西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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03/10/16(木)

[]怖い言葉 22:04 怖い言葉 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 怖い言葉 - 西川純のメモ 怖い言葉 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある先生メールやりとりの中でのことです。その中で、ある子どもが体育の時間に自己中心的な行動をしてたため、クラス中から非難を受けました。ところが、クラス中のみんなも当人もケロリとしているエピソードを教えて貰いました。そこで、「なぜ、そんなことが起こったのでしょうか?」というようなメールをしました。その返信の中で、「なぜか知らないけど、私もそうですが、大人は一度ダメなヤツと見てしまうとその考えはなかなか変えられません。でも子供は違う気がします。」という言葉がありました。私は、その言葉がとても、とても気になりました。以下が返信です。

 『メール拝見しました。クラスが良く育っている様子、それを可能としている場を○○さんが確保している様子、よくよく分かります。しかし、一つだけ、書きたいと思います。

 それは、「なぜか知らないけど、私もそうですが、大人は一度ダメなヤツと見てしまうとその考えはなかなか変えられません。でも子供は違う気がします。」という言葉が引っかかりました。この言葉は、子どもの可能性を信じる、「良い」言葉のように響きます。しかし、私は、「怖い」言葉と紙一重のようにも思います。つまり、子どもと自分とは違うという解釈の仕方をしてしまえば、「子どもだから出来ない」という解釈に直ぐに繋がってしまいます。私は、そこで踏ん張って「子どもと自分は同じだ」と考えるようにします。私は「この研究室子供を最大限信じる研究室です。」と申し上げました。その真意は、子どもを自分と同じだけのことが出来る(逆に言えば出来ない)存在だと考えるのです。そして、子どもも、自分も、大人の同僚も、等しく可能性は大きいことを信じるのです。

 その考え方で言うと、○君の状態はおおよそ三つの可能性が考えられます。

 第一は、○君の能力が高いため、帳尻あわせをしているということです。スポーツ選手音楽家の場合、かなり人格的に問題があっても、ある領域の能力が高い場合、許されてしまう場合があります。例えば、長嶋茂雄という方は、そのエピソードから察するに、非常識無知自己中心的な人のようです。でも、野球の能力がそれを補うに余りあるので、非常識無知自己中心的なエピソードも、ほほえましいエピソードとして解釈されるのではないでしょうか?

 第二は、クラスみんなにとって、体育の時間は「どうでもいい」という可能性もあります。昨日、学卒院生さんと一緒に食事を食べた際、キャベツを残しているのを見つけました。そこで、食べるように、色々といいました。でも、結局食べませんでした。しかし、食堂を出る頃には、そのことをすっかり忘れていました。キャベツを残すことは問題かもしれませんが、人格レベルとしてとらえることはありません。もしかしたら、どうでもいい「体育に時間」の問題なのかもしれません。

 第三は、クラスにおいて評価される場面が、とても多いという可能性があります。これは第一と第二の複合みたいなものです。すなわち、体育の時間は大事だけど、それ以外の大事なことはいっぱいある。そして、人格を全体の中で評価している。

第一か否かは、クラス中にたたかれてもケロリと出来るのが、○君だけなのかクラスみんななのかで分かります。

第二か否かは、体育の話題が、体育の時間外でも行われているか、否かで分かります。

両方とも否だったら、第三だということだろうと思います。

どうでしょうか?』

 私は、「子どもは特別に素晴らしい存在だ!」という言葉は、「子どもは特別に愚かな存在だ!」とは違うように見えて、「子どもと自分とは違う」という次元では全く同じだと思います。前者を言わしめるのは教師の善意です。しかし、その善意がなにかのきっかけで後者に陥らないよう、「子どもと自分は同じだ」と考えるようにしています。そして、「子どもも、自分も、大人も等しく素晴らしい存在だ!」と信じたいと願っています。

 かなり以前のメモにも書きましたが、私の頭の枠組みに関して、高校生の時代と違いを感じることは出来ません。おそらく、中学生の時代とも違いがないのではないのでしょうか?小学校高学年当たりとなると記憶は定かではありません。しかし、ポツリポツリと断片的に残っている記憶から察するに、あまりかけ離れた考え方をしていなかったように思います。そう考えてみると、子どもの時の私と今の私との考え方の大きな違いは二つだけのように思います。第一は、繰り返しの経験が無いため、大人にとっては大したことでもないことを、どうしようもなく大変なことだと解釈してしまいます。例えば、運動音痴の私は運動会が大嫌いでした、そのため運動会の前には自殺(もしくは家出)をしようとかなり真剣に考えたことを覚えています。第二は、思春期に限って言えば、コントロール出来ない性欲に翻弄されていました。以前、学生さんに「先生が僕たちの頃には何を考えていましたか?」と真剣に質問されました。私は間髪入れずに「いやらしいこと」と迷い無く答えました。学生時代を思い出せば、その行動のかなりの部分(もしかしたら50%以上)は性的要求に根ざしていたように思います。しかし、この二条件を除外すれば、子どもの時と同じようなことに悩み、同じような解決策を考える様に思います。

 みなさんは、そんなに違います?

[]規制緩和 22:04 規制緩和 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 規制緩和 - 西川純のメモ 規制緩和 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の学内政治における主張の根本は、一貫して規制緩和です。これは大学における17年の苦い経験に基づくものです。

 大学は怖いところです。小中高でも政治が行われるでしょう、人間社会なんですから。でも、その政治に負けても勝っても給料に響きませんし、ましてや職を失うことはありません。ところが大学の場合は、その政治に負ければ給料に響きますし、悪くすると職を失います。だから、建前論ではなく必死になります。

 私の大学人のごく職の頃は、私が教科教育学を専門にしているというラベルに基づき、それ以外のラベル先生方から攻撃を受けることは少なくありませんでした。そのため、教科教育学というラベル先生方が集まって組織を作るべきだと考えていました。しかし、しばらく立つと教科教育学というラベル先生方にも色々いて、一緒に仕事をしたい先生もいれば、そうでもいない先生もいます。逆に、教科教育学というラベル以外の先生にも色々いて、一緒に仕事をしたい先生もいる、それもかなり多くいることに気づきました。その結果、一緒に仕事をやりたい人同士が組織を作るべきだと考えるようになりました。ところが、しばらくすると一緒に仕事をしたいと思った先生と、実際に仕事をし始めると、仕事の相性は最悪であるということが判明することを経験しました。その結果、いまでは固定的な組織自体に反対するようにしています。それでは今の私の考えは何かといえば、第一に出来るだけ情報メンバー同士で公開することが大事だと思います。第二に、その情報に基づいて、その場、その目的に即して組織を作ればいいと思います。別な言い方で言えば、「だれにでも一緒にやれる「可能性」があり、だれにでも一緒にやらなくていい組織」ということになります。この考えに立てば、だれからも拒否されれば、独りぼっちになってしまいます。怖い状態です。だから、無茶苦茶はできません。それが私を含めて全ての人によい状態のように思います。この現在の私の考え方は、学内政治における経験に基づくものですが、うちの研究室での結果も全く一致しています。

 上記の考えに基づいて、どの院生さんも、入ってから研究室を決められ、そして異動出来る権利を確保するよう論陣を張りました。しかし、今考えると、一つ抜けていたようです。つきたい相手につける可能性は、院生さん・教官に共にあります。ところが、つきたくない相手につかなくて良い権利は教官にはないんです。教官院生さんが異質であっても人間的には対等な存在であるならば、これは非民主的な状態のように思えるのですが・・・

追伸 ただし、権利があったとしても発動するか否かは別の問題です。