信濃の国からこんにちは このページをアンテナに追加 RSSフィード

三崎隆です。
長野県長野市の信州大学教育学部で『学び合い』(二重括弧の学び合い)を研究しています。
「信濃の国からこんにちは」は私たちの『学び合い』研究室の研究室通信です。
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2018-12-04   経験交換ケースの魅力

[] 14:14    経験交換ケースの魅力 - 信濃の国からこんにちは を含むブックマーク    経験交換ケースの魅力 - 信濃の国からこんにちは のブックマークコメント

一昨日のブログの内容を

 少し補足します。グループ学習による学び合い(≠『学び合い』の考え方)では強制ケース,安易合意ケース,無関心ケースの会話しか現れないことがよく知られてます。その学術的根拠は,「西川純:学び合う教室,東洋館出版社,pp.25-29,2000」に依ります。つまり,『学び合い』の考え方に立脚してない授業で話し合いの場面を設けたとしても,そこに現れる会話の中に経験交換ケースと称される会話は現れないのです。西川氏によれば,それは「特筆すべきこと」(西川2000,p.29)です。その意味では,『学び合い』の考え方に基づいた授業かそうでないかは,経験交換ケースの会話が現れるかどうかによって判断できると言えるのです。

ここで経験交換ケースの会話とは,

 いったいどのようなものなのかをおさらいします。「西川純:学び合いの仕組みと不思議,東洋館出版社,pp.46-47,2002」から一部引用します。

===(ここから引用)

強制ケース:お互いの「経験についての考え(知識)」を強制的に排除または無視する。断定的な発話の言い合いをする。

無関心ケース:課題と無関心な対話をしている。発話数が少ない。お互いの「経験についての考え(知識)」に関心がなく交流を深めない。

安易合意ケース:お互いに「経験についての考え(知識)」を述べるが交流が浅い。意見の対立を避け,どちらかが同調し安易に合意する。

経験交換ケース:お互いに「経験についての考え(知識)」を説明し合い,交流する。納得するまで対話しようとしている。

===(ここまで引用)

話を戻します。

 それでは,授業中に経験交換ケースの会話が1個現れたら,『学び合い』の考え方でおこなった授業に相当するのかということになります。2個現れたらどうか。3個なら?偶然に現れないとも限りません。揺らぎがありますから。そんなことならば,判断する上で,目安となる基準が必要なのではないかと考えます。そこで,一昨日のブログのような1単位時間に1人当たり0.3個の経験交換ケースの会話が現れる授業が,『学び合い』の考え方でおこなわれた授業であると判断できる一つの目安の要素になるという結論が導き出されるのです。40人学級ならば1単位時間に総数12個の経験交換ケースが表れます。

言い方を変えれば,

 仮にもし,『学び合い』の考え方など全く知らない教師がおこなった授業の中に,経験交換ケースのカテゴリーに分類される会話が,1単位時間に1人当たり0.3個以上出現したとしたら,それは図らずも『学び合い』の考え方でおこなわれたものだと判断する一つの目安になると言うことです。おそらく推察するに,そのような授業では,その教師は意図しようがしまいが,明確な目標を提示し,子どもたちを信じて任せておしゃべりを容認している授業であって,最後に目標達成したのかどうかを確認している授業であると言えます。

その教師は知らず知らずのうちに,

 20年後の子どもたちにとってはそれが幸せなのだと言うことを信じているか,図らずも結果的にそうなっているかいずれかなのだと思われます。その意味に於いては,『学び合い』の考え方と同等の授業,ないしはそれを越える授業が存在する可能性は十分にあり得ると言えます。

2018-12-02   学術的に重要な定義

[] 06:44    学術的に重要な定義 - 信濃の国からこんにちは を含むブックマーク    学術的に重要な定義 - 信濃の国からこんにちは のブックマークコメント

今日は『学び合い』の考え方に基づいて行われる授業の

 操作的な定義の話題です。『学び合い』の考え方に基づいた授業を,定量的に定義することはなかなか難しいことです。査読を通らない元凶です。私が授業を見て,「これは王道の『学び合い』だ」とか,「これはなんちゃって『学び合い』だ」とか,「これは『学び合い』じゃない」とか,私にしか判断できないようですと,それは学術的になかなか高みには至りません。『学び合い』が考え方に基づいて実践される授業なので,定義はあります。しかし,それだけでは万人が見て判断できる授業にはなりません。

そこで,過去5年間の

 臨床教科教育学会に掲載された『学び合い』論文を検証してみました。そうしたところ,『学び合い』の考え方による授業で典型的に現れる経験交換ケースの出現割合が1単位時間一人当たりおよそ0.3会話という数値が導き出されました。この数値が多いか少ないかは今後の検証を待たなければなりませんが,査読を通った数値なので一つの目安にはなります。判断基準の一つ目は,1単位時間一人当たりの経験交換ケースの出現数が0.3会話を超えることです。

以前から2つの判断基準がありました。

 いずれも,教えてあげた人が誰か教えてくれた人がだれかを問うアンケート調査の結果から判断できる基準です。一つは関わり合いの数です。もう一つは,ゲートキーパーの出現率です。前者は,教えてあげたと言ってもらえない子ないしは教えてくれたと言ってもらえない子が一人もいない状況が生じることです。集団構成員のすべての人員がその構成員のだれかと教えたり教えられたりする会話関係を有していることを,『学び合い』の考え方に基づいて行われる授業であると判断する基準のエビデンスとしています。

後者は,

 ゲートキーパー数が集団構成員の半数以上を占めることです。つまり,ゲートキーパー出現率が50%を超えることを,『学び合い』の考え方に基づいて行われる授業であると判断する基準のエビデンスとしています。以上のことから,『学び合い』の考え方に基づいて行われた授業かどうかを判断する基準は,現時点で次の3つを満たすことです。

①1単位時間一人当たりの経験交換ケースの出現数が0.3会話を超えること

②教えてあげたと言ってもらえない子ないしは教えてくれたと言ってもらえない子が一人もいない状況となること

③ゲートキーパー出現率が50%を超えること

2018-11-30   誰にもできるわけではない『学び合い』

[] 07:14    誰にもできるわけではない『学び合い』 - 信濃の国からこんにちは を含むブックマーク    誰にもできるわけではない『学び合い』 - 信濃の国からこんにちは のブックマークコメント

誤解を恐れず言わせてもらえれば,

 『学び合い』の考え方に基づいた授業は,誰でもできるわけではありません。それは間違いありません。考え方を共有できた人だけができる教育実践です。換言すれば,『学び合い』の考え方に共感し覚悟を持たなければ,絶対にできないと断言できます。

噂によると,

 教師は楽ができるとか業務軽減の助け船になるとか,あるいは子どもたちにさせればいいととらえている人がいると聞きます。それは間違いです。子どもたちに任せればいいのだからと言って,語りもリフレクションもせず,目標(ねらい,めあて,課題)も吟味せずそのまま授業に臨んでしまえば,『学び合い』の考え方に基づいた授業などできるはずもありません。

もし,できたと思っている人がいるとしたら,

 それは大きな勘違いをしていると言わざるを得ないでしょう。そんな軽い気持ちで『学び合い』の考え方に基づいた授業をしようと思っているとしたら,もう一度原点に帰った方が良いと進言します。我々の授業は,『学び合い』の考え方に基づいているのですから,その考え方をまずしっかり共感してほしいと願って止みません。

2018-11-26   学校観が重視される所以

[] 07:06    学校観が重視される所以 - 信濃の国からこんにちは を含むブックマーク    学校観が重視される所以 - 信濃の国からこんにちは のブックマークコメント

学び合い』の考え方のうち,

 子どもたちのハードルが高いのが学校観です。学校観を共有する上でとても大切になってくるプロセスがリフレクションです。倫理的,社会的能力が習得できているのかどうか,その判断基準は妥当なのかどうかを自らに問いかける場と機会だからです。換言すれば,今日の授業での自分の言動が,人としてどうだったのかを自らに問いかける自問自答の場と機会です。

リフレクションの意義を

 疑う余地はありませんが,その有用性は次の機会が近未来において間違いなく存在するという前提によって保証されます。その前提が保証されない場合には,リフレクションに向かうモチベーションはどうなのでしょうか。遠い将来にしかあり得ない場合,ないしは二度と訪れる可能性が限りなくゼロに近い場合には後悔が残るだけでさえあります。

しかし,『学び合い』の考え方は,

 汎用性が高いので,たとえ学校現場での機会が訪れる可能性がなかったとしても,一般の集団生活の中でいくらでも汎用的に取り組むことができます。前提が保証されないわけではなく,その前提を汎用的に様々な多様な集団構成の文脈の下で有用的に活用していくことを考えることが意義あることであると考えられます。『学び合い』の考え方のうち学校観が重視される所以です。

2018-10-31   人としてどうだったのか

[] 06:31    人としてどうだったのか - 信濃の国からこんにちは を含むブックマーク    人としてどうだったのか - 信濃の国からこんにちは のブックマークコメント

偶然に,子どもたちと一緒の

 電車に乗り合わせることがあります。そこでは,彼らの地がでています。社会的規範の下,彼らが自分たちのルールにしたがって立ち振る舞う様態を見ることができるからです。そのルールは,彼ら仲間同士のそれまでの社会的な文脈の下で形成してきたものです。彼らにしか分からない社会的な関係性が,そこには存在します。オラリティの文化さえ存在せず,アイ・コンタクトのみで成立する関係性さえあることでしょう。彼らにとって,電車の中の仲間同士の文脈は,学校という文脈に埋め込まれていない自由な文脈であると言えます。

その状況下に,

 彼らの通う学校の関係者を見つけると,ともすると状況が一変します。彼らにしか通じない社会的文脈の中に,学校という状況に埋め込まれた文脈が割って入るからです。前者と後者のどちらが上位に来るかは,前者と後者の間の社会的関係性の成り立ちに依存します。前者が優位であれば,無視しますし,後者が優位であればそこに学校の文脈に埋め込まれた状況が電車の中に生じます。目に余る状況が展開していれば,強引にでも後者の文脈を持ち込むことは言うに及びません。

学校教育において学ぶ文脈と

 日常生活で現れる文脈との乖離が指摘されて久しくなります。電車の中の文脈のように,彼らにとって縛りのない自由な状況下で,どのように相互の社会的関係性を創り上げ,オラリティの文化を整えていくのかは,自由な状況下での彼ら自身による文化づくりが必要です。それが20年後の彼ら自身の文化を継承するからです。『学び合い』の考え方は,電車の中で見られる彼ら独自の社会的関係性の文化をそのまま教科教育の場で創ります。まさに,実生活にダイレクトに結びつく社会関係性の構築をもたらすものであると言えます。

電車の中でときとして

 見られるような,それは人としてどうかと思われる言動を,『学び合い』の考え方は学校教育における教科教育の授業のリフレクションの場において問うものです。今日の授業であなたが取った言動は人としてどうだったのか,と。何をしても自由な文脈の下で,あなたはどのような言動を取ったのか,それは人としてどうだったのか,それなら次の授業ではどうしたらよいのか,と。

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