Hatena::Groupmanabiai

イルカたちの夢

 高知県の小学校教員です。 山間の学校の6年生を担任しています。 よろしくお願いいたします。
ご連絡はkochimana7☆gmail.comの☆を@(アットマーク)に直してお送りください(迷惑メール対策です)。

2016-08-16

お伝えした(つもりの)こと⑦ 続々々 教師の仕事は?「子ども達の考えを教師が把握し、繋げるべきではないか?」 14:34

続き。

子ども達の考え」

について。


子ども達に自由に話させると、よい考えが全体のものにならなくて埋もれてしまう」

と言われる。

「よい考えは、よく分かっている教師が見つけてあげて全体のものにしてあげなければならない」

と。


ここでさらに、

「よい考え」

という言葉について考えてみる。


まず、「よい考え」というのが「高度な考え」という意味なら…。

ある子のその「高度な考え」を教師が拾う。

それが分かる子に教師が繋げ…。

と、教師の力量によってうまく繋がっていって全体のものになることもあるのかもしれない。

でも、私は、より深く理解しようと思えば個々に幾度も対話を重ねていくことが大事だと思っている。

子ども達の主体性を育てるためにも。

また、高度な考えであれば、しっかり聞いているようでいて実はそこについていけてない子ども達が何人もいるのではないかという心配が私にはどうしてもぬぐいきれない。

子ども達に自由に話させたとき、高度な意見が全く埋もれてしまうものでもない。

それが理解できる子に子ども達の力で繋げ、その子の言葉を理解できる次の子に繋げ…という活動の機会を保障したい。

もちろん、埋もれたままになる可能性はある。

でも、教師が拾えていない可能性とではどちらが多いのだろう?



または、「よい考え」というのが「みんなにとって有益な考え」という意味なら…。

それならば、もしそれが個人や一部の子の中に埋もれてしまっていたのなら、

「なぜそんなに有益な考えがみんなのものにならなかったのだろう?」

と、子ども達の繋がり方を再考するよい材料になり、次へのステップにすることができるだろう。



または、「よい考え」というのを「誰にとって?」という視点から見てみれば…。

それこそ、個々によって違うだろう。

それは「高度な考え」ではなく、もっと「低次元の考え(疑問や勘違いも含めて)」かもしれない。

例えば、既習のことについて「この字、なんて読むんだっけ?」「半径ってどこだっけ?」「センチメートルってどう書くんだっけ?」…等々。

だが、それは高度ではないかもしれないが、個々にとって最も「よい(有用な)」考えだ。


「みんな」に最低限の理解を保障することを大切にするならば、むしろそんな「低次元」の対話を無数に重ねる自由のある場を保障するべきではないか。

それは、決して「高度」な対話をしたい子の活動を止めることにはならないと思う。

お伝えした(つもりの)こと⑥ 続々 教師の仕事は?「子ども達の考えを教師が把握し、繋げるべきではないか?」 12:43

子ども達の考えを教師が把握し、繋げるべきではないか?」

ということを言われる。


この言葉についても考えてみる。

まず、

「教師が把握し」

について。

・「教師一人で」把握しきれる?

・それは「正確」?

・それは「全員」?

・それは「どの時点」での考え?

・より多くの考えが「発現する可能性」は、教師がピックアップした意見を繋げていくのと、自由相手を選びながら対話していくのとではどちらが大きい?

…等々の疑問がわいてくる。

これらのことは、膨大なデータで裏付けられている。

教師がよかれと思ってあれこれしたことが、むしろ邪魔になっているということが。

いや、できる人もおられるだろうが、それはごく限られた方達だろう。

少なくとも私があと数年の教師生活で身に付けるのは難しそうだ。


次に、

「繋げるべき」

について。

子ども達自身で「繋がる」力の育成は?

・教師の「繋げ方」は適切?

…等々の疑問がわいてくる。

将来にわたって使える力を養うには自分で繋がる機会を多く保障した方がよいと思う。

子ども達同士の繋がり方がまずい場合ももちろんたくさんあるだろう。

だが、それを改善する主体は「子ども達」になってくる。


一方、教師がまずい繋げ方をしたとき、改善する主体は「教師」になってくるだろう。


この違いは、子ども達の今後の生き方に関わることだと思う。

お伝えした(つもりの)こと⑤ 続 教師の仕事は?「教師が教えるべきことがあるのではないか?」 11:39

「教師が教えるべきことがあるのではないか?」

ということを言われる。


この言葉について考えてみる。

「教えるべきことがある」

については同意する。

学習指導要領があり、私達はそこにあることを子ども達が修めることができるように雇われている。


しかし、「教師が」という部分については、疑問がある。

・教師「だけ」からしか学べないのか?

・教師が「最良」なのか?

・教師が「全員に」教えられるのか?

・「子ども同士」が学び合うことでつかめることのメリットはどうするのか?

…等々の疑問がわいてくる。


実際そのような質問をしてくださった方に、

「具体的に、どの教科のどのような内容のことが教師でないと教えられないと思われますか?」

と問うてみたことがあるが、具体的には出されなかった。


教科書に書いてあることや、(必要なら)用意した資料に書いてあることを読めば理解できる子がいて、そのことをその子が他の子に説明して…ということで十分ではないか?

それでも子ども達の誰一人理解できないという事態が起こったなら、課題なり資料なりを検討したり、状況によっては教師が解説したり(それを理解した子が他の子に伝えていく)ということもあるかもしれない。

いずれにせよ、初めから「教師が教えるべきことがある」と思って授業を組み立てるのと、「本来自分達で学び合っていけば教師が教えなくてもよいはずだ」と思って授業を組み立てるのでは結果が違ってくるように思う。

今、目の前の子ども達が本来どこまでできるのかが見えてくるのは、まずは任せてみてからのことではないか。


私は、そのようにしだしてから、「こんなこともできるのか」と、思っていた以上に子ども達ができることに驚かされてきた。

また逆に「ああ、こんなところでつまずいているのか!」と、私が思いもよらなかった実態が見えてきた。

だから、次に取り組んでいきたい課題も見えやすくなった。

お伝えした(つもりの)こと➃ 教師の仕事は? 10:58

この疑問が出されていた。

授業の様子を見ていると、何もしていないように見えるとのこと。

きちんとした先生にとっては「仕事の放棄」のように見えて罪悪感を抱くのかもしれない。


教師の仕事はある。

あるが、「自立した学習者」を育てるためには、あくまでも「必要としなくなる」ことをめざしていかなければならないと思う。

そして、これは、子育てと同じと思っている。

「必要としなくなる」というのは、「関係を絶つ」という意味ではない。

また、「学ばなくてもよくなる」という意味でもない。

学習者が自らの課題の解決に向かって必要な情報(物・人…)を探し、選択し、活用しながら自立して学び続けられるようにしていくことが教師の大切な仕事だと思う。



教師の仕事は、「教える」ことというよりも「できるようにすること(課題を達成させること)」だろう。

「教える」のはあくまでも「手段」の1つであって、「できるようにすること」が「目的」(まあ、もっと上に「人格の完成をめざす」という目的があるが)。


「教えない」という手段をとった方が、自分で調べたり、学び合ったり、…と、様々なことが「できるようになる」のなら、私なら迷わずそちらをとりたい。


だから、教師は、「教える」というより、「学ばせる(それを援助・促進する。邪魔しない。)」という意識で接している。

FlipperKFlipperK2016/08/18 18:20 まぁ、結局は教師側がどうとらえるかなのかな、と思います。繋げることも教えることも。
繋げることについては、大半が可視化ですむ場合だと思いはするのですけどね。子どもの動きの(イコール情報の広がりの)流動性の高い集団であればあるほど「よい情報」は広がっていくでしょうし…。よい情報が広がっても、必要感がなければ入っていかないのは、発信元が教師でも子どもでも同じでしょう。情報の受けては、教師だからとりわけ聞いてくれるわけではないでしょうしね。
 だから、結局授業者がどうとらえるかなんでしょうね。
 私は、「教えたい、教えるべき」と思ったら、教えればいいじゃん、と思う方です。授業者がそれで納得できるのなら。です。

daitouirukadaitouiruka2016/08/19 02:56FlipperKさん、ありがとうございます。
私もそうです。
『学び合い』を知る以前との違いは何かと考えてみると、それを選択するかどうかを決めるのが教師であると思っていたのが、子どもに移ったということだろうと思います。
教える(というか伝えるという感覚かな?)ときも、
「先生が伝えるのは、あくまでも選択肢の1つとしてとらえてね」という姿勢。
「教えたい、教えるべき」と思うことがあれば、私も「ちょっと言わせて」と言うこともあります。
特に他の人に『学び合い』について伝えるときも、「がまんし過ぎて精神衛生上悪いと思ったら教えてください」と言っています。
いらいらして別のところに弊害が出るといけませんからね(笑)。

まあ、「教えたい、教えるべき」と思うものがあれば、たいていはあらかじめ課題の中や資料のプリントに入れるようにしています。
どのタイミングでそれが必要か個々でちがいますから。
ただ、「教えたい、教えるべき」と思ったとき、以前より、「本当に?」とか、「教師じゃなくちゃできない?」と立ち止まるようになりました。
そして、教えた後も、「教えたから正確に伝わっているとは限らない」と以前以上に思うようになりました。