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峰本のくもり時々「学び合い」日記

2010-12-22

[]またも牧水の歌までで今年は終わり 11:34

 9組での授業。前回は啄木の歌の途中で終わってしまったので、そこから再開する。

 母を背負った時に「そのあまり軽きに泣きて」と続く、その「軽き」を感じた時に何故泣くのかを生徒に考えさせる。「お母さん、良かったねぇ、ダイエットに成功して」みたいな感涙ではないよなどと軽口をたたきつつ、軽いことを感じて涙を流すのがけっして当たり前のことではないことを気づかせる。生徒に指名したところ、「母が衰弱したのに気づいたから」と答えた。悪くないと断りつつ、「たはむれに母を背負ひて」とあるから、この母は健康であることを指摘する。もし病弱ならば「たはむれ」ではないからだ。別の生徒に指名したところ、「年を取ったから」と答えた。そちらの方向だろうね。そこで、母が年老いたことに気づいて涙を流したのだ、とまとめる。

 そして、「たはむれに母を背負ひて」という親愛さからは歩みが進むだろうし、母が意外にも年老いたことに気づいた悲しみからは歩みが止まるだろう、その二つの感情のせめぎ合いが「三歩」という歩数なのではないか、と指摘した。「一歩」では止まりすぎる、「五歩」では進みすぎる、「三歩」という歩数が二つの相反する感情のせめぎ合いとして適当な数ではないかと思うのだ。

 次に牧水の「白鳥はかなしからずや」の歌を扱う。疑問点を出させてさまざまに検討した後、牧水の孤独を主題として先に示し、その根拠を考えさせる。生徒からは「空の青海のあをにも染まずただよふ」の箇所を指摘して、白鳥が周囲の青に染まっていない点を答えてくれた。ちゃんと色彩のコントラストを指摘している。

 次の茂吉に少し入りかけたが、時間切れ。今年はこれで終わりである。短歌はなかなかおもしろい授業が展開できる。疑問を持たせやすい点、それについて吟味しやすい点、さらに主題を先に示してその根拠を考えさせやすい点がとてもいい。短歌の授業はもっと取り入れるべきだなぁ。

2010-12-21

[]「古畑型授業」による短歌の授業の意義 02:38

 3組での授業。短歌の授業の1時間目である。今日は55分授業なので、与謝野晶子の短歌のみしか扱えなかった。

 このクラスはいつもは非常に反応が良く、楽しいクラスである。しかし、この短歌の授業にあってはいつもの反応の良さが少し潜んでしまう。晶子の短歌を書写させ、疑問点や発見を話し合わせて述べさせたのだが、あまりこちらが期待するような発言がなかった。勢い、こちらの方で検討すべき点を述べてしまう。そうすると何となく主導権が教員に移ってしまう。

 ただ、その後の、この歌に対する評価を先に掲げ、それの根拠を指摘させる段階では、まあまあの反応をしてくれた。晶子のこの歌は、解釈がなかなか難しいのだね。表面上の意味は取りやすいが、「黒髪のおごりの春」が「うつくしきかな」と続くあたりは、生徒自身が意味に気づくには難しいだろう。

 他の学校の国語教師を親に持つ生徒がいるのだが、その生徒は他の同僚の授業を受けている。その生徒が「短歌の授業は、生徒に何だかんだと解釈をさせるのだけれど、結局先生が解釈をまとめて押しつけてしまうのだから、だったら最初から先生の解釈を伝えればいいのに」と感想を言っていたそうだ。

 ありがちな感想だと思うが、やはり真実をついているのではないか。短歌は短いだけに、なおさら教員の解釈の押しつけという印象を受けるのだろう。

 そこから、逆に「教員の解釈を先に示し、それが成り立つ根拠を考えさせる」という「古畑型授業」の有効性が、やはり支持されるのではないかなぁ。確かに、生徒がどんなに解釈をしても、結局教員の解釈にまとめられてしまっては、生徒には徒労感が残るだろう。

2010-12-20

[]「空の青/海のあを」ってどんな青? 07:08

 6組と3組の授業。ただ、3組は都合によりかるた練習会を行った。よって、現代文の授業は6組のみ。

 6組ではまず石川啄木の3行分かち書きの短歌表記について説明した。最初に

石川啄木の短歌の最大の疑問って何?

と聞いてみた。すると3人目の生徒で

3行で書かれていること

と答えてくれた。いやぁ、やはり大したものだね。啄木の歌を見慣れていると、3行分かち書きがあまり不自然に見えなくなってしまうが、やはり真っ直ぐな目はちゃんとそれを捕らえてくれる。

 啄木の3行分かち書きについては、あるいは様々な意見があるのかもしれない。しかし、私は今回このように説明した。『日本の詩歌』の解説を参考にしてある。

 そもそも取り上げた歌は虚構の歌である。実際に母を背負ったのではなく、幻影の母を思い描いていたのだ。では何故か。それは啄木が母や妻や長女を函館に残し、一人上京して小説家として身を立てようとしていた時だ。しかし彼の小説は売れず、失意と孤独の中で彼は一人自室にいた。その中で幻影の母を背負うという虚構を歌ったのである。小説家を目指した啄木にとって短歌は「遊び」であった。まさに「一握の砂」に過ぎず、「悲しい玩具」に過ぎなかった。だからこそ形式もこだわらないものとなった。また内容も生活から浮かび上がる印象を綴るものとなった。しかしそれだからこそ、彼の短歌は革新的だったのである。

 専門的には違うのかな。『日本の詩歌』の解説を読んで私が理解したことは以上のようなことなのだが。

 さて、続いて若山牧水の「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」に移る。

 最初にこの短歌の疑問を上げさせる。真っ先に出てきたのが「空の青/海のあを」と「青」の表記が違う、ということだった。おそらくこれは中学校でも教わっていたことなのだろう。でも、この短歌の要となる疑問だ。

 次に「染まずただよふ」で、何故「ただよふ」という表現を使っているのか、という疑問が出てきた。そこで、この「ただよふ」は空の中を漂うのか、海の上を漂うのか、と聞いてみた。生徒に手を挙げさせたところ、空の方が優勢だった。

 続いて「白鳥」とは何の鳥か、と問うた。2人目で「カモメ」と答えてくれた。そうだろうね。海にいる白い鳥だからカモメが適当でしょう。しかしこれを「カモメ」と言い表さず、「白鳥」と書いたところに意味がある。これは「白」と「青」との色彩的コントラストの歌だからだ。

 さらに「かなしからずや」の「や」は疑問にも反語にも取れる。疑問なら「悲しくないのだろうか」、反語なら「悲しくないはずがない」となり、疑問より強くなる。どちらが適当かと問うたところ、疑問と取った者が大半だった。これは牧水の孤独にどれだけコミットするかによるのではないかなぁ。

 さて、これらの疑問を検討した後で、この短歌の主題を掲げる。むろん、「暗い恋に苦悩する青春の孤独」である。まずは背景となる牧水の恋について説明した後、「孤独」を読み取れる根拠を生徒に問うた。生徒は「空の青海のあをにも染まずただよふ」の箇所を挙げた。そこで、「青」と「あを」の表記の違いについて説明した。空の青色と海の青色とは違う。そこで表記を変えた。しかし、その二つの青にも「白鳥」は染まらないのだ。

 うーむ、このところは私が説明しないで生徒に少しでも聞いてみるべきところだったなぁ。この歌は中学校でも学習している者がおり、この箇所もおそらく説明を受けているだろう。その知識を持っているなら、それを活用すべきだった。いかんいかん。

 以上で牧水の歌の説明は終わり。斎藤茂吉の歌に行こうとしたが時間切れだった。この歌は年越しとなる。

2010-12-16

[]短歌の授業で「古畑型授業」を試みるPart2

 9組での授業。昨日と同様、与謝野晶子と石川啄木の短歌を「古畑型」授業で実施する。このクラスでは、昨日の6組での反省を活かし、与謝野晶子の短歌を教える際に、到達点を巷間の評価ではなく、短歌の主題そのものとした。つまり、

この短歌の主題は「自己を肯定する青春への賛美」である。その根拠を短歌の中から見つけよ。

という課題を与えることになる。

 授業は、まずは短歌への発見・疑問を上げることから始めた。生徒からは次のような解答を得た。

  • 「おごりの春」が「うつくしきかな」とつながるのは何故か
  • 何故「春」なのか
  • 「黒髪」と「おごりの春」とのつながりがよく分からない

最後の疑問は、まさにこの短歌の核心部分をついたものである。よくぞここに気づいてくれた。

 その後、短歌の主題を示して、その根拠を指摘させた。生徒からは次の解答を得た。 

  • 「おごりの春」の箇所がそれらしい
  • 「うつくしきかな」

だいたい以上のようなものであった。あまり予想したほどには発言は活性化されなかった。むしろ、昨日の6組で示した世評の方が、もっと活発に話が出たように思う。うーん。クラスの雰囲気の差なのか、それとも主題を示してその根拠を探させるという課題はあまりに易しいのか。

 上記のような指摘が出ることは当然予想していた。むしろ、それが出てきて欲しい。ただ、ここで考えさせたいのは、何故「春」を「おごる」ことができるのか、春を、つまり自分の青春を「うつくしきかな」と歌えるのは何故なのかということだ。つまりはその革新性、斬新さを見いだして欲しいのだ。

 その目的から考えると、短歌を当時の時代背景から考えることを思いつかない生徒はそうしたことを疑問にも感じないだろうなぁ。青春が美しいのは、彼らにとっては当然のことだからだ。ある生徒は友人との話し合いの中で、「二十なのだから、成人式に参加した時(初春だから季節はあっている)の歌ではないか」と解釈していた。うーむ、誤読も甚だしいが、しかし短歌以外の情報を持っていない状態では大健闘した解釈だと言える。

 本文に書いてあること以外の情報を用いて本文の解釈を深める、という能力は、やはり意識的に育てなければならない。こちらがそうするだろうと期待だけするのは難しいことなのかもしれない。不可能ではないだろうけれどね。

2010-12-15

[]短歌の授業で「古畑任三郎型授業」を試みる

 6組での授業。他に9組もあったのだが、こちらはテスト返しと短歌の口語訳を自主学習させていた。

 さて、6組での授業である。今回の短歌の授業では以下の4首を取り上げる。

  • その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな(与謝野晶子)
  • たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽ろきに泣きて/三歩あゆまず(石川啄木)
  • 白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(若山牧水)
  • のど赤き玄鳥ふたつ梁にゐて垂乳根の母は死にたまふなり(斎藤茂吉)

 今日はこの内の最初の二首、晶子と啄木の歌を取り上げる。この歌を理解するために、「古畑任三郎型授業」を試みてみた。

 「古畑型授業」とは、古畑任三郎のドラマのように、教材の主題や肝心なところを先に伝えてしまい、そのことは教材のどの箇所から言うことができるか考えさせる、というものである。短歌の授業の場合、晶子や啄木の短歌の主題や評価を先に示して、この主題や評価は短歌のどの部分から言えるかを考えさせることになる。考えてみると、小説や短歌などを授業で扱う際に、今学んでいることがどこへ着地するのかが分からずに暗中模索して、結局は教師のまとめを受け入れるだけの従来型授業(「名探偵コナン型授業」と言います)よりも、どうせまとめをせねばならないのなら、最初からそのまとめを生徒に提示し、それが成立する理由を考えさせた方が安心するし、自らの意志で探索する授業になる。国語の場合、「古畑型授業」はぜひ取り入れるべき形式だ。

 さて、授業はまずは与謝野晶子の短歌を取り上げる。短歌をノートに五行分かち書きで書写するよう指示する。しかも、行間を二行ほど取るように、と。この行間にさまざまな気づきや解説を書き込むためである。下のような感じ。

その子二十



櫛にながるる



黒髪の



おごりの春の



うつくしきかな

 次に、この短歌を何度も読んで、「何か不思議だなぁ、変だなぁ、何故だろう?」と思う箇所をどんどん見つけるように指示する。その際、「形式・句切れ」の面と「表記・表現法」の面と「語句」の面とから考えるよう指示する。

 この歌は初句切れである。それはいいが、例えば次のような疑問が湧くだろう。

  1. 「その子」とは誰のことか。
  2. 何故「二十」なのか。「十九」ではいけないのか。
  3. 「ながるる」とひらがな表記なのは何故か。
  4. 何故「春」なのか。
  5. 「の」が重ねられているのはどんな効果を生むか。

 生徒は「櫛にながるるが良いと思った」とか、「おごりの春って何か」とか答えてくれた。「櫛にながるる黒髪」ってどんな黒髪? と問うて、ストレートヘアかななどと指摘してみた。

 さて、これらを考えた後で、この短歌の評価を黒板の一番左端に板書する。次のものである。

伝統を踏まえつつ、斬新な近代を切り開いた歌

 この評価の内、「伝統」とは短歌のどの箇所を言うか、「近代」とはどんなことかを、隣近所の友人たちと話し合いながら考えさせた。

 このクラスは話し合い活動がきわめて不活発なクラスである。しかし、今日は違った。中には話をしようとしない者もいたが、ほとんどの生徒は友人と話をしながらあれやこれやと意見を交換していた。

 生徒に指名しながら意見を述べさせたが、どうも的はずれだったので、先に取り上げたこの短歌に関する疑問の中からこの評価につながるものを考えつつ、解説していった。

 授業自体は上手く行ったのだが、短歌の評価からそれを支える表現を捕らえるというところが上手く行かなかったことを考えると、この到達点の設定が良くないのかもしれない。実はここは、授業直前までさんざん悩んだところだったのだ。到達点として提示するのは、もう一つ別の候補もあった。次のものである。

自己を肯定する、青春賛美の歌

 これら二つの到達点のどちらもが、「黒髪のおごりの春」という表現に立脚している。「黒髪」が何故「春=青春」に結びつくのか、そして「おごりの春」がどんなに革新的な表現だったのか、を理解することが全てである。

 上手く行かなかったことを考えると、到達点の選択はやはり間違ったのか、と思う。明日の9組では後の方でやってみよう。

 そしてもう一つ、短歌についての疑問箇所を指摘する活動を先にし、主題の根拠を考える活動を後にしたが、この順番は良かったのかなぁ。でも、主題の根拠を考えるためには、少しは短歌の内容を知っていた方が良いのではないかな。そう思って、疑問箇所の指摘活動を先にした。はて、どうなのだろうか。

 啄木の歌は「母への深い愛情」という主題を示し、それを支える表現を探させた。これはスムースに行った。授業はそこで時間切れ。啄木の歌は、何よりその表記の特異性が問題である。何故、三行分かち書きなのか、これは次回に考えさせることにしよう。

 久しぶりにエキサイティングな授業であった。終わった後、ある生徒が「短歌の授業が2時間だけなんて少なすぎます。もっとやりたいです」と言いに来てくれた。生徒も根拠を探る授業の面白さを感じてくれたのではないか。(^_^)v

2010-12-13

[]授業の心構えを確認させた 22:12

 6組での授業。テストを返却した。そして、この機会しかないだろう、このクラスの生徒に、この9月から11月までの授業態度について思い出させ、指摘した。残念ながらこのクラスの現代文における授業態度は最悪であった。しかし、私はそのことをその時には指摘しなかった。それは、できることなら彼ら自身で気づいて修正して欲しい、と願っていたからだ。人間には「このままではいけない」という自浄能力があると思う。自ら自分の行動を振り返り、そして自らそれを改める力がある。また、そうでなくてはならない。それを外側から指摘され、変更していくことも大事だが、自分自身が気づくことも大事なのではないか。

 今日はそんなことを話した。生徒は多少は分かってくれたようだ。

2010-11-30

[]「『間』の感覚」を全てのクラスで終える 02:26

 3組での授業。「『間』の感覚」の最終段を、プリントを使って終える。結局今回は本文全体を音読することはしなかった。それがどのような結果をもたらすか、テストの結果で確認しよう。

2010-11-29

[]「「間」の感覚」を次々に終える 07:16

 6組と3組での授業。6組は「『間』の感覚」の最後の部分をプリントで解説する。3組はロジックツリーをクラス全体で考え、4分の3の部分を終える。本文の性質上、ロジックツリーを用いて構造を理解すればよい箇所とじっくり考えるべき箇所とが明確なので、それに沿って授業を進める。

 今日は6組は何となく食いつきが良かったなぁ。試験直前だからか、穴埋め+解説という形式のプリントが彼らにはまったのか、それとも新しく席替えをしていて、その席がよいのか。本当にこのクラスは席によって雰囲気が変わるようだ。席替えをきっかけに、年度当初のほんわかな雰囲気が崩れていったように感じる。

 学校という装置は授業以外の力が大きく左右している。クラス編成しかり、担任の性格しかり。なかなかの複雑系である。

2010-11-26

[]最後の部分はやや従来型で 08:22

 相変わらず多忙な毎日を過ごしている。連日夜遅くまで授業準備をしている。何故かというと、学校にいる間は先週行われた3年生の実力テストの採点をしていたせいだ。それを何とか今日中に終わらせるために、授業準備のかなりの部分は自宅で行うこととなった。一昨日あたりは、現代文の「『間』の感覚」の最後の部分用のプリントを作っていた。ここは「間」の感覚とは何かが語られる箇所で、今までのようなロジックツリーで表現するのが難しいところなのである。そこで、この箇所用の学習プリントを作り、穴埋め+考察で乗り切ることとした。よって、今回の「間」の感覚は、ロジックツリーによる分析3時間+やや従来型の本文考察1時間で扱ったことになる。文章自体がそうしたやり方を要求するものだった、と考えている。それにしてもロジックツリーという新しいツールを使った授業だったなぁ。生徒はどう感じたのか、後でアンケートをとってみたい。

2010-11-22

[]ロジック・ツリー描き授業短縮版 23:43

 6組での授業。残り3時間の中で、ようやく「『間』の感覚」に入った。

 まずは漢字テストをし、その後でロジックツリーを紹介して、練習問題をし、「『間』の感覚」をロジックツリーを用いて分析する課題に取り組ませた。その際、本文掲載の文章の出だしを原典と比較させ、本文の問題提起が何であるかをしっかり確認させてから取り組ませた。しかし、残り時間がわずか15分くらいしかなく、非常に未消化なままの授業となってしまった。これではロジックツリーを紹介しただけである。

 しかし次時はクラス全体でロジックツリーを完成させなければならない。短縮版はやはり無理があるなぁ。

2010-11-17

[]ロジックツリーを用いた評論の構造分析の授業 02:43

 9組の授業。「『間』の感覚」の2時間目である。前回は個人作業でこの文章の構造を、ロジックツリーを用いて分析させた。2時間目の今回は、ロジックツリー作りをグループで行わせるものである。

 自分でやってみてよく分かったが、この文章におけるロジックツリー作りは何度も何度も試行錯誤をくり返しながら、少しずつ良いものへと改良することが不可欠である。ロジックツリーは、一番左側に位置するルートとなるボックスと、一番右側に位置する最も具体的な内容のボックスとをいかにしてつなぐか、ここが思案の中心部分となる。そして、これを考えることはきわめて論理的思考力を要求される。具体的内容をいくつかまとめ上げて、抽象的項目を設定するのである。それを、問題提起と具体的内容との全体像を勘案しながら作り上げていくことになる。これはグループ作業で、生徒同士が様々にアイディアを出しながら作り上げていくのが一番良い。

 そこで、グループ作業でロジックツリーを作る授業を展開するため、以下のような工夫をした。

  1. ロジックツリーのボックスとなるものは大きめの付箋(ポスト・イット)を使うことにした。
  2. その付箋に、次のものを事前に印刷しておくことにした。
    1. 一番左側に位置する問題提起の文
    2. 一番右側に位置する具体的内容
  3. 上の2つをワープロのラベルに印刷し、ラベルをはがして付箋に貼り付けさせることとした。
  4. こうしてできあがったラベル付き付箋をA2の大きさの台紙に貼り付けさせる。
  5. さらにそれらをつなぐ第2層の抽象的項目をグループで設定して別の付箋に書き込ませ、配置させる。
  6. 各付箋(=ロジックツリーのボックス)間を線でつないで、関係を表現させる。

 これを、次のような時間配分で行った。

  1. 作業の説明(10分)
  2. 第1のグループ作業(20分)
  3. 他グループの作業状況を確認させる「偵察タイム」(5分)
  4. 第2のグループ作業(15分)

 今日は変則の時程のため50分間の授業で行った。次の写真はその授業の様子である。

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 第1のグループ作業の様子。このグループは、最初から台紙に付箋を貼るのではなく、机の上に仮止めして考えている。なかなかやるね。

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 このグループは、まずは別の紙で配置をじっくり考えている。付箋で考えるのは後からやるらしい。

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 「偵察タイム」の様子。生徒はわいわいと他のグループのやり方を興味深く見ていた。

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 第2のグループ作業の様子。最初のグループ作業時よりもさらに生徒の動きが活発になる。このグループは全員が立ったままで作業に没頭している。

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 このグループは台紙の大きさを最初に配布したものの2倍にして、ロジックツリーの各ボックスを展開している。

 残念ながら50分間では作業時間が短すぎた。大半のグループがまだ作業を続けたがっていた。

 いやぁ、この授業はぜひ各グループで話し合われた内容を録音しておきたいところだった。生徒たちはグループ内での話し合いで多様な「気づき」と認識の変換を行っていた。また、付箋を配置したりその関係を考えたりするうちに新たな考えが浮かぶとそれをメンバーに提案してみたり、一度配置し終えたロジックツリーをグループで話し合ってもう一度見直して配置し直したり、様々な学習活動が展開されていた。

 ロジックツリーを構成する要素のうち、本文に明確に書いてある内容だけを事前に用意し、それ以外の要素を考えて加えながら、全体を配置するという作業だったが、思った以上に生徒の試行錯誤と論理的思考を促すことができたようだ。

 次回は同様のことをクラス全体でやってみようと思う。

2010-11-12

[]「『間』の感覚」のロジックツリー作りは難しいぞ 07:30

 今日は現代文の授業はない。2組の古典の授業があり、土佐日記の「帰京」を何とか訳し終えたところだ。

 それなのに、その1コマの授業以外のほとんど全部の時間を使って、今日はずっと「『間』の感覚」のロジックツリーを自分なりに作っていた。実は、まだ完成していない。うーむ、私がこれだけ時間を費やしてもまだ納得いくようなロジックツリーができないなんて、なんてこの文章は論理構造が混乱しているんだ。

 この文章は頭から順番に素直に読んでいくと何となくすんなりと分かる気がする。西洋と日本との様々な事柄の対比が次から次へと紹介されていて、何となく分かりやすい気がするのだ。しかし、この文章の問題提起と、それに対する筆者の主張をまとめようとすると、そしてそれを説明するための論理展開を整理しようとすると、これが非常に難儀する。要するにラベリングが全くされていないに等しいのだ。そこで、ロジックツリーを描くためには、こちらでもう一度ラベリングを施し、構造のつながりを整理して、再構成する必要がある。多くの項目を自分で考えて補わなければならないのだ。これは実に難しい作業だ。はっきり言って「悪文」と言っていい。ただし、日本の評論文にはこういうものが多い。直線的に読んでいくと何となく分かるような気がする。しかし、論理的に読もうとするときわめてつかみ所がない。三森ゆりか氏はかつて私に「日本の評論文といわれる文章は実は『随想』だ」とおっしゃっていた。本当にそのことがうなずける。論理構造を意識して文章を読んだり、文章を書いたりするためには、「評論文」を扱っちゃいけないんじゃないかな。学術論文やビジネス文章を教室に持ち込むべきだと思う。

 さて、私でも悪戦苦闘しているロジックツリー作りを生徒にさせることにどんな意味を持たせればいいだろうか。3組と9組で行った感触では、生徒はお互いに話し合いをしている時に「なるほど、そう考えるのね〜」などと言ったりしていた。つまり、互いの考えを紹介しあったり、見たりして、そのやり方や考え方を参考にしたり、あるいは意見を言ったりしていた。それをもっとやりやすくするような授業デザインが必要だろう。

 また、私自身が描いてみて気づいたことは、ツリーのボックスに書き込む内容よりも、ボックス同士の論理的つながりをどう考えるかに時間がかかったことだ。ということは、その部分を生徒同士で考えながらやらせると良いのではないだろうか。

 そのために、例えば付箋を使った授業を展開してみようか、と思っている。付箋をボックスに見立て、付箋に書き込むべき内容は私が用意してやり、その付箋同士の関係を友人同士でわいわい言いながら考える、また、必要な新たなボックスは自分たちで付け加える、というのはどうだろうか。それならば1コマ65分の中である程度のロジックツリーを描けるかもしれない。さらにその時間内で他のグループの作品を見させて、交流させると良いかもしれない。そして、全員でよりよいロジックツリーをまとめ上げることができるかもしれない。

 うーむ、事前準備が大変そうな思わぬ展開になってきたなぁ。でも、面白そうである。

2010-11-10

[]ロジックツリーを活用した評論教材の読解 07:08

 3組での授業。新しく評論に入った。高階秀爾氏の「『間』の感覚」である。これは『西洋の眼 日本の眼』という評論集に掲載されている文章の一部である。

 実はこの教科書教材は構造分析をするのに非常に難渋している。住居の様式が行動様式にも反映している、と冒頭に問題提起されているのだが、続いて述べられるのは西洋と日本との自然への対し方や絵画における西洋と日本の自然の扱いの違いについてなのだ。住居における違いはずいぶん後になる。これはどうもおかしいと思い、出典本を我が書斎から引っ張り出して確認してみたところ、この教材を含む文章全体ならスムースにつながっている、その後半3分の1のみを取り出し、そこから前半部分への指示語を抜いて教材としていたのだ。そのためにつながりや構成が破綻してしまっていた。うーん、教科書本文にはこうしたものが多いのだな。内容がよいからといって安易に出典から抜いてくるのは良いのだが、そのために構造が破綻してしまっても構わず教科書として掲載する。もっと教科書会社の諸兄は文章の構造というものを重要視した方がよい、と思う。そもそも、一つのまとまった文章の途中のみを教材とするのは良くない。確かに、全文を載せれば文章量が3〜4倍ほどになる。でも、そうした長文を忌避する日本の教科書の在り方はやはり間違っているのではないか。筆者が執筆した意図がねじ曲げられてしまう。文章は元のままの姿、丸ごとを提示すべきである。

 さて、そうは言っても、目の前のこの文章を生徒にどう把握させるか。そこで、むしろこの文章の構造分析の難しさそのものを扱い、生徒自身に理解させ、あるべき姿を模索させるような授業を構想した。そこで、文章構造を分析するツールに「ロジックツリー」を用いることにした。

 「ロジックツリー」は発想法の一つ、あるいはロジカルシンキングのためのツールの一つである。むしろビジネスのシーンで活用されているだろう。事実私も、ビジネス本からこの発想を得た。むろん、「ロジックツリー」を学校教育で用いている例も多くあるだろう。しかし、私は少なくとも初めてである。

http://www.kantokushi.or.jp/lsp/no612/612_02.html

 このロジックツリーで「『間』の感覚」の構造を分析させる前に、まずはこのツールを練習させるために、練習問題として私宛に届いたGoogleからのメールの構造分析を、ロジックツリーを用いてさせる、というプリントを作成し、生徒にやらせた。その後で、教科書本文の構造分析をさせた。

 生徒は真剣に取り組んでくれた。何度か作業の手を止めさせ、生徒同士で進捗状況を確認させるようにした。そのせいか、楽しそうに取り組んでくれた。

 さて、授業修了後に一度回収し、また返却するが、生徒はどこまでつっこんでくれただろうか。

2010-10-27

[]おいおい、まだ「木は生きている」かい? 07:31

 6組での授業。時間割と休日等のマジックで、このクラスは他の2クラスの半分ほどしか授業がない。そのため、他の2クラスは「材のいのち」が終わりかけているというのに、この6組だけは未だに内容の読解に入っていなかった。やれやれ。今日、ようやく内容に入り、第1段を終え、第2段の最初の部分を終えた。かなり速いペースである。それでも、残り時間を考えると遅いくらいだ。

 そのように生徒の理解を確認しつつ、早く進まなければならないというのに、このクラスにはブレーキが存在する。それが、居眠りをしている生徒が存在しているということだ。あからさまに居眠りをする者が2,3名いる。ある一人は最初から最後まで机に突っ伏している。そしてある一人は教科書を持ってこない。なくしたのかどうしたのか、何も言ってこない。このような者が最大5人くらいもいると、どうしたって私の目に入ってくる。

 私はこういう場合、無視してしまう。そもそも、私の授業では指名をiPhoneを使ってランダムにするから、そうした生徒にも指名される可能性があり、その緊張感が働いてくれると思っている。だが、それも慣れてしまうと、生徒はそんな緊張感など意に介さずに眠ることができるらしい。

 うーむ。もちろんそうした生徒にその態度の異常さを話してやり、理解を求めることはできる。だが、そうした険悪な雰囲気を授業に持ち込みたくないのだ。授業においては、何を話しても許される。その解放感が自由な発想を生み出す。それを大切にしたいので、つい生徒に注意することをためらってしまう。

 だが、それではチームとしてのクラス・授業にはなっていかないだろうなぁ。前回には授業を止めて全員を起立させ、深呼吸させたのだが。もっと何か別の手だてが必要かな。

2010-10-26

[]新聞記事→エッセイ執筆→書き込み回覧作文 07:14

 3組での授業。幸田文の「材のいのち」の最終回である。結局5時間くらいかけただろうか。

 課題プリントの残っていた設問3つを片付ける。考え方のヒントを与えて発問し、生徒に解答の時間を与えながら聞いていったのだが、なかなか生徒からは的を射るような解答が出てこなかった。もちろん彼らは一生懸命に考え、ちゃんと的には当たっているのだけれどね。ど真ん中を射抜くような解答はすぐには出てこない。まだ考え方の訓練が不十分なのだろう。これからだ。

 その後、先日の朝日新聞の「ひと」欄で紹介されていた、興福寺を再建している宮大工の方の記事を生徒に読ませる。そして、その記事について次の作業をさせた。

  1. この記事の内容と「材のいのち」との共通点を考える
  2. そのことや、この記事を読んで思いついたことなどをイメージマップにまとめる
  3. そのイメージマップを元に、400字以内の自分自身のエッセイを書く
  4. 以上を15分間(実際は18分間)で行う

 「長い文章は書かなくても良い、途中でも良い」と言って、生徒の負担感をなるべく減らして軽いエッセイを書かせるようにした。

 その後、「書き込み回覧作文」を用いて、生徒にお互いのエッセイを回し読みさせ、「!」「?」「(ハート)」などの記号や一言を書き込ませた。全部で4人分回すことができ、お互いのエッセイを読みあった。

 何度やっても「書き込み回覧作文」はクラスの雰囲気を暖める。生徒も楽しげに級友のエッセイを読んでいた。時間的にかなり厳しかったが、やはりやって良かった。

2010-10-20

[]授業での解答と試験での解答との乖離

 9組での授業。昨日は3組であった。「材のいのち」の4時間目と5時間目である。

 どちらのクラスも、一昨日に感じた「既有知識を活用して設問を解く」ということを意識して授業を構成した。この授業では私が作成した設問プリントを使い、まずは生徒に10分間解答させた後、私が生徒に指名しながら解答をまとめる、というスタイルを取っている。その際、生徒に指名する前に以下のことを指摘した後で、質問していった。

  1. 設問を答える際に注意すべきポイント
  2. 設問を解答する際に使うべき既有知識

 例えば、次のような質問がある。

  • 「楢二郎さんは……気分が良くなさそうに見えた」とあるが、それは何故か。

 これに対する解答はこの部分のすぐ前に書いてある。「今日、話そうと思っていたことが縁起の良くないものだったので、言おうか言うまいか迷っていたから」というものである。しかし、この解答には2つのポイントがある。そして、実はこの設問は、小説の心情説明の問題と同じものだということが分かる。それならば、心情説明問題の解法である「事態」→「心情」→「行動・セリフ」の3点セットで考える、というものが使える。

 そこで、生徒には、これは心情説明問題と同じであることを説明し、設問の部分は3点セットのうちの「行動・セリフ」に当たるので、解答には「事態」「心情」の2点を含めなければならないことを説明する。その後で、生徒の解答を修正させるのである。

 案の定、指名した生徒は2点をきちんと含めて解答することができた。

 考えてみると、現代文の設問はこのように既有知識を踏まえて答えたり、文脈を踏まえて必要部分を加えて答えたりしなければならないものが多い。だが、それらの設問は、単に文章から必要な情報を抜き出してくればいい設問と同じ扱いを受けて生徒の前に提示される。つまり、文章を読み込むレベルの違いがある設問を、全く同じような扱いで生徒に示されるのだ。これでは、レベルの違いを意識して解答する態度を変えるということができないだろう。今まで現代文ではずいぶん無茶苦茶な要求を生徒にしてきたものだ。

 通常、現代文の授業では一つの設問が示され、それに対する生徒の答えを、不足している部分があればそれが出るよう補足質問を加えて補わせたりする。そして、あたかも最初から生徒がその完全な解答ができたかのように飾って板書して示す。授業ではそのように補足質問をしなければ完全な解答が得られないような設問を、試験ではやはり単発の形で出題し、そして解答の不完全さを嘆いて△をつけて減点する。しかし、それは一種の詐欺じゃないかなぁ。だって、2つ以上の設問によってようやく到達する問題だったのに、それを1つの設問で答えさせようとするのはいかがなものだろう。

 それならばせめて、授業において1つの設問からどのように考えるべきなのか、その考え方をしっかり教えておくべきではないか。1つの設問に含まれている解答構成のための複数段階をどう読み取らせるか、それをしっかり教えるべきではないか。それでこそ、その複数段階を踏まえずに答えた解答について、試験では思いっきり△をつけることができる。教えていないことを要求する試験というのはどういうものかなぁ。

 そういえば、20年くらい前の生徒から、「先生は授業の時にはさらりとした解答を教えるが、試験ではいろいろなことを含めた解答を(格好良い解答を)要求する。何か、ずるい。だから現代文はよく分からなくて、嫌いだ」ということを言われたことがある。その時は、何を生意気なことをと思い、何とかごまかして生徒に答えたが、今から思えば、上記のようなことではなかったのかと思い至った。教師というものは、本当に20年くらい経たないと自らの経験から学ばないものである。新潟N高校の当時の生徒諸君、ごめん!

2010-10-18

[]実地に体験した人が示す、実地の知恵の力 07:01

 3組と6組での授業。3組は「材のいのち」4時間目、6組は2時間目、である。6組はそもそも様々な巡り合わせで授業時間数が少ない。よってどんどん遅れていってしまう。困ったなぁ。

 3組は第2段の読解である。最初に10分間時間を与えて、私が作成した設問について解かせる。10分間では時間が足りないのは重々承知しているが、それでも何もしないよりましであろう。その後で、生徒に解答を確認しながら、板書してまとめていく。もっと別のアプローチもあるだろうが、一つ一つの設問をつぶしていくには、やはり伝統的なこの方法が威力がある。しかし、案の定、いくつかの設問について、生徒は十分な解答ができなかった。これは、ちょっと踏み込んで自分の持っている知識と本文の表現とを比較考量して解答すべき種類の設問である。これに対しては、本文から解答を見つけるという情報処理ではなく、自分が持っている既有知識の活用が欠かせない。しかし、この点について、生徒は苦手である。もっと、既有知識を活用させるような問いを、そしてそれを解答する術を、その際の頭の働かせ方を、開発して伝えるべきだなぁ。既有知識の確認といえば、マップだなぁ。マップをガンガン使っていこうか?

 それでも何とか予定通り第2段全部の説明を終えた。このことを通して、確かに生徒は学んだだろう。しかし、既有知識の活用という新たな課題が見えてきた。これをどうしようか?

 6組は文章構成図を生徒に描かせる、という課題に取り組ませた。時間のかかる、一見地味な課題だが、ある生徒は居眠りをしていたが、それでもこの課題は文章を読み取る上での外せない基本的なものだと思う。随想という、非常に論理展開の単純な文章だからこそ、論理構造の図示という読解法の練習にはもってこいである。

 それでも生徒に板書して描かせた構成図では、「一方」「だが」という逆接の接続語によって示される論理の転換を図で表現することができていなかった。机間巡視して他の生徒のものも見てみたが、逆接を意識しているものは半数少しくらいに留まったかな。そこで、接続語と論理構造との関係をしっかり意識して説明した。次の通りである。

  • そして、(接続語なし) :順接 …… →
  • また          :並列 …… ○ ○
  • つまり、言い換えれば  :言い換え… =
  • しかし、一方、だが   :逆接 …… ←→

 このように示して、代表的な論理関係を図で表す際の基本のつなげ方を説明した。そして、逆接の接続語がある場合は、特にそれが段落間やキーワード間で使われているならば、「←→」の記号が現れてくるはずであることを説明した。

 さて、少しは理解してくれたかなぁ。次の構成図を描かせる時に確認できるだろう。

2010-10-14

[]随想を読む際の留意点 07:20

 9組と3組での授業。「材のいのち」の3時間目である。

 前時で文章構成図を書かせているので、文章全体の把握はできていることだろう。そこで、今度は3つの部分に分けた本文の細かい部分を確認していく。内容を確認する設問が記してあるプリントを配布し、それを考えさせる。だが、その前に随想を読む際の留意点について話をする。

 随想とは、まず当然にその文章が表そうとしているテーマがある。この「材のいのち」なら、「木(=材木)は生きている」ということだ。そこで、一般的にはなかなか受け入れられないこの事実を、筆者の報告を受けて理解していくことが必要である。

 しかし、随想にはそれだけではないものがある。それは、例えばこの文章では、上記の「木は生きている」という事実を、筆者の幸田文はどうやって知ることができたのだろうか。それは、西岡楢二郎氏という卓越した宮大工から直接に聞いた、その人間性、人格、人柄が筆者の認識に大きく影響している。また、これを我々に伝える幸田文という筆者自身の人格もまた大きな要素である。随想とはそのように、筆者の人格が色濃くその文章に表れている。

 したがって、随想とは二つの読み方を要求されることになる。一つは初めに指摘したテーマを読み取るために、文章を論理的に読む読み方である。いわば「評論読解的」な読み方が必要だと言えるだろう。そしてもう一つは二番目に指摘した筆者の人格等を読み取る、つまりそれは行間を読み取り、心情を読み取るいわば「小説読解的」な読み方が必要である。随想を読む場合、この二つの読み方を念頭に置いて読み進めるべきである。

 私が作成したプリントの設問は、これらの2種類の読み方を要求される設問が混在している。よって、なおのことこの二つの読み方を意識していく必要がある。そうしたことを話してから、設問の解答・解説に移っていった。

2010-10-12

[]文章構成図を書く 00:15

 3組での授業。このクラスでも文章構成図を書かせた。さすがの3組らしく、取り組みが積極的で、生徒に課題をやらせても安心して任せられる。

 このクラスで指名した生徒は、第3段での逆接の箇所をほぼ理解しており、文章構成図に表現していた。接続詞に注意することは土曜講習でも強調していたことなのだが、こういう場面でも有効なのだよ。

2010-10-08

[]抜けるような青空の中 07:15

 9組での授業。「材のいのち」の2時間目である。

 今日は前回配布したプリントを用い、本文の各形式段落内で重要な箇所に傍線を引かせる。それを全員で確認させた後、それらの関係を「→」「=」「←→」などの記号を使って表現させ、文章構成図を描かせることをさせた。なかなか時間がかかっており、生徒たちに作業をさせている間に廊下に出てみると、あまりの抜けるような青空に、つい写真を撮った。

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 しばらく時間を与えた後、生徒2名を指名して黒板に自分の構成図を書かせてみた。

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 この「材のいのち」は論理展開の単純な文章である。そもそも「随想」なので、論理展開もあったものではないのだが、それでも、どんな文章にも論理展開はある。「随想」だが、論理展開を考えてみることで、文章構成図を描くことの練習になるのではないかと考えた。

 写真では分かりにくいが、1枚目は第2段の、2枚目の第3段の構成図である。どちらもほとんど直線の矢印のみ段落同士をつなげることができる。二人の生徒はそれぞれ良く工夫した構成図を描いてくれた。矢印の向きを変えたり、「=」でつなげてみたり。短い時間の中、よく頑張ってくれた。

 しかし、私が気づいて欲しかったのは第3段である。ここには、この接続詞の少ない文章にあって数少ないが、「一方」「だが」という逆接の接続詞がある。そこを踏まえて、何が対照関係になっているのかを見つけて欲しかったのだ。指名した生徒は、そこのところが残念ながら表現されていなかった。机間巡視して他の生徒のものを見てみたが、逆接のところをちゃんと表現している生徒も多く、これはほっとした。

 作業の時間が長く、どうかなと思った授業だったが、そもそも現代文は作業が中心になるべき科目である。そう考えれば、良かったんじゃないかな。

2010-10-06

[]「一番大事な項目」を選ぶ難しさ 07:12

 9組での授業。幸田文「材のいのち」を読む。この文章には西岡常一氏ら日本古建築の第一人者たちとの交流が書かれている。本文に出てくるのは次男の楢二郎氏のことだが。西岡常一氏は様々な本を、対話の形で出されている。手に入れたいものだなぁ。

 要点の確認のプリントを使って穴埋めを埋めさせ、その後で各段での一番大事な項目を選ばせる。1段目と3段目は比較的すぐ分かるのだが、2段目がなかなか分かりにくい。ここだけは内容のつながり具合をしっかり確認しないといけないからね。昨日のクラスではすんなり上手く行ったが、このクラスでは生徒は間違えてしまった。いや、そうだろうと思うよ。

 その後は別のプリントで作業をさせる。

2010-10-05

[]幸田文「材のいのち」 07:00

 3組での授業。後期は随想からスタートする。随筆というジャンルはどのようなものか、最初に解説する。思えばこうした文のスタイルというのは、最初にしっかり理解しておくことがとても大切だと思う。文のスタイルはその文の内容自体をも規定する。当然、読み方も変わってくる。そこで、散文と韻文とに分けて文全体の分類をし、さらに散文を評論・随筆・小説と分けて、それぞれの特徴を説明する。ずいぶん大ざっぱな分類だが、実用上は問題ないだろう。

 その後で、本文の音読をし、事前に配布していたプリントに沿って要点の確認をする。生徒はちゃんと読み取ってくれていた。そこで、3段のうちの各段における一番大事な項目をそのプリント内から指摘させたところ、これまた的確に答えてくれた。OK。これで、この随筆全体の見取り図ができる。

 そこで次は、各形式段落から重要箇所を指摘させ、その関係を矢印等でつないで図示させる、というプリントを配布して作業をさせた。今日はそこまで。

2010-10-01

[]世界の中に生きる自分自身を考える 06:53

 昨日より後期が開始された。国語科の仕事のために夜遅くまでかかり、帰宅した後はほとんどバタン・キュー。記録ができませんでした。

 昨日は9組の現代文があった。テストを返したのだが、その前にシャーロット・アルデブロンさんのイラク反戦集会でのスピーチの「読み聞かせ」をした。さすがに生徒は静まりかえる。もともと静かなクラスだが、一段と静まりかえって私の声を聞いてくれた。その後、私が出ているクラス全ての最初にこのスピーチの読み聞かせをしているのだが、今のところどのクラスでも真剣に受け止めてくれている。それだけの深い内容を持ったスピーチである。紹介してくださったS先生に感謝、である。

http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/photo/charlotte.htm

 その後で、内田樹先生のblogで読んだ、今回の中国との関係についての話もする。中国政府と日本政府とでは置かれている立場が違う。したがって、政権の有する「負けしろ」も違う。それを理解できるのもやはり「想像力」である。想像する力こそが、飽食の時代を生きる我々に必要なことではないだろうか。

http://blog.tatsuru.com/2010/09/26_1027.php

 さらにその後で、先日の日曜日にNHK教育テレビでやっていた「白熱教室」の内容についても触れる。私はこの番組のあることを前から知っていたのだが、放送期日が早まったことは知らなかった。半分以上を見逃してしまった。しかし、後半だけでも見る価値はあった。マイケル・サンデル教授による上手な「対話法」「問答法」により、学生の意見を挑発し、イマジネーションを駆り立て、学生同士を討論させる。そして、問題を自分たちの信念で解決する方策を探っていく。決して教壇から与えるのではない授業の在り方を、こんなにもリアルに見せてくれる。次の日曜日にも別の番組があるそうな。今度こそは見逃すまい。

http://www.nhk.or.jp/harvard/

 生徒にも、こんなふうに議論してみるかい、と挑発しておいた。(^_^)

2010-09-21

[]7ページ分を一気に駆け抜けたのだけれど 07:05

 3組での授業。6組と同じく、「時間の自由」の全体の流れを前時に押さえてあるので、それを踏まえて本文の内容全部を一気に確認していく。プリントを用い、9つの質問を聞きながら全体をまとめていく。何とか時間内に終わることができた。やれやれ。

 このクラスの特性か、同じ内容を伝えても生徒はほぼついてきてくれたなぁ。生徒の様子を見ているとそれがよく分かる。後半30分は私が話しっぱなしの過酷な授業なのだが、前半は発問しながら、そしてしばしば冗談を言いながらまとめていったせいか、何とか後半もついてきている。ありがたい。

2010-09-16

[]生徒の鈍い反応も想定内の範囲……? 06:53

 9組での授業。「時間の自由」の2時間目である。これまた公開授業である。

 他のクラスでもやったように、二つの時間、二つの時間の自由に関連するキーワードを赤と青とで塗り分けさせ、それを分類していく作業である。黒板を左右二つに分け、横書きで生徒に書き出させていった。

 このクラスの特性なのか、それとも「二つの時間」と「二つの時間の自由」とを一緒に考えることができなかったのか、生徒を指名して黒板に書かせたのだが、今回は難航した。黒板の前で立ち往生する者が数人いた。私が前回は「時間の自由」についてマークさせたので、それと「時間」についてのキーワードとアバウトにひっくるめて考えることができなかったのかなぁ。

 それでも何とか強引に7つの要素を引き出させ、そこからカテゴライズして3つのポイントを抽出し、まとめていく作業をさせる。今回は一つの工夫として、まずは生徒にまとめさせ、次にカテゴライズすることを教えてやらせてみた。それでもなかなか生徒はまとめきれなかったようだ。

 しかし、今回の授業はとにかく生徒に手を動かせることが目的である。したがって、うまくできないという経験も重要な意味を持っていると思う。できなかったという経験が、そのテクニックを捨てさせるか自らの未習熟を考え直すかのきっかけになるだろう。何はともあれ、やってみなければ分からないものだ。そういう意味で、今回の授業の生徒の反応の不活発さは意味があると思う。

2010-09-15

[]パニックの中での授業 07:00

 上記の準備があるせいか、個人的にいくつかの仕事を抱えて余裕がないせいか、授業に行くべきクラスを間違えてしまい、パニックに陥った。6組の授業でした。やれやれ。

 6組は試験前最後の授業である。「時間の自由」を終わらせる。しかし、前回は一昨日に写真を載せた通り、全体のキーワードを二つに分類し、そこから「二つの時間」と「二つの時間の自由」についてまとめ、それをどうすべきかという筆者の主張と、そこにいたる背景についてまとめていただけだった。したがって、内容の分析はこの1時間内で終わらせなければならない。

 よって、どうしても私の説明中心の授業になる。自分で用意した内容確認の設問は9問ある。しかい、できるだけ生徒の読み取りに即して説明していきたいと思い、本文の流れを最大限確認しながら設問の解答をまとめていった。いくつかの設問は生徒に解答を確認し、それを用いてどんどんまとめていく。力業で、何とか全ての設問を確認し終えた。もう人権無視も甚だしい授業になってしまった。でも、大まかな内容は理解しているのだから、後はそこに至る細部を確認していけばよいはずなのだがなぁ。

 生徒の様子を見ると、一生懸命ノートを取っている者もいれば、途中から諦めたような者もいた。うーん、これが理解できないのだなぁ。内容を確認しつつ板書をメモしていくことは授業を受ける最低限の行為だと思うのだが。

 そうしたことをしっかり教えていくべきなのか、それとも授業自体を変えるべきか……。後者だなぁ。

2010-09-14

[]またまた横書きで内容をまとめてみる 06:53

 3組での授業。「時間の自由」をまだ読み終えてもいない状況で、後2時間しか残っていない。そこで音読は断念し、昨日の6組と同じようにキーワードの色分けをさせ、その対照関係を図示させた。その際、プリントと同じように縦書きで板書させようかとも思ったのだが、最後のまとめを上下に書くのは無理だと判断し、やはり横書きでまとめさせた。

 生徒は板書の横書きを縦書きに変換して自分のプリントにまとめなければならないので大変だと思う。しかし、まとめる際にはこの方がやはりベストである。

2010-09-13

[]黒板で横書きに挑戦してみた 07:00

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 上の写真で見えるだろうか? 内山節の「時間の自由」を学ばせるにあたり、黒板に横書きにさせてみた。

 この文章は二つの時間、二つの時間の自由が様々に言い換えられながら展開する。いわば二項対立の典型のような文章である。しかし、その区別は必ずしも明確ではない。そこで、「外部化された時間」と「自分の中で創造される時間」の二つのタイトルを取り出し、それぞれに類する語句を青と赤とで色分けさせた。さらにそれを対照関係が明確になるようにプリントで図示させた。その結果を生徒に黒板に書かせたのである。

 プリントはもちろん縦書きであり、図示させる方法も縦書きの表である。しかし、板書させる時には横書きを挑戦してみた。対照関係を表す時、上下は黒板の場合は書きづらいのだ。横書きにして、上から一つずつ、生徒を一人ずつ指名して書かせていった。よって、一人が書いたら、次の生徒はそれ以外に次の語句を書くことになる。

 生徒は私が想定した組み合わせのほとんどを書いてくれた。やはり大したものである。その次は、それらをまとめて、それぞれの語句を説明させることである。これは、時間を与えて生徒にさせた後、私がまとめ方を示して、生徒が書いたさらに左右にそれぞれのまとめを文章化していった。

 縦書きと横書きと、どちらが分かりやすいかなぁ。横書きにする場合、対照関係は明確に示されるのだが、プリントのフォーマットと全く違うので、自分で変換して書き写さなければならない。しかし、縦書きは板書しづらい。

 悩むところである。

2010-09-07

[]ノッている教室とノリの悪い教室 00:15

 3組での授業。「ものとことば」の、昨日後2ページを残すところで終わってしまった、その続きからスタートする。極めて据わりの悪いスタートだ。終盤のまとめにかけて一気に行こうとする、その直前でチャイムが鳴ってしまったのが昨日だった。その続きからだから、まずは坂道を上ろうとする、その地ならしをもう一度行い、その上でエンジンをかけて一気に登り切る、そんな感じになる。

 しかし、3組はノリの良いクラスである。普通なら今日のような展開をしたら一気にしぼんでいってしまうところだが、このクラスは私の必死の操作にちゃんとついてくる。少なくとも私にはそう感じさせてくれる。そして、重要な部分にはちゃんと反応するし、しっかり話も聞いている。いや、たいしたクラスである。担任は「うるさいクラス」と評していたが、こういうノリの良いクラスは現代文の授業にとっては理想的である。

 しかし面白いもので、「ものとことば」が終わり、次の「時間の自由」にはいるためにKWLのワークシートを使って「時間」についての既有知識を確認させた。生徒に答えさせたところ、以下のような発言があった。

  • 時差がある。
  • 1日は24時間である。
  • 時間の速さは変わらない。

 それに比べて、昨日の6組は「楽しい時は速く過ぎるが、つまらない時は遅く過ぎる」などと発言してくれた。3組での発言は時間の客観的な面について多く出てきたが、6組では主観的な面が出てきた。こうした発問での解答の深さは6組の方があるのだよね。

 まあ、たまたまの結果なのかもしれないが。

2010-09-01

[]「ものとことば」の授業 07:02

 6組での授業。このクラスは他のクラスよりも1時間ほど早く進んでいる。今日は本文読解の3時間目。1時間目は夏休み前に終わっている。本来はこれを2時間で終わらせようとしていたのだが、無理だったかな。

 本文を大きく4つに分割し、「背景」「問題提起」「本論」「結論」とした。その「本論」と「結論」の部分を、そう考えることのできる根拠を明確にさせながら読み進め、まとめていった。配布済みのプリントに作成した読解問題に答えていく形である。同時に、そうすることによって本文の流れがもう一度確認できるよう意識して、板書でまとめていった。

 生徒は客観的に本文を読み取っていく、あるいはテクストに沿って的確に情報を抽出していく、という能力がまだまだ不十分なのだ、と思った。読み取り方を知らない。評論から情報を抽出するための方法をまだ理解していない。そして、その方法に自覚的ではない。よって、正しく読めている者も、自分の解答には不安げである。

 読み取り方、情報の抽出の仕方をただ教えるだけではダメなのではないか。「こうやって読むんだ」と教師が黒板上でどんなに力説しても、方法は自分自身がやってみて、その有効性を自分自身が確認しなければ役に立たない。ハサミはこうやって使うんだ、と教えることが重要なのではなく、その使い方を知った者が自分で使ってみて、それができるようになることが重要だ。

 国語の授業は実技でなければならないなぁ。美術の授業のように、最初にやり方を示し、それを生徒が選択してやってみて、その成果を確認する。そうした流れで授業は行われていかなければならないのではないか。

 そうした読み取り方に自覚的になるような授業設計が必要である。