西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
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02/03/29(金)

[]本日の大発見 11:14 本日の大発見 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 本日の大発見 - 西川純のメモ 本日の大発見 - 西川純のメモ のブックマークコメント

上越教育大学には全国各地の現職教員の方々が、院生として所属されます。そのような方と話していると、何気ない一言によって発見することがあります。本日は、沖縄県派遣のHさん(中学校)と、来年度(数日後ですが)に実施する実践研究の方法について話し合いました。その中で、子どもたちのグループ編成に関して、出席番号順にグループを編成すると、同じ小学校の出身者が集まるので、それは避けたいという発言がありました。わたしは、「エ!?」と驚きました。「なんで出席番号と出身中学が関連するんだろう、聞き間違いに違いない」と思い、聞き直しましたが、聞き間違いではありませんでした。良く聞くと、住所別に出席番号を割り振っているそうです。そのため、同じ学区の子どもが、近い番号になるそうです。

 私の経験では、出席番号は氏名のアイウエオ順序で決めるのが普通と思っていました。不安になったので、新潟県中学校先生であるKoさんにも内線で確認しましたが、やはりKoさんの経験でもそうだそうです。そこで、何で住所と出席番号が関連するのかを聞いたところ、家庭訪問のとき便利なためだそうです。その理由を聞いて、「なるほど」と思いました。Hさんにしては、アイウエオ順序で決めることの方が「エ!?」なんでしょうね?

 この年になっても、知ることは多いと思いました。(それも専門である学校教育に関して)

02/03/28(木)

[]新年度の気配 11:15 新年度の気配 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 新年度の気配 - 西川純のメモ 新年度の気配 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の住んでいる官舎は高田公園の中にあります。朝起きると、公園の桜の枝が赤っぽくなっていました。こうなるともう少しで開花です。開花予想は4月4日ですが、もうすこしで花が咲きそうな気配です。来月には近くの別な官舎に移ります(理由は、現在の官舎が雨漏りするためです)。公園の外の官舎に移れば、観桜会の間の違法駐車イライラしなくても良くなりますが、一方、ベランダから満開の桜を満喫できるのは今年は最後となります。ちょっと残念(いやだいぶ残念)です。

 本日は卒研生のSが卒業挨拶に来てくれました。長髪、茶髪のSが短くしているので、どうしたのと聞くと、来月から臨採として学校に勤めるそうです。しかし、元気の良いSの髪の毛は、四方八方に立っているので、かえって派手な髪型になってしまいました。おそらく、ムースかジェルでテカテカにして寝かせるのでしょう?でも、相変わらず、可愛い学生の顔をしています。来月になったら、どんな顔で教壇に立っているのでしょうか?

 毎年のことですが、卒業生を送り出すたびに、取り残されるような気持ちになります。新入生が入ってくるあと2週間程度が、私にとって、もっとも静かな日々となります。しかし、静かすぎて、色々なことを考えてしまいます。「小人閑居して・・・」ということわざもありますので、何かしら仕事を見つけて、こなしております。

02/03/22(金)

[]私の卒業式 11:15 私の卒業式 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 私の卒業式 - 西川純のメモ 私の卒業式 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日上越教育大学において卒業式、修了式があります。本学を巣立つ方々に対する感慨は強いものです。しかし、本日は私自身の節目の日です。27歳から15年間所属した理科コースという組織を出る日です。15年間所属した組織というのは、私の所属した組織のなかで、最長の組織です(次は筑波大学の7年、下赤塚小学校の6年が続きます)。もちろん、上越教育大学という組織には今後もお世話になります。しかし、27歳で所属した当初はもちろん、現在においても、下っ端の私にとっては大学という組織というのは実感のない組織です。同じ大学に勤めていたとしても、他コースの先生とお話しする機会は、それほど多くありません。従って、この15年間の殆どの時間において、実感として所属していたのは理科コースという組織です。

 12年度より学習臨床コースが立ち上がりました。その時点では、理科コースと学習臨床コースの併任という形でした。従って、その年度の院生さんと学部学生さんが我々の研究室に所属することになりました。ところが、12年度中に急転直下、学習臨床コースの専任となることが決まりました。そのため、13年度からは理科コースの院生さんと学部学生さんが、我々の研究室に所属することが出来なくなりました。それに伴って、理科コースの教官会議に参加することが無くなりました。しかし、12年度に所属された院生さんと学部学生さんの研究指導に関しては理科コースと関わっておりました。その院生さんと学部学生さんが卒業・修了することにより、それも終わります。感慨深いものです。

 私のおかれている状況(即ち、新コースに異動する教官)は上越教育大学においては少数派です。しかし、今は大学の激動期です。10年後に今ある組織が残っているとは私は思えません。それは、学習臨床コースという出来てホヤホヤのコースでさえも例外ではありません。となると、組織を離れた社会生活における私とは何かということを考えなければならないと「ヒシ」と感じます。

 今の時点では、人の繋がりがそれに当たるように思います。組織うつろいやすいものですが、人は残ります。組織を通して他の人と繋がるのではなく、個人として繋がることが大事だと思います。もし、組織を通して他の人と繋がっているならば、その組織が壊れたとたんに人とのネットワークを失うこととなります。そのことは、社会生活における力を失うことに他なりません。

追伸 このメモは、私ぐらいしか共感(また理解)できない内容のように思います(少なくとも今の時点で)。しかし、未来の私自身へのメモとして残しました。

[]感動 11:16 感動 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 感動 - 西川純のメモ 感動 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先だっては、3人の院生さんの個人ゼミをしました。内容は本年度の成果のまとめです。報告を聞いて最後に評価をしました。お一方は、「差し戻し」です。おそらく、院生控え室では「撃沈~!」と、他の院生の方には言っていたのではないでしょうか?お一方は、「二重丸」です。お一方は、前半部分に「二重丸」プラス宿題がドッチャリ」です。

 お三方の研究成果に優劣があるわけではありません。お三方とも、極めて質の高い研究をしています。それでは、どこに違いがあるかといえば、私が感動したか、否かという一点です。もっと正確に言えば、お三方の「その日」の報告に関して、感動したか、否かという一点です。「差し戻した」方を含めて、それ以前の個人ゼミでは何度も感動しました。しかし、その日に関しては、感動の度合いに差がありました。

 個人ゼミ研究報告を受けていますが、その評価は、最初の1、2分を聞くだけでほぼ決まってしまいます。私の評価の視点は二つです。第一は、ご「本人」が自分自身の研究感動しているか、否かです。我々の研究室研究は、現場先生方に共感を受けるものでなければなりません。現場先生方に共感を受けるか、受けないかを判断するならば、私のようなものより、現場先生である院生の方の判断の方が正しいはずです。語っている現職院生の方の顔を見て、声を聞くだけで、「こりゃ良い研究だ」ということは一目瞭然です。そうなると、私は「もう十分ですよ」と話の途中で切ります。そうすると、本人が感動している場合は、「いや、これだけは聞いてください」と語りたがるものです。その場合は、靜に拝聴することとしています。

 第二の視点は、「難しい言葉を使っていないか?」という視点です。新たな概念、知見に触れると、やたら、それを使いたがるものです。柔道の習いたてには、やたら人を投げたがるのと一緒です。ところが、言葉に酔って、言葉が踊っている場合もあります。第一、私自身がチンプンカンプンです。その場合は、「簡単で短い言葉で言って」と頼みます。これが出来る場合は、その言葉を理解して使っていることが分かります。その場合は、分かりやすい表現で表すことを求めます。なにしろ、他の人に、それもより多くの人に分かってもらえなければ意味がないと、我々の研究室では考えていますから。もし、「簡単で短い言葉」で表せず、別な難しげな言葉を使い、かつ、長々と説明している場合は、その言葉を本当には理解していないことを説明します。

 現場先生方が感動していることを、分かりやすい言葉で表現されたならば、私が感動しないわけはありません。そうなれば「二重丸」です。

追伸 書き終わってから第三の視点を思い出しました。院生さんが自分の報告に感激しまくっているとき、「これも面白い」、「あれも面白い」、「それも面白い」と四方八方に報告の方向が散乱することがあります。聞いていると、本当に「面白い」発見ばかりです。しかし、修士論文は一つのストーリーにまとめなければなりません。それら多くの「面白い」ことに一本の筋が通っていなければなりません。その場合、気が付いた「面白い」こと全てが、その筋に乗るわけではありません。そうなると、涙をのんで、いくつかの「面白い」ことを諦めなければなりません。私の第三の視点は、「散乱していないか?」という視点です。しかし、涙をのんで諦めたことは、無駄になるわけではありません。ご自身の修了後のテーマになったり、後輩の研究テーマに繋がります。

[]でじゃー 11:16 でじゃー - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - でじゃー - 西川純のメモ でじゃー - 西川純のメモ のブックマークコメント

 息子が「ウッブー」という言葉で車を表現します。彼が発する最初の言葉でした。「でじゃー」は最近になって発する2種類目の言葉です。意味は、ヴィデオもしくはDVDのことです。ヴィデオやDVDを見たいとき、息子はそれらを指さしながらせがみます。わざと知らんぷりをすると、必死になって指さします。そこで「ヴィデオだよ」、「でぃーぶいでぃー」だよと言います。そうすると「でぃーぶいでぃー」の「でぃー」を引き取って、「でぃじゃー」という新語を作りだし、必死に指さします。その熱意にまけて「でぃじゃー」が我が家における、暫定的なヴィデオ・DVDを示す言葉となりました。前のメモに書きましたが、言葉というのは必要が生じたときに、両者の間で作られるものだと、つくづく思います。

 現在小学校において英語が導入されています。それをどの様に教えたらいいのか現場先生方は手探りの状態です。でも、私には確信があります。

 小学校英語に割り当てられた時間では、意味のあるコミュニケーションは出来ません。そのため、多くの学校でやられているのは、英語遊びです。しかし、その英語を意志疎通で使っているようには思えません。でも子ども達は、与えられた単語や文法を拡大・拡張し、全く新たな英語を作ることが出来ます。もし、子どもが「英語」とは異なる言葉(即ち造語、造文法)を作り、意志疎通していたならば、小学校英語意味があるものとなったと判断できると思います。逆に、正しくはあるが、先生の教えたものを越えていないならば、「ウソ」だということです。

02/03/11(月)

[]魔法言葉 11:18 魔法の言葉 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 魔法の言葉 - 西川純のメモ 魔法の言葉 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 家内実家は堅い家です。その影響で、結婚後に、朝夕に神仏に祈るようになりました。といって特別な宗旨があるわけではなく、お天道様(お日様)に柏手(かしわで)をするようなものです。でも、とっても良いことがあります。

 職場から帰ってくると、イライラして気が高ぶった状態の時があります。大抵は、「○○の馬鹿野郎!」とか、「なんで、○○でないのだ!」という仕事上の欲求不満です。そんな状態で、夕食前に祈ります。祈りの言葉はいつも同じで「家族が仲良く、健康で」です。この言葉を心の中で唱えると、さまざまな不満が馬鹿らしくなります。「家族が仲良く、健康で」に勝る幸せはありません。それに比べれば、全ての欲望は小さいものです。幸い、「家族が仲良く、健康で」す。そう考えると、さまざまな不満が消え去り、「幸せだな~」と感じます。実に簡単で安上がりで効果的です。

02/03/06(水)

[]違い 11:20 違い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 違い - 西川純のメモ 違い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 戸北研究室西川研究室は似たような研究をやっています。両者の違いを内容的に表現するならば、相対的に教材を重視するのが戸北研究室で、子どもを重視するのが西川研究室です。でも、それ以上に、主宰者の違いがあると思います。

 OBの人が、我々(戸北、西川)がいる酒席で、「最先端をやりたいなら西川研究室、自由にやりたいなら戸北研究室」と言っていました。言い得て妙です。戸北・西川研究室OBや在学生ですと、この言葉意味が分かっていただけるのですが、それ以外の方には誤解が生じますので補足します。もちろん戸北研究室では最先端のことが出来ないと言うことではありません。多くのOBが最高レベル研究をされています。

 修士論文タイトルを調べれば分かることですが、西川研究室テーマは「子どもを見る」ということでは一貫しています。さらに、最近では子どもの相互作用に着目するというテーマを中心としています。テーマが同じであるため、今までの蓄積から一定の方法論が確立されています。一人一人が同じ方向性のテーマと、方法論を共有しているので、その集団に入れば自動的に一定レベル以上の段階まで進むことが出来ます。また、問題が起これば同級生、先輩、後輩に相談し、助力を得ることが出来ます。しかし、「子どもの相互作用を見よう」という方向性に共感できない場合は、ストレスを感じると思います。

 一方、戸北研究室は本当に何でもありの研究室です。一人一人が別々の方向性のテーマを持ち研究を進めることが出来ます。しかし、その結果として、方法論に関して人に頼ることが出来ません。もちろん、大きな方向性や研究妥当性は戸北先生が指導してくれます。しかし、細かい方法論は自分自身が全てやらねばなりません。したがって、自分自身の問題意識や方法論がはっきりしていない人にとっては大変だと思います。

 私の研究レベルに関する、院生さんに対する要求水準は高いと自覚しています。具体的には、院生さん・学生さんの研究結果の聞いているうちにウルウルと感激の涙がこぼれるような研究であることを求めています。そのため、研究テーマや方法論に対して、「最低限これこれのことはしてね」とお願いします。

 講義に比べて研究指導は頭と神経を使います。教師ならば分かると思いますが、初年度の授業はとても手間がかかりますが、何年、何回も繰り返すうちに手の抜き方が分かるようになります。ところが、研究指導はそうなりません。毎年、毎年、新しい授業案を最初から書くのと同じです。

 講義は自分一人の裁量で出来ますが、研究指導はそうはいきません。第三者に、その研究を「良し」と認めてもらえなければなりません。下げたくない頭を下げなければならない場合もあります。

 講義は、その講義が終われば終わりですが、研究指導は修了(卒業)するまでは終わりません。つまり、とても頭と神経を使います。それでいて、やってもやらなくても給料は変わりません。となると、研究指導で自分自身が楽しめなければやってられません。研究生活も長くなると、色々な研究に手を染めます。また、色々な人の研究を知り、最終的な結果も見てきています。そのため、テーマを聞いただけで、「ああ、あの研究の亜流だな(もしくは、自分がかってやった研究と同じだな)。そうなると、○○をすれば○○という結果が出るだろうな。自分がやれば○週間程度で出来そうだな。」という見当がつきます(必ずしも正しくない場合が多いですが)。そうなると、とても自分の頭と神経(そして時間)を費やす気になれないんです。

 その点、戸北先生は、そんな心の狭いことはありません。戸北先生西川研究室で行われている研究の面白さや重要性を一番分かっている研究者です。でも、研究の可能性を、私よりもっと広く見ることが出来る先生です。院生学生さんのテーマを聞いて、仮に「面白いテーマになるかな~」と思われても、「いいんじゃない」と認めます。そこが両研究室の色合いを違えているところだと思います。結果として、我々は学習者を重視し、戸北研究室は「相対的」に教材「も」視野にいれた研究を行っています。どちらがいいという関係ではなく、補完的な関係のように思います。だから15年以上つきあっても仲良くやっていられるんだと思います。

[]昨日の発見 11:20 昨日の発見 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 昨日の発見 - 西川純のメモ 昨日の発見 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 家内が食器と食事を食卓に用意していました。家内が次の食器と食事を取りに台所に行くと、息子がとことこと食卓に近づきます。何をするのかと見ていると、箸を取り、野菜炒めを食べ始めました。本当にビックリしました。息子にとっては巨大な私の箸を、それなりに使って食べているんです。

 一度も箸の使い方を教えたことはありません。と、いうより、箸を教えたら使えるなんて、思いもよりません。だって、スプーンは使えますが、基本的には手づかみですから。ですから一度も教えたことはありません。でも、ずっと我々(家内と私)が使っている様子は見ていたはずです。

 山本五十六の"やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば人は動かじ"という言葉は、私の好きな言葉です。でも、これを少々直さなければならないなと感じました。

 まず「やってみせ」ですが、大抵の場合、指導者(教師)がやってみせることを想定します。しかし、教師のみならず学習者一人一人がやっている姿を見せる必要があります。さらに、「させる」というより、本人が見たいとき見えるようにする方がいいと思います。となると「自由に見せ」の方がいいように思います。

 「言って聞かせて」ですが、多くの教師は、これが重要だと思っています。でも、自分の過去を振り返っても、自分が勉強をやろうと思ってやりはじめて、初めて分かるものだと思います。となると、授業とは「やろう」と思わせることが大事だと思います。となると、「誘ってみて」の方がいいように思います。

 「させてみて」は、おそらく一番重要なことではないかと思います。これも「させる」というより「任せてみて」の方がいいのではないでしょうか。

 「ほめて」というと、一段上の人が、他人事のように評価しているようにもとれます。しかし、「喜んで」という共感的な態度の方がいいように思います。一歩進めば、「感激・感謝して」の方がいいように思います。

 以上より、以下のように改訂します。

 「自由に見せ、誘ってみて、任せてみて、感激・感謝しなければ人は動かじ」

 少なくとも、息子との関係においては、上記の方がしっくりします。

追伸 山本五十六言葉は、もともとは米澤藩主・上杉鷹山の「やってみせ、言って聞かせて、させてみる」の言葉引用したものです。