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上越教育大学教職大学院准教授片桐史裕です。
2016年3月まで27年間新潟県の高校国語教師を勤めていました。
映画のことや,教職のことについて書いています。
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教室『学び合い』フォーラム
第15回(2019年)《海》,《山》は
2019/8/3〜4に福岡県,
2019/11/2〜4に長野県でおこないます。→長野の会は中止になりました。
manabiainu
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2019-06-02美術館に次男と行く

[]美術館に次男と行く 美術館に次男と行く - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 美術館に次男と行く - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 美術館に次男と行く - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

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中3の次男と新潟市立美術館に行った。天気もいいし,次男は珍しく部活動も塾もない日曜日だったので,どこかに出かけようと思ったのだが,手頃なイベントもないし,結局家から片道40分を歩いて,新潟市美術館に行った。

インポッシブル・アーキテクチャーということで,建てられなかった建築物の企画展があった。コンペに落ちたとか,予算が足りなかったとか,空想上の建築物とか,いろんな理由で実現しなかった(していない)建築物の設計図や模型が展示されている。新国立競技場のぽしゃった計画の模型もあった。

次男はそれほど興味を示していなかった。常設展は絵ばかりなのだったが,あんまりじっくり観ないで椅子に座っていた。

普通の中学生だから,美術館の絵をじっくり見入ることもないのはわかっている。しかし,中学時代に美術館に入って絵を見たことがあるという経験には意味があるのかな?と思った。私なんて中学時代に「館」と名の付いたものには,「水族館」くらいしか入ったことがなかったかもしれない。

新潟市立美術館は中学生以下は無料だ。その無料の意味は,「そういう経験をしておく」ということなんだろうなと思った。中学時代にわからななくても,絵を見た経験が,きっと大人になって,「美術館に行こう」という気を起こしてくれるだろう,という意味だ。それは「きっと中学生には分からないだろう」と思われる古典芸能を学校の芸術館紹介で見せたりすることにも通じるところがある。私にとって,能,狂言などは,50歳くらいになって,なんとなくその良さが分かってきた。

最近は何でも「すぐに言語化したり,数値化できるものがよいものだ。」という風潮がある。何でもかんでも「説明」できなければ,予算が削られる,世に認められないものとなっている。説明しても相手が納得できなければ「価値のないもの」とされる風潮がある。これって恐いことで,説明できない,納得させられないものは存在しなくてもいいということだ。

「ずっと後になって価値が分かる」というものが生まれてこないことになる。日本の古典文学なんて,そんな危機に陥っているのかもしれない。しかし,若い人に古典文学を「強制的にでも」学ばせる意味はある。それを学んだことで,学んだ後30年後に意味が分かるなんていうことはざらにあるということを,世の即時的利益優先主義者には分かってほしいというか,その人たちには分からないんだろうな,と思った。

家路への40分間,行きと同じように次男といろんな話をした。自分が死んだら,こういう風に葬ってね,なんて,美術館帰りだから話せたのかもしれない。次男は,自分はこういうのがいいな,なんて返してきた。不思議な会話になった。「5,000兆円手に入ったら,水上都市を造ろう」と次男が話題にしてきた。美術館であの展示を見なかったら,そんな話題は出なかったのは確実だ。

2019-05-24表現の自由

[]表現の自由 表現の自由 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 表現の自由 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 表現の自由 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

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授業でこんなことを問いかけてみた。

ある生徒が,あるクラスの生徒に対して罵詈雑言で罵った。それを聞いた担任のあなたが,「そんなことを言ってはいけない。」と指導したらその生徒は

「日本国憲法第21条に表現の自由が保障されている」

と言った。そんな時にどう指導しますか?

ある院生は,「公共の福祉に反する場合は表現の自由は制限される」といい,ある院生は,「そんな権利がみんなにあるんだったら,クラスは罵詈雑言で行き交うことにある。そんな風になってもいいのか?」といった。

何が正解ということではないから,その生徒との関係で,その言葉が最もよいと判断できたのが正解なんだと思う。私だったら何と言うかな?と考えてみた。

君に「何でも言っていい」という権利はない。君は何を言っていいのか自由に決めることはできない。「表現の自由」とは,国家権力のような大きな権力が表現を弾圧しないということだ。弾圧を受けない権利であり,何でも言っていいということではない。憲法といいうのは,国が市民に対して行えることを規制するものなのだ。

といえば,煙に巻けるかな?と思った。

言ったことに対して責任を取らなければならないのは常識である。その覚悟もないのに責任もとらず「何を言ってもいい」という意味で「表現の自由」と国の首長を始め,いろんな政治家が当たり前のように使うから,変な意味で伝わってしまうんだろう。

「言ったことは場によって査定される」と内田樹先生は言っている。査定されて「NO!」という答えが出たら,「表現の自由だ!」という主張はもうできないことになる。

2019-02-18ネット依存症

[]ネット依存症 ネット依存症 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - ネット依存症 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 ネット依存症 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

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「「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案(IR推進法案)」が成立しましたので,今日からこの学校ではギャンブルに特化したカリキュラムを作り,来たるべきギャンブル社会に対抗し,生き残るべき資質・能力を育成します。これは子どもの頃から育まなければいけない能力です。」

なんていって小学校からカリキュラムにギャンブルが組みこまれることはあるだろうか?

「依存症が起こったらどうするんですか?」

「大丈夫です。ギャンブル依存症対策基本法がありますので,対策はバッチリです。」

なんて,誰も信じないだろう。

「今日からこの学校では来たるべき銃社会に対応するために,銃の撃ち方,銃からの身の守り方をカリキュラムに入れます。」

なんてことが起こらないとも言えない。アメリカでは全米ライフル協会が推進しそうだし,全米ライフル協会から金をもらっている政治家が推し進めそうな気もする。銃による殺人は,銃が誰でも手に入れられる社会を作っておきながら,銃から身を守るために,銃を所持せよという。

アルコール依存症対策として,アルコールに負けないように,アルコールを飲んで耐性をつけなさいというようなものだ。

「依存症」と呼ばれるものが起こるシステムはほぼ同じだという。脳内に快感物質が発生し,それを求めて目の前のことを続けてしまう。そして快感物質が切れると不快となり,狂暴になったり,やる気が出なくなったり,無感覚になったりと禁断症状を起こす。

アルコール依存症,ギャンブル依存症,ニコチン依存症,薬物依存症

そしてネット依存症

これらのものはうまく付き合えば依存症にならずにすむが,子どもの時から推奨されるものは1つも無いはずだ。身体が成熟していないときは法律で規制されるのがほとんどである。しかし,ネット(デジタルデバイス,インターネット,ゲームなど)は,子どもの時から何の規制も無く与えられることが少ないとは言えない。本当にこれでいいのだろうか?

「インターネット社会になるのだから,学校でその扱い方を勉強し,カリキュラムに組みこむべきだ。」というのは,「大人になれば,アルコールを飲むようになるのだから,学校でその飲み方を勉強し,カリキュラムに組みこむべきだ。」と同じことに見えてくる。

違うのは,アルコールの子どもへの影響は科学的に証明されているが,ネットの子どもへの影響はまだ科学的に証明されていないだけだ。ネット社会に普及してまだ20年も経っていない。子どもの頃からネットにどっぷりつ漬かると,どのような成人になるかはまだ症例がない。

そして10代のいや,10代よりも若い子どもたちのネット依存症がどんどん報告されている。「学校で進められて,授業で使っているから,家庭でもどんどんやっていいのだ。」と思われることがとても恐い。少なくともタバコは学校から,いや,表社会から締め出しを食らってきている。

ネット関連会社,デジタル機器関連会社が全米ライフル協会のようにならないことを切望するだけだ。

2019-02-07服装と言葉遣い

[]服装と言葉遣い 服装と言葉遣い - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 服装と言葉遣い - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 服装と言葉遣い - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

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「エクリチュール」とは,「社会的に規定された言葉遣い」だ。その階級や,職業等の特有な言葉遣いをすることで,その階級,職業等の「思考の檻」にはめられ,そこから出られなくなる。昔の日本でも,階級や職業により,使える言葉は制限された。主人と使用人の使える言葉は違っていた。

同じように服装も違っていた。現代になり,そのような「階級」が制度上無くなり,どんな服装をしても,常識内であれば,社会的には容認されるようになった。どんな服装をしてもいいのだが,「だらしない服装」をすることで,「だらしない性格,だらしない考え方」を根付かせるということも起きている。

「埴輪ルック」という姿が一時期女子高生の間で当たり前のようになされていた。制服のスカートの下に,学校指定の体操着を着るのだ。どちらも学校で規定されているものだから,「校則違反」ではない。それらを逆手に取った反骨精神の表れなのかもしれないが,夏にそんなことをしていない*1。短いスカートは履きたいが,寒いのも嫌だというものだ。

しかし一方,「格好悪い」姿をしない生徒もいる。経験上でしか述べられないのだが,そんな埴輪ルックを自分の中で容認できる生徒と容認できない生徒は,だらしなさを容認できるかできないかの違いだったと思う。そういう人は,平気で路上に座らないし,衆人環視の中で,ミニスカートでいるにもかかわらず胡座はかかない。

服装に気をつけている生徒と,気をつけていない生徒。性格や見方・考え方の違いが服装に出ていると同時に,服装によって性格,見方・考え方を強化しているようにも見えた。

もちろん,寒冷地において女子の制服をスカートと限定していることの是非とは別問題だ*2

中身がしっかりしていれば,服装なんてどうでもいい,とは思わない。服装によって中身が影響されてくることはかなりある。それを身に付けた時だけの気持ちの問題だけではなく,それを常時身に付けていけば,性格を創り上げていくし,人間性を創り上げていく。

「中身がしっかりしていれば,言葉遣いなんてどうでもいい」と言う人はいない(と思う)と同じことだ。

*1:夏には短く切った体操着を履いている人もいた

*2:私は男女の制服の制限を無くせばいいと思っている。

2019-01-23部活動のとらえ方

[][]部活動のとらえ方 部活動のとらえ方 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 部活動のとらえ方 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 部活動のとらえ方 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

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昨日の大学院「学修成果発表会」で「部活動の教育的価値を問い直す」という研究の副査を務めた。院生さんが教育委員会のメンバーや,中学校の顧問,保護者,生徒にインタビュー調査をおこない,部活動のとらえ方を把握し,今後の方針を提案するという,とても興味を引く研究だった。

生徒や保護者にとって部活動は「居場所」というとらえ方があるというデータを示してくれた。そうなのか。このとらえ方は私としてはあまりなかった。

確かに,自分の子どもに「どんな部活に入りたい?」と聞くことがある。それから,保護者や子どもが部活動で学校を選ぶということは当たり前のようにしている。もちろん居場所作りだけで選んでいるわけではないが,「学校での所属感」と言うことをピックアップして考えてみると,中学,高校では「クラス」よりも「部活動」と捉える割合が高い。

自分の高校時代を考えてみると,実際そうだった。自分の高校教師時代の生徒たちを思い返してみると,そういう生徒は半数以上いた。そして高校教師だった私としても,経験の半分以上は「部活動経営で自分の力を発揮できる,発揮したい」と考えていた。

しかし,今になって考えると,「それでいいのだろうか?」と思ってしまう。部活動は「課外活動」である。学校の教育課程外の活動が学校の「居場所」となっているといいう矛盾がある。むしろ学校という立場であれば,学校の正規の活動内に「居場所」となる活動があるべきではないだろうか?

そこの部分を考えずに,今の部活動の「ブラック」な部分を解消しようとしても,いろんなところにひずみおこり,結局は「精神論」で終わってしまう。子どもは部活動にしか「居場所」や,「社会(学外)と繋がるところ」や,「人間関係を学ぶところ」を見出せないから,部活動に対する思いが強くなり,それを取り巻く学校,教員,保護者も子どもの思いに応えようとする。

じゃあ,「学内」の居場所は何か?当然ながら「学級」であり,「授業」である。居心地の悪い学級を学級経営で居場所とし,参加しても面白くない授業を改善し,学びを進めることで,人間関係を構築し,社会とつながり,高みを目指す。こういう「学内」の改善なくして,部活動のとらえ方の改善はない。

学級づくり改革,授業改革を進めていけば,部活動にウエイトを置いていた子どもたちが教室や授業に戻ってくる。そうすれば,今までのような部活動の負担も小さくなり,改革(例えば,外部委託)が進む。今と同じような状態で部活動改革をしようとしても,教員が「そっちには任せてはおけない」として,抱え込む姿は容易に想像できる。

もう1つ。教員の「居場所(力を発揮できる場所)」としての部活動というとらえ方の改革もある。授業や学級経営はおろそかで,部活動指導に全力を傾けている教員の何と多いことか。部活動指導をしたいから,教員になるという人も多い。授業や学級経営に力を注げない人は,教員にならずに,スポーツ指導者になればいいのだと思う。そうすれば,全体の学級経営改善,授業改善も進む。

全てを同時に進めることが,部活動改善となる。

2018-12-24Tポイントは賽銭になり得るか?

[]Tポイントは,賽銭になり得るか? Tポイントは,賽銭になり得るか? - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - Tポイントは,賽銭になり得るか? - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 Tポイントは,賽銭になり得るか? - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

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最近は結婚式の祝儀を電子マネーで払ってもいいですよとLINEで案内が来るそうだ。祝儀泥棒対策もあるのだろうし,ピン札をそろえなければならない,祝儀袋に綺麗に字を書かなければならないという手間からも解放される。

お寺の拝観料を電子マネー決裁できるところもできているという。(賽銭はまだだそうだが。)

さて,同じお金だから,現金で払おうが,Suicaで払おうが,エディーで払おうが,全く一緒だと言う人と,いや,一緒ではないと言う人に分かれると思う。

一緒だという人は,銀行振込でも,電子マネーでも,いろんなポイントでも払っちゃえば同じなんだから,Tポイントで払ってもAmazonポイントで払っても価値は一緒だ。細かな機能は違うだろうが,価値は一緒である。

デジタル化するということは,交換可能なものにするということだ。つまり,「それでなくても等価値であればすげ替えることができる。」ということだ。

賽銭を電子マネーや,ポイントで払ってもいいと思えるか,抵抗感を感じるのか。

昔(今もかもしれないが),五円玉の穴に組みひもを結んで,「御縁がありますように」と財布の中に入れていた。等価値であるならば,5円分のポイントをネット上の財布に入れて,組みひもの写真でもクラウドに上げておけば,「御縁がありますように」という「御利益」を願う気持ちが沸き起こるということになる。

さて,ここでの問題は,人間はあくまで物質的な存在であり,おいそれとそれは変わらないものである。しかし今後どんどん物質的なものが概念的なものに置き換わり,それを「等価値」と思い込んでしまう世の中になっていく。それを「等価値」と錯覚することで,失っていくこともたくさんあるということだ。

つまり,物質的な存在の人間は,物質に意味を見いだしている。思いや観念は人間外の物質に「付随」しているものであったのに,思いや観念だけがデジタル化により存在させられ,物質が削られると同時に,今まで無意識に受けとっていたものも失っていく。

失ってしまうものは「無価値」なものだろうか?価値があるかどうかはそれを言語化できるかどうかで決まる。逆に言えば,言語化する能力を持ち合わせていない人は,その価値がわからない。思考停止している人にはその価値はわからない。失っていくことに対して鈍感になることで,物質に付随しているものの価値を認める能力を削ぎ落としていく。

私は本をiPadでほとんど読まない。紙の本である。iPadだと読みにくいからということもあるが,前のページを参照したり,「あとどのくらいでこの章が終わりかな?」とか,「あとどのくらいで一冊読み終えるのか?」というのを感じにくいからだ。また,iPadだとiPadの形が変わらない。当たり前だが。しかし本は曲がって手になじむ。軽いし。いつも触っているものに関して,なじむかどうかは重要なことだ。

「本を読むのは単に情報を自分に入れるだけ」と考える人は,そのうち「攻殻機動隊」の世界のようにデータを脳髄に流し込む機能が付けば,飛びつくだろう。私は本を読む行為自体に意味があると思っている。

同じように「食事は生きるための栄養素を体に入れるだけ。」と考える人は,食事の時にどんな箸の持ち方でも,どんな体の向け方でも,食い物を口に入れればいいということになる。栄養成分が同じだったら誰が作った「食事も同じ」ということになる。私は行儀よく食べるべきだと思うし,好きな人が作った食事を食べたい。それは交換可能ではない。

元に戻ると,例えば,子どもが5歳になって初詣に初めて行って,親からもらった100円玉を寒い中ずっーっと握りしめて温かくなったそれを,初めて賽銭箱に投げ入れた100円という価値と,Tポイントカードで100ポイントをバーコードで払う100円という価値では,「賽銭」という意味では,何倍もの価値が違うと思う。もちろん交換可能であるはずがない。

デジタル化により,交換可能なものにしたというのは,流通の面での大発明なんだろうけれど,デジタル化(数値化)することにより本来はそうではないのに,交換可能なものと思い込んでしまう傾向は危険なことだ。人間の評価を点数化することでしか測れない人もたくさんいる。教育の価値を経済効率でしか考えられない政治家もたくさんいる。我々は数値化できない部分を言語化していかなければいけない。それが教育で見失ってはいけないところだ。

2018-09-25「主体的」と「対話的」について

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こんな文章を読んだ。

到来した者の言葉は、私の理解や共感を超えているにもかかわらず、その理解できない言葉を,私はそれでもなお一個の「主体」として引き受け、聴き取らなければならないからである。この背理的な責任の引き受けを通して、初めて「主体」は成立する。

「主体」というのは、理解を絶した異語「おのれの責任において」聴き取り、その意味を「おのれの責任において」解釈する者のことである。そのような仕方で「責任を取り得る」者だけが「主体」として立ちうるのである。

(内田樹:『ためらいの倫理学』,角川文庫,2003,「越境と巡歴」,p.294)

内容的には「神の言葉」や,「布教」などについて触れている部分なのだが,「主体」と「対話」の関係が述べられている。「主体性」がなければ「対話」にはなりえないということだ。

簡単にいえば,

何でも言いなりになり,人に言われたことを鵜呑みにする主体性が無い人や,「おのれの責任において」聞く耳を持たなくなった人は対話はできない。

ということだ。

「対話」というのは,相手がいかに自分の理解や共感を超えていようとも,相手の存在を認め,尊敬する気持ちがなければ成り立たない。それがなければ「言い合い」,「口げんか」となる。「主体的・対話的で深い学び」には,実は「対話的」に大きな意味が含まれていたのか。

そうすることで「その意味を「おのれの責任において」解釈する」ことができる。まさに,

意味を自分で見つける

という「深い学び」が起こるということだ。

2018-09-12なぜ「みんなが」勉強をしなければならないのか

[]なぜ「みんなが」勉強をしなければならないのか なぜ「みんなが」勉強をしなければならないのか - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - なぜ「みんなが」勉強をしなければならないのか - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 なぜ「みんなが」勉強をしなければならないのか - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント


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ねぇ,オカムラ,なんでみんなが勉強しなければならないの?

とチコちゃんに聞かれたら,なんて答えるだろうか?これは語り尽くされたような論題だが,ふと気づいたのでメモ程度に書き記しておく。

「学校の勉強は,将来役に立たないのに,どうして勉強しなければならないの?」に対して,いろんな人が書いたものをネットで漁っていると,

  • 将来よい職に就くため
  • 論理的思考を付けるため
  • いろんな見方ができるため
  • 将来直面する問題を解決するため

などなど,いろいろ書いてある。それぞれ間違っていないことだし,きっと子どもたちにも受け入れてもらえるものだと思う。

しかし,自分は家を継ぐんだとか,自分は体を使う仕事をするから,論理的思考なんていらないとか,個人個人によって将来「役に立つ」ものは違ってくる。「難しいことは他の人に任せておけばよい。」と言われたらそれきりだ。

また,人それぞれ直面する問題も違ってくるから,勉強内容も個人個人によって違ってこないと,将来降りかかってくる問題に対応できない。「いつかどんな問題が降りかかってくるかもしれないから,まんべんなく全て勉強しておこう。」と言ったら,「いつか役に立つかもしれないから,勉強しておくひつようがあるんだよ。」という漫然とした答えになる。

私は「「みんなが」勉強*1しなければならない」という理由を考えてみた。それは,

民主国家を維持するため。

だ。もっと詳しくいえば,「権力者を監視するため」だ。日本はこの感覚がとても薄い国だと思う。権力者がやりたい放題でも,暴動は起こらず,国家は転覆せず,政権が維持される。別に暴動を起こして,国家を転覆しようといっているのではない。とりあえず多くの人たちが食えるからといって,いろんなことをスルーしてちゃだめなんじゃないの?と思う。

全ての国民がおかしいところを「おかしい!」と気づき,「おかしい!」と発言するという,当たり前のことができるようになるために,「「みんなが」勉強しなければならない。」のだ。

本来は権力の監視役はマスコミがその役を担っているのだが,新聞に金を払わず,どうでもいいネットニュースが蔓延し,フェイクニュースに飛びつくようになると,権力の監視役をするマスコミにお金が渡らなくなり,弱体化していく。権力者はそれを狙っているのではないか?とも思える。

それ以前に,アメリカや日本のある政治家は平気で「○○新聞や,○○テレビはフェイクニュースを流すから,記者会見には出入り禁止。」なんて言う。とんでもないことだ。権力のジャーナリズムへの挑戦だ。しかし,出入り禁止になると商売あがったりだから,政治家の機嫌を損ねるようなツッコミはだんだんしなくなる。泥沼だ。

それ以前に,マスコミの報道を読む力,見る力,聞く力がなければ,マスコミにお金がいかなくなる。文字を読む力,話を聞く力,数字を分析する力,社会の構造を読み解く力,自然現象を捉える力などを総動員して,権力を監視しなければならない。

それを「みんなが」やっていかないといけない。権力者はその力を弱体化して「いいなり」にしようとする。「思考停止」させて民衆を扇動するのは,権力者が民衆を戦争に引きこむ常套手段だ。

日本の場合は,2009年,投票率が小選挙区制度後最も高くなったときには政権が交代した。政治に関心が高くなると政権交代が起こる。政権交代させたくない場合はみんなを投票所に行かせないという方法が効果的だ。ということは,政治への無関心を維持させることが最もよい方法となる。



「スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む*2

には,次のようにスウェーデンの教科書の記述が紹介されている。

メディアが,あなたやあなたの価値観,そしてあなたの意見に影響を与えるのと同じように,あなたも自分のためにメディアを利用することができます。

《中略》

以下に,あなたが世論を形成し,それによって決定に影響を与えるためのコツを示しておきます。

・あなたの友人や親類から,署名による支援を集めましょう。

・地方の新聞に投書しましょう。

・フェイスブックでグループをつくりましょう。

・人々を集めてデモをおこないましょう。

・責任者の政治家に,直接連絡を取りましょう。

pp.42-43

日本の小学校の教科書で,こんなことが書かれてあるものはないだろう。日本の場合,「民主主義」はすでにあり,いつもあるもので,勝ち取るものではないと,みんなが思っているし,民主主義が完全に失われてしまうと,取り返しが付かないことになるということを,肌で感じている人は少ないように思われる。

そしてこれは「みんなが」やらなければ意味がない。みんなが権力を監視し,反対する場合は「ノー!」と言えるようにしないと,「ノー!」と言わない人が権力に操られてしまう可能性がある。

「ノー!」と思ったら,それを訴えなければならない。同書籍には,こんなことも書かれてある。

影響を与えたいことについて,あなたが知識を持っていることを世に示すことで常によい効果が期待できます。そのことを,頭に入れておきましょう。

とはいえ,学校の職員や両親,近所の人々,コーチ,そして最終的に政治家を味方につけるためには,誤字などの誤りがなく,正しく書くことが重要となります。あなたが,しっかりと準備が整っており,ちゃんとした文章が書け,そして自分の意見を冷静にしっかりと伝えることができるということを示しましょう。

p.144

国語」の目的をこうもシンプルに書いてある教科書(や参考書,解説書)が日本にあるだろうか?

「全員」で権力や社会の監視役をしなければ,世の中はよくならないのだ。これが私の考える「「みんなが」勉強をしなければならない」理由だ。

*1:「勉強」のここでの定義は,義務教育の勉強とする。

*2:ヨーラン・スバネリッド 鈴木賢志 他翻訳 新評論 2016

2018-04-18独裁制と日本の教育

[]独裁制と日本の教育 独裁制と日本の教育 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 独裁制と日本の教育 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 独裁制と日本の教育 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

日本の教育は独裁制か?と訊かれれば,ほとんどの人はそうじゃないと答えると思う。私もそうじゃないといいたいところだ。

「スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む: 日本の大学生は何を感じたのか」新評論

で,こんな内容が紹介されていた。(一部片桐改編)

以下の法律や規則は「モナーカディエン」という仮想独裁国家のものです。あなたが手を付けるべ規則,または法律を選んで,次のことをはっきりさせてください。

 (1)あなたのチームが選んだ法律,規則をどのように変えるのか。(具体的記述)

 (2)どうしてそれを選んだのか,その理由。

 (3)そのように変えると,人々の生活や社会がどのように変わることになるのか。

[モナーカディエンの法律と規則]

A.選挙は10年おきに実施する。

B.投票できる政党は1つしかない。

C.国は,独裁政党の党首でもある国王によって統治されている。

D.国内には監視カメラがたくさんある。

E.国内では,他人の電話を盗聴したり,他人のメールやSMSを読むことが認められている。

F.国王や独裁政党を批判した者は,重罰を受ける。

G.独裁政党の党員のみが外国を旅行する特権が得られる。

H.選挙において党員は10票,その他の者は1票の投票権がある。

I.独裁政党は,インターネット上で何が書かれているかを監視している。

J.あらゆるデモは禁止されている。

これは,スウェーデンの小学生に「独裁制」を考えさせる単元だ。

日本では,最近,教師が発信することを制限されたということをちょいちょい訊く。また,学校の中での決めごとは,議論の上されないようになって来た。学校という職場がどんどん独裁制になっているのだろうか?

これを「教室」に置きかえると,上記「法律と規則」にぴったり当てはまるところもある。「いや,こうやっているけれど,独裁制ではない」と説明できるかどうか。

大学院の共通科目の私の担当の時間では,これについて考えてみようと思う。

スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む: 日本の大学生は何を感じたのか
スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む: 日本の大学生は何を感じたのかヨーラン スバネリッド G¨oran Svanelid

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scorpion1104scorpion11042018/04/20 05:10ご紹介ありがとうございます。
いろんな意味で考えさせられます。

2018-03-03働き方改革と「朝の読書」

[][]働き方改革と「朝の読書」 働き方改革と「朝の読書」 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 働き方改革と「朝の読書」 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 働き方改革と「朝の読書」 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

教員の「働き方改革」が今になってようやく重要視されてきた。スクラップ&ビルドで,効果がないもの,比較的効果の薄いもの,効果が実感されないものをやめちゃった方がいいということだ。

たくさんの学校でやっているSHR前の朝テストをやめて,朝の読書を導入するだけでも,学級担任や,教科担任の負担と負担感は軽減されると思う。

朝テストなんてすると,児童・生徒はその時間(5〜10分程度?)真剣に取り組む(静かにしている)が,その静寂な時間とひき替えに,教科担任は,テストの作成,印刷,配布,採点,集計,返却,点数の評価への組み込みなどがある。学級担任はテストの受け取り,配布,監督(不正をしているかどうかの監視),回収,採点者への引き渡しなどがある。朝テストをやるだけで,これだけの仕事が生まれてくる。

しかも,朝テストの効果はというと,それほどあるとも思えない。児童・生徒にとっては毎朝テストがあり,テストの数分前にテスト範囲をただ詰め込み,紙に書いて,そして忘れる。短い時間で暗記したものは,短い時間で忘れる。これがかなりの児童・生徒の実態である。つまり,朝テストをする効果は,教師の労力に比べてかなり薄いという実感がある。私の接した生徒もそのように言っていた人が多かった。

「本来朝テストはそういうものではなく,計画的に勉強して,定着させるもので,直前に覚えて,テストを受けて,忘れるのは,本人の自覚の問題だ。」

と,「真面目な」(頭の堅い?)教師は言っているが,実際この件で「自覚」をもてる児童・生徒はいかばかりだろうか?一定数の自覚がある子どものための教育活動のような気がする。意地悪な言い方をすれば,自覚のある子どもには,朝テストも必要無いのではないか。朝テストを毎日実施して,どれほど全体の「学力向上」が望めるのだろうか。学校教育でよくある教師側の「指導した気になる」,「指導したというアリバイづくり」になっている。

しかし,朝の読書を導入すると教師の負担感は減る。朝の読書は「ただ読むだけ」だからだ。

朝の読書の時間には,学級担任を初めとする教師も一緒に本を読む。もちろん,教師は朝の読書の時間に,「ただ読むだけ」ではなく,子どもの観察もする。その観察が生徒指導にかなり活かされてくる。朝の読書の時間の生徒・児童観察の時間が必ず確保されるだけで,児童・生徒理解は進む。本を通した「繋がり」も生まれる。繋がりが生まれれば,生徒との会話,対話も生まれてくる。そうなれば,児童・生徒のちょっとした変化にも気付けて,初期対応は早くなる。

問題が起きたとき,後手後手にまわる対応もなくなり,結果的に勤務時間は短くなる。精神的負担も軽減される。

朝の読書を導入すると,遅刻者が減るという実感を持っている先生も多い。どうして減るのかというと,児童・生徒は本を読みたいから,遅れずに来るのだ。遅刻して教室に入るとき,子どもたちはみんなが読書をしている雰囲気を壊さないよう,気まずそうに,済まなそうに入ってくる。これも遅刻が減る原因だろう。

ということは,遅刻指導の時間も減るということになる。

今後は「働き方改革」という視点で朝の読書の有効性を語るのもいいかもしれない。