信濃の国からこんにちは このページをアンテナに追加 RSSフィード

三崎隆です。
長野県長野市の信州大学教育学部で『学び合い』(二重括弧の学び合い)を研究しています。
「信濃の国からこんにちは」は私たちの『学び合い』研究室の研究室通信です。
いつでもメールください。メールのやりとりで『学び合い』の考え方を共有しましょう。
メールアドレスは、misakiとshinshu-u.ac.jpを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。
研究室の全体ゼミは参観OKです。
全体ゼミは毎週月曜日18:00-19:30に行っています(前期は終了しました。次回は10月1日(月)からです)。
詳しくは,私たちの『学び合い』研究室をご覧ください。

2018-09-21   原点に帰ること

[] 06:39    原点に帰ること - 信濃の国からこんにちは を含むブックマーク    原点に帰ること - 信濃の国からこんにちは のブックマークコメント

何か新しいものを

 提案するときには理由があります。積極的であれ消極的であれ検討する必要が生じます。議論が分かれます。そんなときは,原点に帰ることです。それを提案するに至った目的は何であったのかをもう一度確認する必要があります。その目的を達成するために,新たな提案が必然性を持つものかどうかを議論することができます。その過程で,存在する問題が顕在化され,その解決のための方策が明らかにされるからです。大切な過程です。

2018-09-20   ともに学び一人となる

[] 06:41    ともに学び一人となる - 信濃の国からこんにちは を含むブックマーク    ともに学び一人となる - 信濃の国からこんにちは のブックマークコメント

ともに学び一人となる

 という学校目標を掲げているのが本学部附属長野中学校です。先の長野小同様,学校に行くたびに,授業を参観する度に,検討会をする度にこの言葉を見つめます。見つめるたびに,この授業は,この学校は,共に学び一人となる教育を実現できているだろうか,共に学び一人となる人材が育っているだろうか,と自らに問いかけます。この理念が,『学び合い』の考え方に極めて相通じるところがあるからです。

学び合い』の考え方

 に立脚すると,一つの目標に向けて子どもたちは折り合いを付けながらともに学びます。一人で学んでいたとしてもそれが集団の中で他の仲間たちに認めてもらえているのであれば,たとえば周りの子どもたちがその子が今一人で学んでいることを認めて折り合いを付けているのであれば,それはともに学んでいる文脈です。そのエビデンスは,開始から終了までのその子と周りの子どもたちとの関わり合いの文脈下で見いだすことができることです。

授業の最後に一人となります。

 リフレクションにおいて,今日の授業でみんなが目標達成するために自分には何ができたのかを自らに問いかけます。自らに問いかけた自分にできたことは,みんなが目標達成する上で良かったことなのか十分ではなかったことなのかを,もう一度自らに問いかけます。その上で,良かったことなら次時にはそれを意識的に行うにはどうしたらよいのか,十分でなかったとしたらどのような改善を図ったら良いのかを,さらにもう一度自らに問いかけます。それが,『学び合い』の考え方。

話を戻します。

 附属長野中学校で,ともに学び一人になる人材が育っているのか,自らに問うてみます。結論はイエスです。その典型的な教育活動の一つが,音楽全校集会であることに疑いの余地はありません。600名の子どもたちが同時に共に学ぶ姿は誰の目にも明らかです。リーダーの下,同じパートの周りの子どもたちと小グループを形成して,議論する文脈でも共に学びます。

全体から小グループに議論の場が変換される度ごとに,

 子どもたちは一人になります。投げかけられたテーマに対して,それはどうなのかと自らに問いかけながら集団構成が行われるからです。彼らが自ら考え判断できる素地をすでに持っていることに他ならないからかもしれません。集団での議論が終わると,子どもたちはもう一度自らに問いかけます。それでいいのか,と。それは小1から積み上げてきた子どもたちと中1から加わった子どもたちがものの見事に折り合いを付けながら議論を交わす融合させた文化を創り上げている成果です。だからこそ,この学校は魅力に満ち溢れているのです。

2018-09-19   共に在る

[] 06:51    共に在る - 信濃の国からこんにちは を含むブックマーク    共に在る - 信濃の国からこんにちは のブックマークコメント

共に在る

 という目標を掲げているのが本学部附属長野小学校です。学校に行くたびに,授業を参観する度に,検討会をする度にこの言葉を見つめます。見つめるたびに,この授業は,この学校は,共に在る教育を実現できているだろうか,共に在る人材が育っているだろうか,と自らに問いかけます。その答えは,進学先の附属長野中学校の子どもたちに見つけられるのかもしれません。そう思って,長野中学校の子どもたちを見てみると,互いに折り合いを付けながら目標に向かう,ものの見事に共に在る子どもたちなのです。

その意味では,

 長野小学校の先生方が,日頃から共に在る教育を推し進めていることに他ならないものでしょう。それはヒドン・カリキュラムかもしれませんが,子どもたちは自らの資質として共に在ることのできる文脈を創り上げる能力を知らず知らずのうちに身に付けているのではないかと思うところです。この共に在る教育は,一人も見捨てない理念に基づく『学び合い』の考え方に相通じるところがあるように思えてなりません。だからこそ,この学校は魅力溢れているのです。

2018-09-18   運動会は『学び合い』の考え方で

[] 06:30    運動会は『学び合い』の考え方で - 信濃の国からこんにちは を含むブックマーク    運動会は『学び合い』の考え方で - 信濃の国からこんにちは のブックマークコメント

学校現場は運動会シーズンです。

 土曜日に予定していた運動会を月曜日に延期したところもあるようです。運動会だけでなく,遠足,登山,林間・臨海学校,キャンプ,屋外の課外活動等々は天気の変化には気を遣います。理科の野外観察もです。てるてる坊主を作るのもこのときでしょう。

学び合い』の考え方が

 部活動にたとえられることがあります。教科の『学び合い』の考え方に立脚した授業がどのような流れになるのかを知る上では,とても良い見本となるものだからです。これを見ると,『学び合い』の考え方に立脚した授業が部活動を指導するときと同じ要領で実施することができることがよく分かります。

このように,学校における教育活動の中には,

 子どもたち自身が自分たちで考えながら主体的,能動的に活動していて,その形態が『学び合い』の考え方に立脚した授業なのではないかと思えるものが数多くあります。特に,特別活動においてはその傾向が顕著です。

運動会もその一つです。

 我々が,運動会をどのように企画,運営し,子どもたちをどのように指導しているのかを認識し,意図的にその道筋を辿ることができれば,どのようにすれば『学び合い』の考え方による授業をより良く実践することができるのかを知ることができます。運動会のときにはどのような指導をするのかを,部活動のときと同じように振り返ってみると,次のようになります。

1)学級担任が運動会の目的・意義を語る。

2)運動会までの流れを説明し,運動会がいつあるかを語り,それに向けて自ら考え主体的に練習することを求める。

3)学級担任は全体を俯瞰しながら,クラスの子どもたちの練習の様子を掌握する。その日の練習の様子を見た上で,その日の最後にクラスの子どもたちに語ることを精選する。

4)練習終了時間にクラスの子どもたちが整列し,学級担任から指導を受ける。その時に,学級担任は短い言葉で,クラスをリードする2割の子どもたちの心にやる気を起こさせる言葉を語る。

いかがでしょうか。

 このように見てみると運動会も,部活動と同じ要領でできます。この要領で『学び合い』の考え方に立脚した授業に臨むことがポイントとなりそうです。

2018-09-16   自分で考え判断してやってみる経験

[] 07:21    自分で考え判断してやってみる経験 - 信濃の国からこんにちは を含むブックマーク    自分で考え判断してやってみる経験 - 信濃の国からこんにちは のブックマークコメント

自分で考え判断してやってみる

 という活動を繰り返しやってきた子どもたちはいずれ自分で考え判断してやってみようとするでしょう。もちろん,その過程ではトライ・アンド・エラーしますからエラーも現れます。しかし,そのエラーが繰り返されることによってエラーをもたらした自分の考えと判断を,自分で修正できるようになります。それは決して自分以外の何者かから修正を強要された結果ではないでしょう。

そのこと自体が,

 その人のその後の人生を豊かにし幸せなものにしていくことは間違いありません。エラーをしたときに,自分でリフレクションをして自分の頭で考え判断したことのどこを修正しなければならないのかを自分で考え判断するからです。自分で考え判断したことが果たして人として正しかったのか,目標達成の上で効率的だったのか,チームとして貢献したのか等々,評価規準はそれぞれです。それが次の考え,判断,行動に汎用されるのです。

それがない場合にはどうなるでしょう。

 やってみることが自分で考え判断によるものではなく,周りの考え判断によるものであったとしたら。先生が考え判断したことを,ただやってみるだけであったとしたら。先生が考えやれと判断したことはやるでしょうが,先生が考えやれと判断されなかったことはやらないでしょう。先生がやれと判断されなかったことをやって,エラーを起こした場合には尚更です。

自分で考え判断しやってみて,

 エラーすることが許容されるときに,自分で考え判断しエラーしてみなければ,自分で考え判断しエラーしたときには取り返しが付かなくなっているかもしれません。それ以前に,自分で考えることがルールから逸脱している可能性も十分考えられます。たとえそれが逸脱していなかったとしても,判断に誤りが生じる可能性は生じます。自分で考え判断しやってみてエラーを起こす確率をゼロにすることは困難でしょうが,それを低減させることは十分可能です。それを繰り返す必要性は極めて高いと言えます。

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