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なっつの学校と育児生活 このページをアンテナに追加 RSSフィード

北海道の中学校で数学を担当しているなっつといいます。 連絡はこちらへ。(すぐは返信できないかもしれません。) apeanut_not_peanuts@yahoo.co.jp (@を半角@に変えてください)

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2016-02-21

[]幸せイメージ 18:11

教員は、みんな、子どもが将来幸せに生きてくれることを願っている(はず。そう信じたい。)。

けど、それぞれの教員が前提としている「幸せイメージ」は、それぞれの教員の今までの人生で得てきた経験によって、全く違う。

どんな風に生きることが幸せであるかという定義が違う上で、教員は、意識的に、または無意識のうちに、自分の持つ「幸せイメージ」に子ども達がたどりつけるような実践を重ねる。


子どもが将来幸せに生きてくれることを願うことは共通認識のうちにあるとして。

だから、同じ「幸せイメージ」に基づいて話を進められると思ったら、そこにお互いのズレが生じる。


自分が、幸せのために絶対必要だと思っているものは、違う人の「幸せイメージ」の中では、子ども全員にとって絶対では無いかもしれない。「それもあるよね。」程度のものかもしれない。

と思って話さないと、ズレが生じる。


同じ「幸せイメージ」を持つ人と集い、語り合うのは、自分の「幸せイメージ」につながる実践を磨くためには必要なこと。自分の「幸せイメージ」につながるような実践を考える。実践に悩んだ時に、一番自分が附に落ちる話をしてくれるのは、同じ「幸せイメージ」を持つ人。全く違う「幸せイメージ」を持っている人にはわかってもらえない悩みであり、全く違う「幸せイメージ」を持つ人に相談しても、ピント外れのアドバイスをもらって困ってしまう場合が多い。


けれど、自分の実践から突き抜けるような何かを与えてくれるのは、同じ「幸せイメージ」を持つ人ではなく、似てるけど違う「幸せイメージ」を持つ人。自分に足りない所をつきつけてくれる。


ただし、自分に足りない所は、全ての子どもにとって本当に必要なのか?と問うことも大切。

自分の中に無いものを子ども達に伝えることはできない。

全ての足りない所を、自分のものにできるほど、人間はオールマイティーにはなれない。

足りないところを認めつつ、自分が一番得意とするフィールドで、子ども達が幸せな大人になれるように実践を磨く。


自分が、子ども達が幸せになるための絶対前提条件としている

ものは、自分の「幸せイメージ」や、自分の価値観という限定された部分における絶対前提条件なのではないか。ということに疑問を持ちつつ、それでも、自分の持っているものじゃないと子どもには伝えることができないので、自分が一番得意とするフィールドで実践する。

という立場をとって話を進めないと、相手の足りないところが気になりすぎて、自分のブレイクスルーに結びつかないんだろうなぁ。


ただ。

もうそろそろ、「上の立場の人が言うことに思考停止状態で従っていれば、出世して、幸せになれる」という、これからの日本の未来にはもう訪れそうもない「幸せイメージ」の強要とだけは、これからも闘っていかなきゃいけないんだろうな。どう考えても、それで幸せになれる時代は、もう、やってこない。そんな風に育てられてもブラック企業に使い捨てされるだけ。

iku-nakaiku-naka2016/02/23 20:55ご無沙汰です。そろそろ~っと戻って参りました(大汗)。
ぼちぼちやりたいと思います。また、よろしくお願いします(深々と礼)。

a-peanuta-peanut2016/02/27 00:00iku-nakaさん、お帰りなさい!!!!!!!
こちらこそ、よろしくお願いします!!

2015-01-02

[]新年の抱負というほどでもないけれど。 00:15

あけましておめでとうございます。

今年もこのブログはぼちぼち更新していきたいと思います。

10回も書けたらいいかなぁ。

ちなみに、twitterはたまにしか(しかもどうでもいいことしか)投稿していないけれど、Facebookは頻繁に投稿しています。ブログのみの交流で、Facebookをやっている方は、『学び合い』関係者の友達の中から私のtwitterアイコンを探してみてください。


さて。昨日気づいたのですが。

私が目指しているのは、強烈にひっぱるリーダーではなく、子育てをしているお母さんのように、子どもの後ろについていき、子どもが道を間違えそうになったら「そっちじゃないよ、こっちだよ」とただしてあげるような、そういう教員になりたいのでした。

(今まで、そこまで明確に言語化したことが無かったのですね。)


子どもの力を借りる。任せられるところはどんどん任せる。それで、子どもが成長していくのを待つ。

自分の力でなんとかしようとしない。子どもと一緒に考える。


子育てだって、お母さんだけががんばると子どもはいびつに育つと思うのです。子どもに指示するのではなく、子どもに色んなことを頼んで、お願いして、弱みも見せて、その中で子どもを育てたい。(弱みを見せてはいけないみたいな主張もあるけど、弱みを見せないことで現れる歪みが与える影響の方を私は避けたいと思う。)


ちなみに、今日は、晩ご飯の仕度をしていると、娘(今年小学生になります)が「(味噌汁に入れる)豆腐切らせて~」と台所に来たので、ついでに大根の皮むきといちょう切りをお願いしました。

こういうことを喜んで楽しみながらやっていると、料理ができるようになるんだなぁと思って見ています。

最近は、包丁を持っている時に目を光らせなくても、ちゃんと危なくないように扱うことができるようになってきました。最初は危なっかしい扱い方をしていたけれど、ちゃんと扱い方を理由付きで教えて、それでも危ない時は声を出して、ということを繰り返していたら、できるようになるんですね。

もちろん私も、娘が味噌汁の準備をしてくれている間に他のことができるので、とっても助かります。


お母さんだけががんばろうとするのって。

「料理をするのは私の仕事だから、とってもおいしいものを食べさせてあげよう」とすると、当然、子どもが来ても「お母さんに任せて。おいしいもの食べさせてあげるから」になるだろうし、お母さんの時間はどんどん減っていき、まぁ、お母さんは手際よくできるようになるだろうけど、大変だし子どもも料理ができるようにはならないよね…。っていうことなんですよね。


本当は、子どもが料理を手伝えるようになれば、子どもにも力がつくし、お母さんも楽になるのに。


ということで。

「子どもに色んなことをお願いしちゃって、子どもが成長するのを待つお母さん先生」への道を究めていきたいと思います。

toukonyukitoukonyuki2015/01/28 05:39初めまして、toukonyukiと申します。子育てしながらの教員の道、どういう存在として子ども達の成長を応援していくかというところに共感しました。私は昔はカリスマわめざしていましたが、自分には無理があると思い、『学び合い』に巡り会いました。今後ともよろしくお願いいたします。

a-peanuta-peanut2015/08/08 14:12toukonyukiさん
遅くなってごめんなさい!
最近全然チェックしていないので、今気づきました。

改めて、初めまして。北海道で、長く細々と実践しているなっつです。
これからよろしくお願いします。

ちなみに、私は最近行動の場をfacebookにうつしています。もしfacebookのアカウントを持っていらっしゃったら、西川先生の友達の中から、私のアイコン(同じのを使っています。)を見つけていただければと思います。

2014-10-11

[]研究会やセミナーに参加するということ。 09:27

今まで、私の研究会やセミナーに参加する態度は、他の人とずいぶん離れているなぁということは感じていたけれど、うまく言語化できずにいました。

私の興味

授業づくりネットワークin帯広に参加して


一般的には、研究会やセミナーという場所は、技や知識の伝達の場なのだということに、改めて気づきました。

そう捉えるからこそ、参加者が、参加したことに満足して帰り、でも日々の実践が変わらない状況にあれこれ思いを馳せる人がいたり、いくら参加しても、日々の実践は相変わらずうまくいかないという人がいたりするんだなぁと。


私は、「知識を得るために行っているんじゃない」「メモも基本的には取らない」と豪語してきましたが、じゃあ、何のため?のところを「楽しいから」としか言えなかったのですが。

学んでいるのは、知識ではなく、熱さだったり、目指す姿だったり、空気だったり、空気の作り方だったり、場の作り方だったり、テンポだったり、そういうことなんですね。

そういうのは、本には載っていない。そして、メモを取ることじゃなく、経験として残るもの。

その上で、私にフィットしていて、しかも流れ的にやったら効果のあるような技・必要な知識だけがなんとなく残っていて、必要な場で「そういえば、こんなのがあった!」と思い出すのです。

ちなみに、その場で触発されて、自分の中に渦巻いていたあれこれが言語化されて気づきになることはありますが、それは毎回あるわけではないので。


ということがわかりました。

すっきり。

だから、あの振り返りの時間がたまらなく嫌なのね。だって、知識で持ち帰るものなんて、ほとんど無いし。


ちなみに、夏の北フェスで私が持ち帰った最大のものは、赤坂先生の話術(ギャグを除く)でした。先日講義形式の授業をしている時に、「今の話し方、赤坂先生じゃない?」と気づいた私…。無意識のうちに取り入れていたみたいです。

笹木 陽一笹木 陽一2014/10/26 12:18昨日の「こどもの姿を語る会」ご苦労様でした。遅ればせながら記事を拝読し、昨日の古田さんの「寺子屋」を振り返りつつ、当会の方向性について大きな示唆を得たように感じます。

やはり、私たちの会は「研究会」や「セミナー」ではないのですね。「ピア・サポート・グループ」とか「セルフ・ヘルプ・グループ」という捉え方のほうが、我々にはしっくりくるように感じます。「知識の伝達」ではなく、「場の空気や雰囲気を共に構成し味わう関係」とでも言い直せるでしょうか。一斉授業と協同学習の対比とも重なります。

私はなっつさんと違い、意図的に「メモすること ecriture」や「振り返ること reflection」にこだわっています。それは知識は社会的に構成されるものだという基本認識のもと、自分の中にある言葉 self narrative を引き出す契機として「対話 dialogue」や「読書 lecture」を位置付けているからです。なっつさんの言う「経験 experience」というのは、言語化されてない体験の総合というか、もっと身体的で全体的なものかと思いますが、その無意識も含めて「ことば」というフィルターを重視したいというのが、私のスタンスでしょうか。

J.Racanは「無意識は言語のように構造化されている」と言いました。認知心理学では、言語化しえない身体的技能も「手続き的知識」と呼んで、広く知識とみなします。「智識」という仏教的な捉えともつながりますね。徒然と書き連ねましたが、あまり目的を明確にせず、その時々に感じる想いを共有する場として、「こどもの姿を語る会」を続けていけたらと考えています。今後ともよろしくお願いいたします。

a-peanuta-peanut2014/11/02 02:03>笹木先生
つまり、笹木先生は、体験したことなどをすべて無理矢理言葉に置き換えたくなるから、言葉が長くなるのですね…。

そして、難しい言葉が並ぶと読み飛ばしたくなる世代以降に育った私は、笹木先生の文章を読めないという困ったことになるのですね…。

私にとってのセラピーが「お片付け」であるのと同じように、笹木先生のセラピーは「書き記すこと」なのでしょうか。
やっぱり笹木先生はブログを書くべきなのだと思うのです。

笹木 陽一笹木 陽一2014/11/03 20:01応答に感謝します。さすが、お見通しといった感じですね。このブログへの初めてのコメント(2008.9.26)で私は「大学院博士課程への進学を計画中」と書きました。どうも抽象的な観念に逃げるのは私の特徴のようです。「文章が読めない」というのは、前任校でも国語科の先輩に言われたことでして、その反動から、半ば意図的に長文で難しく書く傾向があるのかもしれません。

私のセラピーが「書き記すこと」というのは全くその通りで、34歳の時に経験した「内観療法」は、ひたすら内省して自らの記憶をたどり書くというものでした。その後、姉の転院先を見つける過程で出会った「浦河べてるの家」を訪ね、直営のカフェで買い求めたのが『物語としてのケア』(野口裕二)。う日本におけるナラティブセラピー(物語療法)の最初の紹介書でした。自らの研究方法を「ナラティブ的探究 Narrative Inquiry」に求めたのは、ある意味必然であったように感じます。

「ブログを書くべき」とのご指摘も理解できますが、私のように対象に依存的な性格の持ち主は、「セラピーのため」という目的が見失われ、「ブログを書く」という手段そのものが目的化することが目に見えます。やはりネットへのアクセスは、家族の理解を得ながら現状のように限定的であることが必要であるようです。

またも長くなっていますね。「すべて無理やり言葉に置き換えたくなる」訳ではないのですが、このように生きてきた故の宿命かと半ばあきらめています。思えば、漂流教室の相馬さんにも、コメントでのよそよそしさを指摘されたのでした…。このような性分は「生きづらさ」とも重なっているのですが、「生き、語り、語り直し、生き直す」とのNIのテーゼが今の私を支えるストーリーです。面倒な輩でご迷惑をおかけしますが、何卒ご容赦いただいて、末永くお付き合い願えれば幸甚です。

「語る会」11月例会ですが、勤務校の周年行事(26日:授業実践公開)があり、なかなか時間がとりづらいのですが、24日(月・祝)と30日(日)なら何とかなりそうです。続きはMLで打ち合わせしましょう。

2014-08-10

[]今年の夏の研究会ロード 08:48

先週1週間の研究会ロードで学んだこと。

[li]みんなが同じ方法で教育実践する必要は全く無い。みんな違ってみんないい。ただ、個々の中の実践の平均的な質は、みんな同じ程度じゃないと子どもがかわいそうだし、クレームもつく。

[li]教師の個々の資質は違うし、キャラも違うし、熱くなれる場所も違う。熱くなっていないものを、他のメンバーと同じに揃えるために実践したって、子どもに伝わるわけも無いし、子どもがかわいそう。

[li]教える方法を伝えるのではなく、熱くなれるものを教材化して、子どもに伝える技とか、根っこの部分が共有できればいい。

[li]次の世代に伝えていくべきことは、授業の内容や方法などではなく、熱く取り組む姿勢。誰かの技を同じように実践しようとしたって、元々持っている資質が違うんだから、全く同じようになんてできるわけもない。その人ができて、自分ができないからといって、落ち込むことも無い。自分らしく、自分の目指している方向を目指せばいい。完コピじゃなく、カバーを目指す。カバーは、オリジナルを超えることもある。

[li]目指す所についての交流は必要。自分の目指すところと、相手の目指すところとを理解するのは大切。

[li]方法は押し付けない。自分がどれだけいいと思っていても、相手にとってのベストとは限らない。ただ、その方法が、相手から見えるようにだけはしておく。見えるようにしておけば、そこから刺激を受けた人は、そこから学ぶことができる。

[li]全国の人とつながっていくことで、新たな視点で日本や北海道が見える。見えたことが直接何かになることは無くても、耕された自分は、子どもの役に立てる人になれるかもしれない。

[li]どんな実践も、たぶん、その目の前にいる子どもと、その教師の間ではベストだと思う。けれど、子どもが違ったら、教師が違ったら、その実践が適用されるとは限らない。自分の中にいっぱい引き出しを作っておけば、TPOに応じて色々な実践ができる。

[li]どんなに子どもが育っても、それが一般から受け入れられない不自然なレベルになってしまうと、なかなか広まらない。でも、広まらなくていいんじゃないかと思う。特異なものは、その子ども・教師の間では必要なのかもしれないけど、それを一般化するのは間違っていると思うから。特異なものが広まらないのは当たり前。ただ、特異なものは強烈に色濃いので、そこに憧れて、完コピしようとしてしまう人たち(そして、完コピできないことに落ち込む人たち)がいるのは残念。

[li]実践は、子どもの事実に沿った形で行われるべき。子どもが自分事と思っていないものは、どんなに美しく見える実践でも、意味が無いし、子どもの心に残らないし、忘れ去られる。

[li]いい実践が点在化しているのは、決してダメじゃない。点を線にしようとするから無理があるのであって、点をいっぱい増やして、点描のように面にする方が圧倒的に近道な気がする。

motoryoumotoryou2014/08/11 08:34なるほどな~,そうだなあ,と感じました。もやもやがすっきりするような言葉でした。

a-peanuta-peanut2014/08/13 09:06わかっていただけて嬉しいです^^

2014-02-23

[]道から外れても対応できる力 00:33

先日、衝突事故を起こしました。

昼間雨が降って、夜冷えた日の帰路。

対向車とすれ違える程度の細い道で、つるつるな上に除雪がほとんど入らないため、氷が不規則に突き出ている、いわゆる「そろばん道路」。

怖い~と思いながら、前の車について走り、坂の下り道で「みんな、こんなに出して怖くないの?と、アクセルも踏まず、常に右足はブレーキの上、そしてシフトダウンしようか迷っていたら、そろばんにはじかれた私の車はスピンして左路肩の雪山に乗り上げ、下がりました。道幅が狭いため、スピンした車後部は対向車に衝突。不幸中の幸いで、誰も怪我人が出ること無く、物損で済みましたが。(事故処理中も、歩いている最中にみんなつるつる滑って転びそうになるくらい、つるつる路面でした。滅多に転ばない私も転びました。)


という経験をしてからというもの、そろばん道路が怖くて怖くて。

つるつるじゃなければ、別にそんなに恐れなくてもいい、砂利道と大して変わらないものなのですが、怖い。

車が自分の意図している道を外れるというだけで、ものすごく怖いのです。

後続車に悪いな~と思いつつも、そろばんになるとめちゃくちゃ減速。加えて、カーブの道でも昔怖い思いをしているので、カーブも減速。通勤の時は、ほぼ毎回ちょっとした渋滞の先頭車になります。

ダンナは、私よりは運転がうまいので、普通に走行。先日、私の車をダンナが運転して助手席に乗った時に、「え!?こんなスピードでカーブに入って大丈夫なの!?」「こんなスピードでそろばん道路走って大丈夫???」と、めちゃくちゃ怖い思いをしました。

ダンナは、多少車が意図している道を外れてもちゃんと元に戻すことができるので、別に怖くないんですね。

昨日、通勤途中に思ったこと。

これって、生徒指導でも同じようなことがあるなぁって。

つまり、過去に何らかの失敗をしたことがあったり、逆に一回も失敗したことが無かったりすると、自分の意図している道を外れるのがものすごく怖い。

自分が道を外れることだけじゃなく、他の人が道を外れるのでさえ、怖い。

だから、道を外れない。外さない。自分がコントロールできる範囲でしか物事を進めない。

たとえ、周りの人に迷惑をかけても。

できれば、みんな自分と同じレベルで物事を進めてもらいたいと思う。


過去に道を外れたことがあって、道を外れた時のうまいやりかたや、どのくらいなら道を外れても大丈夫か、などの状況がある程度見えていると、道を外れるのが怖くないから、もっといいスピードで、いいところまでぐんぐん進むことができる。


っていうことなんだろうなぁと。



…ただ、私は、これ以上事故に遭いたくないので(実は今シーズン2回目。1回目は、相手が突っ込んできた事故で、10-0で相手持ちだったけど、今回は10-0で私が悪い。保険が10万も上がるのです…。)、周りに迷惑をかけてでも、後続車のプレッシャーに耐えながら、安全運転でいきます。

気持ちはわかるけど、後ろにぴったりくっついて走るのやめて~(泣)