西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
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03/09/30(火)

[]子どもと関わりたい 22:25 子どもと関わりたい - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 子どもと関わりたい - 西川純のメモ 子どもと関わりたい - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある先生からメールが来ました。その先生TT先生と一緒に学び合いの実践を行い、手がかりを得ています。メールは、子どもたちの変化を喜びと誇りを持って書かれていました。その後に、こんな部分がありました。

 『TT担当と仲良しの友達と3人で夕食を食べながら、先生から教えていただいたことなど話しました。彼は納得していたようでしたし、子供最近の変化にも「すごい」と言っていましたが、「ぼくは子供といっぱいかかわりたいんです~!それで小学校先生になったんです。」と言っていたのが、やけに耳に残っています。でも、授業の学び合いには賛成だそうです。もちろん、学び合いをするようになってから、授業でも休み時間でも笑いが増えたことやみんなで楽しく話することが多くなったことも話しました。また、授業で関わらなくても(かえってその方が)他で子供との関係はい~っぱい作れるという話もしましたが。私の説明が説得力に欠けていたようで、学級を持っていない彼にはわかったのか、わからなかったのか私にもよくわかりません。ゆっくりわかることでしょうか。』

 私の返信は、「このことはメモに書きます」でした。そこで、書くことにしました。

 昨日の「コンパ」というメモに書いたように、教師の仕事子どもと仲良くなることではないように思います。でも、「関わりたい」と願うのはよく分かりますし、教師であればそれを願って欲しいと思います。しかし、願ったとしても、それを押さえて欲しいと思います。このことを学生さんに話すことは少なくありません。特に、教育実習から帰った後に話します。

 まず、教師がいくら子どもと仲良くなっても、「友達」にはなりません。友達になろうとすると、子どもたちには違和感を感じるはずです。想像してください、校長があなたの友達になろうと近づいてきたら、かなり不気味だと思います。学生さんに説明するときは、指導教官である私が、友達になろうと近づいたら、どう思う?と聞きます。学生さんは直ぐに了解します。つまり、子どもたちは友達になろうとしているのではなく、あくまで教師を求めているんです。したがって、教師としての一線を設けるべきだと言います。

 次に教師として、一線とはどこに引けばいいでしょう。以前のメモ(「間合い」(02.6.13))に書いたと思うのですが、学部学生さんが教育実習の終わった後、「子どもから先生の家に遊びに行きたいと言われているのですが、どうしたらいいでしょう?」と聞かれたことがあります。その際言ったのは、「全ての子どもを遊びに来させられるなら、来させてもいいかもしない。そう出来ないなら、やるべきでない」と言いました。その先生は「関わりたい」と願っています。しかし、そのイメージしている関わり方を40人の子どもに等しく出来るでしょうか?私の研究室には15名の院生さん・学生さんが所属しています。たった15名ですが、それだけの人数だったとしても、等しく関われるレベルは限られています。私が以前努めていた定時制高校の一クラスの人数は30人以下でした。意識して、授業に一回は声をかけようと、子どもたちには気づかれないように、こっそり名簿にチェックしたこともあります。しかし、30人に一言声をかけるだけでもかなり困難であったと記憶しています。

 上記は、比較的納得しやすいレベルかもしれません。しかし、我々の考え方で、納得しにくいのは、教師が関わろうとすると、子どもが関わり合うことの障害になるということです。実際、子どもたちの言動をつぶさに見れば、教師が近づいて一言こえをかけることによって、それまで盛り上がっていた子どもたちがシラーとなってしまいます。また、教師を中心になって盛り上がるクラスは、教師がいなくなるとシラーとなりますし、悪くするとイジメがはびこります。

 ということで昨日の「コンパ」というメモのように、「教師元気で留守が良い!」というかなり昔のコピー妥当な線と思っています。

03/09/29(月)

[]紙のメダル 22:27 紙のメダル - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 紙のメダル - 西川純のメモ 紙のメダル - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日は、息子が来年はいる予定の幼稚園運動会です。運動会では、来年はいる予定の児童が招待され、その児童によるかけっこが企画されています。ヴィデオカメラ片手に参加していました。年少児童のお遊戯を見ると、来年はこのレベルまで達することが出来るのかしらん、と不安になると同時に、幼稚園先生に対して限りない敬意を感じました。

 プログラムが進み、かけっこが始まります。先生のかけ声とともに一斉に息子達が走り始めました。なんと、息子はダントツの1位です。他の子どもが三分の二も走れないのに、息子はゴールです。親ばかの私が喜ばないわけはありません。幼稚園先生が、参加した児童に等しく紙で作ったメダルをかけてくれました。自宅に帰ってから、写したヴィデオを夫婦で何度も確認し親ばか丸出しで喜び合いました。最後に、元幼稚園先生だった家内が「幼稚園先生だったとき、こういうの(紙のメダル)を何回も作ったけど、もらってみるとこんなに嬉しいものだとは思わなかったわ」とポロッと言いました。教師にとっては、毎年毎年の繰り返し、何十人、何百人の子どもの一人かもしれませんが、親にとっては特別な特別な存在です。そのことを、ふと再確認しました。

[]習熟度別・少人数学22:27 習熟度別・少人数学習 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 習熟度別・少人数学習 - 西川純のメモ 習熟度別・少人数学習 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、習熟度別学習、少人数学習を学校で取り組んでいる先生が来訪され、その先生と話す機会を得ました。私は習熟度別学習・少人数学習は良い方法とは思っておりません。何故なら、それらは「教師が教える」という前提にたっているからです。しかし、教師が一番良い教え手ではないことは数々のデータから言えることです。また、一般の学校で実現出来る少人数は、せいぜい40人学級を30人、20人学級にする程度です。ところが、学び合いが成立すれば、40人の子どもが40人の教師になるのですから、究極には一人の学習者に39名の教師という状態にすることが出来ます。とあいえ、現場では「少人数」信仰は根強いものがあります。今日、来られた先生がおっしゃっていました。

 『私の地区は、必然的に30人学級になります。山奥の学校になれば十数名になります。僻地校の中には学年一人の学校もあります。もし、少人数学級が有効だったら、そのような学級は基礎学力が高まるはずです。結果として、その学校から進学校にばんばん入るはずです。でも、そんな話は聞いたことはありません。』

 少人数信仰先生方は、この疑問に対して、どう答えるのでしょうか?

[]コンパ 22:27 コンパ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - コンパ - 西川純のメモ コンパ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の指導教官小林先生は酒は強いのですが、酒席は好まれません。そのため、小林先生を交えたゼミコンパというのは3年間の大学院時代、拝み倒して1回だけしかありません。一方、ゼミ生同志は頻繁にコンパをやっていました。特に、一年後輩のT(現国立大学助教授)とは、一日おきにげろをはくほど飲み明かしました。酒好きの私は、自分でゼミを主宰するようになってからは、頻繁にコンパをしましたし、家にも招いてコンパをやりました。しかし、子どもが生まれ忙しくなってからは、自宅に招くことも控えるようになりましたし、外でのコンパも1次会で失礼することが通例となりました。最初の頃は、「こんなに不義理して、何か問題ないかな~」と思っていましたが、全く問題ありませんでした。

 ある先生からメールが来ました。その先生TT先生と一緒に学び合いの実践をしている方です。以下がメールのごく一部です。

 『授業では不登校だった子が、TT担当先生がどんなに声をかけても無視するのですが(まだ他の子が自分の机に向かっているとき)、他の子が彼の所に行くとにこにこと勉強を始めるのです。最近発見です。私たちの気を引こうとしているのか、うっとうしいと思っているのか、でもやっぱり友達と学習することが楽しいのだと思います。やっぱり子供は教師以上ですね。TT担当は彼が気になってしょうがないようす。自分から人に聞けるようになったのだから、自分で聞くのを待とうとTT担当と話し合いました。彼の授業後のアンケートは相変わらず「わけわかんね~」と書いてありますが。』

 このTT先生不登校だった子どものつれない様子が気になるようです。でも、我々教師の仕事子どもと仲良くなることではありません。子ども同士が仲良くなれる場を設定することが本当の仕事だと思います。だから、その子どもから何を言われても、その子どもが他の子どもと仲良くなっているならば喜ぶべきなのではないでしょうか?そんなことをメールで返信しました。

 昨週末、うちの研究室メンバーOBを交えてコンパをしました。コンパの計画が進んでいることは、うすうす気づいていたのですが、知らんぷりしていました。そのうち「先生は参加して頂けません?」なんて来るかな~と思っていましたが、全然、そんなそぶりはありません。そして、指導教官を全く無視して、仲良く盛り上がったそうです。でも、私はそのことをとても誇らしく思っています。

[]良い方法 22:27 良い方法 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 良い方法 - 西川純のメモ 良い方法 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々の考えに共感する先生もいれば、拒否する人もいます。「指導無きところに教育無し」というような、教師が教えなければ子どもが何も出来ない、と固くお思いになっている先生もいます。その先生を説得する良い方法は無いかな~と思っていました。最近、ある先生メールを見て、ある方法が、いい方法だということを再確認しました。その方法は、無理矢理その先生を説得するのではなく、子どもたちに決めさせるようにするんです。ガリガリの指導論者は、「そんなことしたって、どうせ出来やしない」、「どうせ、低レベル結論しか出せない」と思ってたかをくくっています。ところが、いちど学び合いの文化が出来上がった学習集団に議論をさせれば、下手な職員会議より数段上の結論を出します。だって、一番状況を知っているのは子どもですし、その正否の結果を一番シビアに受けなければならないのは本人たちなんですから。その子どもたちの議論の場に、その先生を同席させるんです。そうすればこちらの勝ちです。だって、子どもたちが真面目に出した、正当な結論をつぶせるほどのバカな先生はごく希ですから(皆無とは言いませんが)。

03/09/28(日)

[]会社学校の違い 22:30 会社と学校の違い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 会社と学校の違い - 西川純のメモ 会社と学校の違い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は学び合いによって互恵する関係が望ましいと考えています。学校教育では切り捨てることはすべきでないと考えています。ところが、大学改革や学術研究においては競争的な関係が必要であると主張しています。さらに、大学改革や学術研究の世界においては、無能なものは切り捨てるべきは切り捨てるべきと考えています。どちらのことに関しても、かなりの確信を持っています。それでは両者の違いは何なのか、モヤモヤしていました。しかし、分かりました。それは目標を狭く限定出来ないか(もしくは、するべきでないか)、狭く限定来るか(もしくは、するべきか)の違いのように思います。

 学校教育において評価の対象は実に多様です。例えばテストの点数にしても、教科ごとに得手・不得手があります。全ての教科が得意という学習者は希でしょう。ある面で無能であっても、別な面で有能さで補うことが出来ます。どんな無能な人であっても、24時間という時間は等しく与えられています。その24時間を他のメンバーの役立てることによって補うことは可能です。互いのいたらなさを、互いの有能さで補うことは、メンバーに等しく有利に働きます。仮に、全ての面で有能で、他者からの援助が不必要な学習者がいたとしても(まあ、いないでしょうが・・・)、学習集団の中で生きていくならば、それなりの処世術は必要です。これは、小学校中学校高等学校の教師の環境にも一致します。

 ところが、プロスポーツの世界は違います。求められる能力は極めて限定されたものです。その能力がありさえすれば、人格的にかなりの問題があったとしても、それなりに敬意を持って遇されます。これは一流の音楽家の世界も同じだと思われます。両者とも、努力の要素はありますが、それ以上に才能が左右します。平凡な人がいくら努力したとしてもイチロウ選手にはなれません。才能のある人が、めちゃめちゃな努力をする世界です。 複数のチームを渡り歩いたあるプロ野球選手(一流)が言っていました。曰く「弱いチームは直ぐ分かる。仲良しこよしで傷をなめあっている。強いチームは、隙を見せれば、直ぐにチームメートにつぶされる」と言っていました。怪我で休場しているチームメートの背番号を帽子に付けて出場することが美談として扱われています。しかし、本当にそのチームが強いならば、その美談の陰に熾烈なつぶし合い、け落とし合いが行われているはずです。

 それでは学術研究の世界はどうかといえば、プロスポーツの世界に近いものがあります。最先端の研究の世界で求められる能力は、極めて限定された能力であり、かつ、最高を求められます。研究は常に世界最初を求められ、第二番目は全く評価されません。大学人は教師という側面を持ちますが、研究の能力のない教師は生き残れません。研究能力があって、はじめて、教師として生きていくことが出来ます。もちろん、研究の世界においても協力する能力は必要です。少なくとも、生きているうちに正当に評価されるためには、処世術は必要です。さらに、協力能力を持つことによって、自分の実力の何倍もの力を発揮できます。しかし、小中高の学校における子ども・教師が求められるものに比べれば相対的に低いのは確かです。さらに、独立法人化によって、民間企業のように営利というシンプル目標を掲げる必要が出てきました。

 したがって、ある集団においての関係を定めるのは、やはり、目標のあり方だと思います。もし、その目標が限定的であるならば、競争的であり、かつ、切り捨てもあり得ることになります。しかし、限定的でなく、複雑な要素が絡まるならば、互恵的であり、切り捨ては避けるべきだと思います。それでは、大学教育大学院教育はいずれかといえば、両方の面があり一義的に決まりづらいとしか言えません。難しい・・・

[]おもちゃ王国 22:30 おもちゃ王国 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - おもちゃ王国 - 西川純のメモ おもちゃ王国 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 年休を取って、久しぶりに東京墓参りに行きました。といっても初日の目的は、息子を大好きな新幹線に乗せることです。東京に行ったんだから、どこかに行きたいと思いました。デズニーランドは息子にはまだ早いようです。色々探した結果後楽園のドームシティーにおもちゃ王国というのが出来て、その中にプラレールランドがあるそうです。そこに行きました。とってもよかった。

 平日のため、人があまりいません。入館すると、巨大なプラレール模型セットに息子は魅入られました。また、本当に山ほどあるプラレールに圧倒されました。息子を喜ばそうと、プラレールを組み立てていると、いつの間にか夫婦の方が一生懸命になってしまいました。完成したプラレールセットに息子は大喜びです。近くを通った「おかあさん」がとなりの「おかあさん」に、「ここは本格的だわね」と言っているのが聞こえました。

 ここで1時間半ほど、徹底的にプラレールで遊ばせ、となりにある知育ルームに行きました。そこには世界全国から集められた知育おもちゃがあります。これまた、人が少ないので、じっくりと多種類のおもちゃで遊ばせることが出来ました。充実した3時間でした。

[]入場券 22:30 入場券 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 入場券 - 西川純のメモ 入場券 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の実家東京都営地下鉄線の終点近くにあります。実家に到着してから、息子が地下鉄を見たいと言ったので、都営線の駅に行きました。入場券を買おうと券売機で探しましたがありません。改札にいた駅員さんに「入場券はいくらですか?」と聞くと、「え!?」という顔をされていました。しばらく息子をだっこしている私を見て理解されたようです。「電車を見るだけですか?」と聞かれるので、「はい」と答えると、「それではただで結構です」と言ってくれました。「よ!ふとっぱら」と心の中で思いながら、頭を下げて入りました。地方の駅の場合、見送りがあり、入場券は必要です。ところが、都会の通勤電車では、そのようなものは必要ないため、「入場券」が存在していなかったんですね。東京出身ですが、この年になってはじめて、都営地下鉄に「入場券」が無いことを発見しました。

[]当たり前 22:30 当たり前 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 当たり前 - 西川純のメモ 当たり前 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 数学ではとてつもなく当たり前のことが、当たり前でない場合があります。例えば、大学で1たす1が2であることをペアノの公理をもとに証明する過程を見てえらく感動しました。また、マイナスかけるマイナスが何故プラスになるかを代数学的に証明する過程も感動しました。上記の証明あたりは私でもついていけるんですが、ついていけないものもあります。たとえば、紙に○を書き、その内側と外側にそれぞれ点を一つ書きます。この二つの点を線で結ぶ場合、○の線を横切らなければならないという、とてつもなく当たり前のことを証明する過程は理解不能です。なにしろ20世紀半ばまで証明できなかったんですから・・・(それを聞いて、二度ビックリです)。

 教育研究の場合も、「そんなの当たり前じゃない」と言われるようなことがいっぱいあります。というより、以前のメモで書いたように、教育研究上正しいことは、よく説明を聞けば「当たり前」のことです。「当たり前」でなければ正しくありません。しかし、「当たり前」のことが「当たり前」に一般に認識され、「当たり前」に行われているかと言えば、そうでもありません。何故かと言えば、教育研究の場合、「○○からAが正しいのは当たり前である」という理屈と、「○○からAは正しくないのは当たり前である」という理屈は、同じぐらいにもっともらしくできます。「理屈と膏薬はどこにでもつく」というやつです。

 世の中に「そんなの当たり前じゃない」と言う人がいます。私の場合、そういう人の対処するために、主張したいものの逆の主張の存在を強調し、当たり前でないことを主張します(学術論文の「はじめに」に相当します)。主張したいものの逆の存在を探すために文献を調べることもあります。でも、もっとも効果的なのは、自分の主張することを「実際にやるか?」と問えば、山ほど「そうしない理由」を教えてくれるでしょう。

 相手に「当たり前」という印象を与えたならば、それは主張が伝わったことを示します。あとはレトリック(修辞)の問題です。ちなみに上記は本「実証的教育研究の技法」に書いたことですけど・・・

03/09/25(木)

[]一人一万円 22:32 一人一万円 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 一人一万円 - 西川純のメモ 一人一万円 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先日、学長団と会議でお会いすることがありました。その際、先だっての高校での講演会のことを聞かれましたので、大きなホラを吹いてきました。学長はニコニコされて、「それじゃあ、受験生一人当たり1万円でいいか?」と言われました。二人で大笑いしました。しかし、独立法人化になれば、受験収入は大学の大きな柱になります。それで生き残っている私立大学は山ほどあります。とあいえ、私の話に何かを感じ、一人でも本学を目指してくれたなら、それは最高の名誉です。来年度末に楽しみが一つ増えました。

[]はずかし~ 22:32 はずかし~ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - はずかし~ - 西川純のメモ はずかし~ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 普段の風呂上がりは、素っ裸になって、又を大開にして寝ころび、なかなか服を着ません。ところが、昨日は、服を脱がすと「はずかし~」を連発し、からだをくねくねしました。あっけにとられました。最近は、私たちが意図的に教えていないことを息子は乱発するようになりました。

03/09/24(水)

[]あれから 22:36 あれから - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - あれから - 西川純のメモ あれから - 西川純のメモ のブックマークコメント

ある先生からメールが来ました。それに対する返信です。その先生学び合いをやろうとしたが、うまくいかないと相談されていました。1時間ほど話しました。内容は、学び合いはテクニックではなく、考え方であることを話しました。そして、学び合い活性化させるためには、教えることを控えることをアドバイスしました。その先生からの「あれから」というメールです。差し障りがあると思われる部分を一部修正し掲載することにしました。それにしても、1時間のアドバイスでこれだけのことが出来るというのは驚異です。でも、当たり前のことなのかもしれません。

 我々は学び合いは教える必要はなく、教師が邪魔しなければ生起すると考えます。何故なら、学び合う能力はホモサピエンスの本能だと思っているからです。同様に、学び合いを育てる能力もホモサピエンスの本能なのかもしれません。既存の囚われから逃れれば、その能力は発揮されるのかもしれません。それにしても、センスのいい先生だから、これだけ早く囚われから脱することが出来たんだと思います。二重括弧の部分が、メールに対する私のコメントです。

 ちなみに、このメールを公開する意味は、クラス学習者の諸情報可視化と同様の教育効果を願ってのことであることは言うまでもないことです。

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 あれから、ちょっと悩んだり混乱したりしながら、もう一度自分のクラス学習の進め方について考えました。学校のあらゆる活動は子供たちが主体になった方が絶対いい!と思っていたもののなかなかうまくいかなかったのは自分と子供たちの関係に問題があったのではないかと考えていましたが、やはり自分の進め方と考え方に問題があったと思います。自分の中である程度、関係ができないと学び合いなどできないと思い、そういうチャンスを作っていなかったと反省でした。そしてなんでも自分で進める教師は、自分の立場が危うくなるのではないかという不安からできないんだとバカにしていましたが、私自身が新しいクラスで自分の立場確立することばかりで子供に任せる余裕がなかったのでした。すみません。

 今学期に入り、「夏休み中に先生考えたんだけど、みんなの力をもっと伸ばすためには、1学期の先生がいっつも進めるやり方じゃだめだと思ったの。2学期はみんなにたくさん話し合ってもらいながら、みんなに授業を進めてもらうようにするね。もっとはやく気付けば良かった、ごめん!!」というようなことを話しました。(もちろん、学級目標の話から始めました。)子供たちはなんかとてもうれしそうに話を聞いてくれました。(錯覚じゃないと思います。)

 『それが一番いい方法です。間違っていると思ったら、ちゃんと話し、謝って、協力を求めれば好いんです。』

 それから、授業の中に必ず話し合いの時間を入れるようにしました。初めは「近くの人と話し合ってみてね。」と言いました。班ごとにとも思いましたが、子供人間関係が見たくてそういう指示はしませんでした。初めの2~3日は掃除の割り振りや係決め、合宿の班割りをどうするか等話し合いました。近くの人と・・・と言ってもこれまで話し合いが得意でない子は近くの人とも話しませんでした。また、隣の子を無視して他と話すヤツなどもいました。それでも、子供たちは掃除にしても合宿の班割りにしても、こちらが期待している以上のことを言ってくれました。合宿の班割りを子供たちに話し合わせるのは、賭けみたいなものでした。(中略)子供たちは「合宿はいろいろな人と仲良くなるためにいくんだから、くじ引きとか名簿順とかの方がいい。」とか「いつも仲のいい人とばかりじゃ勉強にならないよ。」などとすごいことをたくさん言ってくれて、学年学級関係なく機械的にわけるということになりました。すごいですね、子供って。

 『子ども馬鹿じゃないですよね。』

 授業の方は、2学期はあらゆる教科で話し合っています。特に算数は12月の研究授業に備えて、はじめの2つの単元は学級担任が自分のクラスを把握し直すためにT.Tでそれから学級を2つにわけて16人のクラスで、その後は習熟度で進めていきます。基礎学力向上のためにその単元に合った、効率よく学べる学習形態を探るということと、この間西川先生アドバイスしていただいたことを参考にさせていただいて、うちの学校では人と関わる力を大切にしているということで、必ず話し合いの時間を入れていき、授業の後にアンケートを取り、データとして残していくことになりました。

 初めの1時間目は三角形の内角の和を求めるという授業でした。「他の人と話し合ってね。教えてもらったり、なにかわかったら教えてあげてね。席をたってもいいよ。」と言いましたが、全く話し合わない子が二人、一方的に聞くだけの子多数、立ち歩く子は二人だけでした。先生の本はまだ全部読んでないのですが、イタイことがたくさんありました。この時間は一人の優秀な子にみんな教えてもらうことになってしまったこと、話し合いは普段の話し方でいいのに子供にそれが伝わってなかったことなどです。でも、ほとんど授業中どころか普段も話をしない○が近くの子に教えてもらって、私が教えるときよりうれしそうにしていました。

 算数2時間目には立ち歩く子が12人に増えました。(席立っていいよと言ってからですが。)もちろん、他の授業でも話し合っているからだと思いますが。3時間目(10日)は子供が「回ってこようかな。」と言って席を立ち、○は他の子に教えてもらってにこにことうれしそうにしていました。しかも、練習問題では自分から人に聞いて学習を進めました。これまででは考えられません。いつもできなくても一人じ~として私に声をかけられいやいややっていたのですから。そしてこれまで話し合いを絶対にしなかった子が席を立って他のこのところに行って笑顔で話していました。それにしても、新学期に「みんな学習を進めてね。」と話してから、最初の2~3日以外は私の所には全然聞きにこなくなりました。

 5時間目になると、これまではいなかった立ち歩いて遊んでると思われる子供が出てきたので、怒ってみました。「これまでみんな学習を進めるって話で、みんながんばってると思ってたのに、席たってふざけてるようじゃこういう勉強の仕方はできない!○○と○○は今日は席立つの禁止!!1学期にもどす?どうする?」と聞きました。でも、子供全員ができるまで待つでいいのだろうかとも悩みました。初めだから待とうと決心したのですが。子供たちは期待通り、「先生、僕たちで進める方が絶対勉強になるから今まで通りにしてください。」と言っていました。私もどこまで黙って見ているべきか悩みましたが、たぶんこれで良かったと思っています。

 『とても良い方法です。その子を叱るのではなく、集団の問題にして、全体に問いかけるという方法が、我々の方法です。』

 これまで学習を進めてきた中で、驚いたのは泣きながら学習していた子が、他の子に教えてもらってうれしかった、よくわかったと言っていたこと、学年一優秀と言われていた子が「○○ちゃんに教えてもらってよくわかった~!!」とか子供たちでどんどんいろいろな解き方を出してきたことです。そして他の場面でも、たくさん話すようになったことや暗かった子が明るくなったり人間関係がよくなってきたことです。また一方的におしえてもらう立場の子はプライドもあるだろうし、いやな思いをするんじゃないかと思いましたが、聞いてみると「うれしい。」とのことで私も安心でした。早く一方的に教えるとかでなく、みんなで学び合うようになれば・・・とあせってます。

 『一つ確認したいのですが、教える方が偉くて、学ぶ方が駄目という意識を子どもに持たせてはいけません。そのためには、教師自身が、その囚われを捨てる必要があります。人には、得手、不得手があります。能力・趣味の違いがあります。それを一様にすることは無理があります。知っている人が、教えるのはあたりまえです。知らない人が、聞くのは当たり前です。でも、それは人間上下関係ではありません。そうでないなら、プライドは問題ないはずです。まあ、出来れば多様な場面で子ども達の相互作用の場を設けてあげることを留意すればいいでしょう。そうすれば、子ども達は、ちゃんと帳尻あわせをしますよ。例えば、うちの研究室で学卒院生さんは、コンパの時の幹事役をかって出てきます。幹事役で汗をかいている彼に、現職院生さんは「ご苦労様」と声をかけています。異質であることは悪いことではありません、それぞれの立場に合わせて、なんか貢献する場を見出すものです。そのために、教師は、多様な場を設けることだけを留意すべきでしょう。』

 でも以外なことに普段は面倒見の良い気の強い女子が一人、「先生、私、人に教えてもらうやだ!」と言ってきました。そしてある子は○に教えてあげるのはいいけど、○が出来ているのに隣で自分ができないにも関わらず絶対に聞かないのでした。でも、これはこういう学び合い学習をしなければ気付かなかったことです。これから学習を進める中で、教え合いじゃなくて本当に学び合いができるようになって、これらの人間関係改善されればと思います。「みんなすばらしい、みんな大事」と子供たちが心から思えるクラスにしたいです。そして、若干一名、優秀だと言われている男が単元終わりの学習の進め方に関するアンケートで「楽しかったけど、それぞれスピードが違うから、やっぱりスピード順に分けてほしい。」と言ってきたことにどう対処しようかと考えています。また、自分の中では話し合いを把握しているのかどうか自分でも不安だということ(やっぱりビデオでしょうか)、今TTをしている先生が「先生はとことん子供に任せるんですね、ぼくもそれはすばらしいと思うんだけど、僕は何をしたらいいんでしょう?」と聞いてくることにどう対処しようか考え中です。とりあえず、「子供がどんな話をしているかよく聞こうよ、きっと毎日進歩してるからさ。」と言ってあるのですが、そして授業が終わると「あの子のここが進歩したんだよ」とか話すのですが、たぶん納得してないみたいです。彼の言うことも理解できますし、簡単にしかも「なるほど」と思わせるためにどうしたらいいか考え中です。

 『教師がやらねばならないことは、い~ぱいあります。「静かにを言わない授業」の最後に書いたように、褒め、つぶやき、可視化する、そして教えない(とぼける)・・・。それに、今の状態の素晴らしさを、一人でも多くの先生方に可視化し、仲間を作ることです。学び合いがうまくいけば行くほど、子ども達は「もっと、もっと」となるでしょう。その時、その望みを叶えてあげるためには、学び合う教師集団が必要となります。』

以下は算数単元終わりのアンケート感想部分です。感動しました。今まで何をしてたんだろうと思います。

・教え合う方が自分がわかるまで待ってくれたりわかりやすく教えてくれたり、教えたりできた。1学期よりだんぜんいい。

・教えてもらうことも教えることもできたけど、男女別れてたから今度から男女一緒にできるようにしたい。(私はここまで考えませんでした。)

・教え合うと自分と違う意見の人がいて勉強が良くわかるし楽しい

・今まで算数はほとんど先生から教えてもらっていたけど友達の方がよくわかるとおもいました。

・35人で教えたり教えてもらったりして、私は教えてもらってばかりだけど、がんばりたいです。たまにいやなときもあったけど算数がすきになってきました。

・友達に教えているうちに説明ができていて自分でもびっくりした。前は説明や理由を言うのがうまくなかったけれど、だんだんできるようになってうれしいです。これからもどんどん教え合いたいです。

・私は教え合ったりして勉強が好きになってしまうかんじがする。またやりたい。

・ぼくはこういうことっていいなと思いました。

・算数がたのしくなった。人の意見も聞けるようになった。

・教えると2回勉強できるから自分の役にたちます。

今日、○に教えたらいつもより早く計算できた。

・1時間目わからなかったこともみんなで考えたらよくわかった。

・なんかしらないけど、すごくわかりやすかった。

その他、ほとんど子供が「もっと勉強したい」と書いてありました。

 『どういう形式で書かせたか不明なので一概に言えませんが、子ども達の、上記の感想を教室に張り出すことは有効ですよ。「学び合いの仕組みと不思議」の環境教育のところに書きましたが、「みんなが・・」という意識はとても大事なことです。』

 私も「学び合い」についてもっと勉強したいと思いました。教え合いじゃだめですよね。

 『その通りです。そして、「学び合い」を通じて、メンバーみんなが、相互に互恵する関係が成り立つことを目指しましょう。』

 西川先生、またメールしますのでよろしくお願いいたします。

 『どうそ、どうぞ。』

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追伸 このメールのあとに、教える/教えられるという関係人間上下関係ではないことに関するコメントに対して直ぐに返信が来ました。とても囚われのない先生です。


[]日本語を国際語にするため 22:36 日本語を国際語にするため - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 日本語を国際語にするため - 西川純のメモ 日本語を国際語にするため - 西川純のメモ のブックマークコメント

 息子を見ていると、自分が普通に行っていることが、すごく難しいことであることに気づくことがあります。その一つが寝間着のズボンの前後です。ズボンの前と後ろを判断する基準は、あるときは縫い目であり、あるときはポッケの有無、あるときはタグの有無など、千差万別です。比較的はっきりとした手がかりであるポッケにしても、つねに後ろにあるわけではありません。なかには前側にポッケがある場合もあります。大人の私は何気なく判断しています。しかし、それを息子に伝えようとすると、複雑なルールであることに気づきます。その複雑さは、外国語に似ているように思いました。

 英語を学んだとき、複数形が「s」を付けるものばかりであればいいのにと思いましたし、過去形は「ed」を付けるものばかりであればいいのに思いました。ところが、不規則な変化をする名詞動詞があります。第二外国語を学ぶようになれば悩む、「男性」、「女性」、「中性」のルールは、まったくナンセンスです。でも、英米人は不規則変化する名詞動詞の非効率を感じることはありません。独仏人は性別のルールを非効率を感じていません。まるで私がズボンの前後ろを何気なく判断するように。だから、変えることはないのだと思います。

 国語審議会メンバーは、日本人ばかりだと思います。でも、日本語を学び始めて間もない外国人をいれてはどうでしょうか?そうすれば日本語の非効率な部分が分かると思います。それらの人の意見を参考に日本語を改良すれば、日本語は国際語に脱皮するのではないでしょうか?さらに言えば、ウラル・アルタイ語族大韓民国モンゴル共和国ハンガリー共和国フィンランド共和国エストニア共和国トルコ共和国と調整したらどうでしょうか?息子が寝間着のズボンの前後に悩んでいる姿を見ながら、ふと考えてみました。

ウラル・アルタイ語:言葉の順序や語形ではなく、助詞・助動詞のような付属語によって格が定まる特徴を持つ言葉

[]不登校 22:36 不登校 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 不登校 - 西川純のメモ 不登校 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある先生から、かなり前にいただいたメールです。その先生が「研究(03.4.21)」を読まれたあとの感想です。その先生は、過去不登校児の個別指導をすることになった経験のある先生です。不登校に悩む先生方に対して意味ある内容と思いましたので、アップすることにしました。なお、差し障りのある部分削除・修正しました。

 『私は、何故か、保護者から彼の家の鍵を預かり、いつも、朝の時間は彼を起こし、朝食をとりながらポンキッキーズを見て、ゲームをしてさあ行くか!と車に彼を乗せての登校でした。すごく矛盾を感じていました。保護者じゃないぞ!私の学級はその当時○○名いました。いつも、俺は○○名の担任で、彼の1人の担任じゃないと思っていました。今までは、教室に行くと、何人かの子どもたちが様々な話しをしに来ます。その機会を奪うことになります。○○名のみんなは、毎朝、とっかえひっかえ来る先生に面倒を見てもらい、1時間目の途中から現れる私にバトンタッチすることに耐えていました。(と思っていました。)申し訳なく思いました。その間、彼らは何をしていたかは不明です。が、ほとんどほったらかしになっていたようです。(中略)

1年間、そんなことを繰り返し、卒業式のとき。ある女の子が私に言いました。

先生、すごかったね。○○の家に毎朝行ってたよね。」

(私)「ごめんね、みんなと一緒に入れなくて・・・」

「ううん。私たちね、先生が毎日○○の家に行ってたから、何かあったときに先生は私のことを助けてくれるっておもったし、みんなもそういってたよ。」

先生もがんばったよ」

(私)「わぁーん・・・・(さらに号泣!!!)」

 分かってくれたんだ・・・6年生にもなれば分かってくれるんだ。正直、感動しました。そして、その後の教師生活の根幹となったことも否定しません。先生の著作、メモなどに触れる前は、一人を救えなくてはみんなを救うことができない。一人一人に寄り添うことが原点だ。やっぱり、私のやっていたことを正しかった。と思いました。

 しかーし、先生の著作などに触れてから、特にこのメモを読んで、ゆっくりと思い起こしたら恐ろしいことに気付きました。もしも、あのとき本当にみんなに何かがあったら、どうしたのでしょうか?と・・・。一人一人が危機的な悩みを抱えて相談してきたら・・・。目が点になりました。はははははっ!実際にはあり得ないよ!と笑ってしまいたいのですが事の大小ではなくみんな悩みがあるはず・・・ですよね。笑い事ではないのです。これが、私の波乗り人生原因かもしれません。「この学級だからとか」「あのときのクラスがよかった」、そういうことが言えてしまうのでしょう。どこかのアマチュアサーファーのように、よい波を求めて流浪の民になっていたのでしょう・・・

 恐ろしい。これの末路がベテラン教師にあるがちな崩壊への道なのでしょうか?プロフェッショナルとは何かということを考えさせられます。と同時に、まだ自分がセミプロであることに気付きました。』

 この先生は、我々のメッセージを正しく捉えて頂きました。蛇足(釈迦に説法)とは思ったのですが、この先生が分かっていることを再度メールしました。以下が私の返信です。

 『拝読しました。

 我々の研究室の考え方を短い言葉にいえば、子どもは有能であるという子ども観、教師はその子どもの有能さをサポートするのが仕事という授業観といえます。さらに、学校教育目的は、人と人とのネットワークを組む場を提供することであり、各教科は、その場を具体的課題を与えるものである、という目標観です。このことは、本にも書いているところです。しかし、我々の本を読んだ方の半数近くの方は、この部分は「建前論」であると読み飛ばすのではないでしょうか?そして、自己モニターをテクニック的に捉えてしまうでしょう。でも、上記は「建前論」ではなく、本質的な部分だと思います。先生、お一人お一人のおかれた状況は千差万別です。それに対して、具体的な方法をとやかく言うのは愚かであり、傲慢と思います。我々は、子ども観、授業観、目標観を提示し、それにもとづいて「もう一つの引き出し」を用意して貰いたいと願っています。でも、このことを理解出来る方は、なかなかいません。我々の研究室に所属される方でも、本当に理解するのは、最低でも半年はかかります。

 さて、上記の子ども観、授業観、目標観で○さんのメールを、違った視点で見たいと思います。

1年間、そんなことを繰り返し、卒業式のとき。ある女の子が私に言いました。

先生、すごかったね。○○の家に毎朝行ってたよね。」

(私)「ごめんね、みんなと一緒に入れなくて・・・」

「ううん。私たちね、先生が毎日○○の家に行ってたから、何かあったときに先生は私のことを助けてくれるって思ったし、みんなもそういってたよ。」

先生もがんばったよ」

(私)「わぁーん・・・・(さらに号泣!!!)」

 とありました。でも、こういうこともあり得たのではないでしょうか?

1年間、そんなことを繰り返し、卒業式のとき。ある女の子が私に言いました。

先生、すごかったね。みんなで○○の家に毎朝行ってたよね。」

(私)「ごめんね、みんな大変だったよね・・・」

「ううん。私たちね、みんなで毎日○○の家に行ってたから、何かあったときにみんなは私のことを助けてくれるって思ったし、みんなもそういってたよ。」

みんなもがんばったよ」

(私)「わぁーん・・・・(さらに号泣!!!)」

 どうでしょうか?私は思います。教師なんて、たかが教師に過ぎません。それも、家庭を持ち、どっぷりと浸かれません。どっぷりとつかれば、自分の家庭が壊れます。不登校子どもを救って、自分の子ども不登校になっては、笑い話ではありません。子どもは優秀です。その優秀な子どもが40名もいるんです。その子どもといっしょにやれることがあったのではないでしょうか?

 子どもは教師に繋がらなくても生きていけます。しかし、子どもに繋がらなくては学校で生きていけません。教師が不登校子どもと繋がらせるべき相手は、自分自身ではなく、子どもではないでしょうか?教師が全面に出て、何かをやれば、子どもがなにかやることの障害になってしまいます。だから、「おれがやるべきだ、ではなく、おれが邪魔になってはいけない」と思うことも出来るのではないでしょうか?私は思います、「一人を変えることは出来ないが、グラス全員を変えることは出来る」と。40人の優秀な子どもたちが一緒になれば、一人の子どもを変えることが出来ます。(すくなくとも、それが不可能だったら、教師なんぞにできるわけありません)同時に、一人の子どもを変える過程で、40人の子ども自身が変わっていきます。そのことが、学校教育目的である、人と人とのネットワークを組む場ではないでしょうか?では、教師は何をすべきか、実は、自身が出向いて行くことではないように思います。有能な子どもサポートすることです。具体的には、子どもたちがそのような活動をするとなれば、不登校子どもの親御さん、それに、クラスみんなの親御さん、校長、同僚に、そのことを説明し、納得して貰わなければなりません。それは子どもの出来ないことで、教師にしかできないことです。私は、よく「子どもと教師との関係は、教師と校長関係に似ている。置き換えて考えてください。」と勧めます。○○さんが校長に訴えていたのは、「校長にやって欲しい」ということではなかったのではないでしょうか、「俺たちが考えているように、やりたいと思っているようにさせてくれ、そのために教育委員会等の盾になって欲しい」ではなかったでしょうか?これが、我々の持つ子ども観、授業観、目標観からの視点から見た見方です。

 でも、繰り返しますが、おかれた状況で判断するのは教師一人一人です。上記の通りのことが、出来るか、出来ないかは私なんぞにわかりませ。でも、魅力的な見方だと思ったなら、「不可能だ」ではなく「俺に出来る」と考えることを、本を通して訴えています。あくまでも、もう一つの選択肢を用意することが、我々の仕事ですから。

 また、メールしてくださいね。』

追伸 このメモを読んで、「子ども不登校児の家にいかせたら、その子どもは1時間目の授業を受けられなくなるから、上記のことは不可能だ」とお考えになる先生もおられるでしょう。でも我々の場合は、分からないとき子どもに聞きます。愚かな教師なんぞには思いもつかない方法を考えてくれます。「出来ない」と考えるか、「子どもたちと共に、いや、子どもたちなら出来る」と考えるかは、一つの選択です。

03/09/21(日)

[]ダジャレ記念日 22:43 ダジャレ記念日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ダジャレ記念日 - 西川純のメモ ダジャレ記念日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今日のことです。息子がニコニコしながら我々に向かって「いちごはなんこ?」と聞きます。我々がキョトンとしていると、一層、ニコニコしながら「いちこ」と言いました。もしかしたら彼にとって生涯最初の駄洒落をかましたのかもしれません。びっくり!

[]管理職に求めるもの 22:43 管理職に求めるもの - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 管理職に求めるもの - 西川純のメモ 管理職に求めるもの - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は、子ども達にとって良い教師とは何かを知りたいならば、自分にとって良い校長は何かを考えて下さい、と現職の方に言います。改めて自分が管理職に求めるものは何か?を問い直してみました。その結果、おおよそ三つに集約できました。ただし、かなり異質で一般的ではないように思います。それに、その三つが本当に正しいのかさえ、ちょっと確信もてない状態です。しかし、備忘のため、現段階での考えをメモることにしました。

 私が求めるのは、同僚の間で議論が分かれたとき、その是非を決定できる基準を与えてほしいというのが第一の望みです。世の中にはAは正しいという理屈も、Aは誤っているという理屈も、それなりにもっともらしくたてることは出来ます。昔から、「理屈と膏薬はどこでも貼れる」というやつです。同僚同士で、議論した場合、議論が平行線になってしまいます。その決裁は管理職にやってもらわなければなりません。ただし、注意してほしいのは、決定ではなく、基準が必要です。つまり、管理職が「総合的に判断して○○」では困ります。「以前から述べている○○という方針に基づき、○○と判断した」というときの方針を明らかにしてほしいのです。そうでなければ、恣意的判断になる危険性があります。また、基準はシンプルなもので汎用性が無くてはいけません。というのは基準の誤解が生じては困るからです。また、複雑な基準な場合も同様です。複数の基準を、その場その場の都合で、使い分ける管理職は品性を疑いたくなります。基準が曖昧な場合、やる気が起こりませんし、何から何まで管理職にお伺いを立てねば計画が立たなくなります。これは教室でも同じです。我々のよく言う、「目標の設定」にあたります。

 私が求める第二は、既存の規制を排除してほしいということです。私は、「助けてほしい」とは思うのではなく、「十分戦えるよう、身につけられた鎖を断ち切ってほしい」と願います。鎖さえ断ち切ってくれれば、助けられなくとも十分に勝てる勝算はありますし、仮に負けたとしても、それは己の責任と納得できます。

 私が求める第三は、第一の基準に基づいて正当に評価してほしい、ということです。職業はボランティアではありません。仮に本人がボランティアと誤解しても、家族にそれを強いるのは誤りです。ただし、この第三は第一と一対をなしています。第三のこれを曖昧にしている人の基準は、大抵は「愛だ、自由だ・・」のような精神論になっています。結果として、議論を決する基準や、計画を立てる基準にはなりえません。我々のよく言う「評価」にあたります。

 おそらく、第一と第三は一般の教室でも、職員室でも同じのように思います。しかし、第二の「十分に戦える」というのは、教室や職員室ではなく、プロスポーツの選手集団や大学の研究室に特有の希望なのかもしれません。

[]学習臨床コースのいきさつ 22:43 学習臨床コースのいきさつ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学習臨床コースのいきさつ - 西川純のメモ 学習臨床コースのいきさつ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 学習臨床コースというコースは上越教育大学を代表するコースになっています。しかし、その成立過程は極めて個人的要素や偶然的な要素が関わっています。成立したからだいぶ立ち時効のレベルになるので公開したいと思います。

 もともとの発端は、私と某コースの教官の議論にさかのぼります。そのころ私とT先生は某コースに所属していました。しかしながら私とT先生がやろうとした教育研究の方向は理解されず、それは「本コースの趣旨にそわない」と言われたこともあります。私としては理解してもらいたく、私と正反対の考えに立つ教授の先生と議論を何度もしました。しかし、何度議論しても分かってもらえません。その教授の先生が最後に言った最後通牒は、「それなら、本コースとは別のコースをたて、出るよう運動しなさい」というものでした。当時は助教授に成り立ての時期で、大学の組織を変えるレベルなんて思いもつきませんでした。しかし、そのころから、「最終的にはその方法しかないのかも・・」と思い始めました。

 本学に「教科教育プロジェクト」というものが開学当初よりあります。本学の教科教育関係の先生方の任意の集団で、定期的に予算を獲得し報告書を出していました。その代表世話人にT先生がなった際、その予算執行に関して相談を受けました。その時、全員一律の均等配分では意味がないから、若手数人に予算を手厚く配分し、その代わりちゃんとした成果を出すこと義務にすることを提案しました。結局、その方向でまとまったので、私と4人の教科教育の若手の先生方で、本学の大学院改革の試案を検討することになりました。方法は、各先生がそれぞれの案を持ち寄り、それをまとめたものを全国の教育委員会にアンケートとして発送したものです。結局、私の方から現在は臨床的と称している現場に密着した案を出しました。これはもとも所属していたコースで実現しようと私が思っていたことです。それと、Naさんからは大学院と学部をつなげた6年コースのアイディアを出しました。この二つを元にアンケートが成立し、実施し、結果をまとめ、教科教育プロジェクトで報告をいたしました。

 そのころ全国の教員養成系大学に、定員削減の嵐が吹き荒れました。結果として、幾つかの大学は教育学部から「○○学部」という別名称に変わりましたし、定員を削減することとなります。当時の学長団にとって、この定員削減をいかにかいくぐるかで頭を悩ましていました。その時にポイントなのは、大学院定員を確保する方法が第一の問題となります。そんな時です。その当時、副学長だったO先生が学生食堂で食べていました。O先生はもともと同じコースに所属していた気安さで、よく馬鹿話をしあいます。その馬鹿話の一つに、「大学院の定員を確保するには、6年制コースがいいよ。学部生の一部が確実に院生になってくれるんだもん」と言いました。その概念を簡単に説明しましたが、O先生はニコニコ笑っているだけでした。

 1週間ぐらいたって、O先生からお呼び出しがありました。それによると、O先生が6年制コースのことを文部省に話したところ感触がよいので、もう少し深く検討してほしいと依頼を受けました。そこで、先に教科教育プロジェクトでの報告をまとめたレポートを渡しました。そして、新コースの名称はどんなものがいいかと問われたので、「臨床」という名称を提案しました。そして6年生コースが成立するためには、現職院生が学校現場に密着した研究を行い、それと学部教育とリンクするアイディアを伝えました。少なくとも本学において、「臨床」が言葉に表れたのはそれが最初です。その後の本学の議論の中で「臨床とは何か?」ということが訓古学のレベルで議論される場に居合わせますが、くすぐったくてしようがありません。だって、「少なくとも、最初にそれを言った際には、あなたが云々している意味を持たせてはいませんよ」ということを考えてしまいます。

 その後、学内改革の中で、そのコースが成立する方向でまとめられました。このあたりは、私自身もビックリしました。だって、食堂の馬鹿話がどんどん大きくなったんですもん。最後のコンセプトをまとめるため、後に初代コース代表になるN先生、後に副学長、学長になるW先生、私、それと教科教育プロジェクトで一緒だったNa先生の4人でコンセプトのすりあわせが行われました。この段階では、私の考える臨床の考え方がほぼ満額認められていました。

 私が拘ったのは二つのことです。第一は、「臨床研究」を「中長期にわたって学びの場を観察する研究」ということは厳密にしたいということです。これは、実践的とか臨床的という言葉が拡大解釈され、結局、今と変わらぬ元の木阿弥になることを恐れたからです。私の拘った第二の点は、研究室が単位となり、多様な形態の教育・研究指導が出来ることです。そのため、必修課目を最低限にし、ゼミの単位を今まで以上に設けることを求めました。

 しかし、このことが最後の最後に崩れてしまいました。幾つかの原因がありますが、学習臨床を立ち上げる際の責任者が代わったことが一つです。それまでW先生が最終責任者としていました。ところが、W先生が人事担当の副学長になるため、教務担当のM先生が担当となりました。そのM先生が教科臨床コースを立ち上げる際に、それまで議論に全く参加されない先生方が入られました。そのため、今までの議論はご破算となってしまいました。文部省にコースのカリキュラムを持っていく関係で、色々な課目を立ち上げなければなりません。私としてはカリキュラムが複雑になることに最後まで抵抗したのですが、最後は「文部省に持っていかなければならない」という理由と、「運用はゼミ展開でやれる」という説得に折れてしまいました。結果として、コース所属の教官である私(それと少なくともT先生)にも分からないカリキュラムが成立しました。このようになった最大の原因は、カリキュラムに関する根本的な考え方の違いがあるように思います。

 科学のように構造がしっかりした学問ならいざ知らず、臨床研究のような新しい学問を学ぶ際、課目の名称やシラバスより、それを語る人が重要だと思います。そして、固定的な必修科目を設けず、選択科目を中心とします。学生さん、院生さんの選択に任せ、長い時間をかけた結果、一定の選択パターンが生じたら、それがカリキュラムになると私は考えています。しかし、そうお考えでない方もいらっしゃます。そして、そのようなお考えの方の方が大学では多いのかもしれません。

 もう一つの最後の最後に崩れてしまったことは、情報、総合が学習臨床コースに取り込まれたことです。二つとも、新たな別コースとして立ち上げることを意図し、それぞれを推進する先生が中心となって、学習臨床とは全く別個に計画をたてていました。直前までは、両者の案は認められなかったのですが、最後の最後になって急に認められ、その帳尻あわせのために学習臨床コースの中に入ることとなりました。そのため、学習臨床という名称はたててはいますが、臨床という言葉と裏腹に、文献研究のみの研究もOKのコースになってしまいました。このことは多くの院生さんにとって混乱を与えたと思います。しかし、教育方法、情報、総合の先生方は極めてジェントルマンの先生ばかりだったので、学習臨床コースの教室運営に関しては良かったと、今では思っています。そのため学習臨床コースは、何でもありで、かつ、ジェントルマンが集まった、ミニ上越教育大学が成立したようなコースになりました。だからこそ、以前に所属していたコースでは絶対に実現出来なかった、研究室所属、研究室異動の権利を院生さんは得ることが出来ました。研究費にしても、基本ベースは職階に関係なく均等になりました。人事の基準は明確にかつガラス張りとなることが出来ました。

 私が某先生に最後通牒を突きつけられてから6年間、教科教育プロジェクトで出した案を食堂の馬鹿話で話し、4人で学習臨床コースの原案を作ってから5年間、学習臨床コースが立ち上がってから4年間たちました。その間中、ず~っと政治闘争の日々でした。振り返ってみれば、前コースにいた時を比べれば、天と地ほどの違いがあるほど教育・研究環境の改善があります。おかげさまで開学以来の最年少で教授になることも出来ました。おそらく、第三者から見れば恵まれているように見えると思います。しかし、私はまだまだ不満です。そして、まだまだ政治闘争の日々は続きます。疲れる~。

追伸 もちろん上記は私から見える見え方で、別の見方から見れば、全く違うように見えることは十分に了解出来ます。したがって、上記は、私というめがねを通したゆがんだ像であることを認めます。

03/09/20(土)

[]疲れた~ 10:05 疲れた~ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 疲れた~ - 西川純のメモ 疲れた~ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日長野高校で、高校2年生を対象とした進路説明会で80分話してきました。土曜日でしたが、学長のご命令ですし、久しぶりに高校生に語るのも楽しみでした。直前までは、なんとかなら~、と高をくくっていましたが、直前になって不安になり始めました。先生大学生相手に話すのはいつもですが、高校生を相手に話すのは17年ぶりです。出来るかしら・・・、と思い始めると不安で、不安でたまりません。私は、「つまらいぞ~」という聞き手のオーラに敏感な方で、それを感じると頭の中が真っ白になります。そのため、急遽、発表OHPを吟味し始めました。一昨日は学部生を私の部屋に呼んで、下案を聞いてもらってコメントを頂きました。しかし、自分で話しながら、「う~ん、つまらない」と感じてしまい、自己嫌悪を感じました。それから色々とOHPの内容を吟味し直し、頭の中で色々とシュミレーションをしました。結果として、高校生だって、大学生だって、教師だって、たいして違いはないじゃん、ということに気づきました。考えてみれば、私の話し方のスタイルは、高校で話していたときと、大学で話しているときと、教育センター等で講演しているときに違いはありません。そこで、教育センターでの話を基本として、上越教育大学の学部の宣伝を最後に加味する話の組み立てにしました。これで白けたら、80分は頭の中が真っ白で、自己嫌悪を感じつつ話せばいいと開き直りました。

 朝早くに出発し2時間かけて到着、10分後には80分の話をしてきました。幸い、反応は教育センターでの講演と同じでした。話し始めて直ぐに、「な~んだ、同じじゃん」と感じ、安心しました。そうなれば一気呵成に語れます。少なくとも寝る子はいなかったと思います。私は気持ちよく話せました。話を終えて控え室でお茶を飲んでいたら、10人ほどの女子生徒が質問に来ました。質問の内容は、「先生に向いている人ってどんな人なんでしょうか?」というものでした。そこで、メモに書いた「教師に向いている・むいていない」(01.3.16)の内容を簡単に話しました。話し終えて控え室の中に戻ると、廊下の方から、その生徒さん達が「上越教育大学入りたい」と言っているのが聞こえました。心の中で、もし来年受験の際、この高校から受験生がいっぱいきたら、学長たっぷり恩にきせてやろう、と心の中で思いました。

 早く帰宅したいので、高校で用意する弁当高校で食べるのを断り、高校先生に用意していただいたコンビニのお結びとサンドイッチを運転しながら食べて、高速道路で家に直行です。移動時間を含め6時間の強行軍です。疲れた~。でも気分がいい!

03/09/19(金)

[]ほめる? 10:06 ほめる? - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ほめる? - 西川純のメモ ほめる? - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は全体ゼミです。1週間前の「つぶやく」は正しく受け止められていました。色々なチャンネルから、院生さん、学生さんが一生懸命に何かやっているらしいことは感じられます。しかし、学習者を信じて、方法に立ち入らないのが我々の考え方です。そして、私に詳細を伝えようとしたら、「それは、あんたたちの問題で、私の問題ではないよ」と冷たく突き放されることは十二分に了解しているので、院生さん、学生さんは私に詳細を語ろうとはしません。最大限に言っても、「任せてください」、「信じてください」程度です。

 色々なOBから心配のメールを頂きました。ありがとう本日の全体ゼミは心地よかった。過去ゼミが二重写しになりそうです。こういう場合は、わざと声を大きくして「褒める」のが我々のやりかたです。そのほめ方は、詳細は語らず、「良かった」ということのみを伝えます。そこで、褒めようと思いました。しかし、やめました。理由は全体ゼミの次の時間にあった4年生の学年ゼミです。

 4年生の学年ゼミは、私の研究室で、私と関係なく、4年生同士で議論しています。本日もそうでした。特に、明日の講演の準備のため、彼らが議論している脇で、OHP原稿を打ち込んだり、印刷したりでどたばたしていました。しかし、耳はしっかり彼らの議論を聞いていました。指導教官バカですが、彼らの議論はすごい!どう考えても、経験10年以上の一流の教師を4人集めて、議論しているとしか思えません。ところが、目を向けると、茶髪でひげを生やしたにーちゃんを含む、にーちゃん、ねーちゃんが4人いるのですから、混乱します。彼らの議論の十分の一(気持ちとしては百万分の一と言いたいが遠慮して)の議論が学会で聞くことは希です。ましてや、「俺は偉いんだ~」、「俺は知っているんだぞ~」、または、「俺はおまえが嫌いだぞ~」という心の声が聞こえそうな、現場ありがちな授業検討会では100年(気持ちとしては生命の歴史40億年と言いたいが遠慮して)たっても聞けない議論です。

 彼らは自分たちが普通に会話している会話のレベルの高さに気づいているのでしょうか?現職院生さんの場合は、過去の経験から西川研究室での会話のレベルを相対的に評価することが出来ます。しかし4年生は、そのような経験がありません。学校に勤めて、初めて気づくのかもしれません。もし同級生と子どもの姿を議論したら、レベルが違いすぎて議論にならないと思います。そして、ふと思いました。西川研究室の現職院生さんは全体ゼミでの彼らの発表を聞いて、彼らのレベルの高さを知っています。しかし、その院生さん達も、私が聞いているような学部学生同士の議論を聞いたら、さらにビックリするだろうと思います。ということは、彼らのすごさは全体ゼミに十二分に出ていないことに気づきました。ということで、褒めることは中止しました。

 贅沢だな~とは思うのですが・・・。でも、教師が望み、その望みが学習者が納得できるものであるならば、教師の望みは叶います。だから、望みます!

追伸 Hへ。例外的におまえを褒める。何故褒めたいのか自分でも分からないが、でも褒めたい。う~ん、何が良いんだろう・・・?

03/09/18(木)

[]ほっぺの魅力 10:08 ほっぺの魅力 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ほっぺの魅力 - 西川純のメモ ほっぺの魅力 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近の息子は、私や家内に向かって、「おとうさん、かわい~い」、「おかあさん、かわい~い」を連発しています。もちろんのこと、私はでれ~っとなります。可愛いと言われるなんて、数十年ぶりのことです。あまり連発するので、家内が「お父さんのどこが可愛いの?」と聞きました。息子はきょっとんとしていましたが、しばらくして、「ほっぺ、かわい~い」と自信を持って答えました。みなさん、私のほっぺは可愛いそうです。

03/09/17(水)

[]学生さんは金鉱 10:09 学生さんは金鉱 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学生さんは金鉱 - 西川純のメモ 学生さんは金鉱 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は全体ゼミでは座っているだけのことが多いようです。終わってから院生さんに「飯いこ~、飯いこ~」という発言が一番元気な発言のことが多いように思います。しかし、全体ゼミで聞いているだけで勉強になることが少なくありません(いや、いつも勉強になります)。その中でも凄い発言には、「う~ん」と唸ってしまいます。そのような唸らせる発言というのは、学生さんからの発言が少なくありません。少なくとも、総発言数との比率でいうなら、圧倒的に学生さんの発言が高率のように思います。現職院生さんも私も教師です。教師は教えることの経験が豊富な一方、凝り固まった部分があります。さらに、我々の場合は、我々の既存のパラダイムに凝り固まっています(特に私)。そのため、そのため個々の発言を吟味すると、戦術的には優れたものですが、戦略的なレベルになっていないことが多いように思います。それに対して、学生さんは囚われがないため、我々のパラダイムを一歩進ませる戦略的なレベルな発言が多いように思います。それも、本人が余り意識せずに、ぽろっと出た発言にそのような宝が多いように思います。仮に唸らせようなんて考え発言したら(そんな学生さんはいませんが)、陳腐なものになるでしょう。学生さんの何気ない疑問、感想、それが宝です。

 同様に、学生さんの研究発表重要意味を持ちます。というのは現職院生さんの場合、力のある中堅教師です。そのため、我々の考え方に不備があったとしても、その本人の力量でなんとかしてしまいます。ところが、学生さんにはそのような力は不足しています。そのため、我々の考え方に不備があれば、それが結果に直ぐに表れます。我々の考え方のコアになる部分は、そのような学生さんの研究における壁を越えることによって明らかになりました。たとえば、ある先生の授業を丹念に観察した結果子どもたちが活発に活動するようになりました。その原因先生の指導方法に求めていました。ところが、その先生は何もしていません。どうしようもなくなりました。しかし、そこで「教師がやったから子どもは変わるのではなく、教師がじゃましなければ子どもたちは変わる」ということに気づきました。また、自己モニター等の方法が有効であると考え、何も知らない先生にそれを実践して貰った姿を観察した研究をした学部学生さんがいます。その結果は、悲惨なものでした。はじめは、何で自己モニターをやったのに子どもたちが変わらないのか不思議でしょうがありません。しかし、実際の授業の姿を見ることによって、「自己モニターという方法が有効なのではなく、自己モニターの背景となる子ども観、授業観が重要」であることが分かりました。そして、それがないと、自己モニターが形骸化することも明らかになりました。もし、この研究を現職院生さんがやったら、途中で自身が授業する等の方法によって帳尻あわせをして、問題を表面化しないと思います。

 我々の研究を育てるのは現職院生さんです。しかし、我々の研究を一つ高い次元に進ませる場合、素人で、それがゆえに囚われのない学部学生さんの力が重要です。それゆえ私は、学部学生さんの発言を敬意を持って常に謹聴しております。

[]本日のウルウル 10:09 本日のウルウル - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 本日のウルウル - 西川純のメモ 本日のウルウル - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、Iさんが報告に来ました。会議直前で資料を作成している関係で、一生懸命に話しているIさんを尻目に、他の仕事をしていました。しかし、しっかり聞いていました。

 やはり、子どもを丹念に見た労力と、成果は比例しているように思います。夏休みの段階から格段に良くなりました。昨年のMさんは立ち歩きの分析をしています。本日のIさんの報告は、それを越えるものを出しました。一言で言えば、立ち歩きによって子どもたちは課題に関する情報を得ているだけではなく、学び合いの文化を吸収しているということです。言われてみれば、あたりまえです。周りの楽しそうな班、つまらなそうな班の様子を知ることは、自分の班における行動に影響を与えます。

 心に響きました。ウルウルしました。

03/09/14(日)

[]つぶやく2 10:14 つぶやく2 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - つぶやく2 - 西川純のメモ つぶやく2 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 学び合いは、子ども達全体で作り上げるものです。しかし、姿が端的に見えるのは、そのグループリーダー格の子どもです。子どもグループの中で、学び合いが起こる前も、起こった後も、相対的なオピニオンリーダーは変わっていません。しかし、表出の様相は、前後で変わります。学び合いが成立する前は、俺が考え、俺が段取りをし、俺がやり、俺が後始末をします。学び合いが成立した後は、みんなが考え、みんなで段取りをして、みんなでやり、みんなで後始末をします。そして、リーダー格の子どもは、それぞれの段階でサポート役(モニター役)になります。そして、ちょっと目には、そのように見えません。つまり黒子(くろこ)になるんです。

 今までの研究の蓄積からまとめると、その変化の過程は以下の通りです。従前の教室の状態では、課題解決が優先されています。しかし、それ以上に重要なのは、リーダー格の子どもが他の子どもの有能さを気づいていませんし、他の子どもも自身の有能さに気づいていません。そのため、上記のような「俺が、俺が」という行動になります。そこで、教師は学び合いの文化を導入します。その方法は、リーダー格の子ども、そして他の子どもが、客観的に「嫌な人間」に見えることを、メンバー全員に可視化します(具体的には自己モニター)。その結果として、リーダー格の子どもは、課題解決を一度、脇に置いて、メンバーと協力するようになります。その状態で起こるのが、「司会役」という存在です。即ち、発言の少ない子どもに発言を促し、補う行動をするようになります。少なくとも「学び合う教室」の時代では、私はその行動を良い行動だと評価していました。しかし、今はそう思っていません。

 司会役が生起することによって、徐々に他のメンバーが発言数が上昇し、他のメンバーの率直な疑問がリーダー(司会役)に向けられます。その時点に大きな分かれ目があるようです。そのことを、「学び合う教室」時代には見落としていました。リーダー格の子どもの中には、学び合うこと自体を目的として行動し始めるのですが、他のメンバーの発言を聞き、話し合うことによって、他のメンバーは実は有能であることに気づく子が生じます。そして、他のメンバーも、自分の中に有能さがあることに気づくようになります。そうなると、メンバーの間に上下関係消失します。メンバーの全てが促されなくても発言するようになります。こうなると、学び合うこと自体を強調する必要性は全くありません。さらに進むと、いわゆる整然とした会話ではなく、ローカルな会話、オーバーラップ会話が増加します。このような集団には司会役は消滅します。昨年の西川研究室ゼミは、この状態に達していました(もしくは、近い段階に達していました)。

 しかし、残念ながら全てのグループはそうなるとは限りません。リーダー格の子どもは、学び合うことを目的として、司会役をこなすなど、それなりの努力をします。しかし、もし、いつまでたっても他のメンバーの中に有能さを発見できなかったり、他のメンバーが自身の有能に気づくことが出来ない場合はどうなるでしょうか?リーダー格の子どもも一定の期間は、課題解決を脇に置き、学び合うこと自体を目的とすることは出来ます。しかし、1ヶ月半もたつと、何故、課題解決を脇に置くのかが分からなくなってしまいます。そうなってくると、「何でこいつらとつきあって行かねばならないんだ!」となります。そして、その苛立ちの矛先は、そのグループの中で、もっとも有能さを感じられないメンバーに向けられます。結果として、そのメンバーを排斥する行動をするようになります。そして、他のメンバー同調するようになります。1ヶ月もたつと排斥が完了します。しかし、排斥が始まった段階で学び合いの文化は形骸化します。そこに残るのは、一緒に一定の場所にいるという形式のみがのこります。そのため、排斥が完了したときには、メンバーの間に凝縮力は存在せず、そのグループの速やかに完全に崩壊します。

 前者グループ後者グループを比べたとき、リーダー格の子どもの行動が決定的に違います。しかし、前者がよい子で、後者が悪い子だとは思っていません。前者は他のメンバーの有能さを感じたから、つねに他のメンバーサポートをやれたんだと思います。他のメンバーの有能さを感じたから、司会役を離れることの意義を積極的に感じたのだと思います。決して、人間性が優れたからではなく、そのことが課題解決の目的矛盾がなかったからです。逆に言えば、後者の子は、他のメンバーの有能さを感じられないにも関わらず、グループであることを教師に強いられた、ある意味被害者なのだと思います。

 学び合いに問題が生じた場合の兆候は、いくつかあります。たとえば、いつまでも司会役が消失しない、常に発言しないメンバーがいる、一緒にやる場において欠席・遅刻する。これらは、別々に見えて、実は同根です。その大本は、リーダー格が他のメンバーの有能さを感じておらず、他のメンバーが自身の有能さを感じていない(もしくは、リーダー格の子に有能だと思われていないと思っている)ことに由来します。したがって、そこを変えずに、形式的に司会役を消失させたり、出席・発言を強いたばあい、もっと深い問題になる可能性があります。問題は方法のレベルで解決出来ません。学び合の文化で最も重要なコアは、他のメンバーに有能さを感じる、他のメンバー馬鹿にしない、ということです。そこを何とかしなければなりません。

 根本的な問題は、教師の問題です。でも、なんでもかんでも教師がやるというのであれば、結局、教師主導に過ぎません。それに、学習者個々のレベルのことを解決出来るのは、学習者しかありません。教師の出来ることは場を設定することです。それでは、どうしたらいいか?難しいことです。でも、その手がかりはあります。特に、現職の方は。自身の過去を振り返り、やりやすかった職場を思い出してください。その時、先輩教師、教務主任・・は自分に対して、どうだったか?逆に、自分は後輩教師に対してどうだったか?そして、そのような関係が成立したのは、学校のどのような場がさせたのか?そして、その場を成立するに、校長に何を求めたか?このことは、やりにくかった職場と比較すれば、より明確になるはずです。それを愚かな教師に教えていただければ、愚かな教師も気づきます。

追伸 本日、私は44歳になりました。つまり、私が大学卒業した年に生まれた子どもが、大学卒業する年です。大学卒業してから、22年間も学問の世界にいるにもかかわらず、未だに分からぬ事ばかりの愚かな教師です。とほほ・・

03/09/12(金)

[]つぶやく 10:15 つぶやく - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - つぶやく - 西川純のメモ つぶやく - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々は学習者は有能であり、学習者相互の学び合いによって解決し得る、と信じています。しかし、それでも誤った方向に進む可能性があります。その原因は、学習者集団に対して、教師が正しく目標を与えていないからです。つまり、教師の責任です。その場合、教師は再び、目標は何であるかを伝えなければなりません。一つの方法は、学習者集団を集め、熱く語るという方法があります。しかし、もう一つあります。それは「つぶやく」という方法です。つぶやくという方法は、教師が誰に向かって話すわけではなく、それでいて学習者集団全員に伝わるよう声を大きめに語るという方法です。

 我が全体ゼミの議論の質の高さに関して、かねがね私は誇っております。現在ゼミの議論の高さに不満はありません。しかし、我々が目指した最終段階に達していないように思います。せいぜい、学び合い研究を始めて当初に明らかになったレベルにとどまっているようです。異学年学習研究したKi閣下や、Koさん、Mさんの示す学習者の姿は、私の心に響き、ウルウルさせるものです。そして、昨年の全体ゼミは、その姿に極めて近い段階に達していたように思います。しかし、現在の姿は、その姿から離れているように思います。自らが積極的に学び合いに参加することは、自らの目標達成に役に立ち、かつ、自らが所属する集団の目標達成に役立つこと。そして、自らの集団を高めることが、自らを高めることであること。そのことは我々が一番分かっていると思っていました。

 なぜ、私の心に響かないのだろう?私の何が足りないのだろう?どうしたらいいのだろう?色々考えました。しかし、愚かな教師には思いつきません。そこで気づきました。方法は学習者が考えるもの。教師は目標を与え、評価するもの。それなら、「自らの集団を顧みて、自らの心に響く姿になって欲しい」という目標を与えることにしました。そして、「現状は私の心に響かない」という評価を与えることにしました。そして、それらを「つぶやく」ことにしました。

03/09/09(火)

[]オリジナリティ 10:24 オリジナリティ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - オリジナリティ - 西川純のメモ オリジナリティ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先日、某大学大学院生の方からメールを頂きました。「学び合う教室」の読者様です。色々とありがたいお言葉を頂きました。若い真面目な方からのメールは元気を与えてくれます。その中に、「オリジナリティをどうやって出せるか?」という質問を頂きました。院生さんはメモの読者だそうなので、メモで返事を書こうと思います。

 学術論文では、今まで誰も知らなかったということを明らかにしたことを評価します。どんな凄い発見であっても、だれかが既に発見していることが分かれば、無価値となります。そのため、いやしくも学術論文の最初には、今までどこまで研究がなされ、この論文のどこが新たな点(これをオリジナリティと言います)であるかを明示します。

 それではオリジナリティを出すにはどうするか?教育研究に関しては、それほど難しくありません。それは教育研究カバーしている範囲に比べ、研究している人の人口は少ないので、穴だらけと言っていいでしょう。だから、どんな研究をしようと「絶対」にオリジナリティはあります。問題は、どこにオリジナリティがあるかを発見し、それが重要だと言うことを納得させるかです。どこにオリジナリティがあるかを発見するためには、関連する先行研究を、効率よく見つけられるかにかかってきます。関連する先行研究が集まれば、それを注意深く比較検討すれば、絶対に穴があるはずです。例えば、調査内容とか、調査対象などが代表的なものです。仮に、今までの研究では中学校高等学校を対象としていたが、小学校は対象となっていなかったと分かったとしましょう。そうした場合、小学校研究することが大事なんだということを調べます。方法は、小学校教育一般に関する代表的な文献を引用したり、小学校を対象としているが別な調査内容を扱っている一定レベル以上の研究引用したりします。このあたりのノウハウについては、「実証的教育研究の技法」に書きました。このあたりのノウハウが有るか無いかで、論文がどれだけ書けるかが決まります。そして、職業研究者として生き残れるか、否かが決まります。

 以上が、大学院生さんレベルが求めている回答です。しかし、その先があります。本当のオリジナリティ、そして、自分の心に響く研究をするためのオリジナリティは別の次元にあります。それは、一般には当然の前提としており、疑われなかったものとは逆のことを明らかにした場合、本当のオリジナリティです。

 我々の研究室オリジナリティは、「教師は教えることがうまい」という常識を覆し、「教師より学習者の方が教えることがうまい」ということを明らかにしました。また、「教師が教えたから子どもが変わる」という常識を覆し、「子どもは自ら学ぶもの、だから、教師が邪魔をしなければ子どもは変わる」ということを明らかにしました。また、「良い授業のためには良い教材、良い指導法が必要だ」という常識を覆し、「教師の子ども観、授業観、目標観という考え方が重要で、それさえあれば普通の教材、普通の指導法で良い授業が出来る」ということを明らかにしました。以上のようなオリジナリティをあげていけばきりがありません。少なくともうちの研究室院生さんの場合、少なくとも一つは、上記のレベルオリジナリティのある修士論文研究を行っています。そして、私はそれを誇りに思っています。

 それでは上記のようなオリジナリティをどのように得るかといえば、ごく普通研究するしかありません。奇をてらって、わざと常識の逆をねらったとしても、まず失敗します。常識はそれなりの妥当性があるから常識となっています。その逆を出そうとねらったとしても、うまく出るわけはありません。我々の場合も、最初から狙っているわことは無いわけではありません。しかし、本当に面白いオリジナリティは、ねらったものではなく、むしろ副産物として出ることが多いように思います。それでは何故、ねらいもしないのにもかかわらず、常識を覆すオリジナリティが出るのかと言えば、今までの研究が見ていたレベルを超えた、常識を越える方法で現象を見ているからです。今までの研究が、アンケート用紙や、一度か二度程度の授業観察をしているのにもかかわらず、我々の研究室では数ヶ月の授業を見ます。それも複数回見ます。そして、授業観察の記録も、1台のビデオカメラだけではなく、数台のビデオカメラ、10~40台のカセットテープレコーダー(最近ICレコーダー)を使い、文字通り、全ての子どもの、全ての言動を記録するという方法をとります。光学顕微鏡しかない時代に、電子顕微鏡をもっている人を想像してください。別次元の分析方法を持っていれば、別次元結論を出すことが出来ます。

 つまり簡単にまとめましょう。一般的には、オリジナリティを出す方法は、先行研究をちゃんと調べ分析すれば出すことが出来ます。しかし、別次元オリジナリティを出すためには、別次元の分析方法を持つことです。そして、それを実現する方法は、別次元の分析方法を持っている集団の中に身を置くことです。おかげさまで、私は西川研究室という優れた院生さん、学生さんの集団の中に身を置くことが出来るので、労少なく、研究によってウルウルすることが年に何度も出来ます。

[]○合 10:24 ○合 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ○合 - 西川純のメモ ○合 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 大学入試合格が決まったとき、「あ~、これで試験は終わりだ~」と思いました。ところが、大学院入試を受けることになり、それが合格するとき、「あ~、これで試験は終わりだ~」と思いました。ところが、世の中、そんなに甘くありません。教員採用試験があります。教育法規を丸暗記したり、コメニウスやペスロッチ勉強しなければなりません。ちなみに、教育学で飯を食っていますが、現在まで教員採用試験での勉強で役に立ったためしはありません。受験勉強をしている仲間と、「なんで、こんな馬鹿馬鹿しいことを試験に出すんだろう・・?」と議論になりました。最終的には、「これほど馬鹿馬鹿しいことを勉強しても、先生になりたいという熱意を試験しているに違いない」という結論に落ち着きました。幸い、東京都で拾って頂きました。「あ~、今度こそ、今度こそ、これで試験は終わりだ~」と思いました。ところが、世の中、そんなに甘くありません。大学に職を得るため書類を書き、面接を受けました。その後も、助教授教授に昇任するたびに、多くの先生方による審査を受けました。この度、おそらく本学で職を得ている間は、最後の審査を受けました。

 大学教師には教職免許状はいりません。その代わり、大学院の授業を担当するには「合(ごう)」資格が必要ですし、大学院生を指導するためには「○合(まるごう)」資格が必要です。教授になるとき、修士課程の○合資格審査があります。しかし、博士課程の合、○合は、上越教育大学資格審査とは別個に、上越教育大学兵庫教育大学鳴門教育大学岡山大学連合大学院審査を受けなければなりません。そのため、本学170人強の教官の中で○合資格をおもちな方で、今後、研究指導出来る人は38人に過ぎません。(ちなみに、学習臨床に関係する24人の先生の中で博士を、今後、研究指導出来る人は5人だけです)

 様々な理由から、早急に○合資格を取る必要が生じました。そのため、早急に博士の学位を取得し、この度審査を受けました。その結果、9月3日付で○合資格を取ることが出来ました。学位取得を計画してから2年弱もかかる審査です。「今度こそ、今度こそ、最後の最後の試験は終わった」という感想です。でも、世の中、そんなに甘くないのかもしれません・・・

追伸 これで晴れて博士学生を受け入れることが出来ます。でも、心優しきT先生のように広い心は持っていません。だって、博士学生を指導するということは、とっても、とっても手間がかかり、下げたくない頭をペコペコすることになります。それに職のない状態の博士学生さんの惨めさを、よ~く知っています。ということで、私が受け入れる条件は「修士課程で指導した経験がある現職者で、2年間、宇宙一厳しい西川研究室を生き残れた人」、「義理人情のしがらみがあり断れず、実績において研究能力を証明出来(つまりレフリー付き学術論文を書いたことがある人)、私と仲良くできる現職者」です。学卒者を受け入れることは基本的にしない予定ですが、「修士課程で指導した学生さんで、実績において研究能力を証明出来(つまりレフリー付き学術論文を書いたことがある人)、在学中および修了後も生活出来る家庭環境のある人」という宝くじ的な人がいたら指導するかもしれません。しかし、学者社会就職状況は厳しいので、職を持っていない人に対しては、私の「良心」からお断りするようにしようと思います。

追伸2 学卒者さんや、他大学出身の現職者に厳しい条件を付けているようにお思いになる方もおられるかもしてません。しかし、私が学卒院生として大学院を修了し、高校就職するときには、日本理科教育学紀要1報、科学教育研究2報、Science Education1報という4つのレフリー付き論文の業績を既に持っていました。人に対して1報程度を要求しても罰は当たらないと思います。

03/09/08(月)

[]立ち歩きの効果 10:27 立ち歩きの効果 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 立ち歩きの効果 - 西川純のメモ 立ち歩きの効果 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある先生からメールが来ました。その先生は、我々の研究を参考にして立ち歩きを容認しました。その結果として以下の効果があったとメールがありました。

『私との会話が逆に増えた。勉強の事はあまり話さなくなったのですが、世間話をする子どもが増えました。これは意外な結果でした。必要に応じて勝手図書館などに行く子どもが見られるようになった。立ち歩く必要が無くなると自分で勝手に席に戻るようになった。指示するとすぐに座るようになった。』

 さもありなん、と思いました。特に、「私との会話が逆に増えた。」、「指示するとすぐに座るようになった。」は印象的です。

 学び合いを育てるために、教師はある段階では子どもとの接触を断とうとします。それは、教師に依存的な子どもに対して、「君の問題なんだよ、君が解決の仕方を考えるんだよ」と自覚させるためです。そのため、聞かれても「分からないな~」と応えたり、助けを求められても「それは僕の問題ではなく、君の問題だよ」と突き放します。ただし、そうはいっても、それを自分自身で解決するに十分な環境を整えます。具体的には、優れた情報源である他の学習者と学び会える環境を整えます。しかし、ちょっと目には「冷たい教師」に見えるはずです。でも、学習者が教師に依存しなくなり、独立して考え出せるようになれば、突き放す必要はなくなります。そうなると、馬鹿話も自然に出ます。特に、馬鹿話が大好きな私は、その段階になると止めどなく馬鹿話に向かいます。ちなみに、我々の研究室では、毎日、一度はいっしょに昼飯を食べますが、そこで研究の話が出ることは希です、毎日、とめどない馬鹿話に花が咲きます。

 私が定時制高校の教師だったとき、教室は私語の嵐でした。しかし、授業の合間、合間に、「○○に関して、隣の人と相談して」ということを意図的に何度も入れるようになりました。そうすると、「ちょっと聞いて欲しいんだけど」と言うと、しばらくの間はしーんと聞くことが出来るようになりました。黙らせるためには、しゃべらせるんだな~、ということは教師人生のごく初期に得たノウハウの一つです。(当時はノウハウレベルで止まっていましたが・・)

追伸 ○○へ。上記の理由から、お前が俺に依存しようとしている間は、絶対零度の冷たい教師のままでいます。お前がお前の頭で動き、自立して動けるようになったら、つまり、俺以外の情報源を利用出来るようになったら、思いっきり馬鹿話に花が咲きますよ。と書くと、お前は「先生~、じゃあ自立したら、先生と仲良くできるんですね」なんて言いそうだけど、そう言おうと思ってる限りは無理だからね。お前の目標は、俺と仲良くなることではなく、お前の研究をお前が出来るようになることなんだから。(ふ~)

[]志 10:27 志 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 志 - 西川純のメモ 志 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 意外かもしれませんが、研究しない研究者は少なくありません。学生さんの前で「俺は研究者だ!」と偉ぶっている人の中には、研究者でない人は山ほどいます。研究者が他の職業の人と違う点は、学術論文を書いていることです。もう少し説明すると、いわゆる学術論文の中には、レフリーつきとレフリー付きでない論文があります。レフリーつきの論文とは、学会が一定レベルを超えていると認定した複数の研究者(査読者といいます)がその論文を読んで、一定レベルを超えたと認定した論文レフリー付き論文といいます。一方、大学紀要の場合などは、その大学先生であるならば、基本的に掲載されます。極端な話、どんな馬鹿馬鹿しい論文でも掲載されます。そのような論文は、レフリー付きでない論文です。研究者とはレフリー付きの論文を書ける人、もっと具体的に言えば、書いた人を指します。学生院生さんには見えにくいとは思いますが、それなりの情報収集をすれば、それぞれの先生が、どれほどのレフリー付き論文を書いているかは直ぐに分かります。

 レフリー付きの論文を書くことは大変です。学術的な努力も必要ですが、精神的にもタフでなければ書けません。査読者とのやりとりは心を削るような大変さです。そのため、大学人の少なからざる人数が、安直に書けるレフリー付きでない論文に流れてしまいます。しかし、そのような論文を書くならまだいいほうかもしれません。この10年間、ぜんぜん論文を書いていない人もいます。そのような先生学生院生さんに辛く当たっている、ということを聞くと同業として情けなくなります。おそらく、自分でも書けない論文を、人に書かせているんだから矛盾も起こり、結果として、そのしわ寄せが学生院生さんにいくんだろうな、と想像します。

 しかし、レフリー付き論文を書いている人が、ず~っと書いているかと言えば、そうでもありません。一番の転換点は「教授昇任」です。それまでドンドン書いていた人が、教授になったとたんに書かなくなる場合があります。一般的には、「教授になって会議が多くなったから書けなくなったんだ」と理由付けます。しかし、書き続ける人は、頻度がへってもコンスタント論文を書いています。そして、前者後者を比べると、客観的には後者の人の方が公務が忙しい場合が少なくありません。

 先に書いたように論文を書くことは、学術的な努力も必要ですが、精神的にもタフでなければなりません。それでも書くためには、志は必須です。たまたま外国語が得意で、試験に通ったため大学院に入学し、何となく大学教師になったという人の場合、論文を書けません。その結果として、研究者のふりをする非研究者が生まれます。しかし、志と言っても「教授になりたい」という志の場合は、教授になったとたんにタフさを維持する必然性が無くなります。教授になった後でもタフで居続けるためには、「教授になりたい」というレベルを超えた志が必要です。それは、「目の前の学生院生さんの盾になりたい」、「この学生さんの研究を成果としてまとめさせたい」というものがあるでしょう。さらには、「日本を、世界を、少しでも良くしたい」という志もあります。

 自分の中に芽生えている「もお、いいじゃないか」という気持ちにむち打つため、メモりました。

03/09/04(木)

[]バカだな~ 10:29 バカだな~ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - バカだな~ - 西川純のメモ バカだな~ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 うちの研究テーマの中に異学年学習(異年齢学習)があります。しかし、現行の学年別カリキュラムにおいては実行することがかなり困難です。でも、やりようはいくらでもあります。その一つとして、以前から色々な人に推奨しているのは、前年度の成果物を「なにげなく」教室においておくという方法です。ポイントは、その成果物に作成者の名前を書かせておきます。そして、整理するなど面倒なことはせず、おいておくんです(続けられないことは、始めないに超したことはありません)。おいておけば、子ども気づきます。もし、学ぶに役立つことであれば、子どもたちは、参照せよと言わなくても、参照するようになります。このようにすることによって、空間的・時間的に離れた上級生のアイディアを得ることが出来ます。さらに、その上級生が誰かと言うことが分かれば、直接その上級生に聞くという方法も採れます。

 先だって、Yさんに昨年修了されたMさんの授業ビデオを渡し、プロトコルを起こすようお願いしました。ちょっと前のメモに書いたとおり、そのビデオは授業開きから数時間の部分で、我々の考えのエッセンスが現れやすい部分を写しています。先日の昼休みで食事していると、学卒院生のUと一緒に視聴し、ディスカッションをすることによって、両者ともとても勉強になったと、Yさんから報告がありました。そして、先日の夕方ごろ院生控え室を覗くと、だれもいません。廊下に出ると、ビデオ室の前に靴がいっぱい並んでいます。開けて覗いてみると、Yさんはじめ院生の方々がビデオを真剣に見ています。あまり真剣に見ているので、ちょっとからかってみようと思ったのですが、その場の雰囲気はそれをゆるす雰囲気ではありません。すごすごと退却してきました。私がYさんに預けたビデオは、色々な意味を持ち始めているようです。そう考えると、「な~んだ、俺が今まで色々な人に、偉そうに言っていた事じゃないか」と思い当たりました。偉そうに言っている自分が、自分の実践現場である研究室で適用していないなんて、「俺はバカだな~」と思い、苦笑しました。と、同時に、学ぶ必然性のある学習者(この場合、西川研究室修士1年)は、愚かな教師を超えることをどんどんやるな~、と改めて思いました。

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 うちの研究テーマの中に異学年学習(異年齢学習)があります。しかし、現行の学年別カリキュラムにおいては実行することがかなり困難です。でも、やりようはいくらでもあります。その一つとして、以前から色々な人に推奨しているのは、前年度の成果物を「なにげなく」教室においておくという方法です。ポイントは、その成果物に作成者の名前を書かせておきます。そして、整理するなど面倒なことはせず、おいておくんです(続けられないことは、始めないに超したことはありません)。おいておけば、子ども気づきます。もし、学ぶに役立つことであれば、子どもたちは、参照せよと言わなくても、参照するようになります。このようにすることによって、空間的・時間的に離れた上級生のアイディアを得ることが出来ます。さらに、その上級生が誰かと言うことが分かれば、直接その上級生に聞くという方法も採れます。

 先だって、Yさんに昨年修了されたMさんの授業ビデオを渡し、プロトコルを起こすようお願いしました。ちょっと前のメモに書いたとおり、そのビデオは授業開きから数時間の部分で、我々の考えのエッセンスが現れやすい部分を写しています。先日の昼休みで食事していると、学卒院生のUと一緒に視聴し、ディスカッションをすることによって、両者ともとても勉強になったと、Yさんから報告がありました。そして、先日の夕方ごろ院生控え室を覗くと、だれもいません。廊下に出ると、ビデオ室の前に靴がいっぱい並んでいます。開けて覗いてみると、Yさんはじめ院生の方々がビデオを真剣に見ています。あまり真剣に見ているので、ちょっとからかってみようと思ったのですが、その場の雰囲気はそれをゆるす雰囲気ではありません。すごすごと退却してきました。私がYさんに預けたビデオは、色々な意味を持ち始めているようです。そう考えると、「な~んだ、俺が今まで色々な人に、偉そうに言っていた事じゃないか」と思い当たりました。偉そうに言っている自分が、自分の実践現場である研究室で適用していないなんて、「俺はバカだな~」と思い、苦笑しました。と、同時に、学ぶ必然性のある学習者(この場合、西川研究室修士1年)は、愚かな教師を超えることをどんどんやるな~、と改めて思いました。

03/09/02(火)

[]本日のウルウル 10:30 本日のウルウル - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 本日のウルウル - 西川純のメモ 本日のウルウル - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々の研究室が、意識的に子どもたちの相互作用に着目して研究し始めたのは平成9年からです。それからの蓄積から、かなりのことが分かってきました。不遜ながら、多くの先生方が悩んでいることに関して、一定の方向性を、データに基づき語るだけのレベルに達しました。今後も、それを発展する研究を進めたいと思っています。しかし、研究が進むにつれ、新たな壁が大きくなってきました。それは、我々の意識と、一般の先生方の意識の差の大きさが、大きすぎるようになりました。例えば、ごく初期の段階で明らかになった、子どもたちの話し合いの実態は、一般の先生方も気づかれている方は少なくありません。ところが、その研究の蓄積の上に立った研究、さらに、その上にたった研究、となると、「ほんまかいな~?」と感じさせてしまいます。例えば、「中学校1年生と3年生が一緒の教室で、一緒の勉強をする」、「私語を止めるのではなく、私語をさせるためにどうするかという研究」、「授業中の立ち歩きを禁止するのではなく、奨励するにはどうするかという研究」になると、奇をてらった研究に一見見えます。また、授業中に教師はニコニコしていて殆ど何も言わないのに、言っているときより授業成果が上がるという結論は、信じられないか、もしくは名人芸のなせる技のように感じさせます。しかし、我々の考え方を理解すれば理の当然ですし、ごくごく簡単に出来ます(少なくとも日本の過半数の先生方は出来ることです)。しかし、先に述べたように、我々の研究が進めば進ほど、そう感じさせることが困難になってきました。そのため、子どもたちの素晴らしさを明らかにする研究と共に、我々の考え方をより多くの先生方に理解していただくためにどうしたらいいかが重要な課題となってきました。

 前のメモに書いたように、本質的には、そのことを学ぶためには、優れた教師集団の中に入らなければ実現出来ません。でも、その優れた教師集団を育てるには、まず、最初の一人に気づいて貰わなければなりません。どうしたらいいか、ず~っと悩んでいました。でも、ある予想があります。それは、実際の授業実践を見て貰うことです。それを多くの先生方に見て貰うために、授業のプロトコルを本の形態にすることだと思います。それでは、どんな授業を見て貰うかと言えば、授業開きから、子どもたちが動き始めるまでの最初の数時間(最大でも10時間)が特に重要です。その時間の中で、子どもたちは教師の腹の中(子ども観、授業観)を見透かし、その教師の前での行動戦略を立てます。そこで子どもたちと、よりよい契約を結びさえすれば、あとは子どもがドンドンやれます。そのドンドンやる姿を見れば、教師の考え方もドンドン変わります。だから、この部分をちゃんと見て貰えば、我々が言っていることが荒唐無稽のことでもなく、また、極端な名人技でもなく、だれでもできること、でも考え方を変えないと出来ないことであることを理解して貰えます。

 別件で、昨年修了されたMさんの授業開きからの授業記録を手に入れました。本日は、ず~っと、それを見ていました。見ていて、ウルウルしてしまいました。「自分が偉そうに言っていることが、優れた教師の手にかかると、こうなるのか~!」と感激しました。でも同時に,このプロトコルを一般の先生方が見ると、私が見せたい部分とは違う部分を見るだろうな、と思います。Mさんの授業では、子どもたちをのらせるために、様々なテクニックが使われています。それは、声がけのレベルや、一つ一つの課題の順序、はては笑いを取る小話などなど・・。きっと、多くの先生方は、その部分に目がいくと思います。しかし、本当に見て欲しいのは、依存的な子どもの一言に対して、学習の主体者は自分自身だと言うことを考えさえる一言であり、自由にやらせている部分としめる部分のメリハリです。更に言えば、そのことをどのように言うかは重要ではなく、その一言を自然に言わせる子ども観、授業観なんです。だから、Mさんのプロトコルと共に、その中のどこに子ども観、授業観がかいま見えるのかを解説する必要があるでしょう。

 さらに、Mさんだけでなく、OB現役の方の授業記録も同様に見せる必要があるでしょう。それらを対比すると、ちょっと目に見えるテクニックのレベルは、人によって、また、扱う教科によって異なるため、一見すると共通性がないように見えるでしょう。でも、その中にかいま見られる子ども観、授業観は一致していること見えるはずです。つまり、やりかたは別々でも、考え方は同じであることが分かります。そのことから、テクニックが重要なのではなく、考え方が重要だと言うことが、かえって鮮明に見えるように思います。うちの研究室の進む道が、一つハッキリ見えるようになりました。

追伸 ということで、Oさん、Kさん、Iさんへ、上記のデータを出すことをよろしくお願いします。また、現職者の両Yさんも今から始まる実践研究で意識してね。なお、心優しきYさんを私の部屋に「ひったて」、上記に関して熱く語り、目標を与え、評価することを宣言しました。つまり簡単に言うと、Mさんのビデオを渡し、見て勉強し、そして私を感激させるデータを出すよう求めました。その方法は、やさしく、かつ、熱く語りながら、当人の良心に訴えかけることによって、逃げられない状況をつくるという、西川研究室の得意技である、人間関係で授業を展開するという方法です。Yさんをはじめ、皆さんよろしくお願いします。皆さんの研究によって、日本(いや大宇宙)の教育を変えましょう!