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通信教育による作文指導というちょっと珍しい作文教室を主宰されている方の著書。
1月5日、6日のライティング・ワークショップの準備として再読。
指導方法は力技だな。しかし、例えば次の記述は、「ライティング・ワークショップ」でまずは教師が生徒の作品の読者となるべきといった記述と共通するものを感じる。
要は、ちょっとしたことなのだ。学校でも教師が彼の作文をしっかり読み、たった一行、二行でもいいから激励の言葉を書き、暖かく見つめ、文集等にちょっと載せ方を工夫してやるだけでも、健司君は変わっただろう。(37ページ)
作文指導を「書くための指導」と「書く気をおこさせるための指導」とに分けて分析している所なども参考になる。
は「誠実に悩み続ける国語」でもあると思う。
押木さんの実践に特に共感した。悩みつつ、生徒たちを信じていける自分を鍛えていくしかない。
さて、そんな『学び合う国語』に池田さんの実践も紹介されていた。
句会方式で作文の題名をみんなで評価し合う実践が面白いなあと思った。
そんなとき、久しぶりにジュンク堂へ行ってこんな本を見つけた。
小説の一行目 | |
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しばらく本屋へ行く暇もなかったのだが、「やられた〜!」という感じ。
「昭和十年から平成十八年上半期までの芥川賞、直木賞の全受賞回作品三〇〇作収録」とのこと。
これで句会方式で自分の気に入ったのを選ばせたり、自分たちの作文の書き出しと混ぜてやってみたりしたら、面白そう。
ついでに、旭屋ではこんなのもあった。
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作文用紙の使い方とか、校正の仕方とか、これを使ったら面白いんじゃないかな。
ワープロは便利だけれど、こういう思考の後は残らない所が欠点と言えば欠点か。
それにしても、「坊ちゃん」が書かれて100年が経っているんだな。現代文の古典だね。
池田修ありがとうございます。
句会方式は、国語科教員の初任者研修になくてはならない項目だと思っていますf(^^;。それぐらい応用範囲が広い。作品と作者を切り離して評価し、クラスと言う座を活かして授業をしというところで。学び合いを知る前からやっていますが、かなり重なっている考え方だと思っています。小説の書き出しも良いですよね。私は、『ダ・ヴィンチ』の記事を使いながら、タイトルの選び合いについて語ったことがあります。http://homepage.mac.com/ikedaosamu/kokugo/tuusinn/01sigaku.html
やっぱり学習集団を活用した授業は、学校教育ではなくてはならないものだなあと思うわけです。
keiはじめまして。池田先生に紹介され、こちらにおじゃましました。
小学校の担任をしています。
ちょうど同じ日に、「学びあう国語」を読み、押木先生の実践に共感したことを
記事にしました。
悩みながらも、子どもの持つ力を信じて、歩み続けている毎日です。
先生のブログの記事もこれからさかのぼって読ませて下さい。
今後ともよろしくお願いします。
「はーと&はーと2007」というブログを3年前から書いています。
http://kfujita11.exblog.jp
もしよろしければ、おいでください。
ikutosu>池田さん
「志学」拝見しました。っすが池田さんらしい丁寧な指導ですね。
学習集団を活用した授業をもっともっと意識して、実践して行こうと思います。
ホームスクーリングといった考え方もありますが、学校ならではの強みを生かして行きたいですね。
>keiさん
はじめまして!
をを、同じ日に「学び合う国語」を読まれたとは。なんだかうれしいです!
6年生の担任なんですね。小学校6年間の最後のまとめの3学期。keiさんの日記を楽しみに拝見させていただきます。
僕も中高6年間のまとめの高校3年生と、あと少しの学校生活を充実させていきます(と言ってもあと6日しか登校日はないんですが…)。
どうぞよろしくお願いします。
だって、暇だったんですよ。
午後から国語科室の備品搬入に立ち会ってくれと言われていたのですが。
荷物の搬入が予定より遅れていたので、事務所で待ちながら仕事をし、仕事も終わったので読書に勤しんでおりました。
この本を読みながら、胸を突かれたことがありました。
それはディベートの授業の中の、一番重要な部分を僕が独りで背負ってしまっており、生徒たちに十分に活動をさせていなかったことに気付かされたからでした。
具体的にはこういうことです。
ディベートの導入が終った所で、班ごとに分かれ、いよいよ本格ディベートの準備に入ります。
論題についてリンクマップを書き、それから班ごとにメリット・デメリットを決めていきます。
この後の部分です。例年ですと、対戦相手をくじ引きで決め、肯定側で対戦するのか、否定側で対戦するのかも決めます。
そして、それぞれの対戦ごとのポイントと判定の目安となることを一枚のプリントにして配ります。
生徒たちはそれを参考にしながら、勝敗の決め手になるところを補強して行き、議論を作っていきます。
…と、今までは考えていました。しかし、『学び合い』の考え方から見ると、僕のこの指導というのは、生徒を信用していないから、つい口出しをしてしまう「詰め込み」の典型ではないかという気がしてきました。
さらに言うと、授業を持っていない時でも、担当の教師ではなく、僕がこの対戦ポイントを作成してお渡ししていました。これも担当者を信用していないということになるのではないでしょうか。
では、この部分を生徒に任せるとすると、どんな展開を構想することができるでしょうか。
黒板に模造紙を張り、各班ごとに次のチェック項目について記入できるようにします。
1 メリット・デメリットのラベル
2 肯定側・否定側立論の原稿の作成状況
3 相手からの予想される反駁とそれへの再反駁
4 2と3の根拠となる資料の有無
これだけのポイントでも多いかもしれませんが、かみ合った試合になるには、最低限これくらいは必要でしょう。
さて、1についてですが、例年似たようなメリット・デメリットが出ます。10〜11班ほどに別れるのですが、メリット・デメリットの数は多くてもせいぜい3個ほどです。
とするなら、1を可視化することで、他の班との交流が生まれるのではないでしょうか。
4に関しても、どのような方法で資料を集めているのかについて、情報交換ができるのではないかと予想します。
あとはなぜ今回このような方法を試みることを考えたのかを、授業担当者に率直に語り、彼らの考えを聞いてみようと思います。
こうすると、今までどうしても僕が関わらないと授業自体が成立しない、といった強迫観念があったのですが、それからも解放されて、さらに僕があれこれ手を出すよりももっと面白いディベートになっていくのじゃないか、という気がします。
ネタ元は教育家庭新聞ブログです。
どの程度の頻度で話し合い活動が行われていて、それ以外の時にはどのような授業の形態を取っているのかが知りたいですね。
「話し合いで、自分と違う意見を友達から先にいわれたとき、どのようにすることが多いですか?」という質問では、小学校4年生と6年生、中学校1年生と3年生ともに「考えた上で、自分の意見はいわない」の回答数が最も多いという結果になりました。
とくに、小学校6年生、中学校1年生と3年生では、50%以上の生徒が「考えた上で、自分の意見はいわない」と回答しています。この結果から、対話や話し合いを通じて課題を解決しようとする意識は十分に育っていないということがわかりました。
KKSブログ: 話し合いで問題を解決できない子どもが増加?現代っ子のコミュニケーション能力
大もとのアンケートはこちらです。
「私は、教科の学習で、わからないことを、友達と教え合っている。」
という項目もありました。でも、これって、『学び合い』とイコールということではないんだろうな。
なんと!近所のブックオフで発見しました!
新品同様で800円!
ネットの中古で送料込み4000円で手に入れた所でした。orz
でも、二冊手元にあれば、同僚にプレゼントできるし!
クリスマスプレゼントということで!
を読み終わりました。
いつものことですが、線を引いたり、書き抜きをしたり、「学び合う教室」や「学び合いの仕組みと不思議」に戻って確認したりでけっこう時間がかかりました。
この本で特に印象に残ったのは、水落さんと石崎さんの実践報告でした。
まず水落さんの実践記録では、導入で用いたブレーンストーミングから、その後の授業で求める哲学が反映されていて、流石だなと思いました。
制限された時間のなかで、なぜその活動が能率的だと考えたのかを説明できるかを求めていく所に、主体者としての責任を子どもたちにきちんと要求している授業者の志を感じました。
今、中1の授業の導入を考えている訳ですが、水落さんの実践に比べると「ためにする」導入と言う感じで、その後との授業にも貫かれる哲学がないなあ、と反省します。
石崎さんの実践では、可視化の有効性ということで、理科の授業を国語の授業に置き換えながら読みました。
6種類の水溶液の正体を暴くという活動ですが、説明的文章の構成を考えさせる活動に置き換えられるのではないかと思います。
例えば、読み研*1の構造よみの授業では、活発な議論が行われます。
それは以下のような手順で行われます。
1 説明的文章では三部構造(構成)が典型的なパターンであることを教え、この文章を3つにわけると何処で分けることができるかを問う。
2 最初に一人一人全員が、次に班ごとに、どこで切ることができるかを決める。
3 黒板にそれぞれの班の意見を線分図のようにして書き出す。
4 意見の分布を確認し意見が分かれている部分に関して、班対抗で議論を行う。
5 最終的に教師の考えていた文章構成に分かれるように議論をコントロールする。
3の部分が「可視化」に対応する部分だと思います。これまでの授業だと、教師がそれぞれの班の代表者に考えを発表させて板書させていきますが、教師が主導しなくてもできる活動です。
そうすると、石崎さんの授業のように、生徒たちにきちんと授業の目標を示して話し合わせれば、今までのように教師主導でなくても、構造よみの授業を進めることができるかもしれないと考えました。
問題は、4、5の部分です。これまでは正解は教師が知っていて、その正解に到達するように議論をコントロールしていくという形でした。したがって、正解を見つけられた班は喜びますが、間違いってしまった班は悔しがります。「多様な意見がある事で、読みが深まった」と持ち上げても、しこりが残る部分はあるでしょう。
ところが、文章構成に正解があるのかと言うと、これがまた難しい部分です。読み研の研究会でも、作品の分析について激しい議論になることがあります。提案者が最終的にこういう風に分けられると結論づけても、参加者が納得しないということがけっこうあります。
「3つに分けることが目的ではなく、結果として文章についての読みが深まることが目的なんだ」と説明することもありますが、だったら、最初からそう言った方がよかったのでは、と反省することもあります。
と考えてきた所で、きちんと正解がでないようなことを話し合わせてもなあ、と考えてしまったわけです。国語の場合、文章が必ずしもある型に従って書かれる訳ではなく、恣意的な部分もあるので、悩みます。
*1:科学的「読み」の授業研究会
まず、高1の長男。
「大歓迎だねえ。書くの大好きだし。とりあえず僕の周りの仲間は喜ぶと思うよ。」
小5の三男。
「前にね、無人島に持って行くものを三つ選ぶとしたら何がいいですか、というのをみんなで考えたの。その時は、国語がキライな子も喜んでやってたよ。そういう風にできるならいいと思う。無人島ツアーというのを考えた時も、面白かったなあ。」
中1の次男にはまだインタビューしておらず。
長男はハリー・ポッター好きで、今までにシリーズの作品をボロボロになるほど読み返している男。今は万葉集にハマっている。でも、進路は理系。
三男は現在長男から譲り受けたワープロで冒険小説を執筆中。「かつて世界を滅ぼそうとした者を倒した勇者だった老人に育てられている孤児の男の子を主人公にした物語」という。
次男は他の二人に比べると読書はしないで、もっぱら絵を描くこととかゲームに熱中する男なんだが、どういう反応が返って来るかなあ。
ちなみに、僕は中2の頃、授業中にSFを書くのが趣味だった。コクヨのキャンパスノートのページを一枚切り取る。それを縦書きになるように半分に折る。4ページできる。それが大体1日分の分量。授業中に書く。きっと暇だったんだろう。書き終わると友人のK君がノートの耳の部分に挿絵を描く。それを張り合わせて仲間内で回覧した。「銀河辺境シリーズ」とか名前を付けていた。当時はスペースオペラと呼ばれていた「レンズマン」シリーズだとか、アイザック・アシモフの「銀河帝国」シリーズにハマっていた。
クラスの中では僕に対抗するようにして、「宇宙戦艦ムサシ」といった作品を書いていた奴もいた。ちょうど「宇宙戦艦ヤマト」が再放送で人気に火がつき、映画化された頃だった。
他にも三好達治の「土」という詩に触発されて、クラスの男子を主人公にしたパロディー詩を書いて回覧したりもしていた。
好きなように書いていたけれど、完結しない作品の方が多かった。
国語を担当していた高橋先生は、けっこう作文を書かせてくれる先生で、しかも自由に発想することを許してくれる先生だった。
国語の時間は真面目に受けていたと思うから、執筆していたのは、さて、何の時間だったのだろう。
そんなわけで、自由に書くことには非常に楽しい思い出を持っている。そんな下地があって、中三の夏休みにはSFの歴史をまとめるために「世界SF全集」を読破して、あらすじをまとめ、自由研究として発表した。おかげで国語力はついたなあ。好きだからできたんで、強制されていたら絶対やらなかったと思う。
授業づくりネットワークで、近年ワークショップ型授業が頻繁に取り上げられている。
僕もディベートがワークショップ型の授業の一つということで、何回か寄稿させていただいたことがある。
ワークショップ型の授業は、一斉授業と比べると、生徒が主体的に参加できる所が良さだと思う。ディベートなんかでも、教師はタイムキーパーとして時間管理を行う程度で、授業中にディベートをするのは生徒たち。居眠りをすることも、別のことを考えている暇もなく、全員が参加せざるを得ない状況を作ることができる。
ただ、うちの学校の場合は、ディベートに3ヶ月の時間をかける下地があるので、じっくりと教えることができるけれど、普通の学校ではそこまで思い切ったことってなかなかできないと思う。全員が参加できるようなノウハウがないと、ただ代表の生徒が試合をして、他の生徒は観客、ということだったありうるし。
しかし、今読んでいる本のワークショップ型の授業はすごい。
週3時間の作文ワークショップを年間通して実施するらしい。それぞれの生徒が、それぞれのペースで、自分の書きたい文章を書いていく。書くためには読まなければいけないから、必然的に読むことも鍛えられて行く。そんな「読み・書き」が一体となったワークショップだ。
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『学び合い』に通ずる面も多々あるようで、現在鋭意読書中。
1月5日・6日にワークショップがあるという情報をいただいたのだが、残念ながら仕事初めとぶつかってしまっている。
でも、これはかなりいいんじゃないかと思う。
janglejapamazonで私へのお勧めに出てきてずっと気になっていた本です。(多分吉田新一郎氏の本を続けて買っているから?)
ikutosuさんのお勧めならやっぱり買っちゃいます。
iwasen筑田さん
岩瀬です。HPへの書き込みありがとうございました。そのお返事でこの本について書いて、それから筑田さんのページにおじゃましたら、なんたる偶然か!その本について書かれているではないですか!!
これは何かのご縁に違いない!
ボクたちは1年半ほど前から、このプロジェクトで学び合っています。
(ご紹介の本の最後の方にボクの名前も出てきます(^_^;))
ぜひ筑田さんにも関わっていただいて、一緒に研究していけたらと思っています。
よろしくお願いします!
ikutosu>janglejapさん
吉田新一郎さんの本は、読んでであれこれイメージがわいてきますね。「よ〜し、やってみるか!」という元気を与えてくれる本です。これもすごいですよ。
>岩瀬さん
もう、これは何かが背中を押しているとしか考えられないですね。
1月5日、上司を説得して参加する方向で考えてます。
ぜひ、ご一緒させてください!よろしくお願いします。
1月から僕が受け持つクラスを、1ヶ月半ピンチヒッターで持ってくれていた講師と話す。
反応が返ってこなかったクラスは、ただ質問しただけでは「わかりません」と答えることに決めているような感じがしたという。そこで、ノートに答えを書かせてようにし、机間巡視して書いている生徒に答えさせるようにしたという。
文法などだと、黒板に出てきて書く時には、できている生徒のノートを写すのか、みんなできているのだが、実際にテストをするとできていないという状態のようだ。
一方で正解を答えるのを許さないような雰囲気もあるという。
この「正解を許さない雰囲気」というのが気になった。
おそらくは「教師が望む正解」なのだろうが、それを許さない雰囲気というのはどういうことなのだろう。
QUの結果を見せていただいたが、学級内にヒエラルキーができているようだ。
クラス全体の状況をみると友人との関係が非常によい反面、教師との関係の数値が低くなっている。
担任教師が病気のために途中で交代したことなども影響しているのかもしれない。何か教師に対する不信感のようなものがあるのだろうか。
授業をやっていても、冗談などで笑わせようとしても上滑りしてしまう状況があったと講師は言っていた。
「潮騒の町」では、中学の授業でいつもやっていたように、討議の二重方式を使った話し合い中心の授業をしたい。
そのためには全員が自分なりの意見を持たないといけない。「わかりません」では授業が成立しない。
みんなが意見を持てるようにしていくこと、その大切さを確認できるような導入を行いたい。
以下、導入の授業プラン。
『学び合い』の大切さを実感するために行う。力を合わせて教師よりもたくさん漢字を集めよう。
クラスをいくつかの班にわける。
漢字を書き込めるマス目を印刷した用紙を配る。
「セイ」と読む漢字を書けるだけ書き出す。
最初は個人で行う。次に班の中で見合って書かれていない漢字を書き込む。最後にクラス全体で確認してできるだけたくさんの「セイ」という漢字を書き出す。
教師はその間に自分も思いつくだけの漢字を書き出しておく。
時間が来たら、生徒が集めた漢字と教師が書き出した漢字を照合して行く。
「醒」とか難しい漢字ではなく、常用漢字レベルまでで教師が見落としていて、生徒の方が書けている漢字がけっこうあるはず。
みんなで協力して、虫食いになっている詩のことばを推理して埋めてみよう。
全員がなっとくできる理由を見つけよう。
班に分ける。みんなで協力して、答えをみつけ、きちんと理由が言えるようにすることを目的とする。
以下の詩を印刷した用紙を配る。
ばか
ばかかった
ばかはかかった
○○かった
ばかかんだ
ばかはかかんだ
○○かった
はがかけた
ばかはがかけた
○っ○がた
はかなんで
ばか○○なくなった
なんまいだ
(原実践*1では4連は「なんまいだ」の部分が「○○まいだ」となっていたが、本校の特色か、お経を連想できない生徒も多く、また音韻的にも二行目を抜いた方が類推がしやすいと考えた。)
教師は音読をしない。
自分たちで虫食いになっているところに入ることばを見つけるように言う。
勘ではなく、きちんと理由が説明できるようにするように指示する。
この二つの活動を経て、「潮風の町」の読解に入ろうと思う。
中1担当の同僚に話すと「あのクラスにはいいかもしれませんね」とコメントしてくれた。
*1:1986年頃、「教育科学 国語教育」に掲載された杉山氏の実践だったかと思う。
「ああ、なるほど、僕は今、ゲートキーパーになっていたな」
と実感した。
今日は朝から職員室の引っ越し作業。
段ボール箱に私物を詰め、1月から使うものは赤いラベルをつけ、新校舎1階の仮職員室へ運ばれるように廊下の「1階」の紙がはられた場所に運ぶ。
4月以降に使うものは青いラベルを貼り、地下の倉庫へ運ばれるように「倉庫」と書かれた場所に運ぶ。
新校舎2階の教科室に運ぶものは黄色いラベルを貼り、「2階」と書かれた所へ運ぶ。
大学時代にプラスチックの成型工場で夜勤のバイトをしていたので、段ボール箱の組み立てはちょっと自信がある。
職員室のあちこちで慣れない手つきで箱を組み立てようとしている同僚の側に行っては、組み立ててあげる。
ところが、組み立てて、中身を詰めて、封をした所ではたと困った。
「ラベルになんて書けば良いんだ?」
たしか職員会議で、自分の席の番号を書いておけばその場所に業者が運んでくれるといっていたような気がする。
学年の他の教師に聞いてみる。
「さあ、私も自分の番号がわからないんですよ。」
「学年主任の○○先生が知ってたよね。」
しかし、主任は補習授業を行っていて捕まらない。
しばらくすると、「先生、○○さんの所に座席表がありますよ」
と教えてくれる同僚がいる。
職員室付きの事務の方の席にいくと、あったあった。
番号をラベルに書き込み、段ボール箱に貼って運び出す。
本や書類が主なので重い。一階から台車を持って来る。
4個ほど乗っけて運ぶ。しかし、腰を屈めた格好で運ぶのは結構辛い。
そのうち、女性の方が自分の椅子に段ボール箱を1つ乗っけて運び始める。
「こうした方が腰が楽だわ。」
あっという間に女性の間にその方法が広がる。
しばらくすると、高1の学年主任がやって来る。
「職員室に運ぶ箱のラベルは何色だっけ?」
「赤だよ。」
「番号って何番なんだろ?」
「○○さんの机に座席表がありますよ。」
「そっか」
箱づめをしていると、しばらくしてまた彼が来る。
「教科室は黄色だよね。」
「そうですね」
「なんて書けばいいの?」
「国語科室ですね」
無駄話をしながら、和気藹々と作業を進める。
「ガムテープは自分の使うのかな?」
と呟く人がいる。
「下から持ってきたのがこっちにありますよー」
すかさず誰かが答える。
今日の活動をまとめると、さしずめ「みんなで職員室を片付けよう」という目当てのもとに、時に脱線しながらも、それぞれに協力し合いながら作業を進めていったという感じですな。
『学び合い』の説明をする時に、「ほら、あの引っ越しのときの」と言えば、みんな簡単にイメージしてくれそう。
1月から授業を行う中1の2クラスの様子を2人の同僚にインタビューする。
どうやら対照的なクラスらしい。
一方のクラスはとにかく静か。教師が質問を投げかけても反応がない。発言するものを冷やかすような雰囲気があるという。担任からは「不思議な雰囲気のクラスです」と説明される。「おしゃべりはするんですが、授業中は反応がないんです。」とのこと。どの教科でもそんな感じなのだろうか。
もう一方のクラスはとにかくにぎやかなクラス。「おしゃべりなんですが、成績は不思議に一番いいクラスなんです。」と学年の国語科の同僚は言う。ふーん。おしゃべりで成績がいいね。実はこのクラスは一度見たことがある。実は図書館で国語の調べ学習をするのに、うるさくて仕方がない、と司書から報告されたことがあった。図書館の二階に1クラス分の学習スペースがあり、そこでそれぞれに与えられた課題を調べる。普段は教師がついているのだが、その日は担当の教師が欠勤し、生徒たちだけを図書館に行かせて作業をさせたようだった。司書は下で仕事をしているため、つき合う訳にはいかない。何度か「静かに」と声をかけたのだが、静かにならないというので、図書委員で空き時間だった僕の所に連絡がきたのだった。
図書館へ上がって行くと、たしかにうるさい。走り回っている訳ではないが図書館の使い方としてはちょっと問題だなと感じた。
2階へ行き、しばらく様子を見ていた。生徒たちは見知らぬ教師がやってきたので、さすがにおしゃべりのトーンが落ちた。しばらく見ていると、図鑑や資料の棚から本を持ってきて、返す時にいい加減に別の棚に置いたり、次に使う人のことを考えていなかったりする生徒もいた。
そこでいったん作業を辞めさせて話をした。
まず自己紹介をして、国語科の主任であることを告げ、何のために図書館を使って学習をしているのかを説明した。
図書館を使って調べものをする方法を勉強すること、公共の場所での過ごし方を身につけること、現在担任している高校三年生は空き時間にこの場所で多い時には40人くらい勉強しているけれど、1階にいて、上に人がいるのがわからないくらい静かに使っていること、そうした態度を身につけることも目標であることを話した。
その後、残り時間を有効に活用してほしいと話し、僕は生徒たちの脇で持ってきた仕事をしていた。
彼女たちは実に静かに必要な音量を考えて相談をし、作業をしていた。
なので、「この子たちは話せばできるクラスなんだな」という手応えはあった。
ということで、一方のクラスの「静かさ」が何に起因しているかの方が気になる。
この冬休みは引っ越しのために荷物も全部梱包してしまうので、どのようなクラスかというデータも手に入らない。1月になってすぐにわかるように担任に依頼しておこう。
D902i「『学び合い』の説明をする時に、「ほら、あの引っ越しのときの」と言えば、みんな簡単にイメージしてくれそう。」という文にとても共感しました。
案外,日常に『学び合い』って転がっているものですよね(笑)
jun24kawa世の中には、「あ~、あれね」と言ってくれる人と、「え、でも、授業は別」と言う人もいる。う~ん。
二つのクラスを比較すると、たいていの場合は、教師のありようが違う場合が多いように思います。
もちろん、どの先生も善意なんです。それは違いがありません。
ただ、子どもをどれだけ大人と考えるか、また、「一人一人の子どもとつながろうとするか/集団とつながろうとするか」で違うんですよね。
もちろん、このケースはどうだか分かりませんが・・・
分析結果が分かったら教えてくださいね。
興味津々
OB1989振り返ってみると「ああ,あのとき自分はゲートキーパーだったのか」と実感することがある点に共感します。即時的にゲートキーパーを認識し始めると,ぎこちなくなってブレイン様になってしまうような気がしますが,いかがなものでしょうか?
ikutosu>D902iさん
コメントありがとうございます。
今日さっそく講師の先生にこのたとえを使ってみました。
すると、よくわかっていただけたので、うれしかったですね。
>西川先生
教師のありようが問われる、たしかにそうだと思います。
反応が返ってこないと言われるクラスは担任が病気のために途中で変わるなど、可哀想な面があるようです。この1ヶ月半授業をもった講師と今日話をしてみましたが、どこか上滑りをしてしまって苦笑いをするような状況が何回かあったとのことでした。それがどういうことを意味するのか、さらに調べてみます。
>OB1989さん
そういえば、聞かれて答えているときは自分が「ゲートキーパーをしている」という意識はあまりないですね。これを意識してしまうとどうなんでしょう。
ただ、ブレイン様になるほど専門家でもないので、大丈夫かなあとも思いますが…。
2年前に高三の授業を持っていたときのこと。
中二担当の講師の先生が、病気で3月まで休むことになり、急遽1月から3月まで中二を教えることになった。
今年。11月から怪我で休まれた講師の先生が、1月から復帰予定だったのだが、さらに1ヶ月半休職するということが今日判明した。
今から講師を捜すのは無理。
ということで、ピンチヒッター、俺。
中1を教えるのって何年ぶりかな。
……18年ぶりだ。
言葉が通じるだろうか。
こういうときこそ、『学び合い』のチャンスだ!
明日のクリスマス礼拝で今年の活動は終了です。中三は1月からディベート学習に入ります。そのためのイントロダクションのプリントを作りました。
『学び合う教室』の第1章の記述だとか、『効果10倍の<学び>の技法』のテーマ学習の目標の建て方とかを参考にしながら、つぎのような文面にしました。
僕はスーパーバイザー的な立場で二人の授業担当者のサポートに入ります。
引用開始--------------------------
中三ディベート学習について
論題「日本は救急車を有料化すべきである。是か非か」
1月から現国の時間にディベートを行います。授業の始めにことわざ・慣用句などの知識を問う小テストを5分間行い、残りの時間をディベートに当てます。
ディベートとは、
1 あるテーマについて
2 肯定側否定側に分かれ
3 一定のルールに基づいて議論を行い
4 審判を説得することを競う
ゲームです。
ディベートを行う理由
先日、サッカーの日本代表監督に岡田武史氏が就任しました。なぜ岡田監督か、という質問に対して、「選手とコミュニケーションがとれるから」という理由が挙げられていました。
実は、この「コミュニケーションがとれる」ということは、これから社会に出て行く皆さんにぜひ身につけてほしい力なのです。たとえば、「頭のいい人ってどんな人ですか?」という質問をしたとします。多くの人は「勉強ができる人」「頭の回転の速い人」「数学の得意な人」「知識の豊富な人」などと答えます。つまり、知識が豊富で、理解力・判断力があり、創造力が豊かな人といったイメージを持っているようです。ところが、「あなたの身の回りの頭のいい人を紹介してください」という質問をすると、「話が面白い」「つきあい上手」「人の立場に立って考えられる」「思いやりがある」といった対人関係の良さを指摘する人が増えることがわかっています。(これは日本だけでなく、韓国、中国、台湾、カナダ、メキシコでも実施した調査によります)
社会に出ると、色々な仕事をする上で、自分一人が頑張ればなんとかなる、ということはほとんどありません。専門的な事柄は、そのことを良く知っている人に聞いたり、教えてもらうことで仕事をこなしていかなくてはやっていけません。ですから、「人と上手に付き合う能力」というのは、社会に出るともっとも必要とされる能力なのです。最初に紹介した、岡田さんがなぜ日本代表の監督に選ばれたかもこれでわかると思います。サッカーの知識や教え方を豊富に持っていても、選手とうまくコミュニケーションが取れなければ、「すぐれた」監督とはいえないということなんですね。
ディベートでは、一つのテーマについて、賛成の立場からも反対の立場からも考えます。さらに、その両方を聞いて、どちらの議論の方が説得力があったかを説明するという審判の立場も体験します。つまり、「自分と違う考え方をする人の立場」でものを考える訓練をすることになります。また、試合に勝つためにはチームで協力してなくてはいけません。資料を調べ、議論を作る段階でも、実際に試合でそれぞれの役割を分担して戦う段階でも、チームワークが勝敗の分かれ目になります。こうしてディベートをすることで、「コミュニケーション能力」が驚くほど高まります。
(ちなみに学習指導要領では、国語に関して中学2年3年で次のような目標が掲げられています。
(1) 自分のものの見方や考え方を深め,目的や場面に応じて的確に話したり聞いたりする能力を身に付けさせるとともに,話し言葉を豊かにしようとする態度を育てる。
(2) 様々な材料を基にして自分の考えを深め,自分の立場を明らかにして,論理的に書き表す能力を身に付けさせるとともに,文章を書くことによって生活を豊かにしようとする態度を育てる。
(3) 目的や意図に応じて文章を読み,広い範囲から情報を集め,効果的に活用する能力を身に付けさせるとともに,読書を生活に役立て自己を向上させようとする態度を育てる。
これら全てをバランスよく伸ばすのに、ディベートは最適の方法です。)
ディベート学習の目標
・救急車の有料化について、チームで話し合い、どのようなメリット・デメリットがあるのかを全員が他のチームに説明できるようになる。
・チームの人と公平に役割分担し、全員がチームに貢献しながら学習を進められるようにする。
・肯定側、否定側、審判の三つの立場で全員が試合を楽しむために、チームの中でそれぞれに創意工夫を行う。
・審判を説得して試合に勝つために、チーム全員で審判にわかりやすい議論を作る工夫をする。
ディベート学習の評価
1 3月の最終の授業で「救急車有料化」について、作文を書きます。有料化に賛成、も しくは反対の立場で、読む人が納得できる内容になっているかどうかを10点満点で採 点します。
期末テストはディベートの10点と、小テストの知識問題の内容が50点、応用問題 が40点、合計100点で評価します。
2 ただし、「日本は救急車を有料かすべきである。是か非か」の論題で行なう試合に 勝った場合、チーム全員にプラス1点の加点をします。試合は肯定側2試合、否定側2 試合、審判2試合の6試合を予定しています。したがって、最大で4点プラスになりま す。
ディベート学習の準備
冬休みを利用して、救急車の有料化について、新聞やインターネットで調べてみましょう。(http://ikutosu.sakura.ne.jp/text/debate/sinario/index.htmに昨年の授業の記録を掲載しています。)
昨年は各時間終了後に個人で「振り返りシート」を書かせていました。
それもグループごとに書かせるようにして、以下のような内容に変更しました。
-------------------
ディベート振り返りシート
年 組 班 今日の担当者 番氏名
1 今日の活動 時間目
2 わかりにくかったことへの質問
(次の時間のために、わからなかったことをグループのみんなへの質問の形で書いてみよう)
3 よかったこと
(グループの活動の中でよかったこと、うれしかったことを書いてみよう)
4 もう少し工夫すればよかったこと
5 次の時間の予定
(今日の活動を踏まえて、何をするかを相談して書き込もう)
6 グループのみんなへのメッセージ
(感謝、はげまし、意気込みなどなど、元気がでるメッセージをどうぞ)
-----------------------------
さて、これはあくまでも「型」にすぎません。
「命」を吹き込むのは、我々教師の考え方であることを肝に銘じて、授業のサポートをして行こうと思います。
アマゾンから本が届く。
「学び愛の仕組みと不思議」
「学び合う国語」
「「勉強しなさい!」を言わない授業」
「「座りなさい!」を言わない授業」
「「忙しい!」を誰も言わない学校」
である。
「学び合う教室」はまだである。
先週国会図書館に行った時に「学び合う教室」の6〜70ページを後日郵送でコピー依頼を出しておいたのも届いた。
それから読む。
でも71ページから先が非常に気になる。
またコピーを注文しよう。
さて、採点が終ったら腰を落ち着けて読むことにする。
同僚の実践である。
同僚と言っても大先輩である。
彼が学年主任となった学年はものすごく皆勤賞が多い。しかも不登校が0である。
昨年の高3と中3がそうだった。
彼が中学3年間持ち上がった後、他の教師が学年集団を作っても、その効果はどうやら持続しているらしい。
これはいったいどういうことなのだろうか。
特に今年、受験シーズンに突入すると同時に遅刻が続出しているクラスを抱えて、つくづくとそう感じている。
しかし、今までは彼の実践に学ぼうという気が起こらなかった。
なぜか。それは今年彼が生徒指導部長となって発表した中学校の年間目標を聞いてがっかりしたからである。
「人の話をよく聞く 手は膝の上に置き、顔を上げて聞く。」
なんと形式的なのだろうと思った訳である。
ところが、『学び合い』を学ぶうち、「ひょっとして…」と考えるようになった。
今朝、彼が登校してきた時に疑問をぶつけてみた。彼の学年が皆勤賞が多く、不登校もいないことを話した上で、こう聞いた。
「先生は、手を膝の上に置いて、顔を上げて人の話を聞くようにすることが大事だとおっしゃいますが、僕はそれ以外に先生が生徒たちに語っていることがあるんじゃないかと思うんです。それを教えていただけませんか。」
以下、彼は次のことを教えてくれた。
1 皆勤、精勤をとることは成績優秀者となることよりもはるかに価値があることを折りにふれて話す。
その上でこの時代、勉強することはやはり大切なので怠らず勉強することの大切さも語る。
2 学年の中には家庭的にさまざまな問題を抱えた生徒がいる。そうした生徒と徹底的に付き合う覚悟を決める。そうして時にはやさしく、時にはふざけるようにして人間関係を作り上げて行く。こうした生徒が落ち着くと、クラス全体がしっとりした感じになってくる。
その上で、「話を聞くときは、手を膝の上に置いて、顔を上げて聞いてくれないか」という風に言うと、しっかりと聞いてくれるようになる。
「Tが何か話をしたいようだから聞いてあげるか」という感じになってくればしめたもの。
うーん。そうだったのか。
やはり背後にある考え方を聞かないと、なぜその指示が生まれてきたのかはわからない。
池田修さんの「こんな時どう言い返す」を読んだ時に感じたことと同じなんだけれど、形だけ真似したんではだめなんだよね。
『学び合い』を学びことで、その実践の背景となる教師の願いや考えの大切さが本当に実感できるようになってきた。
この年になって、こんなに教育に対して毎日新鮮な気持ちで取り組めるようになるとはびっくり。
クラスの風景にかかっていた薄皮が一枚ずつはがれて行くようなイメージだ。
自分の同僚の実践から学ぶべきことが見えて来ると、教員同士での『学び合い』というものの有効性も見えてきた。なんだか楽しくなってきてしまう。
F-Katagiriいい話を紹介してくれてありがとうございました。
『学び合い』と関連させて考えると、いくら「立ち歩け」とか、「話し合え」と言っても、『学び合い』は起こらず、その裏にある情熱、思いを伝えなければならないということですね。
「人の話をよく聞く……」というのは、実は外見上表れる方法ではなく、「象徴」のようなものなのでしょうか。
jun24kawa結局、あたりまえのことなんですよね。
子どもは、教師が意識して何かをやっているとき(例えば、何らかの指導法や声がけ)ばかりではなく、教師からの発せられる全ての情報を基にして判断します。
あるときは何気ない言葉、あるときは視線、ある時は「間」、そんなことを教師が意識してコントロールできるわけありません。
例えば、「この場面では視線は○○の方向に、そして2.3秒の間を取って、15.7秒で「・・・・・・」と語る。その時の表情は・・・」なんてことを、一日中出来るわけはありません。
でも、考えが定まれば、巧まずとも、全ては一貫した情報になります。
だから、お分かりと思いますが、「皆勤、精勤をとることは成績優秀者となることよりもはるかに価値があることを折りにふれて話す。」ことすらも、重要ではないんです。
それを意識せずとも、それを本当に願えば、自ずとそれに添った語りが生じます。
いや語りが無くても(あった方がいいですが)、教師の視線・間・・・に表れます。
学習者観・学校観・授業観は、それが考えのレベルに至らなければ、建前論・お題目です。
でも、それらこそ、本当の軸だと、我々は考えています。
iku-nakaはじめまして。長野県の中学校で社会科の『学び合い』を行っているiku-nakaと言います。
中学校の担任をしていると、不登校や非行と言った問題に直面することが多く、それが嫌で中学校の教員になることを敬遠する方がいるという話を聞きます。
しかし、私たちが本気で語れば生徒は必ず応えてくれると思います。生徒の行動の裏にあるのは教師の「姿勢」そのものだと私は思います。最近、そういう部分を軽んずる人が多くなっているような気もします。
そういう意味で、筑田さんの今回のブログを読んで、自らの「姿勢」について振り返る機会をもらいました。ありがとうございました。
ikutosu>片桐さん
そうですね。やはりこちらの「構え」というか、「姿勢」があって、生徒はそれに響き合うように行動するのだなあと思います。
> 西川先生
そういえば、今、期末テストなんですが、それで気がついたことがあります。
試験監督で教室に入ります。五分前になったら教科書ノートを片付けさせ、私語がなくなったらテスト用紙を配布します。
この際、ずっと「静かにしなさい、座りなさい!時間がありませんよ!」と叫び続けている教師がいます。
僕は五分前に「五分前です。」と言うだけで、あとはしゃべりません。
(静かにならないで、チャイムが鳴っても配れなければ、それは自分たちが損をするだけだから仕方ない)と腹をくくって生徒たちに向かっています。
静かにならなければ、時計を確認し、最後まで片付けなかったり、しゃべっていたりする生徒の方を見ています。すると周りが気付いて静かにするように指示します。
これで大体3分前には静かになります。
そのかわり、こちらも教師のせいで試験開始が遅れないように、30秒あれば配れるように準備をしておきます。(複数枚のテスト用紙なら折り込んで一部にしておく、各列の人数は何人かは臆しておくなどのことですが。)
だから焦らないで生徒を見ていることができるのかもしれません。
小さなことですが、ちょっと『学び合い』に通ずる所もあるかなと思いました。
普段の授業の中では(静かにならないで、チャイムが鳴っても配れなければ、それは自分たちが損をするだけだから仕方ない)の部分に学習者観・学校観・授業観が入る訳ですね。
その部分をどれだけ突き詰めて考えているかどうかが試されているのだと思いました。
>iku-nakaさん
はじめまして!ブログ毎日拝見しております。
日々の生徒との対応の中で、疲れてしまうことってけっこうあります。
でも、おっしゃる通り、本気で語れば生徒は必ず答えてくれますね。それが時には1年半近くかかった場合もありましたが…。
手先のテクニックだけではだめなことってあるなあと実感している所で、『学び合い』に出合いました。僕にとっては運命的な出会いだと思っています。
これからもよろしくお願いします。
池田修>池田修さんの「こんな時どう言い返す」を読んだ時に感じたことと同じなんだけれど、形だけ真似したんではだめなんだよね。
いやあ、びっくり。今月号の「授業づくりネットワーク」に小書に関して、筑田さんのことを書いたばかりなんですよ。いやあ、びっくり。
ikutosu>池田さん
およよ。…まあ「畏友」だなんて、恐縮です。
今、「教師になるということ」を読み始めた所です。
電車の中で読んでいたら、前に座っているお兄さんに怪訝な顔をされてしまいました。
どうも、私の中の「話者」が読んでいるというより、池田さんの声がそのまま頭の中に響いてくるような感じなんですね。
池田さんの普段の口調そのものの部分では、池田さんの笑顔が浮かんで来るし、改まった所ではかしこまった姿が浮かんできます。(でも、この後、笑いを取るんだろうな)とか思いながら読んでいるので、どうやらにやにやと笑いつつ読んでいたようです。
さとうかつのり山形の佐藤と申します。この頃『学び合い』のグループに入れていただきました。
本日はコメントをいただきありがとうございます。
リンクをたどり、文章をずうっと拝見させていただきました。
この「背後にある考え方」についての文章は、まるで自分がすぐそばにいるかのように感じながら読みました。そして、「教えていただけませんか」と謙虚に学べる人間でありたいという思いを強くしました。
ikutosu>佐藤さん
ようこそいらっしゃいました。
プロフィールを拝見して、同年代ということで非常に心強く感じております。よろしくお願いします。
職場で『学び合い』の考え方を共感していただくには、自分から仲間の実践に学ぶことから始めなければということに改めて気付かされました。
そう言う意味でも、『学び合い』の考え方は非常に真っ当で、健全なんだなあと思います。
1時間目。漢字テストを行う2組に向かった。
教室に入ると、熱心に漢字の練習をしている。
「先生、カンニングタイムはどれくらいくれるの?」
『それについて話したいのだけれど。』
『土曜日の1組のテストで、最後の10分間、見せ合ってもいいということにしました。それを僕は今とても後悔しています。1組のみんなのことを、そして60回生のことを信じていなかったことになるからです。』
話すのに10分ほどかけた。
「えー、じゃあやる気が出ないよ」
といった声も聞かれたが、
「じゃあ、見せ合った1組より、うちらが上の点を取ったらすごくない?」
という前向きの意見も出てきた。
結局漢字テストの時間を25分間とし、それまでを準備に当てた。
チャイムが鳴って、回収した。
90点台が9人。
80点台が8人。
70点台が6人。
60点台が3人。
50点台が4人。
40点台が3人。
30点台が3人。
20点台が4人。
見せ合った1組では90点以上は3人だった。
ふて寝をしていた生徒は57点取っていた。実質1時間の準備で、600字の漢字を覚えて、これだけの結果を出した。
また昨日行った3組は以下の通りだった。
90点台が0人。
80点台が2人。
以下省略。
「見せ合う時間があるからいいや」と、最後の準備の時間、『学び合い』が崩れてしまった影響が大きかったと思う。
3組は今日の3時間目4時間目が最後の授業だったので、この事実を告げ、謝罪した。
3クラスの中でもっとも現代文の成績が高いのが3組だった。
教師の弛みが、これほどの影響を与えることに、冗談でなく戦慄した。
自戒の意味を込めて。
「子供を動かす」上で大切なのは「子供も人間である」ということなのである。一人ひとりが、かけがえのない存在なのだということなのである。
「ものをあつかう」ように、人間をあつかってはならないということである。
互いに平等であれば、そこには意見を言う上での自由な空気が存在し、百家争鳴の状態になるに決まっているからである。そして、この百家争鳴の状態こそ、まさに教育の場であり、教育の核心が秘められているのである。これをのがしたら教育はない。
教師とは、子供のことは見ていないものなのである。見落としているものなのである。もちろん私もそうである。ただ、「見落としている」はずだからそれをうめようとしている教師と、「私は見落としていない」と思い込んでいる教師とでは、大きな差が生まれてくる。悲劇なのは「子供たちについて多くのことを見落としている教師」ほど、「自分は見落としていない教師である」と思い込み、自ら顧みることがないことである。
教育は満点主義を通そうとするとそれを倍する害が出てくるものなのだ。8割主義で私はいいと思う。8割主義というのは、いいかげんしていいといことではない。個々のこと、個々の人に対しては、10割もそれ以上もさせることがある。だが、全体に対しては、8割主義ぐらいで臨んだ方が致命的な害を避けられると私は思っている。
自分がいかに優柔不断な人間かを思い知らされた。
土曜日の1時間目。1組の授業。
漢字書き取り100題テストの時間である。
欠席が11名。フラフラで登校してたけれど、保健室に行ったのが1名。
いつものようにプリントした「今、ここで」を配布。そしてメモ用紙を配布。
「これに漢字の練習してもいい?」
『どうぞ。』
最後の「今、ここで」なので、友人へのメッセージなどを書き込む生徒もあり、漢字の練習に専念する生徒もあり。
5分後、回収。
『さ、じゃあ漢字テストを始めます。』
「ひー、先生のばかー!おにー」
「先生、最後に見せ合う時間をとっちゃ、だめ?」
「あ、それいい案。」
「5分でいいから。」
どき。こちらの胸の内を見透かされたような発言が続いた。
『…僕もね、それはちょっと考えたんだけれど、考えを改めました。』
「どうして改めるかなー」
「『ともに最後まで』だから、最後まで協力し合おうよ」
「そうだ、そうだ」
『うーん』
白状する。僕は生徒たちを信じきれていなかった。もっともっと高みに登って行けることを心から信じられなかった。
『じゃあ、最後の10分になったらね。』
結局変化球を投げてしまった。
テストを開始した後、生徒たちの真剣に取り組む様子を見て、ますます申し訳なさがこみ上げてきた。
こんなに生徒たちは真剣に答案を書いているじゃないか。
これは謝らないといけない、と思った。
『残り10分です。』
生徒たちはさらに猛然と答えを確認し合い始めた。あまりの猛烈さに「あはは、なんだか楽しい」と笑い出す生徒まで出てきた。
チャイムが鳴ったが止まらない。
なんなんだ、これは。
5分経過してやっと声をかけた。
「先生、楽しかったよ。またやりたい。」
…うーん。
採点すると、80点以上は23人。70点台が8人。一人だけ50点台。
「最後に見せ合う時間をとっちゃだめ?」と聞いた生徒は70点台だった。
見せ合って直した所を、わざわざ色を変えて書いている生徒がいた。それを見ると、10点プラスになっている計算だった。この生徒はそれがなくても70点台までは到達していた。ちなみに毎週行っている漢字テストでは平均が3割に満たない生徒である。
ラスト10分の前の段階で、まったく手つかずの生徒はいなかった。
見せ合いをしなければ、50点台の生徒はもっとでたかもしれない。
しかし、今までの彼女たちの取り組みからすれば、やはりスゴいことだった。
それを信じきれなかった…。
jun24kawaここで書かれていることを、フェアーに子どもに語り、
それをもとに、どうするかをフェアーに語ればいいだけです。
それによって、かえって、教師の心を伝えることが出来ます。
ころんでもただでは起きないで下さいね。
ikutosuはい。転びましたが、生徒に語ることの大切さをあらためて痛感しました。
koushinsenjin>個々のこと、個々の人に対しては、10割もそれ以上もさせることがある。だが、全体に対しては、8割主義ぐらいで臨んだ方が致命的な害を避けられると私は思っている。
これが、どういうことかな~、と思いました。
「みんな」には8割をもとめればよい…ということでしょうか??
筑田さんは、どのように受け止められたのでしょうか。
ikutosu>kousinsenjinさん
コメントありがとうございます。
ご指摘の部分ですが、その直前の「教育は満点主義を通そうとするとそれを倍する害が出てくるものなのだ。」という部分がポイントだと思います。原文では「通そうとすると」の部分に傍点がつけられ、強調されているからです。
つまり、何でもかんでも完璧を望むのは、教師にとっても生徒にとっても「遊び」の部分がなくなるということではないのかなということですね。
車のハンドルに遊びがなければ、ちょっとハンドルを動かしただけで、車の進路が右へ左へぶれて危険なように、集団を動かす時にも、多少の遊びを持っていた方がいいのではないか、ということだと解釈しました。
結果として、「みんな」に8割を求めるということもありだと思います。
koushinsenjin返信、ありがとうございました(礼)
なるほど~、です。
「遊び」と「どん欲に求める」の折り合いが大事なのかな~と思いました。
進路指導部長から、文検*1のこれからの持って行き方に関して意見を聞かれる。
中1から高2まで一斉に文検を行うことのプランを作ったのは僕だったのだが、去年の後期から学年に入る事になり、そのまま進路指導部長に丸投げしてしまう形になっていた。
彼の腹づもりでは、どこかで放課後などに国語科の教師がレクチャーをするか、国語の授業で検定前に扱う事ができないか、ということのようだった。
受験が多様化し、様々な文章を書く事が求められ、それを国語科教師だけで負うことはとてもできないので、中高6カ年を見通した作文指導として何ができるか、という問題意識から始まった文検導入ではある。
それをまた国語の授業に戻すとなると、国語科教師の負担が増えるだけという反発も同僚から出てきそうである。
ただ、話を聞いて行くと、「朝の読書も今後取り入れて行きたいし…」という言葉が彼の口から飛び出してきた。
どうやら刷新委員会でも導入の方向で検討しているようである。
朝の読書に関してもここ10年ほど導入を訴えてきた経緯があるので、こちらは大歓迎である。
さらに、朝の読書を導入するということは、その背景となるこども観を全教職員にアピールする機会でもある。
そうなれば、『学び合い』の考え方に基づいて、文検も取り組みが可能になるのではないか。
そんなことを思いついた。
なので、地下鉄に飛び乗って永田町まで出かけてきた。
「高校生の作文共同編集における相互交流と表現の確定について」(片桐史裕・西川純)
「中学校理科学習における生徒間の『教え手ー学び手』関係と成績の関連」(小野村リサ・西川純)
「異学年同士が学び合う有効性」(西川純・山田純一)
をコピーして帰って来る。
土曜日の午後は混雑していた。
帰りの電車の中で一番最初の論文は読んだ。
おもしろい。何か応用ができそう。
後のはこれから読む。
*1:日本語文章能力検定
今年も中三のディベート授業の準備が始まる。
1月から3月までの週3時間、シナリオ方式のディベートから始めて、グループ対抗戦まで行う。
グループ対抗戦の論題は「日本は救急車利用を有料化すべきである。是か非か」に決めた。
今年の中三担当者は2名。
うち1名は専任でディベートの授業をしたことがある。第1回のディベート甲子園で他校の引率をしていた人だから経験は豊富だ。
もう一人は講師で、ディベートは未経験。
さて、冬休みの前に、ディベートを授業で行うことの意味と、冬休み中の課題のプリントを配る。
その内容をどのようにするか、考えている。
ディベートと『学び合い』の接点は何か。
みんなで達成する目標として、どんなものを設定できるか。
以下本当に思いついたことのメモ。
スクールモットー「神を仰ぎ人に仕う」との関連。
教育指導要領の関連部分
http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122602/002.htm
第1 目標国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにし,国語に対する認識を深め国語を尊重する態度を育てる。
第2 各学年の目標及び内容
〔第2学年及び第3学年〕
1 目標
(1) 自分のものの見方や考え方を深め,目的や場面に応じて的確に話したり聞いたりする能力を身に付けさせるとともに,話し言葉を豊かにしようとする態度を育てる。
(2) 様々な材料を基にして自分の考えを深め,自分の立場を明らかにして,論理的に書き表す能力を身に付けさせるとともに,文章を書くことによって生活を豊かにしようとする態度を育てる。
(3) 目的や意図に応じて文章を読み,広い範囲から情報を集め,効果的に活用する能力を身に付けさせるとともに,読書を生活に役立て自己を向上させようとする態度を育てる。
2 内容
A 話すこと・聞くこと
(1) 話すこと・聞くことの能力を育成するため,次の事項について指導する。
ア 広い範囲から話題を求め,話したり聞いたりして,自分のものの見方や考え方を広めたり,深めたりすること。
イ 話の中心の部分と付加的な部分,事実と意見との関係に注意し,話の論理的な構成や展開を考えて,話したり聞き取ったりすること。
ウ 話の内容や意図に応じた適切な語句の選択,文の効果的な使い方など説得力のある表現の仕方に注意して,話したり聞き取ったりすること。
エ 相手の立場や考えを尊重し,話合いが目的に沿って効果的に展開するように話したり聞き分けたりして,自分の考えを深めること。
他者の立場に立って物事を考える。
決められた時間内、よどみなく話を続けることができる。
フローシートに議論の内容を書き取ることができる。
聞き取りテストを行うか。
救急車の有料化に関するレポートを書かせるか。
最終目標をどこに置くか。
高三の現代文の授業も終盤である。
来週の木曜日ですべての授業が終了する。
ここしばらく「舞姫」を読んできたのだが、最後の5時間を使って、「舞姫」の漢字テストをすることにした。
本文の中から書き取りを100題出す。
それに対してクラスみんなで80点以上取ろうと提案した。
実は高三もこの時期になると、すでに進路が決まった者と、2月の受験の者とで授業に対する温度差が出て来る。
例年のことではあるのだが、今年は特にAOや自己推薦、推薦を使って合格した者の数が多く、各クラスとも3分の1程度を占めている。
こうなると、いくら勉強の雰囲気を保とうとしても、どこかでしまらなくなるのが人情。
「今、ここで」*1に書いて来る内容でも、「進路が決まった者は受験を控えている者に気をつかうべきだ」といった意見が寄せられたり、かなりピリピリした雰囲気になってきていた。
どうしても自分の都合を優先したくなって、単位が取れれば遅刻しても構わないといった考えの者も出て来る。
朝、クラスの3分の1がいないといった状況が常態化してしまうことに学年としても危機感を持ってきた。
「実行 ともに最後まで」
これが今年の高三の学年目標だ。今まで学年としてのまとまりに欠け、学校行事の一大イベントである学年対抗の運動会では2年連続最下位。合唱コンクールでも入賞なしという状況で高三になった。
まずは自信をつけ、学年としての一体感を高めようと6月の運動会では幹部の入れ替えなども行い、目標の優勝を達成した。11月の合唱コンクールでも初めて4組が入賞した。他のクラスも朝と昼しか練習できないハンデの中、まとまって練習を続けた。
しかし。
この現状である。
せめて、授業の最後の所で、もう一度「ともに最後まで」という今年目指してきた取り組みをさせたい。
ということで、各クラスで語りかけ、授業を始めた。
生徒たちは三々五々、グループを作って漢字の練習を始めた。僕は読めない漢字の読み方を聞かれたら答えたり、生徒たちが作ってきた漢字プリントを、そのグループの人数分コピーしたりという形で関わった。
今日は1組と2組はその4時間目。次の時間はいよいよテストである。
1時間目の2組の授業。
2組は高三4クラスの中では一番結束力の高いクラスだ。
3組のある生徒がフォグワーツになぞらえて、1組=スリザリン、2組=グリフィンドール、3組=ハッフルパフ、4組=レイブンクロー(4組は理系クラス)と呼んでいる。
で、2組は最初に「クラスみんなで80点以上をとろう」と呼びかけた時にも一番反応が良かった。
活動を始めるや、廊下側の2列の生徒10名がザッと机をつけ、25ページに及ぶ本文の分担を決めて漢字プリントを作り始めたくらいだった。
その反面、「漢字テスト?絶対嫌だ!」とふて寝をする生徒もいた。「先生、今それどころじゃないよ」と目前に迫った公募推薦入試の準備をしながら「終ったらやるから」という生徒もいた。
「最終的にみんなが80点以上取るという結果を出してくれればいいよ」と言いながら見ていると、次の時間、公募の試験が終わった生徒は漢字テストの準備に戻っていた。しかし、ふて寝の生徒は相変わらずである。
さてどうなることかと見ていたのだが、せっせとプリント作りに励む集団、4人くらいで分担してプリントを作って準備を勧める集団、ふて寝をする生徒の側で何となく教科書を眺める人々…などに分かれていた。
ところがその10人ほどの集団が、この時間の初めにやっとプリントを作り上げた。
「10人分のコピーを頼まれるのかな」と思っていると、書き上げたプリントを手にした生徒が、クラス全員に向かってこう呼びかけた。
「あのー、このプリント、かなり漢字の数が多くて大変なんですけどー、欲しい人いますかー」
とたんに手が挙がり、結局自分たちで進めている4人以外の分を印刷することになった。
表裏びっしりと漢字を書いたプリントが8枚。合計600字の漢字が網羅されている。声をかけた生徒は、普段は目立たないのだが、クラスの中でキーマンとして動いてくれる生徒だった。
印刷して教室に戻ると、「私たちで配ります」と分担して配り始めた。
すると、ふて寝をしていた生徒が「こうなったらやるしかないでしょ!」と教卓に置いてある練習用の解答用紙を取りにきて、自分の仲間に配り始めた。
「さすが2組だよねー」などと言いながら、生徒たちは漢字の問題を出し合って練習を進めていた。
もう、泣きそうだった。
たぶん、ふて寝をしていた生徒は、僕が声をかけても自分から進んで勉強することはなかっただろう。ましてや、教師が600字も漢字を載せたプリントを配ったら、それだけでくじけてしまう。
別人のように猛然と勉強を始めた生徒を見ながら、「生徒ってすごい」と感動していた。
この感動を分かち合いたくて、担任の教師にもさっそく「2組ってすばらしいクラスですね」と報告した。
ところで、今、迷っている。
テストの方法である。
1 いつものようにテストをして、結果をそのまま公表する。
2 「『みんなが80点以上取る』と言ったのだから、80点以上取れているかみんなで確認しなさい」と言ってみる。
テストの方法まで言ってなかった。
さて、どうしよう。
*1:授業の始まりの五分間、「今思っていることを自由に書いて下さい。書かなくても構いません」と説明し、生徒たちが書いたものを一枚文集にまとめて配布する。生徒はそれを読み、また書く。妹尾和弘氏の実践の追試。学年の一体感を醸成するのに有効な実践だと思う。
jun24kawa最後の部分(特に2の部分)が意味を取り切れていないので、トンチンカンになりそうですが、トンチンカンだったらご指摘下さい。
漢字の書き取りで「本文の中から書き取りを100題出す。」と言っているのであれば、子どもたちはテストのイメージは十分に分かっているはずです。
だから、「いつものようにテストをして、結果をそのまま公表する。」でいいと思います。
問題は、それを実施するときの筑田さんのお気持ちだと思います。
第一に、筑田さんは漢字の書き取りを漢字の書き取りのためにやっているのではなく、高校最後の今の時期をクラスとして良い時間として欲しいという願いがあると思います。同時に、ここで漢字の書き取りの練習をしても、進路の決まってない生徒にとってプラスになるにせよ、マイナスにはならないという見通しがあったはずです。それを語っていないならば、語ったらいいように思います。また、語っていたら、信じましょう。
第二に、漢字の書き取りを通してのクラス作り、学年作りは、単発ではなく、これから卒業までの時間で作り上げようと筑田さんは考えていると思います。ならば、80点を達成しなくてもいいじゃないですか。彼らに、このブログで書いたこと、感激したことを語ってください。そして君らは全員80点以上を達成すると語ってください(もちろん信じてください)。そして、また、彼らに適切な課題を与えてください。
変化球はいりません。願って、信じて、語ってください。彼らは、それを乗り越えます。
ikutosu西川先生
トンチンカンではなく、まさに「変化球」を投げようか、どうしようかと思い悩んでおりました。
「ガン」と頭を殴られた感じです。
ご指摘の通り、漢字書き取りが目的ではなかったはずなのに、いざ、テストを目前にして、生徒を信じきれていない自分にハッとしました。
そうですね。もっともっと生徒に語らないと。生徒を信じないと。
すばやいコメントをいただき、本当に感謝です。願って、信じて、語る。
肝に銘じます。ありがとうございました。
池田修筑田さん、池田です。
卒業を迎える学年のこの時期、それだけで切なくなります。
彼女等に何をしてあげられるのか、それを求めている筑田さんの真摯な姿に心を揺さぶられます。
私も三回生に模擬授業を、四回生には自主ゼミで模擬授業をしながら、これでもかと鍛えているつもりです。幸いにして私の関わっている学生たちは、それに応えてくれてまだまだ鍛えられると思っております。が、筑田さんの彼女たちも仲間と一緒に高みに登ろうと、動き出しましたね。陰ながら応援しています。
西川先生がアドヴァイスを出されていますので、いまさら私がとも思いますが、私ならこの場合のテストは、
「どちらの方法が、より目的を達成するためにはいいと思う?」
と聞いてしまうかなあと思いました。自らが自らの評価をきちんと行えるようになることが大事なのではないかと思うからです。
筑田さんの生徒さんたちが、学び合いを通して人間的な成長をされますように。
ikutosu池田さん
コメントありがとうございます。
池田さんの大学での実践、いつも拝見してます。実習に出て、自分に何が足りないかを感じ取ってきて、さらにモチベーションを高めている様子、頼もしい限りです。
生徒たちが『学び合い』を通して成長してくるのがうれしいのはもちろん、私も、教師としてのあり方を見つめ直す機会になっていて、非常に刺激的です。
『学び合い』の本はクリスマス以降にならないと届かないというので、家の本棚で関連しそうな本を探す。
「『学び合い』手引書」にジグソー学級のことがちらっとでていたので、一番本棚の奥(本当に文字通り奥)から引っ張り出してきた。
ジグソー学級―生徒と教師の心を開く協同学習法の教え方と学び方 | |
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この本を開くのも、実に21年ぶり。新卒で教師になったのが1985年の4月。1986年2月に出版されて、すぐに買ったから、教師一年目も終わりに近づいて、あれこれ試行錯誤している時期だった。実になつかしい。
しかし、21年も経っていると、さすがに本の内容のあらかたは記憶の底に埋もれてしまっていて、初めて読むような新鮮さがあった。
頭に残っていたのは、6人ぐらいの班に分かれて、それぞれが分担したトピックを教え合い、全体を理解した上でテストを受けてそれぞれが評価されるので、6人それぞれが真剣に他のメンバーに教えるし、他のメンバーもそれぞれの話を真剣に聞き合う。そうやって協力し合うことで学力も上がり、相互理解が図られる、といったものだったように記憶している。
本棚を見たら、
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も一緒に並んでいた。
この本の中にもジグソー学級の効果が書かれていた。
さて、久しぶりに読むと、『学び合い』に類する言葉として「協同」という述語が使われていた。
この本の書かれた時期のアメリカの社会について、第一章で書かれているのだけれど、面白いと思ったのは、ちょうど日本が「ゆとり教育」の弊害を叫び、学力の充実を唱え始めたのと同じような構図が、20年前のアメリカでも言われていたことだ。
過去数年間に、大学進学適性検査によって測られた平均的なアメリカの公立学校の生徒の学力が、大幅に、しかも確実に、低下してきているということである。特に、高校三年生の大学進学適性検査の得点は、1963年以来、ずっと下降傾向をたどってきている。(中略)
ほとんどの両親は、生徒の学力低下の原因が、いわゆる「教育革新」にあると考えていた。つまり、大多数の人々にとって、学級における革新という言葉は、基本的な教科の学習を犠牲にして、子どもたちの情緒的発達にことさらに注意を向ける、だらしのない、放任主義的な雰囲気と同じ意味をもつ言葉であるとみなされるようになった。(1ページ)
「教育革新」を「ゆとり教育」に読み替えれば、そのまま今の指導要領への批判と読める。
しかし、ジグソー学級の研究者、実践者たちはそうした風潮に対して異を唱え、情緒的発達と知的な発達は両立可能だと主張する。
そして、研究と実践から実際にジグソー学級がどのような効果を上げてきたのかを記したのがこの本だった訳だ。
読んで行くと、『学び合い』と共通する考え方も出て来る。
ジグソーグループの生徒は、共感性や忍耐性を発展させるよう強く要求される。また、自分とは経験や能力の異なる人々と共通の目標に向けて効果的に勉強することを学ばなければならない。この後者の技術は、成人の社会におけるどのような職業においても、ますます必要とされるものである。(27〜28ページ)
実は教職2年目、中1を担任した年に、ジグソー学級の手法をやってみようと試みたことがあった。「さまよえる湖」という説明的文章を扱った単元で、グループ学習を導入したのだ。今考えると、かなり無謀だなあと思うのだが、大体無謀じゃないことの方が少ないので、20年以上経っても変わっていない自分の成長のなさに愕然としたりする。
グループ学習と言っても、まだ読み研の研究会にも参加する前で、たよりにしたのはこの本と、大村はま氏の実践記録だけだった。
結果は当然と言えば当然だが、はかばかしいものではなかった。教材研究不足、グループ学習の指導に対する理解不足、ジグソー学級への理解不足。グループごとの活動が活発でないのをどうすることもできず、ただグループからグループの間をうろうろうろついていた。
その後、ディベートでマイクロディベートを行う時に多少ジグソー学級の手法を参考にしたことがあった。
ディベート能力上位中位下位の3人でチームを作り、試合の準備をする。試合は3人がバラバラに上位リーグ、中位リーグ、下位リーグに参加し、同程度のディベートの能力の相手とマイクロディベートを行う。
次の時間はそれぞれがその試合の結果を持ち帰って作戦会議を行い、また次の試合に臨む…というものだった。
この時にグループの3人がそれぞれ違う立場で試合を行うようにして、それぞれが肯定側、否定側、審判で試合をした結果を持ち帰り、情報交換を行えるようにしていた。
ディベートではそれぞれに「試合に勝ちたい」というモチベーションがあったので、この共同作業はかなりうまくいったと思う。
これが、僕が今までにやった「ジグソー学級」とそれに類する実践の全てだ。
『学び合い』との大きな違いは、やはりこれは「手法」であり、「考え方」ではないということだろう。
続く
『学び合い』グループの皆様
筑田周一と申します。
東京の女子聖学院中学校・高校で国語を教えております。
『学び合い』に興味を持ち、現在基礎文献を読む所から始めております。
1月以降、授業がなくなるので、どこか『学び合い』を実践されている学校へ見学に行きたいなと考えております。
趣味は芝居を作ることと、ディベートです。
よろしくお願いします。
F-Katagiriよろしくお願いします。片桐です。筑田さんは、パソコン通信の時代から存じ上げていました。『学び合い』グループ参加ということで、心強い限りです。これからもよろしくお願いします。
jun24kawaよろしくお願いします。西川です。ワクワクしています。
ikutosu片桐さん
片桐さんの実践に学びつつ、僕も『学び合い』を勉強させていただきます。タイミングが合うようでしたら、是非、授業を参観させて下さい。よろしくお願いします。
西川先生
はじめまして。お名前は池田さんのブログですとかあちこちで拝見しておりましたが、コメントをいただけて感激です。わからないことばかりですが、よろしくお願いします。
F-Katagiri授業を見ていただけるなんて、光栄です。いつでもどうぞ。
ikutosuありがとうございます!
中学入試が終る2月の初めを過ぎてから伺おうか、と考えています。
iwasakiはじめまして!上越教育大学学校教育学部4年 西川研究室に所属しているiwasakiというものです。
ぜひ,筑田さんの『学び合い』を勉強させてください。今後のブログを楽しみにしています!
ikutosuiwasakiさん
はじめまして。よろしくお願いします。
こちらこそ、いろいろ教えて下さい。
OB1989はじめまして。信州大学で『学び合い』を研究している三崎です。よろしくお願いします。楽しみにしてます。
jun24kawa今、基礎文献をお読みとのことですが、我々も『学び合い』のごく初期にジグソーを試みました。
「学び合う教室」に紹介しています。
印象としては、面白いし、有効だと感じました。
アロンソンは人種差別解消の手段と捉えており、学力にはあまり効果がないと考えていたようですが、
高度な課題に関しては有効であるという結果を出して、嬉しかったという記憶があります。
しかし、ジグソーに使える形に出来る教材もあり、出来ない教材もあると感じました。
また、ご指摘のようにジグソーはテクニックであり、考え方ではありません。
『学び合い』の過去の研究から現在の研究を順に読むと、我々が徐々にテクニックを捨てて、考え方にシフトした過程が見られると思います。
ikutosu>三崎さん
初めまして。私は横須賀出身なものですから、「三崎」という名前に一方的に親近感をもってしましました。どうぞよろしくお願いします。
>西川先生
なるほど、ジグソーの試みもなさっているので出てきたのですね。「学び合う教室」、早く手に入れたいところです。国会図書館に行って閲覧するという方法もありますね…。
まだ手元にはあまり資料がないので、とにかくあれこれ想像をめぐらしながら読んでおります。
異なるのに驚きました。そして嘘もあるって。名刺の認識が変わりました。
6日のことも詳しく書かれていて知りたいことが満載されていて
本当のありがたいです。
名刺はアイスブレークのため、3つのうち1つはウソを入れておきました(そう明記しておきました)。そこから話題が広がれば、と思ってやってみました。
吉田さんの本の中で紹介されていた方法なんです。
6日はお仕事だったんですよね。西条さんのお話は、目の前に映像が浮かんでくるようで、「さすが映像のプロだな」と思わされました。またぜひ、書き込みをお願いします。