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越後屋の『学び合い』帳

東京の高校教員(国語科)です。
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2016年04月26日(火)

弁当

| 20:07

委員会指導やら何やらで、昼休みに弁当をそびれてしまった。午前中もフルで授業だったのに、そのまま5校時に突入。

授業冒頭で、昼食抜きである旨を宣言。新しい単元に入ったのでプリントを配り、簡単な説明をして活動の時間へ。少なからぬ生徒が「先生、いま食べてくれば?」と言う。「どうせ何もしてないんだから」とまで言う生徒もいる。ご挨拶だなと思ったが、言っていることは正しい。さすがに揉めた時に言い訳のしようがないから教室にいたけれど、人として非常にシンプルなやり取りができて、嬉しかった。

授業は文章を書くトレーニングだったが、生徒に「とても書ききれません」と言われて、指定字数の設定を誤ったことに気づいた。指定した構成と内容に対して、指定字数が少なすぎたのだ。ちょっと考えればわかりそうなものだが、昨日の僕にはちょっと考える余裕もなかったのだ。

「あー、間違えたなぁ」と謝っていたところ、先ほどのご挨拶な生徒が「また間違えてる。前も間違えてたよね」と前の席の生徒に言っている。前の席の生徒も「これで学んで、次に間違えなけれけばいいよ」などと言っている。

いくら「学校は間違えるところだ」などと言ったところで、教師自身が間違いを怖れ、間違えるまいと虚勢を張っていたら、やはり「間違えてはいけないのだ」というメッセージとして生徒に受信されてしまう。だとすれば、僕の言動は非常に重要なモデルとして機能するのではないか。

せっかくなので、最後に全体に話して、5校時の授業は終わった。

2015年06月26日(金)

ついに職場で

| 00:02

SSH委員会で簡単な実践報告を行う。終了後、興味を持ってくれた先生が声をかけてくれた。「○○メソッドとは違うの?」とのことだが、そのなんとかメソッドを僕は知らなかった。聞き取れなかったくらいで、全くの初耳だった。「methodというよりbeingです」という言葉が咄嗟に口から出たのだが、それが腑に落ちたらしく、大きく頷いてくれた。

「学級経営と生活指導とキャリア教育を学習指導の中でやってる感じです」と補足すると、そばにいた研究部主任が「そうだよね。切り離せないよね。行事とか、何から何まで全部繋がってることになるよね」と言う。なんという理解だろうか。

それに対して「そうか、やっぱりあの〈一人も見捨てない〉というところなんだね」という会話が続く。

職場でこういう話をすることになるとは思わなかった。

研究部主任はさっそくご自身の授業で試したらしい。面白いもんだね、と言っていた。

2013年06月27日(木)

たわむれる

| 00:11

最近、学校で何をやっているのか。

そう問われたら、「生徒とたわむれている」と答えるしかありません。

真面目に働いているつもりです。手を抜いているわけではないし、生活指導は口うるさい方だと思っています。

それでも、たわむれているという感覚を強く感じています。

2013年03月08日(金)

『学び合い』という言葉を使わない『学び合い』の説明・例

| 00:36

要は「自己有用感・自己効力感・貢献感を持たせる授業をしましょう」ということです。生徒たち自身が「私たちならできる!」と心底思って、勉強するんです。当然、成績に反映されます。その延長で、「私たちはもっと良くなれる!」と心底思っているから、掃除も遅刻も良くなるのです。そういう状態に導いてやりたいのです。

そのためには、自分一人の利益よりも全体の利益を追求した方が効率的です。「私一人で何でもできる!」という全能感を持つのはちょっと危険だし、現実味はありません。でも集団で補い合った「私たちはできる!」なら、実現の可能性はずっと高まります。だから、生徒同士が折り合いをつける必要があります。折り合いをつけることが、自分を含めた全体の利益追求を実現させることになります。

ここで気をつけたいのは、

A「私たちならできる!」

A′「私一人でもできる!」

B「私一人で何でもできる!」

を区別するということです。結局最後は個人でしょ、と言われますが、それはおっしゃる通り「結局最後は」なんです。Bのような全能感が非現実である以上、A′に至るためにはAを経由するしかないんです。だからこれは、AとA′の関係なのです。ここを納得してもらう時には、相手によってアプローチを選ぶといいでしょう。理論派には、ヴィゴツキーや「正統的周辺参加」を、人情派には「先生だって新採の時から一人で何でもできたわけじゃないでしょ?」といったアプローチはいかがでしょうか。

生徒個人を見たら、「こいつは無理だよなあ」と思っちゃう子もいるでしょう。でも、そんな子にも「私だってできるんだ!」と思わせてあげたいじゃないですか。そう思わせて、世の中に送り出してやりたいじゃないですか。でも、その子個人じゃ無理なんです。無理な理由は、発達障害とか家庭環境とかいろいろありますが、とにかく個人じゃ無理なんです。そもそも、一般的な家庭で育った、特段の発達障害を抱えていない子であっても、Bは無理なんです。だから、まずAなんです。

最悪の最悪、A′に至らない子もいるかもしれません。でも、心底Aの実感を持てれば、「私たちはできる!」と思える「私たち」を得ていれば、その子は生きていけますよ。もっと言えば、不幸でなく生きていくことができます。

高校生が小中学生と違う点の一つに、「私たちはできる!」と無邪気に思えない、ということがあります。失敗体験の絶対量が多いし、失敗体験をすべて糧にできてきた訳でもありません。「私にはできないよ…」という負の学びも多いでしょう。そもそも、今の子どもは自信がないとさえ言われます。そこをほぐすために、「ほら、できるじゃん!」というステップを丁寧に作ってあげるといいでしょう。できると思わせたいのだから、それが実感できるしかけを作るのは合目的的ですよね。それは手段に過ぎないのだから、どんどんやればいいのです。でもそれ以上に、教師自身が心底「君たちはできる!」と思っていなければなりません。生徒自身に、心底そう思わせたいのだから。

e_chigoyae_chigoya2013/03/08 01:20『学び合い』という言葉と、「一人も見捨てない」という言葉を使わずに、『学び合い』を説明してみました。
「一人も見捨てない」と言うと、「私は今のままでも見捨ててないぞ」とか、「見捨てないの主語は教師なのか生徒なのか」とか、いろいろ面倒なので。

kuro106rakuro106ra2013/03/08 06:10すごく腑に落ちました。参考にさせていただきます!

kogame200777kogame2007772013/03/08 06:38うーん、なるほど。赤坂先生のアドラーの本でも、自分が集団の中で役立っているという実感、その一員である実感の大切さが書いてました。頭の中でバラバラだったものが少しつながった気がします。

e_chigoyae_chigoya2013/03/12 23:49kuroさん
ありがとうございます。僕も書きながら整理しています。

e_chigoyae_chigoya2013/03/12 23:50kogame200777さん
僕も最近、赤坂先生の本を読みました。影響されていると思います。

karakusa01karakusa012013/04/02 23:50<A「私たちならできる!」
すばらしいですね。今年度の我がクラスに活かしていきます。

e_chigoyae_chigoya2013/04/03 21:27karakusaさん
ご無沙汰しております。僕も挑戦です。お互い結果を出しましょう。

2012年10月24日(水)

中途半端なルール

| 00:07

教育的効果にはプラスとマイナスしかないと思っています。

プラスに作用するか、マイナスに作用するか。

ゼロということはないはずです。

中途半端なルールは、荒れや乱れの予防という観点からはマイナスでしかありません。

教育活動として機能していないルールが放置される状況は良くありません。

何かしらマイナスの影響を与えていると考えるべきですね。