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イルカたちの夢

 高知県の小学校教員です。 山間の学校の6年生を担任しています。 よろしくお願いいたします。
ご連絡はkochimana7☆gmail.comの☆を@(アットマーク)に直してお送りください(迷惑メール対策です)。

2016-12-28

居心地のよい組織と生産性② 10:15

生産性のことを問題にすると、比較的能力の劣る者が足を引っ張っているイメージがあり、その人達が居心地の悪い組織が想像される。

いや、比較的能力の優れた者も、いつ失敗して「無能」の烙印を押されるかびくびくし続けていることも考えられる。


生産性を個人レベルで、観点を限定して数値化して見ると、どうしても格差ができる。

が、先の「おふくろさん弁当」の会社は、そんな格差は給与とは直接連動していないようだ。

その人個人の生産性ではなく、その人の生活の状況から見て必要な分をもらえるらしい。

もちろん全体を見て限度はあるだろうが。


個人の存在価値は、数値化されないものもあるということを考えに入れている。

例えば、

「あの人、ちょっと仕事が遅いけど、いるだけでその場の雰囲気がとてもよくなって、なんか楽しく仕事ができるんだよね。」

という存在はたしかにいる。

そういえば、ある学校のある先生。

あまり仕事がてきぱきできる方ではなく、いわゆる「できる先生」達が集まる集団の中で、周囲の人にいつも「しょうがないなぁ。」という目で見られていた1人の先生が、転勤でいなくなったら、その「できる先生」の集団がぎくしゃくしだして、うまく回らなくなったという話を以前聞いたことがある。


個々の数値化できる生産性のみに厳密に目を注ぐことなく、様々な特性や状況の人にとって居心地がよい環境を創ることに努める方が、結局組織全体の生産性は上がっていくということだろうか。

2016-12-26

居心地のよい組織と生産性① 08:25

『本当にあった!こんな会社 規則も命令も上司も責任もない! 幸せを運ぶ会社 おふくろさん弁当』という本を読んだ。

面白い会社だ。

「責任もない」とあるが、責任はみんなで取るという感じ。

誰かの失敗を責める雰囲気なく、仲間として快く補い合う。

ちょうどけがをしたら、その部位を修復するために、体の他の部分が反応していって切り抜けるというイメージを持った。


他にも通常の会社ではあまり見られない、「それで、ホントに大丈夫なの?」と言われるような興味深い運営方法がいくつもあるが、実績もかなり高いのは、それが「大丈夫」だということを証明している。


私の中では、『学び合い』が根付いた教室や学校に近い感覚。

仲は良いが、お互いに気にかけ合うという感じで、ガチガチの一体感で縛られた感じではない。

居心地が良いのだ。


スタートは、

「何をやるかよりも、まずは何のためにやるのか、目的をはっきり知ろう」

と、時間をかけてとことん話し合ったそうだ。

その時、どんな業種にするかという話は一切出なかったらしい。

なるほど、本当に目的を重視していることが分かる。

だから、初めから弁当屋だったわけではないのだ。

自分達が目的を失わず、社員全員の幸せを大切にしつつ、人々の役に立てることは何かということで現在たどりついているのが弁当屋ということ。


興味深かったのは、運営につまずいたときのこと。

「何でも話し合って決めるのがいい」

と思っていつも話し合いの時間をしっかりとっていたのだが、どうやら、話し合いの時間を持てば持つほど「仲が悪くなる」という現象が起きてきたというのだ。

そして、だんだんとその話し合いの時間が憂鬱になり、半年くらいで毎日集まるのはやめにしたということ。

この部分は、

「えっ、そうなの?」

と思いつつ、

「なるほど、そうだろうな。」

とも思ったところ。


そこで、その会社はどうしたかというと、「人とはどういうものか」ということを、特に精神面において科学的に研究しているという「サイエンズ研究所」というところに相談に行き、事例提供もしながら意見交換や共同研究をしだしたということ。

特に「話し合えなくなる原因」については、創業当時から研究を重ねているらしい。

そこで研修をしていくわけだが、研修をする時間や費用も会社として保障するが、強制ではないというところもいい。


私は、この本を私自身が『学び合い』の実践をすることを想定しながら読んでいたので、自身が反省すべき点も含め、大変参考になることが多かった。



この会社は、強力なリーダーシップを発揮する人はおらず、社長や店長も、「社長係」「店長係」程度のものらしい。

確かに、そういった上下関係はない。


「ということは、『学び合い』をする時も、教師の存在はいらないということ?」

とも思ったが、やはりそうではないと思う。

会社を立ち上げるときに話し合った「目的」にあくまでもこだわり続け、それをあきらめず主張し続け、全員のものにしようとする存在はいつも必ずいるのだ。

それが、教室における教師の役割に当たるように思う。

そして、だんだん教師がいなくてもそれができるような集団になったとしたら、本当に、いわゆる役職としての教師はいらなくなると思う。


そういった社風によって、辞めずにずっと続けていられる人達がたくさんいる。

ただ、一方で、その社風と自分が求めているものが合わずに辞めていった人がいるというのも事実らしい。


教室でそれが起こってしまうのはつらい。

そのことは頭にとどめつつ、大いに参考にしたい本であった。


…ところで、やめていった人達は、その後、願っていたものや、自身の幸せは得られたのかなぁとも想像してしまう。

幸せで、選んだその道を進み続けるのかもしれない。

あるいは、また、この会社のようなところにもどってくるのかもしれない。

2016-12-20

どんどん 00:07

いままでの学習のまとめのプリントを渡すと、どんどん学び合いながらやっていく子たち。

冬休みに出す予定だった課題も、早めに渡すともうかなりやってしまっている。

休み時間になっても続きをやったり、やらなかったり。

私も、「教えないよ」とつっぱねたり、久しぶりにガンガン教えてみたり。

4年生が算数プリントをしている横で、3年生が嬉しそうに自作の物語の表紙の絵を描いて見せ合ったり。


ゆるい感じだけどハイペースというか、そんな学期末になっている。

2016-12-19

西川先生の講演の後、アドラー心理学会の講師の先生方が 19:48

昨日、アドラー心理学の高知の会に参加させていただいた。

その会の運営をしてくださっているOさんが、

「野田(俊作)先生、最近、講座を『学び合い』みたいにしよるらしいで。」

と教えてくださった。

ネット上の日記にあったということなのでのぞいてみると、次のようなものがあった。

引用させていただく。

*******


今日からアドラー心理学基礎講座理論編なのだが、やり方を全面的に変えることにした。ひとつは、『基本前提の歌』などのテキストを使うことにしたこと、ひとつは自習の時間を入れたことだ。先日、日本アドラー心理学会総会で、上越教育大学の西川純先生から『学び合い』という教育法を教えていただいた。「要するに自習授業です」とおっしゃっていたが、それが成立するためにはちゃんとした教科書の存在が前提になる。たまたま今回の理論編から、『基本前提の歌』などを教科書に使うことにしていたので、それだったら『学び合い』風の自習授業もできるよねと、やってみることにした。すべての時間を自習にすると「参加費を返せ」と言われそうだから、『基本前提の歌』を数節読んで、語句の説明程度の講義をして、それから小グループでの話し合いをして、それから質疑応答をして、追加の講義(だいたいは余談)をするという形にした。西川先生のオリジナルとは違っているけれど、まあ実験セッションなので許してください。今日の感触だと、評判はかなりいいんじゃないかな。しばらくこのやり方で行こうと思う。これに慣れておけば、私が年をとって講義ができなくなっても、別の講師がちゃんと引き継いで講義をすることができるしね。これで「令法久住」(教えをいつまでも伝える)という問題はほぼ解決した。


*******

京都でアドラー心理学基礎講座理論編がはじまった。福岡や東京と同じように、テキストと「学び合い」による新しいシステムを使っている。最初から質問が出るのが、このシステムのよいところだな。

*******



「令法久住」っていう言葉があるのか。


以前書いた仏教の「サンガ」のこととも、私の中では重なった。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/daitouiruka/20150429


新潟のアドラー心理学会で、西川先生が担当された時間に、学び合う時間をわりと長めにとられたので、そのことを野田先生がどのように受け止めておられるかと思っていたが、その後のご自身の講座の運営の参考にもされていたとは。

しかも、抱えていた問題の1つを「ほぼ解決した」と言われるほどに。



他の場所の講座でも取り入れて何度かなさっていて、受講者の評判も上々とのこと。



さらに、今回の高知の会の講師のとしておいでになっていた中島先生(新潟では西川先生に質問もなさっていた)に、

「新潟の西川先生の講演の後、大学の授業の方、どうですか?」

とお聞きすると、ご自身の担当されている大学の講義で、同様に学生同士の話し合いの時間をとったところ、とてもよい感触だったとのこと。


ちなみに、今日の会も、Oさんが自由に学び合う時間をかなり長くとってくださった。

やや体調が悪かったのだが、楽しく対話ができた。


野田先生ご自身も「西川先生のオリジナルとは違っているけれど」と書かれている通り、『学び合い』そのものではなく、「形」を取り入れていると言われるかもしれないけれど、もともとアドラー心理学は「協力」が根底にあるから、「みんな」が意識されて効果が得られるのだろうか。

iku-nakaiku-naka2016/12/19 20:52ご無沙汰しています。
今回の話題とは関係ないのですが、先週J大に伺った際にお子さんにお会いしました。親子2代での『学び合い』になりそうですね。素晴らしいと思います。

daitouirukadaitouiruka2016/12/20 05:55ありがとうございます。
授業についていろいろと相談できるのがうれしいです。
iku-nakaさんともお話できたのですね。
親子ともどもよろしくお願いします。
iku-nakaさんの研究に期待しております。

2016-12-18

武者修行 23:13

放課後、まだうちの学級の子ども達が数名残っている中、6年生のA君(昨年度担任していた)がうちの学級に来て、

「先生。このプリント、やってみてええ?」

と聞いてきた。

4年生の学期末のまとめの算数プリントだ。

余分があったので、

「ええよ。」

と言うと、喜んで解き始めた。


途中、

「解けん!」

と悩みだしたので、見てみると「6年生だから解けない問題」だった。


余りのある割り算の問題だったのが、4年生なので「あまりを出しましょう」の注釈がなかった。

だから、小数まで割り進んでいたのだ。


「な~んだ。」

と笑ってまた解き始めた。


1問だけ、問題をしっかり読んでなくて間違えたものがあったが、満足して帰って行った。


その話を職員室ですると、

「ああ、A君やったら、2年教室にも来て算数のプリントしよったで。」

とのこと。

いろいろ出没しているようだ。


A君は受け持ったとき、算数は基礎のところで「えっ?」というようなつまずきがよくあった。

でも、学級で『学び合い』をするなかで同級生と、そして、全校『学び合い』で上下級生とも、懸命に関わるうちに次第に理解が進んできた。


全校『学び合い』を続けてきて、「下級生の問題が解けないところを、下級生に見られたら恥ずかしい、隠すべきことだ」というのではなく、「解けなければそこで解けるようになればいいことだ」という感覚になっているのだろう。


子ども達には、

「上級生だから、下級生のものがみんなできるとは限らないよ。今学んでいる人の方がよくできて、学んでから時間が経っている人の方が忘れていることって普通にあるでしょ。上級生なのに分からないの?ってバカにする人がいいのか、分からないなら一緒に分かるようになろうと言える人がいいのか、分かってるよね。」

って言ってある。


「分からないことを見られるのは恥ずかしいことだ」というのがなくなれば(だから分かる努力もしなくて、分からないままでも平気というのではない)、今までに躓いてきたことを学び直すハードルもなくなり、挽回するチャンスはいくらでも増えるだろう。

この精神は、将来においても彼の生きる力になっていくはず。

2016-12-16

想像以上に 22:49

先日、校長先生が全校児童対象に人権の授業をしてくださった。

本校の校内研修は、校長先生も研究授業をすることになっている。


メインの活動として扱ったのは、先の記事でもふれた災害時の避難所運営のシュミレーションゲームだ(HUGの簡易版)。


全校でするのは、低学年には少し難しいかも…でも、上級生のサポートでなんとか理解できる範囲で参加できればいいだろうということで実施された。


実際にやってみると、私の想像よりずっときちんと話し合いがなされていた。


「この人、妊婦さんやけん、動きにくいやろし、トイレの近くにしちゃろうよ。」等、外国人、親とはぐれた幼い子、高齢者、…災害時にはますます困難を感じるであろう様々な立場の人のことを考えながら、どうすればよいのか、とても前向きにあれこれ意見を出している。


少し前に、4年生が耳の不自由な人のための工夫について調査したことを集会で発表したことや、全校で車いす体験もしていたこともあったからだろう、そんな方たちに配慮する言葉も多く聞かれる。


カードにある読めない漢字も人に聞きながらなんとか考えようとしている。

いつもやんちゃな子が、あれこれ柔軟な意見を出している。

それらをしっかり聞きとり、書いていく子がいる。

カードを並べるのに上級生が忙しそうにしていたら、中学年の子が「じゃ、ぼくが書いてええ?」と、進んで役をひきうけようとしている。


状況を見て自分のできることをそれぞれが考え動いている。

まさに、「1人も見捨てないために」なんとかしようと考えている。


それを見ていると、この子たちが大人になったときに、この地域に築いているコミュニティーの姿ってこんなのかもなー、と、未来像が重なるような気がした。


「校長先生。この子たち、思った以上に動けますね。今まで以上にいろんな可能性を感じて…びっくりです。」

と話しかけると(すでに普段の全校『学び合い』のような状態なので、気軽に「授業者」とも話せる:笑)、

「うん、でもこれは、普段から全校『学び合い』しよるおかげで。そうやなかったら、いきなり1年から6年まで集めてこの活動しよう思うても、こんなにしっかりやりとりするようなことはできんと思う。」

とおっしゃった。


授業終了後、各クラスに帰って、その授業の評価票を子ども達に提出してもらった。


A先生が、

「うちのクラスの子、ええこと書いちょるで。これなんか、先生(私のこと)が見たら喜ぶやろね。」

と言いながら1人の子の感想を見せてくださった。

そう言っているその先生も、とてもうれしそうだった。

見ると、一言感想の欄に、


災害から人を守るためには、みんなで協力しないといけない。

だから、これから、全校『学び合い』などでも目標達成するために協力したい。


と、書いてあった。


学び合い』のねらっていることが、他の様々なことにもつながっているのだということを感じ取ってくれていると思えて、A先生の予想通り、私は嬉しくなった。

2016-12-12

思いと実験結果と 13:07

「自由に試行錯誤させる教師」も、

「1つの方法に統一させる教師」も、

教師という職業を選んだ人なら、どちらも「1人も見捨てないために」という善意は同じだと思う。


ただ、「自明のこと」のように話されているのを聞くことがあるが、実験するまでは、どちらも仮説であることを忘れてはならない。


多くの実例から導かれた考え方であっても、少なくともその人にとって、本当にすとんと腑に落ちるのは、その考え方に基づいて、新たな事象にあてはめてみて、同様の結果が得られた時。

その時点で、初めてその人にとっての真実となる。


どんなに社会的地位がある人が言っても、

どんなにそれまでは間違っていなかった人が言っても、

または、それらとは真逆な人が言っても。

どんなに壮大で、容易には反論できない理屈をつけようとも、

実験結果が思うようになっていなければ、現時点でうまく理屈はつけられなくても、「少なくともその人が行った条件下では」その仮説は間違いであることは確かだ。

どの要素が良くて、どの要素が悪いのか、あるいは、全てがだめなのか…。


思うようにいかなかった場合、結果は謙虚に受け止め、それも大切な実験結果として、次の方針を考え実行していかなければならない。


今のところ、私が、私に与えられた条件下で実験を行ったところ、今まで私がしてきたことよりは、私の場合は、はるかに『学び合い』の考え方が効果的だと思っている。

2016-12-11

力量 06:37

内容がはるかに上を行っている実践をいくつも見る。

ああ、子ども達はそんなことまでできるようになるものなのか。


目の前の子ども達からは、いくらでも伸びる芽があることを感じる。

が、教師の力量でそれらを限定してしまっている。


生得的な資質は嘆いても仕方ないとして、見てきたこと、行動してきたこと、考えてきたことの差。

子ども達に申し訳ない。

また、私を見て「『学び合い』はこの程度のものか」と思ってしまわれた方達にも申し訳ない。

落ち込みもするが、その一方で、まだまだ進んで行ける思いでワクワクもする。


私は、一般的に言われる教師の力量としては全く普通…いや、抜け落ちていることが多いと思っている。

それが、『学び合い』に出会ってからは、それまでにはなかなか得られなかったものが得られるようになってきたと思う。

他の方にお話をさせていただくとき、そのことを前置きさせていただいている。

それは、私程度の力量のものでも、周囲の方々に支えてもらいつつ、改善が見られたという実例として知ってほしいから。


学び合い』の良いところは、もともとの力量がそれほどない人でも、また、様々な事情により、たくさんの時間をかけて準備ができない人でも、セオリーを守れば一定の成果をあげることができること。

かつ、力量のある人が実践すればさらにすごいことが起こせてしまうこと。


これからも、心や体を病むような方向の努力だけはしないように心掛けながら、進んで行く。

2016-12-10

違う 08:08

声を荒げてしまった。

おそらく、私の思いではなく、ただの怒りが伝わってしまっている。

自分が目指している自分の在り方と違う。

落ち込む。


ちょっとしたことと言えば、ちょっとしたことなのだが、その子のよさを隠してしまっている根っこにつながることを繰り返したから。

周囲の人達のサポートに対して、仇で返すような行為。



…あれこれ理由をつけても、その子に伝わらない表現を選んでしまったのなら、それはただの自己満足に過ぎない。

そんなこと、随分前から分かっているつもりになっているけれど、本物になっていないから、メッキが剥がれてしまう。



その後、また私に笑いかけてくれるその子を見るとますます自分の小ささがいやになる。



基本からやり直し。

2016-12-08

全体を見て自分はどう動くか考える 06:55

本日も本校の全校算数に外部からの参加者。


教員ではない方達。


終盤になっても5年生のかなりの子が未達成の状態。

中学年の子達はほとんど終わっている。

時間が無駄にならないように、同学年や下学年どうしで問題を作って出し合っている。

5年生は終わりそうにない。


その時、1人の3年生が、ずっと学び合っている6年生と1年生のところに行って、6年生に、

「ぼくが(1年生を)みるけん、○○ちゃん(5年生)のとこに行っちゃって。」

と促した。


この3年生は、とてもやんちゃで、周囲に気を配るのは苦手な子だった。

その子が、上級生にそんな提案をするようになってきた。

うるっとくる。


他にも、他学年の課題を確認しながら懸命に関わる姿が、普段に増して多くの子達に見られた。

目に見える成長があり、他の先生方とも喜び合った。



大満足だった。



その後、見に来てくださっていた方の質問にお応えする時間があった。

懸命にお話させていただくのだが、お話させていただいた後は、毎回本気で落ち込む。

あまりの話の下手さに。

準備していたつもりでも、いつもうまくまとまらなくなってしまう。

子ども達のいい姿を見ていただいた後だけに、来ていただいた方達にも、子ども達にも本当に申し訳ない。

子ども達に負けんよう、もっとがんばらんといかんな。

2016-12-05

出張の先生の補充に入った校長先生 06:33

校長先生のことが続くが…(笑)。


昨年度私が担任し、今年度は別の先生が担任しているクラスに補充に入られたときのこと。


現担任の先生は、

「出張があっても、課題を伝えておくと、自分達でしっかり進められるように今までにしてくれているので助かります。」

と言ってくださっている。


現担任の先生は、がっつり『学び合い』をしているというわけではなく、私のしていたことをそのまましているのではない。

良い面を大切に受け継いでくださりながら、その先生の持ち味や力を生かして、私がつけることができていなかった力をぐんぐんと伸ばしていってくださっている。

ただし、「1人も見捨てない」という点においてはしっかり共有できているので、様々な成長を共に喜びあうことができる。


小規模校は、校務分掌が重なってしまい、出張も多くなるので自分達で学習できる力がますます必要になる(今回は校長先生が入ることができたが、出張した人が重なると補充も難しくなる)。


校長先生が5限目に様子を見に行ったときのこと。

終了近くなったとき、

「校長先生、休み時間も通してやっていいですか?」

と言ってきたそうだ。


1人の子が課題が終わりそうになかったので、自主的に申し出てきたそうだ。

時間の管理も自分達の責任でしている。


放課後になって校長先生が見に行ったときも、時々交代しながらその子がわかるように関わっていたとのこと。


その子の帰りのスクールバスの時間も気にしてあげながら。


残念ながらバスの時間に間に合わず、家で続きをすることになったようだが、ぎりぎりまであきらめずに関わっていたそうだ。

校長先生が、そんなことをうれしそうに話してくださるのが、なんともうれしい。


担任がいないときの姿から、本当に身についた力が見えてくる。

個人も集団もいい方向で成長していってくれている。

munehiromunehiro2016/12/05 18:29いい仕事されてますね

daitouirukadaitouiruka2016/12/07 05:19同僚の方々に、本当に支えられているという実感があります。
いい職場です。

2016-12-03

校長先生からの報告 10:50

「主体的」とか、「対話のある」とか、「協働」とか、「学力向上」とか、…様々なテーマが掲げられている他校の研究発表や、研修会などの会に参加されて帰校してからの報告。


決まって、

「うん、うちは『学び合い』でそれができちょる。やっぱり、ええ。」

とのこと。


学校のスローガンに、

「一人も見捨てず、最後まで」

という言葉を掲げて、全学級に掲示してくださっている。


先日の県教委とのお話の中で、来年度の学校経営方針を問われた際、

「来年度も、本校は、一人も見捨てず最後までを方針とします。」

と明確に告げてきたと報告してくださった。


それが単なるお題目に終わらず、子ども達の実際の姿に反映されてきていることも、折に触れてうれしそうに話してくださる。


先日、人権標語を子ども達が考えているとき、教室の掲示物を見て、一人の子が、

「スローガン ひとりもみすてず さいごまで」

と、そのまま読んで、

「お、五七五になっちょる!」

と喜んだ。

すると、他の子も、

「ほんまや。それ、ええ!」


盗作は却下(笑)…でも、ふと子ども達の口からその言葉が出る、そして実際にそれに価値を置き行動しているのを見ていられるのが嬉しい。