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峰本のくもり時々「学び合い」日記

2010-12-20

[]「空の青/海のあを」ってどんな青? 07:08

 6組と3組の授業。ただ、3組は都合によりかるた練習会を行った。よって、現代文の授業は6組のみ。

 6組ではまず石川啄木の3行分かち書き短歌表記について説明した。最初に

石川啄木短歌の最大の疑問って何?

と聞いてみた。すると3人目の生徒で

3行で書かれていること

と答えてくれた。いやぁ、やはり大したものだね。啄木の歌を見慣れていると、3行分かち書きがあまり不自然に見えなくなってしまうが、やはり真っ直ぐな目はちゃんとそれを捕らえてくれる。

 啄木の3行分かち書きについては、あるいは様々な意見があるのかもしれない。しかし、私は今回このように説明した。『日本の詩歌』の解説を参考にしてある。

 そもそも取り上げた歌は虚構の歌である。実際に母を背負ったのではなく、幻影の母を思い描いていたのだ。では何故か。それは啄木が母や妻や長女を函館に残し、一人上京して小説家として身を立てようとしていた時だ。しかし彼の小説は売れず、失意と孤独の中で彼は一人自室にいた。その中で幻影の母を背負うという虚構を歌ったのである。小説家を目指した啄木にとって短歌は「遊び」であった。まさに「一握の砂」に過ぎず、「悲しい玩具」に過ぎなかった。だからこそ形式もこだわらないものとなった。また内容も生活から浮かび上がる印象を綴るものとなった。しかしそれだからこそ、彼の短歌は革新的だったのである。

 専門的には違うのかな。『日本の詩歌』の解説を読んで私が理解したことは以上のようなことなのだが。

 さて、続いて若山牧水の「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」に移る。

 最初にこの短歌の疑問を上げさせる。真っ先に出てきたのが「空の青/海のあを」と「青」の表記が違う、ということだった。おそらくこれは中学校でも教わっていたことなのだろう。でも、この短歌の要となる疑問だ。

 次に「染まずただよふ」で、何故「ただよふ」という表現を使っているのか、という疑問が出てきた。そこで、この「ただよふ」は空の中を漂うのか、海の上を漂うのか、と聞いてみた。生徒に手を挙げさせたところ、空の方が優勢だった。

 続いて「白鳥」とは何の鳥か、と問うた。2人目で「カモメ」と答えてくれた。そうだろうね。海にいる白い鳥だからカモメが適当でしょう。しかしこれを「カモメ」と言い表さず、「白鳥」と書いたところに意味がある。これは「白」と「青」との色彩的コントラストの歌だからだ。

 さらに「かなしからずや」の「や」は疑問にも反語にも取れる。疑問なら「悲しくないのだろうか」、反語なら「悲しくないはずがない」となり、疑問より強くなる。どちらが適当かと問うたところ、疑問と取った者が大半だった。これは牧水の孤独にどれだけコミットするかによるのではないかなぁ。

 さて、これらの疑問を検討した後で、この短歌の主題を掲げる。むろん、「暗い恋に苦悩する青春の孤独」である。まずは背景となる牧水の恋について説明した後、「孤独」を読み取れる根拠を生徒に問うた。生徒は「空の青海のあをにも染まずただよふ」の箇所を挙げた。そこで、「青」と「あを」の表記の違いについて説明した。空の青色と海の青色とは違う。そこで表記を変えた。しかし、その二つの青にも「白鳥」は染まらないのだ。

 うーむ、このところは私が説明しないで生徒に少しでも聞いてみるべきところだったなぁ。この歌は中学校でも学習している者がおり、この箇所もおそらく説明を受けているだろう。その知識を持っているなら、それを活用すべきだった。いかんいかん。

 以上で牧水の歌の説明は終わり。斎藤茂吉の歌に行こうとしたが時間切れだった。この歌は年越しとなる。

[]「刎頸之交」の授業 07:08

 2組での授業。2組だけはどんどん授業があって進んでいく。困ったものだ。

 「刎頸之交」をどんどん解釈させ、重要語や句法の説明をしていく。順調である。生徒は何となくだるそうに見えるけれど……。