西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
ツイッター http://twitter.com/jun24kawa
『学び合い』メールマガジン参加者募集中!(無料)http://www.mag2.com/m/0000270912.html
『学び合い』マップ募集中!(無料)http://manabiai.g.hatena.ne.jp/kokohagw/
授業公開の仲介のガイドライン http://dl.dropbox.com/u/352241/manabiai-data/koukai.pdf
だめで元々で、とりあえずドロップボックス(http://db.tt/bMZAZwx)とjimdo(http://jp.jimdo.com/)の無料アカウントを登録してみてはいかがでしょうか?実に簡単ですから。

本格的にトライする人も多くいると思います。その際、人とのつながりが大事です。身近にいる人と繋がれるとありがたいですよね。『学び合い』を実践される方は、『学び合い』マップ(https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zDInXkSSxyO4.kNDji5uDNm0Y)に、是非、登録下さい。登録は、『学び合い』マップ登録フォーム(http://form1.fc2.com/form/?id=77081b4d4f40dd2f)から出来ます。  「私なんて、人になんか教えられるレベルに行っていない」と思う方へ。だからいいんですよ。一番知っている人が、一番の教え手ではないことは『学び合い』を実践しているならば、子どもを見れば分かるでしょ。それに、教える必要はないのです。共に学び合えばいいのです。いや、愚痴を言ったり、笑ったりする、それでいいのです。  是非、一人でも多くの人がマップに登録下さい。強く、強く、お誘いします。

03/06/03(火)

[]目標を語るということ 15:38 目標を語るということ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 目標を語るということ - 西川純のメモ 目標を語るということ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 現在、4年生は中学校実習です。本日はSkの研究授業を参観に行ってきました。朝一番の授業で、遠方であるため、7時半に出発(家内は6時に起きて朝ご飯作り)です。途中で道に迷っては遅刻する、ということでだいぶ余裕を持たせて出発しました。ところが、スムーズについたため、中学校の周りをテクテクと散歩しました。ビックリしたのは、合う生徒がみんな私に挨拶をするんです。それも、90度近く腰を曲げて挨拶する生徒までいます。あわてて私も挨拶をします。こんな中学校ばかりではありません。担任の先生でさえ、授業の形態を保たせるに大変な中学校もあると聞いています。そんな中学校で実習している学生さんは、ものすご~く大変です。そんな学校もある一方、車で1時間弱の距離には、こんな中学校もあるんだな~と思いました。

 研究授業では、子どもたちの学び合いを通して、子どもたち自身が音楽を作り出そうとする授業を行っていました。出だしは快調です。まずは子どもたちが課題の歌を歌って、そのあと課題の歌の歌い方を自分たちで考えるという流れです。しかし、中盤になると、可視化を十分に機能させていないため、教師の介入が目立ち、そのため、子どもたちの学び合い活性化させることが出来ない姿が見られました。心の中で、「あ~、そこで言っちゃ駄目だよ~」とか、「なんで、○○のような目標設定をしなかったんだろう~」なんて思っていました。でも、声の出方が、前年の小学校実習とは比べものにならないほど良くなっていました。大きい声ではないものの、子どもたちにちゃんと聞こえる声になっていました。

 終盤になって、まとめの意味で、本日の話し合いを通して改良した歌い方で歌いました。とても良くなっていました。私は音楽専門家ではありません。だから、音楽的に良くなったか、どうかは分かりません。でも、最初の歌よりも、大きな声で歌っている子どもが増えています。また、歌い方に思い入れがあるため、歌っている友達の脇で、「もっと○○しようと」と言っている声が聞こえます。「あ~。子どもたちは、この時間を意味あるものとして捉えているんだな~。良くなったな~。」と思った瞬間、ウルウルしてしまいました。思わず、窓の外を眺めるふりをして、涙を拭きました。

 授業後、Skに対して、「可視化を利用しないため、教師が介入しすぎている」、「それは目標の設定に問題があるため」ということを厳しく言いました。でも、本人には言いませんでしたが、今年度最初のウルウルでした。

[]授業参観 15:38 授業参観 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 授業参観 - 西川純のメモ 授業参観 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 最近、ある人と目標を語ることに関して話しました。我々は教師の仕事は、目標を語ることであり、方法を語ることは控えるべきだと主張します。しかし、多くの場合、教師は目標を語るのではなく、方法を語ります。目標を語るべきである、ということを否定する先生は、まあ、いないでしょう。でも、方法を語るのを控えるべきだということに同意する先生は多くはないと思います。たとえば、ある課題を与えた場合、教師は「こうやって解きなさい」、「これこれを調べなさい」、「こうしなさい」と事細かにやりかたを指示します。我々の研究に依れば、そうやると子ども依存的になり、結局、教師が思いつく程度のことしかできない「愚かな」子どもにしてしまいます。なんで、そんなに事細かに指示するのでしょうか?教師としては親切心でやっているんですが・・・。私は教師が思っている「目標」というのは、全ての人が達成すべき到達点のように思っており、そのため、事細かに指示しているように思います。たしかに指導要領には到達点のように記述しています。でも、実態は違うことは明らかです。義務教育(いや高校レベルでも)には、いわゆる境界児の子どもがいます。その子どもの場合、自分の名前すら満足に書けない子どももいます。そのような子どもにも、指導要領に規定されているレベルを達成せよと求めるのが法律であるならば、リアリティがありません。私は、その方向に進みなさい、という方向性をしめすものだと考えるべきだと思います。すなわち、「あの丘の頂上に登りなさい」ではなく、「あの丘の頂上を目指して登りなさい」と捉えるべきです。従って、何が何でも、そこに達せなければならないわけではなく、その子の能力・特性に従って、多様な到達点があると思います。何が何でも到達させようと思うから、教師は背負ってでも、そこに到達させます。しかし、背負って到達させたとしても、その子にとって意味を持つものではないと思います。むしろ、全員が到達しなければならない、という一律の目標を与えたならば、それを出来ない子どもにとっては負担が大きいように思います。