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イルカたちの夢

 高知県の小学校教員です。 山間の学校の6年生を担任しています。 よろしくお願いいたします。
ご連絡はkochimana7☆gmail.comの☆を@(アットマーク)に直してお送りください(迷惑メール対策です)。

2013-09-29

「生み出す仕事」と「伝える仕事」 18:06

『あした死ぬかもよ?』という本をコンビニで見かけて購入。

ひすい・こたろうという人の本だ。

ひすいさんの本は何冊か持っている。

ひすいさんは自分自身で考えた言葉というよりも、自分が感銘を受けた言葉を集めて紹介していることが多い。


こういった名言を集めたような本は、深い理解もできず、安易であると切り捨てることはできないと思う。

実際にそこで知った言葉から興味を持てば、原典に触れるきっかけにもなる。

その本がなければ一生触れることがなかったかもしれない。

また、短い一言に救われるということはよくあるものだ。

自分がこういった本を読むのは、自分自身が何らかの気づきのきっかけになるかもしれないということもあるが、誰かにある考えを伝えたいときに、同じ考えでも違った表現(説明)のしかたでスコンとはまることがあるから、いろいろな人が懸命に考え出したいろいろな表現方法を知っておきたいということもある。

一人でも気持ちが楽になったり、前向きになる人が増えてほしいから。



以前読んだひすいさんの本に紹介された言葉で印象的だったのが、


「あなたが空しく生きた今日は、昨日死んでいった者が、あれほど生きたいと願った明日」


という『カシコギ』という小説の1節だ。

私は研修先の宿泊しているベッドでこの言葉を読み、私がまだ若いころ死んでいった母のことを思い出して、その場でぼろぼろと泣き出してしまったことがある。

あんなに自分を大切に育ててくれた母に対して、今の自分は恥ずかしい怠惰な時間を過ごしているのではないかという思いに駆られたからだ。

その後、もちろんいつもいつもは意識できないが、ふとした時に思い起こして気持ちを引き締めている。



ひすいさんの仕事を見て考える。


生み出していないものは伝えることはできないから、当然、「生み出す仕事」はなくてはならないものだけど、それを「伝える仕事」をする人も欠かせない。

一人で両者の役割を受け持つことはできるが、やはり広がる範囲には限界がある。


それに、「生み出す仕事」をした人にとっても、それを生み出すために使った知識を、自分に「伝える仕事」をしてくれた誰かの存在は欠かせない。


そう考えれば、「生み出す仕事」と「伝える仕事」、どちらにも優劣はつけられない。

さらに、その役割は固定されたものではなく、個人内でも流動的に、時々刻々変化していく。



こういった「どちらも大事」「みんな大事な存在」という考え方が、「きれいごと」や「手の届かない理想」ではないのだと私に「実感」させてくれたのは、『学び合い』の授業だ。


授業場面に限らず、学び合うときには

「どの役割も同様に尊い」

「自分もその集団に貢献していることに自信を持っていい」

ということを、しっかりと自覚してほしい。


「生み出した仕事」の功績を称えつつ、「自分で工夫を付け加える仕事」や「他の人に正しく伝える仕事」にも誇りを持てるようにしていきたい。

自分で生み出したものではないことを卑下する考えは、盗用の誘惑にかられてしまい、社会的にも信用を失う危険性がある。




今回読んだひすいさんの本の中で印象に残ったもののうちの一つ。


「ひとりで見る夢は夢でしかない。しかし、誰かと見る夢は現実だ」

by オノ・ヨーコ


ブログのタイトルの「イルカたちの夢」にも通じるなぁ、と思って。

2013-09-25

「ブーム」にはならないように 19:45

学び合い』は「自然科学が広まるように」広まってほしいと思うから、「ブーム」にはなってほしくないなと思っている。


きちんとした手続きに基づいて実証されたものならば、『学び合い』は、「それ以上でも以下でもないものとして正しく」広がってほしい(「熱狂的な」広がりなんてとんでもない…まあ、それはなさそうだが:笑)。

今までも、せっかくよいものでありながら誤解を含みながら広まってしまい、「産湯とともに赤子を流す」ような結果になった例がいくつもある。

私自身も『学び合い』についてまだまだ誤解している部分がたくさんあるはずだ。

だから、子ども達を含めた多くの人々と対話をしながら学び続けていく必要があると思っている。

科学の法則なら、例えば「今、万有引力がブーム!」みたいになって10年経ったら万有引力がなくなっていた、なんてことはない。

そして、ニュートンが発見する前からそれはすでに存在していた。

学び合い』も、西川先生が研究し、提唱され、その言葉が生まれる前から、どこかの教室で「そのように」実行したときに「そのような」結果が表れていたことがあっただろう(もちろんそういった要素に目をつけ抽出し実証することが重要であり貴重であり大変な仕事なのだが)。

そして、これから後も、たとえ『学び合い』という言葉がわざわざ使われなくなったとしても「そのように」実行したときに「そのような」結果が表れる。

ただ、物理法則と違って、人間が関わっている分それを正しく運用するうえで、個人差はあれど「お稽古事」のような修練はある程度必要ではある。

みんなが、自分を含めた誰も見捨てず、必要と感じた場面で、ごく当たり前に学び合える文化が着実に根付いていってほしい。

FlipperKFlipperK2013/09/25 20:15 私もそう思います。ブームではないハズなんですよね。はやり廃りを超えた普遍的なものとなるものだと思っています。

i-Kawa-nakajimai-Kawa-nakajima2013/09/25 21:18はじめまして。山梨のi-Kawa-nakajimaです。凄く納得です。~みんなが、自分を含めた誰も見捨てず、必要と感じた場面で、ごく当たり前に学び合える文化が着実に根付いていってほしい。~本当にそうあってほしいです!

daitouirukadaitouiruka2013/09/29 16:38FlipperKさん、i-Kawa-nakajimaさんありがとうございます。
どの考え方も、実践も、感情をさしはさんでやみくもに持ち上げたり、やみくもに否定したりするのではなく、結果をもとに正しく評価していくことを積み重ねていきたいですね。

2013-09-17

校長先生に 02:33

行政のほうから、授業改善プランを提出してほしいという要望があり、研究主任として、また、6年生の担任として書く部分があったので、これを機会に『学び合い』についても書くことにした。


校内でも今まで「考え方」は随時出していたのだが、西川先生の提唱している『学び合い』というような紹介はしていない。

まあ、日常会話の中で、聞いてくれそうな同僚には個人的に話したことがある程度。

さて、その改善プランに基づいて、後日さらに校長先生と行政の方との話(私の参加はない)があるということなので、およその考えはお伝えしておいたほうがよいかと思い、『学び合い』についても紹介することにした。

普段からとても真剣にお話を聞いてくださる方(雑談で話したことにもしっかりくいついて来てくれる方)なので、短い時間しかなかったが、およそのことを伝え、とりあえず持っていた「超短縮版手引書」と、1学期の終わりに子ども達からとった『学び合い』についてのアンケート結果をお見せした。

同時に『学び合い』手引書と、学陽書房の『学び合い』スタートブック・ステップアップ・ジャンプアップも現物をお見せしながら紹介した。


まあ、短縮版だけでも読んでいただけるといいな、くらいに思っていたのが、話の途中で、

「あ、その3冊の本、買います。」

と、さらっとおっしゃった。

そして、6時間目にお話したのだが、放課後にはもうダウンロードした手引書を手にされていた。


どのような感想をお持ちになるのかは分からないが、ともかく新しい種まきをしてみた。

jun24kawajun24kawa2013/09/18 05:43出来れば、上越においでになって頂ければ・・・・。

tomkicktomkick2013/09/18 06:14いいですね〜。9月・10月と『学び合う』会in神戸をします。よろしければご紹介してあげてくださいませ。

munehiromunehiro2013/09/18 21:05やるねーー

concert3concert32013/09/19 05:26わくわく,ドキドキですね。

daitouirukadaitouiruka2013/09/19 05:44みなさん、ありがとうございます。
まだまだご紹介したばかりなので、その翌日に
「どうでしたか?!!」
みたいにがっついた感じになると引かれるかもしれないので、ちょっと様子見しています。
特に昨日は運動会の総練習でもあってばたばたしていたので。
ただ、ちらっと休憩時間などにお見かけすると、なにやらお読みになっているような…(手引書?)。
いやいや、まったく別の書類かもしれません(笑)。
でも、できるだけ近いうちに、jun24kawaさんや、tomkickさんのお誘いについてもお伝えしたいと思っております。

2013-09-14

慣れてしまわないように 17:53

先にUPした、お休みしていた子へのサポートの様子を見て、涙がこぼれそうになっていた。

そういえば『学び合い』に出会う前は授業中に(いや、休み時間を含めても)子どもたちがこんなに親身になって助け合う姿を一年のうちに何度見ていただろう。

学び合う姿が「日常」になって一つ一つへの感動が薄れてしまっているのではないか。

私にとっては何年目かの『学び合い』で、何度か「似たような」光景に出会っていたとしても、子ども達にとっては初めての『学び合い』との出会い。

慣れてはいけない。

丁寧にその変化を見とっていかなければ。


そんな思いもあいまって、大好きなこの子達の姿を見ながら涙がにじんできていた。

いつまでもその場で満足して留まるということではない。

より高いものをめざしつつも、初めて『学び合い』を実施し、子ども達の変容に一日のうちに何度も、涙があふれてきた日のことは忘れないようにしたい。

お休みしていた子へのサポートの様子から 17:33

体調不良で保健室にいたり、お休みしていたりして何度か授業に出られなかったA子の遅れた分をみんなでサポートしつつ、今日の課題にも取り組む。


算数の時間。

「遅れているA子ちゃんに先生がつきっきりで教えて、他のみんなは自分の課題だけに取り組むこともできるけど、それでは人として大切なことを学ぶチャンスを逃してしまいます。自分の課題のクリアも大事。A子ちゃんをサポートするのも大事。どちらも達成しよう。」

こんなこと言わなくても助け合おうという心はある子達。余計なことを言ったかな、と思いつつ、改めて意識してもらいたくて…。

すぐにB子がA子とあれこれ対話しながら解いている。

しっかりと考えを引き出しながらやっている。

「適当に済ませる」じゃなく「本当に分かる」を目指しているんだなぁと思う。

しかし、しばらくたってもずっとB子だけがかかわる状態が続いた。

一人だけが自分の課題もしないままずっと懸命にサポートしてかかりっきりになってしまうことがときにある。

今日もそんな状態になりそうになってきた。

これが重なっていくと「自己犠牲」感が芽生え、やがて「不満」がたまってくる。

理解の状況や人間関係の状況によっては、「今はその子しか行けない」ということもあるだろうが、今のクラスはそういう状態ではない。

だから、自分の課題に集中してそちらにまで気が回っていないのか、他の子がかかわっていることで安心して(遠慮して?)いるのかだと思う。

こんなとき、

「B子ちゃん。ずっとつきっきりで自分の課題できてないね。変わろうか?」

と、進んで声をかけあえる人や集団になってもらいたいと思うので、

「全員が課題達成できるように、一人だけに任せきりにならないよう、みんなで気を遣い会おう。」

と声をかけた(次は誰が行きなさいというようなことは言わない)。

すると、C子がA子のそばに行き、B子は自分の課題に取りかかった。

B子はB子で自分が分からないところを他の子に聞いたりし始めた。

さて、C子。勉強に苦手意識のあるC子は

「私が教えるってこと、めずらしいね。」

とか言って驚きも含めた照れ笑いをしている。

私は、

「あのね、そうやって自信なさそうなこと言うけど、あなたは自分で思っているよりもずっとかしこいの。長年先生やっているとわかるんです。先生の目はごまかせない。残念でした。」

と、ニヤッと笑う。

実際、C子は他の子が思いつかない角度からポロっといい発言をすることがある。

思ったことをさらっと言える正直さからもきているのだろう。

ときに、言葉だけ拾うと「失礼だろ!」というような発言もあるが、その無邪気さと人懐っこさで不思議といやみにならない。

これは「かしこい」というか「かしこくなっていく」ための強力な才能だろう。

だから、私は自信を持ってC子に、あなたはかしこいと伝える。

ただし、『学び合い』でない授業ではその能力は封印されがちだろうなとも思う。


C子はA子が授業を受けられなかった間に自分が理解したことを懸命に伝えようとしている。

途中、自信がなくなって私の方をちらっと見る。

私はにこっと笑って助けない(笑)。

そこで、C子は自分のノートを見返す(つまずいたら教科書、ノートを見返す習慣もだいぶついてきた)。

ノートや教科書への書き込みは一律にするのではなく、「数日経って自分がもし忘れたとしても思い出せるように書いておくこと。だから、人によって何を書くべきかは違って当然。自分なりに考えて書きこんでおこう。」と言っている。

C子は自分のノートを確認し、納得して続行。

A子へのサポートはC子にとって、とてもいい復習になっている。

途中D男が入ってくる。

E男もA子を含め他の子のことも気にしながら回っている。

でも、C子はA子のところに留まり続けている。

私は念のため、

「C子ちゃん、他の人も来てくれたし、ずっとじゃなくてもええと思うよ。」

と言ったが、

「んー。でも。」

と言いながら続ける。

途中までかかわったので「なんとか最後まで自分がかかわりたい」という気持ちがわいてきたのだろうか。

C子は、自分が本時に割り当てられていた課題を進めるよりも、A子と最後までかかわることを選んだようだ。

「冷静」に判断すれば、後は他の子に任せて自分の課題に向かう方があるいは「効率的」だったかも知れない。

では、A子に最後まで付き合うことは「正しくなかった」のか?

この問題を「効率」(※)か「情(人間関係)」かという問題に限定して考えたとしても、誰にも断定はできないと思う。

どちらも「人格の完成」に向けて大切なことだと思うから。

常に偏って一方だけを選ぶ人は、本人も周りの人もとても生きにくくなるだろう。

その時々の状況、条件によって、より「妥当」だと思われる選択は変わってくると思う。

大切なのは、その時々の判断力。そして、どちらの選択をしたにせよ、選択した限りは、自分・相手・社会にとってそれをより意義のあるものに何とかもっていこうとする意志。

(※)「効率」の面だけで考えても、実は誰と学び合うのが最もよいかということは断定できない。例えば算数においては総じて理解の早いD男の方が、C子よりもA子にとって分かりやすい説明ができるとは限らず「効率的」かどうかはわからない。


今回A子に最後まで付き合おうとしたのは、C子が選択したこと。

その選択によって時間内に終わらなかった分を終わらせて帳尻を合わせるのはC子の課題。

だから、それ以上は言わなかった。


そして、授業終了の時間。

案の定、C子は自分の課題を終えることはできなかった。

そしてA子の遅れた分もすべて追いつくことはできなかった(遅れているのは1時間分だけではなかったのでかなり難しいとは思っていた)。

でも、2人ともとても満足そうな顔をしていた。

その顔を見ていると、今回のC子の選択は、

A子にとっては「自分が困ったときでも、見捨てられない」という安心感に、

C子にとっては「苦手だと思っている算数でも仲間に役立つことができた」という貢献感と自信に、

それぞれの中で結びつけることができたのだろうと思えた。

そして、「学習理解」の面でもより深まったように思える。

その日の社会の時間、いつもはちょっと難しめの文章には集中し切れないことが多いC子は、他の子よりも集中して取り組んでいた。

2013-09-06

即座のツッコミ 04:03

我が子達とテレビを見ていると、

「身振り・手振りが多い教師は学習能力をアップさせる」

ということを学者さんが言っていた。

「おっ。じゃあ、とーさんも明日から身振り・手振りいっぱいしよう!」

と、私が言い終わるか終わらないうちに、

「とーさん、『学び合い』やけん、関係ないやん。」

と、当然の顔をしてさらっと娘が反応。

「あ、そうやね。」

と、息子。

まるで、ネタ合わせしていたかのような即座のツッコミに意表をつかれて笑ってしまった。


いやいやいや、ちゃんと語って聞かせて納得してもらう力もいるんだけどなぁ。


まあ、そのテレビの学者さんの解説では、

「身振りと言葉を組み合わせることでより多くの情報を与えられるから」

ということだった。

要するに、その知識に付随するさまざまな別の要素がより多くなることで、「思い出しやすくなる・記憶に残りやすくなる」ということか。

じゃあ、「本人」があれこれ動き回って、いろんな場所でいろんなものを調べ、いろんな相手としゃべることができる『学び合い』はもっと記憶に残りやすい。

akifune3akifune32013/09/07 11:57『学び合い』の会話のやりとりが何だか微笑ましいです。

ご家庭でも『学び合い』の話で盛り上がれるって、素敵です。

daitouirukadaitouiruka2013/09/07 13:33akifune3さん、ありがとうございます。
我が子にもだいぶ語ってしまっています(笑)。
かなり「納得」してくれているようです。

munehiromunehiro2013/09/11 20:21これ、言ってますよ。子どもたちに、
テストで思い出せないと思ったら、誰と勉強したか思い出せ、そうすれば、その仲間の気持ちがよみがえり必ず思い出す。その時の、一生懸命説明してくれた、仲間の姿を思い出せ。
と言ってます。
たぶん同じことだと思います。

daitouirukadaitouiruka2013/09/15 12:15ですよね。
しかも先生を「見ていた」記憶よりも、仲間といい感じで「つながりあえていた」記憶の方が「人格の完成」にはよさそうですよね。

2013-09-02

「自らの課題」の範囲は? 22:17

先にUPした「同調圧力」に関連してこんなことも考えている。


「自らの課題」とは「個人的な課題」のみではなく、「社会の構成員の一人としての自分の課題」も含まなければならないだろう。

「個人的な課題」を解決するために周りの人の力(本人が自覚できていないことも含めて)は借りるが、「他の人の課題」は知らないよ、という態度は「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」を備えているとは言えないだろう。

教師となってしばらくしてからのこと。

ある方に、

「教育を受けるのは、自分の力を伸ばし、その力を自分が生活している社会に還元するためでしょ?ちがいますか?」

と言われて、ぱっと目の前が開けたように思えたことを覚えている。

「働いてお金をいただく」ってそういうことなんだよな(お金がからむ場合ばかりではないが)と思えた。

「個人個人の幸福の追求ばかり考えて、なんで今までそんな当たり前のことに思い至らなかったのだろう?」という自分自身への驚きも含めて。

 だから、子ども達への指導もそれまでは、

「本人がいやと言っている。個人の意思を尊重しなければいけないから、それ以上言えないかな。」

と思って、上記のような「社会の一員としての役割」という視点を示すことができないでいた。

 このような私の傾向は、私自身が学生の頃から強く反発を感じてきた「全体主義」につながっていきそうなものに対する拒絶反応から来ているのだろう。逆に「個人主義」にやや傾いていたようだ。

 このこだわりに穴を開けてくれたのが、「個人の幸せ」と「自分がお世話にならざるを得ない社会の存続」との「折り合い」という考え方である。

 それは決して「滅私奉公」というものでなない。

 加えて言うならば、「折り合う」ことは、いつも「双方がいくらかずつ損をする」ことばかりではなく、「より大きな喜びや成果」を生み出すことも往々にしてある。

 強制でない「貢献」は、決して「苦役」ではなく、「喜び」につながるものだから。

 自分が所属する社会に対して、その「一員としての課題」を担うことは避けて通るべきではないだろう。

 自分が所属する社会がつぶれてしまえば自分の存在も維持できない。

 もちろん、個別に見れば様々な事情もある。

 個人の能力を越えて一律に同様の社会貢献を求めるというわけではない。

 同調圧力が「恐ろしい」ものになるのは、「合意形成を全員で図りながら進んでいく文化」を根付かせることを抜きにしたときだろう。

同調圧力 22:02

 この言葉について、今の段階ではこう考えている。

 同調圧力そのものに善悪はないと思う。

 生物学を勉強したわけではないのでよくわからないが、個別に見るとその圧力のおかげで死んでしまう者もいるかもしれないが、人類全体が生き残るために選択し、本能の中に組み込んできたものだと思う。

学び合い』をしようがしまいが、人が集まれば人間の本能として同調圧力が発生してしまうものであるならば、むしろその実態について指導者もメンバーもよく知り、全員がそれとうまく付き合える力をつけておくことが大事なのではないだろうか。

 今後、いくつもの別の集団に所属するようになるはずだから。

 知ったうえで自分や集団がより良い方向に向かうためのエネルギーとしてそれを「活用」できるように。


 「圧力」と言えば何か悪いイメージのみが先行しそうだが、自分を成長させることであるにもかかわらず一人では踏み出せない事に対して、一歩踏み出すための「後押し」になる場合もあるととらえるならば、悪いとばかりは言えないように思う。

 心理のワークショップもそういうものを活用したものがある。


 もちろん、多数決だからという理由で少数意見と「折り合い」をつけないで「押しつぶす」ということはなんとしても避けなければならない。

 「活用」という言葉にかこつけて他者を私利私欲のために「操作」することにはに使ってはならない。あくまでも自他の幸せを願う倫理観は持ち合わせていなければならない(そう願っていてもうまくいかないことはある。だから、行ったことの結果については真摯に見極めていかなければならない)。

 自他の幸せを願うことは、西川先生のおっしゃる「徳ではなく得」につながると思う。長い目でみればWin-Winの関係のほうが強い。

nishinaonishinao2013/09/04 00:08「教育を受けるのは、自分の力を伸ばし、その力を自分が生活している社会に還元するためでしょ?ちがいますか?」

この言葉がすごく衝撃的でした。
今まで、分かったつもりでいたけど上手く言葉にできなかったことが、まさにこれでした。
とても勉強になりました。
ありがとうございます。

子どもたちに勉強の意味を語る時に、参考にさせていただきますね!

daitouirukadaitouiruka2013/09/05 03:34「個人」と「全体」のどちらにも偏らない、どちらにも利益になる「折り合い」のつけ方を見つけようとする姿勢を自分も持ちたいし、こどもたちにも身に着けさせたいです。
私のように「個人」に振れ過ぎていた場合、それを修正しようと今度は逆に「全体」に振れ過ぎてしまいがちなので気を付けたいです。
ありがとうございました。