西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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03/10/21(火)

[]羅漢 21:59 羅漢 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 羅漢 - 西川純のメモ 羅漢 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 亀井勝一郎という人の本を高校の時に集中的に読みました。宗教に対して敬愛の念を持ちつつも、宗教にとって必須である神仏に対する絶対的な帰依を持つことが出来ず、そのことを自責する気持ちが作品のベースにあったように感じます。その気持ちが、当時の私にとってとても共感できるものでした。

 いわゆる仏様というのは悟りの最終段階に達した状態を指し、「如来」とよばれます。その直前の段階は「菩薩」とよばれます。だから、正確には観世音菩薩という名前の観音様は「仏様」ではありません。以降、一般のお坊さんである比丘、比丘尼まで様々な段階があります。 羅漢とは声聞(しょうもん:仏の教えを学ぶことで、煩悩から離れようとして修行する人。 )の最高位です。亀井勝一郎の本に、こんなことが書いてありました。

 羅漢は何かに没頭する姿の象徴である。羅漢の視野は狭く、如来の間は遠く離れている。しかし、羅漢のみが如来に至ることができる。

 大学院時代の私の毎日の様子は以下の通りです。朝10時頃、二日酔い状態で起床(毎晩、夜の10時半から夜中の2時まで院生仲間と飲んでいました)。10時半に大学院生控え室に到着し、直ちに研究を始める。以下、夜の10時半までずーっと机にかじりつきました。例外は昼休みと夕食とトイレぐらい(総計で1時間程度)。したがって、毎日、11時間は研究をしていることになります。そして、毎日1冊は厚手の本を読了することを、最低限のノルマとして課しました。それを1年のうち三百数十日は続けました。その結果大学院時代に読んだ本は数知れません。コメニウス、ペスロッチ等の本。ブルーナー、ガニエ、オーズベルピアジェ等の教育心理学東南アジアを中心とした諸外国教育史。日本教育史。プルーナーの教育評価論。コンピュータハードソフトの本。教育統計学の本。挙げていればきりがありませんが、少なくとも千には達していたと思われます。

 では、それによって何が得られたか?役に立ったものもあります。特に、コンピュータの知識や、教育統計の知識は、私の研究者としての業績の初期を成立させるものの基礎となっています。しかし、それは全体の研究時間の10%もありません。しかし、その直接役には立たなかった90%の時間を費やした文献によって、副次的に三つのことが分かりました。第一に、生かじりの知識をひけらす人(教官も含む)の浅薄さが見えるようになり、ビビらなくなりました。第二に、上記の本を「ありがたがらなく」なりました。第三に、それらの古典はありがたがる存在ではなく、便利な道具であることが、よ~く分かりました。でも、考えてみれば、この三つのことが今の研究生活に役立っているんだな~と感じます。自分と比較するのはおこがましいですが、苦しい修行を続けたお釈迦様が得られた最終的な結論が、「(そんな修行をしなくても)山川草木すべては仏になることができる(「山川草木悉有仏性」(さんせんそうもくしつうぶっしょう))」と悟られたようなものかもしれません。

 院生さん、学生さんは何時間研究をしているのでしょうか?私と同じ11時間とはいいません。その半分でもしているでしょうか?嬉しいことに、多くの院生さん、学生さんはそのレベルを超えていると信じています。全てをなげうち、集中する期間がないならば、研究で何かをなすことはけっしてありません。逆に言えば、一定期間、ある領域に集中して学ぶならば、直ぐに私と対等に話し、そして、私を凌駕出来るんです。私は院生さん、学生さんと話しながら、「すごいな~」と感じる瞬間、ウルウルし、それが何よりの楽しみです。しかし一方、「あれやっていました」、「これやっていました」、「これこれで出来ませんでした」という言い訳を、何度も、何度も聞かされると、「羅漢の話」を思い出します。そんな言い訳なら、「寝坊していました」のほうがず~っと良いように思います。