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峰本のくもり時々「学び合い」日記

2010-12-21

明日の「学年だより」より 02:38

 私は1学年の学年だより係である。これは前回の学年の時もそうだったが、今回の学年では、私以外に他の同僚も多く作成してくれている。とても助かる。

 今回の学年だより22号は冬休み直前号である。そのために私は次のような文章を書いた。

あらたまの年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よごと)

 題名の和歌は、『万葉集』の編者、大伴家持が詠んだ歌です。「新しい年の初めの今日、降り積もる雪のように、良い事がたくさんありますように」という祈りを込めた、新年の祝いの歌です。

 今年も多くのことがありました。君たちにとっては何よりも「N高校」に入学したことがいちばん大きなことでしょうか。それは「吉事」でしたか? それとも期待していたほどではなかったですか?

 高校は義務教育ではない、というのはもはやほとんど意味をなさないことかもしれません。しかし、その事実は変わりません。君たちは中学校を卒業して、就職して社会に出ることも可能だったのです。でも君たちは高校に進学することを選びました。そして、N高校を受験し、合格した後は入学することを選んだのです。今、君たちがここにいるのは、君たちが選択してきた結果です。

 人生とは選択の積み重ねです。そして、その選択した結果が今の君たちのアイデンティティを形作ります。『ハリー・ポッターと秘密の部屋』を読んだ、あるいは映画を観た人は多いでしょう。この中でハリーは、自分が本当はヴォルデモートの出身であるスリザリン寮にふさわしかったのではないかと悩みます。しかし、終盤でダンブルドア校長はこう言いました。「自分が何者であるかは、自分が何をできるかではない、自分が何を選んできたかだ。」と。ハリーはグリフィンドール寮に入りたいと願いました。その願いが、彼を真のグリフィンドール生にしたのです。

 君は何を願ってこのN高校に入りましたか? 君の願いは何ですか? N高校が君をN高校生にするのではありません。君自身が、N高校生になるのです。君の願いが、そしてそれを実現しようと努力することが、N高校の伝統を作っていくのです。

 自分が何者であるか、自分は今どこに向かおうとしているのか、自分の学習は軌道に乗っているのか、様々に考え直す良い機会でしょう。もう一度、自分の願いを確認してください。また、その願いをさらに大きく持ってください。

「今日降る雪のいやしけ吉事」。今年も大雪でしょうか。その降り積もる雪のように、君たちの来年がたくさんの願いで埋め尽くされるように、我々1学年団は願っています。

自画自賛みたいで申し訳ないが、ちょっとよく書けたでしょ? (^^ゞ

[]百人一首かるた練習の最後 02:38

 10組の授業。かるた練習の最後を飾るのは我がクラスである。

 セミナーハウスの和室に彼らを連れて行き、今日は55分授業で短かったが、かるた会を楽しんだ。このクラスにしては意外にも、かるたを読む合間合間に静寂が訪れることが多かった。他のクラスでは一つの歌を詠み終わると、なかなか生徒のざわめきが収まらなかった。かるた会でもクラスの個性が表れる。ただ、10組はもっとがやがやとなるかと思っていたので、少し意外だった。

 さて、これでかるた会の練習は終わった。もう少しやってやりたいとも思うが、致し方あるまい。1月11日が本番である。彼らはどんなチームを編成してくれるのかな。

[]「古畑型授業」による短歌の授業の意義 02:38

 3組での授業。短歌の授業の1時間目である。今日は55分授業なので、与謝野晶子の短歌のみしか扱えなかった。

 このクラスはいつもは非常に反応が良く、楽しいクラスである。しかし、この短歌の授業にあってはいつもの反応の良さが少し潜んでしまう。晶子の短歌を書写させ、疑問点や発見を話し合わせて述べさせたのだが、あまりこちらが期待するような発言がなかった。勢い、こちらの方で検討すべき点を述べてしまう。そうすると何となく主導権が教員に移ってしまう。

 ただ、その後の、この歌に対する評価を先に掲げ、それの根拠を指摘させる段階では、まあまあの反応をしてくれた。晶子のこの歌は、解釈がなかなか難しいのだね。表面上の意味は取りやすいが、「黒髪のおごりの春」が「うつくしきかな」と続くあたりは、生徒自身が意味に気づくには難しいだろう。

 他の学校の国語教師を親に持つ生徒がいるのだが、その生徒は他の同僚の授業を受けている。その生徒が「短歌の授業は、生徒に何だかんだと解釈をさせるのだけれど、結局先生が解釈をまとめて押しつけてしまうのだから、だったら最初から先生の解釈を伝えればいいのに」と感想を言っていたそうだ。

 ありがちな感想だと思うが、やはり真実をついているのではないか。短歌は短いだけに、なおさら教員の解釈の押しつけという印象を受けるのだろう。

 そこから、逆に「教員の解釈を先に示し、それが成り立つ根拠を考えさせる」という「古畑型授業」の有効性が、やはり支持されるのではないかなぁ。確かに、生徒がどんなに解釈をしても、結局教員の解釈にまとめられてしまっては、生徒には徒労感が残るだろう。