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峰本のくもり時々「学び合い」日記

2010-12-06

[]ブッククラブの理論的背景を探らなければならんなぁ 23:26

 私の研究テーマは「電子掲示板を活用した、協調学習を組み入れた読書レポートの実践」である。読書レポートを電子掲示板を使って書き込ませることは前からやっている。そこに協調学習を組み入れて、より効果的に行おうと考えている。

 言うなれば、「オンラインのブッククラブ」である。読書レポートをオンラインで書かせるということは、つまりはオンライン上でブッククラブを実施する、ということだ。

 それならば、ブッククラブが何故必要なのか、ブッククラブは何故国語科の学力にとって効果的なのか。その理論的背景を探らなければならない。ブッククラブしかり、リテラチャー・サークルしかり、リーディング・ワークショップしかり、である。それらの拠って立つ理論的背景をしっかりと理解した上で、それをオンライン上で行う意義について考えねばならない。それをして初めて、私の研究の方向性が確保される。

 なかなか物事はそう簡単には分からないものだ。これらのことは、考えてみれば当然なのに、今日、本を読みながら、その本に書き込みをしている最中に気づいたことだ。

 やはり本を読みながら、思いついたことや考えたことを本に書き込むことは大切なのだなぁ。書き込みはいわば本との対話の跡である。本への批判的検証だとも言える。こうした読み方はとっても大切だ。これを教室でも教えるべきではないかなぁ。

2010-11-22

[]全日本教育工学研究協議会全国大会【上越大会】で発表してきました 23:43

 ここしばらくblogを更新できなかったのは、この大会の準備のためであった。先週の土曜日、本校ではNHKの大越健介氏が母校で講演をしていた最中、私は上越に行って上記大会で発表してきた。

 この会は、上越教育大学の石野正彦先生の紹介で発表申し込みをし、そのためにずっと準備してきたものである。ここにおいて「Web掲示板を活用した読書レポートに対する考察 ー掲示板の利用状況から探る改善の視点についてー」と題して発表した。これはWeb掲示板を使った読書レポートの実践について、その掲示板の利用状況や生徒アンケートから今後の可能性と改善の視点について考察したものである。今まで、様々な場面においてこの実践を発表してきた。2年間にわたって実践したので、その途中での状況や一応終わってからの状況などをその都度発表した。今回は、その結果の分析と改善の方向性について考えたものである。これで、2年前のこの実践は完結したことになろう。

 やはりこうした学会での発表は良い。15分間という短い時間ではあるが、12分間にわたり発表し、さらに質問を受けた。また、全て終わってからまた意見をいただいた。以下の3点である。

  • 紙媒体で提出した生徒のレポートは、掲示板を活用した者と同様に交流する機会を設けたのか?
  • 実名でレポートを提出させたことによる、生徒の抵抗感はなかったのか?
  • かなり長い分量のレポートに対して、気軽にコメントをつけるのは抵抗感があったのではないか、もっとレポートを短くさせ、コメントも短くさせればよいのではないか?

 最初のものは確かにこの実践の弱い点である。紙媒体で提出した生徒にも交流の機会を与えるべきであった。そうでないと、意見交流を起こさせるという目的が中途半端になってしまう。

 2番目の指摘はこの実践において常につきまとうことであろう。だが、誹謗・中傷的な書き込みを防ぎ、学習指導の一環として行う上では、譲れない点である。

 3番目の指摘は「目から鱗」のものであった。確かに長い文章に対してはなかなか気軽に書き込みがしにくいだろう。ツイッターが代表するように、短いつぶやきに対しては短くすぐにコメントがつく。それが、長いレポートにコメントするには気構えてしまうのではないか、という指摘はなるほどと思えた。

 実は、自身の発表とともに、今回は私が発表した分科会の司会進行も頼まれてしまった。そこで、9人が行った発表の全てを聞きながら、司会進行も行った。しかし、おかげでICT利用におけるいろいろな現状を知ることができたし、私の研究におけるヒントもいただいた。JNK4の情報活用リストは確かに使えるかもしれない。

 午後からはパネルディスカッションに参加して、5人の先生方が繰り広げる議論を興味深く聴いていた。ツイッターのつぶやきが同時中継で映し出され、フロアからの意見の吸い取り方としてのトレンドな形を目の当たりにすることができた。

 いやぁ、有意義な1日だった。家族には迷惑をかけたが、私の研究には実に有意義であった。

2010-10-22

[]電子掲示板の授業活用実態 09:10

 今日の授業は9組の現代文と10組の古典。それぞれ「材のいのち」を、設問の考え方・既有知識の働かせ方を解説しつつ解説していったり、「帰京」に入って、紀貫之の自邸の位置を確認させたり、十六夜月・立待月・居待月・寝待月などの解説をしたりした。

 午後は、電子掲示板が国語科の授業でどのように活用されているかの実態を調べるため、ネットで検索して事例を集めた。いくつかの事例を得ることができた。小学校が主で、時々中学校での活用事例がある。珍しく高校での事例があると思って、喜んでクリックしてみたら、私がセンター時代に扱った授業や講座だった。な〜んだ。でも、逆に言えば、それだけ高校での活用事例は乏しいのかもしれない。

 それらの事例を一瞥してみて気づいたが、自分のものも含めて、電子掲示板を児童・生徒の意見交流に使ってはいるものの、ただそれだけなのである。つまり、電子掲示板に子どもの意見を書き込ませ、それを互いに読ませて、コメントを入れる。ただそれだけ。電子掲示板に意見を書き込ませ、それにコメントを入れることで意見交流が成立するとしている。だが、果たしてそうだろうか? 果たして、それで生徒の知見は深まっていると言えるのか。そもそも、そうした活動は電子掲示板でなければ成り立たないことなのか。回覧作文でも同程度の交流は十分できるではないか。電子掲示板をあえて活用する理由が見えない。

 整理しよう。

  1. 電子掲示板によって新たな知見を生み出す、交流を起こすための意図的な仕掛けがない。
  2. 電子掲示板という特性を真に活用した実践と言えるのか分からない。

以上2つの疑問点が湧いてきた。

 『デジタル教材の教育学』(山内祐平著・東京大学出版会)によれば、BBSなどを利用して授業を行うことには社会構成主義という背景理論がある。その社会構成主義に基づく仕組み・仕掛けを導入していかなければ、真に電子掲示板を活用する意味はないのではないか。

 では、どのようにデザインをしていくべきなのか。私が考察すべき流れが見えてきたようだ。

デジタル教材の教育学

デジタル教材の教育学

2010-08-10

[]日本国語教育学会全国大会での発表が終わった

 日本国語教育学会の全国大会高校部会で発表を終えてきた。いやはや、ハプニング連続の発表だった。

午前の発表

 まず、会場到着に遅刻してしまった。私の予想以上に移動に時間がかかり、しかも会場の二松学舎大学への道に迷ってしまった。そして、たどり着いた建物の中で迷ってしまい、会場に着いた時はすでに1番目の方の発表が始まって20分後ほどであった。さらに、その移動中の蒸し暑さと遅刻への焦りからか、びっしょり汗をかいてしまった。もう、川かプールに落ちたかと思われるくらいの状態で、自分でもあれほど汗をかいたことはないくらいである。仕方なく、すぐに会場を出て前日着ていたものに着替えた。司会の方が私の到着が遅れたせいだろう、プログラムを変えてくださり、1時間半後に私の発表の番となった。ところが持参したPowerBook G4(OSX 3.9)を会場のプロジェクタに接続したのだが、Macがプロジェクタを認識してくれない。いくらやってもダメなので、プレゼンは諦めて、ペーパーのみで発表した。

 発表の内容はさんざんであった。プレゼンを用いれば時間はある程度読めるものの、ペーパーを使ってのものだったので時間配分が読めず、制限時間を大幅に超過してしまった。これは学会発表では一番やってはいけないことである。

 それでも数人の方に質問をしていただけた。非常に参考になる質問内容だった。私の考えを整理させてくれた。ありがたい。

 指導者の先生が2人おられて、そのお二人から指導をいただいた。厳しいご指摘だった。しかし、その内容の多くはうなずけるものだったので、これもまた非常にありがたいお言葉だった。学会というのは、単に「よかった」と言うだけでは何の意味がない。厳しいご指摘をいただくことで自分の実践を反省でき、次の実践へとつなげていける。厳しく言われたことは、かえって私にとっては勲章である。非常にありがたかった。納得し得たご指摘を活かして、次の実践につなげたい。

午後のワークショップ

 午後も会場に迷いながら、日本女子体育大学附属二階堂高校の佐藤広子先生のワークショップに参加した。これは広島大学の田中宏幸先生が進行および解説・助言を務められた。このお二人のコラボレーションが非常によかった。

 佐藤先生はライティング・ワークショップの研究会でご一緒した先生である。今回のワークもライティング・ワークショップの手法を活かした内容である。そのワークも非常に楽しかったし、参考になった。

 何より、佐藤先生のライティング・ワークショップの授業の内容に圧倒された。ミニ・レッスンの内容の豊かさに目を見張った。また、その評価方法の緻密さに驚いた。生徒の自己評価と教師の評価を毎時間行い、すりあわせをしているそうだ。そして生徒が清書して製本した作品の評価と合わせて評価を出しておられるという。いやはや、素晴らしかった。

 期待通り、いや期待以上の素晴らしいワークだった。

ライティング・ワークショップの仲間たちと

 この佐藤先生のワークには、2年前に参加したライティング・ワークショップの研究会での仲間も参加しておられ、ワークが終わったあとでこの仲間たちと一緒に少しお茶することができた。佐藤先生や田中先生も来られて、ほんの30分くらいであったが素敵な時間を過ごすことができた。

 私がなかなか東京に出てこられないので、わざわざ時間を取ってくださった。こうした仲間の支えが本当にありがたい。佐藤先生は午前中の私の発表も聞いていてくださり、よい実践だったと評価してくださった。みんな、ありがたいの一言の時間だった。

 帰りはまたまた大汗をかきながら、無事新潟に帰ることができた。これで、5月から授業を始め、7月に資料をまとめてきた今年の大イベントが終わった。プレゼンが無駄になったのは残念だが、非常によい経験であった。今回の実践はぜひ論文にしてまとめたい。

 さあ、次は聖書学び会の準備だ!

2010-06-25

[]読書教育論

国語科授業研究の深層―予測不可能事象と授業システム

国語科授業研究の深層―予測不可能事象と授業システム

 授業を終えてすぐに大学へ。読書教育論の指導である。藤森裕治氏の『国語科授業研究の深層』を読み、その研究課題と結論、および研究方法について検討する、という内容である。様々な研究の研究方法について検討するというこの授業は、非常に参考になる。と同時に、私の準備の甘さも露呈することになる。

 私はこの準備のために早朝4時30分に起きて、マップ風にまとめていった。はい、私が今朝早く起きたのはワールドカップ観戦ではありません。もっと個人的な必要に迫られていたのでした。

 私の準備は甘かったが、授業の内容は大変参考になった。こうした授業は今ところ月1回ペースで行われている。私にとっては準備が大変で苦しいのだが、素晴らしい授業である。

2010-06-05

[]結局、狙いと方法が一致しないんだな 08:07

 金曜日は来週行われる体育祭の代休日であった。と同時に、大学院の研究指導が午後からある。その準備に、午前中は(というか夜中から)忙殺された。はい、ちゃんと「宿題」があるんです。この年になって宿題に追われるようになるとは思わなかった。でも、そうした宿題でもなければ、仕事をしながら研究をしようなどということはできないかもしれない。だから、非常にありがたいことだと思っている。

 研究指導は公刊されている博士論文を読み、それについてレポートをするというものである。今読んでいるのは、私のマップ指導の基本文献といえる『語彙力と読書』(塚田泰彦著)である。

 しかし、結果からいうと、私は全く勘違いをしていたことが明らかになった。というより、ちゃんとそのように指導され、指示されていたのに、私はそれを守らなかった、ということである。指導してくださっている先生は私に「博士論文の構成や手法、論の運び方を見て、まとめてくること」を課題としておられた。しかし私は本の内容をまとめてしまったのだ。

 うーむ、そういえばそうだよねぇ。確かに今回の本は私のマップ指導と深い関わりのある本ではあるが、そして「読解」と「読書」の乖離という問題や「読書」という読みの指導があることに気づかせてくれたりして、ついつい内容の理解に意識がいってしまったのだ。また、先生から上記のような指導を受けていたのに、何しろそれから1か月以上経ってしまったからね。

 先生はそのことを指摘してくださり、博士論文を読むことの意義をもう一度教えてくださった。うーむ、やはり人間は対面で教えてもらわない限り、自分の間違いに気づかないもののようである。

 次の課題もいただいた。今度は、この宿題が自分のためであることをしっかり自覚して取り組まねば。

 その後で、修士の大学院生のゼミに参入させていただいた。その場所で、今取り組んでいる「羅生門」をグループで読む授業について報告し、意見をいただいた。ここでもまた、私の取り組みの甘さが露呈されることになる。

 私は、今回の授業の目的として「生徒自身が自分で問いを立てるようになること」を挙げている。様々な読みの方法を経験すること、そして生徒が自分で問いを立てる力を育てることが重要な点である。しかし、私は生徒に読みを立てることを要求していながら、自分で「質問例」をプリントにして与え、さらにその解答例まで与えている。実は、一連の学習の終わりに、教科書傍用ワークをプリントにして与えようとまで思っていた。それらはすべてテスト対策である。今回の授業は教師主導の形はできるだけ押さえているため、それでは不安に思うであろう生徒の負担軽減のためにこれらの質問例やらプリントやらを与えている。当然のことながら、それは授業の目的である「生徒自身が自分で問いを立てるようになること」を自分自身で否定している授業になってしまっている。

 うーむ、これまた自分の甘さを深く感じさせることになってしまった。この授業の構想を立てていた時は、生徒が自分で問いを立てることも狙い、さらに質問例を与えることで不安の解消も狙ったものだった。だが、それが目的と方法の不一致を招いてしまったのだ。

 やはりこういうことも、人から言ってもらわないと気づかないものだ。自分では、自分のやり方には一応一貫した理由があると思っている。しかし、当事者にはその矛盾点が分からなくなってしまうことがある。他人の目の重要さを、今更ながら気づかされた。

2010-05-06

[]Reading教育の奥深さに圧倒される 00:01

 午後からは、前からの約束に従い大学へ。私の指導教員である足立幸子先生が、「授業づくりネットワーク」の上條晴夫さんのインタビューを受ける、というのだ。これはぜひ傍聴させて欲しいと頼み込み、喜び勇んで出かけて行く。ついでに私の研究計画も相談しにいく。

 いやぁ、すごいインタビューだった。私が研究室に到着したのは14時だったが、上條さんはもっと早くに到着していたらしく、私がお邪魔した時には既にインタビューは始まっていた。その14時前から始まり、終わったのは17時。延々3時間、その間全くノンストップでインタビューが続いた。しかし、隣でお二人の話を聞いていて、全く飽きなかった。3時間もたっていたなど少しも感じない、ものすごく密度の濃い時間だった。

 インタビューの内容はここでは書かない。いずれ、『授業づくりネットワーク』誌上で発表されるだろう。上條さんが最近取り組んでいるライフ・ヒストリーの手法で、足立先生が何故Reading教育に取り組んでいったかが、本当に素人にも分かりやすく解き明かされていった。と同時に、上條さんがライフ・ヒストリーという手法を用いるその背景もよく理解できた。いやぁ、こんなに一石二鳥の素晴らしい機会はない。お願いして良かった。

 と同時に、私の研究計画の未熟さ、不十分さも否応無しに自覚させられた。まあ、私自身がまだ自覚していないのだから当たり前だが。私も手探りで、自分のテーマを探していくことになるだろう。研究とはおそらくこうして始まるのだろうし、そのテーマの確定が一番難しく、辛く、苦しいところだ。と同時に、これをつかみさえすれば、後は時間と体力の問題である。

2010-05-04

[]教育研究はパッション(情熱)の表明である 17:59

 縁あって、足立幸子による滑川道夫読書教育論についての諸論文を読んでいる。合わせて、最近発表された滑川読書教育論についての論文2編も概略をつかんだ。

 私はこれを、研究の仕方を学ぶために読んでいる。研究とはいかなる行為なのか、そして研究とはどのように行われるものなのかをつかみたいと思っている。その結果理解したことは、「教育研究とはバッションの表明である」ということだ。

 足立氏も他の2編の論文も、滑川読書教育論について取り上げている。これは、読書教育論の主要論者である滑川道夫氏を取り上げることで、最近必要性が痛感されている読書教育の源流を探り、背景について考察している。これらは、今、読書教育についてしっかり考えなければならないのだ、という情熱に基づき、それをしっかりととらえるためにも滑川道夫氏を取り上げている。つまりは、研究者のパッションの表明と、その証明とが動機となっている。

 思うに、広く研究とは、そして教育研究とは、こうした研究者のパッション(情熱)を表明しようとする行為なのではないか。自分が必要だと思ったこと、理解したいと思ったこと、あるいは疑問に思ったことを知りたい、理解したい、そして知り得たことを言い表したい、という行為なのだと思う。

 そのパッションさえ存在すれば、それを表明する方法はきわめてプラクティカルになる。

  1. 自分の知りたい、と思う分野における先行研究を探す
  2. それを読んでその不備の部分や未解決な部分を確定する
  3. それらの解決に必要な資料・文献を探す
  4. 以上をまとめる

ということになる。

 教育研究の場合はさらに、「解決法となる授業を開発し、実践して、効果を測定する」ということが加わるだろうか。

 これらの行為の中で、最も重要なのはパッションの部分、つまり「問いを立てる」ということになる。各種の研究法の本がこぞってこの「問いを立てる」ことの重要性を説くのは、そのためなのだろう。

 さて、私はどんな問いを立てることができるのだろうか。足立先生は、「その問いが『良い』ものであるべきだ」と教えてくださった。つまり、関係者から、あるいは一般から、その問いは解決するに値するものであると認められる問いであるべきだ、というのである。その通り。解決しても何の役にも立たない問いは、単なる自己満足に過ぎない。「良い問い」を立てること、これが私の目標である。

2010-04-30

[]リテラチャー・サークルについて 02:27

 連休中の課題の1つ、リテラチャー・サークルについての論文を読む。これを理解するとともに、自分でも実践できないか考えてみようと思っている。

 リテラチャー・サークルを導入しようとする理由として、「読書」という行為にも様々なアプローチの仕方があり、また「読書」という行為そのものが様々な方法によって行われるものなのだということが分かった。これは驚きの知見である。「読書」はただ本を読むだけではなく、その読むという行為の中にも様々な知的活動を総動員して行われる行為なのである。よって、読書を教えるためには、単に「さあ読もう」と声をかけるだけではなく、様々なアプローチの仕方が必要だ、というのだ。これには少々驚いた。

 読書行為には「読書前」「読書中」「読書後」の3つの場面があるという。その中で、日本の読書教育は「読書前」と「読書後」の指導法はいくつかあるだけで、バランスのとれたものではない。そこで、バランスのとれたリテラチャー・サークルが有効であるはずだ、という。そして、「読書中」の指導として、日本の国語の授業で行われているのはこの指導が中心だ、という。確かに、「読書教育」としてはバランスがとれていないかもしれないが、「読書教育」指導+国語の授業、によってバランスがとれることにはならないのだろうか。国語という教科全体において、バランスがとれているのではないだろうか。

 理屈はそうだろうが、読書教育そのものがあまり行われていない現状では、やはりアンバランスな教育内容になっているのだろうね、日本の国語教育は。