうち2つは5年以内(実質は3年以内)の業績があることが最低条件です。ちなみに私は論文博士で学位を取りましたが、「巨視的時間の距離関係性に関する研究」という博士論文に直接関係するレフリー付き学会論文として35があり、うち14が5カ年(実質3カ年)の業績でした。以上が基礎資格であり、これが成り立たなければ話になりません。

 次に、教育上の縛りがあります。上越教育大学では学習臨床コースという教科横断のコースに所属して、理科以外の院生さん・学生さんを受け入れています。しかし、博士課程ではそのような組織はなく、旧来の教科縦割りの組織があります。そして、私は理科に所属しています。そのため、博士研究テーマでは「理科」の内容に関わるものでなければなりません。次に課程博士に関しては、1年間に受け入れられる博士課程の学生さんは最大一人であり、3カ年の間に受け入れられる学生さんは最大二人という内規があります。したがって、私は退職まで21年間ありますが、その3分の2である14人が課程博士の最大の指導人数となります。また、退職間近は学生さんを受け入れられないので、12、3人というのが上限となります。

 次に私個人の基準があります。第一に、受け入れる学生さんの人生をかけられても、責任を負い切れません。従って、退職(または休職)して入学するしたいという現職者は受け入れられません。同様に、就職状況の厳しい研究者希望する、無職学生さんを受け入れることはしません。悲惨な博士修了者を多く見ていますので・・・・

 第二は、見ず知らずの人から、いきなり頼まれても受けるつもりはありません。学位を与えるというのは、時間と労力、そしてリスクを受けなければなりません。私がその人の能力と人格に関して、ハッキリとした判断が出来るだけ、長く、かつ濃密につきあっている人でなければ責任を負えません(つまり、たまに会う程度であれば、十年つきあっても駄目です)。

 ということで私が受け入れる条件は以前のメモに書いたように、「修士課程で指導した経験がある現職者で、2年間、宇宙一厳しい西川研究室を生き残れた人」、「義理人情のしがらみがあり断れず、実績において研究能力を証明出来(つまりレフリー付き学術論文を書いたことがある人)、私と仲良くできる現職者」です。ちなみに、不義理の私が「義理人情」で断り切れない人なんて、この世の中で5人(その内のお二人はご自身で学位を出せる人です)もいません。上記以外の方の場合、とりあえず修士課程の2年間で見させていただいて、ということになります。かなり利己的な基準とは思いますが、もともと私が学位を必要とした理由は、目の前にいる学生さん・院生さん、そしてその集団を守り、戦いに勝つためです。そして、その集団を守ることによって、中長期の観察によって学習者・教師を見るという方法論による教育研究を推進し、学習者・教師を救いたいという願いがあるからなんですから。

 だいぶ偉そうなメモで、不快に思われる方もおられるかもしれません。でも、ご容赦を。世の中には、いきなり箱いっぱいの資料を送りつけ、「博士の学位を取りたい」という手紙を同封するような、非常識な見ず知らずの人が少なからずいます。その人に対する防波堤の意味でのメモです。それに、私と違って大らかな○合資格保持者もおります。このメモの前段に記載した博士取得の基礎資格を参考に、そのような大らかな先生にお願い出来るか、否かを判断する情報としては有効なのではと思います。

[]仕事納め 08:14 仕事納め - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 仕事納め - 西川純のメモ 仕事納め - 西川純のメモ のブックマークコメント

 もうすぐお正月です。正月になると、ねじりはちまきした学生さんが集まって勉強している予備校の様子がテレビで放映されます。そこでは、「受験生正月は4月だ!」と叫んでいます。

 本日仕事納めです。といっても、修士2年のOさん、Iさんは私からの新たな宿題に対応するため、どたばた状態です。Kさんに対しては、今のところ宿題は出していません。理由は、今の私の能力では、そこまで行けないからです。でも、年明けには研究お年玉あげるから、Kさん待っててね。ということで、修士論文作成であたふたしている院生さんをおいて、正月モード入ります。頑張ってね。期待し、信じてますよ。第一段落の文章との繋がり、わかるよね。

03/12/25(木)

[]偉いと尊敬する人 11:49 偉いと尊敬する人 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 偉いと尊敬する人 - 西川純のメモ 偉いと尊敬する人 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 40を過ぎ、教授となりました。その結果、20歳後半であれば雲の上の人と思う人と、それなり対等(?)に話すことが出来ます。おそらく、大学におても、学会においても、雲上人に対してズケズケとものを言うため、大変失敬なやつと思われる場合も多いと思います。ところが、その雲上人の半数からは、いたく可愛がられています(半数には蛇蝎のように嫌われていますが)。

 私の意見は極めてラディカル(革命的)です。理論的には極めてシンプルで、かつ、強力なシステムを考えています。そのベースには学習者の利害に一致し、そして、独立法人化したあとの大学の方針に一致していると確信しています。ただし、世の中には、表に出るものばかりではなく、裏のシステムがあります。そして、世のシステムには急激に変えすぎると、システム中の人がついていけないものです。だから、私は私の考え方は正しいと確信している一方、それが満額、明日から実現したら「危ういもの」があることも自覚しています。だから、よく分かった人に自分の意見をぶつけ、その反応を見ます。その反応を見ることによって、その人が「偉い人」か否かを判断します。

 昔読んだ本に偉くなる人の特徴が書いてありました。曰く、「人の話を誠実に聞いて、そして、無視できる人」。私の経験から言っても、それは当たっていると思います。まず、私が尊敬できない人は、「人の話を聞けない人」です。でも、自分の意見とは全く反する、自分より社会的地位の低い人の話を最後まで聞ける人というのは、経験上、百人に一人ぐらいのものです。さらに、そうでありながら、全体を俯瞰し、その全体像の中で私の意見の中で使える部分と、使えない部分を見分けられる人が尊敬できる人です。前者後者はほぼ一致しているように思います。つまり、全体を俯瞰し得るから、私のようなラディカルな意見を最後まで聞けるし、逆に言えば、ラディカルな意見を最後まで聞ける人は全体を俯瞰し得るのだと思います。

 私が求めるのは、最後まで聞いてもらえることです。聞いた結果総合的に否定するということは当然と考えています(自分の考えがラディカルであるという自覚はあります)。ところが、世の年長者(私よりもと言う意味です)の中で、最後まで聞ける人は少ないようです。その理由は、理解できるだけの頭がないからです。そして、理解できるだけの頭があっても、偉くなると、理解する努力を怠るようになります。そういう人は、無視するか、潰しにかかります。でも、私がそんなことをしなくても、「人の話を理解する能力がない」、「理解しようとする努力を怠る」という特質を持つ人は、自分から潰れていきます。

 私の意見はラディカルであるので無視されるであろうと思っても、語り続けます。それは100語って多くが無視されても1は、その人の心に残るからです。従って、100回100を語れば、その人に100が残ります。しかし、語る過程で私自身がどんどん変わります。世の状況も変わります。そのため、100語って相手に1が残ったとしても、次に語るときには101を語ることになります。したがって、常に100のギャップが残り、「まだまだ」という気持ちが残ります。でも、100回かたれば100残ります。それは、おそらく平均的な大学人の望みの数倍の願いが叶っている量です。欲深です。だからこそ、「人の話を誠実に聞いて、そして、無視できる人」に何回も語ります。

[]似ている 11:49 似ている - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 似ている - 西川純のメモ 似ている - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今年度は、宇宙一厳しい西川研究室に所属したいという奇特な学部学生さんが二人いました。その内の一人と面談し、色々と話しました。この学生さんは戸北研究室西川研究室の二つの研究室希望し、戸北先生と私のところに研究室訪問をしました。戸北先生のところに面談した際、コミュニケーションをやりたいということを言ったので、戸北先生は「それなら西川研究室がいいよ」と言ったそうです。そして、最終的には西川研究室に所属しました。

 その学生さんと会って、副免許(すなわち小学校免許状の他に取る免許)のことをまず聞きました。その学生さんは、幼稚園先生希望し、それゆえ幼稚園免許状をとれる上越教育大学に入学したそうです。私の家内幼稚園先生保育園先生をやっていました。そのため、その実態に関して色々と教えてもらうことは多いです。そのことから、現状の幼稚園先生職業としての環境がかなり厳しい現状のことを話しました。次に、来年、どのような就職試験を受けるかと聞きました。そして、現状の就職状況と、どのように受験するのが良いかを話しました。その話をし終わった後、その学生さんは「先生が話している流れは、戸北先生に話してもらったことと全く同じです」と言い出しました。とても驚きました。そこで、「それじゃあ、その後、戸北先生はどんなことを言ったの?」と聞きましたが、その学生さんは「はっきりとは覚えていません」と言いました。私は「残念だな~」と思いました。次に私が語ったことは、「クラブがどれだけ忙しいか?」ということを聞きました。そのとたん、その学生さんは、大きな口を開けて「あっ」という顔をしました。そして、「戸北先生が、次に言ったのは、そのことです、思い出しました」と言い出しました。思わず笑い出しそうになりました。

 私と戸北先生は、就職してから17年間、仲良くやっています(これは全国的にも極めて希なケースです)。そして、私が嫌いう人と、好きな人が、戸北先生と全く同じなんです(だから、仲良くやってられるのかも知れません)。でも、これは私たちの間だけで分かることなんです(人の好き嫌いを公にすることはないですから)。でも、私と戸北先生が似た部分があると認識している人は少ないように思います。人に対しての接し方、何よりも講義・講演での話し方が全く違います。学内政治での発言の仕方も違います。学内での人物評価は全く違います。でも、本日、似ているという人が現れました。とっても嬉しい!

[]クリスマスイブの次の日 11:49 クリスマスイブの次の日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - クリスマスイブの次の日 - 西川純のメモ クリスマスイブの次の日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日の昼職の話題は、今日の朝の子どもの反応です。昨日の夜に枕元においたプレゼントに対して、子どもがどのように反応したかが話題になりました。私の家も、他の家も同じく、素直にサンタさん存在を信じたそうです。我が家も、息子は「サンタさんが来た」と言いました。先輩パパさんで、小学校先生のYzさんによれば小学校中学年までは信じているそうです。気持ちとしては、もっと長く信じてほしいな~と思います。でも、高校生になってもサンタさんを信じていたら不気味です。そう考えると、小学校5年生ぐらいまで信じてほしいな~と思いました。

追伸 本日風呂上がりに家内が息子に「大きくなったら何になりたい」と聞きました。息子は悩んだ結果、「生卵になりたい」と言いました。理由は分かりません。聞いたとしても、分かる説明はしてくれないでしょう。家内は、「そう、がんばってね」と言っていました。家内幼稚園での教え子に、七夕の短冊に「ヘビになりたい」と書いた子どもがいたそうです。もちろん、理由は不明です。私は「ヘビよりも生卵の方がましだな」と変に納得しました。

[]フキノトウ 11:49 フキノトウ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - フキノトウ - 西川純のメモ フキノトウ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、食堂の帰りにフキノトウが生えているのを発見しました。思わず、取りました。冬の序盤にもかかわらず、私の手は春の香りでいっぱいです。研究室に戻って、袋を用意して本格的にフキノトウ取りをしようと思いました。ところが、付近をくまなく探したのですが、フキノトウが見あたりません。最初に発見した2畳程度の場所にしかフキノトウが生えていませんでした。とても貴重なフキノトウです。

[]博士 11:49 博士 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 博士 - 西川純のメモ 博士 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 理学部にいたとき「博士」という学位は足の裏の米粒と言われていました。つまり、取らないと気になってしょうがない。でも、取ったとしても、それを食べられない(つまり、それで生活できない)。実に、言い得て妙です。ところが、人文系に移ると話は別になります。人文系の場合「博士」という学位を持っている人は少ないように思います。少なくとも 生え抜きの教科教育研究者(教科教育研究者生活を始め、教科教育でのみ生きている人)の中では博士の学位を持っている人は、数パーセントもいないと思います。そのため、博士の学位を持っていると言うだけのことで生活している人は少なくありません。いや、博士課程を中退したという変な学歴だけで生きている人さえいます。 つまり、遠い昔に外国語が得意だったため、博士課程の試験合格したというだけで、博士の学位を取って修了したわけではないということです。言い換えてみれば、東京大学中退した人が、東大合格したということだけを武器に世渡りしているようなものです。バカみたいなものです。

 博士という学位は、運転免許状みたいなもので、その学位を得られるという学識で、どれだけのことを成すかで評価されなければなりません(と、私は思っています)。重要なのは「なにを成したか?」であって、学位ではありません。でも、世の中には学位だけで生きている人、中退という学歴(?)で生きている人もいます。そのような人と対等に渡り合うためには博士の学位が必要です。博士の学位があれば、「博士の学位は重要ではない」という主張を、負け犬の遠吠えではなく、公の席で大きく語ることが出来ます。私の場合は、良き人に巡り会うことによって、その学位を得ることが出来ました。

 私に学位を与えてくれた方の恩に報いるためにも、機会があるならば、学位を与える側になりたいと思います。でも、「学位だけで生きていこう」という人に学位を与えたくはありません。また、心の狭い私は、ボランティアで学位を与えたいとは思いません。なぜなら、人に学位を与えるためには、かなりの労力と時間をかけるからです。前のメモに書いたように、私が受け入れる条件は「修士課程で指導した経験がある現職者で、2年間、宇宙一厳しい西川研究室を生き残れた人」、「義理人情のしがらみがあり断れず、実績において研究能力を証明出来(つまりレフリー付き学術論文を書いたことがある人)、私と仲良くできる現職者」です。私がこれから退職の65歳まで21年間有ります。今のシステムだと、博士課程で学位を与えられるのは十数人に過ぎません。論文博士も20人に過ぎません。自分の人生のなにがしかを賭けるにたる人と出会えれば幸いです。どれだけ出会えるでしょうか?

03/12/24(水)

[]命薬 11:51 命薬 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 命薬 - 西川純のメモ 命薬 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は、冬の上越にとっては貴重な日が差す日でした。お日様の浴びるため、息子と一緒に近くの公園に行きました。息子は、「バイキンマンを作る」と言って、砂場で砂をいじくったり、滑り台を滑って遊んでいます。勝手に遊んでいるので、手がかかりません。公園のベンチに座って、ぼーっと息子を見ています。時々、砂でいっぱいにしたコップを持ってきて「ケーキに似ている」と報告します。「ケーキを明日食べようね」と言うと、ニコニコしながら砂場に戻ります。そんなとき、公園に来ていた七十過ぎのおばあちゃんが話しかけてきました。自分のこと、娘のこと、孫のこと、ひ孫のこと・・。たわいもない話ですが、30分ほど話しました。その間も、合間合間に息子が近づいてきて、二個の石をくっつけて「キノコに似ている」と言ってきます。おばあちゃんの話に相打ちをしながら、ちょっと離れた息子を見守っています。うららかな日でした。その時、「命薬(ぬちぐすい)」という言葉を思い出しました。こんな時間を過ごしていたら、 長生きもできるな~と思いました。

03/12/22(月)

[]たいようし 11:55 たいようし - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - たいようし - 西川純のメモ たいようし - 西川純のメモ のブックマークコメント

 皆さん「たいようし」という言葉をご存じでしょうか?学校の調べ学習の発表で使ったり、壁新聞に使う、あの大きな白い紙を指します。私もいつのまにか「たいようし」という言葉を使っていました。しかし、どんな漢字を指すのかは不明でした。ちょっと前の全体ゼミで学部学生さんが「大洋紙」という漢字を使っていたので、「ほ~、そんな字なのか・・」と感心しました。しかし、高校の国語教師であるKさんによって、その漢字は間違いであることが指摘されました。Kさんによれば「たいようし」とは「大用紙」が正確な漢字であるそうです。そして、なんと、「たいようし」は新潟県の方言だそうです。参加した一同「へ~」のトレビア状態です。確かに、以前は「もぞうし」と言っていました。でも、「もぞうし」とは「模造紙」です。でも、今時、「模造」の紙なんて無いですよね。

[]冬至 11:55 冬至 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 冬至 - 西川純のメモ 冬至 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は、冬至です。家内と結婚してから、節ごとのイベントを経験することが出来ます。本日はカボチャに粒あんをかけた冬至カボチャを食べて、ゆず湯に入りました。風呂上がりの息子に、家内が「今日のお風呂は何のお風呂?」と質問したら、息子は「ゆずのお風呂。ゆずのお風呂に入ると風邪ひかない」と答えていました。

 二日後はクリスマスです。息子も楽しみですが、我々夫婦も喜ぶ息子を見るのが楽しみです。久しぶりに現場調査からかえってきたYzさんから、「アンパンマンパソコン」がとても良いと、褒めてもらえました。とっても嬉しい。

追伸 12月は、家内の誕生日があり、冬至があり、クリスマスがあり、大晦日があり、イベント続きです。そして、ボーナスがあり、給料があり、年末調整があります。年末で忙しいけど、毎月、12月だったらいいのに・・

03/12/20(土)

[]クリスマスツリー 11:59 クリスマスツリー - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - クリスマスツリー - 西川純のメモ クリスマスツリー - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は、ある家電を買うため、近くの電気量販店を3店まわりました。A店では42800円で、「最終特価」と銘を打っています。年末特価ということで平常より低い値段設定ですし、上越以外の電気店(上越はディスカウント店、量販店の激戦区です)と比較したらかなり安い値段設定です。ここで買おうと思ったのですが、B店に行きました。その結果、39800円という価格です。ここで買おうかと思ったのですが、もののついででC店に行きました。44000円という値段設定で、ガッカリしました。しかし、他店の値段を伝え、ちょっとした交渉の結果、なんと32000円で買うことが出来ました。とってもお得な気分に浸ることが出来ました。

 もう一つお得な買い物をしました。以前のメモに書いたように、息子はクリスマスツリーに興味を持っています。手頃な大きさで、そして綺麗なイルミネーションのクリスマスツリーを色々な店で探していました。本日、A店に1500円という値段でクリスマスツリーが売られていました。大きさも思った通りで、箱の写真に写るイルミネーションはかなり綺麗です。でも、値段が安すぎて、不安です。しかし、まあ、この値段だったら「駄目でもともと」と思い買いました。ところが大当たりでした。色々なところで見たクリスマスツリーのイルミネーションの中で上位に位置できるような綺麗さです。息子は大受けです。さらに、しまう際にはコンパクトになるという特徴もあります。仮に3000円という値段設定でも「すごくお得」と感じられるものです。先の一万円のディスカウントに匹敵するお得感です。

 最近、息子は「にじゅうよっかは、ぱーてぃー!」を連発しています。今年のクリスマスは、以前に買った腰ふりサンタの人形と、イルミネーションに飾られたクリスマスツリーでにぎわった家族パーティーになりそうです。

追伸 あまりにも運が良かったので、「大安なのかな?」とカレンダーを見ました。しかし、本日は「先勝」です。ちなみに、本日の買い物は午後でした

[]仕事がある 11:59 仕事がある - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 仕事がある - 西川純のメモ 仕事がある - 西川純のメモ のブックマークコメント

 人がある集団に所属したなら、仮に必ずしも意に添わないものであったとしても、その集団の中で居心地よく暮らしたいと願います。ましてや、願って所属している人であるならば、なおさらです。その際、集団のための仕事というのがとても大事だと思います。

 私が上越教育大学に赴任した当初、周りの人となじめず苦労しました。「お茶飲み場に来たら」と言われることもありましたが、そこへ行く勇気がありませんでした。お茶飲み場でいつも過ごしている人には想像できないと思いますが、お茶飲み場はとても緊張する場です。というのは、仕事という定型的な話題が出来ない場所だからです。仕事の場は、仕事の話をすればいいのですが、お茶飲み場ではそれだけでは過ごせません。ところが、新参者の場合、何を話して良いのか見当がつきません。みんなで盛り上がって話している中で、無言でいつづけるというのはかなりのプレッシャーです。これを乗り越えるためには、ある程度の期間、聞き続けることが可能になれば、そこでの暗黙のルールが分かります。また、長い間、聞き続ければ、自分でも語れる話題が出るはずです。その時、自分なりに理解したルールに基づき話し、自分を理解したルールが正しいのか試せます。だから、お茶飲み場に長くいれば、やがてはなじむことが出来ます。でも、新参者にとっては怖い怖いものです。

 私がやったのは、お茶飲み場に朝一番に行き、洗い場を綺麗にして、お湯を沸かします。沸かした頃に、ぼつぼつ朝起きの年輩の教授が登場します。そして、その教授のお茶を入れながら自分のお茶も入れます。教授からは「ご苦労様」と言ってもらえます。そして、その教授から色々な話を聞きます。私は終始聞き役です。暫くすると、ぼつぼつと別の先生方が来られ、その先生方が話し合っているのを聞きます。なじみのない人たちの集まっている中に入るのは抵抗感があります。しかし、最初に私が居て、あとから人が集まるのですから抵抗感が低くなります。ましてや、毎日、お湯を沸かして洗い場を綺麗にしていることはみんなが知っているので、ちょっと優位な立場に入れます。

 新参者にとって、「お茶飲み場に来たら」と誘ってくれる一言はありがたいものです。でも、お茶飲み場において果たすべき役割を与えてくれる(もしくは教えてくれる、示唆してくれる)のはもっとありがたいものです。仕事の場においても、お茶飲み場においても、何らかの役割があることが、重要なんだな~と思います。新参者を受け入れる側が心がける点だと思います。

追伸 私は朝一番のお湯沸かしを5年間以上つづけました。

03/12/19(金) このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

*[大事なこと]屑はいない

以前のニッパチ理論に書いたように、集団の2割が8割の仕事をします。残りの2割の仕事を6割の人が行い、2割の人は何も仕事貢献しません。程度の差こそあれ、だいたいの目安としては上記の割合に当たっています。ただし、集団の中に勤勉な人が2割いて、怠惰な人が2割いて、普通の人が6割いる、というわけではありません。というのは、勤勉な2割の人を集めて集団を作ると、その中で同じような割合で何もしない人が生じます。同時に、怠惰な人だけを集めて集団を作ると、その中で同じような割合で勤勉な人が生じます。これは理科実験でも同じで臨床教科教育学会の学会誌にも発表したところです。つまり、怠惰な人が2割いるのではなく、集団が2割の人を怠惰にしてしまうということです。

 本日は、戸北・西川研究室忘年会です。学部・大学院を合わせると二十数人の集団です。ニッパチ理論から言えば、4、5人の屑がいるはずです。しかし、忘年会で面々を実ながら、そんな屑はいないな~と思いました。普通の集団で言えば、 集団の殆どの仕事をしている2割の人が殆どを占めているんです。 もちろん院生さんは全国で選抜を受けた人たちなのですから、平均値が高いのは当然と言えば当然です。学部学生にしても、「厳しい!」と全学学生で有名な研究室入りたいと思う学生さんなのですから、平均値が高いのは当然と言えば当然です。でも、ニッパチ理論によれば、そのような集団においても、怠惰メンバーが生じるはずです。何故なんだろう・・・と思いました。これが分かれば、 教育意味は大きいと思います。つまり、身近に素晴らしい研究題材があるのだと思います。

追伸 忘年会の最初に戸北先生挨拶があり始まりました。院生さんから「最後の話」を頼まれていたので、上記のことを話そうかな~と思いました。しかし、最後の話は院生長老Oさんでした。そして、私は何も話さなくて会は散会です。そして、それをだれも変に思いませんでした。以前のメモに書いたように、影の薄~い指導教官である私はそれをとても嬉しく思いました。

追伸 「屑」という言葉が、不穏当な表現であることは十分に理解していました。あわてて追伸します。怠惰メンバーがいたとしても、それはその人が「怠惰な人」であるとは思っていません。そのメモにも書いたとおり、「怠惰な人」を集めると「勤勉な人」が生じ、「勤勉な人」を集めると「怠惰な人」が生じます。つまり、その人が勤勉か怠惰なのかは、その人の特質ではなく、その集団の特質だと考えています。従って、「屑」という、かなり過激な表現を使いましたが、怠惰な人が屑ということを意図しているのではなく、怠惰な人が生じる集団が屑なんです。仮に怠惰な人が生じた場合、少なくとも管理者は、その怠惰メンバーを責めるより、自分を責めるべきです。

o4dao4da2011/08/21 13:54、そのような集団においても、怠惰なメンバーが生じるはずです。何故なんだろう・・・と思いました。

なぜだとお考えですか?

jun24kawajun24kawa2011/08/21 19:09凄い昔のメモですね。何かありましたか?相対的にはありますが、集団の平均値がかなり高いので絶対的にはいないのだと思います。

o4dao4da2011/08/21 23:41ニッパチ理論を検索していて見つけました。西川ゼミを志すメンバーがよかったということでしょうか。他の集団ではそうではないといえますか?

jun24kawajun24kawa2011/08/22 05:32子ども集団の有り様は、教師の心の鏡です。結果の善し悪しは、全て教師にあります。つまり、少なくとも当時の私は素晴らしかったと言うことです。

o4dao4da2011/08/23 22:22そのときどきのメンバーの能力には差はないのでしょうか。

jun24kawajun24kawa2011/08/24 05:27そりゃ、ありますよ。でも、それを言ってはおしまい。教師が子どもや保護者の条件を前提としたら、進歩は終わりですから。子どもを変えられなくても、自分は変えられますから。

o4dao4da2011/08/25 00:18いつも先生にいっていただいていことかもしれませんが、このやりとりで再確認することができました。またよろしくお願いします。

jun24kawajun24kawa2011/08/25 06:20安心してね。私自身が自身に言い聞かせていることだから。みんな、お、な、じ。

03/12/18(木)

[]悪知恵の正体 17:29 悪知恵の正体 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 悪知恵の正体 - 西川純のメモ 悪知恵の正体 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 「喧嘩の仕方」のメモを書き終わって、私の悪知恵自己分析しました。まず、直感的に「頭にくる」相手が何故、「頭にくるか」を分析します。次に、出来る限りの情報を得ます。具体的には、相手側がやっている「頭にくる」ことを細大漏らさず調べ上げます。次に、その一つ一つがどのような法的根拠があるかを確認します。次に、その法的根拠が上位法に整合しているか否かを確認します。これらの情報は、秘密ではないので、直ぐに知ることが出来ます。特に、事務の人に問い合わせれば、極めて誠意ある回答をいただけます。その結果、分かるのは、相手方のやっていることのそれなりの根拠があることです。同時に、相手が思いこんでいるほど立派な根拠はないことも分かります。そこで、相手が強固な法的根拠があると思いこんでいて、実は脆弱部分がどこかを特定します。あとは、その脆弱部分を破るための正当な手順は何かを特定し、しつこく、かつ、手を代え品を代えて攻撃し続けるんです。

 でも、この悪知恵研究の方法と全く同じです。私の修士論文テーマにして比較しましょう。私が教育研究の世界に足を踏み込んで、頭に来たのは、その研究手法です。理学の場合、一定の前提の元に論理を組み立てていきます。ところが、その当時の理科教育研究では、著者の思いこみを元に、気分の赴くままの随筆を書いているとしか思えませんでした。そのため、一定の実証的データを元に、一定の手続き(私の場合、統計分析の手法)によって結論を出だす研究をしたいと思いました。次に、先行研究(私の場合は電気概念)に関する内外の文献をデータベースと腕力によって、手当たり次第に集めまくりました。次に、どれだけの人数のデータによる研究であるか、そして、統計的手法を用いているかの二つに絞って先行研究を調べました。その結果、従来の研究では調査対象校も少なく、人数も100人程度に限られていたこと、そして、統計的手法が殆ど取られていないことが分かりました。そして、前者原因は、大学研究者現場学校ネットワークを持っていないため、調査協力を得られないためであることが分かりました。後者に関して、先行研究の時代において統計分析は大型コンピュータ自作プログラムを必要としていたため、その能力を持つ人が少ないためであることが明らかになりました。さらに、理系統計分析と、教育における統計分析が異なり、教科教育関係でそれらを使える人が少ないためであることが分かりました。そうなれば、攻撃の仕方は決まります。それは、多数の現場学校の協力を得ること、そして、統計分析の手法を会得することです。前者に関しては、私の指導教官が元文部省(現 文部科学省)の役人であったという関係から、解決できます。後者に関しては、私が大型コンピュータを使いこなせるという特殊能力を持っていたため解決できます。あとは、攻撃あるのみです。私の持っている攻撃の武器が強力であったため、修士論文でありながら二つの学会誌と、一つの紀要に掲載されることとなりました。

 このように喧嘩における悪知恵研究の手法は極めて似ています。ただし、喧嘩研究の違いは、研究の対象は反撃しない点です。私が電気概念の実態を明らかにする手だてをいくらしたとしても、電気概念が私を攻撃しません。研究においては、研究者は攻撃し続ければ良いんです。そのため研究者は、攻撃することは得意な一方、防御の全く不得手な人が少なくありません。つまり、いくら相手を攻撃したとしても、相手が反撃することを予想できないんです。そのため、議論で相手が反論しようものなら、パニックになって怒りまくる人がいます。でも、そうなると面倒なので、相手が怒りそうなところを直接攻撃することは避けるようにします。周りからジワジワと表立たないで攻めると、あっさりと負けてくれます。今までにも、そういう経験が何度もあります。

 数年にわたって徐々に形成した努力の成果として、相手が拠って立つ根拠を無力化する決定が会議でなされるとき、私は平静を装いながら、相手方の顔を見ます。あまり盗み見すると悟られるのではと危惧しますが、そんなことは無いようです。議長が「これでよろしいですね」という確認の後の沈黙を、息を止めて待っていますと、相手方はつまらなそうに「早く終わらないかな~」という顔をしています。心の中で、「おまえはバカか!」と思います。その決定が利いてくるのは早くて半年、大抵は1年後です。それが利き始めると文句を言い出すのですが、その原因が1年前の何気ない決定によるものだということを、その時点になっても気づきません。そこまでくるとおかしくなってしまいます。

 しかし、自戒です。実は、私も攻撃は強いが防御が不得手という研究者の特質を持つ一人です。だから、喧嘩上手の第三者に常に危険評価をしてもらい、多種多様情報を収集し続けるという現在の行動は続けなければなりません。ちなみにこの種のメモを公開すること自体、リスクがありますが、そのリスク評価を受けています。

追伸 大学という職場が怖いところだと私が言うわけが分かったでしょ。でも「喧嘩の仕方」で書いたように、「学習者の利害」を守るためには、戦い続けなければならないんです。あ~しんど・・

03/12/15(月)

[]プレゼント決定 17:33 プレゼント決定 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - プレゼント決定 - 西川純のメモ プレゼント決定 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日は一日かけて息子のプレゼントを探しました。以前から「ドラえもんパソコン、ほしい~」を息子は連呼していました。しかし、先週のおもちゃ屋で探したそれは、対象年齢8歳以上でした。インターネット対応の高度なもので、3歳の息子には無理のようです。私は「ピコ」という機械が気に入りました。理由は、操作がキーボードではなくマウス主体であること、さらに、ソフトが充実している点です。しかし、家内の分析によれば、息子がパソコンをほしがっている理由は、私がパソコンを使っている姿の影響だそうです。そのため、キーボードを押すことを望んでいるそうです。そこで、昨日は複数のおもちゃ屋に行き、実際に触らせ反応を見ました。その結果アンパンマンパソコンが気に入ったようです。対象年齢も3歳以上です。足し算、引き算という部分は息子には無理ですが、言われた言葉をひらがなで入力するゲームはかなり喜んでいるそうです。息子には「アンパンマンパソコンサンタさんにお願いしようか?」と聞くと、「はい」と返事をしました。帰宅後は、「アンパンマンパソコン、ほしい~」と言うようになりました。

追伸 息子に隠れて購入し、普段、息子が入らない部屋の本棚の上に隠しました。

[]名前決定 17:33 名前決定 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 名前決定 - 西川純のメモ 名前決定 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 OBから子ども出産したことを知らせるメールを頂きました。待ちに待ったお子様、自分の過去を重ね合わせると、どれだけ嬉しいか・・。そのメールの中に、名前が決まらないというお悩みがありました。以前のメモに書いたとおり、私の考えるポイントは以下の通りです。

 第一に、JIS第一水準程度の漢字を使い、旧字体等は使わない。理由は、今後のネット社会において、普通コンピュータフォントがない漢字を使うことは不利だからです。

 第二に、「読み」は英語を意識する。国際化社会において、これも重要です。私は「大」という名前を考えましたが、読みが英語において良い意味でないのでやめました。

 第三に、だれも読んでくれないような読み方は避けるべきです。これから一生、私の名前は「○○と呼びます」と説明しなければならない労力を子どもに背負わせることになります。

 第四は、姓名判断の本は、縛られるのではなく、利用すべきです。もし、「○○」という名前を付けたいと思ったら、それが「良い」と書いてある本を探せば良いんです。そのような本が無ければ、「姓名判断なんて、迷信だ」と思えばいいことです(その根拠は以前のメモに書きました)。

 第五に、どんな名前を付けたとしても、それによって幸不幸が決まるわけではありません。どんな名前(上記に反するものも含む)であっても、幸せになれます!

03/12/12(金)

[]喧嘩の仕方 17:48 喧嘩の仕方 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 喧嘩の仕方 - 西川純のメモ 喧嘩の仕方 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は理学部出身で高校教師経験者です。現在の研究を考えると私のような経歴はハンディだと思います。おそらく、理学部でなくとも、文学部、経済学部、芸術学部・・等の教員養成系学部以外の学部出身者、または、教員養成系学部であっても似非○○学部出身者は五十歩百歩のハンディを持っていると思います。従って、理学部以外の方は、それぞれに読み替えてください。

 理学部(正確には筑波大学第二学群生物学類)で4年間育てられる中で、科学の探究が人間の最高の仕事であるという洗脳を受けます。そして、優秀なものはその道(即ち理学部の博士課程)に進むべきであり、教師に進むのは2流、3流であるという環境の中で競争します。私は、書くと長くなるので割愛しますが、色々な事情で教育の大学院に進みました。その中で、理学部に対しての反発から、教育研究にのめりこみました。結果として、大学院の学生としては異常なほどの研究業績を上げて修了しました。ただし、その当時の研究は、対象が酵母(卒研の研究テーマ)を人間にしただけで、基本的に理学部の問題意識と方法論でした。

 大学院で最も尊敬した小林先生(即ち指導教官)は現場経験者でした。一方、現場を全く経験しない先生の授業は納得できませんでした(だから小林先生についたんです)。その経験から、研究に対してやりたいという希望があるものの、現場教師を第一の進路と考えました。自分としては、自分に研究者の資質があるならば、小林先生と同じように本人が無理にあがかなくとも自然になれると思っていました。同時に、現場教師に対して研究者と別種ではあるものの強い志望を持ちました。結局、判断が付かなかったので、時間が決めると考えました。

 現場での経験は鮮烈です。私の勤めた高校は定時制高校で、クラスの半数は純粋なオール1の生徒です。今までの教科指導のイメージは完全に崩されました。しかし、信じられない幸運のおかげで、尊敬でき頼れる先輩教師と管理職のおかげで乗り越えることが出来ました(今考えると、子どもにとっては?だったと反省します)。その高校教師時代、高校教師の研修団体の研修に積極的に参加しました。別に高邁なものがあったわけではありません。新規採用時代は、その研修会に参加することによって天下御免で、授業から離れることが出来ます。毎日、毎日の、手抜きしたら許してくれない子ども達に対する授業案づくりから、半日でも離れられるのは天国です。また、新規採用研修以外の研修も金曜日の夜とか土日にありましたが、それも大学時代に戻ったように理学の空気に触れるのが新鮮でした。

 しかし、そのような研修で違和感を感じました。それは、その研修会に参加する人が、難しげな理学の話を競って議論するんです。私も理学部出身でそれなりの勉強をしているはずなんですが、まったく歯が立ちません。その研修会には高校時代の恩師が世話人みたいな役で参加していました。その先生にそっと、「先生、私には全然ちんぷんかんぷんなんですけど・・」と相談しました。そうすると、恩師は「言っている人も分かっていないんだから気にするな」とのことでした。なるほどと思う反面、なんでそんなにまでして議論しているのか不思議でした。でも、直ぐに分かりました。それは理学部時代の劣等感の補償なんだろうと思います。参加者が理学部での価値観の中で議論しているのですから、理学部的に難しげなことに集中しているんだろうと思います。

 もしかしたら、その文化に染まったかも知れませんが、私は染まりませんでした。理由は、毎日、毎日、教えなければならない子ども達が、そのようなことで納得しないとは明らかだったからです。先に書いたように、私は尊敬でき頼れる先輩教師と管理職に恵まれました。それらの教師は子どもを語っていました。授業のことを語る際、授業の内容ではなく、その授業を受けた子どもの反応を語っていました。その教師の真似をしながら、子ども達と接することによって、理学部の論理を子どもに押しつけたときの泥沼から脱することが出来ました。でも、子どもを語り、子どもを知れば知るほど、抜け出せない泥沼に入りました。その結果、教師としての充実感と比例するように酒量が多くなりました。そして、研究者の道より、教師の道の方が魅力的に感じ始めたとき、上越教育大学に異動の話がおきました。私自身は判断しがたいものがありました。しかし、運命に任せようと感じました。結果として、大学教師になりました。

 大学教師になってからは、大学院時代の研究のように理学部の問題意識と方法論で論文を書きまくりました。たしかに論文は他を凌駕する数だけ稼ぐことが出来ました。でも、心の中で高校教師時代に学んだ「教材ではなく子どもの視点で見る」ということ、そして、子どもとふれあう楽しさということを満足できませんでした。それを脱したのは現場の先生と一緒になって研究する現在のスタイルを確立してからです。

 振り返ってみて、理学部出身の私は理学部の価値観というハンディを持って教師になりました。しかし、理学部の価値観が通用しない学校に勤務することによって、理学部の価値観から脱することが出来ました。でも、その反動として「子ども」に囚われることになります。しかし、子どもに囚われても、子どもも、そして私自身も救われませんでした。そのひずみが私の体(特に肝臓)を壊す前に大学に異動することが出来ました。でも、そのままでは理学部の価値観に逆戻りです。それを脱することが出来たのは、上越教育大学で現場の先生方にふれあうことによって、理学部の方法論と現場での問題意識を融合することが出来たからです。

 こう考えると、偶然の基づくものです。もし、「教育を実証的に研究出来ることを経験した」、「初任学校が最底辺校だった」、「初任校で先輩教師・管理職に恵まれた」、 「上越教育大学という現職教員が院生として所属する大学に採用された」、以上の一つでも抜けていたら今のような研究は出来なかったと思います。それ故、教員養成学部以外の学部出身者、または、教員養成系学部であっても似非○○学部出身者で、子どもに着目する問題意識と、かつ、単なる経験論を乗り越えて学問の方法論を学び取る人に対して、心から尊敬の気持ちを持っています。

追伸 逆に言えば、教員養成系学部出身者であっても、目前の子どもの問題に囚われず、その問題を解決するために、学問の方法論を取り入れられる人に対して、心から尊敬の気持ちを持っています。

03/12/11(木)

[]高校教師 17:41 高校教師 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 高校教師 - 西川純のメモ 高校教師 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は理学部出身で高校教師経験者です。現在研究を考えると私のような経歴はハンディだと思います。おそらく、理学部でなくとも、文学部経済学部芸術学部・・等の教員養成系学部以外の学部出身者、または、教員養成系学部であっても似非○○学部出身者は五十歩百歩のハンディを持っていると思います。従って、理学部以外の方は、それぞれに読み替えてください。

 理学部(正確には筑波大学第二学群生物学類)で4年間育てられる中で、科学探究人間の最高の仕事であるという洗脳を受けます。そして、優秀なものはその道(即ち理学部博士課程)に進むべきであり、教師に進むのは2流、3流であるという環境の中で競争します。私は、書くと長くなるので割愛しますが、色々な事情で教育大学院に進みました。その中で、理学部に対しての反発から、教育研究にのめりこみました。結果として、大学院学生としては異常なほどの研究業績を上げて修了しました。ただし、その当時の研究は、対象が酵母(卒研の研究テーマ)を人間にしただけで、基本的に理学部の問題意識と方法論でした。

 大学院で最も尊敬した小林先生(即ち指導教官)は現場経験者でした。一方、現場を全く経験しない先生の授業は納得できませんでした(だから小林先生についたんです)。その経験から、研究に対してやりたいという希望があるものの、現場教師を第一の進路と考えました。自分としては、自分に研究者の資質があるならば、小林先生と同じように本人が無理にあがかなくとも自然になれると思っていました。同時に、現場教師に対して研究者と別種ではあるものの強い志望を持ちました。結局、判断が付かなかったので、時間が決めると考えました。

 現場での経験は鮮烈です。私の勤めた高校定時制高校で、クラスの半数は純粋オール1の生徒です。今までの教科指導のイメージは完全に崩されました。しかし、信じられない幸運のおかげで、尊敬でき頼れる先輩教師と管理職のおかげで乗り越えることが出来ました(今考えると、子どもにとっては?だったと反省します)。その高校教師時代、高校教師研修団体の研修に積極的に参加しました。別に高邁なものがあったわけではありません。新規採用時代は、その研修会に参加することによって天下御免で、授業から離れることが出来ます。毎日、毎日の、手抜きしたら許してくれない子ども達に対する授業案づくりから、半日でも離れられるのは天国です。また、新規採用研修以外の研修金曜日の夜とか土日にありましたが、それも大学時代に戻ったように理学の空気に触れるのが新鮮でした。

 しかし、そのような研修違和感を感じました。それは、その研修会に参加する人が、難しげな理学の話を競って議論するんです。私も理学部出身でそれなりの勉強をしているはずなんですが、まったく歯が立ちません。その研修会には高校時代の恩師が世話人みたいな役で参加していました。その先生にそっと、「先生、私には全然ちんぷんかんぷんなんですけど・・」と相談しました。そうすると、恩師は「言っている人も分かっていないんだから気にするな」とのことでした。なるほどと思う反面、なんでそんなにまでして議論しているのか不思議でした。でも、直ぐに分かりました。それは理学部時代の劣等感補償なんだろうと思います。参加者理学部での価値観の中で議論しているのですから、理学部的に難しげなことに集中しているんだろうと思います。

 もしかしたら、その文化に染まったかも知れませんが、私は染まりませんでした。理由は、毎日、毎日、教えなければならない子ども達が、そのようなことで納得しないとは明らかだったからです。先に書いたように、私は尊敬でき頼れる先輩教師と管理職に恵まれました。それらの教師は子どもを語っていました。授業のことを語る際、授業の内容ではなく、その授業を受けた子どもの反応を語っていました。その教師の真似をしながら、子ども達と接することによって、理学部論理子どもに押しつけたときの泥沼から脱することが出来ました。でも、子どもを語り、子どもを知れば知るほど、抜け出せない泥沼に入りました。その結果、教師としての充実感と比例するように酒量が多くなりました。そして、研究者の道より、教師の道の方が魅力的に感じ始めたとき、上越教育大学に異動の話がおきました。私自身は判断しがたいものがありました。しかし、運命に任せようと感じました。結果として、大学教師になりました。

 大学教師になってからは、大学院時代の研究のように理学部の問題意識と方法論で論文を書きまくりました。たしかに論文は他を凌駕する数だけ稼ぐことが出来ました。でも、心の中で高校教師時代に学んだ「教材ではなく子どもの視点で見る」ということ、そして、子どもとふれあう楽しさということを満足できませんでした。それを脱したのは現場先生と一緒になって研究する現在スタイル確立してからです。

 振り返ってみて、理学部出身の私は理学部価値観というハンディを持って教師になりました。しかし、理学部価値観が通用しない学校に勤務することによって、理学部価値観から脱することが出来ました。でも、その反動として「子ども」に囚われることになります。しかし、子どもに囚われても、子どもも、そして私自身も救われませんでした。そのひずみが私の体(特に肝臓)を壊す前に大学に異動することが出来ました。でも、そのままでは理学部価値観に逆戻りです。それを脱することが出来たのは、上越教育大学現場先生方にふれあうことによって、理学部の方法論と現場での問題意識を融合することが出来たからです。

 こう考えると、偶然の基づくものです。もし、「教育を実証的に研究出来ることを経験した」、「教育研究が「初任学校が最底辺校だった」、「初任校で先輩教師・管理職に恵まれた」、 「上越教育大学という現職教員が院生として所属する大学に採用された」、以上の一つでも抜けていたら今のような研究は出来なかったと思います。それ故、教員養成学部以外の学部出身者、または、教員養成系学部であっても似非○○学部出身者で、子どもに着目する問題意識と、かつ、単なる経験論を乗り越えて学問の方法論を学び取る人に対して、心から尊敬の気持ちを持っています。

追伸 逆に言えば、教員養成系学部出身者であっても、目前の子どもの問題に囚われず、その問題を解決するために、学問の方法論を取り入れられる人に対して、心から尊敬の気持ちを持っています。

[]質問に応えて 17:41 質問に応えて - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 質問に応えて - 西川純のメモ 質問に応えて - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある大学院生さんから、「子どもたちの持つ素朴概念は国によって違いがあるのか?」という質問を受けました。この質問に応えるには、教育研究とは何か、という本質的な部分に触れるものがあります。そこで、かなり前の「モデル」というメモに書いたことと重なりますが、メモとして再度書いて応えることにしました。

 教育現象のような複雑なものの場合、Aと言うことも出来ますし、非Aと言うことも出来ます。この場合でいえば、「子どもたちの持つ素朴概念は国によって違いがある」と主張することも可能ですし、「子どもたちの持つ素朴概念は国によって違いは無い」と主張することも可能です。そして、どちらにも蓋然性(もっともらしさ)があります。素朴概念というのは、学校教育によらず、日常の経験に基づいて形成された概念を指します。例えば、振り子の周期は重さによりません、しかし、重い重りの振り子と軽い重りの振り子では周期が違うように思います。また、電流量は豆電球で光る前と、光った後でも同じです。でも、光った後は消費され、少なくなると考えがちです。そのような概念を素朴概念といいます。多少の意味合いは違いますが、オルタネイティブフレームワークなども似たようなものです。そのような概念に国による違いがあるだろうか?というのが質問の主旨です。

 例えば、カミロフ・スミス人間発達の認知科学,ミネルヴァ書房,1997)を参照して論を立てれば、子どもたちの持つ素朴概念人間という種、そしておかれている自然法則によって決定されているので、「子どもたちの持つ素朴概念は国によって違いは無い」と主張することが出来ます。一方、西川純(小さな子どもの中で起こる大きな変化:体感物理から観察物理へ、初等理科教育、Vol.34(8)、日本初等理科研究会、36-39、2000)を参照すれば、素朴概念は日常経験に基づくものなので、「子どもたちの持つ素朴概念は国によって違いがある」と主張することも出来ます。

 世の中には大量の先行研究があります。CIJEのような英文論文データベースで検索すれば、山のような素朴概念の先行研究があります(1990年代の構成主義に関わる理科教育研究の和書を読めば、簡単に読めます)。また、理科に関する国際比較にはIEAのような調査があります。前者におけるクレメンス古典的な素朴概念を事例に挙げれば、「子どもたちの持つ素朴概念は国によって違いは無い」と主張出来るでしょう。後者における、学習者の科学観をも素朴概念拡大解釈するならば、「子どもたちの持つ素朴概念は国によって違いがある」と主張出来ます。いずれの研究成果も、事実であります。

 平行線は交わることはないという公理の元にユークリッド幾何を構築出る一方、平行線は交わるという公理の元に非ユークリッド幾何を構築することが出来ます。そして、前者は日常感覚における空間を記述するに適切で、後者は巨大質量によって曲がった空間を記述するに適切な幾何です。どちらも正しく、一方が間違っているわけではありません。つまり、「子どもたちの持つ素朴概念は国によって違いがあるのか?」という質問は不完全で、本当は、「どんな現象に着目しているか」、そして、なによりも「違いがあると主張したいのか、違いがないと主張したいのか」が明らかでなければ答えようがありません。これをいい加減と感じる人もいるかもしれません。しかし、私は教育研究の素晴らしさを感じることができます。

03/12/10(水)

[]睡眠薬 17:50 睡眠薬 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 睡眠薬 - 西川純のメモ 睡眠薬 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 どんなに眠たくないときも、息子の添い寝をすると眠くなります。息子全体から発する遠赤外線を感じながら、息子の規則正しい息のリズムを聞きます。息子を起こさないように、静かにしていると自然に意識が息子の息のリズムに集中します。このときには、仕事イライラを忘れて無念無想になります。座禅も最初は足の痛さが気になりますが、ある一定のラインを超えると、とにかく眠たくなるそうです。分かる気がします。

03/12/09(火)

[]クリスマスの準備 17:51 クリスマスの準備 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - クリスマスの準備 - 西川純のメモ クリスマスの準備 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 スーパーデパート七五三が終わると、早々にクリスマスの装いに衣替えです。12月になり、昨日、我が家クリスマス飾りを出し始めました。腰を振るサンタさん人形とか、クリスマスリースを飾ると、気分はクリスマスです。最近の息子は「ドラえもんパソコン、ほしい」を連発します。実態は分からないのですが、ドラえもんキャラクターテレビパソコンのようです。夫婦は「サンタさんにお願いしようね」と言っています。

 クリスマス飾りの中で、3年前の学部学生さんにもらったクリスマス飾りが息子に大受けです。大きさは縦40センチ、横30センチぐらいの壁掛け飾り(クリスマスツリーの絵が書いています)で、電気を入れると音楽をならしながら光が点滅します。それを見て、息子は「きれい」という言葉を連発します。昨年も見せたのですが、昨年は無反応でした。これも、1年間の成長と思います。家内曰く、「仙台家内の出身地)の光のページェントを見せたら、びっくりするね」と言っていました。

 たしかちょっと前のカルピスの宣伝に、「子どもを持つことによって思い出すことがある」というようなコピーがあったように思います。しかし、思い返すと、夫婦ともそれほどすごいクリスマスの思い出はないようです。それなら、「子どもを育てると、昔味わえなかった感激を味わえる」ことを楽しみにしたいと思います。壁飾りのクリスマスツリーで喜ぶ息子を見て、とりあえずクリスマスツリーを買おうと夫婦の意見が一致しました。

[]納米 17:51 納米 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 納米 - 西川純のメモ 納米 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は納豆が大好きです。枯草菌(こそうきん)という菌が納豆を作ります。この菌は熱に極めて強いという特徴があります。そのため、高温で消毒すると他の菌が死滅するのに、枯草菌のみは生き残ります。枯草菌は藁にいますが、自然界にもうじゃうじゃいます。従って、高温で豆を煮れば、枯草菌のみの発酵作用により納豆が出来ます。納豆パックが売り出された当初、どうやって、ネバネバした納豆を、あんなに綺麗にパックに詰められるだろう、と不思議でした。でも、方法は、煮た豆に枯草菌を吹きつけ、パックの中で納豆にするんです。なるほど、と思いました。そこで、ふと考えました。ゆでたグリーンピースに吹き付けたら、小豆に吹き付けたら・・・どんな納豆が出来るんでしょう。さらに「納米(なんと読んだらいいのか分かりません)」を考えました。作り方は簡単です。自動炊飯器で米を炊き、炊きたての高温状態の米に納豆を混ぜ、あとは保温状態にすれば「納米」が出来ます。米自体が粘るんですから、それに醤油をかければ出来上がりでお手軽です。しかし、米文化の長い歴史を持つ我が国において「納米」が無いのは、それなりの理由があるはずです。なんだろう・・

追伸 納豆が大好きなHに、納米に大好きなナスの漬け物を付けて食べさせたら、その理由が分かるはずです。(立派な義務教育先生になって欲しい指導教官より)

追伸2 Yzさんが大学の時、仲間が実験トウモロコシ納豆を作ったそうです。一度現物にお目にかかると、普通納豆まで食べたくなくなるようなものだそうです。きっと、外国人普通納豆をそのように見ているのだと思います。そうだとしたら、それを食べられる外国人は凄い!と思います。

03/12/08(月)

[]夢にまで出る指導教官(番外編) 17:52 夢にまで出る指導教官(番外編) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 夢にまで出る指導教官(番外編) - 西川純のメモ 夢にまで出る指導教官(番外編) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日の昼休みの食事の際、多くのライバルを「け落として」S県に採用されたT研究室のK君が、「先生が夢に出ました」とニコニコしながら話してくれました。それによれば、上越の町でばったり私にあったそうです。そして、私は「これから金沢仕事に行かなければならないから、送って」と言ったそうです。ちなみに、金沢上越高速道路バンバンに飛ばしても3、4時間はかかる距離です。ところが、K君は快諾し、金沢まで送ってくれたそうです。

 夢の中にせよ、私はなんと図々しく、K君はなんて優しいんでしょう。ちょっと納得出来ません。でも、西川研究室以外の方の夢にまで登場するようになりました。夢は潜在的な願望の反映と言われます。K君は、きっと私に何か「つくしたい」と願っているのに違いありません(それを言うと本人は否定していました)。しかし、夢は正直です。こらからK君に何をお願いしようか考えることにしましょう。

追伸 K君へ。安心して、金沢まで送迎するほどの大変な仕事ではないですから・・・

03/12/05(金)

[]学び合いが不向きのタイプ分け 18:29 学び合いが不向きのタイプ分け - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合いが不向きのタイプ分け - 西川純のメモ 学び合いが不向きのタイプ分け - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は「学び合う」という行動はホモサピエンスの本性に根ざすものであり、それ故、殆ど全ての人が出来るし、やっていると思っています。それ故、出来るのに、やれない状態を改善したいと願っています。ところが、少数ながら「出来ない」人がいます。今日、ふと、その事を考えました。

 「学び合う」に限らず、他者と相互行為をするためには、二つの条件が必要と思われます。第一は、他者と関わりたいという願いを持つことです。第二は、他者の言動から、他者の気持ちをくみ取る能力です。いずれもホモサピエンスの本性に根ざすものであるので、たいていの人はそれを備えています。関わりたいと願い、それゆえ関わり合います。その結果を正しく評価出来るならば、試行錯誤の結果、それなりの他者との関わり方を学ぶことが出来ます。一方、他者と関わりたいという願いがなく、他者の気持ちをくみ取れないという人もいます。代表的な人として自閉症の人がそれに当たると思います。その他に、「他者と関わりたいと願うが、他者の気持ちをくみ取れない」という人と、「他者と関わりたいと願わず、他者の気持ちをくみ取れる」という人もいます。前者の場合は、集団から排斥され、後者の場合は集団から距離をおきます。ちなみに、私は程度は低いとは思いますが後者です。記憶の中で、「いじめられた」経験はありません。また、排斥された経験もありません。しかし、高校になるまで「友達」という関係を結べませんでした。私は、たえず人の気持ちを推し量ってしまい、気疲れし、それがイヤになって距離をおきます。この傾向は今でも続いていて、人間関係が煩わしくなると、それを解決する努力をするより、関係を絶つという方法を取ります。

 私のような「他者と関わりたいと願わず、他者の気持ちをくみ取れる」という子に関しては、教師は集団活動を強制せず、一人で活動する自由を認め、それを教室の文化としていれば、なんとか対応出来るはずです。また、「他者と関わりたいと願わず、他者の気持ちをくみ取れない」という子の場合は、教師の守備範囲ではなく、医者守備範囲のように思います。程度の弱い「他者と関わりたいと願わず、他者の気持ちをくみ取れない」という人は、「他者と関わりたいと願わず、他者の気持ちをくみ取れる」る子と同じ対応をすればいいでしょう。

 「他者と関わりたいと願う」、「他者の気持ちをくみ取る」という能力は人間の本性です。それゆえ、教えなくても獲得出来ますが、逆に言えば、それが教えることは出来ないものです。もちろん、その障害の程度が低いならば時間をかけてある程度改善することも可能でしょう。少なくとも、本質的には変わらなくとも、それと分からぬ程度に「演じる」ことを出来るようになります。でも、「他者と関わりたいと願うが、他者の気持ちをくみ取れない」という子を、どのように対応すればいいのか分かりません。 

 「他者と関わりたいと願わない」なら、とりあえず集団の他のメンバーといざこざが生じません。そのため、集団の他のメンバーと協力しながら時間をかけて改善することが出来ます。ところが「他者と関わりたいと願うが、他者の気持ちをくみ取れない」子の場合、絶えず、集団の他のメンバーと軋轢を生じます。したがって、集団の他のメンバーからの長期の協力を期待出来ないんです。もし、「学び合うこと」自体を目標と設定出来る集団なら、それはそれで解決出来ます。でも、「課題達成」を目的として、その手段としてメンバーが「学び合うこと」を選択している集団に、「学び合うこと」自体を目標を設定出来ません。今のところの私の限界です。

追伸 現在、色々なところで怒鳴り合いの議論をしなければなりません。大抵の場合、私の主張は通ります。しかし私は、本当は議論がいやなので、その議論の相手と違った集団に移りたいと願います。ところが、私の知っている、それなりの地位の人の対応は違います。その人は、「人が集まれば意見が違うのは当たり前だ。だから、いつまでたっても議論はしつつけなければならないよ。それに、君が思ったとおりになっているんだからいいじゃない。」と言われます。理屈としては分かるのですが、「そうまでして、一緒にいたいとは思わない」というのが私の気持ちです。それ故、私は偉くなれないな~と思います(なりたいと思いませんが)。

03/12/03(水)

[]プレゼント 18:31 プレゼント - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - プレゼント - 西川純のメモ プレゼント - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今年の夏休みに20年ぶりの大学同窓会がありました。幹事より、「100円のプレゼント」を用意するよう指令が来ました。会では一人一人くじを引き、そのくじの順番に沿ってスピーチをします。そして、スピーチが終わったら、次のスピーチの人にプレゼントを贈るという企画していました。1万円までのプレゼントと言われれば、40過ぎた人の集まりでしたら1万円のものを用意しなければならず、会費と合わせればかなりの出費です。さらに、上限を決めなければ、これまた、各々の収入が反映されてしまいます。その意味で100円というのは面白いルールです。でも、100円というのもアイディアのひねり方が限定されるので難しいものです。最初は、古銭屋にいって、珍しい100円硬貨を買って送ろうかと思いました。ところが、古銭屋がありません。そこで考えました。100円という限定はあるが、何で包むかは規定はない!そこで、ちょっと気の利いたお財布を買って、そのなかに普通の100円を入れました。でも、会でのスピーチ+プレゼント交換をひとあたり見ていて気づきました。結局、プレゼントはおまけであり、スピーチが主なんです。そして、スピーチで光っていたのは、その人が語りたいことを語っているのではなく、みんなの共通の話題を提供したスピーチなんです。なるほど、と、思いました。でも、分かったとしても自分には出来ないな、と思いました。結局、みんなで楽しむということが下手な人間というのはいるんです(つまり、私)。その人が考えることが出来るのは、物や自分なんです。

 あるOBホームページを読みながら、ふと、思い出してしまいました。

03/12/02(火)

[]不思議 18:33 不思議 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 不思議 - 西川純のメモ 不思議 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある先生からメールが来ました。

 『自分なりに学び合いと立ち歩きを取り入れてみた算数の比例の授業で恐るべきテスト結果が出ました。平均点97点(全国の平均86点)です。子どもたちの力は凄い!業者のテストですが・・・。しっかりと分析したわけではないのですが、私のクラスは習熟度別少人数の学習集団の中で中程度に属する子どもの集団です。なのに、最低点が90点、半数以上が100点です。私との雑談の中で、刺激を受けて同様に、取り組んだ低位生のクラス担当している臨時採用の先生クラスでも平均点90点(最低80点)という恐るべき結果が得られました。どう説明したらよいのでしょうか?驚きです。ちなみに、しっかりと古典的な授業をされているクラスでは、私と同じレベル子どもたちを担当して平均点85点くらいだそうです。本当に不思議です。』

 このことは多くの先生に話しましたが、改めてメモることにします。私にとっては不思議でも何でもなく、ごくごく当然のことです。

 最終的なテストの点数は3つの部分に分かれます。第一は、授業する前から知っていた/出来ていた部分です。その授業をするまえに事前に同じテストをやったとしても、0点になることはありません。その点数が第一の部分です。第二は、授業中に分かった部分です。教師主導の授業の場合、先生の話を聞いて分かった部分です。つまり、授業直後にテストをやったときの点数から、第一の部分の点数を引いた部分です。第三は、テスト前に、教師とは無関係に自分自身(もしくは友達同士)で勉強した部分です。多くの教師は、テストの点数は第二の部分だと考えています。しかし、私は第一、第三の部分に比べると第二の部分は相対的に小さいと思っています。特に、成績の相対的に低い子にとっては「皆無」と思います。このことは意外に思われるかもしれませんが、自身の過去を思い出し、不得意教科のことを思い出して下さい。私の場合は、漢文が不得意でした。その当時の私にとって、漢文の時間は、眠っていることを教師に気づかれないことに全勢力を注いでおり、授業は全く聞いていませんでした(睡眠学習になっていたのかな~(笑い))。それでは、何故、落第点にならなかったかといえば、試験前に参考書を使って丸暗記していたからです。したがって、私の漢文テストの点数は第三の部分のみで構成されています。

 想像してください。全く分からない講義を寝てないふりしながら過ごすのと、「ね~、なんで○○なの?」と友達に聞くのと、どっちのほうが勉強になると思います?また、成績の高い子にとっても、先生の言ったことをカーボンコピーするのと、分からない子に説明することによって自分自身の言葉で語り直す経験をするのと、どっちのほうが勉強になると思います?答えは明らかです。私が「ごくごく当然」と自信を持っているのは、現状の教師主導の授業の場合、第二の部分(つまり授業時間)を無駄にしていると考えているからです。

追伸 ほぼ同時に、別な先生からも別種の子どもの「不思議」話のメールを頂きました。でも、私にとっては不思議でもなんでもありません。私にとっての不思議は、不思議に見えるけど当然の子どもの変化を、数ヶ月の実践で実現出来る先生の方が不思議です。でも、それも不思議でもないのかもしれません。子どもも教師も、とてつもなく優秀なんですから。

03/12/01(月)

[]昨晩のウルウル 18:37 昨晩のウルウル - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 昨晩のウルウル - 西川純のメモ 昨晩のウルウル - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨晩、ある先生からメールを頂きました。ウルウルしました。

 『昨日、○○小学校から○○までクラス子どもたちと歩きました。34㎞の行程ですが、30名全員で完歩しました。久々の感動でしたが、中でも

・途中で足が痛くなった友だちに対して、子どもたちが私に伝えることなく荷物を交代して持っていたこと。

・遅れがちな友だちに2人の友だちが着いてサポートしたこと。私に相談することなく決めて、一人を伝令によこしたこと。

みんなで考えた事だから、絶対にあきらめないと足を引きずりながら歩き続けたこと。また、遅れた友だちを休憩所で1時間も待って、不平不満を一言も言わなかったこと。

 すさまじい、意志を感じましたし、自分たちでやり遂げるというプライドを見せつけられました。結局、スタートから11時間30分後、真っ暗な○○にたどり着きました。感動のゴールでした。本当に嬉しくてメールしちゃいました。子どもに任せて良かった!!!!!!!!!!!』

 私の返信は以下の通りです。

 『ありがとう。ウルウルしています。ところで、子ども達に、感動を伝えましたか?感謝言葉を伝えましたか?感動感謝言葉は評価です、しなければなりません。でも、それ以上に、教師という職業に与えられた最高の権利です。いま私も、感動感謝をつたえるメールを送れることを感謝してます。』

 直ちに返信が来ました。

 『もちろん伝えました。普段は無感動な私が、みんなに声をかけているうちに泣いていました。涙があふれてしまいました。私の涙に子どもたちは、涙目でにやっとしてくれました。私には、これで十分です。思い出すだけで泣けます。

 あのときのみんなの目は私の生涯の宝の一つになるでしょう。教師になって良かった!!!!!』