西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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01/11/12(月)

[]日本は広い 14:29 日本は広い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 日本は広い - 西川純のメモ 日本は広い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 現在西川研究室所属の修士1年の5人の方々は、現任校に戻って数ヶ月にわたる調査をしています。沖縄では温度は29度でクーラーを使っているそうです。一方、長野県の内陸部で調査されている方からは、マイナス2度まで下がったというメールをいただきました。上越市はちょうど紅葉の真っ盛りです。日本というのは広いな~と感じます。

[]何で今があるか 14:29 何で今があるか - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 何で今があるか - 西川純のメモ 何で今があるか - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先日、ある方から、「理科教育をやっている人なら、普通なら教科内容に注目するのに、なんで先生人間関係に注目するようになったのですか」と質問を受けた。突然の質問だったので、未整理な状態でだらだら説明してしまった。説明した後で、「遠くにきたもんだ」と思いました。

 理科教育の世界に入ったのは大学院に入学してからです。それまでは生物物理学で、読んだ本の殆どが物理学数学の世界から、人門系に移ったのですからカルチャーショックが大変でした。

 理科教育学での研究方法論としては、大きく3つに分かれます。第一に文献を調べながら研究する方法です。第二は、教材開発で「簡易実験」、「おもしろ実験」などを開発する研究です。第三は、子ども研究で、学習者を研究対象とする方法です。理科系のしっぽが残っていた大学院入学直後の私にとっては、文献研究論理の建て方には、今ひとつのれませんでした。教材開発は、やっていることは殆ど理学研究と変わりがありません。したがって、理学のしっぽが残っている私にとってはのりやす部分が多いのも確かです。しかし、理学の博士課程に残った同級生もいるのですから、それの亜流の研究をすることは嫌だなと感じました。結局残ったのが子ども研究対象とする研究です。生物学にも動物行動を研究する行動学があります。京都大学の猿学が世界的にも有数で、そこの今西先生全集高校生の時代読んだこともあります。今考えれば当然の結論のようです。

結果として大学院での修士論文では、子ども学力に関する調査を行いました。そこで私が拘ったのは、数的な処理の元に判断をしようとするものです。なぜ、そのように拘ったかと言えば、当時の理科教育学研究の現状がそうさせました。当時の理科教育学の学術雑誌を読むと、今では考えられない研究がいっぱいありました。例えば、たまたま調査した1クラス(30人~40人)に実施したペーパーテストの点数の、10点にも満たない差によって日本教育課程を論じている論文が散見している状態です。そのような極端な例を別にしても、数値データで議論する論文が少ないし、あっても調査対象が100人程度でした。また、統計的な処理をしている研究は殆どないという、理学部から移った私にとっては驚くべき現状がありました。そのため、調査対象を数千人、調査校を数十校確保し、統計処理した結果に基づき記述することを修士論文における私の基本方針としました。幸い、その基本方針は学術的には正しかったようで、私の修士論文は2つの学会学会誌と、一つの紀要に掲載されました(結果的には、それが大学人として採用された大きな原因です)。

 高校教師としては東京都定時制高等学校に勤めていました。その頃の私は、「教師としての私」と「研究者としての私」に分離していました。「教師としての私」にとっては実に実りの多い2年間でした。とにかくもの凄い子ども達でした。その子達を教えることによって、「分からない子」の存在を、徹底的に刻みつけてくれました。そのおかげで、今でも教えるときには「分からないのが当たり前」と思いますし、見た目で「分かったような様子」を見ても、「実際は分かったような振りしているのでは」と感じてしまいます。また、できのいい子より、できの悪い子の方が気になるというのも、あの2年間の影響です。

 一方「研究者としての私」には進歩は殆どありませんでした。研究大学院のときと同じ基本方針の元、論文を稼ぎまくっていました。しかし、その研究の成果が、日々の実践に役に立つか否かは考えていません。というより、積極的に分離させようと思いました。子どもにどうやって説明しようかという悩みはつきないですし、失敗の連続です。また、子ども達のことを、よく知ろうとすれば、その子の家庭が見えてきます。救いのない家庭も少なくありません。解決できない問題から逃避する術として研究がありました。そのため、毎日、一定時間を研究に当てていましたが、その時間は子どものことは考えませんでした。

 大学へや技官・助手として移ったため、基本的に研究が主になります。研究の手法は大学院での延長上にいましたが、そろそろ不満が出てきました。それまでの私の研究は、典型的な理科の問題を子ども達に解かせ、その正答率を調査してきました。結果として、どのような問題が難しく、どのような問題が分かりやすいことは明らかにすることが出来ます。しかし、何故、その問題が難しい(または、簡単である)かは直接明らかには出来ません。そんなときに認知心理学出会いました。認知心理学は頭なの中の構造を、コンピュータに置き換えたモデルによって表現し、実験計画をします。認知心理学の先行研究の手法を理科教育に置き換える研究を始めてみました。驚くべき事に、調査をする前に先行研究から、だいたい○○%の正答率になるだろうと予想すると、結果もほぼ一致するんです。人間を調査する場合は大きな誤差がともなうものです。それに対して数パーセントの精度が実現できる、認知心理学はすごいな~と感激しました。それからは、人間の頭の中がどうなっていて、それが理科学習にどのように関係するかという研究を進めました。このあたりの研究が、「なぜ、理科は難しいと言われるのか?」に書かれているものです。

 しかし、何年かたつと不満が生じてきます。不満の一つは、認知心理学研究によって60%ぐらいの子ども達に対応する方法を一つ作り出すことが出来ます。ところが、子ども達の頭は多様です。70%の子どもを教えるとすれば、増えた10%の子どもたちの誤解に対応する教え方を作り出し、それを併用しなければなりません。従って、一つの授業の中で、二つの教え方を併用しなければなりません。80%の子どもを教えるとすれば、10の教え方を併用しなければなりません。90%なれば100の教え方を併用しなければなりません。全ての子どもを教えようとすると、幾何級数的に複雑になります。さらに、仮にそのような複雑な方法を見いだしたとしても、単元ごとに変わるそれらの方法を、一人の教師が覚えきるのは不可能です。仮に覚えきったとしても、一人の教師が限られた時間の中で教えることが出来ません。繰り返しますが、60%の子どもを教える程度で満足できれば、それはそれでいいのですが、定時制高校で教えた私にとっては、分かりたいのに分かることが出来ない子どもが気になってしょうがありません。

 もう一つ不満が生じます。認知心理学研究の大きな成果の一つに、分かっている・出来るということと教えられるということは別だという事です。むしろ、分かっている・出来る人は、それ故に教えられないということです。例えば、天に唾する事ですが、大学教師の授業が分かりにくいのは、大学教師が分かりすぎているためです。私のそれまでの研究は、理科教育研究によって、教師の教え方を改善する方法を明らかにすることを目的としていました。しかし、分かっている・出来る人である教師は、出来ない子どもに教えられないとしたら、私の研究無意味になります。

 結果として現在のような「学び合い研究に進みました。教師が教えられないとしたならば、ちょっと分かる子どもが、分からない子どもに教えればいいはずです。また、クラスには40人の子どもがいます。それらが相互に教え合うならば、一人一人の多様性に対応する教師が一挙に増えます。少人数学級やTT(ティームティーチング)をいくらやっても、一人の教師対20人の学習者の程度しか実現できません。ところが、子ども達の学び合いが成立したならば、一人の教師対一人の学習者が実現できます。さらに、40人の教師対一人の学習者という関係も出来ます。

 この「教師が教える」という基本的な囚われから脱したとき、私たちの「学び合い研究が出発できました。それ以来、現在までその基本方針で進んでいますが、毎年、毎年、私にとって驚天動地のことが明らかになります。最初の驚きは、学び合いは特殊な指導法によって成立するのではなく、何もしなくても成立するということです。多くの書籍では、ちゃんとした指導をしていないから学び合いが成立しないということを暗黙の前提としていました。そのため、色々な指導法を紹介しています。ところが、うちの研究室研究によれば、学び合いが整理していないのは、「教師が教えなければ」という教師の囚われが阻害していることを明らかにしています。だから、子どもを信じて・子どもに任せれば(それも本心から)、実に簡単に学び合うことが分かってきました。このあたりに関しては「学び合う教室」に書きました。さらに、子ども達の発達、教科比較、実験指導を中心にした本を、近々出そうと思っています。

 でも現在、今でも驚天動地のことが分かってきました(現在修士2年のKIさんの研究が出発点)。第一は、「授業中にふざけるのは悪いことではない」という事です。第二は、「異学年の教科学習は比較的簡単に成立する」ということです。第三は、「異学年の学び合いが成立すれば、お兄さん・お姉さん/弟・妹関係が崩れる」ということです。この3つは相互に絡み合った関係で、質の高い学びを成立させます。このことを本にして出せるのは2年ぐらい先になると思います。

 振り返ってみると、20年前に理科教育に入った頃には考えもつかないことを今は研究し、明らかにしています。いや、数年前には思いもつかないと言った方が正確です。目を未来に転ずると、さらに一層です。今、修士1年の院生さんが出される、最低限の結果に関しては予想がつきます。しかし、毎年の院生さんは、私の予想を超える、驚天動地のことを教えてくれます。今、現場に戻って研究されている方々も、素晴らしい結果を携えて上越に戻ってくれるでしょう。そして、来年は、それらの結果を発展した研究によって、さらに新たな結果を明らかにするでしょう。何が出るか分かりません。ましてや、来年入学される院生の方々が、どんなことを研究し、どんなことを明らかにしてくれるのかは予想もつきません。強いて言えば、今の修士1年の方々が明らかにすることが、その出発点を与えるだろうことしか分かりません。

 私が大学に勤めてから15年がたちます。その間に接していただいた多くの院生さん、また、その院生さんが明らかにされたことが今に繋がっていることを書きながら再確認しました。初期の実態調査研究の蓄積があるからこそ、認知研究を認めてもらうことが出来ました。当時の学会は文献研究中心でした。したがって、数量的なデータによる研究は、「哲学無い」と非難されることも多かったです。しかし、めげずに論文を出し続けているうちに、渋々ながらある程度は認めてくれるようになりました。また、新しい研究なんだから、なんだか分からないが頑張らせてみよう、という温かい支援を、当時の多くの中堅・重鎮のかたからもらえました。それもこれも、当時の院生さんが、数量的データによる研究を蓄積してくれたおかげだと思います。

 その蓄積の上に、認知研究が出来るようになりました。数量的データによる研究に対するアレルギー除去がなされなければ、「頭の中」という直接見ることの出来ない現象を研究することに対する拒否感は相当だと思います。その認知研究があるからこそ、教師主導の限界を実証的に示すことが出来ました。これは他ならない私自身の囚われを打破してくれました。そのことが現在学び合い研究を基礎づけています。今でも「学び合い研究の有効性と成立根拠を説明する場合は、当時の研究の成果を話します。とすると、現在学び合い研究は、どんな研究に繋がるのでしょうか?現在の速度で進展を続けられたとしたら、10年後は畏るべし。ゾクゾクします。

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 最近、ある雑誌の1年間の連載(来年の4月から)を頼まれました。原稿用紙で100ページほどの原稿です。頼まれてから数日で脱稿しました。なんで、数日で出来るかといえば、秘訣があります。うちの研究室と戸北研究室では、毎日、昼飯を一緒に食べます。その際、実に多彩なエピソードが食事のおかずになります。また、昼食以外でも、色々と馬鹿話をいっぱいします。その際、「え!?」と思うような面白いエピソードをいっぱい教えてもらえます。面白いエピソードだと、「お願い。さっきの話メールにして送って」とおねだりします。私のコンピュータの中には、そのようなエピソードがいっぱい詰まっています。

 いろいろなテーマで依頼原稿があると、「ああ、あれが有ったな」と、コンピュータの中にある面白いエピソードを思い出します。最近ソフトには検索機能があるので、曖昧キーワードで探せば、関連するエピソード群を見つけだすことが出来ます。そのエピソード群を読み直しながら、与えられたテーマを考えます。「エピソードを教えてくれた先生方(つまり院生さん)の思いが生かせる道は何かな?」と考えます。自分でも驚くんですが、バラバラだったエピソードが、あたかも前々からそのために用意されたように繋がり始めます。あとは、それを繋げ、それぞれの意味を解説し、一つの流れを作るだけです。