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上越教育大学教職大学院准教授片桐史裕です。
2016年3月まで27年間新潟県の高校国語教師を勤めていました。
映画のことや,教職のことについて書いています。
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教室『学び合い』フォーラム
第15回(2019年)《海》,《山》は
2019/8/3〜4に福岡県,
2019/11/2〜4に長野県でおこないます。→長野の会は中止になりました。
manabiainu
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2019-12-02学習者の受け取り方次第

[]学習者の受け取り方次第 学習者の受け取り方次第 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 学習者の受け取り方次第 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 学習者の受け取り方次第 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

たくさんの児童・生徒に同じように指導しても、学習者の受け取り方次第で学習者の力の伸びは違ってくる。学習者の受けとるアンテナの感度が高ければ高いほど、学習者は様々なことを感じて、情報を得て、どんどん伸びる。

アンテナの感度が低ければ、その逆。どんな働きかけをしたとしても、暖簾に腕押し糠に釘、雲に鎹。

じゃあ、こちらの発信を強くすればいいのか?というと、そういうわけでもない。回数を増やしても、強い口調で言っても、アンテナの感度がどんどん低くなるだけ。コスパは低くなる。

全ての人が同じ感度で受けとって、増幅装置で反応するということはあり得ない。

私からのアンテナが閉じているのだから、別のルートから発信してもらうしかないのだろう。もうしかたがないこととして、流していくしかない、とも思う。

2019-11-28学級は必要なのか?

[][]学級は必要なのか? 学級は必要なのか? - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 学級は必要なのか? - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 学級は必要なのか? - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

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大学院の授業「「より良い集団づくりを目指す学級担任」と「授業検討会を組織する研究主任」の理論と実践」(タイトル長い!)で私は「学級担任」の部を担当している。

そこでは、学級担任の役割、学級担任はどのような学級づくりを目指すべきか?ということを対話的に学んでいる。しかし、そもそも、学級は必要なのか?という疑問が出てくる。いじめは学級があるから生まれるんだという説(風説?)もある。

それじゃあ、そもそも学級は必要なのか?ということで、ディベートをおこなった。ディベートをおこなった授業は、学部2年生の「教育実践基礎論」だ昨年はおこなわなかったが、この科目のメインの活動の1つとなっている。

立論のプラン等は以下のようにした。

ただいまから「公立・国立全学校は固定学級制、学級担任制を廃止し、流動学級制、学年チーム指導 制を導入すべし。」という論題について、肯定側立論を述べます。まず定義を述べます。「流動学級制」 とは最初は機械的に学級を決定しますが、同学年のうち、最低2回は児童・生徒の希望、もしくは機械 的に学級を編制することです。「学年チーム指導制」とは、学級の事務的な連絡事項は輪番で教師があ たりますが、進路指導、生徒指導、教育相談などは児童・生徒が希望する教師から行われます。教科指 導は学校の状況に応じて、輪番でその時に当たった学級担任が行ったり、教科担任制にしたり選べます。

プランを述べます。制度開始時期は、2020年4月1日からで、制度開始に伴う準備時間の不足や 予算措置に関することはこのディベートでは考えないことにします。この制度を学習指導要領に明記し、 教職員は他の記載事項と同じように遵守(じゅんしゅ)することになります。

学生さんたちは、ほとんどが小学校の教師を目指している。当たり前のようにある「学級」が必要なのかどうなのか、考えてもらうために、また、学級担任の役割も考えてもらうためにこの論題でディベートをおこなった。

私は富山県内のある自治体の「学年チーム指導制」のニュースを見て、このプランを作ってみたのだが、学生さんたちは様々な証拠資料を持ってくる。全国にこのような制度で学校を運営しているところは多いんだなと気づく。

全6試合で出た肯定側のメリットは以下の通り

  • 教員の負担減(労力・ストレス)
  • 教員能力の適切な配分
  • 教員同士の協力の発生
  • 子どもの思いを受けとりやすい
  • いじめ減少(逃げ場の確保)
  • 子どもの自立を促す
  • 様々な交流が生まれる
  • 相性のよい先生を選べる

と、教員側のメリット、子ども側のメリットが考えれられている。

一方、否定側のデメリット

  • 環境変化で負担増(学級編制回数増・情報管理等)
  • 仕事量の偏り
  • 一貫した指導ができない
  • 継続的な子どもの観察ができない
  • 子どもへの対応が希薄に・信頼関係が築きにくい
  • 教科横断的授業がしにくい
  • 子どもの居場所や繋がりが作られにくい

と、子ども側のデメリットは最後の「子どもの居場所や繋がりが作られにくい」のみにとどまった。これは、子ども側のメリット「いじめ減少(逃げ場の確保)」と元が同じである。クラスを解体すると、居場所がなくなり、居場所がなくなる代わりに逃げ場が生まれる。どちらが重要なのか?ということで議論を戦わせていった。

6チームで1コマで2試合、3コマ使って、肯定側、否定側、ジャッジの全てを体験してもらった。それぞれ1回だけでは、回数としては少ないんだけれど、本格的ディベートをやったことのない学生さんたちばかりだったので、「体験会」的にはしかたがないだろう。この授業には他のプログラムもあるわけだから。

ディベートという手法を使って、様々な教育問題を考えていくという授業も面白いかも知れない。半期通してディベートをやると、もしかしたら、教員としての資質・能力を向上させる効果的な授業になるのかもしれない。

2019-10-11教科の魅力を伝えるということ

[]教科の魅力を伝えるということ 教科の魅力を伝えるということ - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 教科の魅力を伝えるということ - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 教科の魅力を伝えるということ - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

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今や、「教科書に載っているから」とか、「テストに出るから」とか、「入試に出るから」とか、「みんながやっているから」とか、そういうことでその教科(主に普通教科)の学習に児童・生徒が取り組む時代は終わっている気がする。

子どもたちも保護者も学校への「幻想」が崩壊し、「そんなこと何の役に立つの?」とかどんどん言い出すようになった。学校の教育活動を当たり前のように疑問視するようになった。明らかに役に立つ活動はいいが、役に立ち方があまり見えないもの、また、明らかに学校の都合で押しつけている(例:ブラック校則)ものに対して、「おかしい!」と言うようになってきた。

それが授業中の無気力、学級崩壊、教師への反抗という形で現れている。

とはいえ、学校教育は明らかに「役に立つ」と思われるものばかりで占められるべきだとは思ってはいない。情緒面に影響する教育活動もたくさんある。例えば、音楽や美術、書道などの芸術科目は、それで食べていけるようになる人はほんの一握りだ。だから、「その教科を履修する必要はない」、なんていう人はあまりいない。数学や国語に対してはそういう人が多いのに、どうして芸術科目に対してそういう人は他教科に比して少ないのだろう?

それは「面白い」からだ。「面白い」という中に、活動による「楽しさ」も含まれる。快感があるということである。それを感じたことがあるから、児童・生徒はともかく、教育関係者、保護者から芸術科目廃止の声が上がらない。なんとなく必要だと思っている。活動している当の子どもたちはそう感じていない場合も多いが。

話を元に戻して、今までのように「教科書に載っているから」、「テストに出るから」……という理由で普通教科教育に取り組ませられない時代に、中学、高校(特に義務教育ではない高校では)の教科の授業を成り立たせるためには、

  • その教科内容が今役に立つ
  • その教科内容が社会に出て確実に役に立つ
  • その教科内容が「面白い」

ということを児童・生徒に実感さ(思い込ま)せなければならない。これが教科担任の仕事になる。

ここで問題が生じる。その教科の先生になったということは、その教科内容が得意、もしくは好きでその教科の先生になった場合が多い。かくいう私も取り立て国語の成績が高かったというわけではない。むしろ理科の方が点数が高かった(特に理科Ⅰ)。でも、古典が好きだったから大学はそっちの方に進んだ。

じゃあ、高校教師時代、児童・生徒に古典の魅力を伝えてられていたかというと、そうでもなかったような気がする。教師としては、好きだから、みんな好きになって当然でしょ?好きなものを説明して伝えるというのはとても難しい。これがいけない。

教科担任のその教科への思いと、その授業を受ける児童・生徒の思いのギャップが激しいのだ。

魅力を伝えるためには、その魅力を説明したり、語らなければ絶対に伝わらない。それさえもしないで、「プリントに問題があります、それを解くのは当然でしょ?」みたいな感じで課題を出しても、児童・生徒は取り組まない。子どもたちにとって必要感も魅力も感じないからだ。

そこで、教科担任はまずその魅力(必要性、面白さ)を伝える努力をしなければならない。授業はそれからだ。人がそれに魅力を感じ、その魅力を語っている姿というのは、聞いていてとても引きつけられる。それさえもしない教科担任が多すぎる。少なくとも中学、高校の教科の先生は、自分が担当している教科の魅力を語れるぐらいにその教科やその単元を研究しなければならない。それこそが「教材研究」だ。

児童・生徒が普通教科に取り組んで当たり前という時代は終わっているんだから。

rx178gmk2rx178gmk22019/10/13 17:35一枚のプリントに取り組ませることが「作業」になるか、「学び」になるか。
そこが教科担任の「腹」の持ちようですね。そのプリントがどのような価値があるのかを語り、子どもに理解してもらうことが腕の見せ所です。そうした意識が教員にあるかがこれからの学校の有り様を決めていくのだと思います。特に教科の時間は。

F-KatagiriF-Katagiri2019/10/14 21:11同じ課題が作業か学びか、これこそ教師の「語り」によるものですが、教科内容に関する「語り」がなされないのが気になります。

2019-07-24これこそ授業職人

[]これこそ授業職人 これこそ授業職人 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - これこそ授業職人 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 これこそ授業職人 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

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素晴らしい授業を参観してきた。全てが上手い、そして子どもを見守る姿が温かい。教師としての意気込み、人間としての深みが感じられる先生の授業だった。

円と直線の交点の関係(数学)の授業を参観させてもらった。

最初の15分位は今日おこなう課題の解き方を説明していた。解き方のレクチャーから、間違いやすいところの説明、どうしてこのように式を書かなければいけないかの理由、ひとつひとつ丁寧だったが、全くくどくなかった。

3題問題を示し、「2時までにいろいろ試行錯誤しながら、分からなかったら聞きながら問題を解きなさい」と、指示し、黒板に出て解答する人を指名した。

「3番目の問題は、ちょっと難しいけれど、当てられた○○さんをみんなは応援して下さいね。応援するって、『ガンバレー!』って言うことじゃないですよ。」と、ユーモアもある。

そして指定した15分〜20分程度が絶妙の時間で、暮らすみんなが解けたか解けないかの時間である。この課題設定(または時間設定)も絶妙で、ぴったりである。

その後解説をするのだが、その時間もちょうどいい。そして50分が終わる。

口調には子どもたちの成長を願う、励ましの気持ちが表れていて、変に子どもたちを持ち上げてもいないし、蔑んでもいない。とても温かい口調なのだ。

子どもたちは、できないやとほっぽり出す子もいないし、できたからといって私語する子もいない。みんな何かしら取り組んでいるし、教えているし、教えてもらっている。それぞれが、それぞれのやり方で、目標に向かって取り組んでいる。

課題設定なのか、タイムマネージメントなのか、励ましなのか、人間性なのか、どれも強すぎず、弱すぎず、教室内に「学びの文化」を上手に作っている先生の授業だった。まさに職人技だと思った。

2019-07-23Don’t think. FEEL!

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先日の高校生対象の群読講座で、印象的な感想を書いてくれた生徒がいた。

私はグループ活動が正直言うと苦手で、不安でしたが、メンバーの皆と群読をしたことで、気持ちが楽になりました。とても楽しかったです。

ここに群読(声を合わせる活動)の意義が現れているのだと思った。

グループ活動では、グループメンバーと上手くやれるかどうかという「壁」が存在する。あまり親しくない人とグループを構成したときにはそれが顕著になる。ある程度自分の「殻」を固くしてしまう。

しかし、単純に一緒に声を合わせるだけでその「殻」はちょっと壊れる。世に「アイスブレイク」なんて言われているものなのだろうけれど、同じ文章を同じタイミングで音読するだけで、簡単にちょっと距離が近くなる。

これはうちの研究室の堀君の今年の研究テーマだ。クラスで40人もいると、よく喋る人、あんまり喋らない人、全く喋らない人がいる。全く喋らない人とも、人間はいざというときに協力しなければならない。しかし、ちょっとしたことで、「殻」が崩れて距離が近くなるという経験を知っていれば、いざというときにあっという間に打ち解けられるのではないか?

それは、互いに自分のことを打ち明けて、「身近になる」なんていうハードルの高いことをしなくても、一緒に声を合わせるだけでいいのだ。

この記事の「Don’t think. FEEL!」は、ブルース・リーの言葉だが、体感することで、あっという間に会得できてしまうということ。考えていては遅々として進まない。分かってから動くのではなく、動くから分かるのだ。頭でっかちになっては、教育はできない。

特に体を使って学ぶ機会が少ない国語科では、音読という体を使う活動を大切にしていきたい。

画像、内容はビジネス読書ブログからの引用です。

2019-07-10自由に課題に取り組む

[]自由に課題に取り組む 自由に課題に取り組む - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - 自由に課題に取り組む - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 自由に課題に取り組む - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

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高校教師時代に比べて,こんなに裁量権のある職場に移ったせいか,ちょっとでも束縛されると窮屈に感じる。

模擬授業を見たり,受けたりして,きっと授業技術の高い人なんだろうと思うんだけれど,随所に教師の意図を探らざるを得ない雰囲気が出てしまって,それを言い当てるのもなんだかしゃくに障るし,外すのも意識しているようでなんだか嫌。天邪鬼だからそう思うんだけれど,たくさんの子どもたちはこう思っているんだろうな,と感じた。

「こんなこと当然分かっているでしょう?」と言いながら,自分しか分からないニッチなことを示す。

「これ,分かりますか?」としたり顔に,既にみんながわかりきっているようなことをクイズ形式で示す。

もっと自由にいろいろ発想させてくれ〜!もっと自由にいろいろ考えさせてくれ〜!

課題に到達するまでの方法選択や各自の目標設定の自由を保障してくれ〜!と思う。ひとつひとつの小さな課題が,教師の思考パターンを表していて,「私はあなたの思考パターンとは違いますけど?あなたはそう考えたからといって,私はそう考えるとは限りませんよね?」と伝えたい。教師の思考パターンを子どもになぞらえさせる授業はおしまいにしよう。

2019-07-02これからの道徳教育

[]これからの道徳教育 これからの道徳教育 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 を含むブックマーク はてなブックマーク - これからの道徳教育 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 これからの道徳教育 - Pay it Forward , By gones 片桐史裕 のブックマークコメント

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今日の「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」では,道徳を扱った。学習指導要領解説で「道徳科の目標」を読んだのだが,よくわからない点,腑に落ちない点が満載だった。

内容を捉える「四つの視点」として「D 主として生命や自然,崇高なものとの関わりにかんすること」の「崇高」に引っかかってしまった。「崇高」って,何が崇高なんだろうというところと,「これは崇高なもの」と権力者が決めていいのだろうか?

もちろん,私は自然に対して畏敬の念を抱いているし,崇高だと感じている。また,人間の力を超えた何かがあるのではないか?と薄ぼんやりと信じている。「怪異」はいる(少なくとも人間の心の中には)と信じている。きっと学習指導要領では,自然を「崇高」と捉えているのだろうけれど,それだけではない。

もしかしたら,ある特定の人を「崇高」と判断させる余地を残しているのではないか?と危惧してしまう。崇高かどうかは権威者に決められたくない。個人的に思うもの,信じるもの,感じるものだ。それが引っかかったというか,気に食わないところだった。


学習指導要領や解説には「道徳的見方・考え方」という表現はない。「多面的・多角的見方や考え方」という表現がある。それが道徳で身に付けるべき「見方・考え方」なのだろうと読み取った。「多面的・多角的」が頻繁に出現しているにもかかわらず,引っかかった部分があった。

四つの視点の「B 主として人との関わりに関すること」の[友情,信頼]で,「異性についての理解を求め」と書いてある。理解を深めるのは異性だけなのか?その前の表記には「友情の尊さ」とあるから,「異性」はきっと「恋愛対象としての異性」という踏まえるのだろうと推測される。

同性に対して恋愛感情を抱いた場合の配慮のカケラがない。「多面的・多角的」に反するのではないか?LGBTへの配慮をしていないというのは,それに反対する権力者への忖度なのか?そこまで書くと文句が来るのだろうか?だったら,「異性」なんて語は排除すればいいだけのことだ。

手元にこの指導要領に基づけた教科書がなかったため,旧指導要領に基づいた中学校教科をめくると,「異性に好意を抱くのは普通のことです」という文言が現れる。これを見て,「自分は異性に対して好意を抱かず,同性に対して好意を抱いているから普通じゃないのか。」と感じる生徒はいるはずだ。

同じように,「友達」にも,「友達がいて当たり前」,「友達はいた方がいい」というバイアスが感じられる。「本当の友達」とか,「親友」という学校で押しつけられる定義に苦しめられる子どもは多い。そんなの,自分で決めることじゃないし,誰からも決められることじゃない。自分で友達なのか,知人なのか,親友なのか,本当の友達なのか,線引きなんかできないし,分けのわからないまま付き合って,そのまま大人になっていく。「親友」と思っていたが,成長して全くの疎遠になってしまう人もいる。「親友だね」と互いに確認し合っていることもある。こんなの「トモダチ幻想」だ。

「みんな仲良く」という標語(名言化されていたり,不文律であったり)に苦しめられている。そんなのやめて,「いろんな付き合い方があるけれど,なるべく折り合いを付けてやっていこう」という方が道徳教育の目標であるべきだ。

最後にAIのことを持ち出した。AIに道徳教育を施すことはできるのか?AIに対する道徳的な接し方は何なのか?

というのも,人工知能学会の倫理指針の最終項以下の記述がある。

9 (人工知能への倫理遵守の要請)人工知能が社会の構成員またはそれに準じるものとなるためには,上に定めた人工知能学会員と同等に倫理指針を遵守できなければならない。

とっても恐い。人工知能に人格を認める記述であるし,何もしなければ遵守できないと思われるから,規定が設けられている。

遵守するためには道徳が必要なのではないか?ということは,行く末は人工知能にも道徳観が備わるということなんだろうか?知能だけではなく知性も持つようになるのか?

こういう時代の道徳教育,人間以外で人格をもつものに対する道徳的振る舞いまたは,人間以外で人格を持つものからへの道徳的振る舞いについて考えなければならないことは,未来の道徳教育に課せられている。

2019-06-25I have a dream

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今日の「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」は,前回の英語の続き。中学校英語教科書のある単元に関して,どんな意図で作られているのか,授業デザインはどうあるべきなのかを考える。

私が大学まで受けた外国語の授業での「違和感」は,こんなことだったんだと再認識した。きっと今の先生はもっと上手に授業デザインを作っているんだろうと思うから,私がこの教科書内容通りに授業をおこなったら,こんなふうになっちゃうんだろうというように捉えてしまった。

教科書は,全体的にコミュニケーションを図ろうとする単元が多い印象だった。生徒同士である構文を習得するために,シチュエーションを設定し,それに基づき会話を「強制的に」おこなう。

例えば,無人島に3人連れて行くとして,次のうち,どんなことができる人と一緒に行きたいかを3つ選ぶ。

  • cook well
  • climb trees
  • swim fast
  • make a fire
  • use a knife
  • play the guitar

そして選んだことができる人を英語で訪ね,見つける。「Can you〜?」

最後に自分や友だちのできることを英語で紹介する。

これを自分が受けていたらどう思うだろうか?もし,自分の料理の才能を見つけられ,「無人島にボートで行こう」と誘われたら,「嫌だ。」ときっと答えるだろう。このロールプレイなんだか茶番だかわからない設定にぞわぞわしてしまう。

ゲームなんだか,現実なんだか,曖昧な設定。どうして最後に「自分○○ができる。」ということで締めくくるんだろう?最初から最後までゲームにすればいいのに。「あなたは英語しか通じない世界に放り込まれました。ここから脱出するには,どのような能力が必要ですか?」という設定で,「能力」の絵が書かれたカードをランダムに1人2枚ずつぐらい配り,質問は「Can you〜?」しか使えない。ぐらいにすれば,「ゲームなんだな」と入り込める。

英語の授業ではよくこのような「茶番」を子どもたちに演じさせる。英語で書かれてある必要のない文章を読んで,英語で伝える必要のない文章を作り,日本人相手に英語で話す。これがとってもこそばゆい。とってつけた感というか,白々しさを感じてしまう。これを感じないでどんな設定でも違和感なく入り込めれば,英語が上達したのだろうか?

ある単元では,英語で話されている内容を聞いて,「英語でメモをとる」というものが合った。どうして英語でメモをとる必要があるの?この意図が全くわからない。英単語がわからなければ,メモが取れないのだ。置いてきぼりである。


そんな中で,これぞ!という単元を見つけた。きっとほとんどの教科書に載っていると思われる「I Have a Dream」だ。

最近テレビで黒人解放運動の番組を観て,その内容が新鮮だったということもあるのだが,キング牧師の演説を教科書で読んだら,とても胸に迫るものがあった。中学3年生の教科書に載っているのだが,内容的には中学2年生でもわかるようなそれほど複雑ではない英語だ。しかし,英語を読み取る力があるだけで,それを原文で,自分で読むことができることに意味があると思った。

日本語訳したものに触れたからといって,原文を読んだ感動は得られないと思った。この感動的な文章をそのまま読み取ることができるというところに,英語教育の意味の1つがあるのだと思う。内容のない,白々しいコミュニケーションをするだけの英語教育を受けたといって,こんな感動はうまれない。もちろん,それらはコミュニケーションの訓練であり,行く先には原文にアクセスする力を付けることと,目標を設定していればいいとは思う。

第1文がとてもかっこいい。

I have a dream that my four little children wiil one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.

「not〜but」構文って,なんだかかっこいいと思ってしまう。英語独特の表現なのだろうけれど,日本語で「人間の中身ではなく肌の色で判断されない」と訳したとしても,これほどのかっこよさは出ないなぁと思う。かっこよさは感覚の問題で,個人差があるけれど。

no move no football

みたいな。「動かなければサッカーじゃない」というニュアンスと全く違うと思う。この英語のニュアンスを身に付けたいとも思う。これこそ英語を学ぶ意味じゃないのかな?

内田樹先生は今の日本の英語教育は,「目標言語が英語で,目標文化が日本だ」として,日本である程度の地位を得るために英語をやっており,そんな英語は必ず廃れると言っている。内田樹の研究室そこが私の感じた「白々しさ」に繋がるのかな?とも思う。

絶対に「英語で書かれたすばらしい文章に触れたいから英語を学ぶ」とか,「英語のすばらしい歌を歌いたいから,英語を学ぶ」とか,「英語の映画で,本当は何を言っているのかわかりたいから英語を学ぶ」と言った方が,格好いいに決まっている。これは国語の古典学習にも通じることだ。

2019-06-06短歌・俳句の授業デザイン

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今日の「中学校高等学校国語科授業づくり演習」では,短歌の授業デザインについて考えてみた。

短歌・俳句の授業はどのようなものにすればいいのか,見当が付かないというところから,今回の話題に選んだそうだ。以下,出た話題を列挙していく。

  • 教科書に掲載されている短歌・俳句は,最近のものは俵万智のものしかない。現代において短歌・俳句のニーズはあるんだろうか?
  • 教科書掲載の短歌・俳句を「古典」として学ぶのか,「現代に活きる言葉」として学ぶのか,よく分からないところがある。ニーズがなければ,特に,児童・生徒に「活きた言葉」として学ぶ必要が感じられなければ,「古典」を学ぶと同じことになるのだろうか?
  • 教科書にある「学習」を見ても,「区切れはどこか?」とか,「リズムを味わおう」とか,「それをやったらどんな意味があるの?」というモノばかりだ。区切れなんて読み取ったからといって,その短歌・俳句を読み取ったことになるのかな?
  • 先日扱った「詩」と同じように,表現なくして,短歌・俳句を学ぶ意味はないと思う。言葉に向き合うことで,短歌・俳句を読み取ることになる。
  • 「詩」のように,形式を指定して,創作してもらうとか?
  • 子どもに短歌を詠ませると,安易に「きれいだな」なんていう,イメージが湧かない語を使うから,そういうのを一切禁止して作らせるのも面白い。
  • 教科書をこう見てみると,そういう安易な形容詞的な言葉って使われていないのに気づくね。
  • 与謝野晶子の「うつくしきかな」ぐらいしかないよね。
  • 例えば「リズムを味わう」とか,「区切れはどこか?」とか,どういうものがあるのかを示しもしないで,「見つけよう」とか,「味わおう」とかさせているのがおかしい。例えば,音楽だったら「何分の何拍子」とか,「ワルツ」とか,「○ビート」とか,カテゴライズされていて,そこから来る雰囲気を味わわせるということをしているのに,国語では全くそういうことをしていない。教科書に書かれていない。
  • 教師の裁量に任されているということ?そんなら時感の無い先生は「これは初句切れ,覚えておけ。」として,それをテストに出して,短歌・俳句を学んだことにさせちゃう。
  • それから,短歌・俳句の表現方法として,例えば,長い時間の一部分を切り取った表現とか,断片的に表現したものとか,全体の一部分の表現とか,いろんな表現形式があるのに,それも体系化されていない。そんな表現形式も知らせないで創作させるから,「きれいだな」なんていう表現を使ってしまう。
  • そういうところから学べば,「シバリ」を付けて,創作させられるよね。子どもたちはそっちの方が面白いと思うし。
  • 「一瞬を切り取った」ということであれば,国語の授業ではなく,クラスの夏休みの宿題として,写真を1枚撮って,そこに俳句を付けて,メールで送ってもらったことがある。
  • 写真と俳句って親和性が高いよね。
  • 例えば,教科書に掲載されている短歌を題材に,それを表現する写真を1枚撮ってくるっていうのは?
  • なるほど,そうすれば,表現されている言葉に向き合うことになるよね。
  • 完全一致じゃなくても,この短歌のどこの部分を表したとか,説明させるといいんじゃないかな?
  • 論理国語と文学国語と分けられるみたいだけれど,文学って,論理的に読むよね。表現的には繋がっていないけれど,繋がっていない間に辻褄を付けて読んでいく。「論理」と「文学」なんて,分けられるものじゃないのに。
  • 以前,3人グループで,1人が初句を思い浮かべたら,2人目がそれに続く7音を付け,次の人が5音を付けるということをやったことがある。例えば1人目が「黒板に」なんて突然いったら,2人目が続けるといいうような。
  • 面白そう。
  • とっぴなものができたら,それに意味づけしていくというのがいいかもしれない。そこに解釈が生まれ,語と語の間を埋めていくような。
  • 将に俳句的。
  • そんなのやったら,その後にやっていた遠足で,山を歩いているときにやり出して,私も振られたことがある。先生,「山道を」に続けて,みたいな。
  • それ,面白い。
  • 昔の恋の歌のやりとりもそうだけれど,「即興性」って重要だよね。即興的にやるからこそ,とっぴなものも生まれて,そこに面白いものが出てくる。
  • 頭の体操になりそう。
  • 将に言葉に向き合う学びだよね。
  • 子どもって,しりとりみたいなことば遊びって好きだよね。これもきっと乗ってくると思う。
  • 「即興性」というのなら,ラップバトルがいいんじゃない?誰かラップバトルができる人いないかな?
  • 「詩のボクシング」ってあったじゃない?そこで「俳句のボクシング」なんてやるのもいいかも。即興的に五・七・五で詠んで,どっちがいいかジャッジしてもらうの。
  • いいね。やっぱり表現することを前提にすることで,短歌・俳句を読む意義が出てくると思う。

2019-06-04英語教育の意味

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今日の「教科の特質に応じた見方・考え方を働かせる授業づくりの実践と課題」(それにしても長いタイトル)では,中学校学習指導要領(英語)解説を読み取った。いやぁ,とにかく分からない表現ばかりで,英語教育には疎い私にとっては,試行錯誤だった。

目標は

国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方を働かせ,外国語による聞くこと,読むこと,話すこと,書くことの言語活動を通して,簡単な情報や考えなどを理解したり表現したり伝え合ったりするコミュニケーションを図る資質・能力を次の通り育成することを目指す。

と書かれてある。

英語科(学習指導要領では,「外国語科」だが,ほとんどの学校で英語教育が行われているので,以降,「英語」と表記していく)の目標だが,つまり,英語でコミュニケーションを図れるようになることが目標なのかな?と最初読み取った。

しかし,「コミュニケーションにおける見方・考え方」って何だろう?コミュニケーションにおいて,見方,考え方は含まれているのだろうか?例えば,「社会科」の見方考え方だったら,「公民としての見方・考え方」や,「民主的見方・考え方」と言い表すこともできる。しかし,「コミュニケーションにおける見方・考え方」って全く意味が分からない。どなたか教えてほしい。

「ある見方・考え方に沿ったコミュニケーション」だったら,意味が通る。「威圧的コミュニケーション」や,「協働的コミュニケーション」,「同調的コミュニケーション」などだ。コミュニケーションの仕方には必ず意図が反映される。

キーワードである「見方・考え方」を無理矢理ひっつけたような気がした。また,他の解説の部分でも,「いや,それって「言語活動」の説明であって,英語の説明じゃなくてもいいよね?」という所が多い。

しかし,「英語における見方・考え方」であるならば,話は別だ。学習指導要領では,そこまで言っているのだろうか?「言語の檻」という言葉があるが,英語という言語によって見えるものも学ばせたいという意図だろうか?英語を学ぶことにより,日本語では見えない部分が見えるようになる,というのだったらよくわかる。

受講生がピンときていなかったようなので,以下の例を出してみた。

It is sunny today.

It is obvius that Jim laves Mary.

Keep off the grass.

どれも英語独特の表現で,日本語にはあまりない文構造だ。形式主語「It」なんて,日本語で喋っている人には感覚的には分からないものだ。一説にはヨーロッパには絶対神がいて,それを「It」で表しているという。日本語では「今日は晴れている」と表し,主語なんてないようなものだが,英語では必ず主語を書く。常に「それ」を意識するようになっている。

言語が先か,思想が先かという問題はあるのだが,エクリチュール的な考え方でいうと,言語によって思想が規定されているということになる。つまり,極論で,英語を学べば,英語の裏にある文化,思想も学ぶことになる。日本語の「言語の檻」から脱出できるということになる。

あと4〜5年もすれば,持っているスマートフォンを相手のスマートフォンとブルートゥースで接続して,リアルタイムで翻訳機能を使えるようになると思っている。オリンピックには間に合わないかもしれないが,自分がスマホに向かってしゃべると,相手のスマホに自国語での翻訳が表示されるのだ。または,音声で流れてもいい。新たなガジェットを使わなくても,アプリで対応できるはず。いや,ネットを介してやれば,今でもできるのかもしれない。

そんな世の中になった時,必要な英語教育って何だろう?通常会話はスマホを介してできる。海外旅行に行ったとき,それを持っていけば事足りる。「いや,人間は直接コミュニケーション取らなければ」とか,「気持ちが伝わらない」とか,言う人がいるけれど,今現在,英語ができなくて,そんな会話もしようと思えない日本人が大多数なんだから,そのツールができれば,コミュニケーションを取ってみようという気持ちになるだけいいのでは?と思う。

英語教育を十数年受けてきて,本当にコミュニケーションを取りたい相手が,英語文化圏の人じゃなかった場合,十数年かけて学んだ英語教育は,どのように活きるのか?という命題を立ててみると,「英語教育の意味」が見えてくるような気がする。

自分はこの人とコミュニケーションを取りたい。しかし,相手は英語は通じない。そんな時にどんな力を付けるべきか?

  • 言語を使っている以上,相手とは必ず言語でコミュニケーションが取れるはずだ。
  • 自分の文化と違う文化は当たり前のようにあるのだから,違和感があったとしても拒否してはいけない。
  • 言語を使っている以上,相手もコミュニケーションを取りたいと思っているはずだ。
  • 挨拶というものが必ずあるはずだ。
  • 自分たちの見方・考え方と違う見方・考え方というものが必ずあり,そこには相互理解できない部分があるかもしれないが,拒否してはいけない。

とか,思いつきで書いたのだけれど,これらのように,「英語を身に付けることによって,何を学ぶか?」ということを突き詰めていくことにより,英語教育の意味が見えてくる気がした。

そんなことを議論しているうちに,2017年の映画メッセージを思い出した。宇宙人が突如地球にやって来て,米菓「ばかうけ」みたいな宇宙船を空中に浮かばせておくんだが,言語学者がなんとか相手とコミュニケーションを取ろうと試行錯誤する。

そこで発揮できる力を身に付けるのが「英語教育の意味」なんだろうといいう結論になった。