西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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02/03/22(金)

[]私の卒業式 11:15 私の卒業式 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 私の卒業式 - 西川純のメモ 私の卒業式 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日上越教育大学において卒業式、修了式があります。本学を巣立つ方々に対する感慨は強いものです。しかし、本日は私自身の節目の日です。27歳から15年間所属した理科コースという組織を出る日です。15年間所属した組織というのは、私の所属した組織のなかで、最長の組織です(次は筑波大学の7年、下赤塚小学校の6年が続きます)。もちろん、上越教育大学という組織には今後もお世話になります。しかし、27歳で所属した当初はもちろん、現在においても、下っ端の私にとっては大学という組織というのは実感のない組織です。同じ大学に勤めていたとしても、他コースの先生とお話しする機会は、それほど多くありません。従って、この15年間の殆どの時間において、実感として所属していたのは理科コースという組織です。

 12年度より学習臨床コースが立ち上がりました。その時点では、理科コースと学習臨床コースの併任という形でした。従って、その年度の院生さんと学部学生さんが我々の研究室に所属することになりました。ところが、12年度中に急転直下、学習臨床コースの専任となることが決まりました。そのため、13年度からは理科コースの院生さんと学部学生さんが、我々の研究室に所属することが出来なくなりました。それに伴って、理科コースの教官会議に参加することが無くなりました。しかし、12年度に所属された院生さんと学部学生さんの研究指導に関しては理科コースと関わっておりました。その院生さんと学部学生さんが卒業・修了することにより、それも終わります。感慨深いものです。

 私のおかれている状況(即ち、新コースに異動する教官)は上越教育大学においては少数派です。しかし、今は大学の激動期です。10年後に今ある組織が残っているとは私は思えません。それは、学習臨床コースという出来てホヤホヤのコースでさえも例外ではありません。となると、組織を離れた社会生活における私とは何かということを考えなければならないと「ヒシ」と感じます。

 今の時点では、人の繋がりがそれに当たるように思います。組織うつろいやすいものですが、人は残ります。組織を通して他の人と繋がるのではなく、個人として繋がることが大事だと思います。もし、組織を通して他の人と繋がっているならば、その組織が壊れたとたんに人とのネットワークを失うこととなります。そのことは、社会生活における力を失うことに他なりません。

追伸 このメモは、私ぐらいしか共感(また理解)できない内容のように思います(少なくとも今の時点で)。しかし、未来の私自身へのメモとして残しました。

[]感動 11:16 感動 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 感動 - 西川純のメモ 感動 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先だっては、3人の院生さんの個人ゼミをしました。内容は本年度の成果のまとめです。報告を聞いて最後に評価をしました。お一方は、「差し戻し」です。おそらく、院生控え室では「撃沈~!」と、他の院生の方には言っていたのではないでしょうか?お一方は、「二重丸」です。お一方は、前半部分に「二重丸」プラス宿題がドッチャリ」です。

 お三方の研究成果に優劣があるわけではありません。お三方とも、極めて質の高い研究をしています。それでは、どこに違いがあるかといえば、私が感動したか、否かという一点です。もっと正確に言えば、お三方の「その日」の報告に関して、感動したか、否かという一点です。「差し戻した」方を含めて、それ以前の個人ゼミでは何度も感動しました。しかし、その日に関しては、感動の度合いに差がありました。

 個人ゼミ研究報告を受けていますが、その評価は、最初の1、2分を聞くだけでほぼ決まってしまいます。私の評価の視点は二つです。第一は、ご「本人」が自分自身の研究感動しているか、否かです。我々の研究室研究は、現場先生方に共感を受けるものでなければなりません。現場先生方に共感を受けるか、受けないかを判断するならば、私のようなものより、現場先生である院生の方の判断の方が正しいはずです。語っている現職院生の方の顔を見て、声を聞くだけで、「こりゃ良い研究だ」ということは一目瞭然です。そうなると、私は「もう十分ですよ」と話の途中で切ります。そうすると、本人が感動している場合は、「いや、これだけは聞いてください」と語りたがるものです。その場合は、靜に拝聴することとしています。

 第二の視点は、「難しい言葉を使っていないか?」という視点です。新たな概念、知見に触れると、やたら、それを使いたがるものです。柔道の習いたてには、やたら人を投げたがるのと一緒です。ところが、言葉に酔って、言葉が踊っている場合もあります。第一、私自身がチンプンカンプンです。その場合は、「簡単で短い言葉で言って」と頼みます。これが出来る場合は、その言葉を理解して使っていることが分かります。その場合は、分かりやすい表現で表すことを求めます。なにしろ、他の人に、それもより多くの人に分かってもらえなければ意味がないと、我々の研究室では考えていますから。もし、「簡単で短い言葉」で表せず、別な難しげな言葉を使い、かつ、長々と説明している場合は、その言葉を本当には理解していないことを説明します。

 現場先生方が感動していることを、分かりやすい言葉で表現されたならば、私が感動しないわけはありません。そうなれば「二重丸」です。

追伸 書き終わってから第三の視点を思い出しました。院生さんが自分の報告に感激しまくっているとき、「これも面白い」、「あれも面白い」、「それも面白い」と四方八方に報告の方向が散乱することがあります。聞いていると、本当に「面白い」発見ばかりです。しかし、修士論文は一つのストーリーにまとめなければなりません。それら多くの「面白い」ことに一本の筋が通っていなければなりません。その場合、気が付いた「面白い」こと全てが、その筋に乗るわけではありません。そうなると、涙をのんで、いくつかの「面白い」ことを諦めなければなりません。私の第三の視点は、「散乱していないか?」という視点です。しかし、涙をのんで諦めたことは、無駄になるわけではありません。ご自身の修了後のテーマになったり、後輩の研究テーマに繋がります。

[]でじゃー 11:16 でじゃー - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - でじゃー - 西川純のメモ でじゃー - 西川純のメモ のブックマークコメント

 息子が「ウッブー」という言葉で車を表現します。彼が発する最初の言葉でした。「でじゃー」は最近になって発する2種類目の言葉です。意味は、ヴィデオもしくはDVDのことです。ヴィデオやDVDを見たいとき、息子はそれらを指さしながらせがみます。わざと知らんぷりをすると、必死になって指さします。そこで「ヴィデオだよ」、「でぃーぶいでぃー」だよと言います。そうすると「でぃーぶいでぃー」の「でぃー」を引き取って、「でぃじゃー」という新語を作りだし、必死に指さします。その熱意にまけて「でぃじゃー」が我が家における、暫定的なヴィデオ・DVDを示す言葉となりました。前のメモに書きましたが、言葉というのは必要が生じたときに、両者の間で作られるものだと、つくづく思います。

 現在小学校において英語が導入されています。それをどの様に教えたらいいのか現場先生方は手探りの状態です。でも、私には確信があります。

 小学校英語に割り当てられた時間では、意味のあるコミュニケーションは出来ません。そのため、多くの学校でやられているのは、英語遊びです。しかし、その英語を意志疎通で使っているようには思えません。でも子ども達は、与えられた単語や文法を拡大・拡張し、全く新たな英語を作ることが出来ます。もし、子どもが「英語」とは異なる言葉(即ち造語、造文法)を作り、意志疎通していたならば、小学校英語意味があるものとなったと判断できると思います。逆に、正しくはあるが、先生の教えたものを越えていないならば、「ウソ」だということです。