西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
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02/06/25(火)

[]育児 09:42 育児 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 育児 - 西川純のメモ 育児 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 家内が買ってきた育児雑誌を何気なく読んでいると面白いことに気づきました。その雑誌の中に、「子どもをやる気にさせるママの実践アイディア8」というものがありました。その八つとは、「なるべき手を出さずに見守る」、「テレビビデオを上手に使って」、「焦らないで遊びとして楽しく」、「ママと一緒にやったり見せたり」、「やりやすくなるような工夫を」、「あまのじゃくを利用した作戦」、「お友達がやるのを見せる」、「やりどきがある!から無理をしない」です。思わず、笑い出しました。我々の初等・中等教育における教え方の主張とほぼ一致しています。

 「なるべき手を出さずに見守る」、「焦らないで遊びとして楽しく」、「やりどきがある!から無理をしない」の三つは、教師は教えるのを控えるべきだという主張と一致します。

 また、「やりやすくなるような工夫を」は教師の仕事は、環境を整えることだという主張に一致します。

 「テレビビデオを上手に使って」、「ママと一緒にやったり見せたり」、「お友達がやるのを見せる」は、教師の仕事目標を与えることであり、他者との関係目標を設定させるという主張と一致しています。最後の「あまのじゃくを利用した作戦」というのも実はこれに含まれます。我が家の場合は、息子が片づけをしないとき、わざと「じゃあ、お父さんが片づけようかな~」と言うと、必死になって片づけ始めます。親に自分の実力を認めさせる機会を失うまいとする息子の気持ちに火を付ける方法です。

 なんでこんなに一致するのかと考えました。答えは簡単です。我々は子どもは愚かではないと考えています。我々は大人と同様に高校生も有能であると考えます。同様に、中学生も、小学生も大人同様に有能と考えます。さらに、それを進めると幼児も有能であると考えます。従って、幼児において有効な方法と、初等・中等教育で有効であるのは当然と考えます。

追伸 ちなみに、この論法を推し進めると、上記の方法は30~40歳院生さんにも有効な方法とも言えます。つまり、「院生やる気にさせる、指導教官の実践アイディア8」とも言えます。でも、逆に言えば、「指導教官を やる気にさせる院生の実践アイディア8」とも言えるわけです。

[]フロンティア 09:42 フロンティア - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - フロンティア - 西川純のメモ フロンティア - 西川純のメモ のブックマークコメント

 修士1年の研究テーマが決まりつつあります。その研究には、表面に出る題目以上の重要テーマが隠されています。先週の金曜日はKaの発表がありました。Kaさんのテーマは、簡単に言えば協同で作文をつくるというものです。作文は一人で書くものと堅く思っている人には「えっ?」という内容ですが、我々にとっては驚くべきレベルのものではありません。しかし、何気なく聞き逃しそうなテーマですが、その中にはきわめて重要テーマが隠されています。

 Kaさんは高校国語先生です。扱うテーマ国語です。かつて国語の時間の話し合いを調査したことがありますが、あくまでも比較対照という位置づけのように思います。その意味で、国語を真正面にとらえた研究は、我々の研究室では初めてです。その結果、今まで我々が意識していなかった問題が表面化します。今まで我々が扱っていたコミュニケーションの内容は「事実」です。事実を伝えるのであれば、どれだけ正確に、かつ大量に伝わっても問題ありません。ところが、感情の場合はそうではありません。想像してください。他人のどろどろした感情を知りたいでしょうか?我々のコミュニケーションにおいては、たとえ親しき仲であっても、自身の感情を修正し、一部を削除して伝えています。また、そうあるべきだと思います。感情のコミュニケーションを扱うならば、適切な感情の伝え方を考えなければなりません。 ところが国語の場合は、その「感情(もしくは内面)」を扱う場合があります。

 また、作文という「個人」というものが強いと思われている題材を扱うために、もう一つの面白いテーマが生じます。それは、個の中にある集団と、集団の中にある個というテーマです。グループ活動すると個が圧殺されると考える人も少なくありません。しかし、我々はそうは思いません。グループ活動をしたとしても個を圧殺しない集団は作り得ると考えています。同時に、我々が個人で作文をつくっている際、まさに自分一人で書いていると感じます。しかし、自分一人で書いていながらも、たえず、書く相手を意識しています。つまり、個の中には集団があります。Kaさんの研究は、個と集団の望ましい関係が成立することを示す研究でもあります。それによって、グループ学習と個性化教育矛盾するという、無意味二元論を乗り越えられます。

[]子どもを抱く父親の特権 09:42 子どもを抱く父親の特権 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 子どもを抱く父親の特権 - 西川純のメモ 子どもを抱く父親の特権 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 この前の日曜日、近くのドラッグセンターに買い物に行きました。家内は店内へ行きました。一方、私と息子は店の後ろに特設された「ふれあい広場」に行きました。そこでは、羊、山羊、ロバ、ウサギがいて、自由にさわれます。5歳ぐらいの子どもたちが群れて、さかんに触ったり、抱いたりしています。息子は興味があるようなのですが、怖がって私の胸にぎゅっと抱きつきます。しばらく眺めさせた後、店内の家内に合流するため店に向かいました。と、ちょうど店内から荷物を持って出てくる家内にばったり。見ると、おむつ関係の試供品を山ほどもらっていました。悔しいので、私も息子をだっこしながら店内に入り、宣伝員の人のあたりをうろうろしていました。幸い、宣伝員の人が気づいて、息子におもちゃを与え、私には試供品を渡してくれました。

 スーパーで買い物していると、女性家内には試供品、試食品を出してくれます。ところが男の私には見て見ぬふりです。心の中で、「これって男性差別じゃないか」なんて思います。となると、それほど欲しくも食べたくもないものが、無性に欲しくなります。40すぎた男としてはバカみたいだとは自覚しているのですが・・・。しかし、息子をだっこしているときは無視されないことに気づきました。試食コーナーを通ると、息子に差し出してくれます。また、ベビー用品の宣伝員の前を通ると、それなりに説明してくれ、試供品をくれます。なにか自分が偉くなったような気がして、とてもうれしくなります。

追伸 結果として、家内と私で2倍の試供品をもらうことが出来ました。ところが、おもちゃが二つ重なっていて、それは二つはいりません。捨てるには忍びない可愛いおもちゃでしたので、プレパパのYさんにあげました。Yさんも子どもをだっこすれば、宣伝員に無視されずもらうことが出来るはずです(あと数ヶ月です)。

[]6月25日の感激 09:42 6月25日の感激 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 6月25日の感激 - 西川純のメモ 6月25日の感激 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日も感激しました。院生のYさんが個人ゼミを申し込んできました。以前のように「第二十六回の個人ゼミです」といって話され始めました。内容は、ジェンダーに関する研究です。Yさんは昨日も、実践研究で収集した膨大なビデオカセットテープを視聴して、何が起こったかを一つ一つ記録されていました。その中で、非常に重要な事例に気づき、感激したので個人ゼミで話したいと おっしゃっていました。つまり、私に自慢にこられたということです。それまでの分析で、自分自身の姿を見直すという方法で、教師がゴチャゴチャ言わなくても理科におけるジェンダー改善することが明らかになりました。それは、以前のゼミで報告のあったとおりです。しかし、Yさんが感激したのは、ジェンダー教育がそれにとどまらないことを示す場面を見いだしたためです。その場面とは以下のような場面です。

 初期状態では、リーダー格の男子実験を仕切って、女子は実験に参加できませんでした。しかし、自分自身の姿を見直すという方法で、その子は女子に対して「やる?」と、サイダーの瓶の栓を抜く権利を譲りました。小学校先生によれば、炭酸実験においてサイダーの栓を抜くことは、その実験における華であるそうです。それを女子に譲ることは、大人の目から見える以上の行動といえます。しかし、感激したのはそこではありません。権利を譲られた女子の言動が感激ものです。その女子も実験操作を今までやったことはありません、当然やりたいという気持ちはあったと思います。しかし、「いいよ、Y(男子)だっていつもやっていない。」とYに譲ったんです。それを受けてリーダー格の男子が「そうか、Yやってみ。」と勧めます。ためらうYに女子は「ぱっと抜かないと」と元気づけ、サイダーの瓶を押さえてあげました。また、リーダー格の男子も「ぱっとやって、ぱっと。」と元気づけます。Yが栓を抜くと、別の男子が「シュー」と栓の抜けた音を出し、別の女子は「出来た、出来た」と賞賛します。

 ちょっとした場面です。バカみたい見えますが、私は感激しました。私はウルウルきましたが、きっとYさんも昨日は一人視聴しながら感激されたんだと思います。Yは知的障害のある児童で、そのため実験には参加できない状態でした。自分を見直す経験を通して、リーダー格の男子児童は女子の立場を考え、女子に権利を譲る行動をしました。しかし、女子は自分を見直す経験を通して、男子対女子という枠組みで理解するのではなく、もっと高い次元でYさんが与えた場を理解していたようです。そのため、男子であるYの立場を思い、権利を譲りました。その女子の行動に触発され、他の班員も等しくYをもり立てようという意識が芽生えることが出来たようです。

 ジェンダー教育研究しようとすること自体「ジェンダー」だという批判はあります。そのことは理解していつつ我々は研究しています。しかし、上記の事例は、そのような批判に対して明確な答えを与えているように思います。即ち、仮に「たかが教師」がジェンダー意識を持って指導しようとしても、子どもの方はより高い次元でそれをとらえなおしていると。感激しました。

02/06/24(月)

[]落語 09:44 落語 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 落語 - 西川純のメモ 落語 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今では教える立場ですが、言うまでもなくかつては教えられる立場でした。その中で、多くの先生方に教えてもらいました。すばらしい先生にも数多く出会いました。その中に宮澤先生という高校先生がいらっしゃいます。この先生のことは学部学生の授業の最初に話すことがあります。

 この先生スーパーマンです。まず、教え方がすごい。面白く、ためになる授業です。この先生の授業に関して、時間が長いと感じたことは一度もありません。いつも、「もお終わったの ?」というのが感想です。また、その先生は生徒指導主任でした。私の高校はお世辞にも名門とは言えません。制服はブレザーですが、その下にアロハシャツ、ぼんたんで登校する生徒がぞろぞろです。また、全校生徒は学年450人のマンモス校ですが、ストレート大学に進学したのは、片手だったと記憶しています。したがって、生徒指導上の問題が続出する学校です。そのような学校では生徒指導主任は「つっぱり」の目の敵になるのが通例だと思います。ところが、「つっぱり」は、他の先生に関しては呼び捨てでも、宮澤先生に関しては常に「先生」と呼んでいました。

 その先生の専門は日本史でした。教師になってからも田沼意次研究を続け、その世界では知られた先生と伺っています。私自身は世界史受験しようと思いましたが、受験関係なく聞きたいと思いました。ところが、その先生東京都に指導主事に迎えられました。そのため、残念ながら聞けませんでした。私が大学院を終わる頃に、校長として現場に戻られました。おそらく、東京都校長としては記録的な若さだったと思います。その後、筑波大学に迎えられました。教育者としても、管理者としても、研究者としても一流の先生です。

 私が大学院を修了し、数ヶ月後に高校教師になるとき、宮澤先生に会いに行きました。先生に、高校教師になる前の数ヶ月のうちに何を勉強したらいいのか相談したいと思いました。私の予想としては、理科の基礎的勉強をしなさいと言われると想像しました。ところが、先生が教えてくれたのは、「落語を聞きなさい」でした。宮澤先生も、かつては上野の鈴本 演芸場に通い、勉強したそうです。教え方の重要性に気づかせてくれたエピソードです。

 落語は昔から大好きでしたが、それ以来、落語は教師としての資質向上として意識的に聞くようになりました。テープCDを買い、空き時間に聞くようにしています。もちろん名人上手の技を盗めることなぞ出来ません。しかし、声の出し方、表情の作り方など、学べるものも多いと思います。

[]自己分析 09:44 自己分析 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 自己分析 - 西川純のメモ 自己分析 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昭和落語の3名人といえば志ん生文楽円生があげられます。志ん生はとにかく面白く、破天荒な落語です。おそらく、3名人の第一はだれかと聞かれた場合、一般的には志ん生 を選ぶ人が多いと思います。でも、私は好きではありません。興が乗ると話が早口になり、結果として聞き取りづらくなる点が好きになれない理由です。文楽はきちっとした話をします。話の内容に推敲に推敲を重ねた人です。そのため、何度話しても、全く同じ話を、同じ時間でしゃべる人です。そのため、何故か人間味を感じられません。私が大好きなのは円生です。特に、人情話は大好きです。きちっとした話をしながら、生きているという話をします。抑制されながら、うちにはすごい情熱があるんだなと感じる話をします。

 私としては円生のような話がしたいと願いますが、とても駄目です。興が乗ると早口になり、言葉を噛んでしまいます(つまり、私が志ん生を好きになれないところ)。また、雑談というのが出来ず、徹底的に考えた原稿でしか話せません (つまり、私が文楽を好きになれないところ)。前者は意識的な改善によって何とか出来ますが、後者はとても直せません。

 私自身は、学び合い研究しています。しかし、小学校中学校を通して、学び合いが一番嫌いでした。その時代は、「友達」と言える人が殆どいません。人付き合いが下手な上に、下手だと意識して、かつ、億劫がります。その気持ちがあるので、話すことが嫌いです。話しながら、自分の話がつまらないだろうな~と自己分析してしまうので、なおさら話すことが嫌いになります。

 その後のトレーニングによって教師稼業をなんとかやっています。自分で言うのも何ですが、私の授業や講演会は面白く、ためになると考えています。しかし、それは推敲に推敲を重ねた原稿があるからです。その場、その時に、当意即妙に話すことはとても出来ません。そのため、未だに雑談に不得意意識をもっています。

 我々は人とコミュニケートする能力は生まれつきあることを前提としています。しかし、圧倒的大多数はそうだとしても、全員ではないのかもしれません。それは、私自身がそうだったからです。したがって、学び合いにおいて、学び合えない子どもが阻害されないように注意することは大事だと思います。つまり、「学び合えるが、学び合わなくても良い」環境重要だと思います。でも、本当は、かつての私のような子どもも、コミュニケートする能力があり、場によってそれが開花するという仮説を持ち続けたいと思います。この研究は、身近で出来ます。何となれば、私自身を自己分析すればよいことですから。

[]世間を狭くする 09:44 世間を狭くする - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 世間を狭くする - 西川純のメモ 世間を狭くする - 西川純のメモ のブックマークコメント

 高校時代に読んだ渡辺昇一氏の本に、「世間を狭くする」ことが書かれていました。曰く、若い頃は世間を広くすることにつとめるが、ある年を越えれば世間を狭くする努力がいると書かれていました。この年になると、それを強く意識するようになりました。この年になると、意識して世間を狭くしようとしないと、あっという間に自分でも手がつけられなくなってしまいます。

 修士1年のIさんと個人ゼミの時に、Iさんが我々の研究室研究にふれた機会が判明しました。Iさんからは、「学び合う教室」という我々の研究室の本を読んだことがきっかけであることは、だいぶ前(2001年4月12日)の最初の電子メール大学院受験の相談)の時に知りました。しかし、その本にどこで出会ったかに関しては知りませんでした。Iさんによれば、今から3年前に上越地区の理科先生を対象とした私の講演会に参加し、講演後に講演会場のコーナーで売られていた本を買ったそうです。そう聞いて、思い出しました。

 3年前のことです。講演会が終わり、会場はガランとしています。私は、講演用に用意した機器をしまいながら、主催者の校長先生雑談をしていました。ちょうど会場のドアが開いていて、そこに本のコーナーが見えました。ふと見ると、若くて細身の背広の 先生が本を手にとって、やがて買ってくれたのが見えました。心の中で、「あの先生は、今日の話に何かを感じてくれたんだな~」と、とても印象的でした。そのため、3年前なんですが、その先生の姿がぼんやりとですが覚えています。そう思うと、あの先生の姿はIさんによく似ていることに気づきました。我々の研究室の成果は、現場還元されて「なんぼ」のものです。その意味で、教師相手の講演会は大事にしなければならないな~と感じました。

 今年も講演会があります。新潟県からは理科先生を対象とした講演会を例年頼まれていますが、その他にも頼まれます。頼まれる範囲も、急に広がったように思います。今年は、群馬県福井県高知県で頼まれています。また、新潟県からは国語先生を対象として話すことを頼まれています。教師相手の講演会は大事にしなければならないので、日程さえ合えば、二つ返事で受けています。ということで、いつの間にか世間が広がってしまうことになります。ということで、別の面では、いっそう世間を狭くしなければならないなと感じる今日この頃です。

[]新たなテーマ 09:44 新たなテーマ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 新たなテーマ - 西川純のメモ 新たなテーマ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 はじめての電気計算機は、ビルフロアーいっぱいに真空管の並べたどでかいものです。真空管の動作は遅いので、現在コンピュータの能力に比べると、その能力は馬鹿みたいに低いものです。現在家電量販店で売っている10万円台のコンピュータでさえ、当時のコンピュータの数千、数万倍ではおいつかないだけの能力を持っています。さらに、膨大な真空管が発する熱によって、数時間で使えなくなるという代物です。しかし、当時の手巻き計算機(おそらく見た経験のある方は無いでしょうが、私の勤めた高校にはありました)、計算尺の能力を遙かに凌駕するものです。そのため、当時の科学者は、この計算機があれば全ての科学上の問題は数年のうちに解決するだろう、と思ったそうです。馬鹿みたいな話です。19世紀のウィリアム シャンクスという人が15年の人生をかけて円周率700桁を計算しました。しかし、最初のコンピュータは70時間で2000桁の円周率を出し、シャンクスが500桁で間違ったことを明らかにしました。そのような成果から「全ての科学上の問題は数年のうちに解決するだろう」と思ったのも当然かもしれません。たしかに、その当時問題となっていた科学問題の多くは解決し得たかもしれません。しかし、その科学者が見逃したのは、その当時では思いもつかない新たな科学問題が生じること、また、それが解決することによってさらに新たな科学問題が生じることを見逃していた点です。毎年、このころになると、この話を思い出します。

 修士2年の方が修士論文を作成する頃になると、その成果に感激します。そして、現在進行中の修士1年の方の研究が一段落ついたら、いったい我々がやるべき研究テーマはどれだけ残っているのだろう?と考えてしまいます。私は42歳ですから、上越教育大学にあと23年間在籍できます。その23年間のごく初期の段階で種切れになってしまうのでは、と不安に思います。ところが、来年になり、あらたな修士1年の方の研究テーマが決まる頃になると、自分がいかに愚かであったかを思い知らされます。

 修士1年の方のテーマがやっとまとまりました。最初は、色々なテーマを提案されますが、大抵の場合は個人ゼミで「撃沈」されます。理由は、「テクニックに過ぎない」、「子どもを信じていない」、「現場に戻ってから役に立たない(もしくは約立っても短期間に過ぎない)」等々です。しかし、数ヶ月の洗脳作業(?)によって、我々の研究室独自の視点でテーマを設定することが出来ました。今回のテーマは、ある意味で我々の研究室が、意図的(無意図的)に避けていたテーマです。

 現在、そのテーマ研究室の全体ゼミ発表している最中です。ゼミに参加しながら、私は出来るだけ聞くようにしています(我慢できずにしゃべってしまうことも少なくないですが)。その中で、新たなテーマ問題点、疑問点が指摘されます。それに対して、修士1年の方は一生懸命説明されているのですが、なかなかうまく説明できない部分もあります。結果として、全体的に理解されるものの、一部に宿題が残ります。その過程を岡目八目で聞いていると、我々自身の中にある囚われが顕在化します。我々は、「子どもは愚かである」という旧来の囚われからは脱しています。しかし、我々自身の成果とそれによる文化に囚われているのも事実です。新たなテーマは、我々の殻を破ろうとすればするほど、囚われている我々から問題点・疑問点が指摘されることになります。その問題点・疑問点を聞くことによって、新鮮に我々自身の囚われが分かることが出来ます。今の修士1年の方は来年には、その囚われを脱するデータを出してくれるでしょう。しかし、それで終わりではありません。その新たなデータは新たな囚われを生じ、それが来年修士1年のテーマになるはずです。となると、あと23年間のテーマに心配することはなさそうです。

02/06/21(金)

[]学び合う能力を信じること 09:46 学び合う能力を信じること - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合う能力を信じること - 西川純のメモ 学び合う能力を信じること - 西川純のメモ のブックマークコメント

 院生さんと個人ゼミをした際、学び合う能力に関して改めて書く必要性があることを感じました。何度も書いたことですが、再度書きます。

 我々の研究室では、「学び合う能力は生まれつきの能力である」ことを基本前提としています。十歩下がっても、「学び合う能力は学校教育のような組織的な学習を必須とはしていない」と考えています。その根拠としては二つです。第一は、ヒトは群れ、かつ言語というコミュニケーション手段を持っています。そのような種が、学び合う能力を生まれつきに持っていないならば、数百万年の生存競争の中で生き残れません。つまり、生まれつきの能力と考えない方が、生物学的に妥当性がありません。第二に、今まで色々の調査を行っていますが、その結果、ゴチャゴチャやらなくても子どもたちは学び合えることが明らかになっています。教師がやっているのは、学び合う能力を教えていると言うより、学び合う能力を邪魔しているように思えます。だから、ゴチャゴチャやらなくても、邪魔しなければ学び合えます。

 ところが、世の圧倒的大多数の実践書の立場は、「学び合う能力は教えなければならない」という立場で書かれています。もっとも典型的な本として、ジョンソンさんたちの「学習の輪」という本です。この本には本文にも、また、本の帯にも「子どもたちは他の人々とうまくつきあう方法を生まれつき知っているわけではない」という趣旨を明示しています。内容はきわめて示唆に富むもので、良い本です。でも、上記の一点だけは納得できません。なぜ、ジョンソンさんたちはそのように考えたんだろう、と、本の隅から隅までよみましたが、その根拠が明示されていません。きっと、当たり前すぎるほど、当たり前と考えたんでしょう。

 しかし、そのような前提で本が書かれているので、いくつか気になることがあります。たとえば、共同学習を成立するための19段階のステップを用意しています。これも、教えなければできないという前提に基づくものです。個々のステップが有効である可能性を否定しませんが、いくつかの問題点があるように思います。第一に、そんなに手間のかかることを多くの教師がやるとは思えません。しかし、そんなに手間のかかることをやる教師が皆無とはもうしません。我が国でも類書が出ています。しかし、そのような本で書かれている方法を本気でやった場合は、子どもたちが型に囚われ、形骸化したコミュニケーションになる危険性が多いと思います。おそらく、附属や研究指定校で「つけたしで~」という決まり文句が、話す子どもが全部使うクラスを見たことがあると思います。もちろん、そのような方法がきっかけになることは否定しません。剣道守破離という言葉あります。つまり、守-形を守る段階(初心)、破-形を破る段階(達人)、離-形を離れる段階(名人)の段階で進むという教えです。しかし、「学習の輪」では「守」のみしか見ていないように思います。

 また、教えなければ知らないという前提ですが、それもそうとうしっかりと教えないと分からないと思っている節があります。たとえば連帯報酬を設けたり、「グループ仕事に各メンバー努力がどの程度貢献しているか査定する」などが有効としています。しかし、上記のことは、結局、「我々」という意識を筆者自身が信じることができないためのように思えます。本当は、「我々」という意識は、我々の本能の中に刻みつけられていて、上記のようなことは必要ないと思います。というより、上記のようなことをすると「我々」意識の形成を阻害するように思います。

 繰り返しますが、我々は上記とは逆の前提にたっています。我々は、学び合う能力というヒトの基本的能力を、「たかが教師」が加えたり、引いたりすることは出来ないと思います。考えてみてください。子どもに歩かせ方を教えられる親がいるでしょうか?また、何らかの障害によって歩けなくなった大人のリハビリの時、おしえられる人がいるでしょうか?いると考えている人がいたとしたら、それは誤解だと思います。我々が出来るのは、当人がもともと持っている能力を表出させるきっかけを与えるにすぎません。せいぜい出来るのは、歩ける子どもに、走らせたり、スキップを教えたりする程度です。

 逆に、「たかが教師」が学び合う能力というヒトの基本的能力を無力化できるでしょうか?「たかが教師」が出来るのは、学び合う能力が表出することを邪魔する程度です。「たかが教師」がどんなに邪魔してもその能力を無力化することは出来ません。 例えば鳥をかごに育てて大空を羽ばたくことを邪魔したとしても、鳥はその狭い中で一生懸命に飛びます。そして、一度かごから解き放ては、大空に羽ばたきます。鳥の飛ぶ能力とはそのようなものです。9年間の義務教育中一貫して 学び合い邪魔しても、その中で可能な範囲内で子どもは学び会います。高校担当教師が邪魔しなければ、あっという間に学び合いは表出すると考えています。 人の学び合う能力とはそのようなものです。

 我々が目的としているのは、教えるテクニックではありません。教えなくても出来るという、子どもの有能性を信じる子ども観です。また、その有能性を開花させるには、ごちゃごちゃ教えるのではなく、目標を与え、納得させ、契約を結び、彼らがやりやすいような環境を整備するのが教師の役目であるという授業観です。さらに付け加えるならば、学校教育の根元的な目標は、他者とうまくやっていくというコミュニケーション能力を開花させることであり、教科学習はそのすばらしい場を与えているという目標観です。

02/06/20(木)

[]最近の成長 09:48 最近の成長 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 最近の成長 - 西川純のメモ 最近の成長 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 以前読んだ短編SFにこんな話がありました。

 未来のある国では、コンピュータ人工知能によって全ての公共サービスが制御されていました。ところが、ある時、その人工知能が全く計算をしなくなりました。多くのプログラマーがその人工知能プログラムをチェックしましたがエラーはありません。コンピュータの部品を調べましたが故障はありません。全くお手上げ状態になってしまいました。その時、あるプログラマーが、その原因気づきました。そのプログラマーは、多くのプログラマーが何度も打ち込んだ「計算せよ」と命令を人工知能に打ち込みました。やはり動きません。しかし、そのプログラマーは「計算せよ」という命令の後に一つの言葉を打ち込みました。そのとたんに人工知能は動き始めました。その言葉は「プリーズ」即ち、「お願い」という言葉でした。人工知能は、学習するプログラムです。いつの間にか、自意識と自尊感情を持ち始めたんです。というのが、このSFのおちです。

 息子は2歳と1ヶ月です。しかし、使える単語は「ウッブー(車)」、「デジャー(ヴィデオ、DVD)」のような数語に過ぎません。同じ月齢女の子がしゃべり始めているのを見ると、はやく喋ってと願いたくなります。しかし、私の母親に拠れば、私も言葉が遅かったそうです。そのため、母親は私が知恵遅れではないかと真剣に心配したそうです。幸い、知恵遅れではなく、教師という職業で20年弱めしを食っていけています。その私の息子なのですから、遅いのはしょうがないと思っています。息子は喋りませんが、我々の話は、かなり難しい内容でも理解して行動してくれます。

 今日、家に帰ると、「なかなか食べてくれなかったんだけど、どうぞお願い、とお願いしたら、一生懸命食べてくれた」と家内が話してくれました。そのとたんに、最初に紹介したSFを思い出しました。目に見えないけど、成長しているんだな~と感じました。

[]死語 09:48 死語 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 死語 - 西川純のメモ 死語 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日、学生さんといろいろ話した際、最後に「よろぴく」と言いました。そのとたんに学生のMから「先生、それは死語ですよ」と一蹴されてしまいました。なるほどと思いました。でも、「死語」と認識されるには、「よろぴく」という言葉過去にあった、もしくは過去に使ったという記憶があるからだと思います。そうなると、私が学生、生徒の時に使っていた「話がピーマン(話に中身がない)」、「話が山手線(同じ話を繰り返している)」という言葉は「死語」と認識されるのかな~と考えました。学生さんに試していませんが、かえって新鮮に感じてもらえるかもしれません。

 自分の常識は無条件に他の人にとっても常識と考えがちです。高校教師の時代に、物理の時間に「鉄腕アトムは100万馬力」と言って、場が凍り付いたとき、はじめてアトムは彼らが生まれる遙か前の漫画であることに気づきました。また、大学理科コースで授業をしたとき、「アインシュタイン」を知らない学生さんが半数以上であることを知り、私が凍り付いたこともあります。しかし、知らないからと言って、学生さんが愚かとは考えません。かえって、自分の常識非常識さに気づき、なぜかワクワクします。

[]幼年期の終わり 09:48 幼年期の終わり - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 幼年期の終わり - 西川純のメモ 幼年期の終わり - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昔読んだ「幼年期の終わり」というSFを、毎年思い出します。そのSFは、人類進化がある段階に達したとき、宇宙人地球に飛来し、さまざまな指導を行います。その指導を数世代を受けたある時、人類現在生物の段階を越え、より高い存在になるという話です。面白いのは、その指導する宇宙人は知性としては最高レベルなのですが、生物の段階を脱することが出来ないという限界があります。そのため、指導している地球人の最終的に達するレベルには永遠に達し得ないんです。そのため、その宇宙人は指導している地球人のことが、実はうらやましいと考えています。

 院生さんの2年間の成長には一定のパターンがあるようです(以前のメモ「私から見た大学院2年間」にも書きました)。最近の例で言えば、多くの院生さんは、入学以前から我々の研究室の本をよく読んでいますので、だいたい 我々の考え方が分かって入られます。ところが、ところどころに旧来の枠組みを残していますので、それがチョコチョコ出てきます。4~6月は研究計画を立てる段階ですが、それを議論すると、チョコチョコ出ます。その度に、「それって教師がしゃしゃり出すぎじゃない」、「子どもはバカじゃないよ」、「それって現場に帰って役に立つの?立ったとしても、あなたの教師人生数十年の中で何回ぐらい役に立つの」、「重要なのはテクニックではないよ、子ども観・授業観だよ」と話しながら議論します。「そんなバカな~」と思いつつも、実際にその考え方で成功を収めている修士2年がいるのですから、徐々に納得してくれます。

 次の転機は9~12月に行われる、修士1年での最初の実践研究です。それまでは理屈では理解しているんですが、やはり「本当なのかな~?」と今ひとつ信じられない状態なんです 。そんな気持ちで、実際に教室に入り、我々の子ども観・授業観で授業実践をします、さらにその過程を数十台のビデオカセットで記録し、分析します。そうなると本心で信じてもらえるようです。そうなると、私との議論や、修士2年の人との議論において、子ども観・授業観では一致します。

 修士2年の4月~7月に行う実践研究を行います。このころになると、子ども観・授業観に自信を持っていますので、修士1年に比べるとブレは小さくなります。この時期は修士1年で確立した子ども観・授業観の拡充期です。剣道守破離という言葉あります。つまり、守-形を守る段階(初心)、破-形を破る段階(達人)、離-形を離れる段階(名人)の段階で進むという教えです。実は、この時期までが「守」の時期です。

 次の転機は、8月~11月です。その時期になると、修士1年での研究修士2年での研究を全体で見渡し、まとめる段階です。その段階に達すると、それまでの我々の研究室での成果だけでは、分析しきれない現象が現れます。そこで悩み始めます。悪戦苦闘しながら、今までとは別な視点、一段高い視点を見いだします。つまり、形を破る段階に達します。この段階になると、教官の私から見てもオーラのようなものを感じます。

 次の転機は、修士論文が書き終わり、投稿論文が書き終わった段階です。そのころになると、大学院で学び取ったものを客観的に見直します。それまでの10数年の教育経験から学び取ったもの(ある意味では旧来の枠組み)と、大学院で学び取ったものを、自信を持って取捨選択できる段階です。つまり、「離-形を離れる段階」です。近くで見ている私にとっては、うれしい反面、とても寂しく感じます。この段階に達した方に関しては、とても勝てないなと思います。

 破-形を破る段階(達人)、離-形を離れる段階(名人)に達された院生さんを見るにつけ、幼年期の終わり宇宙人の気持ちになります。我々の研究室の成果(すなわち私のレベル)が1000とします。おそらく修士1年の段階で1000の段階に達します。しかし、修士2年の段階で院生の方は100の新たなことを学び取り、そのうち50だけを研究室(その一人に私が含まれます)に残してくれます。差の50は、生の現象を数百時間観察し、分析したという実体験に由来するもので、埋めようがありません。したがって、修士2年の後半の院生さんのレベルが1100なのに対して、私は1050にすぎません。だから、幼年期の終わり宇宙人の気持ちになります。

 しかし、そう悲観してもいません。だって、来年修士2年の方から50のものを教えてもらえば、1100になれます。さらに次の年になれば1150になれます。つまり、いつまでたっても、大学院という特異な環境で得られる成長を享受できます。これが私の特権だと思っています。

追伸 ということで、最近修士1年の人と話す際、子ども観・授業観でのギャップが小さくなってきたな~と感じます。あとは、新たな子ども観、授業観で実際の子どもを見るだけです。修士2年の方に関しては、もうすぐ実践研究が終了し大学院に戻る頃です。そうなると、直ぐに夏の学会の準備があり、学会への「遠足」があります。それが終わると、家族サービス夏休みがあります。しかし、休み明けになると、きっと自分の得た数百時間分のヴィデオ、カセットを目の前にして、俺は何が分かったんだろうと呆然とするのかもしれません。しかし、ご安心あれ。必ず、それは越えられます。そして、それを越えれば、オーラを発し始めます。ちなみに、9月に焦らないよう、夏休み中に分析をすることをお勧めします。

02/06/18(火)

[]研究テーマ 09:49 研究テーマ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 研究テーマ - 西川純のメモ 研究テーマ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 この頃になると、大学院入学希望者から、問い合わせのメールが来ます。「突然のメールをお許しください」等の恐縮したメールを受けますが、読むとかえって私が恐縮してしまいます。こんなおっさんにメールするのに、こんなに気を遣って頂いてわるいな~と恐縮します。ホームページにも書きましたように、「お気軽に」でお願いします。

 そのようなメールの中で、「自分の専門は理科以外なのですが、よろしいでしょうか?」という質問がありました。私の経歴からして、ごく当然のご質問です。過去にも受けましたし、今後もそのようなご質問を受ける可能性があるので、メモりました。結論を最初に言えば、我々の研究室は「教科を学ぶ子どもを見る」ということを大事にしています。しかし、どの教科であるかということには拘りはありません。子どもにとって理科だろうが、国語だろうが、算数であろうが、それほどの違いがあるわけはありません。なんとなれば、学校教育ではそれらの教科学習を中心とした様々な学びを通して、「人格の完成」を目指しています。少なくとも私はそう思っています。

 一昨年度より理科コースから学習臨床コースに異動しました。理科コースに所属しているときは、当然、院生さんは理科先生ばかりです。また、テーマも「理科」であらねばなりません。さらに、理科コースの生物地学分野に所属していますので、テーマ生物地学的内容であることを求められていました。しかし、他ならない所属院生さんご自身が、そのことを足枷のように感じていました。我々の研究室では理科コースに所属している時代から「教科を学ぶ子どもを見る」研究を続けていました。理科院生さんが研究するのですから、理科が中心になることは当然です。しかし、子どもを見続けていると、理科だけでは収まりがつかなくなります。理科以外の教科を見たくなります。結果として、理科以外の教科の方が、興味深い子どもの姿が表出するいうこともよくあります。しかし、理科コース所属だからという理由で、泣く泣く、それを表に出すことを断念したことは一度や二度ではありません。学習臨床においては、そのような足枷はありませんので、子どもを中心として自由に研究を進めることが出来ます。

 学習臨床コースに移動した、我々の研究室メンバーは実に多様です。たとえば、修士2年のお一方は社会のご専門ですが、情報教育における学び合い研究としています。残りの4人の方は理科を専門とされていますが、そのうちのお二方は総合学習研究の対象に含んでおります。また、お一方はジェンダー研究ですので、理科のみならず、家庭科国語も対象としています。最後のお一方は、理科の授業を分析の対象としていますが、研究目的は活発なクラス全体の話し合いを目的としています。

 修士1年だともっとはっきりします。4人のうちお一方は、社会科出身で教師の授業観と教科の姿を、多様な教科で見ようとしています。お一方は、ご本人は専門は無国籍とおっしゃている方ですが、グループ編成に関して研究をしようとされています。また、お一方は、高校国語先生で、作文指導と学び合い関係研究しようとされています。経歴においてはっきりと理科と分類される方もお一人いらっしゃいますが、テーマは「 グループ学習学習達成度と効率」で、理科目的としておりません。

 ちなみに学部学生メンバーはさらに極端です。私のコース異動の関係で4年生は所属していませんが、3年に4人の学生さんが所属しています。理科専門の学生さんはお一方もおられません。お一人は、国語給食の時の話し合いと教科の時の話し合いを研究しようとしています。また、別の国語学生さんは、地域と学校における異学年の学び合い研究しています。また、社会学生さんは、様々な視点(教師、被害者加害者、その他)から見えるいじめの見え方の違いを研究しようとしています。最後の学生さんは音楽で、なぜ、音楽が好きになるかを研究しようとしています。

 私は理科が好きです。私は理科を通して実に多くのことを学びました。しかし、「理科でなければ学べない」なんては思いません。ただし、教科学習は大事だと思います。たとえば、いじめが起こった場合、ホームルームや個別指導で対応することが多いように思います。しかし、私はまず毎日の教科学習で「いじめ」に対応しなければならないと思います。なぜなら、学校教育の殆どの時間は教科学習が占めており、子どもたちは教師の本音をその時間を通して知ります。ホームルームでいくら愛や友情を語っても、平常の授業でそれに反する行動を教師がすれば、子どもたちは見抜きます。実際、毎日の教科学習の姿にいじめ原因があるというデータを我々は出しています。また、それらは教科学習の姿を変えることによって、速やかにいじめ原因消失するというデータを我々は出しています。私は理科が好きです。しかし、国語が好きな方は、自分の好きな国語を通して教えればいいし、体育の好きな方は、自分の好きな体育を通して教えればよい。そう思っています。

02/06/17(月)

[]研究をまとめる 09:51 研究をまとめる - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 研究をまとめる - 西川純のメモ 研究をまとめる - 西川純のメモ のブックマークコメント

 セクハラ統計を見ますと、近年増加傾向です。なんで増加したのか、その理由を考えても思いつきません。実はセクハラ的行為の頻度は増加していないのですが、我々の意識が変わった結果統計に表れたのだと思います。「セクハラ」という言葉が現れるまで、セクハラ存在していませんでした。もちろんセクハラ的行為は従前よりありましたが、それをあてはめる言葉がないのであまり記憶にも意識にも上りません。たとえば、エスキモーには数十種類の「雪」の表現があります。私なんぞは「ぼた雪」、「粉雪」程度です。そのような私には、エスキモーの人たちが持つ、様々な雪のイメージを持つことも、ましてや記憶することも出来ません。また、こんなことも経験します。息子から絵本の車を指されて質問されると、「赤い車だよ」、「黄色い車だよ」と教えます。ところが、世の車の中には、なんとも言い難い色の車があります。たとえば、「緑と青の中間」と言わざるを得ない色があります。さらに、「緑と青の中間」にも色々の色があり、それぞれが全く異なる毛色の色なんです。そうなると、面倒くさいので、そのときの気分で「緑の車だよ」とか「青の車だよ」と言ってしまいます。我々は現象があって、それに対応する言葉が生まれると考えがちです。しかし、新たな言葉をつくることによって、新たな現象が現れます。極論すれば、その言葉がなければ、その現象は無かったと考えるべきだと思います。

 院生さんが研究をまとめる際に、悩まれます。自分が見たもの、発見したものはとても大事で、膨大であることに圧倒されます。そうすると、どんな切り口でまとめようとしても、何か矮小なものにしてしまったのでは、という不安に襲われます。そうでありながら、自分の見たもの、発見したものを、いかんなく表現するすべが見あたらず、右往左往します。でも、最初に考えてください。「自分が見たもの、発見したもの」が本当にあるのでしょうか?実は、言葉にまとめられる前は、何もありません。言葉にまとめ上げられたとき、はじめてそれが現れます。そうであれば、まず、言葉にすることです。言葉にまとめ上げるとは、自分が見たもの、発見したものを、その瞬間に作り上げる作業なんです。

 書き上げると、確かに全てではないが、自分の見たもの、発見したものの大部分が、そこに含まれることに気づきます。だって、あたりまえです。書く前には「自分が見たもの、発見したもの」何もなかったんですから。

[]我々の研究で書くこと 09:51 我々の研究で書くこと - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 我々の研究で書くこと - 西川純のメモ 我々の研究で書くこと - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々の研究室での目的は何か?それは、「学習者は有能である」という子ども観、また、それの必然として現れる「教師の仕事は教えること以上に、目標を与え学習者の目標とさせること。さらに、学習者が学びやすい場(もしくは環境)を整えること」という授業観を、より多くの人たちに共感してもらうことです。そのためのデータ論文・本を通して情報発信をしています。

 したがって、我々の研究では以下のようなことが書かれています(また書かなければなりません。)

1.現状の問題点

 「学習者は無能である」という子ども観、また、そうまでいかなくても子どもの能力を信じ切れない子ども観が、世に多いのは、それがもたらせいる問題点が見えにくいためです。そのような問題点は、教卓から子どもをみているだけでは数十年たっても見つけることが出来ません。だからこそ、我々は複数台のビデオと10~40台のカセットテープレコーダーを使い、数ヶ月にわたる子どもたちの観察を行います。

2.新たな子ども観、授業観にもとづく実践

 我々は、できるだけ教師がしゃしゃりでないようにします。それを、普通の書き方で書くと、「な~んにもしない」ということになります。それを読んだ人は、「そんなバカな」で一笑に付されます。しかし、我々は何もしないわけではありません。最低限のことはしています。そのことをちゃんと書く必要があります。さらに、我々は普通の教師が一生懸命やる「教える」ということは小さいものの、普通の教師があまりしない「目標を与え学習者の目標とさせること。さらに、学習者が学びやすい場(もしくは環境)を整えること」に時間と手間をかけます。したがって、目標を決めるために、「どのような条件を勘案したか」、「子どもたちとどのように契約を結ぶか」、「子どもたちの行動をどのように評価したか」、「同僚教師、親とどのように契約を結ぶか」等々をやらねばなりません。そのことを十分に書かなければ、「な~んもしない」という風に受け取られます。

3.子どもたちの変容

 「学習者は無能である」という子ども観は、他ならない子ども自体も持たされています。しかし、子どもは速やかに自身の有能性に気づき、変容します(教師の変容に比べて圧倒的に早く、簡単です)。その様子を数ヶ月にわたっておいます。結果として、数週間で子どもたちは変容し、「現状の問題点」が収束することを示します。その後は、教師自身も思いつかないような、様々なすばらしい学びを子どもたちが自ら作り上げる様子を記述します。

4.種明かし

 これは上記のことが十全に書けば、必要ないかもしれませんが、必要となる場合もあります。我々の実践を、「子どもは無能だ」という前提で解釈しようとすると、「そんなバカな話はない」ということになります。しかし、教師自身も多くは経験している学習者の行動を整理し、自らに置き換えることによって、「ごくごく当然の結果であり、むしろ従前の方がおかしい」ということを書きます。

 なお、方法論についてもいくつか注意があります。我々の方法論の特徴は、現職教師が大学院に2年間フルに派遣されたときに、はじめて出来る方法論である点です。私のような「学者」が出来るような研究方法論では、学者に勝てるわけがありません。また、現場でも十分出来たり、1年間派遣で出来るようなものでは、本学(上越教育大学)に派遣された意味がありません。また、我々は質的研究と量的研究を併用する方法をとっています。具体的には、典型的な行動パターンの分類を設けます。各分類を詳細に記述します。さらに、クラス全体をその分類に基づき分類します。その結果を時系列分析や統計分析によって、結果の一般性を担保します。

[]間合い-結婚 09:51 間合い-結婚 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 間合い-結婚 - 西川純のメモ 間合い-結婚 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 若い頃の私は、教育実習学生さんと同様に、子どもとの間合いを詰めよう詰めようと努力していました。学習者と一緒にいる時間が長ければ長いほど、良いと考えていました。結果として、大失敗をしたとしても、それは間合いが近すぎたためであるとは考えられませんでした。結果として、間合いは近いままで、結果として、また失敗を繰り返します。そんな私の転機は、結婚です。結婚し、家庭を持てば、時間的・経済的な制約が生じます。自ずと間合いは長くなります。結婚当初は、間合いが長くなるため、学生さんとの心理的距離が長くなり、結果として指導がうまくいかないのではと心配しました。しかし、そんなことはありませんでした。逆に、学生さんの間での「西川研」の人気は、相対的にあがったように感じます。

 今にして思えば、間合いを詰めすぎたときの失敗、また、距離をおいたときの成功の経験が、今の研究の方向性のベースになっているように思います。

02/06/14(金)

[]6月14日の感激(その1) 09:53 6月14日の感激(その1) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 6月14日の感激(その1) - 西川純のメモ 6月14日の感激(その1) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日もいっぱい感動できました。ある先生からメールをいただきました。13日の「責任」というメモに対してのコメントです。

 メモをよませていただきました。

 離婚についてです。以前努めていた学校は、児童の出入りがとっても激しいです。理由は、片親になってしまったからです。

 教務室では、学年主任が転校生の親に学校の様子を説明します。その時、いつも感じたことを教務室に帰ってきて話してくれます。今度の家の人は、金髪だったとか、全然学校に興味がないんだよなどなど。一番心配しているのは、その子が入ることによって今までのクラスの文化がどうなるかということです。言い換えると、自分が今まで慣れてきた子ども達の対応が変化せられてしまうことを心配します。でも、転校生クラスに入ると教師の心配をよそにほとんど子供はすぐにクラスの文化を吸収します。そのたびに、子供ってすごいなと思います。たまに、荒っぽい子供転校生ですと、クラスのおとなしい雰囲気が荒れたものになります。生徒指導的な事務が急に多くなる。その責任を、あの子が来たからうちのクラスは悪くなったという言い方をされる先生がいます。私は、その子が悪いんじゃないよ、教師の言うことに反発しないクラスが変わっただけだよ、教師のあり方やクラス運営を考え直したほうがいいを教えてくれる合図と心の中で思っていました。安定から逃れること、慣れた思考から抜け出すことの難しさを考えさせられます。

 私は、特に、下線の部分感動しました。クラスが荒れるということは、本当はよりよいクラス作りのきっかけになるのかな~と思いました。そういえば、修士2年のKuさんの研究でも、他校から入学した生徒が新たな文化をクラスに導入したため、整然とした話し合いがゴチャゴチャした話し合いになった例があったと聞いています。ちょっと目には、話し合い崩れたと見えますが、よく聞くと、実は質の高い話し合いが成立していました。黙って従うクラスでは、教師が思いつく程度の学びしか成立しません。でも、自分たちで考えるクラスでは、教師の予想を超えたすばらしい学びが成立する可能性があります。

[]6月14日の感激(その2) 09:53 6月14日の感激(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 6月14日の感激(その2) - 西川純のメモ 6月14日の感激(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 いつもの学部学生の学年ゼミでは、自分たちの卒業研究の内容に関して、その1週間の進歩を話し、議論しています。先週は教育実習でお休みです。一昨日の学年ゼミでは、自主的に別なテーマを設け、レジュメをつくり発表・議論をしていました。内容は、先週の教育実習で学んだこと、また、9月にある本実習への課題を発表し、議論する内容でした。レジュメを読ませて頂きました。指導教官バカなのかもしれませんが、とても良いものです。現職院生さんにも回覧してもらい、アドバイスをいただきました。

 ある院生さんはアドバイスレジュメにまとめ、学部学生に渡してくれました。読ませて頂きましたが、感動ものです。その中でも、特に感動した部分メモに載せることにしました。きっと多くの学部学生さんが、善意で誤りがちな部分と思いますので。以下は、ある学部ゼミ生のレジュメに対する現職院生さんのコメントです。

 子どもの理解について、3日目に自己認知できたことはすばらしいと思います。また、より子どものいいところを探そうという姿勢は大切です。大事にしてください。○さんも教師になるとわかりますが、どうしても人間的に好きになれない子がクラスに1人か2人はでることがあります。その時に、この教育実習で感じたことを思い出せたら最高ですね。しかし、気になるところがあります。それは「大切なのは子どもを理解しようとする姿勢だろう」という所です。私も以前はそう思っていた時期もありました。しかし、西川研に来て、それは少し変わってきています。結論から言うと、子どもは教師から理解してもらわなくても生きていける。子ども同士から理解してもらえないとクラスで生きていけないのであると。つまり、大切なのは、子ども同士のなかで、相手を尊重する関係になるよう教師がコーデイネートすることだと思います。たくさんのクラスを見ている私のような年代になると、子どもを理解しようとしている先生はたくさんいます。しかし、そういうクラスでも子ども同士が理解しあっているかというと決してそうではありません。そこにはいじめがあったりします。

追伸 それにしても、「ああせい、こうせい」と言わなくても、自主的に教育実習テーマにし、学年ゼミを運営している学部学生さんは尊敬に値します。そのことにも感激しました。

02/06/13(木)

[]目標と方法 09:55 目標と方法 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 目標と方法 - 西川純のメモ 目標と方法 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我々の研究室では、教師は目標を語るべきだと主張しています。しかし、多くの先生方は方法を語っているように思います。

昨日おもしろい話を聞きました。小学校給食の時、シーンとなっていて、黙々と児童が食べているそうです。聞くと、そのような学校は、決して希なケースではないそうです。なんとも不気味な様子です。理由を聞くと、子どもたちは給食の時おじゃべりに夢中になり、なかなか食べ終わらず、結果として昼休みにずれ込むそうです。それをさけるため、黙って食べるように指導しているそうです。でも、別な指導方法もあると思います。

 食事時間に黙って食べさせるのは、けっして目的ではありません。目的は昼休みにずれこまないことが目的です。そうであれば、「昼休みにずれこまないようにしよう」、もしくは、「昼休みにいっぱいみんなと遊ぼう」という目標子どもたちに与える方法もあると思います。子どもは愚かだ、という子ども観のもとでは、具体的な方法を子どもたちに示さなければ 子どもは出来ないと考えます。しかし、子どもは有能だ、という子ども観のもとでは、目標が分かれば、あとは一番いい方法を子どもは考えられると考えます。

[]責任 09:55 責任 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 責任 - 西川純のメモ 責任 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 教育自習から帰った3年生が、実習で学んだことを自主的にまとめ、学年ゼミで話していました。その際、学生さんから子どもたちから、自分(もしくは友達)の両親が離婚したということを話しかけられたとき、どのように対応すればいいのか分からないという話題が出ました。ゼミ中は基本的に黙っているようにしていましたが、この問題は大事なことだし、学生さんには少々難しいと思いました。もちろん、時間をかけて任せれば正しい答えを出るだろうという、学生観を持っています。しかし、この問題をそのままにした場合、実習先の児童の心を傷つけるのではと心配になり、口を出してしまいました。私は、以前のメモ研究者の資質」で紹介した以下の話をしました。

 『大学生の時代は髭を生やしていました。髭というのはただ生やせいいわけではありません。ある程度伸びてきたら、そろえて切らねばなりません。伸ばさない部分は、こまめに剃らねばなりません。冬の寒い日は、鼻息が髭にあたり、それが凍ります。やっかいなのは、部屋に戻ったとたんに解けだし、べっちょりします。そんなこんなで、手間がかかりますが、髭を伸ばしていました。理由は、かっこいいと思っていたからです。学部4年のある日、急に髭を剃ることにしました(理由は今は思い出せませんが)。翌日は、合う人ごとに、「どうしたの?」との質問責め。その日の夜、卒業研究指導教官のお宅でコンパがありました。当然、指導教官からも「どうしたの?」と聞かれると思っていましたが、意外にも何も聞かれません。そうなると、気になってしょうがありません。帰り際、我慢が出来なくて、「あの、髭剃ったんですけど」と言ったところ、指導教官曰く「ああ、でも髭があろうと無かろうと、君にかわりはないだろ」。なんだかしれないが、えらく感動した覚えがあります。』

 離婚した家庭のことを思えば、考えることも多いと思います。しかし以前のメモにも書きましたように、教師がそのような問題に介入できないし、介入するべきではないと思います。教師は、教室にいる「その子」の「その時間」に責任を持つべきだと思っています。教師自身が、「その時間」の「その子」に焦点を合わせれば、その子の両親が離婚したか否かは重要なことではなくなります。つまり、「君の両親が離婚しようとしまいと、君は君に変わりがないだろう」というスタンスで接すればいいだけのことです。そして、それを言葉として述べるだけではなく、心の底から信じなければなりません。そのためには教師の仕事は、子どもの全てに責任を持つのではなく、「その時間」の「その子」に責任を持つということを、誇りを持って言えなければなりません。

 現職の先生方には、もっとすばらしい対応があるのかもしれません。しかし、今の私は上記のように考えています。

[]間合い 09:55 間合い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 間合い - 西川純のメモ 間合い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 学生さんが教育実習での経験を話している最中、ちょっと気になることがありました。それは間合いです。学生さんは、一生懸命子どもに近づこう、近づこうとしています。どのように、その子の内面に迫り、その子の問題を解決したいと願っています。とても大事なことです。でも、近づきすぎては駄目だということに気づいていないのでは・・と感じました。教育実習でくる若い先生は、いつもの先生より年齢的にも近しい存在です。遊びたい、甘えたい、とまとわりつくのは当然です。しかし、児童が求めているのは、「友達」ではなく「教師」です。近づくにも、自ずと限度があります。その限度を超えると、色々な問題が生じます。

 また、児童全てに近づくことは出来ません(物理的にも)。結果として、近づきすぎた場合、児童間の近づき方に差が生じます。それが問題です。問題児童の問題の原因を、その児童個人に帰属させる場合、教師はその児童のみに関わり合うことになります。結果として、他の児童との対応がおろそかになり、他の児童がしらけ、結果としてクラス全体が駄目になる場合は少なくありません。しかし、問題児童の問題の原因を、そのクラスに 帰属させる場合、教師はクラス全体を見渡せなければなりません。そのために、自分が子どもに近づける5,6割程度に近づき方を押さえ、のこりの4、5割の能力を、常にクラスに向ける必要があると思います。

 高校教師大学教師として何度も失敗した経験からの私の教訓です。でも、今後も失敗するであろうことは予想に難くありません。

追伸 上記を読まれたIさんから以下のメールをいただきました。やっぱりな~と思いました。

 『実習生さんの間合いの文書を読んで自分を振り返りました。よく遊んでもらえる子供とそうでない子供がやっぱいいます。甘え上手な子供に教師としてよくそんなことできるねと感じることあります。新採用の人だと、最初の1ヶ月はその人気で生きますが2ヶ月くらいすると子供の気持ちに差が出始めます。子供と近づきすぎたため、友達になりすぎてクラス経営から見て、閉めないとならないことに甘く指導してしまうんです。それが続くと子供たちは不公平感をもちます。「○○ちゃんは、いつもほめられていいな。」など。担任の考えの鏡がクラス子供です。厳しいこというのはつらいけど、言わないと子供の心が離れていくようです。クラス子供と教師のやってはいけないラインを話し合えること大事です。これを教師の一方的な指導でなくて、子供たちから自分たちの作った決まりだと思える文化を作れる教師になりたいと考えます。』

02/06/12(水)

[]競争(その2) 09:56 競争(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 競争(その2) - 西川純のメモ 競争(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 以前のメモである「競争」に関連した議論がOkさんとの個人ゼミで出ました。大事なことだと思うので、備忘のためメモりました。

 話題になったのは、運動会では競争させているのにも関わらず子どもたちは嫌がらない。一方、算数では競争させていないのに子どもたちは嫌がる。それは何故か?ということです。算数の場合は子どもの能力差が大きいことを、教師は自覚しています。そのため、ことさら子どもたちの間で競争させまいと思っている教師は少なくないと思います。それなのに、何故、子どもたちは嫌がるか?このことに関して、結局競争させているとOkさんは分析されています。例えば、「さあ、この百問を解こう!」という課題を与えたとします。この場合は、直接、他の子ども競争(例えば、「一番はやく解くのはだれかな?」)させているわけではありません。しかし、クラスの中で百問を解き終わる子が出始め、一方では解けない子がいる状態では、結局、競争になってしまいます。さらに、無意識のうちに、教師は早いことを褒め、遅いことに顔をしかめます。

 しかし、Okさんがちょっと考えてしまったことは、Okさんの経験上、競争させている運動会(例えば、「白組が優勝だ」)で、子どもたちが嫌がっているようには見えない、ということです。したがって、「競争」でも問題ない場合があるのでは?という疑問をお持ちになりました。それに対して、以下のように話しました。

 Okさんの経験で競争させる運動会子どもたちが嫌がらないのは、Okさんが無意識の中で「勝つ」ことではなく、「協力」することを子どもたちに目標として与えているからだと思うよ。もし、「勝つ」ことを目標とすれば、「おまえのリレーでの順位が悪いから負けたんだ!」という非難合戦がクラスに起こるよ。そうなれば、きっと子どもたちは嫌がると思うよ。それに、そんなことが起こらなくても、競争であれば「勝つ」集団もいるけど、「負ける」集団も必ず出るよね。そうなると「負ける」集団は不満足だよね。つまり、競争させれば、全員を満足させることは出来ないよね。でも「勝つ」ために協力することを強調し、そのことを教師が積極的に評価することは出来るよ。もし、「負け」たとしても、協力したことに子どもの目を向けさせることは出来るよ。きっと、Okさんはそうやっているから競争させても子どもたちに不満がないんだと思うよ。つまり、Okさんは競争させているんじゃなくて、協力させているんだよ。

 算数に関するOkさんの分析、運動会に関する私の分析、これを振り返ってみると大事なことだなと思いました。やはり、競争は実り少ないように思います。また、競争させていないようで競争させている場面、競争させているようで競争させていない場面、そんなものが学校にはいっぱいあるように思いました。

02/06/10(月)

[]研究のまとめ方 10:16 研究のまとめ方 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 研究のまとめ方 - 西川純のメモ 研究のまとめ方 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ジェンダー研究しているYさんが深刻な顔で相談にきました。内容は研究のまとめ方です。Yさんはジェンダー関連の多くの文献を読みました。Yさんによれば、その多く(特に社会学関係)の研究では、「男性加害者女性被害者」という図式で研究をまとめているそうです。以前の個人ゼミで、「男性加害者女性被害者という図式で見るのはやめようね」ということはYさんと私の間で合意したことです。しかし、それ以降も数多くの文献を読んだYさんは不安になり始め、相談にきました。

 それに対して、私は以下のようなことを話しました。

 「男性加害者女性被害者」という図式が正しいかもしれないけど、Yさんの目の前にいる男子一人一人、加害者というふうに思える?(Yさんは首を振る)私もそう思う。現在社会男性に有利に働いていることは理解できるけど、だからといって、その責任を個々の人に帰結しても仕様がないように思えるんだ。特に、子ども責任を負わせる気にはならないよ。さらに、だからといって男性社会というような「社会」に責任を負わせる気にはなれないな。だって、そんなことしてもクラスの中は、ちっとも良くならないもん。我々は現実クラス子どもたちを救いたいと思って研究しているんだよね。その責任を「社会」に追わせたって、我々は「社会」を直接、何とか出来そうにもないよね。でも、クラスの中で大きな権力を持っている教師の意識を変えることは、我々の努力次第では出来そうだよね。だから、教師の持つ授業観・子ども観によって、クラスの中に現れる男女の関係がどうなるかという方向でまとめることのほうが実り多いと思うよ。

 Yさんはニコニコして帰りました。1年以上話し合っていると、教育に関するもっとも基礎的な部分が似てきます。その共通部分は、指導学生指導教官という関係でできあがるのではなく、別な指導学生指導教官、さらに、指導学生対指導学生という複雑な関係の中で成立します。我々の研究室現在私を含めて14人で構成されています。したがって単純な二人の関係だけで14×13という膨大な組み合わせがあります。それらが複合的に組み合わされ、それが徐々に変化する、それが研究室の文化です。Yさんも私も、その文化の中にいます。したがって、私が長々話したことは、Yさんも百も承知、二百も合点なんです。でも、ど偉い先生の名著の中で、何度も何度も言われると、Yさんも不安になってしまいます。そうなったとき、大学先生(へぼ教官であっても)が自信を持って、「大丈夫だよ」ということは意味があることだと思います。

[]本日、朝一番の感動 10:16 本日、朝一番の感動 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 本日、朝一番の感動 - 西川純のメモ 本日、朝一番の感動 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の術中に陥ったHさんから、途中経過の報告がありました。しかし、得られた膨大な結果に圧倒され、悩んでおられました。そこで、以下の返信をちょっと前にしました。

『一読しました。

研究者の直感で、いいものだと思います。

しかし、結局、Hさんが何を言いたいのかが分かりづらいようにおもいます。

 会話のカテゴリー分けは適当か?

 人間関係と学びの関連性を,客観的に数値で表す事柄はなにがあるだろうか

との質問がありましたが、何を言いたいかによって、カテゴリ分けが妥当かどうかが決まります。

どんな人間関係とどんな学びの関連性を言いたいのかによって、どのような数値で表すか決まります。

Hさんは、実に多くの、かつ、重要なことに気づき、かつデータを持っています。

しかし、重要なのは、それらすべてを見てきたHさん自身が、

結局、何に一番感動したか、何に驚いたかです。

ゼミでもよく言ったと思いますが、それを短い言葉でポンと表現してください。

たとえば、昨年度のHさんの成果は、「教師が目標を与えるか、方法を与えるかで子どもの動きは違う」

Hさんの言葉で言えば、「短期間の目標/長期間の目標」と表現できるでしょう。

これぐらいの言葉で表現してください。

あとは、「自分は何でそう思ったのか」、「それをどう表現するか」という段階に進みます。

でも、最初は、何に感動し、何に驚いたかです。

一つとは言いませんが、2~3以内に一度まとめることをお勧めします。

これだけ、いろいろ面白い現象に気づいているのですから、捨てるに忍びないものもあると思います。

しかし、一度、えい!っと捨ててみてください。

案外、自分が感動したものを整理すると、その中に含ませることができることを気づくものですよ。』

上記のメールに対する返信が、朝一番できました。

 『メールありがとうございました.ご指摘があったとおり,どこを切り出そうということに気を取られていて,何を伝えたいのか,自分が忘れてました.

 とても,些細な事だったので「これはどうか」と思ってしまいますが,授業時間に自分のつぶやきを誰かが拾ってくれるだけで,子どもは意外と学習意欲が出てくるんだな,と感じています.対教師とか生徒間の会話とか難しく考えるより,自分の気持ちや考えをキャッチボールしやすい人がいれば,そこが子どもにとって授業や教室での居場所なんですね.人や物との対話や会話が学びなのですから,居場所があるという安心があるだけで,学び合うのは当然なのです.

 結局,教師の在り方,目標設定と提示でキャッチボールの相手を誰にするかです.

 授業に参加できない,教室に入れない3年生がいます.つきっきりであれば学習もできます.表情や呟く単語からでも何が分からないのか推測して教師は対応できます.しかし,授業中,彼らの呟きを誰が拾うのか.拾い合うのは結局同様な仲間でしかなく,教室から出て行きます.話を聞いてくれる教師には積極的な,時には挑戦的な言動をする子どもが,仲間内では弱い立場にあることは,良くご存知だと思います.理科準備室で3時間も興奮して話すADHD子どもが教室で落ち着けないのは,自分の言動に対する級友の反応が怖くて仕方がなからでした.

 授業のIRE構造の中で,発言できるのは正解が分かる子であって,正誤を恐れず自分の意見をつぶやけるようになるだけでも結構な力だと思います.つぶやけるようになるまで,もっていくのが教師の力量だと思います.中学校で学級全体から声が出る授業が普通にできれば,それはすごいことだと思います.』

 これを読んで、また、ウルウルしてしまいました。

 Hさんは、上記のことを一般論ではなく、膨大な質的データ、及び量的データで、圧倒的な説得力を持った論を展開されると思います。ワクワク!

[]民主主義 10:16 民主主義 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 民主主義 - 西川純のメモ 民主主義 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 金曜日の全体ゼミ感動しました。

 院生のYさんは理科授業におけるジェンダーに関する研究です。昨年のYさんの研究の中で感動したのは、第一は理科の授業においてジェンダー存在していることです。これは予想通りです。しかし、Yさんは数ヶ月にわたって教室に入って観察し続けています。そのため、生々しい場面を数多く切り出してくれました。その場面には、調査を始める前から、「あるだろうな~」と予想したものもありました。しかし、それ以上に、「え!?でも、そういえば~・・」とうなってしまう場面も数多くありました。もう一つ昨年の段階で感動したのは、ジェンダー意識は、男子以上に女子児童がもっているということです。簡単に言えば、「理科男子が得意」という意識は、男子以上に女子が持っていることが明らかになりました。

 ことしは、昨年の実態調査をふまえて、授業実践をしました。金曜日ゼミでは、その報告がありました。昨年度のYさんは、ニコニコしながら「先生、入学以来で第○○回の個人ゼミです!」と言って、週1度以上個人面談をしていました。数ヶ月にわたって現場校に戻って調査しているときも、週に1度は上越に戻り個人ゼミをしていました。ところが、今年の授業実践に入ってから個人ゼミの申し込みがありません。「どうしたのかしらん?」と、実は心密かに心配していました(読んでる?、Yさん)。したがって、昨日の全体ゼミ発表は、久しぶりの報告です。

 ゼミでの内容は、実にクリアーにまとめられていました。感動したのは二つです。第一は、細かなテクニックではなく、教師の授業観が子どもたちに伝われば、男女の関係自然と変わるということです。「テクニックではなく授業観・子ども観」は我々研究室の基本テーマですが、ジェンダーにおいても成り立ったことは、心強い結果です。でも、これに関しては、過去研究からある程度予想がつきます。感動した第二は、男子の意識です。

 Yさんの授業実践の方法は、過去の諸先輩がやったように、教師が「ああせい」、「こおせい」と詳細に指示するのではなく、子どもたちに自分たちの行動を振り返らせ判断させるという方法です。その基本にあるのは、子どもには自らをただす力があると信じる、子ども観に根ざしています。それをすると、女子の方から、「おかしい~!」、「むかつく~!」と反応が起こるそうです。そして、速やかに男子のみが活躍する理科から、男女とも活躍する理科に変化するそうです。私が感動したのは、そうなったあとの男子の意識です。

 それ以前の男子は、理科の時間は主導的に行ってきました。面白そうな理科の作業を女子から奪うような行動をしていました。しかし、Yさんの実践の後、そのようなことが出来なくなります。しかし、そうなったあとの男子は、そういう状態を肯定的にとらえていました。

 我々は日本に住んでいます。おそらく、全世界の50億人の中で、民主主義の恩沢を比較的多く受けている数少ない国民の一つだと思います。その民主主義のすばらしさを、Yさんのクラス男子の意識に見ることが出来ました。差別というのは、差別を受ける側と同様に、差別をする側の心をむしばむものだと思います。互いに最低限の敬意を持ち合う関係というのは、全ての人にとって「よい」ものだと思いました。

02/06/07(金)

[]競争 10:19 競争 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 競争 - 西川純のメモ 競争 - 西川純のメモ のブックマークコメント

本日の全体ゼミ発表を聞きながら、「競争」ということが気になってしょうがならなくなってしまいました。教師は課題を与えるとき、よく競争させます。でも、何で競争させるんでしょうか?まず考えられるのは動機付けです。簡単に言えば、課題自体の達成を目標にするのではなく、他者との競争目標すり替え、やろうと思わせる方法として利用します。一般的には、この理由付けは否定的に取られますが、私はそうは思いません。

 私が高校で教えていたとき、生徒から「何で○○を勉強しなきゃならないの?」と聞かれました。「それが分かれば役に立つ」と説明しようとしましたが、「そんなこと分からなくても全然だいじょうぶだもん」と子どもに言われてボツ。「それが分からなければ大学に行けない」という説明は、中学校の成績がオール1の生徒が大部分を占める高校では説得にはなりません。「分からなければ卒業できないぞ」というのは脅しにすぎず、第一、そんな脅しは役に立ちません。そんなこんなで、結局落ち着いたのは、「それが分かれば楽しい」という説明です。その説明が説得力を持つためには、教師は全身全霊をかけて分かりやすく教えるべきだと考えていました。たいていの子どもは分かれば楽しくなるものです。でも、どうしても楽しくないという子もいます。たとえば私は納豆が好きですが、納豆の嫌いな人は山ほどいます。その中には食わず嫌いの人で、それなりに食べ続ければ好きになる人も多いと思います。しかし、それでもだめだという人はいると思います。学校勉強も同じで、その課題自体をどうやっても受け付けられない人がいます。それを乗り越える方策として、協同・協調を目標とすることを私たちは大事だと考えています。

 具体的には、その課題には興味を持つことはできなくても、その課題を通して他者と協同することに興味を持つことはできると考えています。また、その課題に好感を持つことはできなくても、その課題に興味を持つ他者に好感を持ち、したがって、その他者のために課題を達成したいと考えることはできます。そのため、私が学生さんに課題を与える場合、「おまえに役に立つ」という理由付け以上に、「おまえの仲間に役に立つ。みんなと一緒になってやることは重要だし、大事なことだ。」と強調します。これも「競争」と同じで、その課題自体の達成を目標にするのではなく、他者との協同を目標すり替えています。でも、先に述べたように、その課題自体を目標とすることには限界があり、すり替えせざるを得ないと考えています。さらに、私の場合は、学校教育目標は、個々の内容を学習することではなく、他者と協同しコミニュケートする能力の育成と考えていますので、「個々の単元で学ぶ内容」を「学校教育の本源的な目標」にすり替えているのですから、是認されるべきものだと考えています。

 それでは何故、教師は協同ではなく、競争という方法で動機付けをするのでしょうか?まだはっきりとは分かりませんが、こうかな?というものはあります。協同を目標とするためには、「仲間」という意識がクラスの中になければなりません。競争ではそれが必要ありません。つまり、クラス経営努力が必要ないわけです。それでは私たちが、クラス経営をしてでも協同させるか?それは、第一に、競争の場合は全員が救われないが、協同の場合は全員が救われることができる。第二に、協同が成立した学習集団の力は、とてつもなく大きいからです。つまり、多くのクラスで「競争」が多用される理由は、協同のすごさを教師が知っていないのでは、と不遜な考えを持っています。

02/06/06(木)

[]かわいいな~ 10:21 かわいいな~ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - かわいいな~ - 西川純のメモ かわいいな~ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私が上越教育大学に勤務したのは27歳の時です。学部4年生は22歳です。一方、大学院生さんは平均35歳程度ですから、院生さんより学生さんの方が近しい存在です。院生さんは面と向かっては「西川先生」ですが、裏では「西川さん」、「西川ちゃん」だったと思われます。定時制高校40歳、35歳の方々を教えた経験があるものの、やはり年上の方に対して、教師という立場で語ることに関しては抵抗感が強いのが正直なところです。あれから15年がたち、42歳になりました。いつのまにか大部分院生さんは私より年下になり始めました。さらに、いつのまにか私が高校で教えたときの高校3年、4年(定時制高校は4年制です)の子どもたちと同じ年齢差の院生さんが多くなってきます。

 今日、現職院生さんが私に、「○○学会と○△学会発表する題目は全く別にするべきなのでしょうか?それとも、「その1」、「その2」という形式の方がよいのでしょうか?」と質問にきました。それに対して、「ちょっとここに座って」と座らせました。その後の会話は以下の通りです。

私:「なんで、そんなこと質問するの?」

院生さん:「共同発表者である先生に何も話さずにやったばあい、まずいと思いました」

私:「それだったら、「これこれにします」って言えばいいじゃない?」

院生さんは、「いや~まいったな~」と、にやにや笑っています。

私:「それに、その疑問を持ったのは○○さん、あなたが歴史上初めての人だと思う?」

院生さんは首を振る

私:「たとえば、去年は誰がその疑問を持ったと思う?」

院生さん:「Kさん(昨年、修了された院生さん)」

私:「だったら、どうしたらいいと思う?」

院生さん:「Kさんにメールして聞きます。」

私:「メールしなきゃ分からない?」

院生さん:「あっ。去年の学会の要項を見ます。」

私:「じゃあ、私に聞くことは何もないよね。」(ニコニコ)

また、別の院生さんとは以下のやりとりをしました。

その院生さんとは、先週1週間後に報告書を出してくれるようお願いしました。同時に、ハリーポッターDVDを貸してもらうことをお願いしました。

その院生さんは私と目が合うなり「はい、もってきました」とDVDを出してくれました。その後のやりとりは以下の通りです。

私:「ありがとう、ところで例の件は?」

院生さん:「あっ、覚えてらっしゃいましたか~、まいったな~、だから最初に渡したんですが~」

私:「それじゃあ、いつだったら出来上がるの?」

院生さん:「一週間後にお願いします」

私:「今、ご自身で期限を切ったんだよね。自分でね」(ニコニコ)

院生さん:「いや~まいったな~。そういえば、来週の金曜日ワールドカップがありまして・・・」

私:「そう、それじゃあ木曜日に提出でもいいよ。私は金曜日でもいいと思うけど、木曜日に出したいならそれでもいいよ」(ニコニコ)

以上の会話をしながら、30歳を過ぎた子持ちのおっさんを心の底から「かわいいな~」と思います。

私には確信があります。

現場に戻ったら、きっと同じ会話を子どもたちとすると思います。

だって、院生さんたちも、学習者を信じたほうがいいことは、よ~っくお分かりだから。

02/06/03(月)

[]起きて半畳、寝て一畳 10:22 起きて半畳、寝て一畳 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 起きて半畳、寝て一畳 - 西川純のメモ 起きて半畳、寝て一畳 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 よく知られた言葉ですが、「起きて半畳 、寝て一畳、天下とっても2合半」とも言われます。原典は、内田百間(ひゃっけん)、織田信長、または、禅の高僧とも言われますが、よく分かりません。とにかく、「足ることを知る」ことを意味しています。

 新しい官舎にうつってから、この言葉のことを、よく思います。私が家にいるとき、90%以上の時間は居間と寝室です。残りの10%の殆どは風呂トイレが占めます。台所、玄関には僅かしかいませんし、二つの6畳間には全く足を踏み入れない日の方が多いと思います。テレビで「お宅拝見」番組を見ますが、「いいな」と思うより、「掃除どうしているんだろう」と感じてしまいます。そう考えると、「満足すべきだな~」と妙に悟ります。

 しかし、この言葉インターネットで検索していたら、面白いページにぶち当たりました。ある工務店のページです。

 『起きているときは半畳でこと足り、寝ているときは一畳あれば十分。現代の私達には、ちょっと想像もつかない生活ですね。今は一人あたり16畳(8坪)が理想です。4人家族ならば、32坪の家が必要な計算になります。それでも物はどんどん増えてしまいます。これから新築を計画するならば、収納スペースは十分に確保しましょう。』

 読んでみて、はたと思い当たりました。私が足を殆ど踏み入れない二つの6畳間は、タンス、本棚等で占められています。つまり、人間様は「起きて半畳 、寝て一畳」なんですが、「物様は○○畳」必要なんです。 しかし、だからといって、いまが不満というわけではありません。そりゃあ、広いに超したことはないけれど、広すぎれば、それなりに大変なことも生じます。とにかく、今の部屋に満足しているならば、それで十分です。つまり、足ることを知ることが幸せの要だと思いました。

[]逃げること 10:22 逃げること - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 逃げること - 西川純のメモ 逃げること - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日はサルに関する本を集中的に読みました。今更ながら学ぶことが多いなと実感しました。色々と感動しましたが、一番感動したのは社会的地位と繁殖率との関係です。

 人間がサルを一定の檻(またはサル山)に押し込めているときは、社会的地位の高いサルは肥え太り、社会的地位の低いサルは痩せます。結果として、子孫を残せるのは前者です。さらに、社会的地位の高いサルの子どもは肥え太り、低いサルの子どもは痩せます。何か現代社会の縮図を見る思いで、ちょっとイヤになってしまいました。また、社会的地位が生存競争に影響しているんだなと納得しました。しかし、読み進むと驚きました。自然状態では、社会的地位の高さは、その個体およびその子孫にあまり影響を与えないそうです。理由は、社会的地位の低いサルが群れの中でイヤになれば、その群れを出ればいいだけです。また、社会的地位の高いサルは、出て行くサルを追っかけるて連れ戻すことは、労多くして益少ないのでやりません。結局、社会的地位の低いサルは、その地位の低さが不都合のない場所で、不都合なく生活できます。これを読んで、私の学者としての処世術を思い出しました。

 私も42歳になりました。しかし、学者の世界では中堅になった程度です。ましてや、30歳代などははな垂れ扱いでした。ある学会で、あまり目立ったこと(お品のないこと)をやらかしますと、その学会での社会的地位の高い先生から、きつい注意が下ります。たいていの人の場合、数年間は謹慎して静かに過ごし、それ以降はおとなしい学者生活をすることになります。ところが私の場合は、「さっと」別の学会に活動の中心を移します。もちろん、それまでの学会喧嘩するわけではありません。単に、距離をおきます。そこでも目立ったこと(お品のないこと)をやらかしますと、また、別な学会に移ります。そうこうしているうちに、元々の学会でもほとぼりは冷めています。また、そのころには年齢もあがりますので、ちょっとぐらい目立ったことをしても大目に見てもらえるようになります。そんなこんなで、学者生活15年間、ずーっと自由にやっていけました。もし、一つの学会という狭いコミニュティーにとどまっていたらと考えると、「ぞっ」とします。

 そう考えてみると学校で植え付けている、序列とは何でしょうか?少なくとも親にとっては、良い大学、良い会社です。それに繋がるからこそ、学校での序列に意味が生じます。でも、良い大学、良い会社とは何なのでしょうか?この年になれば、学歴社会モデルに会わない人をいっぱい知ることになります。超有名校出身なのに、二流大学出身者と机を並べ、同じ給料をもらっている人もいます。なによりも、「家族仲良く、健康で」ということに関して、出身大学も勤務会社も影響を与えません。そう考えれば、子ども学校の序列がイヤになったら、逃げ出せばいいことです。

 でも、そうなると学校空っぽになるかもしれません。また、学歴社会のらち外に出れば、それはそれでリスクも生じます。でも、それはサルの社会でも同様です。社会的地位の低いサルが、どんどん出てしまったら、その群れ自体の力がなくなります。結果として、社会的地位の高いサルにとっても不利です。社会的地位の低いサルにとっても、群れから離れれば不利になることは確かです。だから、ちょっとイヤだから直ぐに出ることはしません。したがって、社会的地位の高いサルと、低いサルの、ほどよいバランスの中で群れが成り立っています。結果としては、低いサルにも、それなりにいごごちの良い群れとなります。でも、そのようなバランスが生じるためには、「逃げられる」ことが大事です。逃げられない状態では、社会的地位の高いサルのみが肥え太ることになります。だから、学校も「逃げられる」ようにする必要があると思いました。