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イルカたちの夢

 高知県の小学校教員です。 山間の学校の6年生を担任しています。 よろしくお願いいたします。
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2013-10-05

達成「できた」ことの説明責任 11:38

私はこれをよく子ども達に果たしてもらう。


昨日は、なかなか早起きができないA男がいつもより早く起きたということだった。

「どうして、早く起きれたが?いつもと何が違うちょった?」

と、私が説明を求める。

「いや、何となく、起きれた。別に何もしてない。」

とA男。

しかし私は食い下がる。

「いやいや、よーく思い出して。何かコツがあると思う。教えてよ。寝る前に何かしたとか、起きた後に何か予定があったとか、何かいつもと違うこと。」

そこで、A男はもう一度振り返る。

「あ、目覚まし時計をかけ忘れちょった。」

すると、B子が、

「あ、それ私もある。目覚ましかけてないとかえってちゃんと目が覚めることがある。」

「あー。ひょっとしたらそこにA男君の早起きのコツがあるかもね。」

と、私。


他の誰かのコツではなく(積極的に参考にはするけど)、自分に合ったコツを自分であれこれ仮説を立て検証を繰り返しながら見つけていく。

この姿勢はさまざまな分野でこれからずっと大切にしてほしいと思っている。


昨日はもう一つ。

体育に苦手意識を持っていて、去年まで運動会や陸上競技の練習に全力を出せていなかったC子が、今年は「筋肉痛や~。」とか言いながらも懸命に取り組んでいるので、

「どうして今年はがんばれるが?教えて。これから先C子ちゃんと同じような悩みがある人に出会うたときに、C子ちゃんの経験をその人に役立てさせてもらうことができるかも知れんけん、先生もその人も助かる。」

と、その秘密を聞き出した。



ずいぶん以前に担任した子どもの話だが、こんなこともあった。

掃除などの作業にあまり熱心に取り組めないD男が、ある作業の時間に(校庭のあちこちに散らばってする作業だったので、私がクラスの子達につきっきりという状態ではない)ほとんどだらだらと作業をしていて最後の数分だけ少し真面目に取り組んでいたということがあった。


作業後、教室にみんなで集まった時に、

「D男君。今日の作業ではあんまり真面目に取り組んでなくて、最後の何分かだけよく動きよったよね。」

と話しかけた。

真剣な表情で。

ちょっと意地悪かな?とも思うが、そのことを後々まで印象付けたいとき、また、他のみんなにもしっかりと考えてもらいたいとき、ちょっとドキッとしてもらう演出をするときがある。

案の定、D男はびくっとして、いや~な顔をする。

「ほとんど遊んでいて、最後だけちょこちょこっとやって、なんてずるいやつだ!」

というように怒られると思ったのだろう。


しかし私は、

「どうして、最後のあの数分間、真面目にやろうと思うたが?どんなことを考えたから行動が変わったのか教えて。」

と尋ねた。

つまり、「やっていなかった方」ではなくて、時間的には少なくても「やっていた方」に注目したということ。


D男は一瞬「えっ!?」という驚きの表情になったが、すぐに照れながら、

「う~ん。一人だけちゃんとやってないと、みんなに悪いなと思って…。」

と説明をしてくれた。

この言葉について、D男の心の中の大部分はひょっとすると「最後だけでもやって、『やっていたよ』という言い訳をつくっておこう」というのがあったかも知れない。

しかし、達成「できた」ことの説明責任を求めることによって、さぼっていた自分の行動が決してほめられたことではなく、「みんなに悪い」という気持ちが全くのゼロではなかったことに、自分自身で焦点を当てることができる。


同内容のことでも、私が、「できていなかった方」に焦点を当て、

「みんなに悪いと思わなかったのか!?」

と叱りとばし、D男が、

「はい。すみません。悪いと思います。」

と言うのとは、全く違う。


達成できた原因を「自分で」考え、「自分で」口に出すことが重要。


本当にそれが悪いことだと気づいていない、知らないときには、こちらからそのことについて気づかせ、教えることは有効であるし、大切なことであろう。

しかし、本人もそれが悪いということは「知って」いるのだが「行動する」ことができていないときには、他人がそのことについて重ねて「言った」としても効果が薄い。

それどころか、注意の仕方によっては反抗心を起こさせてしまって逆効果になることもある。



達成「できなかった」ことについて説明責任を果たさせようとすると、文字通り「責める」雰囲気になり、どうしても気持ちが暗くなり、モチベーションも下がりがちになる。

一方、達成「できた」ことの説明責任を果たしてもらうときには、明るく、誇らしい気持ちになれる。

「いつかできそうなこと」ではなくて「すでに達成できていること」だから自信にもつながる。

周囲の子にも「あの子はできるんだ」と思ってもらうことにもつながる。

そして、次からどう行動しようかという方向性を「みんな」で共有できるようになる。


ただ、このような「技法」的なことを、「相手を操作してやろう」というような下心でもってするとやはりどこかおかしくなってしまう。

あくまでも、「居心地のよい学級や社会を一緒につくりませんか?」という気持ちから言葉を発していきたい。

mei-c5mei-c52013/10/06 05:27『勇気づけて躾ける』学校編、を読んでいるような気持ちになりました。
プラス解決志向ブリーフセラピーのような気もします。
おおもとが同じということでしょうか。
こういうことからも、やはり『学び合い』は方法ではなく考え方だということを実感できます。
相手を操作してやろう、と思うと、どうしても上手くいかなくなるものですね。

daitouirukadaitouiruka2013/10/06 06:05そうですね。
「技法」としてはアドラー、行動療法、ブリーフ、NLPなどで学んだことを、時と場合によって…。
ただ、根っこの部分の「考え方」はぶれないものを持っていないと一貫性のない継ぎはぎになって破綻します。
同じ「技法」でも「意味付け」が違えば相手の受け取り方も違ってくる。
『学び合い』でうまく運営している人の形だけ真似てもうまくいかないのと同じでしょうね。