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イルカたちの夢

 高知県の小学校教員です。 山間の学校の6年生を担任しています。 よろしくお願いいたします。
ご連絡はkochimana7☆gmail.comの☆を@(アットマーク)に直してお送りください(迷惑メール対策です)。

2016-08-31

社会に出てからも使える力を ありがたいモニター 12:25

先日、知人で、ある会社のチーフ的な存在の方とお話をした。


家族や同僚・部下との付き合い方についてよく相談される。

「時間を取らせて申し訳ない」と言われるが、私としてはとてもありがたい。


学校で私達が指導していることが、他の社会でも役立つのか知るためのよい判断材料の1つになるから。

それに、私の全く知らない業種の事情も教えてもらえるから。


学び合い』の考え方や心理学その他諸々で学んだことで、自分が活用して手ごたえのあったものをヒントに代替案を一緒に考えていく。

これは、わりとワクワクする。


前回、同年代の部下とうまくコミュニケーションがとれないということでお話したことを実際試してみたら、すぐ関係改善がなされ、協力してくれるようになったとのこと。

他の同僚から見ても「とても良くなったね」と言われるほどに。


そういうのを聞くと、とてもうれしい。

「うん。今やっていることって、汎用性が高いことなんだな。」

と確認できる。


あれこれ話し合い、あれこれ代替案を考えるが、結局どれを採用するかはその人次第。

今回も、感謝されたが、どの案が奏功したのか分からない。

あれこれ話したので、どんなこと言ったかも実は全部はよく覚えてない(笑)。

「え~と、ぼく、なんて言ったっけ?」

と、確認してみると、子どもに事情を聞いたり、「作文指導」の時に使ったりしている方法(笑)。


「仕事に積極的ではないので、業務レポートを書かせてみたが、抽象的で中身が分からないことをほんのちょっと書くだけしかしてくれなくて困っている。」

とのことだったので、

「ああ、書くのが嫌いな子どもの初めの作文もそんなもんです。いっぱいいます。まず、ちょっとでも書いたことを前向きに喜ぶ。それから、具体的に丁寧に考えていることを聴いていくといいかもしれませんよ。」

というお話をしていた。

今回の場合、目的は、「上手な作文を書くこと」ではなくて、「部下のことをよく知ること」だから。


その際、

「あなたのことを詳しく知りたい」

「いい関係を築いて一緒にいい仕事をしたい」

という態度をはっきりと相手に伝わるように表す。

そして、納得解をともに見つけていくようにする。

こんなことも付け加えておいた。


それが、なんかよかったらしい。

実はあれこれ考えてくれていることがわかったそうだ。



その人のお話によると、社会に出たら、特に一般企業なら、きちんと仕事をしなければすぐクビ…なんてことは、実はそんなに簡単な話ではないらしい。

役所に訴え出られるというのだ。


「簡単でない」ことは大切なことで、部下からすれば、「ブラック」から身を守ってくれる大切なもの。

これは分かる。


が、上司からすると、その人のせいで仕事が滞り、周囲がその埋め合わせをするということにほとほとうんざりするということもあるらしい。


また、会社に何度も親が来て、我が子の様子を見たり、我が子が言えないことを代弁をするなんていうことも実際あるらしい…どこかで聞いた特別な話じゃないんだ…orz


こちらが悪くないと思える時でも、訴えられると、それを証明するために膨大な時間と労力がさかれ、業務にさらに大きな支障をきたすようになるらしい。


まあ、それぞれに、それぞれの言い分があるのだろう。

「事実」がどうなのかは、私に知ることはできないし、知ったところで何かできる立場でなない。

その「知人のとらえている事実」をもとに、考え方や行動について一緒に考えていく。


個人の能力そのものの問題もあるかもしれない。

が、かなりの問題が、考え方やコミュニケーションの取り方、システムの改善で解決するもののような気もする。

今回の場合もそうだった。


「無能」の烙印を押されたことがある人が、職場やメンバーが変わることによって「有能」になることは、ドラマの世界だけでなく実際によくあること。


その仕事内容特有の能力とは別に、様々な能力(無い能力については借りられる能力)を身につけていないと、社会の中での仕事は成り立たないことを痛感する。

それは、研究や職人の世界であってもそうだと聞く。


上司も、部下も社会に出た後でそういった苦労をしなくて済む教育をしていかなければ、それぞれが不幸になる。


「そんなことを大切に考えて『学び合い』という考えに基づいて、繰り返し、繰り返し、授業だけでなく、いつの時間も教育をしよるんですよ。」

と、その知人には言っている。

すると、

「それ、ほんま大事。ぜひそういう教育広めて!」

と、いつも強く押されている。


学校関係以外にも自分のしていることのモニターがいてくれるのはありがたい。

ogymogym2016/10/08 13:37読んで救われました^^ ありがとうございます。

daitouirukadaitouiruka2016/10/08 15:49人間関係は厄介なことも多いですよね。
だからこそ、うまくいくようになったときの喜びも大きいのでしょうね。
新潟の某会では、もしかしてお会いできるかとも思っていたのですが、おいでになられないようですね。
私は一部参加です。
またお会いしたいです。

2016-08-29

何のための統一? 17:56

子ども達の自主性を育てるために指導方法を統一する。

子ども達の主体性を育てるために指導方法を統一する。

子ども達の創造性を育てるために指導方法を統一する。

子ども達の…


子ども達も教師たちも全員が心から納得いっていたらその「方法」も効果があるかもしれない。

が、そうでない場合、教師自身の「自主性」も「主体性」も「創造性」も…脇に置かなければならなくなる。

そんな風に各人の「思考」も「試行」も停止させた状態で本当にそんな子ども達が育つのだろうか?


実証的なデータもないまま、必然性もよくわからないまま、子ども達の納得もないまま、教室の中で様々なことが統一されていることがよくあるのではないか。

「方法」を統一することで、何かおそろいのユニホームを着たかのような「一体感」を生む効果もねらっているのかな?

まあ、そういうこともあるのかも知れない。

でも、「一体感」より「束縛感」も生み出しやすそう。


が、『学び合い』などで「方法」を各自に任せた場合、クラスの一体感がなくなるかというと、むしろそれまでよりも増すという実感が私にはある(いや、子ども達へのアンケートにもはっきり表れている)。

職場もしかり。

居心地のよさ、安心感が生まれるからかもしれない。


誰かに統一されたことをするだけなら、他者への意識などなくてもできる。

いや、「あいつだけやってない。ずるい。」というような他者へのマイナス感情の意識はガンガン向けられたりする。


もちろん、何もかもバラバラでは組織は成り立たない。

「目的」や「目標」は十分話し合い統一していく。

「方法」についても、選択の自由な「情報提供」は積極的にしあうとよい。

また、「一定期間とりあえず統一してみて効果を検証しましょう」という条件つきなら折り合いをつけて試行していけばいい。


いつの間にか、「~ために」という「目的」の方よりも、「統一」するという「手段」の方が優先されているのをよく見かける。

そして、効果が出ない場合、「努力が足りないから」という理由づけのもと「さらなる努力」を求められる。

手足を縛っておいて、要求した効果をあげろと言われている感じ。



「統一した方がいいに決まっている」という大前提があるのだろう。


そこからまず疑ってみることも大事じゃないか?

子ども達に「クリティカルシンキング」の力をつけるために。

まず教師から。


あ、ちなみに、うちの職場の愚痴ではありません(笑)。

その点、とても快適です。

2016-08-27

「自力解決」って 03:40

この言葉、人によって違った意味付けがなされているように思う。

私としては「1人だけで考える」のと「自力解決」というのはイクオールではないイメージがある。


きちんと学んだわけでもなく、よく分からないので、とりあえずネットの授業関係の記事を見てみたら、必ずしも誰とも会話しないという意味ではないように書いているものがあった。

「メタ認知的支援」なら「自力解決」に含まれるとか。


学校という枠をとっぱらって考えたとき、社会生活をする中で自分の課題にあたるときに「自力解決できた」というのは、どんな場合を指すのだろう?

誰にも少しも相談しないこと?

書籍やインターネットは他者の力を借りていることになるよね?

自分の頭の中だけって言っても、それ以前に誰かからいただいた考え方や知識・ヒントを活用することになるのでは?

…などと、あれこれ考えているうちに、「自力」か「他力」かの境目も分からなくなってきて、そもそも分けることに意味があるのか?と思えてきた。

「自力」か「他力」かということと、課題解決した結果のクオリティは別物だし。


そんな境目のよく分からないものを、時間配分することはさらに困難になる。

授業の場合、設定された「自力解決」の時間に子どもどうしで「メタ認知的支援」をしていると、ついつい「練り上げ」という活動の範囲に入ってしまったら(これも線引きが難しそう)、そこでストップしておかなければならないのだろうか?

「自力解決」や「練り上げ」と言われるものは、実際の問題解決場面では線引きや時間配分関係なしに混在しているもので、初めから全員一律に決められないものではないだろうか?

大きな組織などの場合、スケジュールの関係もあって大枠では個別と全体の時間を設けなければならないこともあるかもしれないが、その場合でもミクロで見ればそれらは混在しているだろう。


そういった線引きをどこにするかを考えたり、時間を思うように配分できなかったりすることに悩むくらいなら、はじめから各自の責任において自由に交流した方が結局合理的だと思う。



「1人でできる力」をつける必要はないと言っているのではない。

何らかの状況で、本当に誰にも頼れない事態になったときは、当然「1人でできる力」が必要だ。

ただ、その「1人でできる力」をつけるために、まずは借りられるときに他者の力を借りることもできる。


「問題解決能力」というのは「1人でできる力」と「他者と協力できる力」を総合したものだろうと思う。

「1人でしかできない」とか「他者がいないとできない」ではなく、「1人でも、他者とでもできる」。


教育界の研究の用語にあっているかどうかを考えず、自分のイメージとして「自力解決できた」というのは、「1人だけで解決できた」というより、とにかく人であれ物であれ、活用できるリソースを最大限に活用して「自分の責任において解決できた」という感じだ。

「自分の責任において」というのは、それが自分の課題であれば、借りた力が不十分であったり、もらった情報が正しくなかったとしても相手のせいにせず結果を引き受けるということ。


ふと、

会社の先輩「1人でできたじゃないか!」

新入社員「いえ、先輩方のアドバイスのおかげッスよ!」

という、ありがちなドラマのシーンが浮かんできてしまったが…(笑)。


「自己責任解決」とか「自立解決」の方が自分の感覚的にはぴったりくるかも。

その中には、授業で言う「練り上げ」にあたるものも含めて。



とは言え、自分も含め、誰もがそんな力を全ての分野において十分に持つことは難しい。

だから、不足しているところは互いに支え合おうとする心も同時に育てたい。

motoryoumotoryou2016/08/28 08:22>「1人だけで解決できた」というより、とにかく人であれ物であれ、活用できるリソースを最大限に活用して「自分の責任において解決できた」という感じだ。

自分の責任において,というのがまさにだなあ,と思いました。

daitouirukadaitouiruka2016/08/28 12:44motoryouさん、ありがとうござます。
自分の責任を自覚できるようにするためには、自由さを保障しなければならないと思います。
『学び合い』の考え方に自分は賛同しています。
でも、それを他者に押しつけたらアウトだと思います。
子どもであれ、大人であれ。
また、「方法」についても、いくらよかれと思っても押しつけたらアウトだと思います(即座に命などに関わる重要なことは別)。
どちらも「自分の責任において」解決しなくなってしまうから。

2016-08-18

さて、宮城のフォーラムへ 04:06

学べること、出会えること、牛タン、いろいろ楽しみ!

ちなみに、今から出発の準備。

相変わらず遅い(苦笑)。

お伝えした(つもりの)こと⑧ 「1人で学ぶ力がつかないのではないか?」 03:58

これもよく言われることだ。


「1人で学ぶ力」をつけるために、

「毎回、一定の時間を1人で考える時間を設定する」

という活動を取り入れているのが一般的に見られる。

だがこれはあくまでも「手段」の1つだ。

それで1人で考えられるようになる子もいるだろう。


だが、その時間を全員に一律に与えると、個々に見れば長すぎたり、短すぎたり、…もしかすると誰1人ちょうどではない可能性もある。

とっくに分かっていて退屈している子もいれば、取り付く島もなくて考えるふりを強いられている子もいるのではないか?

また、授業に参加するという入り口にさえ立っていない子もいる場合もある。


「目的」が「1人で学ぶ力をつける」であれば、「毎回、一定の時間を1人で考える時間を設定する」以外の「手段」もあっていい。

その選択肢の1つが「みんなが理解するために自由に動く」というもの。


その時、ただ一方的に教えるのではなく、「相手の理解度を確認しながら対話している」姿を可視化したり、既習のページにもどって確認する(このような、ある子にとっては当たり前のことをしていない子もいる)などの「学び方について伝えている」姿を可視化したりしていく。

「次から1人でできることが増えるようにするにはどうしたらいいか考えながら関わり合ってね。」

などと言いながら。


すると、「多様な知識や学び方」が身についていく。


すると、自分の頭の中で多様な知識と考え方とを使って「1人で対話する」ことができるようになる。

これが「1人で考える力」ではないだろうか?


万人にとって、どの「手段」がよいとは言えない。

が、『学び合い』なら、1人でも、複数でも考える時間が主体的に選べる。

少なくとも私の担当したクラスの場合は、この方が1人で学ぶ力が伸びてきたという実感がある。




いずれにせよ、「1人で考える力」がついたからと言って、「他者と考える」ことが不必要になるということはない。

2016-08-16

お伝えした(つもりの)こと⑦ 続々々 教師の仕事は?「子ども達の考えを教師が把握し、繋げるべきではないか?」 14:34

続き。

「子ども達の考え」

について。


「子ども達に自由に話させると、よい考えが全体のものにならなくて埋もれてしまう」

と言われる。

「よい考えは、よく分かっている教師が見つけてあげて全体のものにしてあげなければならない」

と。


ここでさらに、

「よい考え」

という言葉について考えてみる。


まず、「よい考え」というのが「高度な考え」という意味なら…。

ある子のその「高度な考え」を教師が拾う。

それが分かる子に教師が繋げ…。

と、教師の力量によってうまく繋がっていって全体のものになることもあるのかもしれない。

でも、私は、より深く理解しようと思えば個々に幾度も対話を重ねていくことが大事だと思っている。

子ども達の主体性を育てるためにも。

また、高度な考えであれば、しっかり聞いているようでいて実はそこについていけてない子ども達が何人もいるのではないかという心配が私にはどうしてもぬぐいきれない。

子ども達に自由に話させたとき、高度な意見が全く埋もれてしまうものでもない。

それが理解できる子に子ども達の力で繋げ、その子の言葉を理解できる次の子に繋げ…という活動の機会を保障したい。

もちろん、埋もれたままになる可能性はある。

でも、教師が拾えていない可能性とではどちらが多いのだろう?



または、「よい考え」というのが「みんなにとって有益な考え」という意味なら…。

それならば、もしそれが個人や一部の子の中に埋もれてしまっていたのなら、

「なぜそんなに有益な考えがみんなのものにならなかったのだろう?」

と、子ども達の繋がり方を再考するよい材料になり、次へのステップにすることができるだろう。



または、「よい考え」というのを「誰にとって?」という視点から見てみれば…。

それこそ、個々によって違うだろう。

それは「高度な考え」ではなく、もっと「低次元の考え(疑問や勘違いも含めて)」かもしれない。

例えば、既習のことについて「この字、なんて読むんだっけ?」「半径ってどこだっけ?」「センチメートルってどう書くんだっけ?」…等々。

だが、それは高度ではないかもしれないが、個々にとって最も「よい(有用な)」考えだ。


「みんな」に最低限の理解を保障することを大切にするならば、むしろそんな「低次元」の対話を無数に重ねる自由のある場を保障するべきではないか。

それは、決して「高度」な対話をしたい子の活動を止めることにはならないと思う。

お伝えした(つもりの)こと⑥ 続々 教師の仕事は?「子ども達の考えを教師が把握し、繋げるべきではないか?」 12:43

「子ども達の考えを教師が把握し、繋げるべきではないか?」

ということを言われる。


この言葉についても考えてみる。

まず、

「教師が把握し」

について。

・「教師一人で」把握しきれる?

・それは「正確」?

・それは「全員」?

・それは「どの時点」での考え?

・より多くの考えが「発現する可能性」は、教師がピックアップした意見を繋げていくのと、自由に相手を選びながら対話していくのとではどちらが大きい?

…等々の疑問がわいてくる。

これらのことは、膨大なデータで裏付けられている。

教師がよかれと思ってあれこれしたことが、むしろ邪魔になっているということが。

いや、できる人もおられるだろうが、それはごく限られた方達だろう。

少なくとも私があと数年の教師生活で身に付けるのは難しそうだ。


次に、

「繋げるべき」

について。

・子ども達自身で「繋がる」力の育成は?

・教師の「繋げ方」は適切?

…等々の疑問がわいてくる。

将来にわたって使える力を養うには自分で繋がる機会を多く保障した方がよいと思う。

子ども達同士の繋がり方がまずい場合ももちろんたくさんあるだろう。

だが、それを改善する主体は「子ども達」になってくる。


一方、教師がまずい繋げ方をしたとき、改善する主体は「教師」になってくるだろう。


この違いは、子ども達の今後の生き方に関わることだと思う。

お伝えした(つもりの)こと⑤ 続 教師の仕事は?「教師が教えるべきことがあるのではないか?」 11:39

「教師が教えるべきことがあるのではないか?」

ということを言われる。


この言葉について考えてみる。

「教えるべきことがある」

については同意する。

学習指導要領があり、私達はそこにあることを子ども達が修めることができるように雇われている。


しかし、「教師が」という部分については、疑問がある。

・教師「だけ」からしか学べないのか?

・教師が「最良」なのか?

・教師が「全員に」教えられるのか?

・「子ども同士」が学び合うことでつかめることのメリットはどうするのか?

…等々の疑問がわいてくる。


実際そのような質問をしてくださった方に、

「具体的に、どの教科のどのような内容のことが教師でないと教えられないと思われますか?」

と問うてみたことがあるが、具体的には出されなかった。


教科書に書いてあることや、(必要なら)用意した資料に書いてあることを読めば理解できる子がいて、そのことをその子が他の子に説明して…ということで十分ではないか?

それでも子ども達の誰一人理解できないという事態が起こったなら、課題なり資料なりを検討したり、状況によっては教師が解説したり(それを理解した子が他の子に伝えていく)ということもあるかもしれない。

いずれにせよ、初めから「教師が教えるべきことがある」と思って授業を組み立てるのと、「本来自分達で学び合っていけば教師が教えなくてもよいはずだ」と思って授業を組み立てるのでは結果が違ってくるように思う。

今、目の前の子ども達が本来どこまでできるのかが見えてくるのは、まずは任せてみてからのことではないか。


私は、そのようにしだしてから、「こんなこともできるのか」と、思っていた以上に子ども達ができることに驚かされてきた。

また逆に「ああ、こんなところでつまずいているのか!」と、私が思いもよらなかった実態が見えてきた。

だから、次に取り組んでいきたい課題も見えやすくなった。

お伝えした(つもりの)こと➃ 教師の仕事は? 10:58

この疑問が出されていた。

授業の様子を見ていると、何もしていないように見えるとのこと。

きちんとした先生にとっては「仕事の放棄」のように見えて罪悪感を抱くのかもしれない。


教師の仕事はある。

あるが、「自立した学習者」を育てるためには、あくまでも「必要としなくなる」ことをめざしていかなければならないと思う。

そして、これは、子育てと同じと思っている。

「必要としなくなる」というのは、「関係を絶つ」という意味ではない。

また、「学ばなくてもよくなる」という意味でもない。

学習者が自らの課題の解決に向かって必要な情報(物・人…)を探し、選択し、活用しながら自立して学び続けられるようにしていくことが教師の大切な仕事だと思う。



教師の仕事は、「教える」ことというよりも「できるようにすること(課題を達成させること)」だろう。

「教える」のはあくまでも「手段」の1つであって、「できるようにすること」が「目的」(まあ、もっと上に「人格の完成をめざす」という目的があるが)。


「教えない」という手段をとった方が、自分で調べたり、学び合ったり、…と、様々なことが「できるようになる」のなら、私なら迷わずそちらをとりたい。


だから、教師は、「教える」というより、「学ばせる(それを援助・促進する。邪魔しない。)」という意識で接している。

FlipperKFlipperK2016/08/18 18:20 まぁ、結局は教師側がどうとらえるかなのかな、と思います。繋げることも教えることも。
繋げることについては、大半が可視化ですむ場合だと思いはするのですけどね。子どもの動きの(イコール情報の広がりの)流動性の高い集団であればあるほど「よい情報」は広がっていくでしょうし…。よい情報が広がっても、必要感がなければ入っていかないのは、発信元が教師でも子どもでも同じでしょう。情報の受けては、教師だからとりわけ聞いてくれるわけではないでしょうしね。
 だから、結局授業者がどうとらえるかなんでしょうね。
 私は、「教えたい、教えるべき」と思ったら、教えればいいじゃん、と思う方です。授業者がそれで納得できるのなら。です。

daitouirukadaitouiruka2016/08/19 02:56FlipperKさん、ありがとうございます。
私もそうです。
『学び合い』を知る以前との違いは何かと考えてみると、それを選択するかどうかを決めるのが教師であると思っていたのが、子どもに移ったということだろうと思います。
教える(というか伝えるという感覚かな?)ときも、
「先生が伝えるのは、あくまでも選択肢の1つとしてとらえてね」という姿勢。
「教えたい、教えるべき」と思うことがあれば、私も「ちょっと言わせて」と言うこともあります。
特に他の人に『学び合い』について伝えるときも、「がまんし過ぎて精神衛生上悪いと思ったら教えてください」と言っています。
いらいらして別のところに弊害が出るといけませんからね(笑)。

まあ、「教えたい、教えるべき」と思うものがあれば、たいていはあらかじめ課題の中や資料のプリントに入れるようにしています。
どのタイミングでそれが必要か個々でちがいますから。
ただ、「教えたい、教えるべき」と思ったとき、以前より、「本当に?」とか、「教師じゃなくちゃできない?」と立ち止まるようになりました。
そして、教えた後も、「教えたから正確に伝わっているとは限らない」と以前以上に思うようになりました。

2016-08-14

「子育てや教育は子どもの成長に関係ない」 23:00

『言ってはいけない』読了。

表題のような帯がついていたので気になって手に取ったわけだが、最後の章の題がそれだ。


『子育ての大誤解』という本を書いたジュディス・リッチ・ハリスという心理学者の「集団社会化論」というものが紹介されていた。

子どもの成長に関わっている要素を丹念に調べていくと、子どもの成長にあたって子育て(家庭)の影響はほとんど見られないということだ。

親よりも、「友だちの世界」のルールを優先することが子どもの本性だそうだ。


うすうすは「そんなもんだよな」とは思っていたが、それでも、子育ての影響が「ほとんど見られない」というデータがあるのには驚いた。


関連して、友だちとの関わりを絶った状態で施された英才教育の愚かさ、というより恐ろしさも紹介してくれていた。

11歳でハーバード大学に入学するほどの神童に育て上げられたが、結局は社会に不適応な状態で不遇の死を遂げた人物がいたそうだ。

1つの例であって、全ての英才教育を受けた人がそうだとは言えないだろうが、ハリスによれば、彼の置かれた状況は、「母親には育てられたが、仲間とのつきあいがないままに成長したサルの状況に似ている」そうだ。


これを読んで、

「ああ、親も教師も結局影響がないんなら、やれることはないな。」

というあきらめの心になったかというとそうではない。


だからこそ、なおさら、今までの子育てや教育を見直していくことの大切さを改めて痛感した。


子ども達(ヒト)の「本性」に逆らった教育ではなく、むしろそれをうまく生かす教育。


親や教師の考えや、やり方を押し付けるのではなく、「友だち(仲間・同僚)」と折り合いをつけながらうまく繋がり、協力し、課題を解決していける力をつけていくサポートをする(場をつくったり、よりよい繋がり方をともに考えたり、…)ような教育にシフトしていかなければならないと思った。


その章では、もう1つ恐ろしい(でも、知っておくべき)社会実験が紹介されていた。

1954年にオクラホマ大学の研究チームが行った「選抜された22人の少年たち」の実験だ。

余りに明瞭な結果がでたことと、危険すぎるということで再実験はされていないそうだ。

でも、似たようなことが様々なところで(学校でも)起こっていると言える。

その実験は、できるだけ均質な11歳の少年たちを選抜し、2グループに分けた。

活動をしていくうちに、互いに敵対心を増し、恐ろしいほど攻撃的になっていく様が紹介されていた。

「興味深いのは、彼らが無意識のうちに、自分達を敵対する集団と正反対のキャラクターにしようとしたことだ。」

「ヒトは社会的な動物で、集団から排除されれば一人では生きていけないのだから、アイデンティティというのは、集団(共同体)への帰属意識のことだ。〝わたし〟は「奴ら」に対する「俺たち」の一部で、「敵」を生み出すのはひとがひとであるための条件ともいえる。」

と述べている。


これを読んで、「学級王国」の怖さを思い浮かべた。

「自分のクラス以外」を次第に「敵」と見てしまうようになり、安心できる学校生活がおくれなくなってしまう。

そして、「何が正しいかを考えて選ぶ」よりも「奴らと違うことを選ぶ」という意識が働いてしまって、正常な判断も曇らせてしまう。

「気に入らない奴らと同じことがやれるか」と。

そして、「自分達が向上すること」よりも手っ取り早く勝てる「奴らが不幸になること」を願うようにもなる。


自分の幸せのためには、クラスのみんなの幸せを。

クラスのみんなの幸せのためには、学校全体の幸せを。

学校全体の幸せのためには、…

と、より大きな共同体のことを考えていくほうが、結局はずっと楽に自分の幸せを手に入れられるように思う。


で、結局、今のところ、私にとっては、それに一番近づける場を子ども達(私達教職員にとっても)に与えられるのが、『学び合い』であり、全校『学び合い』だ。

そして、アドラー心理学。


「ヒト」はほおっておくと「敵」をつくっていく性があるというのなら、ますます他者を「敵」ではなく「味方」にしていく知恵を身に付けていく「教育」が必要になってくるだろう。

あ、かといって、あまり気張りすぎず。

「ヒトは学び合う」という本性の方を「邪魔しない」でうまく活用しながら。

2016-08-13

言ってはいけない 14:15

『言ってはいけない 残酷すぎる真実』という本を読んでいる。

進化論、遺伝学、脳科学によって分かってきたことが紹介されている。

人間も、やはり生物の一種であるということをつきつけられる。

「人道的に」そう思いたくないということでも、多くのデータによって覆されることもある。

数学やら統計やらのことは苦手なのでよくわからないが、最新の研究方法にきちんとのっとってだされた結果らしい(仮説段階のものも紹介されているが)。


世の中には、真実であっても政治的なからみや経済的なからみがあって大っぴらには言えないことも多くあるようだ。

それを認めると、ある人たちにとって(それが善意であっても悪意であっても)望ましくない状態が予測されることから、圧力がかかり葬り去られていった研究成果も多くあるのだろう。


自分としては、いかに今までの常識と違っていたり、自分の信じていたことと反することであっても、本当のことを知りたい。


事実と異なるものを前提にした対策は、徒労に終わるから。

そして何より、その対策を施される人達に申し訳ないから。


すでにデータ的には否定されているものについて、様々なしがらみから多大な労力と巨額の税金を使い続けていることもあると思う。

実証性のないものをもとに上位の者がやり方を押しつけてくる場合もあるが、押し付けた結果、効果がなかったときの責任はうやむやにされていることが多くないだろうか?


いかに耳ざわりがよくても、事実に基づいていなければ、一時的には誰かを守るように見えて、長い目で見ればそれにかかわる全ての人々を不幸にすると思う。

何かを守るためについた1つの嘘(あるいは、見えないふりをした事実)がばれたことで、世間から、よかったことも含めて全てを否定されることになる場合もある。

だから、1つ1つ本当のことを積み上げていきたい。


とりまいている様々な社会的な条件から、事実を公にすることで、不利になる人が出てくる場合は、もちろんそれを解消する措置が必要になるだろう。

事実に基づかないことで不利になっている人をそのままにしておくことの方が罪深いと思う。

個々のケースにおいて杓子定規にはいかないこともあるかもしれない。

しかし、基本的な姿勢としては事実をきちんと向き合う方向でありたい。


学び合い』にひかれた一つの要因は、豊富にある実証的なデータ。

その中には、例えば「教師が邪魔しなければ学び合うようになる」というような、今まで教師が懸命に努力してきたことを否定してしまうような内容も含まれている。

だから、ある人達にとっては、とても「不愉快」なものもあるだろう(私にとっては今まで立ち込めていた霧が晴れていくようで、とても「痛快」だったが)。


自分の思い込みやしがらみにとらわれず、事実を土台にして指導を設計していった方が、自分も、相手も、とっても楽で実効性があると思うんだけどなぁ。

2016-08-11

school 12:47

岸見一郎先生の『アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ』に以下の文。


学校は英語ではschoolといいます。

この言葉は古代ギリシア語のschole(スコレー)が語源で、その意味は「閑暇」です。

ですから「忙しい学校」というのは形容矛盾になります。

学校が忙しいということはあってはならないのです。

学生も教師も悠々と勉強に取り組むのでなければ「学校」とはいえないのです。


『「忙しい!」を誰も言わない学校』

っていうのが、本来当たり前でないとなぁ。

2016-08-10

地獄 09:22

昨日、久々にある事情である分野のお話を一斉に聞かなければならない状況になった。


いや、大切な内容なのは分かっている。

だけど、私の極端に苦手な分野で、私にとっては理解のハードルが高すぎる。


まず、全体像もよくわからない。

そして、それを説明してくれている個々の単語もわからない。

基本的すぎることだろうから、途中で質問することもはばかられる雰囲気。

「懸命に聞いていればわかる」なんてものじゃない。


学習についていけなくなった子ども達は、私の体験したわずか20分くらいの時間を9年間以上、毎日、毎時間続けていかなければならない。

地獄だ。


ああ、途中で自由に聞いて回ることができれば、どんなにありがたいか。


そうだ!

教職員の研修は、素晴らしい実践にふれるものももちろんいい。

だが、数か月に一回は、1人だけで全く別分野の会に出席して聞き続け、最後にわかったことや感想を全員の前で述べなければならないというものもあればいいのかもしれない。


そうすると、自分が子ども達にどのような指導をしなければならないかが見えてくるかもしれない。


…まあ、私はその日、年休をとりそうだが。



追記

事後、アンケートがあった。

正直に「よくわからなかった」にチェックを入れた。

近くにいた数人は、「実はよくわからんかったけど、わかったにチェックした」とおっしゃっていた。

「わからないことは、わからないとちゃんといいなさいよって普段言っているのにー(笑)。」

子ども達が感想を言ったり書いたりするときの気持ちもちょっとわかった。

「せっかく説明してくれた先生に悪いから」

というのもあるかもしれない。

あるいは、

「わからないって言うと、またわからない説明の時間が続くから」

というのもあるかもしれない。

アンケートもとらせてもらうことはあるし、これからもとらせてもらうと思うが、そういう心理がはたらく場合もあるということは頭においておかなければな、と改めて思った。

2016-08-08

お伝えした(つもりの)こと③ 一部分だけ見ての判断は 13:20

学び合い』に取り組んでいる人の実践の一部分を見て、

「あ、『学び合い』では、○○は指導しないんだ」

とか、

「『学び合い』はそんなことをさせる学習法なのか」

とか、

「『学び合い』をしている人のクラスの子がこんなことしていた。」

とか、…

早々に決めつけないでくださいということも、ぜひとも言っておこうと思いお伝えした。


まあ、『学び合い』に限らず他の実践を見てもそうしないよう、自分自身も気をつけなければならないことだが。


その学習が、何をめあてにしているかでそれぞれ違う。

何か理由があってのことかもしれない。


その、気になることの背景もわからない。

ごそごそと姿勢を悪くしている子も、ひょっとすると少し前まで教室を飛び出していた子で、座っているだけでも大変な進歩なのかもしれない。


また、『学び合い』は、教師の力量によって子ども達の考えを1時間勝負でうまくまとめあげるという授業ではなく、不都合なところが出てくれば、その時間内には改善できなくても、自分達で次から改善していくことを繰り返していくのだから、決してその見かけた「不都合な状態」を肯定しているわけではないのかもしれない。


例として、本校の全校『学び合い』を参観されたときに持たれた疑問点をお伝えいただけたのでそのことにも応えさせていただいた。


「1年生のタイルを、6年生が操作して教えていた。『学び合い』だと上級生が教えてしまって1年生の力が伸びないのではないか?」

ということだった。

学び合い』に出会う前の私なら、そのような事態にならぬよう、教師が対策を考え実行させるようにしていただろう。

しかし、それでは、対症療法に過ぎず、自立した学習者には育っていかない。


今なら、どうしても気になったならそれをどういう意図でしているのか直接聞くと思う。


ひょっとすると、その1年生がまだタイルの操作がしっかりできないので、まずはやって見せていたところかもしれない。


そうではなくて、その1年生は操作できるのに、取り上げて6年生が操作しているのであれば、1つは、課題の中に「本人が操作して説明する」ということを織り込むこともできると思う。

でも、それよりも、課題にあろうがなかろうが、

「相手の人が次から自分で説明できるようにするにはどうするのがいいと思うか、よく考えて工夫しながら学び合ってね」

と言って自分で考えてもらうと思う。

まあ、それも状況によるだろうが。


確かに、言葉の1つ、行動の1つにその裏にある考え方が端的に表れているということはあるが、私はとりあえず確認したい。

相手が大人でも、子どもでも。

私とは違う人間なのだから、私の知らない情報に基づいて行動しているのかもしれないし、全く違う価値判断や思考の仕方を持っていて行動しているのかもしれないから。

『学びのカリキュラム・マネジメント』届く 12:18

尊敬する「みゆき会」の方々の書かれた本。

待望の本。


福島のフォーラムで高橋先生が発表されたときにおっしゃっていたことがやっと書籍になった。

発表の後、直接お話をさせていただいた。

その時は、「インタラクティブ」という言葉も使っておられたと思う。


私自身、教科間で相互に作用しあうことの有効性を感じ、取り組むことを心がけているところであった。


もちろん、「みゆき会」の方々のようなしっかりしたものではなく、ずいぶんうすぼんやりしたもの。

それでも、効果があると実感はしていて、最近ますますその必要性を感じているところだった。


本校の研究にも大いに役立つ内容。

上質の内容を、とてもすっきりとわかりやすくまとめておられることに改めておどろかされる。

とても濃い実践をされている方々なので、書籍にするにあたって膨大な部分がそぎ落とされているはずだから、そんなことも今度のフォーラムでお聞きできるのではないかとそちらの方にも期待が高まってきている。


早速明日の校内研で、他の先生方にも紹介させてもらおうと思っている。

校外の知り合いの先生方にも拡散しよう。

2016-08-07

お伝えした(つもりの)こと② 「ずれ」の根っこにあるもの 20:08

ここ最近、『学び合い』の会ではないが、実践を報告するということで『学び合い』についてお話することが重なっていた。


それが今回のお話をするときにとても役立った。


お話をしていても、どうしてももどかしい「ずれ」を感じ続ける。

何だろう?

何が私の中で「自動化」してしまっているのか?


今までに読んできた書籍にもう一度あたりなおしてみた。


そして、「ああ、これか!」と気づいた(まあ、この時点ではまだ他の方にお話していないので「多分」なのだが)。


気づいてみれば、今更か!と思うくらい当たり前。

まさに基本前提の部分だった。

自分にとって基本過ぎて、すでに意識にのぼらなくなっていた。


それに気づかされたのは、『「座りなさい!」を言わない授業』を読み直していた時。


優秀な先生の実践を研究し、「その先生が子ども達相互の学び合いを活性化させるためにどのような指導を行っているか」を明らかにしようとしていたが、どんなに詳細に会話を追っていってもそれらしいものが見当たらない。


が、ついに、

「何で教師が指導したから、と思っているんだ?…ヒトは群れる生物である。…教えられなければコミュニケーションができないと考えること自体、生物学的におかしい。…そうか!先生は指導したんじゃない。子どもの邪魔をしなかったからなんだ!」

ということに気づき、本当に涙を流されたとのこと。


いや、「教えなくても学び合うんだ」っていうことは各所に書かれていることだ。

私の場合、このエピソードにもう一度触れなおしたときにストンと心に落ちた(いや、落ちなおした)。


この基本前提が、他の「学び合う学習」との決定的な違いなのだ。

改めてそのことをしっかりと意識的にお伝えしよう。


学び合い』に出会った当初、

「実証的なデータを示したらみんな納得してくれるはずだ」

と思っていた自分は、

「どうやらそうではない方がたくさんいる」

という現実を何度も味わってきた。

そして、いつしか、

「無駄なのであまり言わないようにしよう」

と思うようになっていた。

だが、今回、

「いや、確かに、みんなは納得してくれないが、納得してくれる方も少しはいるんだ」

と、思い直し、お話してみることにした。


この発見が、「臨床教科教育学」という、数台のビデオカメラと、全員の言葉を拾うレコーダーを駆使し、全て分析する、まさに「学習しているその場」にいる子ども達を「1人も見捨てたくない」という強い思いを具現化した病的なまでの(笑:これは称賛の意味で)こだわりの研究からなされたものであるということを付け加えてお伝えした。


何人かの方は、はっきりと、

「おお、そこまで!」

というような反応を示してくださった。

私の口を通してでも、少しは伝わってくれたのかもしれない。


今度、町内の研究会で授業者になった私は、「提案として、私のやっている授業でよければ」ということで『学び合い』を見ていただくことになっている。

事前の協議でたくさんの疑問点をいただいたが、そのことにも応える内容を盛り込もうと思っている。

提出する指導案にも、その基本前提となる「子ども観(というより人間観だが)」と「根拠」を明記しておこうと思っている。

数名でも納得していただけることを願って。

お伝えした(つもりの)こと① 納得いっていないのに無理やりは 17:47

お伝えしたつもりだが、もちろん、それぞれの方にどの部分がどのように伝わっているかは定かではない。


県内の大規模校に招かれて『学び合い』についてのお話をさせていただいた。

呼んでいただいた学校は『学び合い』を全面的に取り入れようということではなく、まず、様々なものを知り、それからその学校の取り組んでいくものを決めていこうということだ。

あくまでもそのうちの1つ。


「『学び合い』の授業の進め方」について話してほしいという依頼であったが、それだと結局形だけをまねて「だめだった」ということになると思ったので、まずはよって立つ理論のところを理解していただこうと思った。

その時点でご理解いただけないということなら、全校で無理やり全員に押し付けるようなことをしても失敗することはほぼ確実になると思っているから。


お話の内容については、西川先生の新刊『『学び合い』の手引き』の二冊組を読んでからがよいと思ったが、残念、間に合わない。

だから、内容的にはほぼ同じと思われる、私が『学び合い』に出会ったころにダウンロードした『手引書』を読み直していった。


学び合い』については、知らないという方がほとんどということらしい。

ただ、今までに数名の方が私の勤務校においでになって全校算数を見てくださり、録画した映像を全職員が見てくださってはいる。

案の定「教師の仕事は何?」など、の疑問が出されているとのこと。


だから、今回のお話のめあては、「『学び合い』のイメージが“変”“野放し”“教師の仕事の放棄だ”というものから、“ああ、それなりに理屈はあるのか”“ちょっとやってみてもいいかな”とか、あるいは、大嫌いだと思っている方が、“存在くらいは認めてもいいかな”くらいに意識が移行してくれること」にし、冒頭にもそれを伝えさせていただいた。

それが達成されれば大成功かな、と。


そして、くれぐれも全校に押し付けて、形だけの『学び合い』に取り組んでほしくないということをはじめに申し上げた。

みなさんには、それぞれがこれまでによいと思って取り組んできていることがあると思う。

学び合い』を知っても、そして、試しにやってみても、なおそちらの方がよいと思い続けている方が『学び合い』に取り組んでも、今まで以上の成果は得られないと思う(それは、『学び合い』に限らないだろう)。



御校のめざす子ども像を全員で具体的にイメージして共有し、それに対してできるだけ客観的に見られる評価規準・基準を設定するということだけはしっかり統一する。


そして、それぞれ信じることを自己責任で試し、その結果どうなったかを共有する。

結果についてはシビアに評価する。

(どんなにすごい理屈が言えても、うまくいかないなら、何かがまずいということを受け止める。)


そして、どうすればよいかみんなで考えていく、ということを繰り返してほしい(協力的な雰囲気を大切にしながら)。



つまり、『学び合い』というのはそういうことを子ども達にも求めているのだということをお伝えした。


それが教師集団に実現できないのに、子ども達にそれをさせるというのは不誠実だと思う。

現時点で全員には実現していなくても、それをめざし続けようと決意しているのならよいと思う。

学び合い』に取り組んでいくうちに実現していくかもしれない。


学び合い』という言葉は意識していなくても、そんな研究の進め方の経験重ねていくなかで、

「結局、子ども達も自分たちと同じように学んでいったらいいんだよなあ。」

と思う人が少しずつでも増えてくれたら、そして、『学び合い』の実践をする人が少しずつでも増えてくれたらと願っている。


学ぶこと、学び合っていくことは、大人も子どもも同じ。

方法よりも、そういった考え方が大切だということをまず伝えたかった。

学び合い』が「方法の1つ」という範疇の話をしているのではないということに気づいてもらいたい。


結果が出せるなら、それがいわゆる『学び合い』でなくてもいっこうにかまわないと思う。

ただし、その結果というのは「現在の学習成果」だけでなく「心」や「人間関係」、「将来」も視野に入れてのこと。

aogachiruaogachiru2016/08/07 18:22結果を確実に出すことが変革の際、必要と思います。
結果を出し続けているdaitouirukaさんの言葉が
しっかり届いていることを願います。
おしまい4行の言葉に深く賛同します。

bunbun-hbunbun-h2016/08/07 20:08お疲れ様でした。
しっかりと次のステージに入っておられますね。
継続は力なり!だと感じ入っております。

daitouirukadaitouiruka2016/08/07 22:31aogachiruさん、いつも支えてくださってありがとうございます。
最後の4行のなかの「いわゆる」とつけたのは、「方法としてとらえている」という意味合いです。
言葉足らずで他の方々に誤解されるといけないので、ここで付け加えさせてください。
aogachiruさんには、お分かりのことですが、コメント返しのこの場を借りて。
結局、何かを学んだり解決したりするために自由に動けば、本当の意味での『学び合い』になってしまっていると思っています。
その人が意識していなくても。
『学び合い』について批判的な考えをもっておられる方の実践で紹介されている教材を、私が『学び合い』の考えに基づかずに実践していた時と、『学び合い』の考えに基づいて実践した時と比べれば、明らかに後者の方がよい結果を生んでいます。
その方に言わせれば、おそらく、「あなたよりも私の方が成果をあげている」と言われると思います。
が、少なくとも私にとってはそうなのです。
だから、「少なくとも私にとっては」『学び合い』の考え方が価値があるのです。
その方の考えたその教え方のコツに価値がないと言っているのではありません。
あると思うから私も学ばせていただいているのです。
ただ、私にとってはそれはまったく別の範疇のことなのです。
ところで、その方ご自身は、自分が学びたいと思うことを学びたいと思う人やその他の情報源から自由に学んでいるはずだと思うのですが、どうなのでしょう?
それは、大人と子どもだから違うというのでしょうか?
だったら、それは、何歳からなのでしょうか?
また、みんな一律の年齢からなのでしょうか?
そんなことを考えてしまいます。
あ、aogachiruさんに言ってもしかたありませんねー(笑)。
でも、また、聞いてください(笑)。
bunbun-h さん、ありがとうございます。
ステージかどうかはわかりませんが、環境は少しずつ変わってきているかもしれません。
私自身はとても臆病者なので自分からではなく、たいていは仲間からの声がけに押していただきながらいつの間にかそうなっているという感じですが(苦笑)。
継続というのも、いいと思っているから、好きだから続けているといつの間にか時間がたって今になっているという感じです。
でも、その間にまた1人、また1人と出会いを重ねさせてもらっています。
引き続きよろしくお願いいたします。

mei-c5mei-c52016/08/08 18:52子ども観というより人間観、というところ、すごく納得しました。

daitouirukadaitouiruka2016/08/10 09:04つくづく大人も子どもも同じだと思います。
西川先生のおっしゃるとおり、「同様に賢く、同様に愚かしい」。
同じという観点に立っているから、納得がいく。将来にわたって役立つ汎用性が高い力がつく。…と思っています。