Hatena::Groupmanabiai

イルカたちの夢

 高知県の小学校教員です。 山間の学校の6年生を担任しています。 よろしくお願いいたします。
ご連絡はkochimana7☆gmail.comの☆を@(アットマーク)に直してお送りください(迷惑メール対策です)。

2012-01-29

教えることは、教師(しかもとりわけ優れた)にしかできないとすれば… 19:02

…その教師が教えた子どもが理解できたことや習得した技能やコツは他の子に伝えられないのだろうか?

なぜなら「教員免許を持っている教師」じゃないから?

その教師の教室では、自分が理解したことを他の子に伝えることを禁じているのだろうか?

なぜなら「教員免許を持っている教師」じゃないから?

休み時間なんかに、

「俺、ここわかんないんだけど。」

「ああ、それってこう考えたらええんじゃない?」

という会話も優れた教師レベルから見ると誤った見立てと手立てであった場合には不都合が生じるので慎むべき行為なのだろうか?

他の子に伝えられないなら、本当にそのことを理解したといえるのだろうか?

他の子に自分が理解したことを伝えられないなら論理的な力が身についたと言えるのだろうか?

理解できたなら他の子がどこで躓いているかが少なくとも理解できている範囲においては見えてくるんじゃないだろうか?

不十分な理解のときには人に伝えてはいけないのならいつまでも伝えられないのではないだろうか?十分かどうかはいつまでたってもわからないと思う。

そのことについて研究を重ね熟練した教師にしかできないような見立てやそれに対する適切な手立てという高度なレベルのものもあるだろうが、全体の何パーセントぐらいなのだろうか?

「そんなこと教えてたってだめだ。それよりもこのことを教えると子ども(大人も)の力がつく」というものがあるだろう。

そういう教材の中身について研究していくことは否定するどころかとても大事だと思っている。そんなことを思いつける人達を尊敬もしている。

…で、そんな研究からできた素晴らしい教材をどうすれば子ども達みんなが理解し使えるようになるかは、また別次元の話だと思う。

「教える」ではなく、「伝える」という言葉を使っている。

「教える」という言葉を、ここでは「完全に間違いのないものを正確に相手の中に移す」というニュアンスで使わせてもらうとして、私の今の『学び合い』のイメージは「伝え合う」とか「ききあう」というニュアンスでとらえている。

「俺、こう考えるけど、どうかな?あなたこれについてどう考える?」という風に考えを伝え合って自分だけの思い込みなどを修正していきながら自分にも他の人にもより納得できるものにしていくことが大事なんじゃないかと思う。

教えることについてすでに間違いなく知っていていて、教授法についても専門である人からしか学べないという姿勢では、世の中に出て、初めての問題に出会ったとき、それについての専門家がまだいないとき、または専門家に学ぶチャンスがないときどうするんだろう?

第一、専門家でない自分が誰が本当に正しい専門家か正確に見抜けるのだろうか?

触れてみて自分で本当に正しいと思えるもの(あくまでも「その時点での自分が」でしかないだろうけど)を探していく経験を積んでいくしかないんじゃないだろうか?

教える人(専門家)も大変だ。一番知っている人(自分)しかきちんと教えられないから、その素晴らしい考えや教え方が広まるにつれ、いつまでもますます忙しくなっていくしかない。結局自分に代わって教えられる人を育てていくしかないんじゃないだろうか?そのことは、大人の世界と子どもの世界でどこでどう分けられるのだろうか?卒業と同時に突然切り替えるのだろうか?

「教師に代わって教えることなんてできない」という言葉が、「教師に代わって一人の子どもが他の子達に対して一斉授業を行うことができない」という意味ならそうかもしれない(中にはできる子もいるかもしれないが)。

学ぶということや教育するということが、他とかかわりなく個人内の力をどう効率よく伸ばすかということのみに関して言えばそうかもしれない(いや、それすらいつもとは言い切れないと思っている。ましてや人数の多い学級においては)。

そして、そこでつけた力について「あのすごく教え方が上手な教師に学んだおかげで『俺は』力がついたな。よかったな。」ということで終わっていいんならそうかもしれない。

「いや、そういった心の面は道徳とか普段の学級活動でやるんだ」というのかもしれないが、心の問題だからこそ教科指導の中でも同様にその姿勢を持って指導するほうがそれこそ本当に身につけるためには「効率」がよいのではないだろうか?


もう一つ。「教える」と「学ぶ」についてだけど、「学ぶ」のは教える人が意図していなくても「学ぶ」ことはある。

無生物からだって「学ぶ」ことはあるから。

他の人がしていることを見て学んだことは、専門家が意図して教えたことじゃないのでだめなのだろうか?

「無知で愚かな者同士が集まっていくら考えても意味がない」ということだろうか?

その人から見ると相対的に無知で愚かに見え、結果として愚かな選択をしたとしても、その中で精一杯知恵を出し合ってなんとかしていかなければならない状況は日々そこらへんにころがっている。そんな条件の中でもなんとかしていこうとする姿勢は培っていなくていいのだろうか?

その集団だけではどうしようもなくなってさらに知りたいときに自ら動いて資料を調べたり、より知っている人にうまく教えを請う術を身につける訓練をできるだけ多くしておくほうがよいのではないだろうか?

その人は誰と比べて知識豊富で賢いのだろう?


以上のことは、特定の誰かの意見をしっかりとすべてリサーチして述べたことではありません。

「そんな意味で言ってない」とか「そこまでは言ってないでしょ」と思われる方もいるかもしれませんが、あくまでもタイトルの「教えることは、教師にしかできない」という言葉について私が勝手に想像を広げたものについて自分で疑問を述べただけです。

maya-1maya-12012/01/29 21:26お久しぶりです。興味を持って読ませていただきました。いろいろと考えさせらえました。

daitouirukadaitouiruka2012/01/29 21:50maya-1さん、お久しぶりです。
ああやって書いてみたものの、自分でもまだまだわからないことだらけで(だから「?」マークだらけです)1度UPしたものの、また付け加えたり削ったり、付け加えたけどやっぱり消したりしていました。
その間にコメントをいただいていましたので、お読みになった時点のものとは少し違っているところもあるかと思いますが…。
批判に対して「これを見ろ。文句ないだろ。」なんていえるほどの実績は私個人としては残せていないので、本当に自分自身に問うているところもあるのです。

ありがとうございます。

2012-01-22

教師間で学び合うつながりが少なくなった原因の一つは… 11:02

昨日、四万十市の『学び合い』の会に遠方から2名参加してくださった。


高知県って東西に長いから、参加してくださる方も大変だ。

学び合い』に直接は関係ないが、現場の話も色々聞けて有意義だった。

同じ高知県内でも自治体によって本当に「常識」が違っていることをつくづく感じた。

「そんなことが…」っていうような驚く話があった。詳しくは書けないが…。

もちろん逆もありで、私自身も他の人からみれば「とんでもない」って思われてることはあるだろう。

交流が少ないと、それぞれの場所の「常識」がどんどんかけ離れていく。

学校外で教師が学び合う機会が少なくなっているように思う。いや、いくらか機会はあっても参加する人が少なくなっているように思う。

以前同僚と話し合ったこと。

「土日は自主的な研究会なんかもっとあったし、自分達も参加したよね。」

「研究会じゃなくても、同僚と一緒にご飯食べながら話したり。」

それがなくなった。

一つには、以前あった土曜日の半ドンがなくなったことも大きな原因じゃないかと。

教師にとっては「その日」は仕事モードのスイッチが一度入っているし、一旦一箇所(学校)に集まっているということでそのままの流れで誘い合って行くということがあった。

ところが今は朝1人で布団の中で考える。「今日、行こうかな~。まあ、ちょっと体もだるいし、やっぱやめとこか~。」というようになりやすいように思う。

それともう一つ。

研究所で講座を企画して呼びかけたとき、

「平日は忙しいし、学級の子を置いては参加しにくい。」

という意見もあったので、土曜日に講座を企画すると、

「子どものクラブがあって連れて行かないかんので。」

ということでやっぱり来れない。

休日のわが子のクラブが、土日が休みになったことでさらにハードスケジュールになった。

それに合わせてその親である教師も忙しくなり、自分の研修の機会がまた減ってしまったように思う。

「行く気があれば、何とか都合をつけて行くことはできる」というのはもちろんあるが、「どうしようかな?」と迷っている人が一歩踏み出す機会は確実に減っていると思う。

bunbun-hbunbun-h2012/01/22 20:58>「学校外で教師が学び合う機会が少なくなっているように思う。」
10年ぶりに役場に戻って1年が過ぎてみて、私も同じようなことを感じます。(私がここに書こうとすることは土日のことではなく平日のことですが)
昔は、郡内の(ときには県内の)同じ業務を担当する者が集まる仕組みがいくらかはあって、ときには飲食を共にするということもあったのに、いまではそれは皆無に近い状態です。
そういう状況のなかで1人で実務を行っていくのは、とても大変です。
田舎の役場なので1業務1担当ということもあり、「学び合う」という機会やそのきっかけがなく(しかもその余裕もなく)、孤独な不安感のなかで業務を行っていかなければならないのが現状です。(これは世の中のあらゆる業種で起こっていることなんだろうとも思います)
ところで、私が行けなかったあの講習会はどうでしたか?
私の「濡縁ブログ」の方に私たちのクラブの様子を載せたんですが、その動画を何回も見ながら、子どもたちの動きはなかなか「武術的」であると改めて感心しているところです。

daitouirukadaitouiruka2012/01/23 07:36bunbunさん、ありがとうございます。
「1業務1担当」。精神的にもしんどいでしょうね。
自分の思い通りになる(いろんな縛りはあるでしょうが)反面、責任も重くのしかかる。そして、自分以外の考えが入りにくいのでどうしても偏ったものになりがち。引継ぎはあるでしょうが、抜かりがあって前任者に聞こうにも近くにいるとはかぎらない。
大変ですね…とここまで書いたところで、私の思考のくせが見えてきました。
上記の文、「反面」の前と後ろを入れ替えれば明るくなるのに、マイナスのほうを後ろに持ってくるからしんどさがクローズアップしてしまってますね。
気をつけよう。

ところで、武術の講習会、よかったですよ。

おっと出勤時間。続きは後ほど。