2012-05-13
■ このグループの在り方

よくクラスの子ども達に話をする。
素晴らしいクラスの条件とは何か?
素晴らしいクラスとは「トラブルが起きないクラス」ではない。
素晴らしいクラスとそうでないクラスの差は?
それは
「トラブルが起きた時にそれを乗り越えていけるか否か?」である。
どんなクラスであっても「トラブル」は起きる。
それを乗り越えていけるクラスは素晴らしいクラス。
未熟なクラスはそれがきっかけで内部分裂を起こしていく。
この『学び合い』グループはどうだろうか?
私はグループ内部で多くの議論があってこそ健全なグループであると思う。
クラスに置き換えてみればわかるだろう。
多くの考え方があって当然。
多くのアプローチがあって当然。
白熱した議論になる時もあっていいはずだ。(いやなくてはならない。)
素晴らしい集団はその議論を乗り越える。
その議論によってバラバラになる集団であってはいけない。
このグループの在り方は、クラスの在り方と同じはずだ。
2012-05-12
■ [続ける力]始めるのは簡単

『学び合い』
始めるのは簡単なこと。
子ども達が自分の意思で人に繋がることが認められるのだから。
立ち歩きが悪という世界から、立ち歩きが奨励される世界へと変わるのだから。
はじめは子ども達の目は輝いているように見える。
ずっとつまらない顔をして沈黙していた子が話し始める。
積極的に学び合っている(ように見える)姿に感動さえ覚えるかもしれない。
しかし、それは真の「学び合い」なのか?
おしゃべりではなく、学習に向かわせなければならない。
そのために『学び合い』では「全員」という課題を設定する。
確かに子ども達(の一部)は動き始めるだろう。
しかし、毎時間「全員」に縛られていたら苦しくなってくる。
かといって「全員」という言葉をはずす。
するととたんにおしゃべりが増え、学びの質が落ち始める。
「全員」を使わないと学習に関係ないおしゃべりが蔓延する。
かといって「全員」を使い続けることも苦しい。
このジレンマに苦しんでいる人は多いのではないだろうか?
『学び合い』は始めるのは簡単。
しかし、一番難しいのは「持続させること」なのだ。
どのようにしたら子ども達の学びを持続させていけるのか?
「学び合う」から「学び続ける」へ。
どのように高めていけるのか?
それを模索せずにいたらどうなる。
『学び合い』は一つの手段として時代の流れの中に消えていくだろう。
tontanさん達と共に、それを追い続けて来た。
彼らは『学び合い』の奥にあるものを見つめている。
■ [集める力]失敗から得るパーツ

教育において「徐々に削ぎ落とすべきもの」と「決して削いではいけないもの」がある。
削いではいけないものをいかにして自分の心の核として保ち続けるか?
それが難しい。
大切なものを削ぎ落とすとクラスは一瞬にしてガタガタになる。
1年半ほど前。痛い失敗をした。
子ども達の自主性を伸ばすという考えのもと、私が削ぎ落としたもの。
それは「語り」だった。
何が良い学びで、何が悪い学びなのか?
その指針を失ったクラスは一瞬で崩れ始めた。
「学び合いはいやだ。」と。
クラスにほころびが表れた時、人は初めて気づく。
「あぁ。これは削いではいけないものだったのだ」と。
それに気づければ次の手が見えてくる。
「目的」を語ることなくして子ども達の成長はない。
しかし、心が凍りついている子ども達に語る言葉は宙を舞う。
宙に舞う言葉を刻みつけるために必要なもの。
それは「信頼」「安心感」だ。
「信頼」は自然に生まれるものではない。
いくら「目的」を語っても「信頼」は生まれない。
どんなに強く自分を貫いていても「信頼」は生まれない。
「この先生は自分を成長させてくれそうだ。」
「一緒にいると楽しい。」
「信じてみようかな?」
自分という存在が信頼されて、初めて自分の言葉が子ども達の心に沁みこむ。
「信頼」「安心感」は削ぎ落としてはいけない。
子ども達は成長をしている。
薄皮をはがすように少しずつ。
学びの本質に近づいている。
ここからが勝負だ。
焦らない。怒らない。
見えないから焦る。
見えないから怒りが込み上げる。
ではどうする?
見えるようにすればいい。
見ようとすればいい。
削ぎ落としてはいけないものを削ぎ落としてはいないか?
子ども達ではなく、己に目を向けられるか?
自分の甘さに気づいた時。
そこがスタートライン。
何度も子ども達に語り続けてきた言葉ではないか。
自分も同じだ。
2012-05-03
■ [突き進む力]「全員が」は使わない

「全員ができる」「全員が説明できる」
数年前までこの言葉を使い続けていた。
しかし今は「全員が」という言葉はほとんど使わない。
この言葉は1年間語り続けるにはきつすぎる言葉である。
「全員ができる」に連戦連勝はない。
「国語」でも「算数」でも「理科」でも「社会」でも…。
すべての教科で「全員が」を達成できるわけがない。
しかも毎日。
これを達成するためには「全員が」の質を下げざるを得なくなる。
質の下がった「全員」を達成した所でクラスの成長はない。
では、質を下げないでごり押しすると子ども達はどうなるか?
上位の子ども達はわからない子に教えこもうとし始める。
下位の子ども達は教え込まれ、顔がくもり始める。
中位の子ども達は学びからあぶれ始める。
それが毎時間続く。それが毎日続く。
「全員が」を強く求めることで苦しむ子どももいるのだ。
「全員」大切。
クラス替え当初は何度も何度も語り続ける必要があるだろう。
しかし、それは1年間求め続けるには強すぎる言葉である。
「全員ができる」という言葉からは脱却しなければならない。
今すぐにできなくたっていい。大切なのはどんなに苦手であっても
「全員が学び続けられる」ことだろう。
クラスを「全員が」で縛る必要なんてない。
大切なのはそれぞれが目的を明確にして、突き進み続けること。
どんなに突き進んでいても「教えて」と言われたら全力で耳を傾けられること。
子ども達の学びに決してふたをしない。
突き進みたいならば突き進めばいい。
どこまで行きたいのか常に問い続ければいい。
「ゆるく繋がり」ながら「全員」を求めればいい。
上位は己を開きながらどこまでも突き進め。
それがクラスの原動力となる。
4月の末。
クラスの一人の女の子が声をかけてきた。
「先生。算数の上の教科書終わりました。」
「算数は今日から新しい単元に入ります。教科書の予習が終わっている人は?」
クラスの半数以上手をあげた。
これが学びのあるべき姿だ。
こういう子ども達をどんどん鍛えていく。
その後ろ姿がクラスを変えていく。
やりたいなら突き進めばいい。
「教えてあげるよ」なんていらない。
「全員が」のふたをはずす。
それが子ども達の学びを深いものにしていくのだ。
■ [問う力]先生、それまだ習ってません。

「先生、それまだ習ってません」
その言葉を発する子は、その子自身が学びの主人公になれていない証拠。
学びは与えられるものではない。
習っていないからこそ自ら学ぶ。
それを当たり前にする。
知識は与えられるものではない。
自ら掴み取るものだ。
その感覚をつかませるために何度も何度も語り続けなければならない。
子ども達の意欲に蓋をしない。
やりたいならどこまでもやればいい。
意欲のあるものはどこまでも突き進めばいい。
その子ども達がクラスを引っ張って行く。
口を開けていればエサを投げ込んでくれる。
そんな教育でいいわけがない。
与えられることに慣れてしまった子ども達が未来の何を創り出せるというのか?
習ったから学ぶのか?
習っていないから学ぶ必要がないのか?
そもそもなんのために学んでいるのか?
「学びの在り方」を語り続ける。
学びの主人公は常に自分自身。
kuro106ra「全員が」を使うべきか、いま悩んでいます。やはり、いつも求められるものでなければ、ですね。
全員が成長し続けられることが大事なのですね。
ghjal>質の下がった「全員」を達成した所でクラスの成長はない。
これはそうだと思います。「全員」と言わなくても、そう意識できるようになれば、この言葉はいらないと思います。第2ステージに立ちます。「自分はこうなりたい。」「自分はこう在りたい。」という気持ちを本当に耕していきたいです。
furu-tkuroさん
「全員」という言葉にとらわれすぎると、持続が危うくなります。
それを知っていて使うか否か?
ですよね。
ghjalさん
第2ステージに立つためには日々語るしかないですね。
共に耕していきましょう。
2012-04-28
■ [問い続ける力]だからこそ問う

自分はどんな人になりたいのか?
自分はどんな人生を歩みたいのか?
理想の自分になることで自分は周りの人をどのように変えていきたいのか?
小学生にそんなことを問うのは早すぎる?
私はそんなことはないと思う。
日々自分自身に問い続けていたって、「志」なんてなかなか定まらないもの。
何も考えずに日々を過ごしてそれが見つかるわけはない。
見つからない。だからこそ子ども達に問い続けるのだ。
「志」が定まらないことは罪なことではない。
「志」なんてどうでもいいと思っていることが罪なのだ。
「夢」「志」が定まるのはまだまだ先かもしれない。
だからこそ問い続ける。
本気で自分の「夢」「志」が定まった時に「力」がなかったらどうなる?
目先ではなく、子ども達の未来まで見通して子ども達を育て抜いているか?
「力」とはテストの点数なんかじゃない。
自分の考えを表現できる力。
自分の考えを伝える力。
自分を開いて人と繋がり合う力。
自分の可能性を信じて、外へと飛び出す力。
あきらめることなく学び続ける力。
これらの「力」こそ子ども達の武器となる。
「夢」「志」を自分のもとへ引き寄せる「力」を日々子ども達の心に刻んでいけるか?
「力」を刻むためには子ども達に問い続けるしかない。
どうして学校で学ぶのか?
どんな力をつけていけば理想の自分近づけるのか?
どんな勉強をしたいのか?
日々問い続ける。語り続ける。
それしかない。
成長は目には見えない。少しずつ。少しずつ。
目的は常に高く。しかし、常に子ども達の心に寄り添え。
甘くなるな。しかし優しくあれ。
2012-04-23
■ [通信]原稿用紙に見える成長

「先生!原稿用紙ください!」「先生!こっちもお願いします!」
そんな声が響く教室。国語の時間である。
本日の課題は教科書の物語「のどがかわいた」の「主題」を探ること。
国語は4月の一番初めの時間から、原稿用紙へのまとめを行ってきた。
初めは数行しか書くことができなかった子ども達。
しかし、最近の2組メンバーの成長は目覚ましいものがある。
30分ほど徹底的に話し合い、情報を共有し合った子ども達。
そして最後の15分。原稿用紙にまとめる時間だ。
スーッと静かになっていく教室。えんぴつが走る音だけが響き渡る。
残り5分。あちこちから呼ばれる。
「先生。2枚目ください。」「こっちもお願いします!」
クラスの半数以上が2枚目を手にする。
15分間、えんぴつが止まらない。よっぽどいい話し合いができたのだろう。
「ピピピピッ。」
タイマーがなる。子ども達は15分で書けた所にまで「15分」とメモをする。
これが子ども達の成長の証である。
数人の人は15分で原稿用紙2枚(800字)を書いている。すごい成長だ。
休み時間になっても止まらない。子ども達の「書きたい」という想いがあふれている。
ある子が私のところに来て言った。
「先生。もっともっと書きたいから原稿用紙をもらってもいいですか?」
もちろんOKだ。あとで提出されたその子の作品。なんと6枚(2400字)。驚きだ。
その子によるともっと書いている友達もいるとのこと。読むのが楽しみである。
違う子がつぶやいた。
「書くの楽しい。」
何気なく口から出たこの一言。私にとってこれ以上に嬉しい言葉はない。
「好きだ」と思えること。
「できる」と思えること。
「やってみたい」と思えること。
これは本当に大切なこと。
自分の足で歩み出した子は強い。
まだまだ伸びる。
自信を胸に刻んでいく。
tokucyoこんにちは。新しい学校にはもう慣れましたか?
それにしても、四月から全力で鍛えてますねぇ。
・「好きだ」と思えること。
・「できる」と思えること。
・「やってみたい」と思えること。
これは、我々にとっても大切なことですよね…と思いながら読みました。
授業の最後での「まとめ」は、こちらでもやっていますよ。
ラスト10分の集中した空気が心地いいです。
「もっとできる」という思いを、教師の期待ではなく、
自分たちのことととして生徒たちに共有させたいですね。
furu-tお久しぶりです。
4月から全力で鍛えています。伸びしろがたっぷり。
今後の成長が楽しみです。
今年のテーマは「書き抜く」こと。
すべての教科で貫いていきます。
そのために自己肯定感をさらに高めていきます。
ありがとうございます。
学び合いについて考えれば考えるほど、「よりまし」レベルではいけないと感じます。
最上を常に見つめる。しかし、足元を見つめ、少しずつ。
『学び合い』の考え方が受け入れられていくかどうかは、今の実践者がどれだけ最上を見つめていくかにかかっていると思います。
「目的」が見えるとぶれなくなります。
しかし、同時に苦しくなる。
この苦しみを原動力へと変えていける集団でありたいものですね。